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時代錯誤桜幻影(ときあやまりてさくらのまぼろし)〜「野田版・桜の森の満開の下」論

平成29年8月歌舞伎座:「野田版・桜の森の満開の下」

六代目中村勘九郎(耳男)、二代目中村七之助(夜長姫)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(オオアマ)、 二代目市川猿弥(マナコ)他 

野田秀樹演出

*比較参考映像:平成4年2月・劇団夢の遊眠社公演(日本青年館)


1)野田歌舞伎のなかの「大衆」について

吉之助は野田秀樹とは同世代なので、その活躍はもちろんリアルタイムで耳にしています。しかし、吉之助は野田演劇には疎くて、生で見たのは歌舞伎座で上演されたものだけであることを記しておきます。吉之助の野田演劇についての知識はそんな程度ですから、歌舞伎批評をやる者の戯言と思って、まあお気楽にお読みください。

これまで見た野田歌舞伎三作品に疑問があるとすれば、それは主人公の心情が大衆と重なっていないことであろうと吉之助は考えています。研ぎ辰も鼠小僧も愛陀姫も、トリックスターの如く立ち回って大衆(あるいは世論)を翻弄し、これを味方に付けようとします。大衆は気まぐれで、その時の気分で行きあたりばったりの、無責任な反応を示します。大衆の気まぐれな反応は、その時々の彼らの正直な反応ではあるのです。しかし、大衆の言動や行動には、一貫性がありません。そして、この点が大事なところですが、大衆のそのような反応は、最初は研ぎ辰など主人公が仕掛けて引き出したかのように見えてますが、実はそうではなかったことがだんだん分かってきます。予想できない大衆の反応に、今度は主人公の方が振り回されて行きます。事態はさらに捻じれ、よじれて行きます。こうして、結局、主人公は大衆からも飽きられて、見捨てられます。十八代目勘三郎が初演した三作品に関しては、すべてこの共通したパターンなのです。

野田歌舞伎三作品に関しては、主人公は、大衆と対立していると云わないまでも、大衆の枠外にあります。主人公の心情は大衆と重なっていないと吉之助は思います。研ぎ辰が「生きてえ、死にたくねえ・・」と言っても、それは観客と共有できるものになって来ません。だってそこに至るまで観客は大衆の視点に立って研ぎ辰のドタバタ振りを笑って見ていたのですから。確かに観客は最後の場面で研ぎ辰に同情するでしょう。これで観客は免責にされていますが、主人公にとって最後まで大衆は他者です。ところで野田は、「野田版歌舞伎」のあとがきのなかで、こんなことを書いていますねえ。

『「歌舞伎は大衆のものである」の問題は、そんなところにはない。卑怯な言い方かもしれないが、それは「魂」の問題だと思う。(中略) 歌舞伎が扱う「魂」は、大衆の「魂」であるべきだと思う。金や色恋に迷い、大きな力に弱く、小さなことにおどおどし、人を嫉妬し、人を憎み、人を騙し裏切り、そして 後悔し、それでも生きる「魂」である。悟りなど到底求めていない「魂」である。』(野田秀樹:「野田版歌舞伎」・あとがき)

野田の言わんとすることは分かるけれども、野田は自分のスタイルにぴったり合った歌舞伎観をまだ掴んでいないと感じます。「こんなの歌舞伎じゃない」と云われそうな予感に身構えたところが文章に感じられます。吉之助は「野田版愛陀姫」初演当時の観劇随想に次のように書きました。

『出版されたばかりの「野田版歌舞伎」(新潮社)の「あとがき」で野田氏が「歌舞伎が大衆のものであるかということは・卑怯な言い方かも知れないが・大衆の魂があるかどうかという問題である」という趣旨のことを書いています。(中略)これは大事な点ですが、大衆は「魂」なんて用語は使わないのですよ。「魂」という用語には建前が入っています。それは「ええカッコしい」の言葉です。「魂」というのは武士が使う言葉です。それは体制側の言葉なのです。大衆はやむにやまれぬその思いとか、引くに引かれぬその辛さとか、思い切っても思い切られぬ切なさよとか、そう言うのです。「歌舞伎素人講釈」ではそれらを「心情」と呼んでいます。もうひとつ、大衆と言って焦点をボカしてしまわないで、個人の思いの強さをもっと前面に出すことですかね。個人の思いを集団の思いとして書くことです。野田氏が「歌舞伎には個人の熱い心情がある」と書けるようになった時に野田版歌舞伎はホントの歌舞伎になることでしょう。』(山本吉之助:「分裂した他者〜野田版・愛陀姫」)

「大衆」は、野田演劇の重要なキーワードだと思います。しかし、主人公の心情が大衆と重なっていないのに、「歌舞伎の扱う魂は、大衆の魂であるべきだ」という理屈がどうして突然出て来るのでしょうか。これは不可解なことです。「歌舞伎は大衆のもの」と云ってしまえば、反論の余地ないだろという感じがしますねえ。野田自身も「卑怯な言い方かも知れないが」と書いていますから、論理の強引さを薄々感じてはいるのでしょう。そこをもう少し突き詰めてもらいたいのです。

吉之助は、歌舞伎は個人の熱い心情のドラマであると定義しています。「歌舞伎素人講釈」では、これを「かぶき的心情」と呼んでいます。それはあくまで個人の心情ですが、それが徹底して個人的であることで、却って普遍性を帯びて来るのです。そして観客ひとりひとりが共有できるものとなる。これが歌舞伎の作劇手法なのです。

例えば「曽根崎心中」で「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい、オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」とお初が叫ぶのは、まったくお初個人の心情です。しかも本来大阪町人の共感を呼ぶはずがない遊女風情がそんなことを言うのです。ところが、そんな個人的な心情が、当時の大阪町人の心情に火を付け、心中ブームになり、「恋の手本」とまで呼ばれることになりました。さらに時代を隔てた現代の観客までもどうして感動させることになるのか、そこのところを考える必要があります。それは個人の熱い心情が、普遍性を獲得しているからです。お初個人の心情が、観客ひとりひとりの心情と重なるからです。

要するに観客が「研ぎ辰、可哀想・・」と云って涙するだけではそれは同情であって、研ぎ辰にとって観客はまだまだ他者なのです。研ぎ辰の最後を見て仇討の理不尽さに観客が懐疑を抱き、ちょっとだけでも憤りを感じるならば、その時、主人公の心情が観客に届いたと云える。その時初めて同情が共感に変わります。ですから野田がホントの歌舞伎を書こうと云うならば、個人の思いの強さをもっと前面に出すこと、集団の思いを個人のなかに託することです。ただし吉之助は、野田にそれが出来ないとは思っていません。手法さえ会得すれば、野田は歌舞伎を書けると吉之助は思っているのです。例えば「オイル」での富士の次の台詞です。

『電話の向こうで人が溶けてあたしの耳に声が残った。石段に腰をかけていた人が溶けて、その石の上にその人の声だけが残ったように、あたしの耳に声が残った。電話の向こうで十万人の人間が溶けて、十万人の声があたしの耳に残った。残った声は幻?・・・このオイルが幻だというのなら、それでもいいの。幻のオイルを補給して、どうしても幻の零戦を飛ばしてやる。ヤマト、もう一度教えて。復讐は愚かなこと?たった一日で何十万の人間が殺された。その恨みは簡単に消えるものなの?一ヶ月しかたっていないのよ、あれから。どうしてガムをかめるの?コーラを飲めるの?ハンバーガーを食べられるの?この恨みにも時効があるの?人は何時か忘れてしまうの?原爆を落とされた日のことを。』(野田秀樹:「オイル」・富士の台詞・初演2003年4月)

*野田秀樹:「オイル」は21世紀を憂える戯曲集に収録

「オイル」は復讐史観であるという批判を野田はかなり浴びたそうです。野田は対談のなかで、サリン事件で息子を亡くしたお母さんが「オイル」を見て、「よく書いてくれた、偉い人は綺麗なことしか言わないが、自分はそうしたい(復讐したい)」とアンケートに書いてきたと語っています。野田は、「それ(復讐)は我々の意図するところではない、けれど僕には知性に対する信頼がまだあるし、あのお母さんは自分を抑える力をきっと持っているんです」と語っています。これはまったくその通りなのです。富士の台詞は、特異的に偏った個人的な心情であるからこそ、大衆と共有できる心情になり得るはずです。このような心情からの台詞が書けるならば、野田氏は歌舞伎が書けると吉之助は思うのです。しかし、これまでの野田歌舞伎三作品で結局そうならなかったのは、大衆の扱い方に問題があるせいだと吉之助は考えています。野田演劇では余計な尾ヒレが多過ぎであるので焦点ブレして、最後に主題が浮かび上がってこないせいです。尾ヒレの多過ぎが野田演劇のフォルムだということは分かっています。恐らく野田はシャイなのでしょう。けれども 「オイル」で復讐を踏みとどまる知性へのメッセージを明確に送ることは、劇中で復讐を炊きつけてみた作家の責務でもありましょう。だから芝居ではエンディングがとても大事なものになって来ます。途中が駄目でも、エンディングが良ければチャラに出来る、芝居にはそういうものがたくさんありますね。

*野田秀樹:「野田秀樹 赤鬼の挑戦」〜鴻英良との対談・「復讐へと向かわないための知性」

そこで今回(平成29年8月歌舞伎座)での「野田版・桜の森の満開の下」のことです。本作は昭和64年(1989)2月・日本青年館に於ける劇団夢の遊眠社公演 で初演されたもので、表題は「贋作・桜の森の満開の下」でした。「贋作」は「がんさく」ではなくて、「にせさく」と読むんだそうな。本作は数ある野田作品のなかでも傑作の評価が高いもので、実際、観客動員も飛びぬけて高かった作品です。故・勘三郎とは、いつか本作を歌舞伎座で上演したいと話し合っていたと聞きます。今回は、それをふたりの遺児が上演するという訳です。今回の「野田版・桜の森の満開の下」上演に当たり、野田は台詞を七五調にするなど、脚本に若干の改訂を施したようです(この件については後で触れることにします)が、吉之助の関心は、主人公(耳男)の心情が大衆と重なって来るかどうかです。そこで、まずこの点を検証して行きたいと思います。(この稿つづく)

(H29・8・31)


2)ヒダの顔

まず野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」ですが、原作は坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」(昭和22年5月)及び「夜長姫と耳男」(昭和27年6月)を原作としています。さらに前者に対する関連評論として「文学のふるさと」(昭和16年7月)、後者に対する関連評論として「安吾新日本地理〜飛騨・高山の抹殺」(昭和26年9月)及び「飛騨の顔」(同じく昭和26年9月)を踏まえておかねばなりません。

「贋作・桜の森の満開の下」は、芝居の筋の流れとしては「夜長姫と耳男」から採っています。発端と結末を「桜の森の満開の下」から採っています。さらに安吾の日本古代国家の成立過程に関する歴史的推理を取り入れて、原作とはまったく異なる筋に大胆に仕立てています。ここがあらかじめタイトルに「贋作」を冠としていることの理由があるでしょう。「贋作」と称するのは原作の冒涜だという非難に対して先手を打った申し訳であり、自らの意図に沿って作品を大胆にアレンジしようという宣言だと思います。「にせさく」と読ませるのは、敢えて安っぽさを擬態しようということでしょう。

そこで本稿では、吉之助は大衆の心情という視点から、野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」を分析しようと云うわけです。原作である安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」は、安吾の傑作として特に名高い二作品です。どちらも観念的な寓話で、主人公 (前者は盗賊、後者では耳男)の個人的な心情に迫ったものですが、そこに大衆の要素を見出すことは出来ません。野田の芝居のなかの大衆の要素は、「安吾新日本地理〜飛騨・高山の抹殺」から来ます。野田秀樹は、評論に出て来る「ヒダのタクミ(飛騨の匠)」を、小説「夜長姫と耳男」の耳男(ミミオ)に結び付けて芝居に仕立てています。耳男はもともとは師匠を殺してヒダのタクミを偽った者でした。(ただし原作に 師匠を殺す筋はありません。)しかし、耳男は夜長姫とのやり取りのなかで、だんだん木像を作り上げることを真剣に考えるようになります。この耳男が大衆の要素を最終的に背負うと当たりを付けたうえで、まず「飛騨・高山の抹殺」のことを考えます。(なお安吾は、ヒダのタクミと カタカナで書いています。)

安吾は自らを「タンテイ(探偵)」と称し、「安吾史談」など大胆な歴史推理を披露した評論・エッセイをたくさん書きました。「安吾新日本地理」でも、各地のルポをしながら歴史談義へしばしば深入りしました。これらは後年の、作家を起用して旅の紀行文を書かせる雑誌の企画、例えば司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズなどの先駆けとなったものです。特に「飛騨・高山の抹殺」の安吾の歴史談義は熱いものです。その筆致は旅行エッセイの範疇から大きく逸脱し、吉之助はもしかしたら今読んでいるこの文章は「安吾新日本地理」ではなくて「安吾史談」だったか知らん? 間違えたかな?と思って、読みながら本の表紙を確認し直したことが何度もありました。それほど飛騨・高山に関する安吾の入れ込み様は熱いのです。

