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山の人生〜「紅葉狩」伝説のルーツを考える


1)山人のこと

民俗学者柳田国男がその研究の初期から、民間伝承のなかで山人(さんじん・やまびと)あるいは山姥とか天狗とか鬼とか云われた人々はもともと日本の原住民で、弥生時代に大陸から稲作を行う人々が渡来した後、追われるように山地に逃れた者たち (原日本人)であるという仮説を立てて、これを実証することに意欲を燃やしたことはよく知られています。柳田の出世作である「遠野物語」(明治43年)序文には「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と高らかに宣言して、その力強さに驚かされます。しかし、柳田が見出したのは山民(山地民)であって、結果として山人説を実証することは出来ず、自説を放棄せざるを得なくなりました。

吉之助は、柳田の山人説については真偽がよく分からないというのが正直なところです。どこか人里離れたところに文明を拒否し孤高を守って生活している人々がいる(らしい)という考え方は、どこか現代文明のアンチテーゼを太古に求める甘いロマン主義的感性の産物のように思われなくもありません。19世紀西欧では「ソロモン王の洞窟」(ヘンリー・ライダー・ハガード)のような秘境冒険小説が盛んに出版されたものでした。確かにそういう一面があると思います。

しかし、山人は(そのような人々がいるならばの話ですが)我々平地人からすると、想像を絶する・生と死とが隣り合わせの厳しい環境下で生きているわけです。よくよく考えてみると、どうして彼らは平地に下りて来ないのか(ずっと楽な生活ができるのに)。どうしてそんなに平地との交流を頑なに拒否しつづけるのか。そこから逆に我々平地人が生きることの意味を問い直さざるを得ません。「遠野物語」を初めて読んだ時、吉之助は「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」に込めた柳田の意図をちょっと図りかねたのですが、柳田がそう云う意図で言うのならば理解はできるなあと思うのです。(この稿つづく)

(H28・7・6)


2)山に埋もれた人生

柳田が山人実在説を断念した後の昭和元年(1926年)のことですが、柳田は雑誌に連載した「山の人生」という随筆の冒頭で、法制局勤務時代に見聞した或る殺人事件のことを記しています。恐らく明治30年頃に実際に起きた事件のようです。山の炭焼小屋で苦しい生活をしていた樵(きこり)の男がいて、その日も炭が売れず糧が得られずに戻って来て、子供の顔を見るのが辛さに昼寝をしてしまった。

『眼が醒めてみると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の頃であったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、しきりに何かして居るので、傍へ行ってみたら、一生懸命に、仕事に使う大きな斧を磨いで居た。おとうこれで殺してくれと言ったそうである。そうして閾の材木を枕にして二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして前後の考えもなく、二人の首を打落してしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。』(柳田国男:「山の人生」 〜山に埋もれたる人生ある事)

柳田国男 山人論集成 (角川ソフィア文庫)

この時点では、すでに柳田は山人説を断念していたはずです。しかし、「山の人生」では後続に神隠しや山姥・山人の話が長く続き、冒頭の逸話との間に、ちょっとギャップというか違和感があります。 犯人の樵は山間に生きる民には違いないが、これを原日本人の末裔だとしたわけではないので、柳田がどういうつもりでこの逸話を山人論の冒頭に置いたのか、その意図を図りかねます。文章を読みながら吉之助が 考えるには、柳田は山間地で暮らす民の厳しい生活を語る逸話をきっかけに、原日本人の末裔としての山人のイメージの民俗学的な展開を気楽に楽しんでみたということだと思います。あまり成功したと言えない気がします。まだ山人説に未練たっぷり なところが感じられます。

それにしても、この樵の逸話は無用の感傷を拒む淡々とした語り口が、読む者に鮮烈な印象を与えます。このままではそのまま文学にはならないけれども、ここには確かに文学のふるさとの如くのピュアな感動があるようです。例えば小林秀雄は次のように書いています。

柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を日頃痛感していた筈である。自分達が死ねば、おとうもきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです。柳田さんは、それをよく感じている。(中略)炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供じみた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らず行っているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もし彼等が我れに還るなら、「戦慄せしめる」に足るものが、話の背後にのぞいている。子供等は、みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろうと思っている。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したそのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。生き永らえて来られただろうか。そんな事まで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。』(小林秀雄:「信じることと知ること」)(この稿つづく)

(H28・7・10)


3)絶対の孤独

子供たちが父親に「おとうこれで殺してくれ」と言ったという気持ちは、あまりに哀しく、同時にあまりに美しい。ところで同じような局面を歌舞伎に探すならば、(山には 全然関係ないのだけれど)それは「義経千本桜・鮓屋」で手負いとなったいがみの権太の述懐のなかで、女房小仙と息子善太が若葉の内侍と六代君の身替りになろうと申し出る場面です。

