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「太功記」の革命思想

令和3年4月歌舞伎座:「絵本太功記〜尼ヶ崎閑居」

八代目中村芝翫(武智光秀)、五代目尾上菊之助(武智十次郎)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(初菊)、二代目中村魁春(操)、六代目中村東蔵(皐月)、三代目中村扇雀(真柴久吉)、初代坂東弥十郎(佐藤正清)他


1)勇気の人・武智光秀

前月(3月)国立劇場での「時今也桔梗旗揚」の観劇随想(「理性の狡智」)で史実の明智光秀について考えました。本稿では江戸期における光秀評価について、ちょっと触れてみたいと思います。本能寺の変(天正10年・1582)から約百年ほど後、元禄期頃(1688〜1704)に、「明智軍記」が成立しました。「明智軍記」の作者は不明ですが、一説には光秀殺しの「汚名」を晴らす目的で明智家中の末裔が書いたとも云われています。史料的に価値がない単なる「物語」として顧みられないこともありますが、世間に広く流布して・その後の浄瑠璃・読本などに少なからぬ影響を与えました。

「明智軍記」の筋を追ってみます。明智光秀は、家康の饗応役を信長によって解任された直後、備中出陣を命じられました。これを聞いた光秀の家臣たちは怒り、恨みの言葉を口にしました。しかし、光秀は「家来どもの鬱憤のさまを聞て、げにげに汝らが申通り」としながらも、

「恨を含む儀多けれども、古語に、君、君ならずといえども、臣、もって臣ならずあるべからず、と見えたれば必ず左様に恨み申べきにあらずとて・・」(「明智軍記」)

と動こうとしませんでした。しかし、直後に信長からの使者が来ます。書状には、光秀に対し、敵地である出雲と石見を「賜う」が、現在領地である丹波と近江を「召し上る」とありました。これは明智の家に滅亡を命じるに等しいもので、これを聞いた家臣十三人が打ち揃って、涙を流しながら「謀反の儀、是非の思召立せたまうべし」と進言したので、ついに光秀は信長を討つことを決意しました。本能寺の変の直後にも、家臣たちは次のように進言しています。

「急ぎ光秀の前へ伺候して、様子を見合せ申けるは、御所存の儀、如何様の御覚悟にや候らん。古へより今に至るまで、無道の君を弑(しい)せしこと、和漢共にその例多く候。異国の殷の湯は、夏の桀王を討、周の武は、殷の紂王を亡くし、吾朝には、蘇我の馬子の大臣は、崇峻天皇を弑し、北条権の太夫義時は、頼家卿を害せしむ。さあれば、強ち御心に懸らるるべきにても候わず。総て武者の道は、不義の敵を討取るをもって、至剛智謀の勇士と申伝えてこそ候へ。この上は身を全うして、一日なりとも都に旗を立てられ、天下安全の御仕置を仰せ出され候はば、今生の威光、末世の名聞冥途の訴にもなるべき儀に御座候と・・・」(「明智軍記」)

ここで家臣たちが力説するのは、本能寺の変とは「不義の敵」を討つ行為である、無道の主人を討つことは正義の証だ・勇士の証だと云うことです。彼らはその旗印として「天下安全」を掲げ、明智が政権を取ることの正当性を主張します。つまり、これはまさに「革命」なのです。但し書きを付けますが、「明智軍記」は史実と食い違うところが多く、史料としての信頼性は低いとされています。史実の光秀に革命思想まではなかったかも知れません。現在の歴史学でも光秀謀反の真の動機は不明とされています。多分、動機は些細なものであったと思います。しかし、例えそれが光秀弁護のためであったとしても、「明智軍記」のなかで・その百年後に、本能寺の変の大義がここまで理論化されたと云うことは、認めても良いだろうと思うわけです。和漢の故事を引き・或る史観を以て本能寺の変を客観的に評価し大義を理論化できるまでには、やはり百年くらいの歳月が必要だったのであろうなあと思うわけです。そこから元禄期当時の人々の成熟した歴史感覚を読み取ることが出来ます。

翻って「絵本太功記」(寛政11年・1799・大坂豊竹座)床本を見ると、誤って母皐月を竹槍で刺してしまった夫光秀に妻操が強く抗議するのに対して、光秀が決然と「武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る」と言い放つところを見れば、「明智軍記」が本作の下敷きになっていることが、ここに歴然としています。