「飛騨・高山の抹殺」において、安吾は、日本書紀に見える日本武尊兄弟、忍熊王兄弟や両面スクナなどの「兄弟神話」には、実は原型があったとします。原型となった史実とは、いわゆる壬申の乱で、本来は日本の正式な首長を継ぐべき高貴な人(天智天皇の息子である大友皇子)が、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)に殺されたことであると推理します。兄弟神話は、このような肉親間の争いが歴史のなかではしばしばあったことで、大したことではないとするために作られたと云うのです。現天皇家は実はヒダ王朝の出身であった。つまり日本はヒダから始まった。壬申の乱の戦闘は、日本書紀にあるように美濃や近江で行われたものではなく、実はヒダで行われた、この事実を隠蔽するために、ヒダは歴史から消し去られたと安吾は推理します。

安吾の推論については吉之助はびっくりで、「ああそうですかあ、そんなことも考えられるかもですねえ・・・」ということくらいしか言えないので、本稿で真偽を論じるつもりはありません。歴史学の専門家の間では 安吾の推理はどう評価をされているのでしょうかねえ。しかし、現在でも歴史ファンには安吾の歴史推理は興味をそそるものであり続けています。やはり飛騨・高山には何かがあるのかも知れません。それにしても「飛騨・高山の抹殺」は、ほとんど日本古代史疑という感じに終始する異様な読み物です。最後に他店の悪口を盛んに云って自分の店の安物を売りつけようとする土産物屋のルポ的な文章がちょっと出て笑えるくらいです。これじゃあ「新日本地理」ではないじゃないかと云いたいほどです。安吾は、ヒダのタクミについて次のように書いています。

『ヒダのタクミには名前がない。タクミはヒダのあたり前の商売のせいか、米やナスをつくる百姓が作者としての名を必要としないように名を必要としないらしい。かかる本質的な職人が名人になると、怖しい。濁りも曇りもありません。その心境にも曇りなくムダな饒舌がなく、そして、その心境と同じように技術が円熟して、まことにどこにもチリをとめないというのがヒダの名人の作です。それが国分寺の薬師と観音ですよ。アア美しい、と云えば、それで尽きてしまうぐらい、カゲリと多くの観念とが洗い去られているのです。』(坂口安吾:「安吾新日本地理〜飛騨・高山の抹殺」(昭和26年9月)

同じ時期に書かれた評論「飛騨の顔」は、「飛騨・高山の抹殺」とまったく同じ題材を扱っており、補足し合う関係にあります。ここからもヒダのタクミの部分を挙げておきます。

『作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上もない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味わいつつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであった。こういう境地から名工が生れ育った場合、その作品は「一ツのチリすらもとどめない」ものになるでしょう。ヒダには現にそういう作品があるのです。そして作者に名がない如く、その作品の存在すらも殆ど知られておりません。作者の名が必要でない如く、その作品が世に知られて、国宝になる、というような考えを起す気風がヒダにはなかった。名匠たちはわが村や町の必要に応じて寺を作ったり仏像を作ったり細工物を彫ったりして必要をみたしてきた。必要に応じて作られたものが、今も昔ながらにその必要の役を果しているだけのことで、それがその必要以上の世間的な折紙をもとめるような考えが、作者同様に土地の人の気風にもなかったのである。』(坂口安吾:「飛騨の顔」・(昭和26年9月)

安吾の言う大事な点は、ヒダのタクミは卓越した技術を持った工芸者(職人)ですが、芸術家ではないということです。芸術家は名前を持っており、名誉があります。歴史に名前が残ります。ヒダのタクミは、そういうものを決して求めません。だからその心境に曇りがなく濁りがない。名人の澄みきった心境は、ただ作品をつくって自ら満足すれば、それで十分こと足りるのです。そして名前を残さず、消えていきます。このような安吾の「ヒダのタクミ」観は、「日本文化私観」(昭和18年12月)での、下記の文章と底流において相通じるものがあります。これは、戦中戦後も変わらぬ、安吾の一貫した美学でした。つまり実質こそ大事だということです。

『見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。(中略)我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似をることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。』(坂口安吾・「日本文化私観」・昭和18年12月)

ここまで書くと安吾の「ヒダのタクミ」論は、ヒダのタクミは名声を求めない、心境に曇りがなく濁りもない、美しさのための美しさを求めない、だからその作品は実質を持っており、その美の真実によって人の心を打つという結論になると思います。しかし、安吾の言いたいことは、これで終わりでないはずです。まだ大事な考察が抜け落ちています。

安吾がホントに問題にしたいことは、どうしてヒダのタクミはそのような澄みきった心境に至ったか、その歴史的背景は何か?ということに違いありません。「飛騨・高山の抹殺」は、どのような理由で飛騨・高山が日本の史書から消し去られたかという推理が大半を占めます。それら歴史推理がすべて安吾の「ヒダのタクミ」観へ流れ込むはずです。これで「飛騨・高山の抹殺」が「新日本地理」の一編になるはずです。しかし、ヒダの歴史がヒダのタクミへどういう風につながるか、そこのところをを安吾は評論のなかではっきり書いていないのです。なぜ書かなかったか?と云うと、文章を読めばそれは当然分かると思ったので書かなかったのかも知れませんが、そこのところが何度読み返しても分かりにくい。

しかし、吉之助に何となく見えてきたことは、ヒダのタクミとは、最初から名声を求めない澄み切った精神を持った工芸者たちであったわけではないということです。その裏に長い苦難の歴史があったのです。ヒダのタクミは、権力によって名声を受ける権利を剥奪された工芸者たちであった。権力から芸術家の名誉を剥奪された、歴史から消 し去られた工芸者たちであった。当初は彼らにもいろんな葛藤や憤懣があったに違いない。しかし、彼らはこれに耐え、言いたいことのすべてを呑み込んだ。そして黙々と仕事を続けました。そうして長い時が過ぎて、いつの頃か、どうして自分たちが名声も得ることなく、なぜ芸術家と呼ばれないか、その歴史的背景さえ忘れてしまいました。いつの間にか、ヒダのタクミは名声を求めないことが当然だと思うようになったのです。「ヒダの顔」に刻み付けられたものは、ヒダの民のそのような苦難の歴史です。これが安吾の言いたいことだと思います。(この稿つづく)

(H29・9・1)


3)ヒダの顔・続き

歴史から意識的に背を向けた姿勢を取る、それがヒダの人々であると、安吾は考えました。それは日本書記が飛騨・高山を抹殺したことから始まったと安吾は推測しました。だから安吾が印象的だとする「ヒダの顔」とは、歴史の一切を剥奪された顔、そしていつの頃からかそれは歴史から意識的に背を向けた顔となったということです。これで安吾の「ヒダのタクミ」 観が、民衆(大衆)にやっとたどり着きました。これが野田の「贋作・桜の森の満開の下」を大衆の視点で分析するための鍵となると、吉之助は目論んでいるのですがね。

飛騨・高山を旅して「なるほど。そうか。ヒダの顔というものが、たしか、どこかで見かけた顔だと思っていたが、仁王様の顔も、ヒダの顔じゃないか」、「至るところに仏像がいらア」と安吾は感嘆します。(「飛騨の顔」)安吾はヒダらしい特徴の顔は、男の顔ならば仁王様や赤鬼青鬼の像、女の顔ならば奈良の古い仏像などに見えると云います。写真左は、飛騨・大雄寺の仁王像。写真右は、飛騨国分寺の薬師如来の像。これが安吾の云うヒダの顔です。



『ヒダ特有らしい顔、ヒダのタクミの顔は今も多少残っています。どんな顔かというと、仁王様や赤鬼青鬼や、女の顔の場合だとナラのミヤコの古い仏像がそうだ。自分たちの顔が仁王や仏像の原形なのさ。仁王様がスゲ笠なんかかぶって歩いているのに何人も会ったよ。二ツの目の上やホッペタにゴツゴツとコブのある顔だ。女の場合にもそうでもあるが、脂肪によってコブとコブの谷間が平らになると、まんまるい仏像の顔になる。今でもヒダの名もない寺の名もない仏像に、勿論その存在は誰にも知られていませんから国宝などではないが、それは驚くべき名作がありますよ。探せば諸方の名もないところに、いくらでも在るのかも知れませんが、そっちの方を見て歩くヒマがありませんでした。』(坂口安吾:「安吾新日本地理〜飛騨・高山の抹殺」(昭和26年9月)

ヒダのルポルタージュのなかで、安吾は「ナマ身のタクミに会うことなど考えずに、その名作のみを味わうのがヒダのタクミの本質に沿うことであろう」と書いています。口数が少なく、飾り気がなく、決して本心を語ろうとしない頑固なヒダのタクミの気風を感じます。しかし、一方で、聞き苦しいほど他店の悪口を散々言って細工物を売り込もうとする土産物屋の娘のことを面白おかしく書いてもいます。この辺りの軽妙さの影に隠れて安吾が考えることは、実は深いのです。ヒダの顔のなかに、ヒダの歴史が深く刻み込まれていると安吾は感じたのです。

『タクミの名作の口数の全くないのには似ざること甚大であるが、これもタクミの気質の一ツではあろうと私は思った。タクミの中にもヘタなタクミがタクサンいるし、名人の数にくらべてヘタなタクミの数が多いのも当り前の話であろう。ヘタなタクミの気質の一ツとして、やたらに他人の作品にケチをつけたがる気質があるのはフシギではない。(中略)この国(ヒダ)だけが一風変ってガンコな歴史を残している。庶流の大和朝廷をうけいれずにかなりの期間ただヒダ一国のみがガンコに抗争して以来、明治の梅村事件に至るまで、何かにつけて妙にガンコな抗争運動をシバシバ起しているのである。その気風はやや異常であるし独特でもあり、それも一途なタクミの気質でもあるらしくもあるし、あのヒダの顔に結びつくものであるかも知れない。それはヒダ王朝の系統と別な、南方的なガンコな鼻ッ柱を感じさせる。そう感じるのは私の思いすごしであろうか。』(坂口安吾:「飛騨の顔」・(昭和26年9月)

ところで小説「夜長姫と耳男」は、耳男の個人的な心情を独白形式で淡々と綴っています。耳男の彫った化け物像を疫病退散の呪いに拝みに多く村人たちが祠を訪れ、耳男は名人ともてはやされる場面が出て来ますが、ここではまだ耳男と大衆は重なってはいないし、対立もしていません。小説にはヒダの抹殺の記述はまったくなく、吉之助はこれまでこの小説にヒダの抹殺の歴史を意識したことはなかったのです。小説に(安吾が考えるところの)ヒダの歴史を意識的に絡めないようにして、工芸者(職人)が持つ芸術意欲の葛藤の方に焦点を置いたようです。小説に大衆の要素を読むことはできないと思います。

吉之助は小説「夜長姫と耳男」に評論「飛騨・高山の抹殺」 と絡めて読むことを野田の作品から教えられたので、今回はその手法で安吾の小説を読み直してみて、色んなことを考えました。これはなかなかスリリングな知的お楽しみでした。この点について野田に感謝をしたいと思います。吉之助が安吾の「ヒダのタクミ」観にこだわるのは、野田が「贋作・桜の森の満開の下」のなかで、安吾の原作「夜長姫と耳男」及び「飛騨・高山の抹殺」を綯い交ぜにして、「大衆」のテーゼをひねり出すならば、それはヒダのタクミに関連する安吾の歴史考察から来るに違いないと考えるからです。つまり耳男が飛騨の抹殺の歴史をどのように背負うかなのです。まあ「にせさく」を称していることだから、ある程度は劇作者がやりたいように書くことは許されるとしても、野田が安吾をどのように理解したか、そこであぶり出されることになるでしょう。(この稿つづく)

(H29・9・4)


4)桜の幻影

「贋作・桜の森の満開の下」の主筋は「夜長姫と耳男」に負っており、「桜の森の満開の下」の満開の桜は発端と結末のイメージに出て来るのみですが、とても印象的に使われています。この小説は安吾作品のなかでも抜きん出て人気が高いもので、気位が高く残酷な女房の歓心を買うために命をすり減らして奉仕する下賤な男という構図です。女房に要求されて、主人公(盗賊)は次々と人を殺したり血なまぐさい残酷なことをします。まず安吾の原作の桜の森の場面を見てみます。盗賊が女房を殺してしまった直後の描写です。

『そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。』(坂口安吾・「桜の森の満開の下」・昭和22年)

ここに主人公の「孤独」という言葉が出て来ます。このことを考えるためには、安吾の評論「文学のふるさと」(昭和16年)を参照せねばなりません。安吾は、生存の孤独とはむごたらしく、救いのないもの、モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであるということを云っています。これは安吾が「堕落論」(昭和21年)のなかで「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」と云っているのに通じます。ただし、もう少し先を読まねばなりません。

『生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……』(坂口安吾・「文学のふるさと」・昭和16年)