『この度根性改めずば、いつ親人の御機嫌に預る時節もあるまいと、打つてかへたる悪事の裏。維盛様の首はあつても、内侍若君の代りに立つ人もなく、途方にくれし折からに。女房小仙が伜を連れ、「親御の勘当、古主(こしゅう)へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と、手を廻すれば伜めも、「母様と一緒に」と、共に廻して縛り縄、掛けても掛けても手が外れ、結んだ縄もしやら解け、いがんだおれが直(すぐ)な子を、持つたは何の因果ぢやと、思ふては泣き、締めては泣き、・・』 (「鮓屋」でのいがみの権太の述懐)

小林秀雄が言う通り、ここで「どうしてこの母子はこんなことを申し出たのだろう」といくら言ってみても仕方ないのです。ここに見えるのは、「むごたらしいほどに救いようのない、絶対の孤独と悲しみ」とでも云うべきものです。 そこに余計な感傷が入る余地がありません。(別稿「文学のふるさと・演劇のふるさと」を参照ください。)

ただし、このままでは文学や演劇になりません。「鮓屋」でも小仙・善太の行為は、いがみの権太の死や時代物の構図のなかに溶けてしまって、母子のピュアな哀しみがよく見えないきらいがあります。「なぜどうして」ということをいくら言ってみても仕方ないものを起点に置くとこれ以上の筋の展開が出来なくなりますから、作者は母子のことを悲劇の主軸に置かずに、ちょっと脇に置いています。だから「鮓屋」を論じる時に母子の気持ちを正面に論じた論考がほとんどありません。しかし権太の大博打を完成させるためには小仙・善太の犠牲が不可欠であったのですから、権太がその哀しみを共有していることは疑いありません。「 鮓屋」の感動の源は、ホントはここから来ているのです。(別稿「放蕩息子の死〜権太の死の意味」を参照ください。)

余談ですが、このむごたらしいほどに救いようのない、絶対の孤独と悲しみというものは、「義経千本桜」全体の思想にも深く関わっているものです。それはこの世の無常を想い、人間の業を想う精神へ繋がって行きます。知盛の述懐も、義経の述懐も同じ気付きから発しているのです。だから義経が全然登場しない「鮓屋」が「千本桜」の一幕になるのです。しかし、気付きだけでは演劇にはなりません。それが思想と行動に発展して行くからこそ知盛も義経も悲劇の主人公になれるのです。

「西海の波に漂ひ海に臨めども、潮にて水に渇せしは、これ餓鬼道。ある時は風波に逢ひ、お召しの船をあら磯に吹き上げられ、今も命を失はんかと多くの官女が泣き叫ぶは、阿鼻叫喚。陸(くが)に源平戦ふは、取りも直さず修羅道の苦しみ。又は源氏の陣所々々に、数多(あまた)駒のいなゝくは、畜生道。今賎しき御身となり、人間の憂艱難目前に、六道の苦しみを受け給ふ。」(「大物浦」での知盛の述懐)

「われとても生類の、恩愛の節義(せつぎ)身にせまる。一日の孝もなき父義朝を長田(おさだ)に討たれ、日蔭鞍馬に成長(ひととなり)、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が、名を譲つたる源九郎は前世の業、われも業。そもいつの世の宿酬(しゅくしゅう)にて、かゝる業因なりけるぞ」(「川連法眼館」での義経の述懐)

柳田の「山に埋もれたる人生ある事」の逸話を読んで吉之助が感じることは、(恐らく小林も同じだと思いますが)必ずしも山のことではなく、それは人生そのものについてのこと、人が生きるということの哀しみみたいなものです。一方、柳田の思索が山の人生の方へ傾いて行くのには、やはり柳田なりの山への特別な想いがあるのだろうと思います。(この稿つづく)

(H28・7・16)


4)中央と辺境

最近の考古学研究によれば、全国から出土した古代土器に付着した米や煤などの炭素同位元素を分析し、その土器が使われていた年代を推定することにより、稲作に代表される弥生文化が、どれくらいの年月をかけて、どのような経路で、日本全国に広がっていったのかが推定できるのだそうです。その研究報告によれば、稲作が大陸から、縄文文化の日本列島に伝わったのは、紀元前10世紀後半のことで、最初は九州北部からでした。そこから約400年ほどかけて東へ広がり、紀元前6〜5世紀頃に近畿に到達します。ところが、稲作の東進は、中部高地(岐阜軒・長野県 ・山梨県の山間部辺り)にぶつかったところで一旦止まります。この後、稲作文化は、中部高地を迂回する形で、日本海を渡って青森県辺りに伝わり、ここから東北地方を南下 したのが、紀元前4世紀頃のことです。こうして最後まで残ったのが、関東地方から中部高地にかけてであったそうです。

