理性の狡智〜五代目菊之助初役の「馬盥の光秀」
令和3年3月国立劇場:「時今也桔梗旗揚」
五代目尾上菊之助(武智光秀)、九代目坂東彦三郎(小田春永)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(光秀妻皐月)、三代目中村又五郎(安田作兵衛)他
1)ささいな動機
天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を、家臣明智光秀が襲撃して主君を討った「本能寺の変」は、数ある日本史ミステリーのなかでも最大級の謎とされています。どうして光秀はあのような思い切った挙に出たのでしょうか。その後の歴史の方向を根底から変えてしまった大事件です。これは光秀本人に相当な・やむにやまれぬ・我慢しきれない大きな理由が何かあったに違いないと誰でも考えたくなります。しかし、これについては諸説が提起されているようですが、結局のところ「分からない」とするのが歴史学の立場だそうです。大抵の場合ケンカの原因はツマラナイものであることが多いものです。社会学の大澤真幸先生はこう書いています。
『いずれにせよ、私はつまらないささいな動機だったのだろう、と推測している。第三者から見れば、歴史の流れを決した出来事にはふさわしからぬ、個人的な怨恨のようなもの、(中略)「あなたはそんなことであれをやったの!」とわれわれが驚くような、つまり、その動機自体が光秀の器の小ささを示しているような、そうした類の事由が、直接的には光秀に裏切りを決断させたのではないか。(中略)だが、光秀の主観的な意識ということを離れて、本能寺の変を見た場合はどうか。へーゲルの歴史哲学の流儀で、この出来事を見たらどうか。私の考えでは、本能寺の変は、「理性の狡智」の恰好の実例である。光秀自身は、はっきりとした自覚もなしに、ただ必死に、無我夢中に生きただけだ。しかし、「変」へと至った光秀の行動には、この列島を支配する歴史の合理性が貫徹していたと解釈することができる。光秀は歴史の理性がその目的を実現するための「駒」だったかのように見えるのだ。そのことは、光秀の人生や彼の性格をいくら目を凝らして眺めてもわからない。彼の行動を大きなものに見せている要因の方を見なくてはならない。もちろん、それは光秀によって殺された織田信長である。』(大澤真幸:「理性の狡智〜本能寺の変における」、「現代思想・特集:明智光秀」・2020年1月)
ヘーゲルの「理性の狡智」とは、理性は自らは歴史の過程に現れず、個人を操って自分の意図を歴史の中に実現させようとすると云う概念です。信長はあまりに周囲に敵が多い人物で、光秀でなかったとしても、遅かれ早かれ誰かに裏切られ殺される定めであった。いろんな条件やタイミングが揃ったところで、たまたま光秀が「駒」として役目を負わされる破目になったとも考えられます。だから光秀の動機自体は別にどんなものでもよかったのです。これが歴史のなかの理性の働きです。「歴史劇」を創る場合には、そのような見えない理性の存在をドラマの背後に感じさせるように仕立てることが大事なのだろうと思います。
ところで鶴屋南北は「四谷怪談」などお化けや殺しが登場する滑稽で猥雑な世話物作家として有名なわけですが、「時今也桔梗旗揚」(以下の文章では「馬盥の光秀」とする)は巷間その南北が書いた珍しい「歴史劇」と云う見方をされていると思います。まあこれは理由がないわけではないでしょう。「四谷怪談」以外の南北物の伝統は幕末期に一時的に途絶えたわけですが、このような状況下においても、歴史劇だと云う見方をされてきたから「馬盥の光秀」は例外的に生き残って来たのだろうと思うわけです。ここにも「理性の狡智」が働いているかのようですね。ただしその結果、一見すると・とても南北が書いたとは思えない成立年代不明の、これは活歴か?と思うような様式不明の芝居になってしまいました。(この稿つづく)
(R3・3・25)