「コレ見たまへ光秀殿、軍の門出にくれぐも、お諌め申したその時に、思ひ止つて給はらば、かうした嘆きはあるまいに、知らぬ事とは言ひながら、現在母御を手にかけて、殺すといふは何事ぞいなう。せめて母御の御最期に、『善心に立帰る』と、たつた一言聞かしてたべ。拝むわいの」
と手を合はし、諌めつ泣いつ一筋に、夫を思ふ恨み泣き、操の鑑曇りなき、涙に誠あらはせり。光秀は声あらゝげ、
「ヤア猪口才な諌言立て、無益の舌の根動かすな。遺恨重ぬる尾田春長。もちろん三代相恩の主君でなく、わが諌めを用ひずして、神社仏閣を破却し、悪逆日々に増長すれば、武門の習ひ天下のため、討取つたるはわが器量。武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る。和漢ともに、無道の君を弑するは、民を休むる英傑の志。女童の知る事ならず。退さりをらう」
と光秀が、一心変ぜぬ勇気の眼色、取りつく島もなかりけり。
(「絵本太功記」十段目・床本)

大事なことは、江戸期は封建思想の完成期であると云うことです。この時代には、理由の如何を問わず「主殺し」は大罪であるとされました。主人が気に喰わないからと云って簡単に謀反を起こされたら、安定した封建社会が構築出来ないからです。本能寺の変の大義を主張することは、時の幕府にとって、封建道徳を根本から揺るがせかねない危険思想でした。従って幕府が公の立場で光秀を認めることは、決して有り得ません。だから「明智軍記」も、「見たか、主殺しの大罪を犯せば、因果が報いて、光秀のような無残な最後となるのだ」という体裁に仕立てられています。光秀は主殺しの報いを受けて、光秀は山崎の合戦で敗走して小栗栖の竹藪で無残に殺害されます。しかし、それは表向きのことです。作者の真意は別のところにあります。

「絵本太功記」丸本を見ても、事情は同じです。光秀の行為は周囲の支持を得られず、母親からも・妻からも理解されず、頼りの息子十次郎も瀕死の状態で、もはや勝利は望むべくもない。不幸者と嘲られ・逆臣と罵られ、「逆賊非道の報いがこれだ、思い知ったか」と寄ってたかって責められる状況です。一見すれば、作者は「君君たらずといえども、臣臣たらざるべからず」という封建道徳を支持しているように見えるでしょう。お上の厳しい検閲を警戒して十分すぎる配慮がされています。しかし、それは表向きのことです。孤立無縁の光秀は、それでも自分の行為に悔いるところはありません。「武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る」と言い放つ光秀を、丸本は「一心変ぜぬ勇気の眼色」と描写しています。光秀は、自分の信ずるところを行ない、そして滅びて行きます。「絵本太功記・十段目・尼ヶ崎閑居」が描くのは、そのような勇気の人・光秀の悲劇なのです。(この稿つづく)

注:歌舞伎では「武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る」の詞章は、戦前の検閲で不敬であるという理由からカットされてしまい、戦後もこれが通例となったままで、今回も省かれています。しかし、この部分は元に戻すのが、本来の作意を活かすことであるはずです。なお現行文楽では丸本通りに語られます。

(R3・5・4)


2)光秀の肚の持ち方

別稿「太十の難しさ」でも触れましたが、「太十」は、立役から若衆・姫・女房・婆と、役柄も揃って声域に幅があり・それぞれに見せ場があるので、素人義太夫の教材として最適で、それゆえ地方での地芝居でも昔から人気がある作品です。しかし、役者の立場から見ると、複数の役者ががっぷり四つに組んで芝居する場面が意外と少なくて、或る役者が芝居している時に・他の役者はじっと正面向いて黙って座っていなければならない時間が長く、演じていて案外面白味が少ないように思われます。特に大歌舞伎の場合、役者がしっかり同じベクトルで芝居をしないと、ひどく空虚さが目立つということになり易い。そこが「太十」の難しいところです。

役者がしっかり同じベクトルで芝居をするとは一体どう云うことかと言えば、杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」のなかにある通り、

「この段は、剛毅憤懣の気が充満した光秀で、聴衆が泣くように書いたものであることをよく会得して、その他は、光秀を泣かざるを得ざるように仕向ける責め道具に配せられた人形ばかりであることを忘れずに語る」

ということです。皐月・操・初菊・十次郎らの役割はただひとつ、寄ってたかって光秀を泣かせることです。自分の持ち場で、それぞれの方向から「逆賊非道の報いがこれだ、思い知ったか」と、代わる代わる責めたてると云うことです。しかし、勇気の人・光秀は、それでも決して信念が揺らぐことはありません。逆に、責められれば責められるほど、光秀の気持ちは研ぎ澄まされて行きます。光秀のなかに、「俺は誰にも認められることはない、後世の人はきっと俺を逆賊だと嘲るだろう、それでも俺は俺の信じる道を行く」という悲壮感が高まっていくのです。これでやっと観客が光秀の悲劇で泣くことが出来るようになります。