ここで押さえておきたいことは、稲作を最後までなかなか受け入れようとしなかった縄文人たちが、中部高地辺りにいたと云うことです。これは稲作だけが問題なのでは ありません。その背後にある宗教或いは文化習俗、さらに中央政権による支配のことまで考える必要があります。大和政権による中央支配を受け入れることが、地方の彼らにとって大きな障害になったのです。こうして「中央支配を拒否する辺境(地方)」という概念が次第に出て来ます。頑として中央を受け入れない人々がいたのです。

ここで縄文人(原日本人)の砦として最後まで残ったのがどうやら中部高地らしいと云うところが気になります。すなわち山間地に住む人々(山人)と云うことです。これは柳田国男が聞いたら、まさに我が意を得たりと喜びそうな研究結果ですねえ。そこで本稿冒頭の疑問に戻るわけですが、平地の方がずっと楽な生活ができるはずなのに、稲作を受け入れれば食料備蓄ができて安心なのに、どうして山人はどうして平地に下りて来ないのか、どうして平地との交流を頑なに拒否しつづけたのか、柳田が抱いていたイメージが何となく見えたような気がします。農務官僚でもあった柳田にとって皮肉なことであったと思いますが、中央のための仕事に従事しながら、柳田ほど辺境のことを思いやった人はいなかったのです。(この稿つづく)

(H30・6・9)


5)「紅葉狩」伝説について

貞観8年(866)、京都の応天門が炎上した、いわゆる応天門の変の罪を問われて、伴大納言と呼ばれた伴善男が、伊豆に流罪となりました。その後、罪を許された伴一族は奥州に流浪の身となりますが、その子孫に紅葉(もみじ)という娘がおりました。幼名は呉葉(くれは)と云い、生まれ付き利発で、成長するにつれその美しさは評判となり、また琴をよくしました。琴の評判は都の源経基(つねもと)の耳にまで届き、紅葉は経基の寵愛を受けて、やがて子供を身ごもります。しかし、紅葉は妖術を使って経基の正妻を亡き者にしようと企てたことが露見して、信濃の戸隠(とがくし、現在の長野県長野市戸隠)に流されました。

戸隠の地に落ち着いた紅葉は、里人に読み書きを教えたり、妖術で病を治したりしたので、里人から尊敬されるようになり、次第に勢力を伸ばしていきます。紅葉は住まいの周辺に、東京(ひがしきょう)、西京、加茂、清水などの地名を付けて、都をしのびました。しかし、京の都に戻りたいという思いが募る紅葉は、やがて徒党を組んで盗賊を働くようになり、戸隠の南方、荒倉山に要塞を築いてそこに立てこもりました。(荒倉山には「紅葉の岩戸」と伝えられる場所が今も残っています。)

紅葉の悪名は都へも届き、冷泉天皇は平維茂(これもち)を信濃守に任じ、紅葉討伐に差し向けました。維茂は紅葉の妖術に苦しめられますが、別所北向観音(きたむきかんのん)の加護により、紅葉はついに維茂の剣に倒れました。時に安和2年(969)10月、紅葉33歳のことでありました。

以上は「北向山霊顕記」などに見られる紅葉伝説ですが、もちろん作り話です。平維茂なる人物が、信濃守として赴任したという記録文書もないそうです。そもそも紅葉が伴大納言の子孫というのも怪しいそうです。果たして鬼女紅葉は実在したのか、そうでないならば伝承のルーツはどこにあったか、その辺は曖昧模糊としてよく分からないのです。それでも戸隠の村では、今でも毎年10月秋、まさに紅葉の時期に、「鬼女紅葉まつり」が行われています。神事のあと、謡曲「紅葉狩」や仕舞が披露されます。

戸隠の付近には、鬼女伝説の他にも、鬼にまつわる説話がいくつかあるようです。例えば「日本書紀」によれば天武天皇は、壬申の乱を制して即位した後、新都・遷都の調査のために、役人を信濃国に派遣したという記録があるそうです。(実際は遷都ではなく、天皇の湯治のための調査であったらしい。)鬼無里の村( きなさ、現在は長野県長野市鬼無里)の伝承では、この時の遷都の候補が鬼無里だということになっているそうです。当地に棲む鬼がこれを聞いて驚いて、遷都を妨害する為に、もともと平地であったところに一晩で大きな山を築いて塞いでしまいました(これを一夜山と呼びました)。怒った天武天皇が兵を差し向けて鬼を討ち、それで当地は水無瀬村から鬼無里村に地名を変えたと云うのです。吉之助はずいぶん昔に鬼無里村を訪ねたことがありますが、一夜山は、鬼が作った物だと云われれば確かにそのようにも見えそうな、ぽっこりとした綺麗な円錐形をした山でありました。(この稿つづく)

