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南北の感触を探して

平成26年2月歌舞伎座:「心謎解色糸」

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(お祭左七・半時九郎兵衛二役)、 五代目尾上菊之助(芸者小糸),四代目尾上松緑(本庄綱五郎)、二代目中村七之助(糸屋娘お房・九郎兵衛女房お時二役)、他


1)本当の南北はどれ?

もともと歌舞伎というものは、上演の度に出演する役者の顔ぶれに合わせて脚本を手直ししたもので、同じ題材でも筋やら台詞が微妙に異なることがしばしばです。まあそれだけ柔軟性がある・融通が利くということです。しかし、何が正しいのか判然としないということでもあります。「弁天小僧」や「髪結新三」のような頻繁に上演される芝居でも、春陽堂の黙阿弥全集や創元社の名作歌舞伎全集や白水社の歌舞伎オンステージなどを見比べても、これは底本にしている上演台本が異なるからなのですが、細かいところに相違が見えます。実際の舞台を見ると、これまた台詞が微妙に異なります。吉之助は時々そういうことがやたら気になって、そももそこの違いはどこから来たのか・何か変える根拠があるのか、それとも誰かが単なる好みか気分で変えたのか(そういうこともしばしばありそうだ)、黙阿弥が書いたオリジナル台詞は一体どういうものかなどと考えてしまうことがあります。

もっとも何が正しいのかと考えること自体に意味がないのかも知れません。多分どちらも正しいということなのかも知れません。そうすると何をやっても正しいということになる。そうやって「よかれよかれ」で芝居が次第にオリジナルと違ったものになってしまうこともよくあることです。その点、義太夫狂言だとそういうことはなくて、人形浄瑠璃の台本(丸本)は上演後に必ず出版されたものですから、何か疑問があるならば、絶対の基準である原典としての丸本に立ち返れば良いのです。だから批評する者にとっては、義太夫狂言の方が扱いやすいですね。歌舞伎の世話物の批評の方が厄介です。

幕末期の黙阿弥でもこうですから、文化文政期の鶴屋南北の場合はもっと厄介です。 南北もので初演から幕末期まで切れ目なく上演されてきた作品は「東海道四谷怪談」と「馬盥の光秀(時今也桔梗旗挙」)くらいのものであったからです。 つまり、ほとんどの南北ものが大正(第一次南北ブーム)以降の復活上演です。もうひとつ考えなければならないことは、歌舞伎の歴史は四百年とは云うけれど、長い時間のなかでいろんなものが消えたり・変わったりしていますので、現在の歌舞伎役者の演技の引き出しというのは案外狭いもので、遡っても幕末期の黙阿弥よりちょっと古いくらいのものなのです。だからずっと上演されてきた「対面」とか「忠臣蔵」のような芝居でも、実は現在の演出は幕末期から引き継がれたものが明治になって定型化したものです。そういうことですから、南北ものの伝統というものは、歌舞伎では途切れてしまって事実上ないわけです。「東海道四谷怪談」にしても現在ではお岩のお化け芝居(因果物の復讐譚)と化していて、南北の感触からはほど遠いのが実情です。

南北の場合は脚本のことだけを言えば、古くは春陽堂の大南北全集、近くは三一書房の鶴屋南北全集があるから、ある程度学問的な検討を経たものをそれなりに読むことが出来ます。ただしこれをそのまま舞台に掛けることは筋も錯綜しているし・分量的にも無理なので、上演に際してはやはり何かのアレンジ、場面の大幅なカットや筋を通すための改変が必要になってきます。

