「九段目」における本蔵と由良助
〜「仮名手本忠臣蔵・九段目」
1)虚と実の図式
別稿「七段目の虚と実」において「七段目」に特異な要素があるということを考えました。一般に時代物は武士を中心とした歴史物であり、これは庶民を主人公とし・市井の生活を描く世話物と対立するものであるとされます。個人の本音・心情は、時代物のなかの実(じつ)の要素です。そこに主人公に忠義・犠牲の行動を強いる封建社会の非人間的論理が圧し掛かってきます。個人の実を脅かすものが、虚ということになります。これが時代物の大まかな図式です。時代物における人形に似た機械的かつ不自然な様式的動きは引き裂かれた人間の感情を表現するものです。これは例えば「寺子屋」の松王の首実検の場面、「熊谷陣屋」の直実の物語りの場面を想像すれば良いと思います。
時代-虚-建前-倫理-機械的・不自然-様式的
世話-実-本音-心情-自然-写実的
という図式は、それぞれの座標の軸が微妙に異なっていて、実は必ずしも表現の方向性が一致しているわけではないのです。時代だから様式・世話だから写実と決め込むと、そうでない場合があります。しかし、ふつうの時代物においてはこうした時代と世話の対立図式は概ね正しいと考えてよろしいようです。例えば「六段目」を見れば与市兵衛一家の生活のなかに実があり、そこにまことの人間の感情があります。これが世話の要素であり、そこに仇討ちという封建社会の時代の論理(虚)が無理やり入り込んでくることでドラマが展開することになります。これは世話としての本音と・時代としての建前の対立であると見ても良いですし、実際、「六段目」の舞台はそれで分析が可能です。(別稿「六段目における時代と世話」をご参照ください。)ところが上記の図式通りに行かない場合があって、それが「七段目」です。ここで由良助の本音とされるものは仇討ちの大望であり、これこそ封建社会の論理そのもの、つまり普通なら、これは時代の要素とされるものであるからです。「四段目」において由良助は主人判官から「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」と命令を受けており、由良助は主君の怨念を胸に・否応なしに鬼とならざるを得なかったのです。ですから由良助はその仇討ちの使命を胸に秘め・その本音を隠すために・あるいは敵を欺くために由良助は茶屋に遊び、その大望の障害となるならば例え無実の女性(お軽)であっても殺すことを厭わぬというところに自分を追い込んでいます。これが「七段目」の由良助です。
つまり普通なら世話とされる本音(実)の要素が封建社会の論理によって歪んでおり、これがまさに時代の如きなのです。由良助が本音を見せる時に由良助の演技は醜く歪(ゆが)みます。一方、茶屋で遊ぶ時の由良助の和事の「やつし」とはこれは何でありましょうか。その柔らかく自然な演技は由良助の本音(実)を覆い隠すものです。それならばそれは虚ということになり、本来ならば それは時代の要素だということになるはずです。ところがその虚のやつしの演技はふつうの時代の演技とされる機械的・不自然・様式的なイメージとまさに対極の演技です。つまり、時代-虚-建前-倫理-機械的-様式的、世話-実-本音-心情-自然-写実的という図式が「七段目」では全然成り立たないのです。
「七段目」の由良助は延享四年(1747・つまり「忠臣蔵」初演の前年)に京都で粂太郎座で演じて評判を取った歌舞伎「大矢数四十七本」の初代宗十郎が演じる大岸宮内(おおぎしくない)の茶屋場遊びをモデルにして作られたものであることはよく知られています。しかし、このことは当時評判であった歌舞伎役者の演技を人形浄瑠璃が取り込んだという趣向だけではないと吉之助は考えています。由良助の置かれた状況を表現するために、滑稽味や諧謔味と・シリアスな真面目な要素が背中合わせに出るという、歌舞伎の「やつし」の手法を何としても取り込みたいと浄瑠璃作者が考えたからに他なりません。だから作者は「七段目」を掛け合い場にしたのです。
「九段目」論の冒頭で・どうして「七段目」のことを長々と述べるかと言えば、「九段目」の由良助は「七段目」の由良助の性格をそっくりそのまま引き継いでいるからです。しかし、文楽の「九段目」は掛け合い場ではなく・太夫がひとりで語る通常の形式ですから、そのドラマ構造の表出が特に難しいということが言えます。
