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「忠臣蔵」は御霊信仰で読めるか


1)判官・勘平の無念

「忠臣蔵」四段目において、塩冶判官は切腹の直前に師直を討ちもらしたことの無念を嘆き、次のように言っています。

「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」

また六段目において、早野勘平は死の直前において敵討ちの連判に加わることを許され「仏果を得よ(成仏せよ)」と言われて、次のような激しい言葉を吐いています。

「アア仏果とは穢らわしい。死なぬ、死なぬ、魂魄(こんぱく)この土にとどまって敵討ちの御共する」

判官・勘平の無念の気持ちは激しく、この身は死んでも魂はこの世に留まり無念を晴らさんという情念に満ちています。じつは彼らの台詞は「太平記」の湊川の合戦に敗れた楠木正成が弟の正季(まさすえ)と手に手をとり組み、刺し違えて自害をして果てた時の言葉を踏まえています。この時、正成は「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と誓い、「最後の一念によって善悪の生を引く」と言っていることが「太平記」に記されています。判官も勘平も正成のこの言葉を反復して語っているのです。(これについては別稿「太平記読みと忠臣蔵」など「忠臣蔵をかぶき的心情で読む」のシリーズをご参照ください。)

江戸の民衆には「太平記読み」の素養があって、赤穂義士の討ち入り事件が起こった時に彼らがまっさきに思い浮かべたのは「大石内蔵助は楠正成の再来だ」ということなのです。江戸時代の歴史観・倫理観において「太平記読み」が江戸の庶民に与えた影響は現代の我々にはちょっと想像がつかないほどに大きいことを銘記しておかねばなりません。(「太平記読み」のことはこれからも別のテーマで も触れることがあると思います。)


2)「忠臣蔵」は御霊信仰で読めるか

話は変わりますが、作家丸谷才一氏の「忠臣蔵とは何か」は昭和59年に発表されて大変に話題になった本です。詳しいことは本をお読みいただきたいと思いますが、この本で丸谷氏は赤穂義士たちが討ち入りした理由を「怨霊慰撫」という土俗信仰に求めています。浅野内匠頭の松の廊下での刃傷の原因は分かっていない、分からないけれど内匠頭は確かに何かに憤っていた、この「憤っていた」ことを当時の江戸の人々はひどく怖れたというのです。菅原道真の怨霊をなだめるために寺社を作るのと同じように、内匠頭の怨霊をなだめるために家来たちは吉良上野介の首をあげたのだというのです。

丸谷氏は、江戸時代の孝道や武士の論理は「意識の表層にある徳目」に過ぎず、その行為の下に古代的な・呪術的な層(御霊信仰)が深く堆積しているのだと言い、こう結論付けています。

『あれ(忠臣蔵事件)は浅野内匠頭という当代随一の荒人神を祭るため、二年がかりで準備した、大規模な儀式であった』(丸谷才一:「忠臣蔵とは何か」)

この丸谷氏の結論については後で検討することにしまして、この視点から先の判官・勘平の台詞を読んでみますと、判官も勘平も無念をこの世に残して・怨霊と化そうとする意識を吐露したものと解することが可能かも知れません。

判官は苦しい息の下で「定めて仔細聞いたであろ。エエ、無念、口惜しいやィ」と語り、さらに「由良助、この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らせよ。」と言い残して判官は息絶えます。判官は怨霊と化し、我に代わってその無念を晴らすことを由良助に命令するのが「四段目」の儀式なのです。形見の九寸五分はまさに判官の無念の象徴です。その受け渡しによって判官はその無念を由良助に伝えます。

さらに丸本では「由良助にじり寄り、刀取り上げ押し戴き、血に染まる切っ先を打守り、拳(こぶし)を握り、無念の涙はらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り、さてこそ末世に大星が忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」と書かれています。これだけでも由良助が判官と同じ次元において憤っているのは明らかですが、歌舞伎ではこの部分を判官切腹の後ではなく「門外」に持っていって演じます。

城外で独りきりになった由良助が懐から主人の形見の血のついた九寸五分を取り出し、「判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り」で刀についた判官の血を舐め、「忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」で師直の首を掻き切る仕草をして、その刀を袖に隠すように抱いて泣き上げます。

これは寛延2年(1749)江戸三座で「忠臣蔵」が初演された際に、市村座で由良助を勤めた初代彦三郎が始めた型だと言われています。これは「五臓六腑にしみ渡り」を文字通りに読んだ幼稚でグロテスクな解釈という風にも見えます が、主君の血を舐めることで、主君の怨霊を我が体内に取り込んで主君と同化しようとする行為とも考えられます。そう考えると、この彦三郎の型にある種の土俗的な・御霊信仰のバックボーンが感じられるかも知れません。

勘平の場合を見てみましょう。勘平は死ぬ直前に「死なぬ、死なぬ、魂魄(こんぱく)この土にとどまって敵討ちの御共する」と呻きます。さらに「十一段目」・義士たちが本懐を遂げた焼香の場において、由良助は勘平の縞の財布を取り出し、「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言い、義理の弟の平右衛門に勘平の名代として焼香をさせます。この由良助の行為も、 勘平の縞の財布を懐中に入れることで勘平の怨霊を我がものとして討ち入りの助けにしようとしたと解釈することも可能かも知れません。

