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38年目のモーリス・べジャール・「ザ・カブキ」

令和6年10月12日東京文化会館:「ザ・カブキ」

柄本弾(大星由良助)、中島智哉(足利直義)、樋口祐輝(塩治判官)、上野水香(顏世御前)、安村圭太(高師直)、岡崎隼也(鷺坂伴内)、池本祥真(早野勘平)、沖香菜子(おかる)、後藤健太朗(現代の勘平)、中沢恵理子(現代のおかる)、鳥海創(定九郎)他

振付:モーリス・ベジャール、音楽:黛敏郎

(東京バレエ団創立60周年記念公演)


1)「ザ・カブキ」初演の思い出など

本稿は令和6年10月12日東京文化会館で行われた東京バレエ団創立60周年記念公演、モーリス・ベジャールの振り付けによるバレエ「ザ・カブキ」の観劇随想です。ベジャールの「ザ・カブキ」は、今から38年前の、1986年(昭和61年)4月16日・東京文化会館にて東京バレエ団によって初演されました。本作は歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」からインスピレーションを受け、現代東京に生きる青年が一振りの日本刀を手にしたことから「忠臣蔵」の世界に迷い込むというプロローグからストーリーが始まります。「ザ・カブキ」初演は当時大きな話題となったものでした。吉之助は仕事の関係で時間が割けなくて初演を生(なま)では見ていませんが、初演舞台はNHKのテレビ放映がされたので、当時のことはよく覚えています。

ちなみに昭和61年というのは歌舞伎史にとって結構大事な年で、奇しくもそれは三代目猿之助(二代目猿翁)のスーパー歌舞伎・第1作「ヤマトタケル」初演(2月3日初日・新橋演舞場)と同じ年に当たります。猿之助とベジャールは親交がありましたから、これら二つの創作活動が互いに刺激しあったか・はっきりしたことは分かりませんが、これはあり得る話かも知れません。今にして思えばあの時代の歌舞伎はまだまだ熱かったのだねえ。

さて当時の吉之助がどう感じたかですが、「エロス・タナトス」始め生(なま)でも映像でもベジャール作品をずっと見て来たので、吉之助にとってベジャールは常に示唆的な存在ではあるのですが、「ザ・カブキ」を見る前の吉之助の心配を正直に吐露すれば、「あまりカブキ風味にして欲しくないなあ」と云うところでした。ところで玉三郎がこんな証言をしていますねえ。

『そのとき(ベジャールが「ザ・カブキ」制作に取り組んでいた時期・昭和61年2月)はちょうど私(玉三郎)も歌舞伎座で『忠臣蔵』をやっていて、ベジャールさんも観に来てくださったのですが、"苦しい"とおっしゃるんです。"自分は自分の創作をしたいのに、本場の舞台を見てしまうと、そこから離れたくとも離れられない"と。でも、それまでにも『我々のファウスト』とか、いろんな題材のものをつくってきた方ですし、『忠臣蔵』をつくるというよりも、ご自分が考えている日本の古典の世界になっているのだろうなと思っていました。』(坂東玉三郎:歌舞伎美人インタビュー、2013年11月30日)

ベジャールが「苦しい」と吐露した気持ちはよく分かります。本家本元を知っておかねばならない、しかし、それでも本家本元を見てしまうと、どうしても「らしさ」に捉われてしまう、大体そう云うものです。それほどまでに「伝統」の魔力は強い。伝統の枠組みの下では「それは当然そうあるべきもの」なのです。それを打ち破ることは難しい。日本舞踊の技巧で・西洋バレエにない、「すり足」や「股を割る」所作、或いは「胡坐(あぐら)」や正座などの姿勢の取り方、女性の着物の裾さばき、見得の技法など挙げればいろいろありますが、聞くところでは「ザ・カブキ」稽古中は花柳流家元の花柳壽應(当時は芳次郎)が付きっきりで所作を指導したそうです。これも有難いけれど・迷惑のような気持ちがベジャールのなかに混在してあったかも知れないと思います。

