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四段目の「儀式性」を考える

令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部

                                  *大序・三段目・四段目・道行

十五代目片岡仁左衛門(大星由良助)、四代目尾上松緑(高師直)、六代目中村勘九郎(塩治判官)、二代目尾上松也(桃井若狭助)、初代片岡孝太郎(顔世御前)、四代目中村梅玉(石堂右馬之丞)、九代目坂東彦三郎(薬師寺次郎左衛門)、二代目中村錦之助(原郷右衛門)、初代中村隼人(早野勘平)、二代目中村七之助(腰元お軽)、二代目坂東巳之助(鷺坂伴内)他


1)四段目の儀式性

本稿は令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部の観劇随想です。歌舞伎座での通し上演は平成25年・2013・11〜12月(二か月連続)以来のことになります。

「仮名手本」通しは何度も見ましたが、昼夜を通して一日に見たのは久しぶりのことです。これは何度も都心に出掛けたくないだけの理由に過ぎなかったのですが、やはり何某かの徳はあるものです。理屈では分かっているものの・今回は四段目の「儀式性」のことを改めて思いました。歌舞伎役者がこのことをホントに大切にしていることにも改めて感じ入りました。夜の部を見終えた後、四段目の場面を思い返すならば、このことは痛感させられます。五・六段目と七段目は見取りでも頻繁に出ますし、作劇的にも良く出来たものです。近代戯曲として単独で見ても「生きています」。これに対し「四段目が生きていない」と云うことではなく、四段目のドラマは「仮名手本」通しの全体のなかで位置付けられてこそ「生きる」のです。発端としての三段目の「無念」を踏まえて十一段目の「大願成就」の結末へと至るまでの連続した風景が見通されてこそ四段目は「生きる」。三段目の方はついさっき見たばかりだから当然だが、四段目以降の先の筋のことは・本来見えるはずがありません。これがありありと見えてくるのは、歌舞伎が二百数十年掛けて作り上げて来たからこそ、このような形になったのです。これが「四段目の格式」と云うものです。

昨今では赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(いわゆる「忠臣蔵」)を知らない方が巷間増えてきているそうです。ところで松竹のサイト「歌舞伎美人」の当月興行に以下のような文が掲載されていますね。

『昼の部では、古式に則り、『仮名手本忠臣蔵』ならではの演出がございます「四段目・扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」は、古くから「通さん場」と呼ばれ、演出の都合上、客席内へのお出入りを一部ご遠慮いただいております。なにとぞ、お早めにご着席くださいますようお願い申し上げますとともに、ご諒承を賜りますようお願い申し上げます。』歌舞伎美人・令和7年3月興行の頁

昔はこのようなことを告知するまでもなかったでしょうが、これがサイトに初めて告知されたことは意味あることです。(チラシには記載はありませんね。)それは歌舞伎と一般大衆が「仮名手本」という芝居をどれほど大切にして来たか・「仮名手本」はホントに別格の芝居であると云うことなのです。初めて「仮名手本」通しを見る若い観客もそこに伝統の重みを感じ取ってもらいたいですね。(この稿つづく)

(R7・3・14)


2)四段目の儀式性・続き

「仮名手本」全体の儀式性についてはいずれ別の機会を見て論じることにして、本稿では視点を変えてちょっとだけ書きます。特に三段目の刃傷シーン・四段目の切腹シーンなどは、観客が史実でもこんな感じの場面であっただろうかと想像を重ね合わせながら芝居を見ることは、これは多分避けられないことです。本作が元禄15年(1702)赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を基にしているのだから、これは当然です。しかし、吉之助が長年「仮名手本」を見て来た経験からすると、師直にイビられた判官が怒りをあまり生(なま)っぽくストレートに出してしまうと、それは確かに写実であって実説のリアルさにも通じるものですが、それでは判官が美しくなくなってしまうのです。様式的(=儀式的に通じる)でなくなってしまいます。判官は様式的に美しく怒らなければなりません。リアルに怒っては駄目なのです。このように様式と写実のバランスを取るのはとても難しいことですが、そこが「仮名手本」の儀式性を考える上で大事なポイントになります。