さて今回(令和3年4月歌舞伎座)の「太十」がそのように出来ていたでしょうか。まず芝翫の光秀を見ますが、時代物役者としての芝翫には期待をしていますが、見掛けは時代物に似合う風貌で・段取りとして一応のことは出来ているのだけれど、何となく腹応えがしないと云うか、演技の恰幅は良いけれど・押してみればポヨッとメタボ気味なところが如何せんと云うところですねえ。ひと言で云えば、「肚の持ち方が足りない」ということになるでしょうかね。柄ばかり追わずに、役を深く考えて演じてもらいたいものです。

大事なことは、光秀を取り巻く状況のすべてが悪い方向へ向かっているということです。光秀の主討ちは周囲の支持をまったく得られない。久吉を頭とした討伐軍が迫っており、戦況は絶望的である。尼ヶ崎閑居では、久吉を刺殺したと思ったら、それが母親であった。愛する息子十次郎は戦死し、頼りの家臣・四王天田島頭は行方知れずである。光秀は、このような悪い状況のすべてを肚のなかにグッと受け止めて、その場に倒れ込んでしまいそうなところを、それでも起死回生のチャンスがあるに違いないと信じて、気力で以て立っているということです。「俺は正しいことをしたのに・・・コンチクショウ」と云う、状況に対するどうにも出来ない怒りが肚のなかに渦巻くのです。これが「太十」での光秀の性根ですが、そのような悲壮な雰囲気が芝翫にはまったく乏しいですねえ。時代物役者の恵まれた資質に頼り過ぎて、役を演じるのに一番大事な肚をどこかへ忘れてしまっているのです。

例えば妻操を睨みつけて云う、「(主君春永が)悪逆日々に増長すれば、武門の習ひ天下のため、討取つたるはわが器量」という台詞ですが、芝翫は「わが器量」のところで「この俺がやったんだゼ、どんなもんダイ」と云う感じで二ヤリと笑い・胸を張ってしゃべっています。しかし、この絶望的な状況において、これが笑って言える台詞かどうか、よくお考えいただきたいものです。笑う余裕など、光秀にあるはずがありません。ここで光秀は虚勢を張っているのです。この大義が失われてしまえば、光秀の存在価値はないと云う窮地にまで追い込まれています。光秀は、この台詞をニコリともせず弱気になりそうな自分を鼓舞するように言わなければなりません。こういうところで芝翫の光秀は肚の持ち方に大いに疑問があります。

或いは戦場から戻った十次郎が戦語りする直前・意識を失いそうになる息子に光秀が軍扇を振り上げて喝を入れる場面ですが、芝翫の光秀の腕の振り上げ方は、まるで怒って息子を折檻するような感じに見えますねえ。息子に対する情が感じられません。ここは瀕死の息子を打ってよいものか・しかし大将として戦場の状況を知らねばならぬと云う逡巡があって、やむなく軍扇を振り上げるものでしょう。光秀が、息子に対し容赦せぬ非情の父親という感じであってはなりません。この辺の光秀の肚の持ち方もちょっと違うのではないかと感じますね。

それから、先ほど「太十」では「或る役者が芝居している時に・他の役者はじっと正面向いて黙って座っていなければならない」と書きましたが、その時間が一番長い役が、実は光秀なのです。そのようなじっとしているところで、芝翫の光秀は、肚が薄い欠点が露わになってますね。こういう自分の持ち場でない場面では、じっと動かずただ前を見て座っていれば良いのではなく(芝翫の光秀はそう云う風に見えかねないのです)、今その役者は「逆賊非道の報いがこれだ、思い知ったか」と自分(光秀)を責め立てに掛かっているわけなのであるから、これを受け止めて・どうするかと言うことだと思うんですがね。

恐らく昔の芝居の感覚であれば、じっと動かず前を見てただ座っていても良かったんだろうと思いますよ。他の役者の持ち場では、ジッと身を殺して目立つことをしないのが、歌舞伎の約束です。しかし、現代の芝居の感覚ではそんなことだと、観客は「あの役者、どうして木偶みたいに動かないの?何も考えてないの?」みたいに感じてしまうのです。こう思われてしまったら、芝居はすべてパーになります。ですから、あからさまにト書きにない動きをするのはイケマセンが、許される範囲で視線や姿勢をちょっと動かす、どこまでが許容範囲かは場合に拠りますが、そのようなものは型として記するほどのものでもないけれど、名優ならばみんな独自の工夫をしているのです。例を挙げれば、皐月が絶命する直前に、光秀を責めて言う台詞、

「ヤイ光秀、子は不便にないか、可愛いとは思はぬかやい。おのれが心たゞ一つで、いとし可愛いの初孫を、忠と義心に健気なる討死でもさす事か。逆賊不道の名を穢し、殺すはなんの因果ぞ」

のなかで、老母に責め立てられて、これを聞いた光秀が気持ちが揺れて視線を泳がせ・苦悩で身を捩(よじ)る・或いは反発の気分が起きるであろう、そのような箇所がいくつかあると思いますが、そこをどうするかが役者の工夫であろうと思います。(この稿つづく)

