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内蔵助の「初一念」のこと〜八代目幸四郎の内蔵助

昭和45年12月国立劇場:通し狂言「元禄忠臣蔵」

八代目松本幸四郎(大石内蔵助)、七代目尾上梅幸(瑶泉院・仙石伯耆守二役)、十四代目守田勘弥(羽倉斉宮)、四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(浅野内匠頭長矩・おみの二役)、二代目中村吉右衛門(多門伝八郎・磯貝十郎左衛門二役)、八代目市川中車(堀内伝右衛門)、二代目中村又五郎(小野寺十内・寺坂吉右衛門二役)、七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)(片岡源五右衛門・堀部安兵衛二役)他

(巌谷槇一演出)


1)内蔵助の「心の旅」

本稿は、昭和45年・1970・12月国立劇場での通し狂言「元禄忠臣蔵」の上演映像による観劇随想です。この上演は、国立劇場が前年(昭和44年・1969)12月に初めて真山青果の「元禄忠臣蔵」の通し上演を行なったところ、これがとても好評でお客の入りも良かったので、次もまた視点を変えて別の形で「元禄忠臣蔵」通しを編んでみようと云う企画であったそうです。

元禄赤穂事件の全貌をざっと浚う感じで、松の廊下刃傷(江戸城の刃傷)〜城明け渡し(第二の使者)〜討ち入りまでの苦悩(南部坂雪の別れ)〜吉良邸討ち入り(吉良屋敷裏門・仙石屋敷)〜内蔵助切腹(大石最後の一日)までの経緯をを約5時間の上演時間(休憩含む)で見せようと云う趣向です。しかし、これは「言うは易く・行なうは難し」で、場面選択も難しいし、分量的にも脚本の相当な切り詰めが必要になります。

今回上演映像を原作脚本と細かに見比べていませんが、確かに勘所のシーンは網羅されてるようです。けれども芝居としてコクが薄いことは否めません。幕が開いたと思ったら十数分くらいするともう暗転して次の場に切り替わる、場面展開が忙し過ぎるのです。仇討ちの筋を追ってはいるが、重厚な芝居を観たという腹応えが今ひとつしません。脚本補綴の苦労がつくづく察せられます。

それでは吉之助は何を期待して今回の舞台映像を見たのかと云うと、もちろん戦後昭和歌舞伎の内蔵助役者である八代目幸四郎の演技を見たかったからです。(多分幸四郎の「仙石屋敷」はこの時だけであったと思います。)それと七代目梅幸が青果物に出ることは珍しいと思いますが、梅幸の瑶泉院(南部坂雪の別れ)は見当が付きますけれど、もう一役の仙石伯耆守(仙石屋敷)の方がどんな感じになるかが想像が付きません、こちらの方にも興味がありました。

サテ例によって作品周辺を逍遥したいのですが、内蔵助が主君内匠頭刃傷の報を聞いてから約2年ほど、紆余曲折を経ながら、遂に吉良邸討ち入りを果たし、その後幕府の裁定により切腹するまで、内蔵助の心中に様々な思いが去来したでしょうが、最終的に内蔵助がここまでやり通すことが出来たのは何故なのか、そこのところをを作者真山青果がどのように見たかと云うところが大事であると思います。「元禄忠臣蔵」全十篇を読む時、「青果がどの方向を目指して内蔵助を動かして行くのか」、そこのところをしっかり掴まねばなりません。

ご承知の通り、青果は発端の松の廊下刃傷から時系列を追って作品を書いたのではなく、最初に出来たのは連作の最後に位置する「大石最後の一日」(初演は昭和9年・1934・3月東京劇場)でした。当初青果はこれを連作にする構想はなかったのです。結局、周囲からの勧めもあって連作戯曲の形で創作を続けることになりますが、各篇はそれぞれ単独読み切りの形でバラバラに書かれました。つまり通し上演を意図した形で十編が出来ていません。(晩年の青果の体力的な問題と、二代目左団次の死去により創作は中断しましたが、更に数篇が構想されていました。)しかし、「元禄忠臣蔵」全十篇を貫く一本の芯が必ずあるはずです。それがないと云うことは有り得ません。