安吾の云いたいことは、生存の孤独とはむごたらしく、救いのないもので、我々のふるさとなんだけれども、人はそこにとどまっていられるものではない、堕ち切ったところから始まるのだ、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないということです。「堕落論」もそのような意図で書かれているものです。だから盗賊は女房を殺さなければならなかったと、吉之助は思うのですがねえ。

女の要求にひたすら奉仕する男のマゾヒズムとか、残酷な女のなかに際立つ聖性という読み方(この作品ではそのような読み方が多いようです)は、それはそれでひとつの切り口として理解はできますが、そのような読み方は常に他者である「女」が意識されており、安吾が書いている「彼自らが孤独自体でありました」ということにならないと思います。主人公(盗賊)は女房を殺したから孤独になったのではありません。彼はずっと以前から孤独であったのです。桜の森で女房を殺した時に、始めから自分が孤独であったことに初めて気が付いたのです。満開の桜の花が、彼にそのことを教えてくれたのです。

まず安吾が云う「アモラル」ということ、モラルがないということを正しく理解する必要があります。アモラルというのは、善とか悪という倫理基準がまるでないことを云います。これに対して「インモラル」にはまず善とか悪という倫理基準があり、これが悪い行為だと承知して彼は悪いことをするのです。善を裏切ることが倒錯した淫靡なお楽しみを彼に提供することになる、これがインモラルです。ですから女の要求に奉仕する男のマゾヒズムとか、女のなかの残酷性と聖性の二面性という読み方は、まあそれはそれとしても、そこに倫理基準を持った見方であって、小説をアモラルな視点で読んでいないことになります。

盗賊の女房は感じるがままに振舞い盗賊に次々といろんな要求をしますが、彼女はアモラルな女ですから、そこに善とか悪という倫理基準がまるでないのです。したがって女房のなかに、残虐性も聖性もないことになります。盗賊は女房の歓心を得るためにヒイヒイ云って奉仕していますが、その時、彼はそれが悪逆なことと思ってやっていたわけではないのです。つまり盗賊もまたアモラルであったわけです。桜の森で女房を殺した時に、彼はそういう自分に初めて気が付きます。満開の桜の花が、彼にそのことを教えてくれたのです。安吾は「文学はここから始まる」と書いていますが、これはモラルの始まりでもあります。

「桜の森の満開の下」の創作動機については安吾に原体験があったことが知られています。昭和20年3月10日に東京大空襲がありました。その年の春も上野の山はやっぱり桜が満開でしたが、戦時下のこともあって、上野公園にはひと一人もおらず、ひっそりとした桜の満開の森にただ風のなかに花びらだけが舞っているという光景であったそうです。坂口安吾はこの光景に大変ショックを受けたようです。

花見のひとの一人いない満開の桜の森は、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げ出したくなるような静寂が張り詰めているのであった。ある謡曲に子を失って発狂した母が子をたずねて旅に出て狂い死にする物語があるが、まさに花見の人の姿のない桜の花盛りの下というものは、その物語にふさわしい狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた。』(坂口安吾:「明日は天気になれ」〜「桜の花盛り」・昭和28年)

昭和20年空襲の後に満開の桜を見た或る方が「この時ほど自分は桜の花の美しさを呪ったことはない」と言うのを聞いたことがあります。すぐ傍で何万という人が焼け死んだのに、そんなこととまったく関係がなく、春になるといつものようにまた桜が満開になって一斉に生を謳歌するのです。それがどれほどアモラルな光景に見えたことでしょうか。(この稿つづく)

(H29・9・14)


5)桜の幻影・続き

平安の昔、鎮花祭(はなしずめ)の時に歌うお囃子では、「やすらへ。花や、やすらへ。花や」と言いました。「やすらう」は躊躇するの意味で、休息することを「やすらう」と言うのはその転化です。つまり、このお囃子は「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と呼びかけたものです。そう歌い掛けるのは、花が動き始めるのを恐れているからです。一旦動き出したら花は散り始めます。日本人の、散る花を惜しむ感情がそこから派生してきます。

一方、昭和の梶井基次郎は、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(「桜の樹の下には」・昭和6年)と書きました。梶井は桜のなかに潜む何か得体の知れないものの存在を感じ取っています。それは、人間は無意識という・自分ではコントロールできない暗い情念に突き動かされている人形であるという、20世紀初頭の世界的芸術思潮に重なっています。しかし、平安期の貴族の散る花を惜しむ気持ちから「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という感性が一気に引き出されるわけではありません。そうなるには発想の転換点が必要です。転換点にあるのは江戸の歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」が持つ明晰さであったと吉之助は考えています。(これについては別稿「やすらえ花や」を参照ください。)

「娘道成寺」の、花のほかには松ばかり・・という桜満開の舞台面は、それだけで観客の心をパーッと明るくします。そのような満開の桜の明るさは、実は江戸の民衆の感性の明晰さから来るのです。と同時に民衆は、桜の美しさのなかに何か得体の知れない不気味さを感じてもいます。江戸の民衆は、白拍子の踊りの、理屈のない世界の馬鹿々々しさに浸っていたい。美しく可愛い白拍子が蛇体に変身するなんてことは、考えたくないのです。ところが鐘の上がる段になって、何だか恐怖がどこからか湧き上がって来ます。鐘が上がるその瞬間にそれまで忘れていた「道成寺」伝説が舞台に蘇って来ます。これが「娘道成寺」のドラマ構造です。

つまり「娘道成寺」には、美しく可愛い白拍子が暗い情念を持つ清姫の霊であるという前提があり、しかし、観客はそのことから意識的に背を向けて、今この瞬間は、白拍子の踊りの、理屈のない世界の馬鹿々々しさに浸っていたいのです。だからこれはインモラルなお楽しみです。「娘道成寺」が持つ異様な明るさは、そこから来ます。満開の桜の樹の下でのどんちゃん騒ぎは江戸時代に始まったそうですが、「娘道成寺」を見れば、それが確かに日本の伝統的な感性のうえに立つものであることも分かるし、江戸期の民衆のなかで花見の宴会の風習が起こった理由もそこから見えて来ます。

ところで「桜の森の満開の下」冒頭部をご覧ください。これが小説の書き出しか?真面目に書いてるのか?と思うような書き出しです。

『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』(坂口安吾:「桜の森の満開の下」・昭和22年)

安吾が冒頭でこういうことをわざわざ書くのは、小説の背景が、江戸の満開の桜の下のどんちゃん騒ぎの時代ではないからです。つまり小説が江戸のインモラルな桜の見方に立つものではないと、あらかじめ釘を刺しているのです。前項で論じた通り、安吾が小説で書いた盗賊と女房のストーリーは、アモラルなものです。そこに文学のふるさとがあると安吾は信じているからです。

しかし、ここから話がややこしいことになりますが、安吾が「桜の森の満開の下」をアモラルな視点で書いたつもりでも、それは昭和22年に書かれたものとして、作品は成立したその時代から無縁であることは決してあり得ないのです。つまり作品はインモラルな読まれ方から決して逃れられないのです。そのことに安吾が気が付かないはずがありません。だから安吾は小説冒頭にああいうことを書いたのです。しかし、「桜の森の満開の下」はどうしても、歌舞伎の「娘道成寺」や梶井の「桜の樹の下には」 も踏まえた伝統の桜の見方で読まれてしまいます。「文学のふるさと」ではなく、もはや「文学」として読まれるのです。これは必ずしも読み方が間違っているわけではありません。これはそうならざるを得ないでしょう。だから「桜の森の満開の下」という小説は、重層的な読み方とでも云いましょうか、アモラルな視点で書かれたことを強く意識しつつ、これをインモラルに読むのが正しい読み方であるかも知れません。アモラルとインモラルの配合が難しいところですけどね。

太平洋戦争での空襲で焦土化した日本の光景を知らない世代(吉之助もその一人ですが)にとって、アモラルな世界は想像を絶します。我々は「桜の森の満開の下」や「夜長姫と耳男」を、どうしてもインモラルに読んでしまいがちです。しかし、そこに是非アモラルな視点を加えて読んでみれば如何でしょうかね。そうすれば遠く「ふるさと」を想うことが出来ます。そうすれば日本の桜の伝統を踏まえた重層的な読み方に出来ると思います。(この稿つづく)

(H29・9・15)


6)夜長姫の最後の言葉

「夜長姫と耳男」は、不思議な小説です。最後の場面(耳男が夜長姫を刺し殺す)が妙に清冽な静けさを持っています。しかし、ポーンと突き放された感覚があって、吉之助にとっては、あまり居心地が良くありません。気になる小説ですが、個人的に好きな小説とは言い難いですねえ。この結末の感覚については評論「文学のふるさと」が大きな関連を持っていますが、

『最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……』(坂口安吾・「文学のふるさと」・昭和16年7月)

という文章からすると、安吾自身も、このアモラルな、読者を突き放した物語を高く評価しないということになるかなと思います。それにしても、世間では安吾作品のなかでも「夜長姫と耳男」の人気が飛びぬけて高いようです。その理由は、刺殺された時の夜長姫が、耳男ににっこり笑って云う最後の言葉にあると思います。

「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」(坂口安吾・「夜長姫と耳男」・昭和27年6月)

夜長姫の最後の言葉を、最後に夜長姫が耳男を認めてくれたとか、あるいは耳男の精神の救済であるかのように、ロマンティックに捉える向きが多いようです。しかし、そのように読むと、安吾が「文学のふるさと」で言うような、突き放した感覚、絶対の孤独、絶対の悲しみというものが、あまり浮かんでこないと思います。「桜の森の満開の下」の主人公(盗賊)と同様に、耳男は夜長姫を殺したから孤独になったのではありません。彼はずっと以前から孤独であったのです。

吉之助はこの夜長姫の言葉は、なかなか曲者であると思っています。夜長姫の言葉は深遠なことを言っているようだけれど、すごくロマンティックに甘く響くけれど、これはやっぱり奇矯な考え方なのです。これは夜長姫が死ぬ前に耳男に掛けた最後の呪いの言葉です。耳男がこれから大人になっていくのならば、これは否定されなければならぬものだと思います。そもそも夜長姫が云うことは、ちょうど泉鏡花の戯曲「海神別荘」の主人公・公子が八百屋お七の火あぶりの処刑の場面に目を輝かせて言う台詞と、まったく同じ感じ響きがします。(別稿「超自我の奇蹟」を参照ください。)

『それはお七という娘でしょう。私は大好きな女なんです。ご覧なさい。何処に当人が嘆き哀しみなどしたのですか。人に惜しまれ哀れがられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。何故それが刑罰なんだね。(中略)娘は幸福(しあわせ)ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼(か)の生命(せいめい)を飾ったのです。抜き身の槍の刑罰が馬の左右に、その誉れを輝かすと同一(おんなじ)に。」(泉鏡花:「海神別荘)

文楽の八百屋お七の処刑の場面は、残酷さ無惨さを描写していることで異形であり、人間の心情の真実を描写していることで崇高であり、それゆえにひたすらに美しいということは、もちろんあり得ることです。しかし、それはインモラルな見方です。人間の見方だと云っても良いです。一方、海の神様である公子はそこに美しさだけを見て喜んでいます。それゆえ公子の見ている美しさはアモラルなものであり、そこに異形のきざしも崇高のきざしもありません。単にそれは美しいだけです。したがって海神である公子の感じ方は、人間から見れば奇矯であり滑稽なものにしか映りません。

公子と同じく、夜長姫の言動・行動も、一貫してアモラルで、奇矯です。人が殺されるのを見てキャッキャと歓び、血がパッと飛び散る光景に美しさを見ています。最後の夜長姫の「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ」という言葉も、優しい女神のような響きをしていながら、実は奇矯で危険なささやきなのです。人間であるならば、これは否定せねばならないテーゼです。

随分と昔、若い頃にこの小説を読んだ吉之助は、夜長姫を刺し殺してしまった耳男は、これ以後は像を彫ることができなくなったと解釈しました。これは吉之助の評論「文学のふるさと」の理解から引き出されるものです。「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いである」という認識は、非常に厳しいものです。この突き放した感覚に、普通の人間は耐えられません。耳男は死にはしないでしょうが、もう芸術作品を作ることは有り得ないだろうと感じました。

「夜長姫と耳男」からは、政治的或いは歴史的な要素をほとんど感じ取れません。ストーリーは耳男の内面世界だけを追っています。そこで吉之助は、これは野田から教えられたことですが、飛騨三作と云うべき「飛騨・高山の抹殺」と「飛騨の顔」を強く関連付けたうえで、改めて「夜長姫と耳男」を読み直してみることにしました。実は、これには多少の飛躍が必要で、ちょっと力が要ることです。つまり「夜長姫と耳男」から直接的に引き出される読み方ではないのですが、しかし、野田の「贋作・桜の森の満開の下」の解析のためにはとても役に立つと思うので、敢えてそれをやってみると、耳男のその後については、もう少し別の解釈があり得るかもと思えてきました。耳男は生き続け、これ以後も作品を作り続けたであろう。ただし歴史から意識的に背を向けた工芸者(職人)として、名声を得ることを拒否し、淡々と生き続けたであろう、そしてついには自分が何故歴史から背を向けたかも忘れてしまったであろう。つまり耳男はまことのヒダのタクミになったということになります。吉之助は、今はこの解釈がとても気に入っています。そうなると夜長姫の最後の言葉を、どのように解すべきでしょうか。

