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十三代目仁左衛門の由良助・七代目梅幸の判官

昭和61年10月国立劇場:「仮名手本忠臣蔵」・第1部

                *大序-二段目(建長寺)−三段目−四段目-道行旅路の花聟

十三代目片岡仁左衛門(大星由良助)、七代目尾上梅幸(塩治判官)、十七代目中村勘三郎(高師直)、十七代目市村羽左衛門(加古川本蔵・石堂右馬之丞)、七代目中村芝翫(顔世御前)、十二代目市川団十郎(桃井若狭助・早野勘平)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(腰元お軽)、二代目片岡秀太郎(大星力弥)、八代目坂東彦三郎(初代坂東楽善)(薬師寺次郎左衛門)、二代目沢村藤十郎(足利直義)他

(国立劇場二十周年記念)


1)二回目の「仮名手本」

本稿で紹介するのは、昭和61年(1986)10月国立劇場での、開場20周年記念・通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・第1部の上演映像です。これは国立劇場にとって二回目の「仮名手本」サイクルになります。

「仮名手本」については、昭和52年(1977)11月歌舞伎座での通し上演・いわゆる「戦後歌舞伎の総決算」と呼ばれた戦後昭和の大幹部総出演による上演映像が残されています。「忠臣蔵」の型のお手本としての映像を見たいのであれば、そちらの方を見た方が良いでしょう。この時には後世に残る規範を見せるという緊張感が役者に在ったと思います。その9年後になる今回の上演映像では大幹部の高齢化のために若干の芸の綻びが見えます。型の縛りに緩みが生じているところが少々見えます。次の世代への交代が既に始まっていた時期でした。こうした点を含んだうえで見なければなりませんが、しかし、このことは本映像の価値を下げるものでは全くないと云うことをまず申し上げておきます。誰だって歳を取れば辿る過程です。体調として苦しいところが見えたとしても、その代わりに芸として到達した最終のものを見せてくれていますし、またそこを味わうべきです。

  

ところで国立劇場での「仮名手本」通し上演の第1回目は、ちょっと変則的な上演でした。昭和48年(1973)12月に五・六・七段目に討ち入り(十一段目)を、昭和49年(1974)12月は二・八・九段目という珍しい番組で加古川本蔵の件でまとめて筋を通す、そして昭和50年・1975・12月は大序・三・四段目を通して、以上3公演を3年かけてほぼ(十段目を除きますが)全段を通すと云う形でした。これは場割り的には苦しいところがあったかも知れないけれども、確かに試みるだけの価値があった公演でした。

それは判官の刃傷に端を発する由良助の討ち入りを本筋にして、これに並行する形で勘平切腹・本蔵の死という二つの脇筋を絡ませた作品構造を明らかにした点です。そのことを考えれば、上演時間の制約と筋の重複さえ厭わなければ、昭和48年上演(勘平腹切)はこれに序幕として三段目(喧嘩場・裏門)を付けられればなお良かった、また昭和49年上演(本蔵の死)は二段目の後に三段目(進物場・喧嘩場)を上演出来れば筋が通ってなお良かったと云うことになりますが、まあそんなようなことを考えさせてくれただけでも有難い公演であったと思っています。

判官の短慮な行動(刃傷)は、家老・由良助だけでなく、家来たちの運命(お軽勘平とその家族)、他家の人たちの運命(本蔵とその家族)までも翻弄し・狂わせてしまったのです。すべての悲劇が三段目から発すると云う「仮名手本」の構造が納得されます。

そこで今回(昭和61年国立劇場)の「仮名手本」通し上演は3か月を掛けて、まず10月(第1部)では大序-二段目(建長寺)−三段目−四段目-お軽勘平道行を上演しますが、道行は翌月に回しても構わないから、二段目を建長寺ではなく、完全な形で上演して欲しかった気がしますね。しかし、「仮名手本」を四段目で観客を追い出しにしてしまうと・どうも気分が重くなってしまう、ここは道行でパッと明るく気分を変えてお客さんにお帰りいただきたいと云う気持ちは、もちろん良く分かります。結局、歌舞伎座での・いつもの「仮名手本」通し上演・昼の部に二段目(建長寺・これも滅多に上演されませんが・上演時間は15分ほど)をちょこっと付けただけのことで、国立劇場としての特性が乏しくなってしまいました。

