六代目歌右衛門の戸無瀬
昭和61年11月国立劇場:「仮名手本忠臣蔵」・第3部
*九段目 - 十段目 - 十一段目
六代目中村歌右衛門(本蔵妻戸無瀬)、十七代目市村羽左衛門(大星由良助)、七代目中村芝翫(由良助妻お石)、三代目河原崎権十郎(加古川本蔵・桃井若狭助二役)、五代目中村富十郎(天川屋義平・小林平八郎二役)、六代目沢村田之助(義平女房おその)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(大星力弥)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(本蔵娘小浪)、十代目岩井半四郎(太田了竹・原郷右衛門)他
(国立劇場二十周年記念)
*この原稿は未完です。
1)九段目の位置付け
本稿で紹介するのは、昭和61年(1986)12月国立劇場での、開場20周年記念・通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・第3部の上演映像です。前々月(10月・第1部)、前月(11月・第2部)に引き続き、第3部は七段目から十一段目までを上演します。なお八段目は第2部で上演されたものですが、ここは場割りからすると九段目と繋げた方が納まりが良いので、本稿では八段目も含めて観劇随想を書きます。
今回の注目は、満を持して登場となる六代目歌右衛門と云うことになります。歌舞伎データベースで検索すると、歌右衛門の九段目の戸無瀬は15件がヒットします。戸無瀬は歌右衛門を語る上で落とせない役の一つです。なお今回の舞台が歌右衛門が演じた最後の戸無瀬になりました。
「仮名手本忠臣蔵」のドラマは、松の廊下で判官が師直相手に刃傷沙汰を起こして、即刻切腹・御家断絶の厳しい処分を受ける、その後由良助以下四十七人の家来たちは艱難辛苦の末に見事敵師直を討つという物語である、一口で「仮名手本」を纏めるならば、そう云うことになると思います。つまり「仮名手本」の大きな主題は仇討ちの大願成就であると、まあそのように考えて・もちろん宜しいのですが、しかし、「仮名手本」をあまり由良助を主軸に考え過ぎると、九段目はずいぶんと本筋からかけ離れた芝居に感じてしまうと思います。
実際、現行歌舞伎の九段目を見れば、どう見てもこれは加古川夫婦(本蔵と戸無瀬)の芝居であって、由良助が主人公であるように見えないからです。戦前の歌舞伎でも、「仮名手本」通しをやる場合は、七段目までをやったら・これに討ち入り(十一段目)をつけて終わると云う出し方がもっぱらで、九段目は一幕物として出すことが多かったようです。昔の九段目では戸無瀬と由良助の二役をよく兼ねたものでした。本蔵が出てくると戸無瀬に手紙を渡して使いにやって、それで戸無瀬は引っ込んで由良助に替わるのです。愚劣な型だと云われますが、由良助役者の気持ちを考えれば、そう云うことがしたくなる気持ちは分からないでもない。役と自分を混同しているみたいだが、「この芝居のホントの主役はオレ(由良助をやってるオレ)なんだ」という不満がどこかにあるのでしょう。
だから現行歌舞伎に於ける九段目の課題は、どうしたらこの芝居(九段目)で由良助の存在を重く見せることが出来るかと云うことになるかも知れませんねえ。答えは案外簡単だと思います。いつもはカットされる端場の「雪転がし」を原作通りにちゃんと出せば良いのです。これだけで九段目は正しく由良助の芝居であると認識されると思います。それをしないから面妖なことになるのです。
別稿に於いて、「仮名手本」全十一段と時代浄瑠璃の定型の五段構成に当てた場合にどうなるかを考えました。五段構成で見ると、
「仮名手本忠臣蔵」
四段目 七段目(掛け合い場)・八段目(道行)・九段目と云うことです。七段目から九段目までが連続していることがこの構成から理解出来ます。九段目冒頭の雪転がしで、祇園から仲居幇間を引き連れて・雪転がしをしながら・ほろ酔い気分で朝帰りする由良助が描かれます。雪転がしは、七段目の遊郭の気分をそのまま引き継いでいるのです。
いつもの歌舞伎の「仮名手本」通しで見ると、そこまで態度を曖昧にしていた由良助が七段目で討ち入りの意思を敢然と表明する、「サアいよいよ仇討だ」と云うことになり、この高揚した気分のまま・次の幕(十一段目)の討ち入り場面へ流れ込むわけです。しかし、原作の「仮名手本」を見ると、そうではないようである。七段目で仇討ちの意思は表明したけれど、由良助にはまだ解決せねばならない課題が残っているのです。それは松の廊下で判官が師直に切り付けた時・後ろから抱き留めてこれを阻止した本蔵のことです。判官は
「恨むらくは舘にて加古川本蔵に抱き留められ、師直を討ちもらし、無念骨髄に通つて忘れがたし」
と言い残して切腹しました。七段目終了の時点でまだこの問題が未解決ですから、由良助のなかで「サアこれでいよいよ仇討だゾ」という気分にどうしてもなれないのです。由良助が本気の討ち入りモードになるのは、本蔵の一件が片付いた後のことです。これで時代浄瑠璃の四段目切場としての山科閑居に完全な決着が付くことになります。ですから本蔵の一件が由良助の心のなかに突き刺さったどれほど重い苦しみであったかを描くことが出来れば、必然的に九段目のなかでの由良助の存在は重いものになります。(この稿つづく)
(R7・1・6)