芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント
「日本舞踊Xオーケストラ」公演(東京文化会館)
第1回:2012年12月7日公演:「ロミオとジュリエット」、「ペトルーシュカ」、「牧神の午後」(花柳寿輔・五代目井上八千代出演)、「レ・シルフィード」、「ボレロ」(野村萬斎出演)
第2回:2013年10月3日公演:「ペトルーシュカ」、「展覧会の絵〜清姫」、「プレリュード〜沈める寺」(花柳寿輔・五代目坂東玉三郎出演)、「ボレロ」
1)芝居と踊りと
本稿は歌舞伎と踊りの関係を逍遥しながら考えるもので、結論めいたものは出ませんが、まあ雑談と思ってお読みいただきたい。歌舞伎という語に「舞」という字が入っていることでも分かる通り、歌舞伎と踊りは関係が深いということは、今更云うまでもありません。役者の修行のなかでも舞踊の習得は大事なこととされており、実際、踊りと関係ない場面においても役者の何気ない身のこなしに、舞踊の修練のあるなしがはっきりと見えたりするものです。しかし、折口信夫が「歌舞妓とをどりと」(昭和14年6月)という文章のなかでこんなことを書いていたので、吉之助はホウと思ったのです。
『(六代目)菊五郎などはあれだけを歌舞妓に専念したら、どんな役者になったらうか。あの人気の源になつている踊りは、あの人の芸を触んでいるものだと言うことに気がつかない筈はないと思ふのだが。又(七代目)三津五郎に踊りが出来なかつたら、あの特殊な顔を以つて、もっと役者としての大をなしているだらうに。踊りのために、実に其れだけの役者と謂つた形になつて終わつている。此ほどあの人にとつて気の毒なことはない。(中略)歌舞妓が、歌舞妓発生時代から劇的要素を自由に伸ばさないやうにさした踊りと、平行しているのがいけないのだ。そして歌舞妓芝居の景気の悪い時は、踊りでつなぐと言ふことが、いつも行はれるが、これは歌舞妓そのものから言つて悲しむべきことであるし、又踊りから言つても喜ぶべきことでない。歌舞妓と踊りは別個のものとして進んで行かなくては、どうしてもいけないだらう。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)
多分、この折口の意見には首肯せぬ方が多いだろうと思います。歌舞伎役者にとって踊りは大事な要素だと考えるのが、普通の考え方であるからです。まして昭和14年当時の菊五郎・三津五郎と云えば、伝説の踊りの神様の全盛期と云うべき時代であって、役者としての彼らの魅力のかなりの部分を踊りが占めていると感じていた観客がほとんどだったはずです。折口の直弟子であった戸板康二がこの文章を読んでどう感じたかということは、吉之助には大変気になるところですが、残念ながら分かりません。ただ戸板のバランスの取れた客観性に重きを置いた歌舞伎評論は、一見すると折口の影響をあまり感じさせないものです。これは決して戸板を貶めているわけではなく、深いところではもちろん通じているのですが、戸板は折口から意識的に距離を置いて客観的なところでこれを 吸収しようとしていたように思います。むしろ吉之助の評論の方が、ずっと折口かぶれしています。多分、折口と吉之助は思考回路がどことなく似ているのです。だから折口の芸能分野での或る部分は、吉之助が継承していると思っています。折口が言いたいことは吉之助にはよく分かります。ホウ折口も同じようなことを考えていたんだねえと嬉しくなりました。