ここで吉之助は、エドガー・アラン・ポーの短編「ウィリアム・ウィルソン」(1839年)の最後を思い出すのですが。主人公(ウィリアム・ウィルソン)が、自分に しつこく付きまとう嫌な奴(彼の名前も同じくウィリアム・ウィルソン)を殺すのですが、最後にそいつがこう云うのです。

お前は勝ったのだ俺は降参するだがこれから先はお前も死んだのだ、――この世に 対して天国に対してまた希望に 対して死んだんだぞ俺のなかにお前は生きていたのだ。――そして俺の死でお前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということをお前自身のものであるこの姿でよく見ろ

だから吉之助は、夜長姫の最後の言葉を甘くロマンティックな響きに受け取れないのです。これは原初の世界に耳男を引き戻そうとする、とても危険で暗い誘惑に思えます。だから耳男は、「好きなものは咒うか殺すか争うかして勝ち取る」という姿勢を取ることは、もう止めたと思います。正確には、もう出来なくなったと思います。なぜならば耳男は、自分の内にある夜長姫を殺したからです。アモラルな世界を否定して、耳男は新たな世界へ踏み出すことになるのです。ここから芸術が始まり、或いは新たなモラルが始まることになるでしょう。

安吾の歴史観に立って、ヒダの歴史のうえに耳男を重ねて「夜長姫と耳男」を読み直すと、芸術家として賞賛される権利を或る政治権力によって奪い取られた者こそ耳男なのであり、耳男は名声を拒否する反骨のポーズを自ら取ることによって、自分はもう疎外された者ではないと宣言するのです。これがヒダのタクミの姿だということになります。これでやっと「夜長姫と耳男」が大衆に行き着いたことになりますね。

『作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上もない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味いつつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであった。こういう境地から名工が生れ育った場合、その作品は「一ツのチリすらもとどめない」ものになるでしょう。ヒダには現にそういう作品があるのです。そして作者に名がない如く、その作品の存在すらも殆ど知られておりません。作者の名が必要でない如く、その作品が世に知られて、国宝になる、というような考えを起す気風がヒダにはなかった。名匠たちはわが村や町の必要に応じて寺を作ったり仏像を作ったり細工物を彫ったりして必要をみたしてきた。必要に応じて作られたものが、今も昔ながらにその必要の役を果しているだけのことで、それがその必要以上の世間的な折紙をもとめるような考えが、作者同様に土地の人の気風にもなかったのである。』(坂口安吾:「飛騨の顔」・(昭和26年9月)

安吾はヒダのタクミの作る作品を、その素晴らしさにおいて国宝その他の名品と何ら変わりはないが、ヒダのタクミの作る作品は「これが芸術だ」という顔をしていないと云っています。この場合、芸術家と呼ばれる者は、為政者御用達の、したり顔した工芸者のことを指すとしてもよろしいでしょう。

恐らく安吾は、ヒダのタクミに「我々小説家もかく在りたい」という理想を見ているのです。安吾は「これが芸術だ」という顔をしていない小説を書きたかったに違いありません。実質(内容)こそが問題なのです。しかし、ヒダのタクミもそのような境地に容易に至ったわけではないことを、安吾はよく知っています。それが「飛騨・高山の抹殺」で述べられていることです。ヒダの長い苦難の歴史の果てにヒダのタクミの境地があった(と安吾は思っている)。だから自分(安吾)のような凡人が簡単にヒダのタクミの境地に至るわけではないことも、安吾自身がよく分かっています。だから今日も明日も、小説家として俺は、金のために生活のために詰まらぬ文章を書き続けて行くだろうな、結局、俺は売文家として堕ちるしかないのかな、それでもヒダのタクミのような純な志はちょっとだけでも持っていたいものだねえと、これは安吾が「堕落論」(昭和21年4月)で書いたことと相通じると思います。安吾の書いていることは一貫してブレがないと吉之助は思います。(この稿つづく)

(H29・9・19)


7)日本芸能の伝統技法

「贋作・桜の森の満開の下」は昭和64年(1989)2月・日本青年館に於ける劇団夢の遊眠社公演で初演されました。当時の吉之助は歌舞伎を集中して見た時期で、この初演は見てませんが、この時代の雰囲気はもちろんよく覚えています。演劇評論家・内田洋一は当時の演劇状況について、こんなことを書いています。

『(1980年代後半)当時の観客の特徴は何かと言えば、何にでもよく笑ったということである。笑うこと自体は人間の健全な働きであるはずだが、若い世代を中心にした当時の観客のそれは無反応と同じことであったり、セリフの意味を無化する暴力性を持っていたりした。笑いは特権的であった。笑うことを強迫観念のように自らに課す観客の反応は、明るさ、健康、清潔を狂信的までに求め、反対に暗さ、病気(死)、不潔を排除する大衆の分裂的な精神の象徴だったと今にして思えるのである。(中略)清水邦夫は80年代は苦しい時代だったというようなことを後に語ったものだが、演劇の言語はしばしば無重力状態にさらされるかのように、リアリティを喪失していった。』(内田洋一:現代日本戯曲大系・14の解説、三一書房)

現代日本戯曲大系〈14〉・・「贋作・桜の森の満開の下」を収録

野田秀樹はこの時代を生き残り、現代日本を代表する劇作家のひとりに成長しました。芸術はそれが成立した時代の空気を取り込んで様式化するものですから、野田の演劇様式は、もちろん80年代のスタイルに根ざしたものです。ただし時代との親和性があまりに強過ぎると、時代に縛られてしまって普遍性を得られません。良い作品が普遍性を持つということでは必ずしもなく、時代との親和性が強くて時代に縛られるからこそ心に強く残る作品になる場合だってもちろんあります。多分そのような作品は時の流れのなかに埋もれていくしかないでしょうが、作品として駄目ということにはなりません。そうやって多くの作品が上演されては消えて行き、ほんのひとつまみの作品だけが、時代を超えた名作として再演されるものになります。その辺は江戸時代に上演された膨大な芝居が次第に二・三百程度のレパートリーに集約されて行った現代歌舞伎の状況とまったく同じようなものです。

それにしても「観客が何にでもよく笑う」という指摘は、興味深いですねえ。「贋作・桜の森の満開の下」の再演時(平成4年2月)の舞台映像を見ても、この時代の雰囲気が濃厚に思い出されます。ただ同じ時期に歌舞伎にのめりこんでいた吉之助、つまり遅いテンポの芝居に慣れていた吉之助の感覚からすると、野田演劇によく云われる「疾走感」は、いささか空虚な気分にさせられたものでした。そこに空間があると、それを言葉で埋め尽くさないと気分が落ち着かないという感じなのです。言葉の質量感が軽い(良く云えば軽やか、悪く云えば薄っぺら)。歌舞伎だと10の言葉で埋めれば済むところを、20か25の言葉を詰め込まないと空間が埋まらない、そのような言葉への信頼感の軽さですねえ。役者の動きにもそれが云えます。上手端で台詞を半分言ったかと思うと、次は下手端へバタバタと走って残りの台詞を言う。役者が何の意味もなくジャンプしてみたり回転してみたりする。そこを捉えて待ってましたみたいに観客が笑う。動きが止まるのが恐ろしいみたいで、絶えず動き回っていないと不安になる。一見すると、これは歌舞伎とは真反対のベクトルの演劇世界のように思われます。イヤそれが悪いと言っているのではないので、誤解がないようにしてください。それが野田演劇のフォルムとして在るものだと云いたいのです。言葉を詰め込んでも詰め込んでも空間がまだ埋まらないという気持ちは、作家にとって苦しいものです。絶えずそのような不安感がつきまとうのが、恐らく80年代の演劇が持つ雰囲気なのです。そして、それは野田演劇のフォルムでもあるのです。(一方、現代の歌舞伎役者が10の言葉でちゃんと空間を埋め切れているのかと問われれば、これも疑問とせざるを得ませんが、これを論じていると話題が別のところへ行ってしまうので、ここでは置きます。)

ところで劇作家井上ひさしが野田秀樹に関してこんなことを書いていて、なるほどと思いました。江戸期の歌舞伎や小説で戯作者が使用した技法を駆使する作家が野田秀樹であると、井上は云うのです。

『諸芸術においては、作家の思想は魂の底で暴れ狂っているなにものかであって、それに名付けたり、それを言葉にするような代物ではありません。その暴れ狂っているもなにものかを表現可能なものにするために、作家は技巧という回線を敷き、その回線を通じて、そのなにものかを自分の外へ採り出すのです。(中略)わたしには「現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか」という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を繋げて結び合わせ、作家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むのがよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。そのさまざまな時・空間(これを「可能世界」と言い換えましょう)を、舞台の上に現前させるために、野田さんは 「見立て」「吹き寄せ」「名乗り」を多用するのです。』(井上ひさし:「野田秀樹の三大技法」・「野獣降臨」新潮文庫版の解説)

野獣降臨(新潮文庫)・・井上ひさし解説を収録

「見立て」とは、あるものをそれと似た別のものになぞらえて見せること。例えば、庭園に山を築いてこれを富士に見立てるとか、本歌取りなど、日本には伝統的にあるものです。野田演劇に頻出する言葉遊びと云われるものが、そうです。無関係ものを結びつけることで、それがストーリーが展開するための材料となっていきます。

「吹き寄せ」とは、風が吹いていろんなものが一つ所に吹き寄せられる様。例えば庭に様々な色の落ち葉が吹き寄せられる様で、秋の風情を表す。野田演劇においては、一見関係なさそうなものを連想でかき集めながら、やがてストーリーが形作られて行きます。

「名乗り」とは、例えば戦場に於いて武士が「やあやあ我こそは・・・」と自分の名前や家柄・素性などを声高に告げること。歌舞伎においては、「何の何某、実は何の某(それがし)」と云う形で、いつくもの世界が重ね合わされて行きます。ひとりの人物が可能世界を行きつ戻りつするなかで、ひとつひとつのものが全く別の意味合いを帯びて来ます。

日本のアニメやゲームの世界にも同じことが云えますが、こんな形で思わぬところに日本芸能の伝統が息づいているものですねえ。 井上は「技法こそ作家の思想の結晶だ」と主張します。見立てをする時に、何を取り上げて何を捨てるか、取り上げたものを何にどんな風に見立てるか、その選択に既に作家の思想が反映します。どんなものを吹き寄せ、どのように関連付けるか、その筋道に作家の思想が反映して来るのです。本来は関連がない時代や事象を見立てや吹き出しや名乗りによって、半ば無理やり重ねたり結び付けたりすると、何らの矛盾や不自然さが生じる場合だってあるものですが、その場合はそこに生じる違和感やギャップによって、対象が批評されることになります。「贋作・桜の森の満開の下」の脚本を読むと、安吾の原作を綯い交ぜにして、なるほど上手いこと見られるものに仕立てていくものだなあと感心させられます。(この稿つづく)

(H29・9・24)


8)クニを作る思い、モノを書く思い

『この「贋作・桜の森の満開の下」が描く世界は、ア二ミズムの崩壊だ。古代人が持っていたアニミズムの魂が、一つの行為によって制度化されていく。その行為こそが、クニを作るという思いである。(中略)一つの魂を宿すためには、沢山の魂が消されていっているのである。満開の桜の下に行くと、今でも我々がその場所に何か魂でも宿っている気になるとすれば、それが消えていった者たちの思いだ。この国が作られるために消えていった、古代人のアニミズムでもある。それを私は、鬼と呼んでいる。』(野田秀樹・「魂という文字の中に棲む鬼』・平成13年6月の新国立劇場での「贋作・桜の森の満開の下」上演プログラム、なおこの時の演出は作者自身による。)

野田のこの文章では、「贋作・桜の森の満開の下」の主題がスッキリ整理されて、芝居の構造がよく分かります。ただし、如何にも後から理論付けられた感がありますが。まあ初演から12年も経ってしまえば作品はもう他人が書いたものと同然ですから、作者も自作を客観的に眺められるようになるものですし、多少の理論化も出て来るものです。しかし、脚本を読むと、そのイメージは若書きの戯曲らしく もっと錯綜したもので、未整理のまま揺れているように感じます。これは良い意味で言っています。だから若さゆえの体温の熱さと勢いがあると思います。ともあれ、野田が云う、古代人が持っていたアニミズムの魂が、クニを作る過程のなかで制度化されて消されていくという歴史的視点は、本作を読むうえでの指標になるもので しょう。

