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38年目のモーリス・べジャール・「ザ・カブキ」

令和6年10月12日東京文化会館:「ザ・カブキ」

柄本弾(由良助)、中島智哉(直義)、樋口祐輝(塩治判官)、上野水香(顏世御前)、安村圭太(高師直)、岡崎隼也(伴内)、池本祥真(勘平)、沖香菜子(おかる)、後藤健太朗(現代の勘平)、中沢恵理子(現代のおかる)、鳥海創(定九郎)他

振付:モーリス・ベジャール、音楽:黛敏郎

(東京バレエ団創立60周年記念公演)

*本稿は未完です。


1)「ザ・カブキ」初演の思い出など

本稿は令和6年10月12日東京文化会館で行われた東京バレエ団創立60周年記念公演、モーリス・ベジャールの振り付けによるバレエ「ザ・カブキ」の観劇随想です。ベジャールの「ザ・カブキ」は、今から38年前の、1986年(昭和61年)4月16日・東京文化会館にて東京バレエ団によって初演されました。本作は歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」からインスピレーションを受け、現代東京に生きる青年が一振りの日本刀を手にしたことから「忠臣蔵」の世界に迷い込むという冒頭からストーリーが始まります。「ザ・カブキ」初演は当時大きな話題となったものでした。吉之助は仕事の関係で時間が割けなくて舞台を生(なま)では見ていませんが、初演舞台はNHKのテレビ放映がされたので、当時のことはよく覚えています。

ちなみに昭和61年というのは歌舞伎史にとって結構大事な年で、奇しくもそれは三代目猿之助(二代目猿翁)のスーパー歌舞伎・第1作「ヤマトタケル」初演(2月3日初日・新橋演舞場)と同じ年に当たります。猿之助とベジャールは親交がありましたから、これら二つの創作活動が互いに刺激しあったか・はっきりしたことは分かりませんが、これはあり得る話かも知れません。今にして思えばあの時代の歌舞伎はまだまだ熱かったのだねえ。

さて当時の吉之助がどう感じたかですが、「エロス・タナトス」始め生(なま)でも映像でもベジャール作品をずっと見て来たので、吉之助にとってベジャールは常に示唆的な存在ではあるのですが、「ザ・カブキ」を見る前の吉之助の心配を正直に吐露すれば、「あまりカブキ風味にして欲しくないなあ」と云うところでした。ところで玉三郎がこんな証言をしていますねえ。

『そのとき(ベジャールが「ザ・カブキ」制作に取り組んでいた時期・昭和61年2月)はちょうど私(玉三郎)も歌舞伎座で『忠臣蔵』をやっていて、ベジャールさんも観に来てくださったのですが、"苦しい"とおっしゃるんです。"自分は自分の創作をしたいのに、本場の舞台を見てしまうと、そこから離れたくとも離れられない"と。でも、それまでにも『我々のファウスト』とか、いろんな題材のものをつくってきた方ですし、『忠臣蔵』をつくるというよりも、ご自分が考えている日本の古典の世界になっているのだろうなと思っていました。』(坂東玉三郎:歌舞伎美人インタビュー、2013年11月30日)

ベジャールが「苦しい」と吐露した気持ちはよく分かります。本家本元を知っておかねばならない、しかし、それでも本家本元を見てしまうと、どうしても「らしさ」に捉われてしまう、大体そう云うものです。それほどまでに「伝統」の魔力は強い。伝統の枠組みの下では「それは当然そうあるべきもの」なのです。それを打ち破ることは難しい。日本舞踊の技巧で・西洋バレエにない、「すり足」や「股を割る」所作、或いは「胡坐(あぐら)」や正座などの姿勢の取り方、女性の着物の裾さばき、見得の技法など挙げればいろいろありますが、聞くところでは「ザ・カブキ」稽古中は花柳流家元の花柳壽應(当時は芳次郎)が付きっきりで所作を指導したそうです。これも有難いけれど・迷惑のような気持ちもベジャールのなかに混在してあったかも知れないと思います。

38年前に初演映像を見た時は吉之助は「もっと思い切って歌舞伎から離れればいいのに」と感じましたけれど、今回(令和6年10月12日・東京文化会館)では、このくらいの日本テイストが残っているから、おかげで結果として「ザ・カブキ」は人気作として今日まで受け入れられて来たのだろうと思いました。そこはベジャールのことだから、さすがに自分のスタイルを主張出来ていて、面白く見ました。まあ38年も経ってるから、吉之助も歳取って少々丸くなったと云うこともあります。昔の吉之助はベジャールに「国境の破壊」を期待したのだけどね。

しかし、今回38年ぶりに「ザ・カブキ」を見直して改めて感じ入るのは、本家本元の歌舞伎以上に、本作が暗く熱い「情念」を発していることです。幕切れで四十七士が一斉に切腹して背後に太陽が昇るシーン(写真上)については、38年前にも同じように感じましたが、やっぱり吉之助はちょっと違和感を覚えます。このシーンは強烈な印象を与えますが、一瞬たじろいでしまうところがある。

このような要素が歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」にないとは云いませんが、少なくとも前面に出て来ないものです。この最終シーンだと四十七士は討ち入り直後に主君塩治判官の墓前で一斉に切腹したかのようです。背後に「葉隠」の思想を感じます。これは明らかに三島由紀夫の最後の長編「豊穣の海」第2巻・「奔馬」で主人公・飯沼勲が切腹する最後の一節、

「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇った。」

からのイメージです。別にそれが悪いと言っているのではありません。それが作品を再構築すると云うことなのです。ベジャールは自分の責任においてそれを行えば良い。しかし、「そうするとタイトルをわざわざ「ザ・カブキ」とする必要はなさそうだ、それならばタイトルをはっきり「ザ・チューシングラ」にすれば良かったのではないの」とは言いたくはなりますけどねえ。(この稿つづく)

(R6・11・14)


 

 

 


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