四代目鶴屋南北は下積み生活が30年近くと長くて、ようやく立作者となったのは享和3年(1803)、49歳の時でした。その後次々と作品を発表していきますが、「時桔梗出世請状」(ときもききょうしゅっせのうけじょう・「馬盥の光秀」初演時の外題、当時の筆名は勝俵蔵)は文化5年(1808)7月江戸市村座での初演。南北の絶筆となった「金幣猿島郡」(きんのざいさるしまだいり)は文政12年(1829)11月江戸中村座での初演になります。同じ月・公演中の11月27日に南北は75歳で死去しました。
武智鉄二は鈴木忠志との対談のなかで、南北に現代的な意味があるとすればそれは何かと問われて、次のように答えています。
『やっぱり南北の革命志向です。それしか南北の魅力というものはないです。クーデターじゃないんです。彼が志向しているものは革命、権力の奪取なんだ。それを思い様ぶちまけたものが「金幣猿島郡」で、これは彼の最後の作品で、引退を意識して書かれたものです。権力を奪取するということは決してアナーキーじゃないんで、それが願望に終わっているからアナーキーだと思われているだけでしょう。彼の場合は革命志向の挫折なんです。南北は猥雑であるとか、荒唐無稽の評価の尻尾が引いていて、そういう評価が出にくいのでしょう。(中略)南北の革命志向のパターンは、挫折を通じて「金幣」のなかで、文芸的にも生きて来る。これは初期の「馬盥の光秀」以来一貫していることですね。』(武智鉄二:鈴木忠志との対談「現代に生きる南北の眼」・「国文学〜解釈と鑑賞」・昭和55年7月・文章は吉之助が多少流れを整えました。)
武智の発言は、1970年代の第2次南北ブームの雰囲気を考慮に入れて読む必要があります。70年安保闘争・大学紛争が体制の弾圧を受け・挫折していく過程を重ね合わせて、当時のアングラ演劇は、南北のことを「怨念の作家」と呼んだものでした。芝居のなかで怨念が形を成したものが「お化け」であるとしたのです。まあ正直なところ武智が言うほど南北が明確な革命思想を持っていたかは難しいところです。しかし、少なくともその萌芽みたいなものはあったに違いありません。武智は、南北の革命志向が、初期の「馬盥の光秀」から絶筆の「金幣猿島郡」まで、その作品を貫く思想であるとしました。このことを南北の現代的視点を考えるヒントとして武智の弟子を任ずる吉之助は重く見たいと思うのです。
ご承知の通り、「馬盥の光秀」は史実に基づいた芝居ではありません。江戸期には当時の事件を史実通りそのまま劇化することが許されていなかったからです。したがって「馬盥の光秀」は、厳密な意味において「歴史劇」ではないわけです。しかし、前章でも触れた通り、世間がこれを「歴史劇」であると見なしたことで、「馬盥の光秀」は歌舞伎のレパートリーとしてしぶとく生き残ったのです。このことはとても重要なことだと思います。(本稿では「馬盥の光秀」についてのみ論じますが、これは「絵本太功記」についてもほぼ同じであるとお考え下さい。)吉之助にはこの事実は、まるで「理性の狡智」が芝居のなかの光秀に何かの役割を与えた結果であるかのように感じます。この認識に上記・武智の発言のなかの、南北の革命志向の端緒を「馬盥の光秀」に見るという認識をを掛け合わせて考えるならば、きっと何かが生じるに違いないと吉之助には思えるわけです。
下克上の時代と云われた戦国の世に、家臣が主君を討って・その地位を奪った例は、斎藤道三を始めとして少なからずあったことでした。明智光秀だけが主殺しであったわけではありません。しかし、江戸期には主殺しは、理由の如何を問わず封建道徳下の最大の罪とされましたから、光秀は逆臣・悪人の最たるものだとされました。これは本能寺の変が江戸期にあまりにも近い出来事だったからです。しかも神君・徳川家康にも深く関係する・実にナイーヴな要素を含んでいました。兎に角、光秀の主殺しはお上があまり触れて欲しくない題材でした。
他方、芝居にとって主討ちはとても魅力的な題材であるはずです。しかし、何かの政治的・経済的理由で光秀が謀反をする芝居ならば、どんなにもっともらしい理由を付けても、当時のお上の倫理感覚では許されるはずがありません。だから芝居に登場する光秀は、表向き逆臣・悪人のイメージを纏わされています。しかし、光秀が怒る理由が、男の一分(いちぶん)に関わることであるならば、もしかしたら江戸の観客が「それならば光秀が怒るのが当然だ」と言い出す可能性があったかも知れません。