折口が言いたいことは、こういうことです。まず歌舞伎というものは、能狂言でも同じですが、物真似芸に発し、その本義は写実に根ざすものです。それに対して踊りというものは、表現ベクトルが反写実の方に向く。だから歌舞伎が写実の本義を貫き通 してドラマ性を追求して行こうとするなら、歌舞伎は踊りの要素を当然振り捨てて行かねばならないということです。しかし、もちろん折口は分かって書いているのであって、結果として歌舞伎が写実を本義としつつも・そのような反写実の要素(踊り)を平行させつつ推移したことに、歌舞伎の特質を見てもいるのです。以上のことを契機にして、歌舞伎と踊りの関係をちょっと考えてみます。(この稿つづく)
(H26・9・14)
2)日本舞踊と劇的要素
日本舞踊には役者の踊りと舞踊家の踊りがあると言いますが、もともと日本舞踊は歌舞伎役者が踊ったものが中心になって形成されてきたものですから、本家は役者の踊りの方なのです。今日の日本舞踊の流派 の多くは、もと役者か、あるいは座付の振付師などの家柄から出たもので、いずれにせよ芝居から発しました。(江戸期の芝居とは、もちろん歌舞伎のことです。)日本舞踊と芝居との関係は、互いが切り離せないくらい深いものです。また「勧進帳」・「関の扉」のようなものは、役者としての修練なくては出来ぬもので、舞踊の技術だけではどうにもなりません。郡司正勝も、
『日本舞踊家は、かぶき役者の舞踊とは違った領域を開拓、獲得しない限り、その独立は求められないのではなかろうか。役者が追いつかれぬ領域を開拓するに至ってはじめて日本舞踊は自由になることができよう』(郡司正勝:「役者の踊と舞踊家の踊」・昭和55年「演劇界」増刊・「舞踊名作案内)
と書いています。舞踊が芝居から離れて独自の道を歩んだ方が良いということは、折口も同様なことを言っていますが、これは何となく理解出来ると思います。舞踊家の踊りは、新作物を別にすれば、古典においては劇的要素の弱い「変化舞踊」(江戸後期のもの)においてその実力を発揮することが多いということも、頷けるところです。純粋に踊りの技術で勝負が出来るからです。明治期には坪内逍遥らによって、日本舞踊を世界芸術の水準に高めようということで「新舞踊」という試みが行われたことがありますが、そういうことも段々行われなくなり、現状においては、舞踊家の踊りは、家元制度とかいつくかの要因があって、思い切った試みが出来ずにいるようです。
ここからは吉之助の推論になりますが、日本舞踊が芝居からどうして離れられないかと云えば、多分その理由は劇的要素(ストーリー性と言い換えても良いと思いますが)のあるなしに拠るのであろうと、とりあえず仮定をしてみます。それが芸術性とか云うものに繋がるのだろうと思いますが、それを言えば西洋のバレエだって劇的要素を当然持っているわけです。そう考えてみると、日本舞踊が舞踊として純粋に踊りとしての展開をしないということに、吉之助はもうひとつ別の要因を考えてみたいのですね。それは日本舞踊の背景音楽としての邦楽が歌詞を伴っているということです。
邦楽というのは義太夫にしても長唄・清元にしても声楽であって、常に歌詞を伴っています。純粋器楽というものは尺八とか琴の曲とか邦楽にないわけではありませんが、日本舞踊の背景音楽としての邦楽は どれも歌詞を伴っています。振りというのは、「風流」の転訛語で、それは文芸的な主題性を持つ舞踊・つまり劇的要素を持つ舞踊のことを言います。日本の舞踊は、どれも歌詞を伴っていますから、すべて風流だと言えます。その逆が西洋のバレエで、現代バレエでは声楽を伴うものも多く作られていますが、基本的にはその背景音楽は純粋器楽です。このことは「歌舞伎素人講釈」の最初期の論考「沈黙の言語」(2001年のネット登場時にアップした最初の記事のひとつです)から、実は吉之助にはずっと引っ掛かっている問題でした。この記事は昭和57年10月に来日したベルギー二十世紀バレエ団公演「エロス・タナトス」の舞台についての随想ですが、そのなかで吉之助は、「バレエ音楽として声楽入りの音楽を使うのはバレエの本義にもとるのではないか」ということを書きました。