別稿「しゆみし場での切腹」で紹介した「六段目」幕切れで勘平が腹を切ったまま、とんぼ返りを切って落ち入りを見せたとか、門口にしがみつきながら立ち腹を切ったとか言う珍型も、あるいはそうした御霊信仰からの発想であると見ることができるかも知れません。つまり、その死に様が壮絶であればあるほど、その怨念のエネルギーはより凄まじいものになるであろうということです。


3)江戸の合理的精神

丸谷氏の「忠臣蔵とは何か」は出版されてすぐ読んで、吉之助も大変にショックを受けました。吉之助にとってこの本は歌舞伎と御霊信仰との関連に最初に目を開かせてくれた本です。歌舞伎で御霊信仰に関連したキャラクターは、菅原道真・平将門をはじめ数多いことは言うまでもありません。

しかし、現在の吉之助はこの本には感謝しつつも、ちょっと距離を置いた見方を持っています。「忠臣蔵とは何か」についてはこのユニークな見方を評価する人はもちろん多いのですが、専門家からは反論が結構出ています。そのなかでは演劇評論家の諏訪春雄氏が丸谷氏と雑誌で論争したのが印象に残っています。諏訪氏はその論争の動機をこう語っておられます。この諏訪氏の気持ちがほぼ吉之助の気持ちに近いようです。

「丸谷氏の主張がそのまま世に行なわれるとすれば、忠臣蔵の本質が誤まられるにとどまらず、江戸時代に対する偏見を醸成しはしないかということである。江戸時代は怨霊が跳梁し、そこに生きた人々は政府の圧政と災害に苦しみ、毎年の新春から体制転覆の呪詛劇を上演していたというような、それは新しい江戸時代暗黒論の復活であり、江戸時代に現代日本の故郷を見る私にはとうてい受け入れがたいことである。」(諏訪春雄:「御霊信仰と判官びいき」)

例えば「陰陽師・安倍晴明」というのがブームだそうで、最近は旅行の本にも「魔界都市・京都ガイド」などという本があったりします。それでは平安時代というのは魑魅魍魎が跋扈し・他人を恨みねたみ・呪術で落としいれようとして・いつも怨霊に恐れおののいていた百鬼夜行の時代、そのような時代であったのでしょうか。そのような迷信・妄想に振り回されていた・主体性のない・哀れな貧困な精神の人々の時代であったのでしょうか。今の「陰陽師」ブームとやらは、超科学的な・非合理な世界への憧れを唱えながら、その一方で、そのような暗黒の平安時代のイメージを醸成しかねない危険を孕んでいるのです。

じつは 「陰陽道」というものは当時の人々が、この世の摂理を体系的に解明しようとした「科学」なのです。現代の人間から見れば、それは非科学的な迷信のように見えたとしても、それは当時の世界観に裏打ちされた科学的・合理的精神において生み出されたものであることを理解せねばなりません。御霊信仰についてもそう理解する必要があります。どの時代の人でも考える・感じることはそう大差ないのです。現代の人々だって後世から見れば、つまらん妄想に振りまわされているように見えるのではないでしょうか。

残念ながら丸谷氏の「忠臣蔵とは何か」も、江戸の人々は「忠臣蔵」を見ながら幕府の圧制を呪い・貧窮を恨み・将軍を呪詛したのだと、江戸時代は怨霊におそれおののき・迷信のなかで暮らしていた暗黒時代だったのだというようなイメージを醸成しかねないと思います。このことは「忠臣蔵」だけでなく他の江戸の文芸・舞台作品をみる場合にも非常に大きな差し障りになることだと思います。

もちろん吉之助はその底に流れる深層心理的なものを否定するわけではありません。本「歌舞伎素人講釈」でもそのような非合理的な・熱い情念を「かぶき的心情」と名づけて何度か考察してきました。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)特に本サイトではアイデンティティーの問題、特に個人と社会における情念の問題を強く意識していることはご理解いただいていると思います 。吉之助の場合は死にゆく者の「無念の情」を「自己のアイデンティティーが実現されないことへの憤懣」と読み、丸谷氏の場合は「怨念への萌芽」と読むわけです。

このような情念に土俗的な信仰・あるいは御霊信仰が関係してくることももちろんあると思います。先に挙げましたように歌舞伎での「四段目」・「六段目」においても、そうした御霊信仰の発想から演出が変えられるようなことが実際に見られたようです。「四段目」がまるで浅野内匠頭法要の場と化していることもそれと関係するかも知れません。特に歌舞伎においては観客の情緒に訴える要素が比較的強いことから、このことはつねに検討されるべき材料ではあります。

しかし、吉之助が歌舞伎・浄瑠璃を見るたびに感じるのは江戸時代の人々の精神の自由さなのです。それは楽天的なほどの自由さだと思います。それは明解な世界観に裏打ちされた・合理的な科学精神によって生み出されたものです。現代の我々からみれば、非合理的な・非科学的な要素を引きずっていると見えたとしても絶対にそうです。これは確信として言えます。

このことは「忠臣蔵」においても言えます。まずこのことを踏まえたうえで「忠臣蔵」・その他の歌舞伎・浄瑠璃作品を見ていただきたいと思います。その上で御霊信仰 や土俗信仰の視点を加えていくならば、それは理解の役に大いに立つでありましょう。

(H14・12・14)

(参考文献)

丸谷才一:忠臣蔵とは何か (講談社文芸文庫)

諏訪春雄:「御霊信仰と判官びいき」・(「聖と俗のドラマツルギー―御霊・供犠・異界」(学芸書林)に所収されています。)
 

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