(R3・5・7)


3)義太夫狂言のコク

歌舞伎の十次郎を見ると、憂いが強過ぎて・許嫁初菊と別れたくない・だから戦場に行きたくないみたいに見える性根間違いの十次郎が少なくありません。しかし、菊之助の十次郎はそこのところはしっかりしており、役の性根を正しく掴んでいて感心させられました。もしかしたら感触が冷たいと感じる方がいらっしゃるかも知れません。それはそう見えても当然のことで、菊之助の十次郎は、武智家を取り巻く状況は絶望的であり・戦さで死ぬことは覚悟しているが・だからと云って初菊に対して未練なところは決して見せたくないと云う十次郎なのです。それが初菊に対する心遣いなのであり、性根としては「妹背山」の久我之助に近いものがあると言えるでしょう。お祖父さまの・七代目梅幸の十次郎はこれにふっくらとした味わいも加わって・散りゆく若者の儚さを湛えたものでしたが、年季を経れば菊之助の十次郎にもそのような要素が加わって行くだろうと思います。その先の道程が確かに見える十次郎であったと思います。

菊之助の十次郎はまだ硬めの印象がするのは事実ですが、それは義太夫の糸に付き気味のせいであることを指摘しておきたいと思います。これは例えば菊之助のいがみの権太(鮓屋)や与兵衛(引窓)にも見られる共通の弱みです。つまりは義太夫狂言の経験不足ということです。演技の決まりのきっかけを三味線の音に当てる(義太夫狂言ではそれが良いように思っているのでしょうが)、これが硬い印象を引き起こすのです。ここは三味線の音に対して、演技を「いなす」(外す)或いは引っ張る方向に持って行って、初めて演技が余裕があるものに見えて来ます。三味線の音に当てに行くのは、時代の演技ベクトルであると言えます。前半十次郎が初菊との絡みで見せる演技では、初菊に対する情愛(思い遣りであって・決して未練ではない)は、これと対立する・世話の演技ベクトルです。だから時代と世話の揺れる交錯、これを絶妙の配合で混ぜ合わせることで、死に赴こうとする若者の気持ちと・許嫁に対する思い遣りを見せるのです。菊之助は、三味線の音に当てに行く感じが強い。折り目正しい印象に見える利点もありますが、これだと演技がいくぶん生硬に見えてしまいます。時代と世話の使い分けが出来れば、そこがいい塩梅に見えて来るはずです。

菊之助の十次郎は、前半部(初菊との絡み)が生硬な印象であるのに対し、後半部(戦さ語り)の方がそれらしく出来が良く見えて来るのも・そのせいで、戦さ語りにおいては・過酷な状況に翻弄される若者の有様が描かれており・時代の様相が一層濃いわけで、だから三味線の音に対して演技を当てに行く菊之助の行き方がそちらではしっくり見えるからです。しかし、ただしもっと上の段階を目指すならば、この箇所においても、三味線の音に対して当てに行かない技術が必要になって来るでしょう。つまり襲い掛かる過酷な状況に対して、十次郎が生きようと必死に抗(あらが)うことは逆の演技ベクトルなのであって、それが糸を「いなす」表現となるということです。遺された梅幸の十次郎の映像を見れば、そのことがお分かりになると思います。つまり、その勘所さえ掴めれば、菊之助の十次郎も権太も与兵衛も、見違えるものになって来るはずです。

このような観点から今回(令和3年4月歌舞伎座)の「太十」の舞台を見ますと、残念ながらコクのある義太夫狂言の演技を見せているのは魁春の操くらいのもので、主演の芝翫の光秀を含めて、一座が演技にコクあるところを見せているとは言い難いところがあります。見終わって腹応えするところが少ないのは、そのせいが大きいと思います。中堅どころの義太夫狂言の経験不足を痛感しますねえ。例えば東蔵の皐月も、孫である十次郎と初菊のカップルへの情愛というところでは手堅いところを見せますが、旧道徳に固執する頑迷さ(息子光秀に対する当たりの強さ)というところではいまひとつのところがあります。皐月を「光秀を泣かせるための責め道具」であると考えれば、やはり時代(硬)と世話(軟)の使い分けが大事になって来ると思います。

いわゆる「義太夫味」を糸に当てることだと思っている方は少なくないと思いますが、そうではありません。実は糸に当てるよりも「外す」ことの方がずっと難しいし、その使い分けこそ義太夫狂言の醍醐味なのです。

(R3・5・7)

(追記)コロナ感染が再び増加したことにより・東京都は三度目の緊急事態宣言発出となり、4月歌舞伎座公演は、25日から千秋楽(28日)までが休演となってしまいました。



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