38年前に初演映像を見た時は吉之助は「もっと思い切って歌舞伎から離れればいいのに」と感じましたけれど、今回(令和6年10月12日・東京文化会館)では、このくらいの日本テイストが残っているから、おかげで結果として「ザ・カブキ」は人気作として今日まで受け入れられて来たのだろうと思いました。そこはベジャールのことだから、さすがに自分のスタイルを主張出来ていて、面白く見ました。まあ38年も経ってるから、吉之助も歳取って少々丸くなったと云うこともあります。昔の吉之助はベジャールに「国境の破壊」を期待したのだけどね。

しかし、今回38年ぶりに「ザ・カブキ」を見直して改めて感じ入るのは、本家本元の歌舞伎以上に、本作が暗く熱い「情念」を発していることです。幕切れで四十七士が一斉に切腹して背後に太陽が昇るシーン(写真上)については、38年前にも同じように感じましたが、やっぱり吉之助はちょっと違和感を覚えます。このシーンは強烈な印象を与えますが、一瞬たじろいでしまうところがある。

このような要素が歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」にないとは云いませんが、少なくとも前面に出て来ないものです。この最終シーンだと四十七士は討ち入り直後に主君塩治判官の墓前で一斉に切腹したかのようです。背後に「葉隠」の思想を感じます。これは明らかに三島由紀夫の最後の長編「豊穣の海」第2巻・「奔馬」で主人公・飯沼勲が切腹する最後の一節、

「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇った。」

からのイメージです。別にそれが悪いと言っているのではありません。それが作品を再構築すると云うことなのです。ベジャールは自分の責任においてそれを行えば良い。しかし、「そうするとタイトルをわざわざ「ザ・カブキ」とする必要はなさそうだ、それならばタイトルをはっきり「ザ・チューシングラ」にすれば良かったのではないの」とは言いたくはなりますけどねえ。(この稿つづく)

(R6・10・14)


2)誰の人生か?

名作は、いろいろな読み方が出来るものです。「仮名手本忠臣蔵」のドラマから何を読み取るかも、人それぞれです。長い間日本人の心を捉えてきた重要な作品ではあります(もっとも近年は「忠臣蔵」を知らないと云う若者が増えて来ているそうである)が、逆に日本人であるから或る見方に捉われてしまう、日本人であるが故に見えないことがあるかも知れません。背景(バックグラウンド)が全然異なる・定見に捉われない西欧人ベジャールだからこそ、日本人に見えない「忠臣蔵」の新たな側面が見えてくるかも知れません。それが何であっても構いません。ただし何かしらポジティブなメッセージを持つものでなくてはなりませんが、それならば普遍的な意味合いを帯びるものとして、日本人である吉之助も受け入れられると思います。だからとりあえずベジャールが「忠臣蔵」から読んだものを無心で感じ取りたいと思います。そこで若干長めですが、ベジャールの自伝から一節を引用します。

『ある晩、ロンドンのレストランで友人と食事をしている時、今私はヴェニスにいると確信していると話した。すると彼は、私の精神はヴェニスに行っているとも考えられるが、肉体は確実にこのロンドンのレストランにあるし、それを証言すると言った。彼の答えは私を驚かせた。実はその逆なのだ。本当に肉体と精神を引き離すことができ、そのような分離の概念が受け入れられるのであれば、肉体の方が私に、自分はヴェニスにいると告げるのであって、精神はそれに付き従うのだ・・・。彼は私にこう言った。
「それで君は、ちょっと気が変だなと思わないかい」
勿論そう思えなくもない、と私は答えた。でも、ちょっと気が変であっても、今夜、京都に近い丘の上にいる方が、ローザンヌにいて鼻風邪をひいている正気の誰かさんよりはずっといいと思っている。
実は私は、年がら年中、私がいないはずの街において、劇的で高揚した人生を送っている。人はその人が今いるところには決していないものだ。これには確信がある。そして人は、自分がいない場所のことしか夢見ることはない。現実を生きるのはたやすいことではない。(中略)私は今まで一度として、自分が「居住」していたアパートや街に暮らしているという実感を持ったことはない。ブリュッセルには25年間住んでいたようだが、私は決してブリュッセルに暮らしてはいなかった・・・。』

(モーリス・ベジャール:自伝U・「誰の人生か?」・前田充訳・劇書房)