建長寺書院の場は、本来の二段目(桃井館上使の場・桃井館松切の場)の後半をアレンジして・場所を建長寺に移した場です。今回は三段目に進物場(本蔵が師直に賄賂を贈ってとりなしを頼む)があるので・その伏線にはなります。けれども二段目前半での力弥と小浪の件がないために、九段目・山科閑居への伏線にはなっておらず、これだと九段目の扱いが厄介な存在であることは否めない。現状九段目の上演頻度が異様に低い事情がそこにあります。力弥と小浪の件が討ち入りの本筋とあまりにかけ離れた脇筋のように映るからです。しかし、丸本を読めば、「仮名手本」での九段目の位置付けは相当に重いものです。九段目の主題は本蔵の、

「忠義にならでは捨てぬ命。子故に捨つる親心。コレ推量あれ由良助殿」
現代語訳:武士として忠義のためにしか捨てることがない命を、子のために捨てるこの親心を、分かってくれ、由良助殿)

に集約されるのですから、伏線として二段目前半(桃井館上使)が無ければ、九段目の全容が正しく理解されません。「忠義では捨てない命を子のために捨てる」と誤読している輩さえいますね。

現行歌舞伎での・九段目を除外した「仮名手本」通し上演(昼夜の2部上演)の場割りであると、勘平の件(五・六段目)は討ち入りの仲間に入れるか否かということで本筋に取り込まれるからマア良いとして(ホントは悲劇のフェーズがまるで異なるのですがねえ)、九段目がないために、「仮名手本」のなかで由良助が主人の仇を討つためだけに凝り固まった印象を観客に与えかねません。

余談になりますが、先日(令和6年10月12日)にモーリス・ベジャール振り付けの「ザ・カブキ」(歌舞伎の「仮名手本」からインスピレーションを得たバレエ作品)を見ましたが、2時間ほどのダイジェストに要領良くアレンジして、そのなかにお軽・勘平の件までも含まれていると云うのに、九段目(本蔵の件)は省かれて「南部坂雪の別れ」(顔世御前との別れ)に置き換えられています。ベジャールがそうせざるを得なかった事情は分かり過ぎるくらい分かる。分かるけれども、由良助が仇討ちに向けて一直線に突き進む印象になってしまった点に、吉之助はやはり微妙な気分を抱かざるを得ないわけなのです。

ですから歌舞伎においては、昭和49年12月国立劇場の時のように、九段目のための・特別アレンジ通し上演(二段目との関連を重視する)を行なうことで、「仮名手本」の正しい理解を求める必要があるかも知れませんね。(この稿つづく)

(R6・11・2)


2)それはたまたまのことだった

ここまで長々と書きましたが、「仮名手本」はあくまでも敵討ちのドラマである・余計な枝葉は刈り込んで筋をスッキリさせた方が良いと云う考え方も有るのは当然のことで、現行歌舞伎の前半(大序から四段目まで)の場割りはそのような考えの下に成立したもので、まあこれはこれとして理解が出来ます。

ところで「仮名手本」が興味深いところは、松の廊下で師直に切りつけるのが本来は若狭助であったはずなのに、本蔵の賄賂工作のせいで、顔世への恋が叶わなかったことの師直の腹いせが、とばっちりを食った格好で顔世の夫・判官に向かったと云う軽いサプライスを設けていることです。九段目・山科閑居で本蔵が苦しい息の下で由良助に、

「思へば貴殿の身の上はこの本蔵が身にあるベき筈。」

と語るのは、そのことです。大序だけ見れば刃傷沙汰を起こすのは若狭助に違いないと誰だって思います。それならば主人の仇を討つ役割は本蔵であったはずである。ところがどういう運命の悪戯か・師直に切りつけたのは判官で、仇討ちの役が回りまわって由良助に振られることになってしまいました。このことは「仮名手本」の本筋に捻(ひね)りを付けるための浄瑠璃作者の工夫であったのか、それとも何か他の意図があったのか、そこのところを考えてみなければならぬと思います。

吉之助が思うには、それ(松の廊下の刃傷)はたまたまのことだったのです。師直がムシャクシャしているところに判官が居合わせなければ、或いは顔世の(師直への恋を断る)返信の文箱がそのタイミングで届かなければ、判官がそこで刀を振り回すことにはならなかったはずです。その代わり別の誰かが師直にイビられて刃傷事件を引き起こしたかも知れません。要するに、それは何かの「必然」で以て起きたわけではないと云うことです。伏線らしきものはいろいろありますけれど、結果的にそれは偶然の集積で、たまたまという形で起きたのです。たまたまそれをやったのが由良助の主人であって、そのために由良助は塩治家家老職として試される破目に陥りましたが、これもたまたまのことです。

