「九段目」における戸無瀬と小浪
平成26年1月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵}〜九段目・山科閑居
四代目坂田藤十郎(戸無瀬)、三代目中村扇雀(小浪),他
1)女たちの忠臣蔵
「九段目」が浄瑠璃では超難物とされていることは、ご存知かと思います。豊竹山城少掾は「あんな恐い浄瑠璃はようやれまへん」と言って、遂に「九段目」と「吃又」をやらずに終わりました。「九段目」のどこが難しいのか、山城少掾はその理由について述べていません。やっていないから、芸談が残ってないのです。だから我々はその理由を想像してみなければなりません。一体「九段目」のどこが難しいのでしょうか。ところで杉山其日庵は「九段目」について、次のように書いています。
『本蔵の出からは豪(え)らいばかりで、ただの義太夫節になるのである。鍛錬さえすれば誰でも語れるが、それまでの前の部は、修業しても語れる人と語れぬ人が出来るのである。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」〜仮名手本忠臣蔵・山科閑居の段)
「九段目」は虚無僧姿が本蔵の姿を現して・由良助宅に乗り込んでからの後半は豪(え)らいけれども何とか出来る、その前の部こそ難しい、つまり戸無瀬の持ち場が難しいということです。歌舞伎でも、「九段目」は大顔合わせでないと出来ない重い演目とされていますが、実際見てみると、腹にズッシリ来る手応えがある舞台は少ないようです。そもそも由良助が最後の方でちょこっと出るだけで為所が少ないので、芝居としては損な感じがします。重いと云われる割には「九段目」があまり人気がないのはそのせいかなと思います。最近はそういうことはしませんが、昔の芝居では戸無瀬と由良助の二役をよく兼ねたものでした。本蔵が出てくると戸無瀬に手紙を渡して使いにやって・それで戸無瀬は引っ込んで由良助に替わるのです。愚劣な型だと言われますが、由良助役者の気持ちを考えると、そういうことがしたくなるのもまあ分からなくもない。しかし、決してこの型を支持するわけではないですが、うがったことを考えれば、戸無瀬と由良助を兼ねるということは、「九段目」のドラマのなかでこの二役が何かを補完し合っているのかなということも、ちょっと想像してみたい気がするのです。
まず本蔵の登場を境にして「九段目」を前後に分けるとして、後半で対決するのは本蔵と由良助で、これがもちろんドラマの核心に違いありません。本蔵はもちろん死ぬ覚悟ですが、由良助に小浪を力弥の嫁にすることを承諾してもらってからでないと死ねません。由良助は本蔵の命をもらわねばなりませんが、本蔵の覚悟を確認した上で小浪を力弥の嫁に出来るかを決めねばならない。芝居のなかで本蔵と由良助がいきなりぶつかっては二人は斬り合いをすることになり、そういうことにならずに終わってしまいます。だから二人とも自分が登場する場面を慎重に計っています。待って・待ちに待って、さあこの時だという場面で、二人は登場せねばなりません。ですから二人の急先鋒として戸無瀬とお石が前半で対決せねばならないのです。実はその背後に本蔵と由良助の目が光っています。ある意味において戸無瀬とお石は、前座として対決させられています。(これについては別稿「九段目における本蔵と由良助」をお読みください。) つまり「九段目」において前半での戸無瀬とお石は、後半での本蔵と由良助とパラレルな位置にあるということです。これは言ってみれば、前半は「女たちの忠臣蔵」、後半は「男たちの忠臣蔵」ということなのです。
普通の時代物においては、世間の義理にがんじがらめに縛られた男がおり、例えば松王のように・男が自分の子供を主人の身替りにする、女はそれを嘆く・封建思想の非情を訴えるということになります。男は建前の論理・女は本音の論理ということになるかも知れません。これが時代物の男と女の構図であるかも知れませんが、「九段目」ではちょっと様相が違います。戸無瀬とお石は、どちらも夫から本心を打ち明けられてはいないと思います。しかし、彼女たちは夫のただならぬ様子から、判官刃傷と切腹・さらにお家断絶という事態から、夫が或る決意を持っていること が分かっています。そういうなかで、戸無瀬とお石も、否応なく男たちの建前の論理のなかにさらされています。一方、女の世界にも女なりの建前の論理があります。それは家の格式とか家風とか・家が釣り合うの釣り合わないのという話になるのです。だから表向きは小浪を力弥の嫁にするのしないのという話をしているようだけれども、そういう話をしろと夫に強制されて、恐らく真意は知らされないで、戸無瀬もお石も前面に押し出されているのだけれども、彼女たちはこれがどういう事態であるか、ちゃんと分かっているのです。これが女たちの忠臣蔵である・台所忠臣蔵であることが、戸無瀬もお石も分かっているのです。