2)「忠臣蔵」の情念について
「七段目」幕切れにおいて由良助が九太夫を地面に押さえつけ・打ち付けながら「獅子身中の虫とはおのれがこと・・」と叫ぶ台詞は本行(文楽)の言い回しで言うのではなく、荒事の味付けを加えて・緩急を付けて揺らすように言わねば歌舞伎の由良助にならないということを別稿「七段目の虚と実」に書きました。由良助は主君の怨念を胸に秘め・否応なしに鬼とならざるを得なかったのです。だから由良助は考えようによっては御霊神です。そう考えれば由良助に荒事の様相が見えてくるわけです。少なくとも歌舞伎は「忠臣蔵」の由良助をそう理解したのです。これは人形浄瑠璃の歌舞伎化の思考パターンを考える時の重要な要素です。
このような歌舞伎の由良助の荒事的理解は、例えば「四段目」城外で独りきりになった由良助が懐から主人の形見の血のついた九寸五分を取り出し、「判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り」で刀についた判官の血を舐め、「忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」で師直の首を掻き切る仕草をして・その刀を袖に隠すように抱いて泣き上げる場面にも出ます。
また「九段目」にも荒事の場面が昔はありました。「九段目」幕切れ近く・庭先の竹を鴨居にはめて・雨戸をはずす計略を披露する件は、現行の歌舞伎では力弥の持ち場ですが、実は本行では由良助がそれをすることになっています。歌舞伎でもその昔はこの件を由良助が演じたもので、由良助がむきみの隈を取り・諸肌を脱いだ荒事風の演出があったのです。これも由良助の歌舞伎的な理解なのです。
荒事は御霊信仰と関連があるというのは、歌舞伎の本にも出てくる知識です。しかし、荒事を主人公が怒りに任せて粗暴な振る舞いをするお芝居だと単純に考えていると御霊信仰の背景は見えてきません。御霊神というのは、人間は本来死ぬ時には煩悩を捨てて成仏せねばならぬのに、現世に対する怒りのために成仏できずにいる引き裂かれた死者です。引き裂かれた死者の状況を怒りで以って表現するのが荒事の本質です。塩治判官がまさに引き裂かれた死者です。判官は切腹直前にこのように言っています。
「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」
由良助はその判官の遺言を受けて・主人の怒りを我が怒りとし・まさに自分自身を「生ける御霊」と任じていると歌舞伎はそう理解したのです。だから歌舞伎の由良助が荒事的要素を帯びるのです。
歌舞伎は人形浄瑠璃「忠臣蔵」を曲げて読んでいるのでしょうか。吉之助はそうではないと思います。これは間違いなく「忠臣蔵」の底に流れる情念の部分から引き出されるものです。そういう熱い情念に感応するのが、歌舞伎という芸能なのです。一方、原作である文楽(人形浄瑠璃)はもっと理性的に・論理的に由良助の状況を積み上げており、情念をあからさまにしないように冷静に制御しているところがあります。あくまでも由良助は主人の遺言に対して家臣の義務として・封建主義の論理に縛られて行動しているという印象が強いのです。それは文楽という芸能の古典的な性格に拠ります。それはさほど大きな違いではないようですが、しかし、決定的な違いでもあります。その感じ方で文楽と歌舞伎の由良助の印象が違ってきます。
3)本蔵の立場
別稿「本蔵はなぜ死なねばならないのか」において、本蔵の立場について考察をしました。刃傷の現場にたまたま居合わせた本蔵は、他家の殿様の喧嘩をわざわざ止めに入る必要はなかったのです。しかし本蔵は「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」ととっさに判断し、身分の違いもわきまえず庭先から殿上に駆け上がり判官を抱きとめました。それは判官が娘小浪の許婚大石力弥の主人であったからでした。しかし、本蔵の予想とは違って、結果としては足利家から判官切腹・お家断絶という最悪の判断が出てしまいました。しかも判官は「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し」と恨みの言葉を残して切腹しました。