だって歌舞伎にはそういう芝居が沢山あるからです。例えば男伊達ならば、男の一分を傷つけられたら怒って相手を叩き斬る十分な理由になるのです。助六がそうだし、番隨長兵衛もそうです。封建社会では確かに主人の云うことは絶対だということになっています。主人春永が光秀の諫言を撥ね付けて・怒って暴力を振るっても、家来である光秀はどんな仕打ちも耐えねばなりません。ところが、パワー・ハラスメントの人格攻撃ならば、話は別です。光秀が怒って当然ということになるかも知れません。これは男の体面・プライドの問題だからです。そうなるとこれは「かぶき者のドラマ」だということになりますねえ。観客までも興奮して「どうした光秀、なせ怒らないんだ、怒れ、もっと怒れ」と言い始めたならば、芝居はどことなく革命の色合いを帯びて来ることになるでしょう。これこそ「理性の狡智」の仕業だと言ったらば、こじつけだと思われるでしょうか?つまり光秀が持つ強い「怨念」こそ鍵なのです。そうなると光秀の動機自体は別にどんなことであっても良くなって来ます。(この稿つづく)
(R3・3・26)
現行の「馬盥の光秀」の舞台を見ると、これがあの「四谷怪談」を書いた南北の芝居だとは、とても思えませんねえ。まるで明治期の活歴みたいに見えます。そうかと思うと森蘭丸・力丸兄弟の化粧は隈取で、これは活歴以前の本作の痕跡なのかも知れませんが、これもまた様式不明です。九代目団十郎は明治26年(1893)11月歌舞伎座で「馬盥の光秀」を演じて、この時期団十郎は活歴熱がそろそろ醒めかけていた頃ですが、好事家をも唸らせる名演技を見せました。饗庭篁村は「今は道楽を見合わせて、元の俳優となしてのお勤め、イヨ有難い」と褒めました。篁村が「道楽」というのは活歴のことですが、現行の歴史劇っぽい「馬盥の光秀」の舞台のルーツは、この辺りだと思われます。恐らく長い年月を掛けていろんな役者の工夫が積み重なった結果が、現行の様式不明の「馬盥の光秀」の舞台なのです。
ところで(現在まったく上演されない)原作・二幕目の「山崎陣中切見世の場」は、真柴久吉が因幡攻めの陣中で兵の慰留のために切見世長屋を造るという趣向となっています。例えば曽呂利新左衛門が落語を演じたり、加藤虎之助が蛇の目ずしを売ったり、久吉が刺身を作って雑兵たちに酒肴を振る舞うなど、なるほどこれは南北らしい洒落っ気ある場です。「おぬしが鮨は大当たりに当たるわ」・「ハテ小はだ小平次であろう」と云う会話は、この前の市村座での興行で大当たりした「彩入御伽草」(いろえいりおとぎぞうし)の主人公・小幡小平次の名前を当て込んでいます。この場は思い切り世話に処理すれば、南北らしい愉しい場面に出来るでしょうねえ。幕切れ・陣中に忍び入った福島平馬が落とした赤旗に書かれた五文字から、久吉は光秀の意図を読み取ります。「平末水本生」を「タイラの末、ミナモト生ず」と読めば、小田家は平家、源氏の正統土岐伯耆守・その末裔は武智光秀・・・「はてな」と久吉は唸り、劇中では匂わせるだけで解は語りません。光秀の謀反の意図が観客に明らかとなるのは、その後の場(愛宕山連歌)でのことです
様式不明の「馬盥の光秀」の問題を解決するために、小池章太郎先生は、「山崎陣中」を復活し、これを現行の場割り(饗応・本能寺・愛宕山連歌)三場の、饗応・本能寺の間に挿入して、四場の通し狂言に仕立て、色合いのバランスを取った上演をするならば(これは当然ですが現行三場をかぶきの様式に戻すと云うことです)、活歴臭がそこに入り込む余地がなくなるだろうと提言しています。(小池章太郎・「南北十二選・2」・「演劇界」昭和55年2月号)創元社の名作歌舞伎全集の鶴屋南北の巻に、現在上演されない「山崎陣中」が収録されているのも、同じような監修者の考えに拠るのだろうと思います。現行歌舞伎の状況ではこれは実現されることはないでしょうが、しかし、そのことを差し置いても、明治以前の・化政期の歌舞伎の「馬盥の光秀」の感触を想像してみることは、決して無駄なことではないと思います。