ここで大事なことは、「女たちの忠臣蔵」と「男たちの忠臣蔵」、それぞれの局面が同じ色合いであって良いのであろうかということです。確かにキーワードは同じく「忠義」なのでしょう。忠義という論理によって、二組はそれぞれ対決しています。しかし、女たちにとっての忠義と・男たちにとっての忠義は、同じ色合いで良いのでしょうか。もし色合いが違うならば、それはどのような違いを呈するでしょうか。吉之助は、そういうことを問題にしたいと思うのですね。
(H26・2・1)
2)戸無瀬は政岡とはちょっと違う
平成26年1月歌舞伎座の「九段目・山科閑居」は当代望み得る大顔合わせで、平成歌舞伎の成果として良いものでした。特に幸四郎の本蔵と吉右衛門の由良助が対決する後半がなかなかの出来です。しかし、吉之助が思うには、藤十郎の戸無瀬の持ち場の前半がちょっと重いようです。重いというのはテンポが遅いと言っているのではなく、藤十郎はさすが息を詰めた密度の高い演技で素晴らしいと思いますけれど、全体の感触として堅苦しく感じられて時代の印象が強いということです。もうちょっと「軽く」というと誤解を生じるかも知れませんが、時代の印象をいなして、柔らかい印象にして曲げて出す、そういう捻じれたところが必要であろうと思われます。そうすれば藤十郎の戸無瀬は、もっと良くなるはずです。
藤十郎の戸無瀬は、「何としても娘小浪を大石家に嫁がせて見せる、それが叶わないならば生きてはいない」という覚悟が極まっている戸無瀬です。これはもちろん性根として正しいことで、戸無瀬については大事なことなのです。しかし、それがグッと前面に強く出過ぎると、これが「男たちの忠臣蔵」と同じような色合いを呈してしまうことになる。これでは前半の「女たちの忠臣蔵」と後半の「男たちの忠臣蔵」の、色合いの対照が付かない。そうすると「九段目」のバランスが悪くなるわけです。「女たちの忠臣蔵」はあくまで前座なのですから。例えば戸無瀬登場の第一声「大星由良助様お宅はこれかな・・」以下の挨拶の台詞、藤十郎の台詞回しは、これから由良助宅に乗り込む戸無瀬の覚悟のほどが感じられてまことに良いという批評もあろうかと思います。しかし、吉之助が感じるところでは、これは重過ぎます。ここは威厳を保ちつつも、もう少し軽めの調子で言った方が良い。山口廣一著「文楽の鑑賞」のなかで鶴澤友次郎が次のように語っています。
『戸無瀬が戸口へ立って案内を乞うと、下女のりんが出てきて奥へ取り次ぐのですが、ここで戸無瀬がいう挨拶が、その家の主人ではなく下婢に向かっていっている挨拶ですから、そのつもりで少し軽い口調で申します。この挨拶を後段のお石に向かっていう挨拶と同じ調子で語っては間違いでございます。』(山口廣一・鶴澤友次郎:「文楽の鑑賞」・文章を吉之助が多少整理しました。)
鶴澤友次郎に拠れば、例えば戸無瀬が供の者に言う台詞も、あまり強い調子で言わないものです。なぜならば、八段目・道行では「腰元つれず乗物もやめて親子の二人連れ」と文句にあるのですから、九段目に出る駕籠は戸無瀬が道の途中で雇い入れたもので、国許から連れてきたものではない。だから自分の家来に言っているのではなく、昨今臨時に雇い入れた者に言っているのだとするのです。まあこれは文楽でのことですが、実は九段目は、こういうところが難しいのです。そういうところにともすれば時代の重い武張った印象になるのを和らげようとする工夫があるのです。そういうさりげないところに、女性の色合いが出るのです。こういうことは、戸無瀬が下女に言う・あるいは雇い入れた者に言うから台詞が軽い口調になるということだけでなくて、もっと戸無瀬という役の本質に深く関連してくることなのです。さらに以降をお読みください。