例えば「死者がわたしに語りかけるもの」では、マーラーの歌曲「トランペットが美しく鳴り響くところ」が使用されていますが、声楽を背景にして踊る時、踊り手の肉体は沈黙の言語で語ることを止めてしまっているように感じる。あるいはバレエが本来表現すべきはずの沈黙の言語が生者の言語でかき消されてしまっていると感じるということです。現代バレエの振付師のなかでもモーリス・ベジャールは声楽の使用頻度が高い、またいろんな曲を組み合わせてストーリー性・テーマ性を持つ集合体を制作することが多かったと思います。その意味でベジャールは現代バレエの振付師のなかでもちょっと 特異な存在だったかなと思います。
この考察を踏まえてみるに、日本の舞踊はどれも歌詞を伴っているからすべて風流であるということは、日本舞踊は生者の言語に頼り過ぎるきらいがあり、つまり踊りの内容・情感が歌詞で説明されてしまう分、 純粋な肉体表現としての舞踊の追求という意識が弱くなるのかな(踊り手にも観客についても云える)・・というのが、吉之助の推論です。ご異論もありましょうが、ここはあくまで吉之助の仮説ということで、お許しをいただきたい。(この稿つづく)
(H26・9・19)
3)歌舞伎と踊りとの関係
翻って芝居の方から踊りを見れば、初期の歌舞伎では舞踊は女形の専売とされていました。これはお国かぶきが念仏踊りや狂言小唄を取り入れた「ややこ踊り」で評判を取って以来、歌舞伎のなかで踊りが重要なショー要素であったこともありますが、それ以上に、寛永6年(1629) に江戸幕府によって遊女歌舞伎禁止の禁止・つまり歌舞伎での女優の禁止されたことが大きな要因です。技芸がまだ確立していなかった時代の女形は・演技をさせてしゃべらせると男が見えてどうもいけない。だから芝居では女形は補助的 な役割しか与えられず、綺麗な着物を着せて踊らせることが女形を活かす一番無難な方法でした。そのため立役は舞踊の領域に立ち入ることをしませんでした。それが宝暦期の頃から初代富十郎らによって内輪歩きなど女形の技芸が確立されて、義太夫狂言により女形が声質的に芝居のなかでの安定した位置をやっと見出せるようになって、初めて女形は芝居のなかに積極的な関与が出来るようになります。(これについては別稿「歌舞伎とオペラ」のなかの女形とカストラートの項を参照ください。)
この変化に呼応するような形で、天明期になるとそれまで遠慮していた立役が舞踊の領域に積極的に進出して来ます。「関の扉」・「戻駕」を初演した初代仲蔵がその代表ですが、これは実は女形の技芸の確立とパラレルな現象であったわけです。極論を言えば、それまでの女形は「綺麗綺麗を見せるだけなら踊ってれば良い」というところに押し込められていたのが、芝居のなかに積極的な関与が出来るようになって初めて女形は舞踊中心の活動から解き放たれたということになるでしょう。歌舞伎が写実の本義を貫きドラマ性を追求して行こうとするなら、歌舞伎は踊りの要素を当然振り捨てて行かねばならないはずだと書きましたが、女形芸の歴史を見れば、大まかにその流れが見えるということが言えます。しかし、歌舞伎と踊りの関係が絶たれるということはありませんでした。それは歌舞伎がドラマのなかに音楽的要素を取り込むことで女形の安定的な位置を見出したことから分かる通り、歌舞伎は写実 を本義としながらも技法が反写実な演劇となってしまったということにあります。女形が舞踊から離れ始めたら、今度は逆にその領域に立役が入り込んでいくという流れが、実に興味深いではありませんか。(さらに興味深いことは、芝居の面での初代仲蔵はその後・文化文政期の五代目幸四郎・三代目菊五郎に先立つ歌舞伎の写実化の先駆者であったということです。