四代目橋之助の勘平・初代莟玉のお軽
令和7年1月浅草公会堂・第1部:「道行旅路の花聟(落人)」
四代目中村橋之助(早野勘平)、初代中村莟玉(腰元お軽)、五代目中村玉太郎(鷺坂伴内)
本稿は令和7年1月浅草公会堂での新春浅草歌舞伎の第1部、橋之助の勘平・莟玉のお軽による「道行旅路の花聟(通称・落人)」の観劇随想です。
今月(1月)歌舞伎座での「二人椀久」の観劇随想で「日本舞踊は、芝居の筋(ストーリー)にあまり付き過ぎないようにした方が良い」と云うことを書きましたけど、今回の「落人」では尚更このことを言わねばなりません。現代の舞踊家ならば「意味を考えながら踊る」のは当然のことなのだけれども、芝居の筋に付く・付かぬと云うのは、これとはちょっと次元が別の問題です。(詳しくは別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」をご覧ください。)
まず舞踊「落人」は、現在では「仮名手本忠臣蔵」通し上演の昼の部の最後に出ることが多い。つまり四段目切の由良助の館明け渡しの重苦しい雰囲気からガラリと気分を変えてお客様に気持ちよく劇場を後にしていただきましょうと云うことでよく出る舞踊です。「忠臣蔵」の一幕としてすっかり定着していますが、「忠臣蔵」に元々この場はなかったのです。「落人」は「忠臣蔵」の三段目の裏門の場面(お軽とのデートにかまけて主人の大事に居合わせなかった勘平が失意の内にお軽の実家の在る山崎に落ちることにする)を元に、これを自由な発想で道行の舞踊に作り変えたものです。初演は天保4年・1832・江戸河原崎座でのこと、三代目菊五郎のお軽・七代目海老蔵の勘平でした。ですから舞踊「落人」の道行は逃避行だからホントは気分は暗くあるべきかも知れないが、それは内々のことで、舞台面を見ると春爛漫で、何となくウキウキした新婚気分である。おまけに伴内が花四天を引き連れてユーモラスな立ち回りを見せる。これを暗い気分で踊ろうったって、それは野暮と云うものじゃないでしょうかね?
ところがいつ頃からか分かりませんが、ハタと気が付くと舞踊「落人」で、何だかお軽勘平が浮かない表情をして踊る舞台を見ることが多くなりました。先日・昔の舞台映像を見ていたら、吉之助はどちらの舞台も生(なま)で見ましたけれど、昭和61年・1986・10月国立劇場での「忠臣蔵」通しの「落人」での十二代目団十郎の勘平と五代目勘九郎のお軽はずいぶん悲しそうに踊っていましたねえ。しかし、昭和53年・1977・11月歌舞伎座での通しの十七代目勘三郎の勘平・七代目梅幸のお軽はそんなことはありませんでした。もちろんニコニコしていたわけではありませんが・表情は平静にしていて、「主人の大事を余所にして、この勘平はとても生きては居られぬ身の上・・・(中略)お軽さらばじゃ」の台詞で脇差を構えてフッと憂いを利かせる、これで十分なのです。
だから多分昭和の終わり頃から「落人」は悲しい気分に傾斜して来たと云うことでしょうかね。この点は仮説としますが、ひとつには、現代の観客には「忠臣蔵」三段目・裏門の経緯が分からなくなっていますから、翻案物としての「落人」の「趣向」の面白さも理解出来なくなっている、だから尚更踊りが芝居の筋に付いてしまうと云うことかと思います。しかし、このことはもういい加減に本来の感触に戻さねばなりません。そのためにもう一度舞踊「落人」の成立経緯にまで立ち戻って考えてみることです。
まあそういうわけで、これは橋之助の勘平が良くないと云うことではなく・昭和の終わりから平成の歌舞伎の風潮(トレンド)が悪かったと云うことなのですが、今回の橋之助の勘平もまた、心ならずも主人に対し不忠の罪を犯してしまったことへの悔いが腹の内にずっしり重いという印象ですねえ。これは芝居の筋(ストーリー)から役の性根を構築するという現代の役者の行き方ならば、まったく正しいです。しかし、この場合(舞踊「落人」)は、そのことは腹のなかにしっかり納めて・外に出さない、踊りを芝居の筋にあまり付き過ぎないようにする、そうすると作品の「趣向」が自ずと生きてくるのですがね。その辺を直せば、しっかり踊って感じの良い勘平です。
一方、莟玉のお軽はアッケラカンと明るくて、まあこちらは逆にもう少し陰があっても良いのでないか・・と言いたくなるところがないでもないが、しかし、「芝居の筋に付き過ぎない」と云うところは押さえているので、的を外してはいません。この舞踊のお軽には「勘平さんは大変だけど、彼と一緒に暮らせることになって嬉しいわ」と云うところがあると思います。
(R7・1・21)