ここで再びアモラルとインモラルということを考えます。アモラルとはモラルがまったくないこと。インモラルとはモラルに反することです。それではモラルとは何かというと、モラルというのは、何が正しくて・何が正しくないか、何が美しくて・何が醜いか、そういうことを分類する判断の基準となるものです。それが集団で共有されるものであるならば、それをモラル(道徳)と呼ぶのです。だからクニを作る過程で制度化が進行していくなかで、必ずモラルが生まれます。クニを維持するために何をすべきか、クニを機能させるために何か必要か、そういう枠組みが定められて、都合のいい者が取り立てられて、都合の悪い者は排除されていきます。

だからモラルというものは、つねに体制の論理そのものです。排除される側にだって自分たちの判断基準を持っているに違いない(それゆえ排除されるわけ)ですが、それはモラルと呼べません。そういうものは、悪とか鬼とか魔とか呼びます。モラルと呼べるものは、やはりそれは体制のものです。だから体制が変われば、モラルもつねに変わります。時代が変われば、モラルも変わります。因みに「体制」というのは60年代学生運動の用語でして、為政者・国家・社会制度・会社など既成組織の枠組みのことを云います。野田も吉之助も遅れて生まれて学生運動に乗り切れなかった世代ですが、間接的に強い影響を受けてはいます。上掲の野田の文章には、若干それが出ているかも知れませんね。

「贋作・桜の森の満開の下」に登場するオオアマは、壬申の乱で新しい帝に就いて、日本のクニの体制を定め、何が正しいくて・何が正しくないか、何が美しくて・何が醜いか、そういう判断基準を定めました。オオアマは、これに反対する者、あるいは馴染めない者たちを、オニとして排除しました。そういうことが日本のクニが定まる過程で起こったことです。

これが「贋作・桜の森の満開の下」の大筋としてあるものですが、そう云う風に日本のクニが中央集権国家として定まっていく過程で、大和朝廷の側と、そこから排除されて抹殺されていく周辺の豪族たちという二元構図に強く読んでしまうと、確かにスッパリ割り切れた感はあります。しかし、この読み方だと、何だか取り落としたものが大きい感じもしてくるわけです。

例えば「贋作」大詰で故郷のヒダの者たちが逃げ回るのを、「見いつけた」とひとつひとつ指差して、オオアマの手先に彼らを次々と殺させて、キャッキャと笑って喜んでいる夜長姫とは何者か?ということになると思います。これを無邪気で可愛いと思える方は、幸せな方です。野田が云うのは、夜長姫はアニミズムの側に立つということでしょうか?それとも体制側でしょうか?耳男が夜長姫を殺したということは、いったい何を意味するのか?このような疑問は安吾の原作からは決して出て来ないことです。これは野田が原作を壬申の乱に綯い交ぜしたことから出て来るわけです。注を付けますと、綯い交ぜの趣向が悪いのではなく、本来関連がない事象を無理やり結び付ければ、当然何らの矛盾や不自然さが生じてくるわけで、そのこと自体も対象への批評となるのです。

吉之助は安吾の原作分析のなかで、人が殺されて血が飛び散るのを見て「楽しい、美しい」とキャッキャと笑って喜ぶ夜長姫の感じ方はアモラルで奇矯であり、だから耳男は夜長姫を殺さねばならなかったと書きました。(第6章を参照のこと)芸術家は脳裏にいろんなイメージが飛び交いウズ巻きますので、頭のなかでは「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という状態なのです。これはもちろんマクベスの三人の魔女の言葉ですが、夜長姫の囁きが聞こえて来るようですねえ。(これについては別稿「雑談・伝統芸能の動的な見方について」を参考にしていただきたい。)しかし、芸術家がこれを作品として具現化するためには、「あれも良いが・これも良い・それも捨てがたい」とやっている間は決して作品は出来ませんので、最終的にこれをひとつの形に収斂(しゅうれん)せねばなりません。つまり何を取り、何を捨てるか、それを決めねばなりません。それを決める基準はその人が持つセンス或いは美学とでも云うのでしょうが、それはちょうど為政者がクニを定めていく時のモラルと同じような働きをしているわけです。「綺麗は汚い、汚いは綺麗」に留まっていたら、作品は出来ないのです。だからモノを書くという行為は、何かのイメージを犠牲にしてこれを切り捨てて行く行為である。夜長姫を殺した耳男は、野田でもあって、吉之助でもあるということですねえ。

そうするとクニを作るという思いと、モノを書くという思いというのは、どこか似たようなところがある(つまりそこに見立ての根拠があるわけで)ということなのです。しかし、それじゃあア二ミズムの象徴が夜長姫だということになるかと問われれば、そういうことになるとは吉之助は思われません。これは何となくしっくり来ません。だからそこは矛盾としてあるのです。

ですからもう一度繰り返しますが、「贋作・桜の森の満開の下」を日本のクニが中央集権国家として定まっていく過程で、大和朝廷の側と、そこから排除されて抹殺されていく周辺の豪族たちという二元構図にかつきり明確に読むことは、あまりしない方が宜しい。「贋作」は天皇制の欺瞞をパロディにしているとするような読み方が、一番いけません。演出家ならば仕方がないですが、芝居を見る観客としては、しない方が宜しい。批評家としては難しいところですが、何通りでも切り口が見い出せると云うことだから、ズルいようですが、やはり、しない方が宜しい。矛盾は矛盾のままに置いておく方が宜しいのです。(この稿つづく)

(H29・9・29)


9)演劇はアモラルを描くことが不得意である

第5章で満開の桜について考察をした時、吉之助は「やすらえ、花や」と歌う平安期の貴族の散る花を惜しむ気持ちから、昭和期の梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という感性に至るためには、発想の転換点が必要となる、その転換点となったのは江戸期の歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」が持つ明晰さであると書きました。この認識はとても重要なので、もう一度、ここで取り上げます。

「娘道成寺」では、美しく可愛い白拍子が実は暗い情念を持つ清姫の霊であるという前提があります。観客はそのことを知っていますが、そこから意識的に目を背けて、今この瞬間は、白拍子の踊りの、理屈のない世界の馬鹿々々しさに浸ろうとします。つまり、これはインモラルなお楽しみであるのです。このことは、いったい何を意味するのでしょうか。それは歌舞伎的な感性とはインモラルだと云うことを示しているのです。

例えば「七段目」・一力茶屋で遊ぶ由良助を考えてみてください。由良助は仇討ちの大望を秘めて、敵の目を欺くために祇園に遊びます。主君を裏切っているというインモラルなお楽しみは、茶屋場遊びを一層華やかなものに します。「熊谷陣屋」をみてください。熊谷次郎直実は我が子小次郎を敦盛卿の身替りにします。人を殺すということはもちろん非道な行為ですが、我が子を殺すとなると、それは家を潰すことにもなり、倫理的にも最悪の行為と云えます。ところがこれが主君の為だとなると、忠義の行為であることの崇高さがいや増すということになるのです。つまりこれはインモラルな行為なのです。そう考えると歌舞伎に登場するすべてのドラマ、吉之助がかぶき的心情の発露であるとするドラマは、すべて相反するふたつの要素の間で引き裂かれるインモラルな行為なのです。

話を歌舞伎に限定したくないので、更に話を続けますが、このようなインモラルな感性は、歌舞伎以降の演劇が本質的に持つものだということを申し上げておきます。つまり演劇そのものがインモラルな感性を持つのです。もちろん新劇もアングラ芝居も、現代のものはみんなそうです。モラルと、それに反するものを同時に持っていて、その間で揺れているから、インモラルです。そこに二元構図があるのです。それは演劇というものが、どんな側面からでも二元構図になっていることから来ます。対話も二元構図、舞台の左右・上下も、男と女も、主役と脇役、善と悪も、為政者と排除される者という図式もみんな二元構図・・・二元構図からなかなか抜けられないのが演劇です。これもインモラル的構図だと云えます。

一方、安吾原作の分析で、「桜の森の満開の下」も「夜長姫と耳男」も、ラスト・シーンを安吾はアモラルな視点で書いたということを考察しました。読者をポーンと突き放したところから来る静寂さ、絶対の孤独という感覚、むごたらしいこと、救いがないということ、これはアモラルな感覚です。

『最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。』(坂口安吾・「文学のふるさと」・昭和16年7月)

第5章でちょっと触れましたが、安吾の原作も戦後昭和期の作品である以上、現代のインモラルな感性から決して逃れられません。しかし、安吾は用心深くそのような要素を排除しようと努めながら、原作を書いています。満開の桜の森は言いようのない恐ろしさを主人公(盗賊あるいは耳男)に感じさせます。しかし、彼らにはその恐ろしさの正体が分かりません。ただ恐ろしいだけで、彼らは恐ろしさの正体が明確に見えていません。主人公が愛ゆえにひたすら奉仕し尽くしてきた女が、桜の森で突然鬼の形相に変貌して、恐怖に駆られた主人公は思わず彼女を殺してしまいます。逆に云えば女の変貌はそれほどまでに彼にとって予想外のことでした。インモラルなものが鬼女の面となって、最後の最後に現れます。ここからモラルが始まるのです。

一方、「贋作・桜の森の満開の下」では、冒頭の桜の森のなかで耳男は師匠であるヒダのタクミを殺害してしまいます。さらにマナコが殺人を犯します。これはどちらも原作にはない設定ですが、これは結構重要な改変です。ここで梶井基次郎のインモラルな感性が尻尾を出してしまっています。「桜の森には自分が殺した師匠の屍体が埋まっている」ならば、耳男は再び桜の森に入ることを警戒せねばならないはずです。それなのに「贋作」では無警戒のまま耳男は夜長姫を連れて桜の森に入ります。ここも気を付けねばならない箇所です。原作を読むと、「このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないとオレは思った」とあります。ヒメに対する恐怖が心底にあって、耳男は引き寄せられるが如く夜長姫を連れて桜の森に入ったと、原作に沿うならばそう解釈したいところです。これなら夜長姫が鬼女の面に変貌する結末が、流れのなかで予想される気がします。しかし、「贋作」ではこの部分を野田は「ヒメを、この青空から連れ出さなくては、このチャチな人間世界はもたない」と変えていますから、耳男は夜長姫を殺すことを全然考えていないわけです。この改変も重要です。そもそも「贋作」では、桜の森にいつかそこに戻っていきたい懐かしの故郷のような響きがありますねえ。これで 桜の森で耳男が夜長姫を殺すことの意味が弱くされています。桜の森でオオアマの手先がヒダの民を殺戮する件があるからこれで補われていますが、ここがインモラルな場面で、対する耳男が夜長姫を殺す件は甘い感じに仕立てられてます。それにしても耳男の師匠殺しはあまり機能していないような・・・まああまり細かいことは考えないことにしましょう。そういうことは矛盾のままに置いておくのが良いのです。と云うよりも、原作世界にインモラルな要素が絡んでくるギャップを楽しまなければなりません。「贋作」は、大筋ではなかなか上手く書けているんです。吉之助が思うには、単純に安吾の原作をなぞっているだけなら、芝居はこういう風にならなかったでしょう。これは野田が原作に壬申の乱を絡めて、クニの成立とアニミズムの崩壊という二元構図の視点を綯い交ぜしたから、こういうことになっています。ここでは、ただ野田の「贋作・桜の森の満開の下」が二元構図で書かれていて、本質的にインモラルな視点であることを指摘しておきます。

誤解ないように付け加えておくと、吉之助はそれが間違いだと言っているのではないのです。これは「贋作」なのですから、野田が書きたいように自分の戯曲を書けば良いことです。インモラルの感性の所産であることが野田演劇のフォルムだと思いますし、インモラルでなければ現代演劇ではあり得ません。

ですから安吾が原作で描きたかったアモラルな感覚は、実は演劇が本質的に持つインモラルな感性と、本来は微妙にそぐわないものだということです。演劇は、そういうものを描くのを、もっとも不得意とするところです。二元構図で対立した概念を、色合いの配合で仕分けて表すというのならば、出来ます。役者に技術があれば、その挟間で揺れる感覚も出せます。出来るのは、そこまでです。しかし、それでは本当はアモラルではないのです。二元構図に縛られているから、それはあくまでインモラルです。野田は、そういう本来そぐわない、アモラルな感覚を関連付けて、綯い交ぜにして、見立て・吹き寄せ・名乗りの伝統の作劇技法で、芝居に仕立てようとしているのです。そういうことを承知したうえで「贋作・桜の森の満開の下」を楽しめば宜しいのではないかと思います。綯い交ぜというのは、インモラルなお楽しみなのですね。(この稿つづく)

(H29・10・1)


10)再び「贋作」のなかの大衆について

ここまでの論点を整理すると、まず本稿冒頭で吉之助は、これまでの野田歌舞伎3作品に関しては、主人公の心情が大衆に重なっていないということを指摘しました。そこのところが「贋作・桜の森の満開の下」ではどうなっているか、野田が主人公耳男の心情をどのように描いたか、これを検証するために吉之助は安吾原作の分析を行いました。安吾が印象的だとする「ヒダの顔」とは、歴史の一切を剥奪された顔、そしていつの頃からか歴史から意識的に背を向けた顔です。安吾の ヒダの歴史観に基づいて「夜長姫と耳男」を読み直せば、芸術家として賞賛される権利を或る政治権力によって奪い取られた者こそ耳男だということになります。耳男は名声を拒否する反骨のポーズを自ら取ることによって、自分はもう疎外された者ではないと宣言するのです。そして耳男の顔がその後のヒダの顔となるのです。それでは、サテ野田は安吾の原作をどう読んだかな?ということで切り口の違いを楽しむ、これが吉之助流・観劇のお楽しみです。

