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雑談:伝統芸能の動的な見方について


1)谷崎の地唄「狐噲」解釈のこと

このほど谷崎潤一郎の小説「吉野葛」に関する論考がやっと完結しました。その最終章で「吉野葛」を伝統芸能との動的な関係で読むということを申し上げました。そこで、このことをきっかけに伝統芸能の見方についてちょっと雑談してみたいと思います。したがって話はしばしば飛びますから、その辺を御承知のうえお付き合いください。

「吉野葛」では津村が地唄「狐噲(こんかい)」の自らの解釈を展開します。恐らく谷崎はこの「狐噲」を聴き知ったところで小説の構想を思い立ったに違いないので、ここが小説の核となる箇所です。

『その証拠にはあの狐噲の唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故ぞ、様故」と云い、「君は帰るか恨めしやなうやれ」と云い、相愛の男女の愛別離苦をうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧にぼかしたのではないか。いずれにせよ自分は最初にあれを聞いた時から、母ばかりを幻に描いていたとは信じられない。その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

地唄「狐噲」は子が母を慕う唄である、と同時に相愛の男女の愛別離苦の唄でもある。この二つの見方がどちらも正しい見方だとして、二つを並列した形で捉えるのではなく、二つを混じり合った形で捉えたいのです。厳密に云うと、どちらの見方であってもこれを言い切ってしまうことは、決して正しくないのです。相愛の男女の愛別離苦の唄という見方もあり得るねという風に、別の見方を許容することも正しくない。

正確に云うと、津村がその顔を見定めようとすると、それが母の顔になったり妻の顔になったりするのです。母かと思えば妻に変わり、妻かと思えば母に変わるのです。ついでに云えば、それは母でも妻でもないものに変わる場合だってある。その像は絶え間なくくるくる変わって、決して定まることがありません。だからそこが化ける狐、或は初音の鼓のイメージになるのです。

地唄「狐噲」の本質はこういうものだという所から、谷崎の小説の構想が始まっています。もちろんこれは小説家谷崎の想像であって、地唄「狐噲」の成り立ちが本当にそうだったかは分かりません。しかし、専門家の間でも地唄「狐噲」は非常に難解であるとされています。案外、専門外の谷崎の想像が的を射てないこともないかも知れませんね。

もうひとつ、この谷崎の想像は、十九世紀末から二十世紀初頭の、とても近代的感性から来るということです。二十世紀初頭という世相が醸し出す世界的な時代的心性というものがあり、そこから谷崎の、伝統芸能との動的な関係で読むという態度が出て来ると云うことです。

吉之助の「吉野葛」論にはハイゼンベルクの不確定性原理が出て来ますが、これも哲学的真理としては、同じ共通した時代的心性から出て来るわけです。文学論に不確定性原理が出て来ると引く方が特に文系の方にいらっしゃるだろうことは吉之助も承知はしていますが、吉之助は化学専攻の人間ですから、ここを押さえておかないと、次の論が展開しないので仕方がありません。谷崎が不確定性原理を踏まえて小説を書いたと云うのではないです。知らなくたって、同じ共通した時代的心性から出て来るのだから、必然的に似るということです。

近代的感性においては、対象(イメージとしての像)は絶えず動いており、定まることがない、それは見定めよう・特定しようとすると、スルリと逃げる、または別の像に変わる、そういうことを絶えず繰り返すということです。これが不確定性原理の哲学的真理なのです。まったく同じことを谷崎が地唄「狐噲」解釈でやっているということなのです。だから津村が求めているものは、母でもなく、妻でもなく、絶え間なく動いている「未知の女性」の像ということになるのです。それを象徴するのが、絶え間なく所在を変える初音の鼓のイメージです。

「義経千本桜」では、初音の鼓は静御前が持ち歩いているわけですから、静の動きに連れて初音の鼓は絶え間なく所在を変えているのです。それを慕って源九郎狐はどこまでもどこまでも付いていく。もしかしたら狐のことだから、目的地が吉野だと、源九郎狐は認識していないかも知れません。源九郎狐は行く先も知らず、ただ静の向かっている所へ付いて行くだけなのかも知れません。「吉野山道行」がそのような舞踊であることは、歌舞伎を見る方ならば、お分かりでしょう。「絶えず動く初音の鼓」のイメージがそこにあるのです。谷崎は、そのように「吉野山道行」を読んだのです。(この稿つづく)

(H29・5・15)