由良助は本蔵の行為を理解していたに違いありません。しかし、この時から由良助は本蔵を敵と見なさねばならなくなりました。本蔵はこの時から大石家の対応が急に冷たくなったことを感じたでしょう。そしてその原因は自分があの現場において判官を抱きとめたことにあると感じたと思います。これが「九段目」の背景にあることです 。
「九段目」において本蔵は力弥の槍にわざと刺され・苦しい息の下で「約束通りこの娘(小浪)、力弥に添わせて下さらば未来永劫御恩は忘れぬ。コレ手を合わせて頼み入る。忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨てる親心推量あれ」と語っています。忠義一途で・主君のためなら命も惜しまぬ本蔵が可愛い娘のために命を捨てるということです。これが「九段目」の第一の命題になります。
もうひとつの「九段目」の命題は本蔵の述懐にあるところの「思えば貴殿の身の上は、本蔵が身に有るべきはず」ということです。もともと師直に対して刃傷沙汰を起こしかねなかったのは本蔵の主人である若狭助の方だったのですが、刃傷事件は師直の虫の居所が悪くてたまたまその矛先が判官に向いたにすぎないのです。だからもしかしたら本蔵が由良助の立場であったかも知れません。だから本蔵の悲劇はまた由良助の悲劇でもあり得るということです。二人はこのことが分かっているのです。
「九段目」最終場面において、由良助の仇討ちの意志を確認した本蔵が「計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅きたくみの塩谷殿。口惜しき振舞ひや」と言うと、これに対して由良助は「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさばと思へば無念・・」と返事をしています。このふたりの会話から分かることは『本来武士というものは戦場において武勲をたてることでその忠義を見せるべきもののはずだ。しかし、本蔵は短気な主人若狭助のことを思い・忠義で一心にできることをしたが・その忠義のせいで結果として本蔵は娘の許婚の槍にかかることになってしまった。一方の由良助は短慮な主人を持ったばかりに、自分の忠義を不本意ながら仇討ちという形で見せねばならなくなった。そして忠義のために・心を鬼にして・息子の許婚の父親をも殺さねばならなかった。これが忠義ということなのか。一生懸命忠義を果たしてきたはずの俺たちをこういう目に遭わせる忠義とは一体何なのか。一体俺たちは何のためにご奉公してきたんだ。』ということです。
これを忠義批判であると取る方もいるかと思います。まあそういう読み方もできなくないと思います。しかし、吉之助はもう少し一般論的に読みたいですね。例えば我々現代人においても・会社(あるいは組織)のために働いてきて、心身を病んで・あるいは会社の不始末を背負って傷つき・自分は何のためにこうして一生懸命働いてきたんだ・俺の会社人生は一体何だったんだと思うこともあるかも知れません。それじゃあ仕事を辞めるかね?と言えば、それは別の話です。生きるために・妻子を養うために、いろいろあってもやはり働かなければならぬのです。由良助や本蔵の嘆きというのはそういう性質のものです。だから、吉之助は「我々にとって生とは何か・社会のなかで生きるとはどういうことか」という問題であると読みたいのです。
4)モドリの構造
「九段目」に登場する本蔵は、判官を抱きとめて・師直を斬るのを邪魔した悪い奴という世間のイメージをまとって登場します。本蔵は虚無僧姿で登場し、「由良助は主人の仇を報わんという所存もなく・遊興にふけり大酒に性根を乱し・放埓な身持ち日本一の阿房の鏡だ」と罵詈雑言を吐き、三宝を踏み潰し、お石を突き飛ばします。ここまではたしかに本蔵は悪役を気取っています。しかし力弥の槍にわざと突き刺された後の本蔵は苦しい息の下でその本心を語り、由良助に理解を求めます。