「ザ・カブキ」初演パンフレット
1986年(昭和61年)4月16日・東京文化会館

現代の東京で、激しいリズムの音楽と喧騒のなかで生きている若者たち。ただ成り行きにまかせて日々を生きる無気力な若者たちが多いなか、生きる意味を求めてあがく・一人の若者がいます。若者が、或る時、一振りの日本刀を見付けました。刀の柄を掴んだ瞬間、彼は「忠臣蔵」の世界にトリップしてしまうのです。

上掲ベジャールの文章を参考にするならば、これは若者の精神がトリップしたのではなく、若者の肉体が「忠臣蔵」の世界へとトリップしたのです。「ザ・カブキ」はバレエですから、若者の肉体がその場にトリップして、そこで素材としての肉体に由良助が宿ってドラマを語り始める、そこからバレエが始まる、まあそう云うことかも知れませんけれど、恐らくベジャールの言いたいことにはもっと先があると思います。観客のあなただって客席から舞台へとトリップしていることになる、ダンサーの身体を借りて別の人生を「今生きる」・・・と云うことなのです。例えば当日(10月12日)の由良助役は柄本弾でしたが、彼の身体を借りることで観客もまた「由良助を生きる」。もちろん勘平でもお軽でも良いわけですが、そこはご自由です。師直であっても・伴内であっても良いですね。もしそのような場が作り出されるのであれば、「祝祭」としての芸能がそこに完成するとベジャールは言いたいのでしょうね。付け加えれば、これはバレエのことだけでなく、他の演劇ジャンルでも音楽でも、すべてのパフォーマンス芸能に共通して云えることです

このことは直接的には、どうして「忠臣蔵」でなければならないか?と云う問いに答えるものではありませんけれど、「忠臣蔵」のドラマが「生」の意味を希求するベジャールの感性に何か強烈なインスピレーションを与えたことを示唆しています。(この稿つづく)

(R6・10・17)


3)人間の生は一瞬でしかない

「ザ・カブキ」討ち入り後の四十士の切腹(ご承知の通り「仮名手本忠臣蔵」にはこの場面がないわけです)は、吉之助には一瞬たじろいでしまうほど強烈なシーンです。しかし、多分ベジャールは、この場面がなければ、「チューシングラ」の情念のドラマは完成しないと考えているのでしょうね。別の言い方をすれば、この最後の切腹シーンのために、そこまでのドラマが付いているとさえ云えます。これは三島由紀夫の影響であると思います。音楽を担当した黛敏郎(右派の論客として有名であった)の影響だという説もありますが、これもあり得ます。いずれにせよ「葉隠」の思想が根底にあります。

『一冊の本を手に取る。(中略)三島由紀夫は、もしこの20年間、自分が絶えず教えを乞い、ある一節を幾度となく読み返しては必ず感慨に耽るような書があるとすれば、それは紛れもなく「葉隠」であると言っているが、私自身も全く同じことを自分の言葉として言えるので、この三島の言葉に引用符を付けるべきか迷うところだ。私は時間をかけて、友人であり、兄弟であり、師でもある人によって書かれたこの本の第1頁を音読した。
「武士道とは死ぬことにある・・・人生の難局にあって生死の望みが相半ばするときには、真っ先に死を選ばなくてはならない。難しいことは何もない。ただ、覚悟を決め、行動するのみである。」・・』

(モーリス・ベジャール:自伝U・「誰の人生か?」・前田充訳・劇書房)

『「葉隠」を手に取ると、自然に、ある頁が開いた。
「人間の生は一瞬でしかない・・・」  他者の人生の中での一瞬?
「人間の生は一瞬でしかないのだから、最もしたいことをして生を生きる力を持たなければならない。夢のようにはかないこの世に、気の向かないことだけをして耐え忍んで生きるのは、いささか馬鹿げている。この原理は、解釈を間違えると、害となることがある。従って、私は若者にはそれを教えないことにしている。」
だとすると、今の私の生はいささか馬鹿げていやしまいか?私は気の向かないことばかりをして、耐え忍んで生きていやしまいか?』

(モーリス・ベジャール:自伝U・「誰の人生か?」・前田充訳・劇書房)