2)谷崎の地唄「狐噲」解釈のこと・続き

地唄「狐噲」の出目は不明ですが、どうやらこれは遊里における相愛の男女の愛別離苦の唄、つまり遊女がつれない客の男のことを想って嘆く唄であるようです。これに葛の葉説話が絡められたために、意味が何だかよく分からない、辻褄の合わない歌詞になっているらしい。そこで遊女の恋にどうして葛の葉説話が絡むのかと云うと、これは吉之助の推測ですが、遊女は商売で客を騙すものだからこれは偽りの恋、だからこれは狐の恋だというロジックなのだろうと思います。古来、狐は人間の生活と関係が深く、しばしば化けて人を騙すとされていました。だから遊女は女狐に擬せられました。それで遊女の恋に葛の葉説話が絡められたのです。或る時期には、狐と云うと何でも葛の葉に結び付けられたのでしょう。本来は狐の繋がりで 取り入れたのですが、葛の葉の母と子の要素も一緒に取り込んだのです。

それならば地唄「狐噲」に唄われているのは遊女の偽りの恋かと云うと、そうではないのです。それは真(まこと)の恋です。遊女は「いたわしやな」と云うほど悩みやつれて苦しんでいます。それは真の恋なのですが、しかし、 男女の自由恋愛は当時の倫理道徳の概念では大っぴらに表現してはならないことでした。だから、外見においては、それは狐の恋だ、遊女の恋だ、偽りの恋だということにして置くのです。これを世間一般の相愛の男女の愛別離苦の唄にしてしまったら、当時の倫理道徳の概念では、それは非常に危険な、淫らな風を帯びてしまいます。だから遊里での出来事、狐が仕掛ける偽りの恋の唄ということにして置くのです。唄の作者が本当に描きたいものは、そこにはない。この曲を聴く者も、暗黙のうちにそのことを分かって、この曲を聴くのです。そうやって地唄「狐噲」は安心できるものとなるのです。だから

『その証拠にはあの狐噲の唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故ぞ、様故」と云い、「君は帰るか恨めしやなうやれ」と云い、相愛の男女の愛別離苦をうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧にぼかしたのではないか。』

と谷崎(=津村)が語っていることは、大筋においては納得できるものだと思います。視点の違いによって、いろんな解釈が出来ますから、その解釈のどれもが正しいと云えるし、間違っているとも云えるのです。解釈はひとつに定まることはありません。

前章において、近代的感性では、対象(イメージとしての像)は絶えず動いており、定まることがない、それは見定めよう・特定しようとすると、スルリと逃げる、または別の像に変わる、そういうことを絶えず繰り返すということを申し上げました。これが谷崎の感性であるならば、谷崎がどうして地唄「狐噲」に惹かれる のか、その理由は明らかです。それは「この曲のなかに私が聴きたいものは、本当はこれではない」という感覚なのです。津村がその顔を見定めようとすると、それが母の顔になったり妻の顔になったりする。母かと思えば妻に変わり、妻かと思えば母に変わる。母でも妻でもないものに変わったりする。津村が求める像は絶え間なくクルクル変わって、決して定まることがありません。だから谷崎は地唄「狐噲」を近代的感性で読んでいることになります。(この稿つづく)

(H29・5・15)


3)武智鉄二はプランテから何を聴いたのか

武智鉄二がクラシック音楽を愛し、一番好きなレコードにフランシス・プランテの弾くショパンのエチュード「木枯らし」を挙げたことは、別稿「武智鉄二の愛したレコード」で触れました。そこで武智がプランテの弾くショパンのどこを聴いて、その価値を認めたのかということを、ちょっと考えてみたいのです。まず予備知識として必要なことは、プランテは、ショパンがピアノを弾くのを実際に生(なま)で聴いた人で(これはプランテ10歳の時のことでした)、つまりショパンと同時代に生きた人で、ショパンの録音を遺すことができた唯一のピアニストだということです。

例えばここに六代目菊五郎の舞台を生で見たことがある人がいて、しかもそれがある程度目利きの人ならば、ちょっと六代目の思い出話をお聞きしたいなあ、その証言のなかに何か大事なヒントがあるかもと期待すると思います。武智がプランテに期待するのも発端はそんなところだったと思いますが、実際に証言を聞いてみるとあんまり参考にならなくてガッカリと云うこともよくあることですけれど、まあ何でも有難がって見たり聞いたりしないと御利益は得られないと思います。しかし、尊敬の念と云うか、信仰と云うか、そのような態度を以てプランテの録音を聞けということで、武智がプランテの名前を挙げたわけではなさそうです。武智はプランテを聴いてガッカリしなかったと思います。そこで武智はプランテから何を聞いたのか、それが武智の歌舞伎観とどういう関連があるのかということを、武智の弟子を自称する吉之助が考えます。