吉之助の見た感じでは、歌舞伎での南北ものの復活再演の多くは黙阿弥もののセンスで行われてきたように思います。それは現在の歌舞伎のノウハウが幕末期の歌舞伎に拠っているから必然的にそうなるのです。例えば今回(平成25年2月歌舞伎座 )の「心謎解色糸」ですが、半時九郎兵衛が昔捨てた我が子を誤って殺してしまったのを悔いて自害するという結末になっています。それで何だかこの芝居が黙阿弥の因果の芝居みたいな幕末芝居の感触になってしまっています。恐らく脚本補綴者も・役者も、その方が芝居のオチが付いて納得が行く感じがするのでしょう。「歌舞伎はそういう因果の芝居を昔からずっとやってきた」というような、吉之助がよく云ういわゆる「歌舞伎らしさ」というものが、染みついているのです。しかし、南北全集の脚本を見れば、半時九郎兵衛は昔捨てた我が子を誤って殺してしまったのを知って嘆くけれども死なないのです。因果に巻かれて苦しみながらも、生き抜いていこうとするしたたかさを感じます。そこが南北の感触なのではないのでしょうか。

因果というのは、原因があって結果がある・今度はその結果が原因となって次の新たな結果を生むという連鎖の輪のことですが、仏教思想のなかでは人間の業(ごう)の考え方と結びついて、独特の理論的展開をしました。前世の悪行が後の世にも影響をもたらす・その 報いが係累にまで及ぶみたいな考え方です。因果論の思想は元禄期の近松にもあります。もちろん文化文政期の南北にもあるものです。しかし、幕末期の歌舞伎の・例えば黙阿弥の因果の芝居のどうしようもない閉塞感・無力感は、近松にも南北にもありません。そこの違いをしっかり押さえておかねばなりません。半時九郎兵衛が昔捨てた我が子を誤って殺してしまったのを悔いて自害するという結末では、これはほとんど幕末期の歌舞伎の感触です。「歌舞伎の芝居の結末なんてこんなもの」みたいなベタな定型で芝居を処理してしまっているということです。

一方、今回の「心謎解色糸」上演は、昭和48年6月国立劇場での上演(吉之助は見ていません)以来41年ぶりということであるけれども、昭和48年の時の上演では自害するのは九郎兵衛ではなくてお祭左七の方で、左七は小糸を殺したことを悔いて自害するのです。これはどういうことかというと、聞くところでは、今回の上演は昭和48年上演本をベースにしたのだけれど、出演者が議論して、自害するのを左七ではなく・九郎兵衛が自害する筋に変えたということだそうです。しかし、左七でも九郎兵衛でも、どっちが死のうが因果の芝居の印象に変わりありません。このような改変が、例え「よかれよかれ」であったとしても、あちらの筋の方が面白い・イヤこちらの筋の方が自分は納得が行くというレベルの議論が平気で行われているわけです。何が南北の作意かということは、そこでの議論では問題ではない。そうやって南北本来の感触ではない「心謎解色糸」が「よかれよかれ」で自由に作り変えられて上演されてくことになります。

もっとも上演されないよりも不完全であっても上演された方が良いという論理も、現実問題としては確かにあるでしょう。クラシック音楽の世界でも、ブルックナーの生前・その音楽はまったく理解されませんでした。しかし、なかには興味を持ってくれる人が何人かいて、その方たちが親切心でブルックナーに色々とアドバイスをしてくれる。「君の音楽は素晴らしいところがあるけど、ここがいけないねえ。私が、その欠点を修正して演奏してあげるよ」と言われたりして、ブルックナーは兎にも角にも演奏会に取り上げてもらわないと生活が出来ないので、その申し出を拒否出来ない。そうやってウジウジしているうちにブルックナーの交響曲は、「よかれよかれ」で旋律がカットされたり付け加えられたり・編成が変えられたりして、改訂版がいくつも出来てしまいました。今や何が本物のブルックナーやら分からない状況です。原典版だから良いというわけでもないようです。見かねたハースやノヴァークなど音楽学者が検討した良心的な稿が出来て、近年ではそちらがよく演奏されていますが、熱心な音楽ファンの間ではブルックナーに関しては稿の議論が絶えません。南北もまあ似たような状況と考えてよろしいです。

