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五代目菊之助と六代目時蔵の「彦山」通し

令和7年1月新国立劇場中劇場:通し狂言「彦山権現誓助剣」

五代目尾上菊之助(毛谷村六助)、六代目中村時蔵(一味斎娘お園)、六代目上村吉弥(一味斎妻お幸)、九代目坂東彦三郎(京極内匠)、初代中村萬太郎(若党友平・立浪家家臣十時伝五)、初代市村橘太郎(若党佐五平)、四代目片岡亀蔵(早川一学・杣斧右衛門)、三代目中村又五郎(吉岡一味斎・明智光秀の亡霊)、初代坂東楽善(立浪主膳正)、七代目尾上菊五郎(真柴大領久吉)

*この原稿は未完です。最新の章はこちら


1)返り討ち狂言としての「彦山」

本稿は令和7年1月初台の新国立劇場中劇場での、通し狂言「彦山権現誓助剣」の観劇随想です。本公演の話題は菊之助が毛谷村の六助・時蔵がお園を共に初役で演じることですが、久しぶりに「彦山」が通しで上演されることも大事なことかと思います。いつもは「毛谷村」だけの上演です(たまに杉坂墓所が付くこともあります)が、こうして通し狂言の体裁になると、筋の全体像が掴めるので大変に有難い。吉之助は巡り合わせが悪くて、昭和57年11月国立劇場で「一味斎屋敷」(仇討出立)が付いた形での半通し(若き日の二代目吉右衛門の六助・七代目菊五郎のお園でした)を見たことはありますが、今回のような通しの形で「彦山」を見るのは初めてです。通し上演は国立劇場のポリシーの根幹にあるものですから、三宅坂の国立劇場建て替えは相当先のことになりそうですが、このポリシーは堅持してもらいたいと思います。

ところで「毛谷村」のように人気狂言だが・見取りでしか知らない芝居を通し狂言で出す場合、現代では原作をそのまま上演することは時間的な制約から困難ですから、筋の適切な刈り込みが必要になります。この時どのような視点で脚本アレンジを行うか、そこで補綴者の哲学・センスが問われます。

「彦山」は仇討ち狂言ですが、全体の骨格を「豊臣鎮西軍記」という豊臣秀吉の九州攻めを描いた写本から借りています。実録と称していますが、フィクションです。毛谷村六助が毛利家の剣術指南・吉岡一味斎の妻と二人の娘を助けて、一味斎を闇討ちにした敵(かたき)京極内匠を見事に討ち果たして、後に喜田孫兵衛という侍に取り立てられたと云うエピソードを描きます。芝居では京極内匠は明智光秀の忘れ形見で・秀吉を恨んでいると云う設定になっていますけれど、これは芝居の「太閤記」の世界を仮託するところから来る作劇の常套手段です。

今回(令和7年1月)国立劇場の上演台本は大筋で上述の骨格を踏まえていますが、どうしても「この場も欲しい・あの場面がないのが惜しい」と云うことになってしまうので、一長一短ですねえ。また新春恒例の菊五郎劇団のお芝居として、御大菊五郎には大事なところで登場して貰わねばならないし、御曹子たちにも活躍の場を与えてやらねばなりませんから、このような脚本になる事情はもちろん重々承知しています。しかし、瓢箪棚で光秀の亡霊が現れると「これは一体何のことだ?」と混乱するし、大詰めの真柴久吉本陣の場では、一応仇討ちの決着は付くにしても・「これはもはや別の芝居であるナア」という気分になるのもむべなるかなです。まあそこはお慰み・エンタテイメントだと割り切らざるを得ない。

もう一つ通し狂言としての筋の通し方があると思います。「毛谷村」のように頻繁に上演される作品の場合、単幕での筋は誰でも知っていますが、見取り上演だと筋がそうなる背景・事情が分からないことも多い、通し狂言に仕立てることで、そのような不明の箇所を説明する、見取り上演だと分からなかったけど、「アアこの筋は前場のここから来てるわけだね」という風に「毛谷村」がますます良く分かる、そうなる様に通し狂言を仕立てる考え方もあると思うのです。

例えば今回上演台本では存在が完全に消されていますが、一味斎の子はお園・お菊の姉妹だけでなくて、ホントは小さい弟・三之丞がいるのです。しかし、三之丞は身体虚弱なうえに目が悪かった。「一味斎屋敷」(仇討出立)の場で、三之丞は仇討行の足手まといになることを悲観して自害して果てます。吉之助は「仇討ち狂言とは、返り討ち狂言である」と云うことを常々申し上げています。三之丞はいわば状況によって返り討ちされた・この仇討ちの最初の犠牲者なのです。(別稿「返り討物の論理」をご参照ください。)このことは「毛谷村」のお園の有名なクドキの詞章のなかに、