もうひとつ気になることは、藤十郎の戸無瀬は、演技が「糸に乗っている」とまで言わないけれど、三味線に当たりを付けているところが散見されることです。これがよろしくない。こういうところが時代物の堅苦しい印象を生んでいます。例えば冒頭・戸無瀬が揚幕から登場し・七三で立ち止まって客席に振り返り正面を向く箇所、ここで三味線のトンに当てています。どうしてこんな箇所で当てるのでしょうかね。こうしたところでは当たりをはずした方が良いのです。あるいは小浪が死を決意し「涙とどめて立ちかかり・・」の後、小浪を見やりながら戸無瀬が大小を抱えて右足を段に下してきまる、藤十郎はそこでも三味線のトンに当てています。ここなら当てても良いところだと思うかも知れませんが、ここを当てると時代の武張った印象が強くなります。これは男の表現なのです。そこを敢えてはずす、つまり「いなす」から、女性の柔らかみが出るのです。戦後・昭和の最高の戸無瀬役者であった六代目歌右衛門の映像をご覧になれば、歌右衛門はどちらの箇所も三味線をはずしているのが確認できます。歌右衛門の芸談を見ますと、
『(戸無瀬は)役が大きくて重みがかかっていますが、政岡などとは行き方が違っています。政岡のようにあまり糸に乗って動くところが少なく、締めているだけ難しいのです。父(五代目歌右衛門)の戸無瀬はたいそう良かったと未だにありありと思い出しますが、「手の内」のきまりきまりなど、きりっとした中に何とも言えぬ柔らかみがありましたが、そんなところにこの役の特殊なものがあるのだと思われます。』(六代目中村歌右衛門:「演劇界」・昭和37年11月)
ですから、戸無瀬はできるだけ三味線に当てない・あるいは意識的にはずすことを旨とした方が良いのです。ちなみに戸無瀬という役には、「女武道の詰め開き」ということがよく言われます。詰め開きとは、駆け引き、あるいは立ち振る舞いのことを言います。それはそれで良いのだけれど、戸無瀬は政岡のような烈女とはちょっと違います。「女武道の・・」というところが、要らぬ誤解を生んでいるのかも知れません 。
ちなみに女武道について言えば、藤十郎の戸無瀬は、腰が入っていて刀の使い方を知っている女性に見えますね。バッサリと一刀のもとに小浪の首を斬ってしまう見事な腕を持っていると見えます。まあそれだけ藤十郎の戸無瀬の覚悟が極まっているということでもあるわけですが。ともあれ、戸無瀬が刀の使い方を本当に知っているか知らないか、それは本文では分からないことです。しかし、吉之助は、戸無瀬は刀の使い方を知らない、少なくとも慣れていない女性であると想像したい。だから、刀を構えた時でも、「御無用・・」の声が掛かってうろたえる時でも、戸無瀬は刀の使い方を知らない感じに見える方が良いと思うのです。ちなみに歌右衛門の戸無瀬はやや腰を浮かせ気味に取って、もし刀を振り下ろしていれば斬り損じたかなと思えました。これはもちろん戸無瀬が本心では小浪を斬りたくないという気持ちの表われでもありますが、歌右衛門はそのような刀の使い方を知らない戸無瀬を演じたと、吉之助は思っているのです。
(H26・2・4)
3)戸無瀬は世話に描いた方が良い
吉之助は、戸無瀬は刀の使い方を知らない女性であると想像します。そのことをもう少し考えます。戸無瀬が本蔵の後妻であることは、「九段目」で戸無瀬が小浪に対して「そなたは先妻の子・・」と言っていることで分かります。本蔵と戸無瀬との関係は、歌舞伎では上演されない「二段目」を参照すると、何となく分かってきます。鶴が岡(大序)で若狭助が師直と口論になったという噂を心配して戸無瀬が本蔵に尋ねます。これに対して本蔵は、「一言半句にても舌三寸の誤りより。身を果たすが刀の役目。武士の妻ではないか」とたしなめます。確かに戸無瀬は夫の仕事に気を揉んで、あれこれ口出しをしたり、立ちまわったりするところが感じられます。おとなしく夫にかしづくタイプではなさそうです。饗応の打合せで力弥が来たことを知ると、戸無瀬は仮病の癪を装って応対の役を小浪に任せてしまったりします。小浪が許嫁の力弥に逢いたがっているのを知っているからです。戸無瀬は、機転が利いて世話好きな・ざっくばらんな性格の女性のようです。