「贋作」での耳男は、原作の耳男よりも、世間からの賞賛に対する執着が強い俗な人物に描かれています。例えば大仏の開眼式でオオアマ(天武)に褒美に切り取られた耳を返してやると言われた時の台詞を見てみます。

*台詞は現代日本戯曲大系・14に拠る。
現代日本戯曲大系〈14〉・・「贋作・桜の森の満開の下」を収録

『なつかしいなあ。離ればなれになっていたけれど、これからはこの耳で、ヒダタクミの名人とオレを呼ぶ声がきけるようになるんですね。(中略)正真正銘の名人という名声が、失われて耳から入ってくるんですね。』

耳男は名声を欲しているのです。これに対し「失われた耳に、耳つけてみろ」(アカマロ)、「そんな声が、本当にきこえてくるのか?」(ハンニャロ)という声が聞こえてきます。耳男は自分は魂をこめて懸命にミロクを作ったという自負があります。てっきり周囲から褒められるとばかり思っていた耳男は、これは予想外のことです。ところが、オオアマは耳男に冷たく言い放ちます。

『耳男、タクミが作ったものには、つくったタクミの魂がのりうつるというのは本当かな。・・では、鬼をもにらみかえすこのミロクをつくったお前の魂は鬼だな。・・耳男、お前は鬼だな。・・耳男、お前は鬼になれ。』

オオアマはどうしてこんなことを急に言い出すのかと云うと、為政者は自分に都合の良いものだけを(つまり彼らのモラルに相応しいものだけを)求めているからです。為政者にとって、工芸者は命じられたものをその通りに従順に制作していれば良いのです。命に素直に従った者は、為政者から対価を与えられるし、「芸術家」の称号も与えられます。一方、為政者は、工芸者が作品に自分の思いを込めたいとか、自分が納得できないものは作らないとか、そういう我儘勝手を断じて許しません。為政者の意向に従わない者は、鬼の刻印を押されて放逐されます。

ここで耳男が芸術家として名声を得る権利を権力によって奪い取られた者であることが明らかになります。しかし、「贋作」では耳男が権力に対峙する印象があまり強くありません。安吾原作からしても耳男が対峙するのは夜長姫ですから、これは仕方ないことです。そこで野田は、代わりに別の人物に権力と対峙する役割を与えています。それがマナコです。

ヒダの王のミロク制作コンペティションに参加したのは、三人の偽のタクミたちでした。耳男、マナコそしてオオアマの三人です。安吾原作では耳男以外の二人はほとんど 存在しないようなものですが、マナコとオオアマは、「贋作」のもうひとつの筋を担う最重要人物です。もうひとつの筋とは、安吾が原作のなかではほとんど言及していない隠されたヒダの歴史(安吾の歴史推理)のことです。現天皇家は実はヒダ王朝の出身であった。つまり日本はヒダから始まった。壬申の乱の戦闘は、日本書紀にあるように美濃や近江で行われたものではなく、実はヒダで行われた、この事実を隠蔽するために、ヒダは歴史から消し去られたというのが、安吾の推理です。野田は、「贋作」のなかに安吾の推理を「忠実に」というわけではないですが、換骨奪胎して大まかなところを取り入れて、原作と綯い交ぜしています。

マナコは、耳男より徹底した俗物に描かれています。マナコは私利私欲が強い人物ですが、一方で、純で一本気なところもある人物らしく、地図からヒダが消されたことを知って怒り出し、オオアマに対し敢然と反旗を翻します。見方によっては耳男以上の狂言廻しです。鬼の刻印を押された耳男は、状況が分からずオタオタしています。マナコのおかげで、耳男は自分が置かれた立場を認識することになります。「贋作」では、マナコと耳男が一対になって、ヒダの歴史と大衆の係わりが描かれています。権力によって消されたヒダの民がマナコ、かろうじて生き残ったヒダの民の末裔が耳男だということです。

付け加えると、これは「耳男とマナコが善で、オオアマが悪」という単純な構図ではありません。そういう風に読めないことはないですが、そう読むのは如何なものかと思います。組織をまとめ上げようとするならば、モラル・規範というものが必ず必要になります。統一国家の成立は、ひとつのモラル・規範の下になされ、それになじめない者・従わない者を排除する、これは統一する側からすれば当然の論理(彼らにとっての正義)なのです。これになじめない者・従わない者も、彼らなりのモラル・規範を持ってるから抵抗するわけです。そういう過程で「 オニ(鬼)」という存在が生まれて来るのでしょう。言うまでもなく「オニ」は野田演劇における重要なキーワ―ドです。「贋作」では天皇を頂点とする中央集権国家の成立ということが背景にありますから、日本書紀(正史)からヒダの歴史が抹殺される、つまりヒダの民が中央政権から排除されるという形で、大衆がマナコと耳男に重なって来るということを、ここで確認しておきます。

正確に云えば、耳男が「道しるべに、彫った鬼を見つけたら、それが鬼の逃げ道、鬼の道行き」とマナコに逃げ道を教えた時点で、耳男はマナコと同じ立場(ヒダの大衆の側)に立つわけです。そこまでの耳男は、どちらかといえば優柔不断です。60年代の学生運動用語で云えば、ノンポリ(Non-Political)です。女には関心があるけれど、政治には関心がない。(この辺は、遅れて生まれて60年代の学生運動に乗り切れなかった世代(野田も吉之助も)でしか共有できない感覚があると思いますねえ。)そんな耳男がマナコに逃げ道を教えたのは「同級生のよしみ」から に過ぎないのかも知れませんが、オオアマから排除された以上、耳男の取れる選択はこれしかなかったはずです。「オニの息吹のかかるところがないと、この世は駄目な気がする」というマナコの台詞が鍵になるでしょう。ともあれ、これで行きがかり上、耳男はマナコと同じ立場に立たされることになります。ここから耳男は夜長姫との逃避行を決意するわけです。(この稿つづく)

(H29・10・5)


11)「贋作」における桜の花盛りについて

「桜の花盛り」のイメージを考えます。桜の花を愛でる伝統的な日本人の感性が、昭和の梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というインモラルなところにまで行き着く為には、発想の転換点が必要です。その転換点は、江戸期の歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」の「花のほかには松ばかり」という舞台一面の桜の花盛りにあります。江戸の観客は白拍子が清姫の怨霊であることを忘れたいがために、満開の桜のあっけらかんとした明るさにこだわるのです。あの美しく可愛い白拍子が蛇体に変身するなんて怖ろしいことを、観客は考えたくないのです。観客は、楽しい幻想に浸っていたい。ところが鐘の上がる段になって、何だか恐怖がどこからか湧き上がって来ます。(第5章を参照ください。)これは歌舞伎(演劇)の感性が本質的にインモラルであることが分かれば、このことは納得できると思います。

「贋作」の大詰め・桜の森の場面は、インモラルな感覚に構成されています。桜の花びらが散るなかで、ヒダの生き残りがオオアマの手先に次々と殺戮されていきます。それを見て大はしゃぎする夜長姫の甲高い笑い声が響き渡ります。耳男が夜長姫を殺した後、舞台に座り込んだ耳男の傍らを、尊い人の行幸(これからの国を治めるオオアマの行列)、幸福な王の時代の行幸(もはや滅び去ったヒダの亡者たちの行列)というふたつの隊列が、桜の花の散るなかを、影のように静かに歩みます。この光景が、梶井の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というインモラルな感性に意図的に重ね合られています。

視覚的にも美しい舞台面ですが、生と死、聖と俗という、ふたつの相反する要素の間で引き裂かれた、インモラルなシーンに仕上がっています。これは歌舞伎のインモラル感覚にも一脈通じるところがあることを、まず確認しておきましょう。生きようとすればするほど死に強く魅せられる、逆に死を望めば今度は生への渇望が湧き上がるという、浪漫的な感覚を見せています。これはひとつには、原作に壬申の乱を絡めて、クニの成立とアニミズムの崩壊という二元構図の視点を綯い交ぜして、いろんな要素をてんこ盛りに詰め込むから、こういうことになるわけです。いろんなものが未整理のまま錯綜した青臭い印象があって、吉之助は若書きの熱さと勢いがあって好ましく思いますが、ちょっと詰め込み過ぎかなとは感じますねえ。安吾原作結末部のアモラルな感覚は、背筋に冷たいものがツーンと走るシンプルな感覚だと思います。しかし、多分、そういうものを演劇で表現することは難しいのでしょう。

付け加えますと、吉之助が「贋作」の大詰めが駄目だと言っているのではないのです。演劇でそういうものを表現しようとすると、どうしてもそれはいろんな相反する要素から引き裂かれる感覚になってしまう、インモラルな感覚の方へ引っ張られてしまいます。これが野田演劇のフォルムなのですから、ここはそういうものとして舞台を見る必要があると思います。

「贋作」は主筋は安吾原作の「夜長姫と耳男」から取っていますが、冒頭と大詰めを「桜の森の満開の下」からイメージを借りています。原作中の盗賊と女房の対話を、「贋作」のなかでほぼそのまま耳男と鬼女との対話に取り入れて、印象的に使っています。原作の対話は、盗賊が言うことを女房が取りあげて反復する感じで疑問形で返す、自己と木霊が問答するような、手応えがない不思議な対話です。とても詩的ですが、論理的展開が見えない、時間の軸がよく見えない対話です。この箇所を安吾原作から引いておきます。

「桜の花と約束したのかえ」
「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」
「どういうわけで」
「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」
「だから、なぜ行って見なければならないのよ」
「花が咲くからだよ」
「花が咲くから、なぜさ」
「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」
「花の下にかえ」
「花の下は
涯(はて)がないからだよ」
「花の下がかえ。私も花の下へ連れて行っておくれ」
「それは、だめだ。一人でなくちゃ、だめなんだ」

「贋作」では、この対話が桜の森での耳男と鬼女の問答として、冒頭と大詰めで反復する形で使われています。ちょうど円環がぐるりと巡って最後に同じ場所へ戻って来るように、「贋作」のドラマも最後に元いた場所に戻って来たような、これまで起こったことがまるで何事もなかったかのような感覚に観客を陥れるように仕掛けられています。これはなかなか悪くない着想です。

気になるのは、「贋作」での鬼女と耳男の対話では、桜の森の花盛りにいつかそこに戻っていきたい懐かしの故郷のような響きがすることですねえ。舞台ではこの場面に背景音楽にプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」のラウレッタのアリア「私のお父さん」の旋律が甘ったるくセンチメンタルに使われていて、なおさらこの感が強くなります。プッチーニの旋律の甘ったるさが、桜の森に掛るのではなく、むしろ夜長姫の方により強く掛っているように感じられます。台詞では「花の下は冷めたい風がはりつめている 」とありますが、夜長姫に対する憧れ、或いは恋心、そのような温かい感触の方へイメージが流れて行きます。(野田の音楽の センチメンタルな使い方については「愛駝姫・分裂した他者」で詳しく分析したので、そちらをご覧いただくとして、ここでは深入りしないことにします。 )

この「贋作」の桜の森の花盛りのシーンに、「満開の桜の下には、この国が作られるために消えていった人々の魂が宿っている」とする野田の歴史観が込められていることは、理屈としては良く分かります。(これがインモラルな感覚であることは、言うまでもないことです。)そこから桜の花盛りに対する野田のセンチメンタルな感覚が引き出されているということ も、明らかなのです。

ここで問題になってくるのは、中央集権国家の成立の過程で滅びゆくヒダ王国の運命を担って桜の森で殺されていったマナコの思いと、夜長姫に対する憧れを抱きつつモノを作って来ながら遂に彼女を殺してしまった耳男の思いとが集約されて、最後にひとつの思念となった形で芝居が締められているかということです。つまり、クニを作る思いとモノを作る思い、両者は何かを犠牲にしてこれを切り捨てる行為である点で似ているわけですが、この見立てが舞台のうえで論理的に実現されているかということです。そうでなければ耳男と大衆がきれいに重なり合わないことになります。吉之助の考えを言えば、残念ながら「贋作」はバッチリという感じには決まってはいないと思います。いろんな要素が詰め込み過ぎであるために、エンディングがバッチリと決まった感じではない。「満開の桜の下には、この国が作られるために消えていった人々の魂が宿っている」という線で芝居を論理的に読もうとすればするほど、耳男の夜長姫に対する思いが甘ったるく浮いてしまいます。この意味でも、吉之助は若書きゆえの熱さと勢いがあって好ましいと言っているわけですがね。(この稿つづく)

(H29・10・10)