「元禄忠臣蔵」の成立経緯を素直に受け取れば、全十篇は紆余曲折しながら筋が流れて行くにしても、最終的にそれらはすべて「大石最後の一日」の結論を目指しながら収束していく、青果はそのように書いたと考えるべきです。「大石最後の一日」の大事な主題は「初一念」です。だから「元禄忠臣蔵」とは、内蔵助が「初一念」をひたすら研ぎ澄ませるための「心の旅」であると考えて良かろうと思います。(この稿つづく)

(R6・12・17)


2)内蔵助の「初一念」とは何か

ところが「元禄忠臣蔵」全十篇は本来単独読み切りの形でバラバラに上演されるものですから、全十篇にそれぞれのドラマの結論が読み取れそうです。これらを時系列で並べて見ると、「青果が描く内蔵助の行動基準に矛盾・というかブレが見える」と云うことを仰る方が少なからずいらっしゃるようです。そこでその言い分をちょっと検証してみたいと思います。

例えば「最後の大評定」(今回上演の場面には含まれません)最終場面で赤穂城引き渡しを終えた内蔵助に、腹を切って絶命寸前の旧友・井関徳兵衛が、内蔵助の本心を知りたいと迫ります。内蔵助は徳兵衛の耳元で、

「(決然として)内蔵助は、天下の御政道に反抗する気だ。」(「最後の大評定」)

と言います。歌舞伎では「或る者が命を捨てて問うならば・問われた者は答えなければならない」という筋がよくあります。上記の場面がまさにそうで、内蔵助はここで本心を吐露したものと思われる、実際「元禄忠臣蔵」のなかで内蔵助がこれほどはっきりモノを言う場面は少ないようです。だから上記の台詞(天下の御政道に反抗する気だ)こそ内蔵助の「初一念」だと読む方は多いと思います。

ところが「仙石屋敷」では大目付仙石伯耆守に対して、内蔵助は「内匠頭家来のうち一人たりとも、その日内匠頭切腹について、不足不満をうったえ出た者はござりませぬ。あくまで公儀の御作法を重んじ、御大法に従い、主人切腹の厳命もありがたくお受けいたし、五万三千石の所領も差し上げ・・」と言い、「我々が四十七人が、こたび御城下を騒がしましたは、ただ内匠頭最後の一念、最後の鬱憤を晴らさんがため」、「その他の御批判、一同迷惑」とまで言っています。ここでは内蔵助の政道批判を一切していません。それでは「天下の御政道に反抗する気だ」と云うのは何だったのしょうか。

「御浜御殿綱豊卿」(これも今回上演の場面には含まれません)最終場面では、甲府宰相徳川綱豊の言を借りますが、「吉良は寿命のうえ、らくらくと畳の上で死んでも、汝ら一同が思慮と判断の限りを尽くせばして、大儀、条理の上にあやまちさえなくば・・・」討ち入りが成功するか失敗するかは問題でないという結論になっています。ここでは「結果が問題じゃないんだ、大事なことは過程(プロセス)だよ」と敵討ちの論理が大義名分みたいなものに化しているようです。

このように「天下の御政道に反抗する気だ」を内蔵助の「初一念」だと考えると、「元禄忠臣蔵」全十篇のなかで青果が描く内蔵助の行動基準にそれぞれの場面で矛盾・というかブレが見える、確かにそのように見えると思います。

そこで吉之助の考えを申し上げますが、青果は作家の信念として「元禄忠臣蔵」に一本筋を通したものを持って書いたはずである、そうであるならば、「元禄忠臣蔵」に矛盾・ブレが見えるということは、それはそもそも「天下の御政道に反抗する気だ」が内蔵助の「初一念」ではないと云うことを示すのではないですかね。矛盾・ブレが生じない初一念が別にあるはずです。それを捜し出さねばなりません。(この稿つづく)