もっとも小池先生が「「山崎陣中」と現行三場の色合いのバランスを取った通し狂言に仕立てる」と云う提言は、これは言うは易しだけれど、具体的にどうすれば色合いのバランスが取れるのかは、かなり難しいことになりそうです。「愛宕山連歌」の場面は「忠臣蔵」四段目の段取りを借りていることが明らかです。例えば上使の前で浅黄上下の切腹姿に着替えること、文台を差し出す皐月が夫の面前から立ち去りかねるのを叱って去らせる件、腹切刀を手に作兵衛の知らせをひたすら待つ件などです。とすると、この辺りは観客に「忠臣蔵」を連想させるように時代にやることが意図されているでしょうか。それは兎も角、「山崎陣中」を含む四場通しを踏まえ、光秀の性根を考察すると、どうやら次のようなことが言えそうです。
現行(饗応・本能寺・愛宕山連歌)三場の場割りであると、光秀が春永にブチ切れて謀反を決意するのは、第二場・本能寺の幕切れ・花道上の光秀の退出の時点だと見るのが普通だと思います。しかし、「山崎陣中」を踏まえて考えれば、光秀謀反の兆候は、すでに「饗応」の時点(つまり鉄扇の辱めを受けた後)にあったことが明らかです。江戸期には「源平交代史観」と云って、源氏と平家が交互に政権を担うと云う歴史観がありました。つまり光秀は源氏正統の流れであり・天下を獲って周囲を納得させる裏付け(血筋・と云うか家の格)があったのです。事の発端は個人的な怨恨であったとしても、この裏付けがあるからこそ、光秀は謀反を決意出来るわけです。これが「馬盥の光秀」の時代構造だということです。
現行三場の場割りでは、光秀は春永から虐めを一方的に受け続けたあげく・遂にブチ切れてしまって・謀反へと追い込まれる被害者の如く見えます。もちろん光秀は辛抱に辛抱を重ねますが、現行三場であると、光秀の辛抱の根拠が薄弱に見えると思います。歌舞伎の「辛抱立役」と云う役どころは、単に辛抱するからそう呼ぶのではないでしょう。「今に見ていろ・目にもの見せてやる」と云う根拠と自信が彼になければ、彼は決して耐えることは出来ないし、それがあるからこその「辛抱」です。「屈辱に耐える彼の姿は本当の彼の姿ではない・彼の本当の姿は別のところにある」ということが辛抱立役の本質です。つまり吉之助が「やつし」の芸において・「そのみすぼらしい姿は彼の本当の姿ではない」と云うことが本質であるのと、これはまったく同じことなのです。つまり辛抱立役も、まさに「かぶき的心情」の芸なのです。(やつしの芸については、別稿「曽我狂言のやつしと予祝性」あるいは「和事芸の起源」を参考にしてください。)
一方、「山崎陣中」を含む四場通しで考えるならば、光秀は「今に見ていろ・俺はいつでもお前に取って替わって天下を獲ることが出来る器だ」と肚の底で思っていて、だから春永の執拗な虐めにも耐えられるのです。しかし、本能寺での妻皐月の切り髪の件で辱められて光秀は遂にキレます。光秀は「かぶき者の論理」において怒るのです。この時光秀が肚の底に秘めていた「革命志向」がムクムクと動き始めます。五代目幸四郎(いわずと知れた実悪の名人)が演じた初演の光秀は、このような骨太い時代物の辛抱立役であったと吉之助は想像をします。(この稿つづく)
(R3・4・1)
今回(令和3年3月国立劇場)の「馬盥の光秀」ですが、活歴っぽいと云うか・歴史劇っぽい感触でありますねえ。前述した通り、世間がこれを「歴史劇」であると見なしたことで、「馬盥の光秀」は歌舞伎のレパートリーとしてしぶとく生き残ったわけです。それはそれでまあ良いとしても、この場合に大事なことは、光秀が主殺しに動いた動機は何か?と云うことではなく、背後に在る「理性の狡智」が感知されねばならないと云うことです。それが光秀と云う存在を実際以上に大きく見せているものだからです。おかげで骨太い歴史劇が出来上がるのです。この構図を、今回の菊之助の光秀が現出できているか?と云うことが焦点になるでしょう。