初代仲蔵が舞踊の領域に進出していったことは、仲蔵が志賀山流(踊りの流派としては最も古いもののひとつ)の八代目家元であり・舞踊が得意であったということだけが理由であるとは思えませんが、このことは別の機会に考えてみたいと思います。)こうして歌舞伎のなかでの舞踊は演目が増えて、ますます隆盛になって行きます。今日の舞台で見られる舞踊のほとんどは天明期以降のものです。だから女形でも立役でも、役者の修行のなかで舞踊の習得が大事なことになるのです。その結果、歌舞伎のドラマツルギーと舞踊のドラマツルギーが本質的なところで重なることになります。ここで芝居と踊りとの間を取り持つものが、実は言葉(歌詞)なのですね。(この稿つづく)
(H26・9・21)
4)日本舞踊Xオーケストラの試み
日本の舞踊はどれも歌詞を伴っている。そこで吉之助は、日本舞踊は生者の言語に頼り過ぎるきらいがあり、踊りの内容・情感が歌詞で説明されてしまう分、純粋な肉体表現としての舞踊の追求という意識が弱くなるという推論をしてみました。そうすると歌詞を伴わない純器楽で日本舞踊をやってみたらどうなるかということが、興味ある疑問として湧いてきます。そのような試みが、これまで全然なかったわけではないようです。例えば大正12年(1923)3月26日から31日まで帝劇で公演された五代目福助主催の羽衣会第2回公演で、メーテルリンクの「マリアマグダレエヌ」からヒントを得て山田耕作が作曲した舞踊交響曲「マグダラのマリア」が山田の指揮の管弦楽・福助の主演(マグダラのマリア)により新舞踊の試みとして上演されました。(別稿「西洋と東洋との出会い」、「山田耕作の長唄交響曲」を参照のこと。)どのような舞台であったかは、よく分かっていません。それにしても福助にせよ・山田耕作にせよ、大正期の文化創造の意欲は凄いものがあったのだなあと驚きます。このような実験的試み がされたこともあったのですが、その後の日本舞踊の大きな流れにはならなかったようです。
ところで最近「日本舞踊Xオーケストラ」という題名で、花柳寿輔を中心とした日本舞踊の面々により生(なま)管弦楽の洋楽で日本舞踊を試みようという企画が行われて、大変話題となりました。ETVでも録画が放送されましたので、ご覧になった方も多いと思います。最初は2012年12月7日に、同様な企画が2013年10月3日に も行われました。また本年も12月13日(いずれも東京文化会館)に予定がされています。そこで、その映像を見ながら、歌詞を伴わない日本舞踊とはどんなものか・その成果を考えてみたいと思います。
どの演目も意欲的なもので・それぞれの持ち味があると思いますが、そのなかで吉之助が特に良かったと感じたのは、2012年12月7日公演の「牧神の午後」(花柳寿輔と井上八千代による素踊り、音楽はもちろんドビュッシー)でありました。これは「日本舞踊Xオーケストラ」の企画の打診を受けた時に花柳寿輔の頭のなかに最初に浮かんだ演目だったとご本人が記者会見で語っていましたが、なるほど完成度が高い舞台に仕上がりました。ポイントは素踊りにしたことと、相方に井上流家元・五代目井上八千代を起用したことにあります。踊りの粗筋は原作(うたた寝していた牧神の前にニンフが現れ水浴を始める・それに魅せられた牧神がニンフを誘惑しようとするが・ニンフは逃げる)を踏襲していますが、そのことに強く縛られた感じはありません。和服の素踊りにしたことで原作のイメージに過度に捕らわれることなく、自由な創作に出来ました。吉之助の見るところ、西洋バレエのなぞりではない、自然な日本舞踊に仕上がって素晴らしいと思いました。
