十代目幸四郎が進む道〜十代目幸四郎の伊左衛門・再演
平成31年1月歌舞伎座:「廓文章」
十代目松本幸四郎(藤屋伊左衛門)、二代目中村七之助(扇屋夕霧)
幸四郎の伊左衛門は、昨年(平成30年)4月御園座所演が初役でした。この時の幸四郎は動きがヒョコタンして 、コミカルさで笑いを取ろうとしている印象で、如何にも型が未消化でした。しかし、さすがに再演の今回(平成31年1月歌舞伎座)は動きが改善されて、だいぶ良くなってはいます。まずはそのことを認めたうえで、これから幸四郎が伊左衛門のような和事あるいは、同月の「太功記」の十次郎のような 若衆を、どのように演じればよいか、今後の方向を考えたいのです。
なぜならば幸四郎は多分これからの歌舞伎でその方面の役を多く演じることが期待されていると思うからです。優美で柔らかい印象の色男の類です。他方、代々の「幸四郎」と云う芸名が背負う重い時代物や実悪の役どころを演じなければなりません。昨年の一連の襲名興行での披露演目を見ても、本人にも決意があるでしょう。つまり印象的に相反する芸道二筋道を幸四郎は進まねばならないわけですが、その仕分けはうまく出来るのかと云うことです。そう簡単なことではないと思います。
弁慶や熊谷と、伊左衛門のどちらか一方を選べと迫られれば、弁慶や熊谷を選ばねばならぬのは、「幸四郎」として当然だと思います。これは本人だってそう思っているに違いない。ならば弁慶や熊谷を本役とする「幸四郎」 に相応しい伊左衛門の設計図というものを持たねばなりません。骨太いシリアスな「実事」の要素に共通項を置くことです。そこが曖昧であると、死守すべき弁慶や熊谷の方まで中途半端になってしまいます。ふたつを要領よく仕分けようと思わないことです。人間はそう器用ではないのです。そこで今月(平成31年1月)歌舞伎座で演じている伊左衛門ですが、良く云えば優美ということでしょうが、描線がヒョロ〜ッとしてひ弱い。本人はあれで良しとしているのでしょうか。役の出来の良い悪いを云うのではない。「幸四郎」が演じる伊左衛門として良いのかと云うのです。幸四郎が「廓文章」初演に当たり、上方型を選ばずに、ジャラジャラを極力排した六代目菊五郎型を選んだと聞いた時に吉之助は「幸四郎は分かっているのだな」と思ったのです。しかし、実際に舞台で見た伊左衛門はジャラジャラで脆弱な印象が強いもので、とてもガッカリしました。上方和事の芸をつっころばしの線で表層的に理解しているように思われます。柔らかさと云うことを、弱々しさ・或は頼りなさのイメージで捉えている。上方和事に対する世間的な思い込みが背景にあると思いますが、これは良くないことです。将来の「幸四郎」にとって決して良い作用はしないと断言しておきます。
話が横に跳ぶようですが、昨年(平成30年)2月の幸四郎の大蔵卿は、「俺が阿呆を装うのは、もちろん信念があってのことだけだけど、このポーズを取り続けるのは俺にとっても結構辛いんだよ」と云うところを見せて、これはこれとして悪くない出来でした。ところが今月(平成31年1月)歌舞伎座での父上・白鸚が演じた大蔵卿は、その遥か上を行く大蔵卿でしたねえ。大蔵卿の見顕わしは、まるで高綱物語(鎌倉三代記)を見る気分がしました。どちらかと云えば技巧的な役とされている大蔵卿が、ずっしり骨太い時代物の役に見えました。「高麗屋の大蔵卿を見せるなら、俺ならばこうやるけどね」と云うところをさりげなく見せ付けられた気がして、吉之助もちょっと驚きました。この「衝撃」を幸四郎にも感じて欲しいわけです。ここに「幸四郎」が伊左衛門を演じる時の示唆(ヒント)があります。だから「幸四郎」ならではの骨太い伊左衛門を演じれば良いのです。自分の方に役を引き寄せて、それで和事の本質をがっちり掴むことだって出来るのです。これならば弁慶や熊谷を演じる時にも決して狂いは生じません。
東京の役者である六代目菊五郎が上方の代表的演目「廓文章」を取り上げて新演出した意図も、そこにあったと思います。ちなみに菊五郎は弁慶は演じましたが、熊谷は演じていません。江戸前の世話物を得意とした立役の菊五郎が伊左衛門を演じるに当たっては、菊五郎なりの設計図があったに違いない。そこを読み取るべきなのです。菊五郎の娘婿でありその芸を継承した十七代目勘三郎の伊左衛門の舞台は、吉之助はもちろん見ました。幸い映像が遺されてもいます。勘三郎の伊左衛門については、その両方の舞台を見た古老からも「菊五郎のよりも面白い」という評言が結構ありました。このことは吉之助にも理解出来ますが、それは多分、勘三郎持前の愛嬌や上方味(勘三郎はもしほ時代に大阪での修業を経験しています)から来ています。だからそのような要素を勘三郎の伊左衛門から差し引いて考えれば、菊五郎の伊左衛門がどのようなものか想像でき ます。