言うまでもなく本蔵は「モドリ」です。モドリとは悪い奴と思っていたのが実は良い奴だったと観客を驚かせる為の作劇上の仕掛けなのではありません。そういうことは表面上のことでして、大事なことは、モドリが本心を吐露する相手とは・彼が自分のことをわかって欲しいと一番痛切に感じている相手だということです。自分の苦しみ・悩みを理解し・共有してくれると思える人間を選んで、その相手に彼は本心をぶつけるのです。言わずにはおられぬ切迫した思い(すなわちかぶき的心情)がそこにあり、その思いの強さによって相手の心を動かそうとするのです。これがモドリのドラマツルギーです。
由良助が「君子はその罪を憎んでその人を憎まずと言えば・縁は縁・恨みは恨みと格別の沙汰もあるべきにさぞ恨みに思われん」と言い・本蔵が「思えば貴殿の身の上は・本蔵が身に有るべきはず」と言う時、結局、由良助の心を解する者は本蔵以外にはおらず・本蔵の心を理解する者も由良助以外にはいなかったということが明らかになります。そのことをふたりは確認して、ひとりは冥土に旅立ち・ひとりは仇討ちに向かうというのが「九段目」です。
つまり、本蔵は由良助の心を開かせることができるか・というところに「九段目」のドラマの本筋があるのです。「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」と主人判官からの命を受け・由良助は「私は復讐の鬼となるのだ」というところに自分自身を追い込み、硬化しています。由良助はかたくなに心を閉ざし・仇討ちのことだけを考えています。茶屋場で浮かれていても、それは表面だけのことなのです。「七段目」において由良助は歪んだ遊郭の虚の空間の中心に存在し・周囲の空間を歪ませる強力な力を持つブラック・ホール的な存在でした。
「九段目」冒頭において・幇間仲居に送られて祇園・一力茶屋から由良助が朝帰りする場面があります。つまり、「九段目」は「七段目」の空気をそのまま山科に持ち込んでいる わけです。歌舞伎の上演では由良助の朝帰りがカットされますが、これは「九段目」理解のためにはまずい処置で、「九段目」の由良助は「七段目」の由良助の乖離した性格を引き継いでいることが見えなくなっています。「七段目」を踏まえて「九段目」を読めば、山科閑居においても由良助は周囲の空間を強力な力で歪ませていることが分かるのです。
5)由良助の立場
例えば「寺子屋」におけるモドリの構造を思い起こして見ます。源蔵は松王を時平に味方する悪人と思っています。しかし、松王は我が子を送り込み・若君の身替りにすることで・その忠義を示します。そのことが明らかになった時・源蔵は驚きながらも松王を受け入れるわけですが、松王はそのために我が子の身替りの犠牲を払わねばならなかったということでもあります。これが典型的なモドリの構造です。(別稿「寺子屋における並列構造」をご参照ください。)
一方、「九段目」を見れば、モドリの構造が歪んでいるのが分かると思います。本蔵は悪人然として登場し、乱暴狼藉を働き・力弥の槍にわざと刺されるという形で自らの命を差し出して・由良助の許しを得ます。本蔵は娘を愛する男と添わせてやりたいという父親の熱い真情で由良助を動かそうとしているわけで、その点は 確かにモドリの構造に適います。しかし、由良助の方が違っています。由良助にサプライズはないからです。由良助は最初からはっきりと本蔵の命を要求しています。本蔵が刺されて・もう命はないということを見定めてから、これで良し・それならば許そうという形で由良助は登場します。由良助が本蔵を死に追い込んだことは明らかです。
もちろん由良助は、心のなかでは泣いているのです。「君子はその罪を憎んでその人を憎まずと言えば・縁は縁・恨みは恨みと格別の沙汰もあるべきにさぞ恨みに思われん」という由良助の台詞でそれが分かります。しかし、由良助が本蔵が判官を抱きとめたことをはっきり「罪」だと言っていることも事実です。いや正確に言えば主人判官の遺言により、由良助はこれを罪であると言わされているのです。ここに由良助の苦しい立場があります。「私は復讐の鬼となるのだ」と自らに宣言した由良助は、高師直とともに・本蔵を仇(かたき)と見定めています。そこに封建主義の忠義の論理のなかにがんじがらめに縛られた由良助の状況が見えます。息子力弥の許婚の父親が本蔵であるが故に、ますます由良助は硬化せざるを得ないのです。力弥と小浪のめでたい婚礼の引出物として「三方に加古川本蔵殿のお首をのせて貰ひたい」とお石に言わせるなど、常識はずれのひどい話です。しかし、そんなことはもちろん承知の上で由良助はそれを要求するのです。そこに由良助の倒錯した状況があるのです。