まずプランテの弾く「木枯らしのエチュード」(作品25-11)を聞きますと、印象に強く残るのは、激しく下降する十六分音符のパッセージの音符がひとつひとつ明確に弾かれていることです。吉之助がよく云う表現ですが、音のツブツブ感が強いことです。ひとつひとつの音が正しく明確に弾かれていることで、激しく下降する旋律が生み出す、おどろおどろしいほどの不安感、焦燥感というものが、はっきりと像(イメージ)を以て伝わって行きます。武智は『ショパンは地獄を見ていたのだ。そうしてプランテもまた・・・。』と書いています。

プランテよりも早いテンポでもっと見事に滑らかにこの十六分音符の急降下のパッセージを弾きこなすピアニストは、たくさんいると思います。しかし、実に多くのピアニストが、急降下のパッセージを滑らかに弾くけれども、指を速く動かすことに神経が行くあまりに、ひとつひとつの十六分音符を正しくその長さだけを弾き切れていません。十六分音符のリズムを深く打ちきれないまま、中途半端な形で次のキーで指を移行しています。急降下のパッセージの音型が正しい姿を現していません。だからこの旋律が持つ不安、焦燥のイメージが研ぎ澄まされたものになって来ません。お試しにYoutubeで木枯らしのエチュードの音源をいくつか聞いてみてください。表面的には滑らかに見事に弾きこなしているけれども、ただそれだけの演奏が沢山ありますから。

もうひとつ大事なことは、派手な急降下のパッセージばかりに耳がいくけれども、左手で奏でられる序奏4小節で提示される主題との関連です。プランテの録音を聞くと、この曲は左手を明確に弾くのが大事なことなのだなあと云うことが、ホントによく分かります。この主題がこの曲の骨格であるからです。プランテの演奏は、律儀に過ぎるかなと思うほど、左手が明瞭ですね。これがあるから右手のパッセージが生きて来るのです。

この曲のイメージを十全な形で早いテンポで表現する為には、超絶的な技巧が必要です。しかし、ピアニストの使命は急降下のパッセージの音型を正しい姿で再現することにあるのですから、もしそのテンポでそのことが実現できないのであれば、早いテンポにこだわっては駄目です。ピアニストはそれが実現できるテンポで弾くべきです。つまりそのピアニストの技巧でパッセージの音型を正しい姿で再現できるレベルにまで、テンポを遅くすべきです。これは或る意味では不本意なことかも知れませんが、優先すべきはテンポではない。優先すべきことは、急降下のパッセージの音型を正しい姿で再現することです。それでないとショパンのフォルムにならないのです。

ここで吉之助が云いたいことは、大事なのは「心」だということです。正しい心が正しいフォルムを表すということです。その逆ではないということです。テンポにこだわるということは、表面的な形に固執することです。これでは正しいフォルムは表現できないのです。

このプランテの弾いた録音がショパンが弾いた解釈そのままなのか?これだけでプランテがショパンの雰囲気を伝えていると云えるのか?それがホントに正しいものであると、どうしてそんなことが云えるのか?といろいろな疑問が湧いて来るかも知れませんが、とりあえずそういう疑問は置かねばなりません。武智は、この録音を聴きながら、ショパンの何に思いを馳せたのかなあと、そう思って聴くことは、とても意味があることなのです。(この稿つづく)

(H29・5・22)


4)武智鉄二はプランテから何を聴いたのか・続き

武智はプランテのショパンの録音から何を学んだのでしょうか。武智はそこに彼が理想とする古典芸術(クラシック)の在り方を聴いたのに違いありません。だから武智の歌舞伎批評を読んで、武智が山城少掾や吉田栄三の理知的な芸風、六代目菊五郎のかつきりとした規格正しい芸を理想としたことを考え合わせれば、武智がプランテから何を聴いたかが容易に類推が出来ます。

別稿「伝統芸能における古典〜武智歌舞伎の理論」で論じたとおり、武智がプランテから聞き取ったのは、ノイエザッハリッヒ カイト(新即物主義的)あるいは新古典主義的なものであったと云えます。武智が聴いた録音は1928年、プランテが89歳の時のものです。1928年と云ればノイエザッハリッ カイトヒの芸術思潮の真っ最中でした。この老プランテの録音もノイエザッハリッヒカイトの香りがプンプンしますね。

