五代目菊之助・初役の梶原平三
令和6年1月新国立劇場中劇場:「梶原平三誉石切」
五代目尾上菊之助(梶原平三景時)、六代目嵐橘三郎(六郎太夫)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(六郎太夫娘梢)、九代目坂東彦三郎(大庭三郎景親)、初代中村萬太郎(俣野五郎景久)、四代目片岡亀蔵(囚人剣菱呑助)
1)菊之助・初役の梶原
本稿は令和6年1月新国立劇場中劇場での初春歌舞伎「梶原平三誉石切」(石切梶原)の観劇随想です。三宅坂の国立劇場が建て替えで閉場中の為、本公演から当分の間、初台の新国立劇場・中劇場での開催となるそうです。菊之助の梶原は初役で、岳父・二代目吉右衛門(故人)の書き抜きや映像など参考に役を構築したとのことです。
先年(令和4年3月国立劇場)「盛綱陣屋」の盛綱を菊之助が初役で勤めた時、「これで菊之助は斎藤実盛や梶原平三なども射程圏内に収めたことになる」と観劇随想に書きました。その通り・2年後に菊之助が梶原を勤めることに驚くことは全くありません。演じたい役をリストアップして、計画通り順番に取り組んでいるようですねえ。(本年3月歌舞伎座では「寺子屋」の松王丸を演じるそうです。)果たしてこの梶原も型の手順を確実に手に入れて・自己流に崩すことがない。性根の把握もしっかりしており、見ていてほとんど文句の付けようがない仕上がりです。初役でこれだけの梶原を演じるならば、もちろん「初役として」と云うことですけれど、上吉あるいは上々吉と云うところです。
そこのところを認めたうえで申し上げると、菊之助の梶原については「まとまり過ぎている」と云う不満を覚える方がいるかも知れません。「まとまっている」から古典的に丸く収まった印象になって来るわけで、これを良い方に捉えるか・悪い方に捉えるかにも拠りますが、何と言いますかね、予定通りにドラマが進み・予定通りの出来で終わる、そのような優等生的な印象を突き破る「熱さ」あるいは「興奮」がもっと欲しいと感じますね。菊之助は役者の道程を着実に歩んでいると思うけれども、そこの殻(限界)を突き破ってこそ菊之助の次の段階(ステージ)が見えてくると思うのです。
菊之助が(音羽屋の領域にない)岳父・二代目吉右衛門の役どころに取り組むということは、(丑之助のために播磨屋の芸を繋ぎたいと云う理由があるにせよ)そのような自らの芸の殻を突き破りたいと云う目論見からであろうと吉之助は勝手に考えていましたが、盛綱とか・今回の梶原から「まとまり過ぎた」印象が依然として抜けないとなると、これはどう云うことかな?とちょっと疑問を感じてしまうのですがね。(この稿つづく)
(R6・1・30)
2)肚が太い印象はどこから来るか
以前同じようなことを書いたことがありますが、「石切梶原」の主人公は梶原平三であってそれ以外の何者でもない、だから個々の脚本から独自性を持つ人物として役を読み込んでいく手法もあるのです。そちらの方が近代演劇的かも知れませんが、これだと梶原の解釈が他の役に適用できないのです。他の役を演じる時にはまた一から作業をやり直しです。これに対して、役の性格を或るひとつの括りで大きく掴み取って、そこから細部を彫りこんでいく手法もあると思います。多分こちらの方が歌舞伎本来の手法に近いと思います。「ひとつの括りで大きく掴み取る」と書きましたが、括りの仕方はいろいろあり得ます。役どころで括るやり方があります。(例えば梶原ならば生締めの役どころ。)その役を初演した役者・或いは当たり役にした役者で大まかに括ってみることも出来ます。「石切梶原」ならば昔は十五代目羽左衛門・そして初代吉右衛門ということになりましょうか。もちろん二代目吉右衛門で括ってみても結構です。これは役どころを役者の芸風と云うか・人格で以て大きく受け入れると云うことです。
そんな感じで梶原と云う役を多方面から眺めてみる作業が、菊之助にはもっと必要だと思いますね。二代目吉右衛門は梶原を「こうやった・次はああやった」、「そこはこう云う心持ちでやった」、そのような型の手順については、菊之助はきっちり習得出来ています。性根を正しく捉えているから・菊之助の梶原に「肚が薄い」という印象はありませんけれど、まだ「肚が太い」という域には達していない。演技が頭脳プレイに留まっており、どっしりした存在感はまだありません。それは梶原と云う役をそれだけで考えているからではないでしょうか。