つまり由良助は、本蔵の父親としての熱い真情(すなわち実の要素)に打たれて・本蔵を許すわけではないのです。差し出された本蔵の命を受け取って初めて由良助は本蔵を仇と見るという態度を解くのです。これで主君への申し訳が立ったということです。それがなければ由良助が本蔵を許すことは絶対にあり得ませんし、もちろん力弥と小浪の結婚もあり得ぬことです。由良助は最後まで虚のブラックホールそのものなのです。
6)戸無瀬と小浪
歌舞伎の「九段目」の舞台を見ると、戸無瀬・小浪の件が重く見えると思います。これは心情でドラマを読む歌舞伎の「九段目」理解としてとても興味深いことであり・ そこになにがしかの真実がもちろんあるのです。しかし、「九段目」の本筋は本蔵は由良助の心を開かせることができるかという点にあるのですから、本蔵と由良助の対立構図で見た場合には戸無瀬・小浪の件はいわば前座ということになります。(本稿は本蔵と由良助に視点をあわせているので戸無瀬・小浪の件は別の機会に考察します。)
歌舞伎の「九段目」では本蔵と由良助は後半で登場しますが、実は本蔵と由良助の対立構図は前半からはっきり見えています。つまり、本蔵の先鋒として戸無瀬・小浪が山科閑居を訪れる。由良助の代理として女房お石が応対をするのです。双方の先鋒としてまず女同士が火花を散らすことになります。
恐らく戸無瀬は本蔵から「由良助宅に行って・娘の婚礼を承知してもらって来い」とだけ言われているのです。「ハイと言われるまで帰ってくるな」とも言われているようです。「本蔵殿はどうなさる」と聞けば本蔵は「俺は他に用事があるから行けない」としか言わないのです。いわば突き放されるような形で戸無瀬・小浪は山科閑居を訪れています。お石に断られて・母娘は一度は死を覚悟しますが、戸無瀬がそう思いつめてしまうほど切迫した状況が親娘にあるのです。
一方、応対するお石の行動・言説も奥に引っ込んだ由良助に完全にコントロールされたものと考えて間違いありません。お石は由良助に「お前行って断って来い」とだけ言われているのです。「こう言われたら・ああ言え」ということも言い含められているようです。そして「由良助殿はどうなさる」と聞けば由良助は「俺は会えない」としか言わないのです。そんな状況でお石は応対に出ています。
ですから由良助も・本蔵も自分たちが出て行くタイミングを計っているのです。しかし、今は出るわけには行かない。自分たちが出る時はそれはもう結論が出た後でなければならないのです。中途半端な出方をすれば、由良助は本蔵と斬り合いをせねばならなくなります。もちろん由良助は主人判官の遺言により本蔵の命を要求しています。しかし、由良助が果し合いをして本蔵を斬り捨てるようでは、その後に力弥・小浪を添わせる状況にならぬのです。本蔵が自ら命を差し出そうという状況ならばその後の婚礼のことも立ち・死に際の本蔵にそれを聞かせることで・本人も安らかに冥土へ旅立たせることも出来るのです。ですから本蔵は自分の死に際を計っており、由良助も本蔵を望ましい経緯によって死に至らしめるというタイミングを計っているのです。ふたりともうかつには出て来れないという状況のなかで、戸無瀬母娘とお石がその前哨戦としてそれぞれ訳も分からぬまま対決させられているわけです。
7)鶴の巣ごもり
舞台上では戸無瀬親子はお石と対決させられているけれども、それは表面上のことで、実は見えないところで対峙して火花を散らしているのが本蔵と由良助です。このことが明確に分かるのは、戸無瀬親子が死を覚悟し・戸無瀬が刀を振り上げた時にどこからともなく聞こえて来る尺八の音です。尺八は名曲「鶴の巣ごもり」を奏でています。松の木に巣を作った鶴の夫婦はヒナをかえすために雄雌交代で卵を温めるそうです。そのような仲睦まじい夫婦を愛でるのが「鶴の巣ごもり」という曲です。