バレエ「牧神の午後」初演は1912年5月・パリ・シャトレ劇場で、ニジンスキー振付によるバレエ・リュッスにより行われました。ニジンスキーは伝説的なダンサーで、特に華麗な跳躍を売り物にしましたが、この「牧神の午後」の牧神では得意の跳躍を封じ、すり足のような平面的な動きを多用し、観客を戸惑わせました。その動きにどこか東洋的なものが感じられます。本人の談話に拠れば、花柳寿輔はそこを今回の創作の取っ掛かりとしたようです。しかし、相方に京都地唄舞の井上八千代を起用したのがやはり成功のポイントです。日本舞踊の流派はだいたい歌舞伎から発したものですから、女性の踊りも歌舞伎の女形の動きを取っているものが多い。つまりシナを作って女らしさを出そうとするものが多いのです。シナとは、女らしさという嘘を表現するために、女形という男が作りあげた虚飾の技巧です。井上流は天明期頃に初代が近衛家に仕え、宮中の女官に踊りを教えるのを仕事としたもので、そのような色気で舞うことを井上流は拒否するのです。余計なシナを作らなくても、女が踊ればそれで女舞そのものだという考え方です。武智鉄二が四代目井上八千代の芸に惚れ込んだのも、そこが理由でした。
「日本舞踊Xオーケストラ」の他の演目では、多くの他流派は歌舞伎から発しますから、女形芸を引き継いでおり、女性はシナを作って踊ります。そのことの良さもあり、弱さもあると感じます。吉之助の好みからすると、女の踊り手がシナを作ることで、余計なものが一層まつわり付く感じです。衣装のビラビラした飾りなどもそうです。そういうものが、お節介にも踊りに何か余計なものを付け加えて、踊りをロマンティック・バレエの方向に強く引っ張っています。それで何となく和風バレエという感じになる。(それが良いか悪いかということは、また別の次元の議論です。)一方、「牧神の午後」 の場合は素踊りですから、そういう余計な飾りがありません。小道具は扇子とニンフが持っているヴェールだけ。井上八千代が踊るニンフは、媚びない踊りです。だから女らしさの為の技巧の余計なイメージがまつわり付かず、踊りの振りそのものがシンプルに味わえます。結果として舞台が古典的な印象となり、このことが「牧神の午後」の新古典主義的な本質に通じます。(この稿つづく)
(H26・9・25)
5)リズムに乗せない踊り
「牧神の午後」(2012年12月7日公演)が良かったのは、曲の選択もあったと思います。印象派の「牧神の午後」(ドビュッシー)は、リズムの刻みが前面に出る曲ではないからです。もちろん西洋音楽ですから基調のリズムを持っていますが、ゆったりとしたテンポでリズムの刻みが意識的にぼかされていますから、定間にはまることの少ない日本舞踊は振りが合わせやすいと思います。
そもそも日本舞踊の背景にある音曲(邦楽)は二拍子のものが多い。日本のわらべ歌・例えば「かごめかごめ」や「ひらいたひらいた」などを聞いてもお分かりの通り、日本の伝統音楽の基本リズムは二拍子です。逆に三拍子のものがとても少ないのです。(これについては民族音楽研究の小泉文夫氏の著書「日本の音」が参考になります。)邦楽を背景音楽に持つ日本舞踊の振りは、当然ながら二拍子ということになります。
小泉文夫:日本の音―世界のなかの日本音楽 (平凡社ライブラリー)
武智鉄二は、三拍子は旋回や跳躍を得意とする騎馬民のリズムで、農耕民である日本人のリズムではないということを言っています。ということは、「日本舞踊Xオーケストラ」のような企画でも、ワルツやメヌエットなどの三拍子の曲が出た場合、日本舞踊がこのリズムに無批判的に乗るということはあり得ないのであって、そこに相克・あるいは葛藤とでも云うものが生じるはずである。二拍子のリズムで培ってきた日本舞踊が慣れない三拍子の管弦楽に合わせることで、或る種のズレあるいは「いなし」が出て然るべしということを吉之助は考えます。例えば本来「ナ ム/アミ/ダ」の三拍子を、「ナム/アミ/ダ/ア」とか「ナム/アミ/ダン/ブツ」のように音を増やして四拍子で扱うようなことです。しかし、「日本舞踊Xオーケストラ」の場合、オーケストラにワルツを四拍子でやらせるわけには行きませんから、踊りの振りを三拍子のリズムに意識的に乗せない・あるいは二拍子的に崩すというような、ワルツの二拍子的処理をすべきだろうと吉之助は考えるわけです。