厳しいことを書くようですが、型の手順をその通り忠実になぞっただけでは、それだけでは「二代目吉右衛門」にならぬと云うことです。形は似ていても心を捉えていなければ、型は十分に機能しません。逆に言えば、心を捉えてさえいれば、「ここはこうする、次はああする」なんて手順などどうでも良くなるのです。菊之助はこの数年・二代目吉右衛門の役どころを系統的に追って来たのですから、与兵衛を・光秀を・盛綱を・知盛を演じた経験から総括的に引き出した「俺が考える播磨屋の芸とはこれだ」というものを何か掴んでいるはずです。そこから二代目吉右衛門の梶原を割り返すことも出来ると云うことです。そうすれば肚が太い梶原が構築出来ます。ちょっとやそっとでは揺るがない。それは全人格から出たものであるから。これこそ伝統芸能である歌舞伎が長年培って来た智恵であるはずです。(この稿つづく)
(R6・2・1)
3)花よりも実(じつ)の梶原
梶原平三が手水鉢を斬る時、播磨屋型(初代吉右衛門)では観客に背を向けて刀を構えます。一方、橘屋型(十五代目羽左衛門)は観客の方を向いて刀を構え・斬った手水鉢の間を飛び越えて決まってみせます。「桃太郎じゃあるまいし」との揶揄もあるようですが、橘屋型の方が派手でカッコいいと云うので、昨今はこちらの方が優勢のようではあります。恐らく観客に背を向けて刀を構える方が型の起源としては古いように思いますが、まあどちらが正しいかはどうでも良いことです。しかし、全盛期(大正から昭和前半)の花の橘屋を傍らに置いて初代吉右衛門が観客に背を向けて刀を構える時、「俺は観客に受けを狙うなんてことはしないんだよ」というポーズを意識的に取っていると云うところが多少なりともあったと思うのですね。そこが大事な点かと思います。つまり「花よりも実(じつ)」だと云うことです。これが播磨屋の芸の本質だと思います。
同様なことが「六段目」の勘平の腹切りでも見られます。ご存じの通り「六段目」で一般的なのは音羽屋型(つまり六代目菊五郎)です。「金は女房を売った金、撃ち止めたるは舅どの・・」で勘平が観客の方を向いて刀を腹に突き立てます。一方、播磨屋型(初代吉右衛門)は上方オリジンで、観客に背を向けて腹を切る渋い型です。(吉之助も播磨屋型の勘平は見たことがありません。)十七代目勘三郎はもしほ時代に勘平を初役で勤めた時、兄(初代吉右衛門)の眼が光っているので、音羽屋型で演じたかったのに播磨屋型でやらざるを得ず、イヤでイヤで仕方がなかったそうです。吉之助が見た十七代目勘三郎晩年の勘平はもちろん音羽屋型でしたが、役者ならば観客に向けて腹を切りたい気持ちはよく分かります。逆に言えば、六代目菊五郎全盛(大正から昭和前半)の当時、初代吉右衛門の勘平が観客に背を向けて腹を切るのは、「俺は花よりも実(じつ)を取るんだ、菊五郎とは違うんだ」というポーズがやはりどこかに潜んでいたと思います。
(注:ところで上演記録を見ると、二代目吉右衛門の勘平は昭和55年(1980)3月歌舞伎座での一度切りのようです。この舞台は吉之助は見たはずだけど・まるで記憶が抜け落ちてますが、これは音羽屋型であったと思います。なお菊之助の播磨屋型の勘平が見たいなどと言うつもりはまったくありませんので、これも付け加えておきます。)
要するに吉之助が言いたいことは、播磨屋の芸の本質を「花よりも実(じつ)」に見ると云うことなのです。見た目の形が良いとか派手だとか・押し出しが利くと云うことではない。解釈の基準がドラマ本位・人間本位なのです。二代目吉右衛門も試行錯誤を重ねながら・この方向で芸を磨き上げてきたものと理解しています。これは初代吉右衛門の芸談やら二代目吉右衛門の数多い舞台から吉之助のなかに生まれたものでなく、初代白鸚・十七代目勘三郎・二代目白鸚・さらに六代目歌右衛門の舞台や芸談など色んなものを総括して・抽出して、そこから吉之助のなかに生まれてきた播磨屋の芸のイメージです。
同様に菊之助のなかにも、菊之助の人格から生まれた・菊之助だけの「播磨屋の芸」のイメージがあると思うのです。それをはっきりと打ち出して欲しいと思うのです。それがあれば、「肚が太い」どっしりした印象の梶原に出来ると思いますがね。何だか梶原のことしか考えていないように思えるのです。「ここはこうする、次はああする」と云う手順を忠実に追えば・そのまま播磨屋の梶原になると云う考えに留まっていると感じるのです。確かにそう云うことならば間違いなく出来てはいるのです。初役であることを考えれば立派なものです。しかし、菊之助は日常的に故人(二代目吉右衛門)の人柄に接し、ここ数年播磨屋系の役の数々に取り組んで来たはずです。その実績を考えれば、もう一味違っていても良いと思うのです。吉之助が菊之助に期待したいことは、「俺が考える播磨屋の芸とはこれだ」という・熱い人間的な息吹きです。(この稿つづく)