(R6・12・18)


3)内蔵助の「初一念」とは何か・続き

まず押さえておきたいことは、これは第1作である「大石最後の一日」をよく読めば分かることですが、「初一念」というものは、内蔵助がずっと胸の内に秘めていた不動の信念で、これがあったから内蔵助は敵討ち一直線でブレることなくやって来れたのだと考えては間違うと云うことです。そうではなくて、「初一念」とは、敵討ちを終えた後の内蔵助がこれまでの道程を顧みて、俺は大いに迷いもしたし・多くの間違いも犯したが、今にして思えば・これがあったからこそ俺はやって来れたのだ、まったく危ないことであった、事を成せたことが不思議に思えるくらいだ、しかし、これがあったから俺はへこたれずにここまでやって来れたのだと思えるものが「初一念」なのです。

つまり「初一念」とは、ホントは事を終えた後に明らかになるものです。時系列的に一番最後に位置する「大石最後の一日」には「初一念」という言葉が頻出しますが、内蔵助は具体的に「俺の場合の初一念はこれだった」と云うことは何も言っていません。以後に書かれた他九篇には「初一念」という言葉自体がほとんど出て来ません。あっても核心の場面でこの言葉が使われることはありません。そこのところは青果ははっきり意識して使い分けているのです。なぜならば「元禄忠臣蔵」とは、内蔵助が「初一念」を研ぎ澄ませ・明確な形に納めるための「心の旅」であるからです。

「元禄忠臣蔵」のなかに内蔵助が初一念らしきものを吐露する場面はほとんど見えませんが、全然ないわけではありません。例えば「伏見撞木町」(これも今回上演の場面には含まれません)最終場面で、父に反抗する息子主税に内蔵助が切々と語る場面です。

『去年三月十四日、江戸御刃傷のしらせを聞くと同時に、即刻即座、父(内蔵助)のこころに起こった決心は、怨敵(おんてき)吉良上野介さまを討ち取って、故(こ)殿さま最後の御無念を晴らしたいことであった。それよりこのかた丁度一年、朝にも夕にも願うところは、ただその念願ひとつであった。(中略)なれども、眼前路頭にまよう三百何十人の家中のことを思えば・・・、みなそれぞれに妻子もあり絆を持つ身の上ゆえ、うかつに覚悟も明かされぬ。また血気の連中は、城を枕に討死の、やれ追腹のと、あせり立つ故、萎(しお)れる者には当座なりとも希望(のぞみ)をもたせ、あせる者には鎮撫(ちんぶ)のため、ただ一時の方便として、父はひと言、御城受け取りに上られし御上使の前に出て、御舎弟大学頭さまを以て、浅野家再興のことを願い出たのじゃ。・・・』(「伏見撞木町」・内蔵助)

恐らく内藏助の言葉としては、この「怨敵吉良上野介さまを討ち取って、故殿さま最後の御無念を晴らしたい」と云う台詞が初一念として最も近いものです。

さらに遡ると、「最後の大評定」のなかで、これが初一念だと云えそうなものが、もうひとつ出て来ます。それは大評定の場で内蔵助が「弟浅野大学を立てて浅野家を存続させる考えもないわけではない」と心にもないことを言い始めた時に、磯貝十郎左衛門が内蔵助の言を遮って、次のように泣き叫ぶ台詞です。

『御兄上内匠頭さまの鬱憤を散じ、敵上野介さまを討ち果たしてこそ、はじめて大学頭さまは世に立って人中(ひとなか)がなると申されましょう。仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て、大学さまの武士道が立つとは申されませぬ。(中略)厭でござります、厭でござる。たとえ御公儀より大学さまへ恩命下って、日本国全体に、唐、天竺を添えて賜るほどの大大名になられましても讐敵吉良上野介をこのままに置くのは、厭でござります、厭でござります。」(磯貝声を極めて泣く。)』(「最後の大評定」・磯貝十郎左衛門)