ここで「仮名手本忠臣蔵」論を展開するつもりはありませんが、原作の「仮名手本忠臣蔵」に四十士の切腹シーンがなく、討ち入り後の両国橋での引き上げで「アッパレじゃ」という形で終わることについては、様々な推論が可能です。観客は史実の赤穂義士が討ち入りの二ヶ月後に幕府から裁きを受けて切腹したことを承知していますから、歌舞伎では当時の作劇上の制約(同時代の事件を描くことが出来ない)ことから、敢えてこの場面(切腹シーン)を余白に置くことにしたとも考えられます。つまり描かれていないけれども・そこが最も大事だと云うことです。ですからベジャールが「ザ・カブキ」に原作にない切腹シーンを最後に置いたことは、まあそれはそれとして理解が出来ます。これによってベジャールの考え方がはっきりと、短刀を突きつけたように明確に、打ち出されていると感じます。

『そう、人生がうまくいくか、いかないかは、私にとってはどうでもいいことなのだ。人生と戯れ、人生を演じる。私は正直な面と狡猾な面を持ち合わせていて、常にそのやり取りを愉しんでいる。私の人生は、舞台で演じた役柄の中にあったように思う。(中略)
ハムレットを演じる役者を例にとろう。彼はハムレットを演じることにより、ハムレットになり、ハムレットになることによって、自分がハムレットではないことに気が付く。人は嘘をつく時こと、真剣なのだ。私自身が実はそうなのだ。こういう性格は、企業の管理職には向かないが、演劇では結構成功するのだ。ボードレールの言葉は当たっている。
「世の中には、たった一つの愉しみしかない。それは「演戯する」愉しみである。うまくいくか、いかないかは、我々にとってどうでもいいことではないか。」…』

(モーリス・ベジャール:自伝U・「誰の人生か?」・前田充訳・劇書房)

だから「ザ・カブキ」の結末がうまく行っているか、行っていないかも、実はどうでもいいことなのです。正直に申し上げると、「忠臣蔵」に対する吉之助個人の考えは、真山青果の考え方に近いものです。「歌舞伎素人講釈」での一連の「元禄忠臣蔵」論考をお読みいただけば分かりますが、吉之助は内蔵助が内匠頭墓前で切腹するのではなく・大目付宅に討ち入りを届け出て(つまり自首して)幕府の裁断を問うたところに、近世人としての内蔵助の理性的性格を見ようとする立場です。そう云うことではありますが、まあこの立場から敢えてベジャールの方へ擦り寄って考えるならば、青果が云うところの・内蔵助の「初一念」のなかにも、原初的な・極めて根源的な・それ故に危険な「心情」の要素があって、そこがベジャールの主張に重なるところがあるとは云えますね。

「人間の生は一瞬でしかないのだから、最もしたいことをして生を生きる力を持たなければならない。」

と云うことです。そこにベジャールの主張があるし、ベジャール作品のどれを見ても・この主張は共通していると思います。当日(10月12日・東京文化会館)のカーテン・コールでの観客の拍手は、なかなか熱いものでありましたね。ベジャールの思いは、観客に確かに届いていたと思います。

(R6・10・19)


(追記:大いなる余白)

今回(10月12日・東京文化会館)38年ぶりに「ザ・カブキ」を見直して改めて感じ入ったのは、本家本元の歌舞伎以上に、「ザ・カブキ」が暗く熱い「情念」を発することでした。このような要素が歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」にないとは云いませんが、少なくとも前面には出て来ないものです。

前章で触れた通り、「ザ・カブキ」での「情念」の強烈さは、最後の四十七士の切腹シーンに最も端的に現れますが、その他の場面では、例えば第5場・城明け渡しでの、由良助の数分にわたる長いヴァリエーションがそうです。ここで由良助を演じた柄本弾は、怨念の強さを見事に表現しました。また「ザ・カブキ」では本来九段目・山科閑居に当てるべき第8場を「南部坂雪の別れ」に置き換えています。仇討ちの決意を明かそうとしない由良助に顔世御前は失望しますが、由良助の目の前に主君・塩治判官の霊が現れて、由良助に仇討ちの決行を要求します。このように「ザ・カブキ」は、忠誠心の履行としての「情念」で一貫した構成になってします。