『ほんに浮世といひながら、身に憂きことのかくばかり、重(かさな)るものか父上の、敵を願ふ門出に、可哀や弟は盲目の、儘ならぬ身を悔み死に。

とはっきり語られます。今回の時蔵のお園のクドキではやりませんが、役者によっては〽可哀や弟は盲目の・・の箇所で、カラミの両目をお園が背後から両手で目隠しして・目が見えない弟のことを仕草で示したりします。今回の上演では弟がいないことになってますから、上掲クドキの詞章がまったく意味不明になってしまいました。しかし、ホントはこのような箇所の伏線をきっちり描いてこそ通し狂言の意義があると云うものではないでしょうか。これで「毛谷村」の芝居がますます良く分かると云う風に、通し狂言の脚本を仕立てて貰いたいのですがねえ。

実際「彦山」を見れば、これはまさに返り討ちの連続なのです。追っ手がどんどん死んでいく。出立での三之丞の自害を始めとして・須磨浦でのお菊の返り討ち(以上の二人の死は今回上演では描かれない)、瓢箪棚では家来の友平が死に、杉坂墓所では同じく家来の佐五平が死ぬ。毛谷村に辿り着いた時には、もはやお園には男手の助太刀がいない・孤立無援の状況なのです。ここで計らずも剣術の優れた・しかも許婚の六助に出会えたことが・お園にとってどれほど心強いことか、六助を助太刀に得たことで・もはや仇討ちは叶ったも同然だと云うこと、これが返り討ち狂言としての「彦山」の様相と云うことになります。(この稿つづく)

(R7・1・17)


2)返り討ち狂言としての「彦山」・続き

「毛谷村」の幕切れは、明るくて気持ちが良い。六助の人柄のせいか、ゆったり大らかな気分になってしまいそうです。だから「毛谷村」だけを見ると、仇討行の悲惨さと云うことをあまり深刻に感じないでしょう。しかし、「毛谷村」でもそれが全然描かれていないわけではないのです。例えばそれはお園のクドキのなかにチラッと出て来たりします。だから「毛谷村」を通し狂言として出すならば、そこの意味をしっかり裏書きして見せることが大事だと思います。通しで見たら「毛谷村」がますます面白くなると云う感じにして欲しいのです。

一味斎妻お幸とその娘お園が毛谷村に辿り着くまでの長い旅は、まさに「地獄」同然であったのです。六助との出会いから、仇討ちへの道が一気に拓けます。だから「毛谷村」の・あの明るい幕切れは、大願成就の「予祝性」を見せていると云うことです。

予祝性については別稿「吉之助流・仇討ち論」で取り上げました。それは「いつかは敵(かたき)を討ち取ってやる、いつのことかは分からないが・そのことを考えれば目出度い、その目出度きことを思って今はひたすら耐える」という考え方から来るものです。だからこそ「曽我の対面」が正月の目出度き演目になるのです。曽我兄弟は仇敵をその場で討とうとすれば討てるのに、わざと討たないのです。後日に再会を約して別れて、次の時には必ず討つのです。怨念のエネルギーはその時に向けて蓄積されて・更に高められます。「今日のところは生かしておいてやる、おのれ、今に見ておれ」と云うように。こうして曽我兄弟は来るべき宿願の成就を確信します。そこに「対面」の「予祝性」があるのです。

「毛谷村」の明るい幕切れも、同じように予祝性で読みたいと思います。幕切れの詞章は、

『お園はなほも勇み立ち、咲乱れたる紅梅の花の一枝折持って、「ナウ/\わが夫。梶原源太景季は平家の陣に斬入って、誉を上げし箙の梅。これは敵の京極に勝つ色見するこの花の、可愛い男へ寿(ことぶき)」といひつつ抱付きたさも親に遠慮の手をもぢもぢ母も同じく椿の一枝。「本望遂げたその上ですぐに八千代の玉椿、かはらぬ色の花聟殿。いざ」

だから「彦山」全体を見渡すと、仇討ちのドラマは実質的に「毛谷村」で決着すると考えて良いと思います。もうそれは必ず叶うことであるからです。後の場(敵討ち)は予祝性が実現される場ではありますが、いわば付け足し(エピローグ)です。しかし今回(令和7年1月国立劇場)の場合は菊五郎劇団の目出度い初春狂言を兼ねていますから・それを云うのも野暮なんですが、またの機会があるならば、そんな感じで「彦山」通しを仕立てて欲しいものです。

しかし、今回上演脚本は「返り討ち狂言」として見れば・やや不足のところはあるにしても、上演時間の制約のなかで、六助と一味斎との出会い、一味斎殺しと仇討ちへの出立とコンパクトかつスピーディに纏めて、出来る限り「仇討ち狂言」としての全貌を見せようと努力している姿勢は、これは認めて良いと思いますね。瓢箪棚でのお園と京極内匠との一騎打ちもなかなか面白く見ました。(この稿つづく)

(R7・1・19)


 

 

 


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