十郎左衛門が云う・この「厭でござる、厭でござる」が、まさに初一念らしきものです。この気持ちは原形質的なもので、理屈も損得勘定もなく、ただひたすらに無私なものです。内蔵助のような立場もあって・いい歳をした大人には決して言えない青臭い台詞です。しかし、これはまさに内蔵助のなかの・秘められた気持ちをぴったり言い当てた言葉だったのです。ここで内蔵助は「何ィ」という台詞を三回発しています。青果はここで「磯貝を見る眼中に無上のよろこびを漂わせて」とト書きを入れています。ホントは内蔵助も十郎左衛門と一緒に泣きたい気分であったに違いありません。十郎左衛門に自分の気持ちを代弁されて歳がいもなく感動して、内蔵助は照れ臭かったと思います。「・・それにては何時が日にも話しが煮え乾る時がない。(迷惑そうに笑いながら)喜兵衛老人、そなたなどの御考えは・・・?」と内蔵助は話をさりげなく逸らしてしまいます。青果は(恐らく意図的に)核心の部分をまったくさりげなく・サラッと目立たないように隠しています。だからこそこれが核心の台詞であったと分かるのです。

大事なことは、「厭でござる」という気持ちは、そのまま「上野介を討ってやる」ということにスンナリつながらないと云うことです。 確かに十郎左衛門はここで「上野介をこのままに置くのは厭でござります」と言っていますし、赤穂浪士の場合は、結果としてこの方向に行動が進みますが、「厭でござる」というのは、今現在我々が直面する状況を受け入れるのが厭だと云うことです。

だから、これは或る意味で非常に危険な感情です。彼らの怒りの矛先は時代にも向くかも知れないし、この世の生そのものに向くかも知れないし、上野介にも向くし、幕府という政治機構にも向くし、 判断を下した直接の当事者(綱吉その人・あるいは幕府要人)に行くかも知れないし、場合によっては愚かな行為をした主人内匠頭にも向きかねないのですが、武士としての彼らの倫理感からすれば、当座の怒りは上野介に矛先が向いていると言うことに過ぎません。大事なことは、「厭でござる・この状況は厭でござる」という感情です。この感情を研ぎ澄ませた時、彼らの腹のなかに熱い初一念が湧きあがって来ます。

内蔵助と云う人物が真に凄いところは、各人各様で・持って行きようがない(方向性が定まらない)このような感情を、指導者として「これで良いのか」と自問自答を続けながら・悩み迷いつつ、行ったり来たり試行錯誤しながら・これを束ねて、最終的に集団をひとつの方向(初一念)へと昇華させたことです。青果はそのような内蔵助の「心の旅」を描いたのです。

「大石最後の一日」では細川家の嫡男・内記が内蔵助に生涯の宝ともなるべき言葉の「はなむけ」が欲しいと求めます。内蔵助は次のように答えます。

『当座のこと、用意もなく申し上げます。人はただ初一念を忘れるなと・・申し上げとうございます。とっさに浮かぶ初一念には、決して善悪の誤りはなきものと考えまする。損得の欲に迷うは、多く思い多く考え、初発の一念を忘るるためかと存じまする』

以上のことから、「元禄忠臣蔵」での内蔵助の「初一念」は、城明け渡しの場面では「上野介をこのままに置くのは、厭でござる」という原形質的な形で内蔵助の心のなかに浮かびあがり、やがて「上野介を討ち取って殿さま最後の御無念を晴らす」ということで具体化な形を取ると云うことです。初一念と云うものを、そのように考えて欲しいと思います。(この稿つづく)

(R6・12・19)


4)「大石最後の一日」の幕切れ

このように「元禄忠臣蔵」を、内蔵助が悩み・迷いしながら・内面に湧きあがった原形質的な気持ちをどのようにして「初一念」として研ぎ澄ませて行ったか・その道程を描くものだとすれば、今回とはまた異なる場組みでダイジェスト版を編むことも出来ると思いますね。