左七が自害しても九郎兵衛が自害してもどちらでもよろしい、どちらも死ななくてももちろんよろしい、とすれば多分ふたりとも死ぬ「心謎解色糸」もあるということでしょうねえ。もっと別の結末もあり得るかもね。そういう状況は変なことだと思って欲しいのですがね。どれが本当の南北なのかね?だから本筋と関係ないところで、南北物には葬式が出てきたり・お化けや死体が出て来きたり、予想外のものが出るから面白い、これが南北の趣向の面白さだ・パロディーだとか、芝居の主題と関係ないことを言わなきゃならなくなるのです。たいていの歌舞伎の解説に出てくることは、そういうことでしょ。そういうのは鶴屋南北に正面から向き合っていないと思うのですがねえ。

(H26・3・10)


2)空っ世話について

『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。昔の人は、よく空っ世話っていったんですよ。空っ世話でいいねとか。いま言いませんけどね。それは要するに七五調にならないんですね。今で言う現代劇ですね。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)

「昭和の黙阿弥」と言われた作家宇野信夫氏の言ですが、吉之助は宇野氏の黙阿弥についての見解については全面賛成というわけではないのです。「黙阿弥は世話物を音楽的様式美の芝居に堕落させてしまった」という見方については異論がないわけではありません。まっしかし、それについては別の機会に論じることにします。(別稿「四代目小団次の発想」ではそれに関連することを論じています。)吉之助がここで宇野氏の言を引いたのは、「空っ世話」ということです。空っ世話と か・バラ描きという言葉を最近はホントに聞きません。空っ世話の台詞とは、それは七五調にならない・普通の台詞のことです。音楽的・様式的な定型のリズムに嵌るのではなく、自然な抑揚で発せられる台詞です。空っ世話とは写実の・リアリズムのことです。宇野氏の視点から空っ世話のことを考えるならば、それは音楽的・様式的感覚の排除ということになるでしょう。これは南北の芝居を考える時の大事なポイントです。

南北の芝居の特徴のひとつは、下座をあまり使わないことです。下座を全然使わないわけではなく、例えば「鈴ヶ森」の白井権八と雲助との立廻りで使用される忍び三重などがあったり、流行唄 (はやりうた)が使われたりすることはありますが、使用頻度が少ないのです。特に世話物の台詞には、ほとんど下座を入れないものです。考えてみれば、我々の日常会話では背景音楽など鳴らないのですから、芝居の台詞だって下座がないのがリアルなはずです。ところが、現代の南北ものの上演では、芝居のなかに下座がないと雰囲気が出ないというので、下座が入ることが少なくありません。「こういうわけでございます、お聞きなされてくださいませ」というと三味線がシャンシャンと鳴り始めるというのは、黙阿弥もののセンスです。こういうことの積み重なりが、芝居をリアルな感触から遠ざけてしまいます。

芝居の会話に下座を使わないということは、台詞のなかの音楽的・様式的感覚を排除するということでもあります。写実に徹するということです。そのような南北の芝居を、当時は「生世話」あるいは「まぜわ」と呼びました。「生」は、生蕎麦・生醤油の「き」です。つまり鮮度100%の芝居ということです。その芝居は、当時における・現代感覚を示しています。南北の芝居は文化文政期の自然主義リアリズム演劇であったと云うことです。南北の芝居では、台詞が当時の江戸庶民の日常会話で綴られています。特徴的なことは、頭打ち(言葉の最初にアクセントが付く)の関東方言だということです。これも芝居の会話に下座を使わないということ と大きく関連します。なぜならば日本の音曲というものは義太夫でも長唄でもみんな上方アクセント・つまり二字目起こしの法則で出来ているからです。台詞が音楽的感覚から解き放たれているから、頭打ちの関東なまりの台詞が生まれることになる。こうして江戸庶民による・江戸庶民のための・江戸庶民の芝居が、南北によって出来上がるのです。このようなことはどうでも良いような・ホンのちょっとの違いです。ところがそのホンのちょっとの違いをおろそかにしてしまうと、芝居の感触が根本から変わってしまうのです。そんなことだけで南北の感触が簡単に失われてしまいます。