しかし、「ザ・カブキ」の四十七士が切腹するエンディングは、これはそもそも原作である「仮名手本」に無い場面です。吉之助はこの切腹シーンに一瞬たじろいでしまいます。多分ベジャールは「チューシングラ」は刃傷シーンに始まって切腹シーンで完結する、切腹シーンが無ければ四十七士の「行為」は完結しないと主張することでしょうね。そのような考え方があるのは分かります。分かりますけど、浄瑠璃作者が敢えてこの場面(切腹シーン)を描かず、余白に置いたところに「日本的なもの」があるとも云えると思うのです。ご存じの通り、日本画の絵巻物などでは、すべてを描き込むことをしません。わざと余白を残す。その描き込まないところに意味があるのです。その意味を考えてみたいと思います。

現行の「仮名手本」の最後の場面(十一段目)は定型がありません。普通は討ち入り後の義士たちが両国橋を引き上げる途中で桃井若狭助(石堂右馬之丞など別の人物の場合もあります)が駆け付けて、一同をねぎらい「アッパレじゃ」という形で終わることが多い。いずれにせよ大願成就の・晴れやかなエンディングです。元々時代浄瑠璃の結末は、天下泰平・五穀豊穣を言祝(ことほ)ぐものでした。このエンディングはそれなりの意味を持つものだと考えます。これは当時の作劇上の制約(同時代の事件はこれをそのまま描くことが出来なかった)から来る幕府への方便に過ぎないと断じ切れないものがあると思います。

吉之助がここで指摘しておきたい疑問は、義士たちの切腹で終わる「ザ・カブキ」のエンディングの感触は、それが三島由紀夫から来るのか・黛敏郎から来るのかは兎も角、歌舞伎の「仮名手本」から直接的に引き出されるものとはちょっと異なるのではないかと云うことです。それならばタイトルをわざわざ「ザ・カブキ」とする必要はなさそうだ。「それならばタイトルをはっきり「ザ・チューシングラ」とすれば良かったのではないの」と吉之助が言いたくなる理由はそこにあります。

以下に書く文章は、ちょっと寄り道するようですが、ここで書かぬと・こう云うことを書くきっかけもあまりなかろうと思うので、ここで四十七士の切腹について考えてみたいのです。もちろん歌舞伎の「仮名手本」と深く関連するものです。

柳田国男が昭和20年(1945)5月頃に書いた・「先祖の話」という本があります。本書の終わり近くで、柳田は「太平記」のなかで湊川の合戦で楠木正成が「最後の一念に依って、善悪の生を引く」、「七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさや」といい、弟正季と刺し違えて死んだ逸話を引いて、次のように語ります。

『「太平記」の「七生報国」の一節をよく読んでみると、このなかにはまだ一抹の曇りというようなものが漂っている。それを今までは全く気が付かずに、深い印象を私たちは受けていたのである。(中略)人にもう一ぺん生まれて来ようという願いまでが、罪業深き悪念であると、見られているような時代もあったのである。これが楠公(なんこう)の常時の常識であったのか。ただしはまた広厳寺の僧たちが後にそういう風に世の中に伝えたのか。もしくは語る者が、自分の批評をもって潤飾したか。三者いずれであろうともそれは問うところではない。』(柳田国男:「先祖の話」〜80・七生報国・昭和20年5月)

言うまでもないことですが、「七生報国」とは、戦時中の国家スローガンでした。その最も見事な実践例として讃えられたのが、大石内蔵助以下四十七人の赤穂義士の討ち入りでした。柳田が「先祖の話」を書いたのは、終戦の直前のことです。戦争の終わりが近いことを国民も何となく感じ始めていたが、どのような終わり方をするかまだ判然としない、そんな微妙な時期に書かれたものです。

「七生報国」には一抹の曇りが漂っている・・・この文章を読んで「これは聞き捨てならぬ」と怒る人は当時ならば多かったはずです。もちろん柳田は「そのような考え方がされた時代もあったのだ」としており、あからさまにこれを否定することはしていません。しかし、「七生報国」には元々別の考え方があったのではないかとやんわりと語るのです。柳田は一例として、水戸光圀(黄門)の侍女村上吉子・後に出家して一静尼の辞世の句を引いています。