そこにこだわるわけでもないですが、今回(昭和45年・1970・12月国立劇場)の通し狂言「元禄忠臣蔵」で結末(第5幕目)に置かれた「大石最後の一日」を見ると、これから切腹へと赴く内蔵助が花道上で「これで初一念が届きました」と言って笑うのが、討ち入りを成し遂げ・ひとつの美学を完成させた内蔵助の会心の笑いのように聞こえます。まあそういう終わり方もそれなりの感動はあるけれども、これが内蔵助一個人の気持ちのみ語るかの如く見えて、吉之助は何だか釈然としないのですがね。イヤこのことはいつもの見取りで「大石最後の一日」だけを見る時にも薄っすら感じることではあるのだが、今回の通し上演が内蔵助の討ち入りに焦点を合わせているから・一層強く釈然としないものを感じるのです。

それは幕切れの花道上で内蔵助が「これで初一念が届きました」と言って笑う時、本舞台で同時に絶命するおみのの存在が置いてけぼりにされていると感じることです。そこに巌谷槇一演出に対する疑問を感じるし、そうだとすれば補綴にも更なる工夫があって然るべきだと思います。最後の内蔵助の台詞を引きます。

磯貝、小走りに去る。内蔵助一人のこりて、ジッとその後ろ姿を見送りたる後、
内蔵助:「堀内どの」
堀内:  「ええ」
内蔵助:「どうやら皆、見苦しき態(さま)なく死んでくれるようにございまする。ははははは。これで初一念が届きました。ははははは。どれ、これからが私の番、御免下さりましょう。」

「これで初一念が届きました。ははははは。」と内蔵助が笑うのは、四十七士のこと・磯貝も内蔵助自身も含まれることは確かですが、ここではかなりの部分が絶命したおみのに対して向けられていると考えるべきです。内蔵助はそのために(おみのの身体を抱いている)伝右衛門に声を掛けます。さらに「どれ、これからが私の番」とも言っています。だからこの時点でまず最初に「初一念を通して見せた」のは、おみのです。次にこれを受けて見事に切腹して初一念をさらに完璧なものにするのが、磯貝であり内蔵助の責務だと云うことになります。

この件は別稿「内蔵助の初一念とは何か」で詳しく取り上げたのでそちらをお読みいただきたいですが、磯貝の初一念は、実は二つあったのです。「討ち入りに加わり上野介を討ちたい」という初一念と、「恋しいおみのと添い遂げたい」という初一念の二つです。二つでは一念ではない、それに互いが矛盾すると思うかも知れませんが、どちらも純粋な若者の感情から生れ出たものだから、どちらも正しいのです。相反するかに見える二つの初一念を見事に一つにして見せたのが、おみのの自害なのです。おみのの自害によって磯貝はおみのの夫として討ち入りに参加して初一念を貫徹したことになりました。

内蔵助は世間的な大人の分別からおみのにそこまでは求めていなかったし、磯貝を一生恨み続けてもおみのに生き続けてくれることを望んでいましたが、このような形でおみのが自害し・夫に初一念を貫徹させたことに内蔵助は心底感動して「これで初一念が届きました。ははははは」と笑うのです。そこにおみのに対する深い感謝を感じます。だから結果として連作となったために焦点ブレしてしまったわけですが、「大石最後の一日」の幕切れは、本来はおみののものなのですね。(この稿つづく)

(R6・12・23)