(勘三郎と比べれば面白くない)菊五郎の伊左衛門の良さとは、どんなものかと想像してみます。ジャラジャラ滑稽な要素を最小限に抑えて、優柔不断でお頭の弱そうな伊左衛門の印象も抑える。つまり意図的に面白くないものにしたとも云えそうです。(多分東京人である菊五郎は上方歌舞伎のそういうところが、好きではなかったと思います。)はんなりとした柔らかさの陰にシリアスさ(或は強さ)が隠れています。夕霧に対する情は深いのだが、その思いのあまりの深さゆえに行動はなかなか明確な形を成せずに、伊左衛門はしばし思い留まるのです。感情は直情的に迸(ほとばし)ることがありません。それは曲げて捻った形で出て来ます。(江戸の荒事ならば、ここが真逆になるわけです。)だから性格が柔らかいように見えるわけですが、実は外見の柔らかさと感情の強さは表裏一体となる、これが和事なのです。(これについては別稿「和事芸の起源」、「和事芸の多面性」が参考になります。)以上のことを応用すれば、これは和事ではないですが、「太功記」の十次郎も無理なく出来ると思います。ですから伊左衛門にしても十次郎にしても、優美さや柔らかさはそれは素材それ自体からじわっと浸み出す甘味のようなものと考えた方が良いです。役の本質的な性根を、その思いの強さに置くべきなのです。(別稿「十次郎の性根について」をご参照ください。)
幸四郎が伊左衛門を構築するに当たっては、七代目梅幸の芸を参考にすることをお勧めします。梅幸は「廓文章」では夕霧を演じて、伊左衛門を演じませんでした。しかし、養父・菊五郎の傍にあって菊五郎の芸の在り方を最も素直に継承したのが、梅幸であったと思います。だから梅幸の方法論を用いて、菊五郎の伊左衛門を類推出来ます。改めて申すまでもなく、梅幸は六代目歌右衛門と並ぶ戦後歌舞伎を代表する名女形でした。その梅幸が得意にした数々の立役、例えば敦盛(組打)、塩治判官(忠臣蔵)、桜丸(賀の祝)、虎蔵(菊畑)、権八(鈴ヶ森)、十次郎(太功記)、維盛(鮓屋)、勝頼(廿四孝)など、これらは軒並み幸四郎の役と重なってくることはお分かりの通りです。
梅幸のこれらの役がずば抜けていたのは、優美さや柔らかさのなかに強さをしっかり保持していたことでした。普通女形がこれらの立役を演じれば、確かに優美な印象にはなります。しかし、どこかにナヨッとしたひ弱さ・女形臭さが出てしまって、違和感を感じさせることが少なくありません。梅幸は、そのようなところがまったくありませんでした。「優美で柔らかく見えてるから、それでいいじゃないか」みたいな妥協したところが一切ありませんでした。梅幸は性根に持つべきところは「思いの強さ」だというところを明確に持っており、女形臭さを感じさせず、しっかり「男」になっていました。
吉之助が、幸四郎に梅幸の芸を学んで欲しいと思うのは、そこのところです。「もし梅幸が伊左衛門を演じていればればどんな風だっただろうか」と考えることが、とても役に立つのです。幸四郎の伊左衛門や十次郎は優美ではあるが、ナヨッとして印象が脆弱です。女形でもないのにねえ。これはおかしなことだと気が付いて欲しいのです。つまり性根の置き方が間違っているということなのです。逆に考えるならば、これらの役の本質がどこにあるか、一目瞭然で分かると思います。大事なことは、「思いの強さ」ということです。その大事な点が幸四郎に分かれば、伊左衛門をやりながら同時に弁慶や熊谷を追う二筋道の算段が、どうにか付くはずです。ふたつを仕分けようと思わないことです。「強さ」のキーワードで役を自分の方に引き寄せて演じる、「幸四郎」ならではの骨太くシリアスな伊左衛門 や十次郎を構築すべきなのです。これが出来れば幸四郎が演じる立役全体の印象が変わって来るはずです。
今回(平成31年1月歌舞伎座)「廓文章」の伊左衛門で気が付いたことをちょっと書くと、台詞が高調子に過ぎて、滑稽さを志向していると聞こえます。もともと幸四郎の地声は低めなのですから、清元に合わせてもっと調子を落としても無理がないはずです。これで台詞のシリアスさがグッと増します。(このことは義太夫狂言である十次郎でも同様です。下座音楽が作る トーンにもっと寄り添う必要があります。)動きはヒョコタンした肩の上下動が、初演の時よりはだいぶ改善されていますが、コミカルな動きはもっと抑えても良い。伊左衛門はつっころばしではないのです。そのような和事=つっころばしのイメージは、もう少し時代が下った歌舞伎が心情を共有できない初代藤十郎の和事芸の表層的理解から来る誤解です。近松物の和事の役は、心情を熱くシリアスに描かねばなりません。(別稿「十代目幸四郎襲名の伊左衛門」をご参照ください。)
(H31・1・20)