武智鉄二:舞踊の芸 (日本の芸シリーズ)
ところが「日本舞踊Xオーケストラ」での踊りを見ると、みなさんそういうことをあまりお考えではないようである。見事に三拍子の定間のリズムに乗っていらっしゃる。これは彼らも現代人であるから、日常生活のなかではむしろ三拍子の西洋音楽が満ち溢れているのですから、日本舞踊の踊り手も何の違和感もなく三拍子のリズムに乗れるということなのです。しかし、こうなると日本舞踊の特質というのは見失われてしまうと思います。だから和風バレエという感じに見えて来るのです。「日本舞踊Xオーケストラ」の、つまり西洋と日本の、本来在るべき対立関係が見えて来ない。武智が生きていてこれを見れば、そう言うに違いありません。武智理論なんてものは、現場では全然顧みられていないのだなあということを、武智の弟子を自称する吉之助としては改めて寂しく思いますねえ。
例えば「ボレロ」(2012年12月7日と2013年10月3日に、それぞれ違う演出で上演されましたが、どちらにも同じことが言えます)の群舞には、この問題がはっきりと出ています。ラヴェルの「ボレロ」のリズムは冒頭部の小太鼓のリズムを聴くと随分細かいように感じるでしょうが、曲が高揚した部分の金管が刻むリズムを聴けば、その基調のリズムは明確に三拍子なのです。演目のなかで三拍子が最も強烈に 前面に出るものであり、その意味において日本舞踊に最も不向きの演目であろうと思います。しかし、このクライマックスの群舞には、びったりと三拍子で定間の振りが付いています。「一二三一二三・・」という感じで踊っている。吉之助にはこれはとても日本舞踊には思えません。吉之助は、もしかしたらこれは東京バレエ団のメンバーが和服を着て踊っているのかと思って、メンバー表を見直したくらいです。それくらいみなさん三拍子の踊りを見事に踊っています。「こういうことではちょっと困るなあ ・・」と思うわけです。もう少し日本舞踊の特質とは?ということに思いを馳せていただきたいのです。そうでなければ、悪くすると西洋バレエを和服・和風で踊るだけの趣向の奇抜さに終わってしまいかねないと思います。
ただし、2012年12月7日公演の「ボレロ」は野村萬斎が舞台の中心のステージで踊りましたが、狂言の三番叟の踊りをイメージした萬斎の振りだけは、三拍子に乗らないことを意識していたようです。これは狂言舞が三味線音楽とは無縁のせいだろうと思います。さすがと云うべきか、萬斎は三拍子のリズムを「いなす」ことが出来ているし、足拍子もオーケストラのリズムに合わせていないのにも感心しました。高揚した音楽のエネルギーが萬斎の身体に取り込まれていく瞬間がありました。これが正しい「日本舞踊Xオーケストラ」の在り方であろうと、吉之助は思います。(この稿つづく)
(H26・9・27)
6)芝居がかりでない踊り
『我々からすれば、能がかりだとか、芝居がかりでない方が踊りらしい気がする。だから、これでも踊りかと言う気のするものが多くて、踊り自身ですら早くから不純なものになつていたのではないだろうか。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)
歌舞伎は、その発生当初から踊りと強く結びついていました。振事(ふりごと)・所作事と言われるものは、従来の踊りと違った・意味を持った新しい踊りということで、物真似狂言尽しを求めていた女形の地芸の影響を強く受けました。そのなかで踊りは、必然的に劇的要素(ストーリー性)を伴ったものとして発展していきます。