ところで吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代は第二次南北ブームと言われた時期の終り頃でしたが、その頃の歌舞伎での南北もの上演では大向うが間をはずす場面がよく見られたものでした。それは何故かと云うと、南北の生世話の台詞は字足らずになることが多いせいでした。南北は日常会話に近い写実の台詞であるからです。大向うは黙阿弥の七五の間合いで待ち構えていますから、台詞が字足らずで終わってしまうと、間が合わないので大コケしてしまうのです。吉之助は「大向うさんは南北をご存知でないねえ」と笑ったものでした。

しかし、最近の南北上演ではあまりそういう場面を見ることがないようです。これは大向うが巧くなったということなのか。実はそういうことではないのです。歌舞伎役者の方が南北の台詞をだんだん黙阿弥の調子でしゃべるようになってきたからです。無意識のうちに台詞の調子を七五に揃えようとしています。具体的には、台詞の末尾を心持ち伸ばして間を揃えるのです。こういうことが南北の芝居を黙阿弥風の感触にします。本当の南北の感触は、もっとカラッとしているものです。いわゆる「歌舞伎らしさ」の感覚から見れば、南北の芝居はドライで芝居っ気がないように感じるはずです。むしろ新劇役者が演じた南北の方が感覚としては近いかも知れません。

玉三郎や仁左衛門(当時は孝夫)も昭和50年代には南北ものを比較的よく演りました。それで吉之助にも彼らは南北ものが得意だというイメージがあるのですが、当時はやはり大向うが間をはずしたものでした。ところが近年の南北ものの舞台(玉三郎では平成16年の「桜姫東文章」・仁左衛門では平成24年の「絵本合法衢」)を見ると、彼らも台詞の調子が七五に近づいて、演技が黙阿弥風にねっとり重くなって来た気がします。だから大向うが間をはずすことがありません。これは台詞が上手くなったということなのか。役者的には「練れてきた」ということなのでしょうが、反対に南北らしさが消えてしまっています。そこで吉之助はある仮説を立ててみることにしました。

「南北ものは、ベテランよりも若い役者で見る方が面白い。」

若い役者は黙阿弥もののセンスに染まり切っていないので、素直に南北ものの・字足らずの台詞を追おうとする。だから若い役者が演じる南北ものはきっと良いに違いない。役者が練れてきちゃうと黙阿弥臭くなるので、南北ものの空っ世話の良さが出ない。そのような仮説です。この仮説をもとに、今回(平成25年2月歌舞伎座 )の「心謎解色糸」上演を吉之助は密かに期待していたわけです。

(H26・3・17)


3)正しいフォルム感覚を

「武智歌舞伎の演出」(昭和30年)のなかで、武智鉄二は歌舞伎の様式の12のパターンということを提唱しました。歌舞伎は四百年の歴史のなかでさまざまなパターンの芝居を試行錯誤し、それを蓄積して財産としてきました。その様式を分類してみれば、およそ12パターンくらい見られるということです。武智鉄二は、歌舞伎役者はこの12の様式を的確に演じ分けることが出来ねばならないとしました。武智は12の様式のひとつとして「鶴屋南北を頂点とする市井写実劇」を挙げています。しかし、前項で書いた通り、現在の歌舞伎役者の演技の引き出しというのは案外狭いもので、遡っても幕末期の黙阿弥よりちょっと古いくらいのものであって、その狭い引き出しで演目をどうにか処理しているのです。南北劇も幕末期の黙阿弥のテクニックでこなしているのが現状です。黙阿弥以前の時代の、南北劇の様式がどんなものであったか。それを考える手掛かりが、「空っ世話」というキーワードにあります。

余談ですが、歌舞伎は型の芸術だとよく言われます。歌舞伎が型の芸術だと言うならば、フォルム感覚について好い加減なことは許されないはずです。歌舞伎役者が芸の継承のことを真面目に考えていないとは思いません けれど、歌舞伎の方は、フォルムに対する意識がちょっと希薄ではないかと思いますね。歌舞伎に芸のフォルムという概念が提示されたのは、実はそんな昔のことではないのです。それは武智鉄二によって提示されたもので、歌舞伎の世界では未だに認知されているとは言えません。武智が歌舞伎再検討(いわゆる武智歌舞伎)に踏み出した動機が何であったのか、吉之助にはよく分かっています。それは歌舞伎に正しいフォルム感覚を植え付けることなのです。(別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご覧ください。)