光秀は、癇癪持ちの主人春永から、現代の我々から見れば・これはパワー・ハラスメントの虐めとしか思えない扱いを受けています。次第に怒りが蓄積して来るが、光秀はそれでも我慢を重ねます。しかし、妻皐月の切り髪の件を持ち出されて、怒りがついに臨界点に達します。こうして光秀が主人を討つことを決意するに至るまでの経緯を、監修の岳父・吉右衛門の教えを受けて、菊之助はきっちり演じています。本能寺・幕切れで、光秀が妻の切り髪が入った箱を抱え花道を引っ込む演技も、怒りの形相をはっきりと見せて、菊之助はしっかり勤めます。「なるほどこれだけやられりゃあ、そりゃ怒って当然だよな」と観客は十分納得するでしょう。裁判官も「光秀の主殺しは春永の度重なる虐めが原因であった」と判定するでしょう。ただしこれだけだと、怒りのプロセスが単純過ぎて、芝居がアッサリした感触になって不満が残ります。光秀が怒る理由が論理的に理解出来ても、「でも結局アンタは我慢が足りなかったんだヨ」と言われる余地がまだ残って、光秀の怒りを観客が共有するまでに至りません。観客が光秀に思い入れして、「ここまでされてどうして怒らないんだ、光秀、怒れ・怒れ」と自分のことのように思い、「愛宕山」幕切れで光秀が上使を斬り倒して高笑いするシーンを見て観客が「やったぜ、いよいよ主討ちだ」と快哉を叫ぶならば、芝居は俄然面白くなります。そうなるためには、別の回路が必要になります。それで芝居は「かぶき」になるのでしょう。
ところで前述の通り、歴史学では、本能寺の変を引き起こした明智光秀にはっきりした動機を特定出来ていないわけです。あれほどの大事件なのに「はっきりした動機がわからない」と云うのが、モヤモヤして・非常に困ります。話が変るようですが、例えば「伊勢音頭」の福岡貢のモデルとなった町医者孫福斎(まごふくいつき)の、伊勢神宮のお膝元・古市遊郭での十人斬りの大騒動にも、同じことが言えます。別稿「伊勢音頭の十人斬りを考える」を参照ください。斎は何に怒ったのか、誰にも分からない。「何かにとても怒ったらしいが、そこまで怒るまっとうな理由が見つからない(きっとドでかい何かがあるに違いない)」と云う疑問が、人々をモヤモヤと厭な気分にします。そして「何だか分からないが、兎に角、コイツはすごく怒っている」と云う事実が、観客のモヤモヤした気分に火を付けます。「俺は今猛烈に怒っているんだゾウ」と叫びながら、斎はただ闇雲に刀を振り回します。それは理不尽に怒りを発する「荒ぶる神」の荒れを人々に想起させます。斎が何かの怨念を背負っているように見えるのです。これが吉之助の「伊勢音頭」の民俗学的理解ですが、同じ回路が明智光秀にも適用出来ると思います。あれほどの大事件を引き起こしたからには、明智光秀の動機は、それに相応しい・ドでかいものに違いない。時は天正10年(1582)、もう江戸期がすぐそこまでに迫っている時の出来事で、文献やら証言・史料が豊富なはずの・この時代に、理不尽に怒りを発する「荒ぶる神」の荒れなどと、トンでもないことです。それでもそう云う風に見えて来るのです。
ご承知の通り、歌舞伎は、数々の歴史の謎を芝居のなかで取り上げて来ました。「どうして日本一の豪の者と云われた熊谷直実が須磨浦で平敦盛を討ったことで出家したのか(熊谷陣屋)」、「どうして斎藤実盛は篠原の戦いで自らの髪を黒く染めて出陣して討たれたのか(実盛物語)」、「どうして謡曲「船弁慶」に知盛の幽霊が登場するのか(義経千本桜・大物浦)」など、これらは歴史の謎の絵解きであり、江戸町人の明晰・かつ健全な歴史感覚の所産であると云うべきです。もちろん化政期の鶴屋南北にも、この感覚があります。ですから戯作者としてのセンスで南北が本能寺の事件を絵解きするならば、キーワードは光秀が肚の底に秘めている「革命志向」です。「今に見ていろ・目にもの見せてやる」と云う根拠と自信があってこそ、光秀は春永の仕打ちに耐えることが出来るのです。「屈辱に耐える彼の姿は本当の彼の姿ではない・彼の本当の姿は別のところにある」ということが辛抱立役の本質です。これで「馬盥の光秀」を「かぶき」のドラマに仕立てることが出来ます。