又も来ん人を導くえにしあらば八つの苦しみ絶え間無くとも

『人生は時あって四苦八苦の衢(ちまた)であるけれども、これを畏(おそ)れて我々がみな他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの途(みち)は無いのである。我々がこれを乗り越えていつまでも、生まれ直して来ようと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかえして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと、信ずることの出来たと言うのは、特に我々にとっては幸福なことであった。』(柳田国男:「先祖の話」〜80・七生報国・昭和20年5月)

「七生報国」という理念は、「太平記」に於いては「7回生まれ変わって・この恨みを晴らさん」という形で捉えられています。しかし、柳田はそこに一抹の曇りがあるとして、改めてこのように語るのです。人が生まれ変わりを信じるということ、生まれ変わっても・また同じ「くに」に生まれたいと願うことは、次の人生ではもっと良い社会が待っているはずだ、次の人生ではもっと良い世の中にしたいと夢見ることである、これが「七生報国」の本来の意味ではなかったかと言うのです。ここで言う「くに」とは、国家ということではなく、端的には自分が生まれた土地、「ふるさと」・故郷のことを指します。

(注)詳細は「先祖の話」をお読みください。柳田の文章は、「山の人生」などもそうですが、慎重に婉曲に書かれており、真意を読み取るのが難しいところがあるようです。「先祖の話」読解に関しては、角川ソフィア文庫での、大塚英志氏の解説に助けられたところが大きいので、ここに感謝の意を付記します。)

以上の考察を以て「仮名手本忠臣蔵」に話題を転じます。丸本を見ると四段目・切腹の場で塩冶判官は師直を討ちもらしたことの無念を嘆いて、次のように言います。(現行歌舞伎では省略されます。)

「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」

まさにここで「太平記」の「七生報国」の逸話がリフレインされています。そうすると、「ザ・カブキ」でベジャールが指摘する通り、「仮名手本」もまた忠誠心の履行としての「情念」の仇討ちだと云うことになるのでしょうか。(別稿「忠臣蔵は御霊信仰で読めるか」を参照ください。)確かに「仮名手本」にそのような要素が全然ないわけではない。しかし、ここで柳田の言うことをもう一度思い出してもらいたいのです。

「七生報国」とは、人が生まれ変わりを信じるということ、生まれ変わっても・また同じ「くに」に生まれたいと願うことは、次の人生ではもっと良い社会が待っているはずだ、次の人生ではもっと良い世の中にしようと夢見ることである、吉之助はそう云う風に「仮名手本」を読みたいのです。そのような視点から「仮名手本」を眺めると、次のような台詞が九段目(山科閑居)のなかに見つかります。本蔵と由良助との対話をお聞きください。

本蔵苦しさ打忘れ、
「ハヽヽヽしたり/\。計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅きたくみの塩谷殿。口惜しき振舞ひや」
と悔やむを聞くに、
「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさば」
と思へば無念に閉ぢふさがる。胸は七重の門の戸を、洩るるは涙ばかりなり。

という場面です。武士とはその忠義を戦場において果たすのがその本分であろう、それなのにまさか主人の短慮な行為のために・仇討ちと云う形で己の忠義を試されることになろうとは・・・と由良助は嘆くのです。これが「仮名手本」での由良助の本懐であるならば、仇討ちに対する見方が根本的に変わると思います。(別稿「九段目における本蔵と由良助」を参照ください。)

「仮名手本」で描かれることがない四十七士の切腹は、明るい未来に向けて行われているに違いありません。次の人生ではもっと良い社会が待っているはずだ、次の人生ではもっと良い世の中にしようと夢見て信じる、四十七士はそれで見事に腹を掻き切って見せたのです。このことは大いなる余白(切腹シーン)を伴った両国橋での、大願成就の・あの晴れやかなエンディングから明らかであると思います。

またこのことはベジャールが主張するところの、「人間の生は一瞬でしかないのだから、最もしたいことをして生を生きる力を持たなければならない」と何ら矛盾するものでないと思います。吉之助は「ザ・カブキ」をそのような形で受け取りたいと思います。

(R6・10・26)


 

 

 


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