5)幸四郎の内蔵助のことなど

幸四郎の内蔵助は、そこは新歌舞伎であるから・かぶき臭くはありませんが、何となく「仮名手本・七段目」の由良助の「やつし」を感じせる内蔵助だなと思います。本心を表面に出さず・わざと態度を曖昧に見せていると云うことではありません。七段目の由良助にはそんな風なところがあるかも知れませんが、青果が描く内蔵助は、もっと近代的な側面から「やつし」の芸を捉えていると思います。それは「やつし」の芸の「揺れる」感覚です。内蔵助は絶えず、こうでもあろうか・・それもあり得る、イヤああでもあろうか・・それもあり得るかも知れぬ・・という心の揺れを繰り返すのです。もちろん「初一念」があるわけですから結論に近いものを心のなかに持っているに違いない。しかし、内蔵助はそこに安直に飛びつくことはしません。時に感極まって心が乱れることもあるが、これでいいのだろうか・・間違ってはいないか・・まだ見落としはないか・・と内蔵助は尚も自問自答を繰り返す、これが近代的戯曲に於ける「やつし」と云うものです。

第3幕第3場・瑶泉院住居仏間(「南部坂雪の別れ」)では、内蔵助の本心を探ろうと鎌を掛けたもどかしい会話が続きます。内蔵助がのらくらして一向反応しないことに、瑶泉院ら周囲は次第にイライラし始めます。七段目の華やかな遊郭とまったく対照的な辛気な場面であるにも関わらず、幸四郎の内蔵助を見ると、「仮名手本・七段目」の由良助がここに居るなあと感じてしまうのは、まったく不思議なことだと思いますねえ。ここで瑶泉院をお軽の見立てだと言うつもりはありませんけれども、ここで青果が黙阿弥の「南部坂」の設定を拝借したところに青果の或る「趣向」を見ることが出来るかも知れませんね。

一方、芝居味ということで云うならば、今回(昭和45年・1970・12月国立劇場)のダイジェスト版「元禄忠臣蔵」のなかで、幸四郎は最後の第5幕(「大石最後の一日」)で内蔵助の感情の揺れを大きく描き出し、この場面を最重点に考えていることが明らかでした。討ち入り以前の内蔵助では、どちらかと云えば史劇的なスタンスを保ちつつ・内蔵助の慎重な人物像を崩さないように努めていると感じました。しかし、幸四郎は「大石最後の一日」だけは、良い意味に於いて「芝居っぽく」熱く演じていたと思います。実際おみのを男装させて細川家中屋敷に送りこむなど「元禄忠臣蔵」10篇のなかで本作が最も趣向本位に出来ている、つまり或る意味で最も芝居っぽいわけです。そのような本作の特質を幸四郎ははっきりと打ち出している、この点は見習うべきところがあると思います。昨今の「大石最後の一日」は良くも悪くも史劇の感触にちょっと傾き過ぎのように思われます。

よく考えてみれば、討ち入りを成し遂げてしまえば、「初一念」を研ぎ澄ませる段階はここでひとまず終わりです。討ち入り後の内蔵助は、義挙を褒め称える世間の声に一同が慢心して・ここまで大事にしてきた「初一念」の純粋さが損なわれないようにしようと思っているのです。だから討ち入りの前と後とでは、「初一念」に対する内蔵助の心の持ち方が異なっています。そんなところも幸四郎が内蔵助と云う役を演じていくなかで自らの感覚から掴み取ったことではないかと思われます。

他の役者について簡単に触れますが、梅幸が青果物に出ることは珍しいように思いますが、瑶泉院に関してはその重めの質感が「南部坂雪の別れ」の幕切れのしっとり落ち着いた感動に大きく貢献していることは明らかです。一方、梅幸の仙石伯耆守ですが、「仙石屋敷」の伯耆守と内蔵助との対話が緊迫した論理の応酬になっていないような感じが若干しますが、伯耆守の基本スタンスが内蔵助ら義士の行動に内心感服しているところを踏まえれば、梅幸の伯耆守は何だかその鷹揚な人柄を感じさせるようでいて、これもなかなか興味深いものがあります。勘弥の羽倉斉宮は出番は少ないが、場面を引き締めています。それと中車の堀内伝右衛門が素晴らしいですね。おみのと磯貝との馴れ初めをダレずに聞かせるのには力量が要ります。

(R6・12・27)


 

 

 


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