ところで今回(平成26年2月歌舞伎座)の花形歌舞伎は、昼の部が「心謎解色糸」、夜の部が「青砥稿花紅彩画」という演目でした。昼が鶴屋南北・夜が黙阿弥です。染五郎・菊之助・松緑・七之助ほか若手役者たちは頑張っていますが、このふたつの芝居を見て吉之助が思ったことは、「どちらの芝居も同じ調子でやってますねえ」ということですね。「どちらも同じ歌舞伎でしょ」と思っているようで、南北と黙阿弥の違いを演じ分けようなんてことは考えていない。しかし、どちらかと云えば、感触的に夜の部の方がしっくり来ていることは、見れば明らかなのです。昼の部の南北の方は全体にテンポがなく、芝居が締まらない。このことは彼らのフォルム感覚が、黙阿弥の方に寄っていることを示しています。補足しておきますと、そのように誤解している方が多いようですが、フォルムというのは規則とかパターンではないのです。フォルムとは、気分あるいは感情が醸し出すものであって、その気分から生まれたものなら、どんな形をしていてもそれはフォルムと言えるのです。だから南北と黙阿弥の気分の違いを見極めなければなりません。

この時の「青砥稿花紅彩画」については、吉之助は観劇随想に好意的なことを書きました。若手花形の芸は初々しさを保持しており、いわゆる「歌舞伎らしさ」にどっぷり浸かっているわけではありません。
そこが「白浪五人男」という芝居が本来持つ或る種の安手な感触にどこか通じるところがあるということを書いたわけです。このことは彼らが南北に取り組む時の手掛かりにもなるのです。この演技を意識して「空っ世話」に強調する方向へ持っていけば、南北のフォルム感覚にいくらか近づくであろうという目算が立ちます。しかし、はっきり言って、今回は吉之助の仮説がはずれたと言わざるを得ません。まあ皮肉っぽく言えば、あの頃の若手より現在の若手の方が歌舞伎的に「練れている」、大人だということであるかも知れませんねえ。

昼の部の「心謎解色糸」を見ると、意外や、芝居にテンポが出て来ない。吉之助が見たのは2日目でしたから、まだ全員が南北に慣れていないので手探り状態であったように思いました。それでなくても錯綜している筋立てを芝居らしい感触に仕立てようとする感じで、とりあえず彼らの芸の引き出しである黙阿弥調の方で対応をしたということでしょうか。そのため妙に老成した南北劇になってしまいました。これは前項で述べた通り脚本補綴にも問題がないわけでもないが、実はそれ以上に何でもかんでも幕末期の黙阿弥のテクニックでこなそうとする役者の感覚に問題があるのです。「歌舞伎らしい芝居」なんてことを考えずに、若さで虚心に脚本にぶつかって欲しいものです。それにしても、染五郎や菊之助の演技に初々しさがあまり感じられなかったのは、残念なことでした。

特に気になったのは、台詞の末尾が伸びることです。台詞の末尾が伸びると詠嘆する感じになります。台詞がそれで収束して、会話が弾まなくなります。写実の芝居では これは致命的な欠点です。南北の世話の台詞ならば、むしろ台詞の末尾を早めるくらいの方が良い。その方が江戸っ子の気風が出ます。それが南北のフォルムなのです。若い時から「こうすれば歌舞伎らしくみえるだろ」みたいな考え方はしない方がよろしいのですがね。これも平成の歌舞伎の保守化現象であるなあと思いやられます。南北に限ったことではないですが、フォルム感覚についてもっとシビアな態度を取らなければなりません。せっかくの珍しい復活狂言の機会なのに惜しいことをしました。

(H26・3・20)

鶴屋南北全集〈第3巻(三一書房、「心謎解色糸」を所収)


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