実説でも浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由は分かっていません。「この間の遺恨覚えたるか」って一体何なんだ。誰にも分りません。しかし、この「何だか分からないが兎に角コイツは怒っている」と云うことが、江戸の民衆に「荒ぶる神(怒れる神)」を想起させたのです。歌舞伎の荒事に出て来る主人公たち(御霊)はみんな、政治だかこの世の中だかに強く怒っています。だから歌舞伎では内匠頭(=判官)も、そのようになるのです。芝居では奥方のことで虐められたとか・鮒侍と嘲られたとか、判官が怒り出すきっかけはそんなことになっていますが、師直は誰にとっても嫌な奴・悪い奴です。だから判官はこの世の理不尽さ・この世の不正さ・きたなさ、何だかよく分からないが、この世のもっとデッカイ不実なものに対して強く怒っているのです。

と云うことは、主君の怒りを引き継いで由良助が仇(かたき)として討とうとする師直も、単なる個人を超えて何か悪しきもの・不実なものの象徴にまで高められていると云うことです。これが「仮名手本」の儀式が引き出したものです。歌舞伎の「仮名手本」前半(大序・三段目・四段目)は、目に見えないようであっても・儀式性の縛りがとても強いものです。前半はあたかも「忠臣蔵」の世界定めの儀式であるかの如く機能しています。後半(五段目以降)になると様式の縛りがずっと弱くなり、写実に近いものになって行きますが、前半の感触はまるで異なります。

吉之助もいろいろな「仮名手本」通し上演を見てきましたが、前半に関しては、歌舞伎役者はみんな様式と写実とのバランスを取るのに苦心しているようです。あくまで一般論ですが、若いうちはどうしても演技が生(なま)に傾きやすいものです。年季を重ねれば、様式と写実の折り合いが次第に身に付いてくるものです。令和の幹部役者もそのような過程を経て今があるわけです。その変遷の過程をずっと見てきました。儀式性に傾き過ぎれば、感触は重ったるくなり、演技が嘘クサくなる。実説のリアルさにこだわれば、演技は熱を帯びてくるかもしれないが、様式的な美しさは出せません。しかし、様式的な美しさは「仮名手本」前半に関しては必須のものです。(この稿つづく)

(R7・3・16)


3)四段目の儀式性・そのまた続き

文楽床本を参照すると、四段目・判官切腹の場面は以下のように描写されます。(なお実際の上演では多少の異同がある場合があります。)

『「ヤレ由良助、待ちかねたわいやい」「ハヽア。御存生の御尊顔を拝し、身にとつて何ほどか」「オヽ我も満足々々。定めて子細聞いたであらう。聞いたか。聞いたか。エヽ無念。口惜しいわやい」「ハヽア委細承知仕る。この期に及び申上ぐる詞もなし。たゞ御最期の尋常を願はしう存じまする」「オヽ言ふにや及ぶ」ともろ手をかけ、ぐつ/\と引廻し、苦しき息をほつとつぎ「由良助。この九寸五分は汝へ形見。我が欝憤を晴らさせよ」と切先にてふえはね切り、血刀投出しうつぶせに、どうと転び、息絶ゆれば・・』(文楽床本)

「無念。口惜しいわやい」を受けて、由良助は判官の傍へにじり寄り・耳元で「委細」とのみ言い・後ろへ退いてから「・・承知仕る」と低く重く言います。その心は、「主君の無念はこの由良助が全部引き受けた。だからこの期に及んではただ尋常のご最後を」と云うことです。由良助の決心はこの時点で固まるのです。これに対し歌舞伎では大筋では変わりありませんが、細かいところでいくつか注目すべき相違が見られます。