ここから推察されることは、恐らく戸無瀬は 町人階級出身なのだろうということです。本蔵のお傍で女中奉公していて、見染められて後妻に納まったということかも知れません。本蔵に「武士の妻ではないか」とたしなめるのも、そう考えると良く分かります。当時、武家に女中奉公するということは、町人の娘が武士の妻になれるチャンスがあるということで憧れの就職先で、そのため町人階級では競って娘に読み書き・作法を習わせたものでした。吉之助が戸無瀬は刀の使い方を知らないだろうとする根拠は、そんなところです。
例えば「加賀見山旧錦絵」の中老尾上も町人階級出身です。町人から思いもかけず武士階級に上がった人は、「武士とはかくあるべし」という観念が普通の武士より人一倍強いようです。尾上は岩藤に辱められたことを恥じて自害します。戸無瀬は「娘小浪を大石家に嫁がせられないならば生きてはいない」という行動を取ろうとします。本蔵がそうしろと指示したわけではないのに、そのような事態になったら「生きてはいられない」という感情が、戸無瀬にごく当たり前のように生まれます。それは「武士の妻はかくあるべし」という観念が戸無瀬にとても強いからです。それは戸無瀬が町人階級出身であることに拠ります。加えて戸無瀬の場合には後妻であることで、義理の娘小浪に対して「理想の母はこうあるべし」という観念がこれまた人一倍強いのです。浄瑠璃が登場人物のバックグラウンドを綿密に考えてキャラクターを構築していることに感心させられます。
「九段目」だけ見ると、戸無瀬はずいぶんと気位が高さそうな女丈夫に見えます。これは歌舞伎では立女形が演じる役どころであること も影響しています。しかし、実は戸無瀬はか弱い女性であって、「武士の妻はかくあるべし」という観念に必死にしがみついて、理想の武士の妻・理想の母を勤め上げようとしています。小浪への情愛が強い分、「あるべき論」がより強く出るわけです。しかし、そのような必死さがストレートに強く出過ぎると印象が硬く重くなってしまいます。女性の場合は、情の方に強く引き裂かれる感覚が欲しいのです。強い乖離感覚をいなして、柔らかい・ちょっと粘った感覚で曲げて出す感じが欲しいわけです。
「二段目」との関連を考えるならば、「九段目」の戸無瀬は本当はもう少し世話の方に描いた方が良いのかも知れません。そう思って戸無瀬とお石とのやり取りを見ると、戸無瀬の「手前の主人は小身故家老を勤むる本蔵は五百石。塩谷殿は大名、御家老の由良助様は千五百石・・・」という台詞なども、何となく世話っぽいところが感じられます。ですからそのような女性の乖離感覚は、男性の場合とは違った出方をすることが望ましい。そこに「女たちの忠臣蔵」の色合いがあるはずです。其日庵が「本蔵の出からは鍛錬さえすれば誰でも語れるが、それまでの前の部は、修業しても語れる人と語れぬ人が出来るのである」と言っているのは、そこのところが難しいのでしょう。大夫ひとりで、このような幅広い表現を実現することはなかなかハードなことなのです。
(H26・2・9)
4)「偽りを実に返す」ということ
一方、今回(平成26年1月歌舞伎座)の「九段目」の舞台では、残念ながら扇雀の小浪は良い出来とは言いかねます。最初の「アノ力弥様のお屋敷はもうここかえ。わしや恥かしい」は 、「わしや恨めしい」と言い出すのかと思うくらいに、暗く粘っています。扇雀の小浪は、最初から「力弥と添い遂げられないならば生きてはいない」という悲愴な雰囲気であって、そういうことならばそれなりかも知れませんが、それならばこの台詞の直前の床の文句「谷の戸あけて鶯の梅見付けたるほゝ笑顔」をどう読むのかということを問いたいですね。これは恋しい力弥の家にやっと辿り着いて、ここが彼の家なのね、嬉し恥ずかし・・という台詞ではないのですか。これではまるで小浪の性根が違います。「アノ母さまの胴欲な事おつしやります・・」以下の小浪の述懐では、扇雀はもう糸に乗り過ぎで、踊るが如し。こういうところに義太夫の修練不足が露呈しています。「力弥様よりほかに余の殿御、わしやいやいや・・」などは駄々っ子の如しで、小浪の 清らかな感情が伝わって来ません。しかし、吉之助が思うには、このような扇雀の勘違いは、そもそも藤十郎の戸無瀬の感触の重さから発していると感じます。藤十郎の戸無瀬が「何としても娘小浪を大石家に嫁がせて見せる、それが叶わないならば生きてはいない」というところを前面に強く出し過ぎであるので(前項で書いた通り・それはもちろん間違いではないのですが・強過ぎるということ)、扇雀の小浪もその線で構築されているからです。