尺八の音は本蔵がすぐそこまで来ていることを由良助に知らせるものです。本蔵は由良助が戸無瀬からの婚礼の申し出を受けるはずがないことが分かっています。だとすれば大石宅でそろそろ戸無瀬母娘が切羽詰った状況になっている頃である。そろそろ自分の出番が来た、いよいよ勝負のときが来たと判断して本蔵は尺八を吹いて・自分が来たことを由良助に知らせているのです。この尺八の「鶴の巣ごもり」は・本蔵の真情が溢れていて、とても良い場面です。尺八の音は「俺の大事な妻娘を助けてくれ」と由良助に訴えているかのようです。尺八はそのような絶妙なタイミングで流れるのです。
お石の「御無用」の声が由良助に指示されたものであることは明らかです。由良助も「いよいよ本蔵が来たか・自分が出るタイミングだ・貴殿がどう出るか見させてもらうぞ」と本蔵に合図を送っているのです。ここで大事なことは、力弥・小浪の婚礼を受けるにあたり・何が障害になっているか・由良助が何を望んでいるかを誤解がないようにはっきりと知らせておくことです。これが由良助の本蔵に対する最後通牒です。それがお石の言うところの力弥と小浪のめでたい婚礼の引出物として「三方に加古川本蔵殿のお首をのせて貰ひたい」です。本蔵にとってそれはもちろん「望むところ」です。
由良助が主君の仇討ちを本気で考えているなら当然自分の首を要求してくるはずだと本蔵は思っています。仇・師直を討つ前に本蔵を討っておかなければ由良助の仕事(主君の遺言の成就)は完全ではないのです。逆に言えば由良助が本蔵の死を望んでいないのならば、由良助に仇討ちの本心はないということになります。由良助がそのような忠義の心がない人物なら、本蔵にとっては由良助は軽蔑すべき男ということになり、そのような家に娘を嫁にやる価値はないことになります。
ですから本蔵にとっては由良助が仇討ちをすることと、娘を大石家に嫁にやることが等価になっています。つまり、小浪が嫁に行くことで父親としての本蔵の望みは果たされる、由良助が仇討ちをすることで本蔵が果たせなかった忠義を由良助が替わって貫徹してくれるということです。そのどちらもが本蔵にとって非常に大事なことです。それならば自分は命を捨てる価値があるということです。本蔵は、由良助が自分の期待にたがわぬ男か、それを見定めて・一直線に死に向かうのです。
8)本蔵の決心
「忠義にならでは捨てぬ命・子ゆえに捨てる親心」と本蔵は言っています。本蔵は娘小浪が本人の望む通り大石家に嫁に行けることを本心から願っています。これは一般の歌舞伎の解説本を見れば・本蔵は自分の行為(師直に賄賂を贈ったり・判官を抱きとめたこと)を恥じ、忠義という概念そのものに疑念を抱くに至り、忠義という建前ではなく・親の愛情という自然の情において死ぬことを望んだのであると書いてあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。吉之助は、本蔵にとって娘を大石家に嫁にやること・由良助が仇討ちをすることとが等価になっていると考えます。そのどちらもが本蔵にとって非常に大事なのです。ここではそのことを考えます。
まず大事なことは「四段目」において判官が「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」と言い遺して切腹したことです。つまり師直はもちろんですが、本蔵も恨みの対象だということです。由良助の仇討ちは師直を討つだけでは完成しません。順序から言えばまず本蔵を討って、次に最終目標である師直に向かわねばなりません。このことを本蔵本人はよく分かってます。
次に判官が本蔵に対して恨みを漏らした通り、本蔵が松の間で判官を抱きとめ・師直殺害を邪魔したことについて世間の批判が非常に強かったということです。このことは戸無瀬に対するお石の言葉から分かります。
「主人塩谷判官様の御生害、御短慮とはいひながら正直を本とするお心より起りし事。それにひきかへ師直に金銀を以てこびへつらふ追従武士の禄を取る本蔵殿」