12)再び「贋作」のなかの夜長姫の最後の言葉について

「贋作」のラストシーンは、安吾原作の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を綯い交ぜしたことで、やはり多少の齟齬が見えます。問題になるのは、原作の夜長姫の最後の言葉をどう受け止めるべきかと云う点です。つまりマナコが背負うクニを作る思いと、耳男がモノを作る思い、これが夜長姫を介して、舞台のうえで論理的に重なって来るかどうかということです。

「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」(坂口安吾・「夜長姫と耳男」・昭和27年6月)

同じ言葉が「贋作」のラストシーンに使用されています。残念ながら吉之助は、「贋作」ではこれがバッチリという感じでは決まっていないと思います。夢の遊眠社による再演映像(平成4年)でも、今回(平成29年)の歌舞伎での上演でも、この点では同じ印象を持ちました。ヒダの民が殺戮されてマナコが死に耳男が夜長姫の首を絞める場面まではインモラルが極まって、なかなかのものです。ところが夜長姫の最後の言葉から、芝居が柔くなります。それは野田が夜長姫の最後の言葉をロマンティックに処理しているからです。プッチーニの旋律の甘ったるい使い方が、ここで引っ掛かって来ます。しかし、恐らく野田のこの解釈が「贋作」での核心なのであろうし、演劇はどうしてもインモラルな感触へ傾くという必然を持つものですから、これはこれで宜しいのだろうと思います。これが野田演劇のフォルムなのです。しかし、最後の場面は、多分、ちょっと演出を変えれば印象が変わるだろうと考えます。「贋作」がインモラルな印象で終わるのは避けられないことですが、ラストシーンにちょっぴりアモラルな感触を持たせることは、演出次第で可能だと思います。以下にこのことを述べますが、これは夜長姫の最後の言葉をどう受け止めるかということに係わってくることです。

第6章において、夜長姫の最後の言葉は曲者であると書きました。吉之助は、夜長姫の最後の言葉を甘くロマンティックな響きに受け取れないのです。これは夜長姫が今際のきわに耳男を原初の世界に耳男を引き戻そうとする、とても危険で暗い誘惑の言葉に 感じます。ここで吉之助は、十九世紀の西欧ロマン派芸術に頻出したオンディ―ヌ(ウンディーネ)と呼ばれる水の精のことを思い出 します。オンディ―ヌは魂のない水の精で、本来は性別はないのですが、大抵は美しい女の姿で森や川や湖などに現れて、その美しさに幻惑された男と結婚することで魂を得 ることが出来ます。このためオンディ―ヌは、さまざまな方法で男を誘惑します。 吉之助は夜長姫の最後の言葉が、オンディ―ヌの今際のきわの誘惑のように聞こえるのです。

十九世紀の西欧ロマン派の芸術家が詩や小説の題材としてオンディ―ヌを取り上げました。例えばハイネの「ローレライ」などです。その多くが近代国家形成の過程で締め付けられていく個人の息苦しさを背景としており、現実から逃れようとする厭世的気分の裏返しの象徴としてオンディ―ヌへの憧れを歌います。これだと野田の夜長姫の最後の言葉のロマンティックな解釈とちっとも変わらないわけですが、しかし、そのなかにひとつだけ変わった詩があります。それはアロイジウス・ベルトランの詩集「夜のガスパール」(1842年に出版)のなかの一編「オンディーヌ」です。(その後1908年にラヴェルがこの詩集に触発されて、同名のピアノ曲を発表して、これが有名です。)この「オンディーヌ」の最後の部分を挙げておきます。

彼女(オンディ―ヌ)は囁くような声で歌いながら私に哀願するように言った
わたくしの指輪を受けて夫となって湖の王としてともに宮殿に向かいなさい、と

しかし、私は限りある命をもった人間の女性の方が好きなのだと答えると
彼女はまたたくまに顔色を変え、恨みがましくはらはらと涙を流したかと思うと
とつぜん甲高い笑い声をあげて水の中へと消え去った
あとは青い窓ガラスに白々と流れる水滴だけが残っていた』
ベルトラン:「夜のガスパール」〜オンディーヌ)

オンディ―ヌへの強い憧れ(これは死への誘惑に通じます)を歌うのはどの詩人も同じですが、ベルトランの詩が超ユニークなのは、「私」がオンディ―ヌの誘惑を拒否すると、まるで「残念、引っ掛からなかったわね、じゃあね、バイバイ」とい感じで、嘲笑の声をあげてオンディ―ヌが消え去る点です。これでオンディーヌの誘惑の甘さ(インモラルな思い)が消し去られて、あとに束の間の夢の余韻と虚しさが残ります。インモラルな思いは完全には消えていません(これがなければオンディ―ヌ物になりません)が、最後の印象がアモラルな方向へ引っ張られています。

「贋作」幕切れの演出を考える時、このベルトランの手法が参考になると思います。安吾原作でも夜長姫の最後の言葉にクラッと来る読者は多いようです。夜長姫の最後の言葉を、最後に夜長姫が耳男を認めてくれたとか、あるいは 耳男の精神の救済であるかのように、ロマンティックに読まれることが多いのです。しかし、そのように読んでしまうと、安吾が「文学のふるさと」で云うところの、突き放した感覚、絶対の孤独、絶対の悲しみというものが、あまり浮かんでこないと思います。「贋作」において野田が夜長姫の最後の言葉をロマンティックにつまりインモラルに読むのは作者の特権ですけれど、これを桜の森の満開のアモラルな光景と合体させるためには、工夫が要ります。ベルトランの手法の手法を借りれば良いのです。例えば夜長姫の最後の言葉を甲高い笑い声で無力化してしまうか、「・・な〜んちゃって、今のは嘘だヨ〜」として茶化してしまうか、そんな様な手法です。これで「贋作」の幕切れの印象を、ちょっぴりアモラルな方向へ向けることに出来ます。

野田もさすが演劇人としてその取っ掛かりを本能的に探り当てていないわけではないと思うのは、「贋作」幕切れに安吾原作にない耳男の「いやあ、まいった、まいった」という呟きを入れていることです。これも決して強くはないが、夜長姫の最後の言葉をいな して幕切れをアモラルな方向へ持って行く力はありそうです。しかし、夢の遊眠社による初演映像(昭和64年)を見ると、野田はこの呟きを遠い故郷を想う眼差しで泣きそうな表情でしゃべっていて、やはり上手く行っているとは思えませんねえ。依然ロマンティック、つまりインモラル感触のままに終わっています。作家としての野田は本能的に探り当てているのだけど、演出家としての野田が気が付いていないということですかねえ。ここは、もっと軽い調子で明るく、「いやあ、まいった、まいった」と言った方がずっと良いです。最後の感触はサラリと締めた方が良い。「いやあ、まいった、まいった」について、夜長姫が耳男に語っている場面を読めば、そのことが分かると思います。

『暑い日にね、人を見ているの、みんなしかめ面をして歩いている。けれど、突然、俄か雨が降ると「いやあ、まいった、まいった」って言いながら、ニコニコして、雨やどりしているのが見えてくるの。(中略)少しも、まいってはいないのよ。だのに 「まいった、まいった」っていうの。(中略)あるでしょ。わからないうちにときめいていることって。』

夜長姫は他にも「人は俄か雨とか戦争とか突飛なものが大好きだってこと」とか言ってますが、夜長姫はアモラルな存在なのですから、そういういかれたところは置いておけば宜しい。しかし、夜長姫が全然真実を言っていないわけでもないので、この「いやあ、まいった、まいった」には、確かにこの世のインモラルな・嫌な出来事をサラリと受け流す為の、おまじないにはなりそうです。(この稿つづく)

(H29・10・15)


13)歌舞伎版の「贋作・桜の森の満開の下」のこと

「贋作・桜の森の満開の下」は、故・十八代目勘三郎との間ではかなり早い段階で歌舞伎で上演するアイデアが挙がっていたそうです。吉之助は、今回(平成29年8月歌舞伎座)での上演を見ました。第1幕は「どんなもんだかなあ」という感じでいまいち乗れずに見ていましたが、第二幕幕切れ近くなって急に盛り上がり、ヒダの民が殺戮されるなかで夜長姫の嬉しそうな声が響きわたり、マナコが死に、鬼の面体に変わった夜長姫の首を耳男が絞める場面はインモラルな感触が極まって、それがインモラルな歌舞伎の感性にぴったり合って、これはなかなかのシーンに仕上がっており、これまでの野田歌舞伎のなかでも出色の出来だと思いました。なるほど故・勘三郎が「贋作」の歌舞伎化を希望したならば、その嗅覚はなかなかのものだと思いました。ただし、幕切れにおいては前章で触れた通り印象がインモラルなままに終わり、安吾原作のアモラルな要素を表出できないまま終わっています。

耳男が夜長姫を殺した後、舞台に座り込んだ耳男の傍らを、尊い人の行幸(これからの国を治めるオオアマの行列)、幸福な王の時代の行幸(もはや滅び去ったヒダの亡者たちの行列)というふたつの隊列が、桜の花の散るなかを、影のように静かに歩む、 この最後のシーンを美しいと評価する方は多いだろうと思います。吉之助もそれは理解しますが、このシーンはインモラルであると思います。インモラルであるということは、つまりカブキ的なシーンだということになるわけです。(第9章を参照のこと)、歌舞伎という演劇は相反するふたつの要素のなかで引き裂かれるという場面はお得意なのですから、歌舞伎の様式ならばこれくらい出来て当然です。

しかし、今回の「野田版・桜の森の満開の下」は、これで「新しい歌舞伎」を主張できるかという線で議論するべきだろうと思います。(注:大正期の二代目左団次の「新歌舞伎」と区別するために「新しい歌舞伎」と云うことにします。)新劇を歌舞伎スタイルでやれば新しい歌舞伎になると云う単純なことではないということを、まず言っておかねばなりません。古典歌舞伎の感覚を新しい時代の感性で「いなす」ということで、それは新しい歌舞伎になるのです。

二代目左団次の新歌舞伎が「新」である所以は、例えば「番町皿屋敷」(岡本綺堂作)幕切れで青山播磨が槍を片手に花道を一気に駆けるシーンにあります。古典歌舞伎の幕切れならば、主人公はいったん花道七三で立ち止まり何かの思い入れをした後、揚幕へ引っ込みます。これはそうした方が役者が立派に見えるということもありますが、こうすることが「古典」の様式感覚なのです。だから古典の様式からすれば、播磨は花道七三でいったん立ち止まり、恋人お菊の死骸を投げ込んだ井戸の方を見やり、断ち難い未練を振り切る思い入れあって揚幕へ引っ込む、これが常識的な古典歌舞伎のやり方なのです。ところが二代目左団次の播磨は意図的にそれをしません。花道七三で立ち止まらず、揚幕へ一気に駆け入ってしまう。播磨が花道七三で立ち止まると思っていた観客は、あっけに取られてしまいます。古典の感覚を裏切るところに、二代目左団次の新歌舞伎が「新」である所以があるのです。

あるいは「頼朝の死」(真山青果作)の幕切れを見てください。尼将軍政子が「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」と頼家を制し、頼家は「母上!うむ・・、うむ・・、うむ・・・。」と呻き、刀を投げ捨て、やがてまるで幼児の如く泣き叫びます。常識的な古典歌舞伎のやり方ならば、頼家は刀を持ったまま無念の表情で母親を睨みつつ形を決める。それで長刀を構えた政子と引っ張りの絵面となる幕切れになるのが定式なのです。それを意図的にぶっ壊して、無様に泣き叫ぶ主人公を見せて幕にする、古典の感覚を裏切るところに、二代目左団次の新歌舞伎が「新」である所以があるのです。

ここで肝心なことは、古典のキマる感覚を裏切る,「いなす」スタイルのなかに作者の思想が込められているということです。二代目左団次はそれによって作品が紛れもなく大正・昭和初期の、新しい時代の歌舞伎であることを主張するのです。綺堂も青果もそういうことが分かって、脚本のなかに工夫を凝らしているのです。(詳しいことは別稿「左団次劇の様式」をお読みください。) 野田も「新しい歌舞伎」を主張しようと云うならば、歌舞伎に於いてはスタイルこそ思想だということに気が付いて欲しいと思いますねえ。歌舞伎では、特に幕切れが大事です。

80年代の現代演劇を歌舞伎でやれば、当然内容は新しいわけです。劇に盛り込まれる思想も新しくなりますが、それだけでは新しい歌舞伎ということにならないのです。芝居をインモラルな感覚のなかに収まれば、確かに歌舞伎らしい印象に出来ます。しかし、それは必要条件だけれども、それだけで「新しい歌舞伎」ということにならないのです。野田は、故・勘三郎と「新しい歌舞伎を作ろう」ということを話し合ったのではないのでしょうか?それならば 、これが野田歌舞伎だというスタイルをどうやって作る?ということが大事になるはずです。