繰り返しますが、小浪登場時の「谷の戸あけて鶯の梅見付けたるほゝ笑顔」という文句は、小浪の性根を読むための、とても大事な文句です。ここに聞こえるのは、判官刃傷・御家断絶・そして塩治家中の者たちはどうするなどという事情は小浪にとってまったく関係なく、小浪にとっては恋しい許嫁に合えることだけがただ嬉しいと云う、無邪気なほどに純真無垢な乙女の喜びです。小浪が力弥と夫婦になれそうにないと思った時、彼女が「殿御に嫌はれわたしこそ死すべき筈。生きてお世話になる上に苦を見せまする不孝者。母さまの手にかけてわたしを殺して下さりませ。去られても殿御の家こゝで死ぬれば本望ぢや、早う殺して下さりませ」と言うのは、社会道徳とか・恥の概念だとか、あるいは生きることへの絶望から来ると思う方がいるかも知れませんが、決してそうではありません。戸無瀬の場合には確かにそのような感情も絡みますが、小浪の場合はそうではないのです。小浪にとって死ぬということは、もっと純粋に個人的な、恋しい力弥と夫婦になるという目的の貫徹だということです。小浪は、そこまで思い詰めているということです。
このことから「九段目」のドラマを考えるならば、次のように読めます。小浪にとっては世間のことなど関係ない。小浪はただひたすら許嫁力弥と添い遂げることだけを願っています。このような小浪の思いは、まったく純粋無垢で暖かい血の通ったもので、人間が生きることの本来の喜びを訴え掛けるものです。大人たち・本蔵夫婦と由良助夫婦にとってもそれはかつて持っていたはずのもので、今はやむを得ぬ事情により捨てざるを得なくなってしまったけれど、彼らもずっと守っていたかった・決して失いたくなかったものでした。注を付しておきますが、それは若者がキレイで大人が汚れているということではありません。社会に生きていくなかで、人は否応なしに状況に適応し、時には妥協し・人間的な感情を抑え込んで生きていかざるを得ないのです。それが生きて行くということなのです。しかし、本蔵夫婦と由良助夫婦にとって、小浪という存在は、それを失ってしまったらこの世が無味乾燥の世界に変わってしまうような大事なもの、それゆえ絶対に守ってやらねばならぬ・その願いを叶えてやらねばならぬと切実に思うような・とても大事な存在であるのです。ですから小浪というのは、ひたすら清らかで、純粋無垢なヒロインなのです。
「九段目」における小浪の思いとは、偽りの世界・つまり建前や忠義や義理が優先する世界を、実(まこと)の世界・すなわち人間的な感情が発露できる世界に変えようとするものです。この小浪の清らかな思いを叶えてやる為に、大人たちはその身を犠牲にすることで、彼ら(大人)が生きる社会の論理との折り合いを付けなければなりません。それが「九段目」のドラマなのです。ここで吉之助は、真山青果の「元禄忠臣蔵」シリーズ第1作・「大石最後の一日」(初演・昭和9年2月・東京劇場)のヒロインおみのを思い出します。おみのは磯貝十郎左衛門に逢わせてくれと、内蔵助に執拗に食い下がります。おみのはこう言います。
『一端の偽りは、その最後に誠に返せば、偽りは偽りに終りますまい。実(まこと)のために運ぶことも、最後の一時を偽りに返せば、そは初めよりの偽りでございましょう。(中略)十郎左さまにさえお目にかかれば、やがて必ず誠に返してお目にかけます。十郎左さま方便の偽りも、おみのは 誠に返してお目にかけます。どうか、どうか十郎左さまに、お引きあわせを願い上げます。』
昭和の新歌舞伎のヒロインであるおみのは、積極的に自分の心情を告白し、その実現のために能動的に行動します。一方の小浪は、これは江戸時代の歌舞伎のヒロインですから、ただ状況に翻弄され、泣くだけで・何ら行動はしないように見えます。しかし、小浪の心情のなかには、間違いなく、おみのと同じ心情が熱くたぎっています。すなわち「その偽りを私が実(まこと)に返してみせます」ということです。ですから「九段目」のドラマを昭和の感性において書き換えて見せたのが、青果の「大石最後の一日」だということなのですね。
(H26・2・16)
(付記)「大石最後の一日」のヒロインおみのの心情については、別稿「内蔵助の初一念とは何か」をご参照ください。