(R6・2・4)
4)播磨屋の芸を求めて
菊之助が当月筋書の「出演者の言葉」のなかで、梶原について「六郎太夫と娘・梢との情愛や心情に加え、名刀を作った刀鍛冶の思いも悟れるところが梶原の魅力で、理想の男だと思う」と語っています。これは全くその通りです。確かにこれがなければ生締めの捌き役になりません。しかし、これだけであると橘屋型の華やかでカッコいいのと大して変わりがないようです。大事なことは、「花よりも実(じつ)」とする播磨屋型の渋いところを観客にどのように見せ付けるかだと思います。ならばどこに橘屋型との差異を見るべきでしょうか。
それは、六郎太夫が何としても刀を売って金を作りたい差し迫った事情を理解しつつも、「たかが刀の切れ味を試すために人間の身体を切ろうとは何たる事か、人の命を粗末に扱ってはならない」という義憤であろうと思います。そこには明治以降の人権感覚が多少なりとも反映しています。恐らくこの感覚は江戸期生まれの「石切梶原」には本来そう強くないと思います。しかし、現代の観客がこの芝居を見るならば、「刀の切れ味を試すためだけに二つ胴するとは、何て非人間的な残酷なことをするんだ」という考えから決して逃れることは出来ないのです。明治以降の近代歌舞伎は、そのような時代の要請に応える必要がありました。そこに初代吉右衛門の近代的感性の取っ掛かりがあったわけなのです。公正な裁判で死罪が決まった呑助のことは兎も角、六郎太夫については・これを無慈悲に二つ胴にしてしまうことから何としても救わなくてはならぬ。だから梶原は、六郎太夫と大庭・俣野との間で二つ胴の話がポンポン進むのを黙って聞いていましたが、試し斬りしようと俣野が勇んで刀をつかんで立ち上がった瞬間、梶原はこのように叫ぶのです。
『目利きいたした某(それがし)、一言の礼儀もなく貴殿が彼を試さんとはあまりなる踏みつけ業(わざ)、近頃以て無礼でござろう』
この台詞が「刀の目利きをした梶原の面子を潰された怒り」から来ると云うのは、実は表向きのことです。俣野が二つ胴するのを阻止して・何としても自分がこの役を引き受けねばならぬ、これが梶原の本心です。このため尚更台詞の調子が居丈高になってしまう、そう云うことです。ですからこの台詞に至るまでの梶原の心理は、ただ黙って座っていたように見えますけれど、実は内心は沸々と煮えたぎっていたはずです。自分はどうすべきか、それがどんな結果を生むか、最善の方法をシミュレーションしたうえで、梶原はこの行動に出ているのです。梶原は二つ胴を仕損じたように見せかけて六郎太夫を救います。この結果は「刀の恥」(斬れ味が悪いと云うこと)なのだけど、同時に「斬り手の恥」でもあるわけなのです。その汚名を引き受けてでも俺は六郎太夫を救う。そこに「例え二股武士の汚名を背負うことになっても、俺は頼朝公に賭ける(源氏方に付く)」と重なる梶原の気概を感じますね。これこそが「梶原の実(じつ)」と云うことになると思います。芝居の最終場面でこのことが明らかとなります。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。)
実は別稿「菊之助・初役の盛綱」のなかで、ほぼ同じようなことを申し上げたのです。
「そこのところは腹のなかにグッと持っている」と云うことかも知れないけれども、菊之助の梶原は、傍目からはジェットコースターのような梶原の心理の激しい変転があまり見えて来ない感じがします。控えめに・綺麗ごとに見えてしまうきらいがある。そこが古典的で丸く収まった印象にもつながるわけですが、芸の次の段階においては、この印象を意識的に崩しに行くことを試みてはどうですかね。つまり、ここは表情・目付きの変化、声色の変化を大きく付ける工夫をすることです。こういう演技は「クサい」と感じるかも知れないが、クサいと思うくらいでちょうどよろしいのです。播磨屋(初代吉右衛門)の芸のクサさは、「法界坊」とか「お土砂」みたいな観客に受けに行くような演目にだけ出るものではなく、「熊谷陣屋」とか「盛綱陣屋」などシリアスな演目に於いても、播磨屋のクサさは形を変えて、真摯なストイックな方向で、「花よりも実(じつ)」という形で出るものだと吉之助は考えているのです。例えスケールが小さくなったとしても良い、目指すべきは細やかな感情表現、感情の変わり目をくっきりと観客に示唆することです。音羽屋の御曹司である菊之助が、岳父・二代目吉右衛門を尊敬して・播磨屋の芸を学びたいと云うことならば、菊之助が最終的に学び取るべき・播磨屋の芸のポイントはそこであると、吉之助は思います。(R6・2・9)