『「由良助か、待ちかねたわやい」「御存生に御尊顔の拝し奉り、身にとりまして何ほどか」「我も満足。定めて様子は聞いたであらう。聞いたか。聞いたか。・・無念。」「アイヤこの期に及び申上ぐる言葉とてござりませぬ。たゞ御最期の尋常をこそ願はしう存じまする」「言ふにや及ぶ」ともろ手をかけ、ぐつ/\と引廻し、苦しき息をほつとつぎ「由良助。近う近う。・・・由良助、この九寸五分は汝へ形見。形見じゃよ。」・・「委細。(と我が胸を叩いて見せ)・・・ハハア(平伏する)」・・「ハハハ・・(低く笑う)」』(歌舞伎脚本)

歌舞伎の判官は「無念・・」とは言いますが、「口惜しいわやい」は言いません。「この九寸五分は汝へ形見」とは言いますが、「我が欝憤を晴らさせよ」とまでは言わない。これらの台詞を判官は呑んでしまって多くは言わぬ・腹のなかで言うとも考えられますし、或いは腹に刀を突き立てている判官にはもはやそれを言う力は残されておらぬのかも知れません。いずれにせよ歌舞伎の判官は怨念をストレートに生(なま)っぽく迸らせることをしません。一見すると怨念のパワーが後ろへ引いたかに見える、表面上はと云うことですが、ここが大事なポイントだろうと思います。

もうひとつ注目される相違は、歌舞伎では由良助の「委細」という台詞を、「この九寸五分は汝へ形見」の後に持って来たことです。歌舞伎では九寸五分を「汝へ形見」と云う主君の目のなかの気持ち(我が恨みを受け継いで師直を討ってくれとのメッセージ)を読み取って、由良助は「委細(承知)」と我が胸を叩いて見せる、由良助の決心はこの時点で固まるのです。判官と由良助とのやり取りは、対話で進むのではなくで・「心」のやり取りで進むと云うことです。

文楽と歌舞伎とどちらが良いかは置くとして、本行(文楽)の方が主人から家臣への怨念の受け渡しの構図が明確であるとは云えます。仇討ちは主人からの命令であり、これを遂行することが家臣としての責務である。その根本は歌舞伎でも同じことですが、命令はあからさまには行われません。歌舞伎ではそこは意識的にボカされていると云えましょうか。これが大事なポイントの二つ目です。

こうして四段目のドラマは主君鎮魂の趣で厳かに始まり、我ら一家中の生活の安穏を奪い取った悪しきもの・不実なものに対して、やがて静かに・しかし着実に憤(いきどお)りの心情を増幅させて行くのです。歌舞伎はこの四段目の儀式を作り上げるために、長い歳月を費やして来たわけですね。(この稿つづく)

(R7・3・17)


4)勘九郎の判官・仁左衛門の由良助

「仮名手本」を昼・夜通して一日で見ると、四段目の儀式性が「仮名手本」全体にまで及んでいることが実感されると思います。つまり四段目こそ「仮名手本」の要(かなめ)なのです。「仮名手本」では、前半の大序・三段目のドラマは発端として四段目へ流れ込んで行きます。後半の展開部としての五・六段目そして七段目のドラマは、四段目からすべてが発します。そして儀式は十一段目の永代橋引き揚げの言祝(ことほ)ぎで終わる。歌舞伎ではこの基本構造が令和の現代まで崩れることなく、しっかり守られて来ました。ですから四段目(切腹場)での由良助は、単発幕の人物だけを演じているわけではないのです。「仮名手本」全体のなかで由良助の存在が一貫して「世界」を支配する、このことが観客に実感されて初めて「仮名手本」の儀式が完成します。

しかし芝居が由良助一人で出来るものではないのは当たり前のことで、「仮名手本」の儀式性は役者全員が心を一つにせねば決して成らぬものです。今回(令和7年3月歌舞伎座)の「仮名手本」は、歌舞伎座でも久しぶりの上演ですが、さすがに「仮名手本」となると役者の気の入れ具合がいつもとは違う。そこが歌舞伎の「独参湯」の所以であるなあと思いますねえ。おかげで通しを見終わって気分良く劇場を後にすることが出来ました。