これは間違いなく・世間が本蔵のことをそう言っていたのです。本蔵は師直に対し金銀で媚びへつらい・しかも判官が師直に斬りかかったのを阻止した悪い奴というのが世間の見方です。忠義ぶっているけれど・武士の風上に置けぬ奴ということです。本蔵の主君・若狭助は単純潔癖な人間ですから、本蔵がどうして松の間のあの場面にいたかということを考えれば、恥で煮えくり返ったと思います。このことは本蔵が主人に暇を願い出て・それを若狭助が受けたことで分かります。つまり、本蔵の行動は主人の不興を買ったのです。
要するに・本蔵がこれこそ忠義の道と信じて取った行動が、世間にことごとく正反対に受け取られ、否定されたということです。これは本蔵は非常に不本意であったと思います。自分の取った行動はすべて忠義のためであり、そのことに恥じることは少しも ないと本蔵は思っています。「自分は何のためにこれまで一生懸命勤めてきたのか」ということを本蔵も考えたでしょう。いまや武士としての自分の体面は地に落ちた。それならば武士としての本分を全うするために自分はどうすべきかということを本蔵は真剣に考え始めたのです。
本蔵の結論はこういうことです。いまや自分の忠義は完全に否定された。それならば「忠義にならでは捨てぬ命」を旨としてきた自分が取るべき道はただひとつ・それは由良助に忠義の道を貫徹させることである・ということです。由良助の仇討ちは自分と師直を討つのでなければ完全なものにならないことは明らかです。ですから由良助のために「討たれてやる」ことが忠義を旨としてきた本蔵の最後の忠義の行動だということになるのです。
本蔵の懸念はふたつあります。ひとつは由良助と本蔵は旧知の仲であり、力弥と小浪は許婚であり、親戚付き合いをしてきた関係であるからです。そこに由良助の躊躇・迷いがあるかも知れないと本蔵は考えます。もうひとつはまさかとは思うが由良助に仇討ちの本心がないかも知れないという懸念です。この懸念があるうちは簡単に自分が死んでしまうわけには行きません。
もちろん本蔵が娘小浪の望む通り大石家に嫁にやりたいということは前提としてあります。しかし、自害して由良助の許しを得ようとするなら・それは自分の過去の行為の否定になってしまいます。本蔵は自分が取った行為は忠義からのもので・そこに恥じることは一点もないと考えています。ですから本蔵は自分の首を差し出すつもりはあるが、決して自害するつもりはなく、あくまで由良助に「討たれる」という形にこだわるのです。したがって本蔵は由良助に仇討ちの本心が確かにあると見極めた時点で、わざと討たれに入るというシチュエーションを自ら準備するのです。お石が「三方に加古川本蔵殿のお首をのせて貰ひたい」と言ったことで、由良助が仇討ちをやり抜く意志があると確信して、本蔵は大石宅へ乗り込みます。そして乱暴狼藉を働き・力弥の槍にわざと刺されるという形で自らの命を差し出すのです。
9)忠義とは
一方、由良助の側から見ると「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」 と主人判官の遺言により、由良助は恐らく最も心を許しあった友人を仇(かたき)とせねばならなくなったのです。しかも本蔵は息子力弥の許婚の父親でもあります。由良助は本蔵が忠義の人であることを知っていますし、本蔵が判官を抱きとめたのも「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」と判断したからで、それは由良助のためであったことも分かっています。主人の怒りと自分の怒りとして・「私は復讐の鬼となるのだ」と誓った由良助にしても・これは非常に苦しい状況です。しかし、主人が仇と呼んだのならば、それはもうどんな事情があろうが由良助にとって本蔵は仇なのです。師直はもちろんですが、本蔵も討たねば由良助の行為は完結しません。
このように「九段目」は由良助が本蔵の首を貰い受ける場ですが、それと同時に由良助にとっては本蔵の忠義の心を認め・本蔵のプライドを守った上で、本蔵の願いを受け入れ・死んでもらおうとしています。それだけが由良助が本蔵に対して見せられる「情」なのです。注意せねばならないことは、ここで「本蔵の忠義の心」と言う場合、それは本蔵の主人若狭助という特定の人物に対する忠義を指すものではないのです。由良助の場合もその忠義は主人判官個人に対するものでは ありません。由良助の場合は、ご奉公すべき塩治家がもうないのですから・もっと明確です。「九段目」で言う忠義とは彼らが武士であるというアイデンティティーです。