このような理不尽極まりないことって、世の中にしばしばあるのではないでしょうか。もしかしたら由良助の本音は、「どうして討ち入りを俺がやらなきゃならないの?何で俺なの?」ということであったかも知れません。しかし、由良助のホントに偉いところは、そういう本音があったとしても腹にしまい込んで・黙って、塩治家家老職として・武士として・男として・イヤそれよりも人間として、自分がやらねばならぬことをやり抜いて見せたということですね。だから「仮名手本」のドラマは、もはや封建主義の世でもない現代に於いても、時代を超えて人の心を打つのだろうと思います。

そこで「刃傷沙汰はたまたまのことだった」ということに話を戻しますけど、今回(昭和61年国立劇場)の「仮名手本」の大序〜三段目での勘三郎の師直がユニークなところは、師直が始終何やらムシャクシャしており、虫の居所が悪くて誰かに当たり散らしたい、大序ではその対象がたまたま若狭助であったが、本蔵から賄賂を受け取るとそれもコロリと忘れてしまう、しかしムシャクシャ気分が依然として残っているので、今度はその矛先がたまたま居合わせた判官に向かうという気分屋のところを、観客に「ああ世間にこういう偉そうにしているくせに薄っぺらな奴よく居るよなあ」という感じで面白く見せたことです。ちょっと下世話なところも交えていながら、それでいて下品に陥らず、高家筆頭という大きさをしっかり保っています。勘三郎の師直を見ていると、イライラの矛先が判官に向かったことは「たまたまのことだった」ということが良く分かります。

普通であると、師直を如何にも周囲に煙たがられる嫌味な奴に仕立てたくなるものです。それと「日本一の敵討ち事件」の当事者の片割れですから、それに相応しい「巨悪」のイメージが欲しい。そういうところに松の廊下の刃傷事件の「必然」を見るということに普通はなりそうなものです。もちろん勘三郎の師直もそのような「必然」を裏切っているわけではないのですが、そこも踏まえたところで「それはたまたまのことだった」というところをホントにさりげなく見せてくれました。まことにユニークな師直なのです。(この稿つづく)

(R6・11・10)


3)判官はホントに短慮な人物であったのか?

抜刀が禁じられる城中・松の廊下で刃傷沙汰を起こしてしまった塩治判官には、どうしても「短慮」のイメージが付き纏います。九段目では本蔵が「かほどの家来(由良助)を持ちながら、了簡もあるべきに、浅きたくみの塩谷殿。口惜しき振舞ひや」と言い、由良助は「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさば」と呻いています。結果として刀を抜いてしまった以上言い訳は出来ません。しかし、三段目の松の廊下での真相を目撃した我々(観客)は判官に対し、こんなことを考えてみても良いかも知れませんね。つまり「判官はホントに短慮な人物であったのか?」と云うことです。

「仮名手本」大序・二段目を見ると、若狭助は正義感が強いが・激しやすくて、確かに思慮の浅い人物だなと思います。一方、判官の方はおっとりと温厚な印象で、あまり怒らなそうな人物です。ところが三段目(喧嘩場)では、その判官が見境もなく烈火の如く怒る。さらに四段目では判官は、

「刃傷に及びしより、かくあらんとはかねての覚悟。恨むらくは舘にて加古川本蔵に抱き留められ、師直を討ちもらし、無念骨髄に通つて忘れがたし、湊川にて楠正成最期の一念によつて生を引くと言ひし如く、生き替り、死に替り、欝憤を晴らさん」

とまで言い(注:上記の台詞は歌舞伎では省かれます)、さらに駆け付けた由良助に対し、

「定めて子細聞いたであらう。聞いたか。聞いたか。エヽ無念。口惜しいわやい。(中略)由良助。この九寸五分は汝へ形見。我が欝憤を晴らさせよ」

と自らに代わって師直を討つこと(つまり仇討ち)を命令するのです(注:上記の台詞は歌舞伎では一部省かれます)。判官の怒りが増幅しています。判官は温厚な性格をかなぐり捨てて、御霊(怨霊)へと性格を変えたかのようです。そのきっかけは、三段目で判官が思わぬとばっちりを食ったことでした。殿中で刃傷沙汰を起こすのは本来若狭助のはずだった。ところが師直の癇癪の矛先が「たまたま」判官に向いたためこうなってしまったのです。

つまり判官は、自分が何故ここまで師直に苛められねばならないか、何故ここまで罵倒されねばならないか、その理由が最後まで納得出来ないのです。だから判官には「これは不当な苛めだ」と怒る権利があるのです。判官は理不尽に恥掻かされたことをただひたすら怒っています。三段目の松の廊下での真相を目撃した我々(観客)だけは、そのような判官の気持ちがちょっとだけ分かると思います。まあそれでも結果的に我慢が足りなかったという責めは免れませんが、それにしても三段目(喧嘩場)は良く出来ていますね。