(H30・6・10)


6)古代の記憶

山奥に棲む鬼については、柳田国男の論考「山人考」(大正6年)の、「上古史上の国津神が末二つに分かれ、大半は里に下って常民の混同し、残りは山に入り又は山に留まって、山人と呼ばれた」という部分がよく引用されます。つまり大和朝廷の統治が日本各地に広まるなかで、大半は里に下って中央政権に服したのですが、一部には鬼と呼ばれて排除されながらも、なお本拠を山に置き、そこで独自の生活を守って来た人々がいたらしいということです。このようなことから、前章に引用した鬼無里一夜山伝説や鬼女紅葉伝説も、話が天武天皇や冷泉天皇の御代の設定にされてしますが、実は伝承のルーツはもっともっと以前にあって、古代縄文人が大和朝廷に滅ぼされていく抵抗の歴史から生まれたと考える民俗学者も少なくないようです。柳田の論考は、読む者をそのような古代へのロマンに誘います。

余談になりますが、大和政権による中央支配(稲作文化)を最後まで受け入れなかった(抵抗した)のが中部高地であったと云うことを先に触れましたが、戸隠の鬼女紅葉伝説と云い、諏訪大社の御柱祭と云い、信濃の国(長野県)は古代縄文文化の名残りが残る、とても興味深い地域であることを記しておきます。もうひとつ、同じく中部高地である飛騨の国も、興味深い地域です。これについては別稿「野田版・桜の満開の下」論」のなかで坂口安吾の論考「飛騨高山の抹殺」を取り上げていますから、こちらをご参照ください。日本古代史にとって、中部高地はなかなか意味深な地域なのです。

ところで戸隠山の鬼女紅葉のような、女盗賊の話は、平安期にはさして珍しいものではなかったようです。代表的なものとしては、鈴鹿山の鬼女・鈴鹿御前があります。伊勢と近江の国の境に位置する鈴鹿山に棲んでいた女盗賊で、街道を行き来する旅人たちを襲いました。盗賊と云うと、他人の物をかすめ取る悪人に違いないですが、見方を変えてみると、富と権威で構築された社会構造を根本からひっくり返そうとする、中央支配への憎しみをたぎらせている者たちが盗賊なのです。このように山を根城にした盗賊が各地に居て、時の政治権力が及ばない治外法権 を守っていました。有名なのは大江山の酒呑童子ですが、なかには鈴鹿御前のように首領が女である場合もあって、鬼女紅葉もまたそうです。

坂上田村麻呂の鈴鹿山の鬼退治の話は、後に謡曲「田村」に取り上げられて、ここでは京都の清水寺観音菩薩の信仰と結び付けられています。しかし、「田村」には鈴鹿御前の名前は登場せず、ただ鈴鹿山の鬼とだけ云われているだけです。かつてその昔、為政者たちを恐れさせ・いらだたせた女盗賊の名前は消されてしまって、ただ「鬼」と抽象的な存在にまで落し込まれてしまいました。同じことが謡曲「紅葉狩」でもあって、やはり戸隠山の鬼とだけ記されていて、鬼女紅葉の名前が作中に登場しません。しかし、「紅葉狩」という題名は、本来の紅葉見物という意味だけではなくて、鬼女紅葉征伐という意味を明らかに掛けて使われているように思われます。

戸隠山の鬼女紅葉伝説で興味深いことは、中央政権への反抗ということはもちろんありますが、その片方で、自分の住まいの周辺に都の地名を付けてみたり、都へ再び戻りたいと云ったり、紅葉の都への思いを盛んに述べているところです。中央への憎しみと憧れが微妙に交錯しています。或いはかつて平地で平和に暮らしていた古代縄文人の記憶が、そこに蘇っているのかも知れません。(鬼無里の一夜山の伝説も、都への複雑な思いが背景にあるような気がします。)

観世信光作になる謡曲「紅葉狩」は、戸隠山で鹿狩りをしていた平維茂一行が、紅葉狩りに興じる美女たちに誘われて、酒宴を行うという設定です。鬼は美女に化けて敵 維茂をたらしこんで命を奪おうという魂胆ですが、酒宴の色模様にも、やはり都の生活に対する強い憧れが入り混じっていると感じられます。今は厳しい山間部に生きているけれども、できることならばはるか昔に祖先が暮らしていたように、自分たちも山を下りて平地に定着して平和に暮らしたいという縄文人の末裔たちの隠された哀しい願望を表しているように思われます。そこに吉之助は、厳しい「山の人生」のことを思うのです。

(H30・6・11)




  
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