Aプロ・昼の部では、勘九郎の判官の好演をまず挙げて置きたいと思います。前節に於いて「判官が感情を生(なま)っぽくストレートに出してしまってはダメです、判官は様式的に美しく怒らなければなりません」と書きましたが、まさにその通り・様式的に美しい判官でした。喧嘩場での勘九郎の判官は、「あはれさ」さえ感じさせました。師直の虐めは理不尽そのものである・そこまで嘲られる理由は判官にない、そこのところが大事なのです。その憤りが次の切腹場で効いて来ます。この場での勘九郎の判官はさらに良い。この場での判官は自分がしてしまった事の重大さを重々認識しており、すでに死ぬ覚悟が出来ています。したがって表面上は怨念のパワーが後ろへ引いて・生きることを諦めてしまったと見えるほど判官は静かです。ここでの判官の心残りは「由良助に我が恨みを受け継いで師直を討って貰いたい」、ただそれだけなのです。そして由良助に仇討ちを引き受けてもらった後、微笑んで死んで行きます。死にゆく判官を勘九郎は生っぽいところを腹のなかに納めて、様式的に儚く美しく演じて見せました。吉之助もいろいろな役者で判官を見ましたが、親父さん(十八代目勘三郎)より良かったと思いますねえ。

喧嘩場での松緑の師直は、スケール大きく・ドス黒い巨悪に仕立てることはしないで(二代目松緑の師直はそんな印象であったけれども)、身丈に合わせて愛嬌もちょっと加えて・意地悪な小悪党の感じに仕立てたところで成功していたようです。松也の若狭助は決して悪くないですが、感情の出し方がちょっと生っぽいかな。様式的に美しく在らねばならぬのは若狭助も同じことです。

しかし、Aプロ・昼の部の白眉が、仁左衛門の由良助であることは衆目の一致するところです。まず見事だったのは、切腹場での勘九郎の判官との心の交流を肚芸でたっぷり見せたことです。肚芸とは様式的に写実することだと云うのが良く分かる演技でした。大事なことは、やはり息の詰め方ですね。もうひとつ素晴らしかったのは、城明け渡しの後・幕外での花道の由良助の引っ込みです。腹のなかに万感をグッと押し込むと同時に、腹の底から憤りの感情がムクムク湧き上がってくる。それは「我ら一家中の生活の安穏を奪い取った悪しきもの・不実なものをこのままにして置いてなるものか」という感情です。こうして由良助の憤りは普遍化されて観客と共有されることになる。由良助の愁い三重の花道引っ込みは、そのための儀式なのですね。

ところで四段目に続くお軽勘平道行(落人)の件ですが、この場は元々「仮名手本」になかったもので・三段目裏門をアレンジして舞踊に仕立てたものでした。しかし、四段目が終わった後に道行を入れると一日掛かりの長い芝居のなかでの気分転換になって塩梅が良い。そこで重宝されるわけですが、いつぞや「芝居に付き過ぎて道行が深刻ムードになっては困る」と書きましたけれど、通し狂言のなかであまり色調が違い過ぎるのもまた困ります。今回の道行が何だかそんなような印象で、七之助のお軽・隼人の勘平が劇中の人物になっておらぬもどかしさを感じますねえ。清元の高音が伸びず冴えぬ印象であったことにも原因がありそうです。

隼人はイケメンで人気急上昇中ですが、表情の作り方をもう少し研究した方が良さそうです。何をやっても「隼人」に見えます。イケメン役者によくある落とし穴です。先日(1月歌舞伎座)の新作「大富豪同心」でも若殿様と同心と二役がそっくりで見分けが付かない設定だからそうなのだと云えばそれまでのことだが、目線の置き方くらい少しは違いを出せよと言いたくなりました。勘平も憂いがあまり強過ぎてはイケませんが、そこはかとなく散りゆく若者の運命の儚さを漂わせてもらいたいと思いますね。

(R7・3・20)


 

 


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