明治期の九代目団十郎が「馬盥の光秀」を演じて大評判を取ったことは、前述しました。饗応と本能寺の幕切れがどちらも光秀の花道引っ込みで終わって「付く」というので、団十郎はしばしば饗応を省いて演じたそうです。吉之助は饗応の場を省くことは良くないと考えますが、ここで吉之助が言いたいのはそういうことではありません。団十郎が本能寺・愛宕山連歌の二場構成であっても、居並ぶ好事家を唸らせたことです。この時代の団十郎の舞台が活歴の影響を全然受けなかったはずはありません(熊谷陣屋を見てもそのことは明らかです)が、篁村は「今は道楽(活歴)を見合わせて、元の俳優となしてのお勤め、イヨ有難い」と褒めました。この証言で分かることは、団十郎の光秀は「かぶき」の光秀であったと云うことです。肝心なことは、光秀の「肚」(はら)です。光秀の肚が決っていれば「かぶき」の光秀になる、団十郎の光秀はそのような光秀であったに違いない。
それでは「かぶき」の光秀の肚はどうやって決まるのかと云うと、それは「屈辱に耐える彼の姿は本当の彼の姿ではない・彼の本当の姿は別のところにある」と云う、「かぶき」の伝統の辛抱立役の本質にあるわけです。これを基にして南北は化政期の戯作者のセンスとして、「今に見ていろ・目にもの見せてやる」と云う「革命志向」を注入して、「馬盥の光秀」を書いたということです。ですから光秀の肚が「かぶき」のロジックの上に立つならば、何も廃絶した「山崎陣中」を復活して四場通しにしなくたって、例え中途半端な本能寺・愛宕山連歌の二場構成であっても、「馬盥の光秀」はちゃんと「かぶき」に出来るのです。しかも「理性の狡智」が立って歴史劇にもなるということではないでしょうかね。九代目団十郎が創った「熊谷陣屋」の型の舞台を見れば、このことはお分かりになるはずです。(別稿「熊谷陣屋の時代物の構造」をご参照ください。)
(R3・4・6)
菊之助は近年髪結新三や関兵衛や知盛などいろんな役に挑戦して、それなりの成果を挙げてきました。それは菊之助がどの役においても、役と素直に正対しているからでしょう。今回光秀を演ると聞いた時も、大いに驚きました。菊之助の光秀は、春永に対する怒りが溜まって・限界に達し・遂に主殺しを決意するに至るプロセスを克明に描いて、この点に如才はありません。そこは岳父・吉右衛門の教えた通りに出来ています。しかし、これは光秀が怒った理由を観客が頭で理解出来たということであって、心情的に共感出来たと云うところまでには至っていません。菊之助の光秀は、「かぶき」の時代物の大役のどっしりした重みと粘りが不足し、どうしても軽量に見えてしまうきらいがあります。観客が「ここまでされてどうして怒らないんだ、光秀、怒れ・怒れ」と自分のことのように怒り、「愛宕山」幕切れで光秀が高笑いするのを見て観客が「やったぜ、いよいよ主討ちだ」と快哉を叫ぶならば、「馬盥の光秀」は「かぶき」になります。そのために何が必要なのかをよく考えて欲しいのです。
ここは「肚(はら)」の問題であると心得えて欲しいと思います。光秀の肚が決っていれば「かぶき」の光秀になるのです。それでは「かぶきの肚」とはどういうことかといえば、光秀なら光秀という・ひとつの役の性根ばかりを考えていては駄目だと云うことです。「どういう経緯で光秀が怒ったか」と云うことは役を考える上でもちろん大事なことです。しかし、これではその経験は、光秀という役だけにしか適用出来ないことになります。もっと大掴みに役の本質(と云うかドラマの本質)を捉えることです。その時、役者がその人生と経験を賭けて培って来たもの、人生観の深さというか、その役者の器の大きさが問われることになるのです。そういうところから生まれるのが、「肚」です。
例えば、このように考えてもらいたいのです。菊之助は「伊勢音頭」の福岡貢や「忠臣蔵」の塩治判官を演じた経験があるはずです。この経験のなかに「馬盥の光秀」を含めて、じっと怒りを貯め込んで・遂に堪忍袋の緒が切れて刃傷沙汰に至る「かぶき」の伝統の辛抱立役の本質を大きく捉えてもらいたいのです。すなわち伝統の「かぶき」の、理不尽に怒りを発する「荒ぶる神」のイメージを自分のなかに取り込むことです。そうすることで光秀という役の理解はその役だけにしか適用できない・薄っぺらいものではなく、もっと厚みのあるものになるのです。こうして形成されるのが、役の肚です。前項で「愛宕山」の場面は「忠臣蔵・四段目」の設定を拝借していることを指摘しました。あれを南北お得意の「忠臣蔵」のパロディだと考えてしまうのは、大きな間違いです。もっと深い・深層的なところで、南北は光秀に判官の怨念を重ねているのです。