これからの日本を治めるオオアマの行列、もはや滅び去ったヒダの亡者たちの行列と云う、ふたつの隊列が、桜の花の散るなかを、影のように静かに歩む、確かにこれは「野田版・桜の森の満開の下」の世界観を示す「カブキらしい」幕切れだと云えます。しかし、野田が自身を現代演劇の騎手であるという自負があるならば、これは 「カブキ臭い」感覚だと切り捨てる批判精神が絶対に必要です。「このままだとカブキ臭くなっちゃうぞ」と思える場面を本能的に回避して、そうならない方向へ修正するセンスが必要です。

だから「いやあ、まいった、まいった」という耳男の最後の台詞の扱いが大事なのだと吉之助は言いたいのです。この世のインモラルな・嫌な出来事をサラリと受け流す為の、どこにでも行けるおまじないです。これならば幕切れのインモラルなカブキ臭い感覚をサラリといなすことが出来ます。ここを生かすことで、野田歌舞伎が、古典と一線を画す「新しい」歌舞伎だというスタイルを手にすることができるはずです。残念ながら、今回の歌舞伎版は、そのような幕切れに成り切れていませんでした。逆に「このくらいすればカブキらしいと言ってもらえるかな・・・」というところがチラつきます。野田は、古典歌舞伎とは何か、新しい歌舞伎とは何かということの設計図をまだ持っていないのでしょうねえ。結局、これは故・勘三郎は(串田和美との連携を含めた)実験歌舞伎で何をやってきたかという問題に帰せられるわけですがね。

舞台を見て気が付いたことをいくつか記すると、今回の歌舞伎版では、染五郎も猿弥も頑張ってはいますが、クニの成立とアニミズムの崩壊という筋を荷うオオアマとマナコが弱い。この二人がカブキらしい枠のなかに収まって、大人しくてインパクトが いまひとつ弱い。この筋が歌舞伎での「世界」を規定するのですから、これを太くかつ破天荒に持っていけば時代物の大きさが出せる と思います。或る意味でオオアマとマナコは、耳男以上に重要な役割を担っています。ここは夢の遊眠社による再演映像(平成4年2月)で見るオオアマ(若松武史)、マナコ(羽場裕一)の勢いと熱さには、とても及びません。再演映像では、満開の桜の光景での殺戮場面のなかに、粗削りであるがゆえにアモラル感覚がチラッと見えていたようです。しかし、今回の歌舞伎版では、そこがインモラル感覚にはまっています。さすがにこういう時に、歌舞伎役者はキマるのが上手い。しかし、キマるとカブキ臭くなっちゃうぞという感覚が必要な時もあるのです。

耳男に関しては恐らく勘九郎の耳男の方が、故・勘三郎が耳男を演じる(これは幻となってしまった)よりも、本来の役のサイズに近いだろうという気がします。勘三郎だと熱演のあまり自分の方に芝居を引き付け過ぎて、良い意味でも悪い意味でもカブキ臭くなりそうです。勘九郎は素直な出来で、これは悪くありません。

七之助の夜長姫はよく頑張っているし、ヒダの民が殺戮されるなかで嬉しそうにはしゃぐ辺りはなかなかでした。これは伝統的な女形の技法がよくはまったということでもあります。ところで夜長姫が鬼女の面相に変わる寸前ですが、「その時、おぶっていたのはあたし?」と耳男に語り掛ける時、七之助の夜長姫が声を太く男の地声を出します。これは女形の技法が特徴的に活かされた場面で効果的かつ衝撃的と感じた方は多いだろうと思います。それは確かにそのように考えることも出来ますが、吉之助は臍曲がりですから、ここで女形のインモラル的な本質(女形の嘘)が露呈したと考えます。本来が男である女形にとって、男であることが嘘なのか、女であることが嘘なのか、つまり女形はふたつの本質によって引き裂かれているのです。女形が「その時、おぶっていたのはあたし?」という台詞を男の地声で言う時、これは真実か?それとも嘘か?というインモラル感覚に引き裂かれてしまうのです。これは夜長姫がアモラルな存在であり、この場面がアモラルなシーンであって欲しいと考える吉之助には、とても気に障ります。吉之助は、この台詞はトーンを変えずに女の声で言って欲しいと思います。もちろん完全にアモラルにはできませんが、この方がこの場面をいくらかでもアモラルな印象へ持って行けます。

因みに夢の遊眠社による再演映像でも、夜長姫役の毬谷友子も、この同じ台詞を女の情念を込めてトーンをちょっと低めに落としてしゃべってます。吉之助はこれもトーンを変えない方が良いと思いますが、毬谷は女優であって女形ではないですから、まあ大した問題ではないでしょう。女という本質に変わりはないのですから、どうやったってどちらも真なのです。しかし、インモラル的な本質を持つ女形を起用する場合には、女形の技巧を活用することがどのような演劇的 暗喩を持つか、現代劇の演出家はよくよく考えなければならないことです。(この稿つづく)

(H29・10・18)


14)歌舞伎版の七五調について

松竹で「桜の森の満開の下」制作発表がされた時、タイトルが「贋作」でなくて「野田版」となっていたので、野田がどこか歌舞伎向けに台本に手を入れたらしいことは分かりました。しかし、吉之助は手を入れるならばそれは結末部分だろうと考えていたので、台本をト書きも含めて七五に書き直したと聞いて、野田はまだ歌舞伎が分かっていないのだなあと、とてもがっかりしました。当月(平成29年8月)歌舞伎座の筋書をめくると、「物怪(もっけ)の幸い」なる作者の言葉が掲載されています。それを読むと、

『いまだカブキが、なんなのか?わからぬままで、いる俺だ。わからぬがゆえ、この度は、七五のリズム、崩さぬように、この台本を、仕上げてはみた。なんならば、歌舞伎には、門外漢の、この俺が、歌舞伎見て、「ああ歌舞伎、その独特の、言い回し」、感じる時は、七と五の、音で出来てる、こと多く、ここはひとまず、そんなリズムで、創りあげては、みようじゃないか、かように思った、次第でござる。(中略)勘三郎が、この当日の、パンフレットまで、七五で書いて、いる俺を見て、「お前馬鹿だね、相も変わらず」、そう喜んで、くれれば物怪(もっけ)の幸いなりと。』(野田秀樹:「物怪(もっけ)の幸い」)

だそうです。なるほど故・勘三郎に対する野田の思いの強さは分かります。野田が半ばふざけて七五の文章を書いていることも分かります。しかし、残りの半分は大真面目だということも分かるので、野田は歌舞伎の台詞のスタイルというのは、「七と五だ」と考えているのでしょう。吉之助は野田の認識が正しいとまったく思いませんが、それは兎も角、野田が現代演劇の騎手だという自負があるのならば、そのような「七と五へのこだわり」が歌舞伎を古臭いものにしているんだ、それをぶっこわすことこそ勘三郎が自分に託した使命だという風に考えてほしいと思うのですがね。

もし勘三郎が今も生きていて「贋作」を演ると云うならば、野田はやっぱり台本を七五に書き直したのでしょうか。野田は「お前、どうだ、これが演れるか?これで演ってみな」と勘三郎にそのまま台本を渡したと思うし、勘三郎もそれを受けたと思います。ところが今回、野田は台本を七五に書き換えた。これは勘三郎の遺児たちに、親鳥が雛にエサを噛み砕いて与えるようなもので、それは野田の親心、優しさなのかも知れないが(多分、そのつもりなのだろうねえ)、そういう気遣いは本人たちの「タメ」にならないのではないでしょうか。

昭和26年6月新橋演舞場で加藤道夫の「なよたけ抄」が初演された時、折口信夫が次のように書いた文章を、たまたま目にしました。

『演出者に、感謝は感謝として、小言を申し上げたい気がした。役者がそう演出者の語を守るものでないということは聞いているが、あの人たち(歌舞伎役者)は、もっと痛めつけてもらっても、不服は言わない筈の教養人である。以前の歌舞伎の人々は、新劇だって、立派に新劇としてしおうせたものだ。(中略)だが今度の場合、ちょっともめりはりだって変わっていない舞台を見て、演出者も作者も、遠慮が過ぎたという気がした。歌舞伎の脇や三枚目に教えないで何が出来るものか。』(折口信夫:「なよたけ」の解釈・昭和26年8月)

折口信夫:かぶき讃 (中公文庫)(「なよたけ」の解釈を収録)

これは、そっくりそのまま野田に差し上げたい文章です。作者は役者に対して「お前たち、どうだ、これが演れるかい?これで演ってみな」と言える権利があるのです。自分の文体を壊してまで、役者におもねる必要などまったくありません。歌舞伎役者はもっと痛めつけてもらって結構、新劇ならば立派に新劇としてしおうせるように出来ないと、歌舞伎は駄目になってしまいます。既に南北の台詞でも新歌舞伎の台詞でも、七五で割らないとしゃべれない、様式感覚があやふやな歌舞伎役者が大勢いるのです。彼らが固執している「カブキらしさ」なるものを打破することこそ、勘三郎が野田に期待したことだと思うのですがね。まあ幸いであったことは、いつもと勝手が違う野田の芝居だと緊張するようで、今回の舞台を見るとあからさまに七五が出ていた役者はさすがにいなかったことです。しかし、あいつらは慣れてしまうと分からないぞ。

ところで歌舞伎の台詞の七五とは何でしょうか。現代劇作家である野田は、そこに明確な演劇史的な視点を持つべきです。作詞家として稀代のヒットメーカーでもある小説家のなかにし礼が、七五調の日本語について次のように語っています。

『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)

このなかにしの指摘は、まったく正しいです。七五というのはおめでたい語調、人間の生きた感情を定式の枠組みにはめこむ、上から目線の語調なのです。これは「体制側」の語調です。お嬢吉三や弁天小僧が、しゃべりたくって七五調の台詞をしゃべっているのではないのです。七五調とは、彼らが生きている幕末江戸の閉塞した時代と状況が、彼らにしゃべらせているリズムです。なかにしは作家としての鋭い言語感覚で、このことをズバリ見抜いています。

「物怪の幸い」なんて ぎこちない七五の文章を書いて、野田だって本当の自分の感情を表現できていない居心地の悪さを感じないはずがないと思います。しかし、野田が、歌舞伎への裏返しの批評・パロディーのつもりでこれを書いたとも思えません。野田は、半ば大真面目に台本を七五に書き直したと思います。例えば今回の「野田版」では、オオアマの手先になったエンマロとハンヒャロが、「大きな声じゃ言えないけれど、オレは鬼だった頃が懐かしい。また七五調でしゃべってみたい」という主旨のことを会話していました。どうやら野田は、七五調が歌舞伎役者のふるさとだ、戻るべきところだと思っているようですねえ。これは逆でしょう。七五調とは、人間の生きた感情を定式の枠組みにはめこむ、「体制」の語調なのです。オオアマの手先に墜ちたエンマロとハン二ャロが、今しゃべらされているのが七五調であるべきです。野田が歌舞伎をまだよく分かっていない、新しい歌舞伎はどうあるべきかの設計図を持っていないことが、これだけで明らかなのです。現代演劇作家の言語感覚として、野田が歌舞伎の七五調に懐疑を抱かないとすれば、それは何かがちょっとおかしいのです。

本稿冒頭で野田が大衆の「魂」という言葉を使ったことについて、吉之助は『大衆は「魂」なんて言葉を使わないのです、「魂」というのは武士の言葉、それは体制側の言葉です』と書きましたが、野田の七五調の認識についても、やはりズレていると思います。上から目線を感じるところがある。まずは歌舞伎に於いてはスタイルこそ思想だということを肝に銘じ、演劇史的な視点を持って歌舞伎を見直すことをお勧めしたいですね。「現代の観客にも受ける面白い歌舞伎を作ろう」だけでは、どうにもなりません。それならば、あの勘三郎の実験歌舞伎とは何だったのかを問い直さねばなりません。

最後に耳男の最後の台詞、「いやあ、まいった、まいった」について触れておきます。「野田版」では、勘九郎の耳男が「まいった、まいったなあ」と詠嘆調に言っていますが、この七五の感覚を帯びた「・・なあ」は不要です。遠い故郷を見るような感じで、或いは夜長姫のことを思い出す感じで、この最後の台詞の末尾を詠嘆調にするのは、まったく良くありません。ここは夢の遊眠社の「贋作」再演映像での野田自演による耳男でも同じような感じがしますが、これもまったく良くありませんね。夜長姫は、

「(人は俄か雨のことを)少しも、まいってはいないのよ。だのに「まいった、まいった」っていうの。(中略)あるでしょ。わからないうちにときめいていることって。」

と言っているでしょう。耳男の「いやあ、まいった、まいった」も、ときめきの台詞です。これは明るくサラリと、ポツンと小さい声で云うべき台詞だと思います。そうすれば歌舞伎の古典的なインモラルな幕切れから、ちょっと逃れられます。芝居はインモラルな感覚からは決して逃れられないけれど、その瞬間に今までの出来事を流して、少しだけアモラルな方向に印象を引っ張るためのおまじないです。いい台詞を書いているんだけどねえ。

(H29・10・19)

*本稿で引用した台詞は現代日本戯曲大系・14に拠ります。
現代日本戯曲大系〈14〉・・「贋作・桜の森の満開の下」を収録


 

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