「日本舞踊Xオーケストラ」での踊りを見ると、例えば「ロミオとジュリエット」(2012年12月7日公演)が「妹背山」の雛鳥と久我之助に見立てられ、「展覧会の絵」(2013年10月3日公演)では終曲「キエフの大門」の鐘が「道成寺」の鐘に見立てられています。その見立ての発想は良く理解できますけれど、いささか芝居へ の紐付けが定型に過ぎる感じです。舞踊は芝居がかりにしないといけないみたいな決め込みがあるように思います。この「展覧会の絵」でも、中間部「ブィドロ〜サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ〜リモージュの市場〜カタコンブ」は、振りも変化に富んで自由な発想があってなかなか面白いのに、最後で「キエフの大門」が「道成寺」に紐付きされると急に舞台が重ったるくなるのは残念なことです。確かに筋にオチが付く感じはしますがね。もっと 思い切って芝居がかりから離れて、変化舞踊のような軽みが出せれば面白いかなと思います。
同じようなことが、「プレリュード〜沈める寺」(2013年10月3日公演)にも言えます。ドビュッシーの前奏曲集のうちの四曲(西風の見たもの・亜麻色の髪の乙女・とだえたセレナ―ド・沈める寺)を原曲としていますが、これをオンディ―ヌ伝説(旅人を誘惑する水の精)に見立てて、筋に一貫性を持たせています。これも芝居がかりだと言えます。芝居がかりにすることの意味は、ひとつは「分かりやすさ」でしょう。「ああ、こういう主題の踊りなんだね」ということが分かるということです。逆に云えば観客はそういう予備知識的理解が先に在って、それを取っ掛かりに踊りを読もうとする(見るのではない)ということになるのです。そのことの良さもあり、悪さもあると思います。
ドビュッシーの前奏曲集の曲の配列の意図については、吉之助は今でもああかこうかと考えますが、いまだに謎です。またドビュッシーの曲については題名がヒントになると考えない方が良い、むしろ邪魔になるとさえ思うことがあります。吉之助 には、この四曲をオンディ―ヌの筋で整理した発想に感心するところと、「これで良いのかな」という疑問と、二つの考えが交錯します。しかし、今のところ、この四曲に意味の関連を見ることは、吉之助はあまりしたくない。バラバラで良いと思っています。オンディ―ヌ伝説について云えば、これを甘くやるせない憧れを歌うロマンティックなイメージに取る方は多いと思いますが、19世紀末から20世紀初頭にかけてオンディ―ヌ伝説に取材した文学・絵画・音楽などが頻出することを考え合わせれば、吉之助としてはその発想をドビュッシーにあてるならばもう少しバロック的な方向に見たい。ラヴェルの「夜のガスパール」(第1曲が「オンディ―ヌ」)などの同時代的関連において、四曲の乖離したイメージが味わえる踊りが作れれば良いかなということを考えます。もっと感触を軽くした方が良いように思います。花柳寿輔の振付は、前述の「牧神の午後」と同様に、ドビュッシーの音楽がリズムの刻みが前面に出ないので踊りやすいということがあります。曲の選択は良いのですが、今回の「プレリュード〜沈める寺」の印象は若干ロマンティックの方に傾斜 した感じがします。まあそれが悪いということではないが、つまり、重ったるい方向に向かっています。これはひとつには芝居がかりにしたことと、もうひとつ、共演のオンディ―ヌを玉三郎が踊ったことも影響しているようです。玉三郎は異界の存在である女形の美を垣間見る瞬間も確かにありましたが、全体に和風バレエのようなムード舞踊でした。「日本舞踊Xオーケストラ」における日本と西洋の相克・葛藤なんてものは、ここにはあまり見えませんでしたね。
(H26・10・2)
*続編「続・芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント・2」もご覧ください。