そこのところ、今回(昭和61年国立劇場)の梅幸の判官のような無垢なイメージであると、ホントに可哀そうになってしまいますね。判官の怒りは個人的に怒っていると云うよりも、純粋にこの世の理不尽そのものに対して怒っているのです。だからそれは何となく公(おおやけ)の怒りの色彩を帯びて来ます。梅幸の判官であると、この論理(ロジック)がスンナリ納得いただけると思います。短慮な判官ではないから良いわけです。ホントに梅幸は理想の判官役者だと思います。

もうひとつ大事なことは、「仮名手本」では判官が家臣である由良助に対し明確に仇討ちを命令していることです。史実での内蔵助は、討ち入りしたのは「殿のご無念を晴らすため」だと証言しています。以心伝心で行動したと云うことかも知れないが、少なくとも内匠頭が内蔵助に直接命令を下した事実はありません。一方、「仮名手本」での仇討ちは、主人が命令したものである以上、家臣として「実行を強制される」ものです。(この稿つづく)

(R6・11・14)


4)仁左衛門の由良助・梅幸の判官

今回(昭和61年国立劇場)の「仮名手本」第1部では、二段目として書き替えの建長寺が出ました。もちろんこれは議論のあるところですが、本来は若狭助が刃傷に及ぶべきところ・本蔵の賄賂工作により事態は回避された・しかしとばっちりを食って判官が刃傷沙汰を起こしてしまったという経緯をしっかり描いたという点で、例え15分程度の短い場ではあっても・建長寺を出したことは意義があることでした。それと、この場で本蔵を勤めた羽左衛門が、次の三段目・進物場でも出不精をせず本蔵を勤めたということも、当たり前と云えばそれまでだけど、これは大事なことでしたね。(喧嘩場で判官を抱きとめる本蔵はさすがに勤めませんでしたが、まあ羽左衛門は次の四段目で石堂を勤めることになっていましたから・これは仕方がなかったでしょう。)

前述の通り梅幸の判官は三段目も良かったが、四段目・切腹の場がさらに良いですねえ。ここでの判官は短慮な殿様というイメージが完全に飛んで、儚く散っていく・判官の「あはれさ」だけが残るようです。理不尽な理由によって刃傷に及び、喧嘩両成敗であるべきところなのに・判官だけが切腹を申し付けられた、このことについてお上の裁定に何ら異議を申し立てるものではないが、だから塩治家中の者たちの恨みがひたすら師直に・師直だけに向かうという論理(ロジック)が、梅幸の判官であると何故かスンナリと納得できる気がします。他の判官役者であると、その怒りがどこか生(なま)っぽく・つまりどこか実録っぽい感触になってしまうものです。梅幸の判官であると形が美しいこともあるが、怨念の由良助への受け渡しが生っぽくならない。おかげで仁左衛門の由良助がどれだけ演りやすくなったことか。

仁左衛門の由良助は、足腰が弱って動きに多少の難がありますが、肚の持ち方で見せる由良助であると云えます。最初揚幕から花道へ登場した時はちょっと不安になりますが、次第に老練さが際立ってきます。人物の大きさで見せようと云うのではなく、直面した難題に誠実に対している由良助という印象です。城明け渡しの場面では、このことが生きています。翌月(11月)に演じることになるわけですが、七段目の由良助と・ここでの四段目の由良助が繋がって見えると云いますかね、よく云われるのは四段目よりも七段目の由良助の方が難しいと云うことですが、仁左衛門の良い所は、七段目にも通じるところで四段目の由良助を演じているということですね。

今回の「仮名手本」第1部では、追い出しに「お軽勘平道行」が付きます。判官切腹と城明け渡しで重く沈んだ観客の気分をパッと明るくしてお帰りいただきましょうと云う現行歌舞伎の構成はよく考えたものだと思います。しかし、今回の「道行」の海老蔵(勘平)・勘九郎(お軽)のカップルは何故か哀しみを湛えたようで、どうも愉しくさせてくれませんね。理屈をいえば、確かに主人の大事の場所に居合わせず・不祥事のために・とりえあずお軽の実家に身を寄せようと云う逃避行の道行です。これじゃあ明るくなんか出来ませんよと言うことかも知れないが、通し狂言での「道行」は或る種気分転換の役割を持つものです。ここのお軽には「どんな理由であっても彼と一緒に暮らせることになって嬉しいワ」という気分が欲しいのですけどねえ。勘九郎のお軽は神妙な出来ではあるが、ちょっと「憂い」が強過ぎたようでした。

(R6・11・15)


 

 

 


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