言うまでもなく当時・人形浄瑠璃を見て「九段目」に感動した人々は大坂の町人でした。大坂の町人が「九段目」を見て感動する時、彼らが階層の違う武士の忠義の論理に感動しているわけではありません。本蔵・由良助が個人として自分の取るべき道・進むべき道を確信して決然と歩むから感心するのです。本蔵・由良助が自分のアイデンティティーに対して忠実であったことに感動しているのです。「九段目」の結末を見ればそれが分かります。しかし、由良助の立場は一筋縄ではいきません。「九段目」の結末を見れば、本蔵を許しても・由良助はそこで心の緊張を解いてはいません。由良助は本蔵の死を踏み越えて・そして本蔵の死をさらに自分の力にして、なおも仇討ちの道を孤独に歩むのです。由良助は最後の最後まで虚のブラックホールそのものなのです。
10)虚のブラックホール
「忠臣蔵」において由良助が取ってきた行動を検証してみます。まず「六段目」には由良助が出てきませんが、由良助の存在によって劇空間が歪んでいることは明白です。それは郷右衛門が勘平に金子を差し戻す場面で分かります。
「まづもつてその方、貯へなき浪人の身として、多くの金子御石碑料に調進せられし段、由良助殿甚だ感じ入られしが、石碑を営むは亡君の御菩提、殿に不忠不義をせしその方の金子を以て、御石碑料に用ひられんは、御尊霊の御心にも叶ふまじとあつて、ナソレ金子は封の儘相戻さるゝ」
実は二人侍は由良助の命により勘平に詰め腹を斬らせに与市兵衛宅へ来ています。主人判官の大事の場面に居合わせず・不忠の汚名を来た勘平を仇討ちの一党に加えることは出来ないのです。しかし、由良助は勘平の忠義の気持ちは分かっています。だから 「勘平よ切腹してくれ・それならば仲間に加えよう」というのが「六段目」での由良助の決断です。「十一段目」(焼香の場)において勘平の遺品である縞の財布を懐中から取り出し、「これが忠臣二番目の焼香、早野勘平が成れの果。ハア不便な最期を遂げさせしと、片時忘れず肌離さずいやなに力弥、この財布平右衛門に渡せよ」と言って、平右衛門に二番目の焼香をさせています。それほどまでに勘平のことを思いやり涙しながら、その一方で「勘平を生かしては おけぬ」とするのが由良助なのです。
「七段目」は別稿「七段目の虚と実」で考察した通り、由良助は「やつし」の演技で・ニッコリと笑い・酒に酔った振りをしながら、実はお軽と九太夫を茶屋の者たちに知られずに・どうやって始末するかを考えているのが由良助です。お軽はたまたま勘平の女房であり・平右衛門の妹であると分かったから救われましたが、そうでなければ殺されていたのは間違いありません。
忠義・仇討ちの論理によって由良助はがんじがらめにされており、決して人間的な言葉を発することはありません。由良助の相克・苦渋の涙はさりげないところで示されますが、決して前面に出てくることはありません。由良助の個人の真情は隠されています。由良助がまとうのは忠義・仇討ちという時代(虚)の論理です。表面に見えてくるものは忠義の顔・仇討ちをやり抜こうとする義士の顔だけです。しかし、ドラマツルギーの上からはこれを由良助の立場とせねばなりません。由良助は虚のブラックホールとして、強力な力で周囲の空間を歪ませているのです。周囲の人々は「由良助は いったい何を考えているのか」と、由良助の心中を勝手に憶測して・怒ったり・不安になったりして、手探り しながら右往左往しています。つまり周囲の人々は由良助に翻弄されているのです。これが「六段目」から「九段目」までに見られるドラマです。
しかし、由良助は「主君の仇討ちを遂行することで 、私はどれだけの罪を犯さねばならないのか。忠義の道を歩むことで私はどれほどの苦しみを味わわねならないのか」と心のなかで叫び涙しながらも・ひたすら前を向いて決して忠義の道を歩むことは止めません。勘平の死も・本蔵の死に涙しながら、彼らの思いをさらに我が思いとして、由良助はなおも先を見て歩くのです。それがおのれの在るべき道であると信じるからです。
(付記)別稿「九段目における戸無瀬と小浪」もお読みください。
(H20・5・25)