正確に云えばノイエザッハリッヒカイトという概念が提唱されたのは、第1次世界大戦後の1910年代のことで、演奏様式としては1960年くらいまでが隆盛期でしょうかねえ。しかし、芸術のなかでその傾向が現れていく過程を遡って行くと、そのような現象ははるか以前の19世紀半ばから始まっていることが分かります。(演奏史としては、録音がないのでその辺が確認できませんが、当然深層でシンクロしていると考えられます。)この流れが表層に現れてきて、20世紀に至って概念化されたと考えるべきです。だからショパンを新古典主義的と規定することは歴史的に考えれば間違いでしょうが、例えばショパン自身は自分を浪漫主義の作曲家と呼ばれることを嫌い、作品に文学的なタイトルを付さなかった(木枯らしのエチュードと云うのもショパンの命名ではない)ことを考え合わせれば、ショパンは或る意味において新古典主義的な予兆を見せているということが云えると思います。1928年に録音された老プランテのショパンを聴くと、そのようなことが脳裏をよぎります。

まず前章の、木枯らしのエチュードの録音で云えば、ひとつひとつの音が正しく明確に弾かれていることです。特に律儀に過ぎるかなと思うほど左手が明瞭に弾かれて、これに右手の十六分音符の急降下のパッセージの動きがきっちりとはまっていて、とても規格正しい印象があることです。つまり楽譜の縦の線が明確に決まっていて、音楽の骨格に揺るぎがない。これがこの演奏に、古典的(クラシックな)印象を与えています。

このことは例えば三味線の鶴沢道八が語るところの義太夫の足取りの話とか、六代目菊五郎が自在に踊りこんで舞台の端をかつきり下駄の歯一枚で踏み残したという逸話にもどこか通じるところがあるわけです。(この稿つづく)

(H29・6・3)


5)武智鉄二はプランテから何を聴いたのか・そのまた続き

ショパンの動的なイメージは、黒鍵のエチュード(作品10-5)を聴けば、もっと良く分かると思います。黒鍵をめまぐるしく行き来する右手のパッセージは、音の粒立ちが良くないと、この曲の本質は決して味わえません。指の動きが早いことは大切には違いないですが、動きが早いだけでは駄目です。一音一音がその音符の長さ分しっかり弾かれていなければなりません。

黒鍵のエチュードを良い演奏で聞くと、吉之助には花園で花の上を蝶々がパタパタ飛びまわっている光景が浮かんで来るのです。これを捕まえようとすると、蝶々がスルッと手の間をすり抜けて逃げてしまいます。アレッと思と、今度はこちらをパタパタ飛んでいる。そこへ手を伸ばすとまた蝶々が逃げてしまう、そのような光景なのです。この曲の右手のパッセージは、そういう風に聴こえて欲しいのだなあ。(ショパンが自分の曲に対する文学的な解釈を嫌っていたことは知ってはいますがねえ。) プランテの弾く黒鍵のエチュードを聴けば、吉之助の持つ印象がお分かりいただけるだろうと思います。プランテより速いテンポでこの曲を弾くピアニストはたくさんいますが、眼前に蝶々が浮かび上がる演奏はそう多くはありません。

何が云いたいかというと、対象(この曲の場合は蝶々)は絶えず動いていて、蝶々がそこにいると思って手を伸ばすと、蝶々は既にそこにはいない、こちら に現れたと思えば消えて、今度はあちらに現れるという感じで、蝶々は一定の場所に留まることはなく、実に捉えどころが ありません。しかし、それが決して幻ではないことは、たしかに蝶々が実在感をもって私の目に映っていることから確かなことで、それが真実であるのを私は決して疑うことはないのです。 これが吉之助の、黒鍵のエチュードのイメージです。

これについては別稿「団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜谷崎潤一郎・「吉野葛」論の最後の章でも同じことを書きましたが、これはとても近代的な感性の所産なのです。絶え間なく動く物体を私が目で見よう(認識しよう)とする時、私はその物体を直截的に捉えるのではなく、光が当たって物体が反射した光を網膜がとらえて、それで私はその物体を認識することができるのです。つまりそこに時間差が生じますから、私が認識したものは「像」に過ぎず、私が認識した時にはその物体は既に違うところへ移動してしまっているのです。ですから物体の位置は明確に捉えることは出来ず、敢えて表現しようとするなら、それは雲のようなイメージで確率として表すしかない。これがハイゼンベルクの不確定性原理(1927年)の哲学的な解釈なのです。つまり、吉之助はここでショパンがそのような近代的な感性を先取りしていると考えたいのです。

吉之助のそういうイメージを採るならば、黒鍵のエチュードはショパンではなくてプロコフィエフみたいに聴こえちゃうのじゃないの?と仰る方がいそうです 。その指摘は、ある意味で正しいです。実際、吉之助はショパンのこの曲の右手はそういうイメージの方が近いと思っているのです。ただし、この曲がプロコフィエフにならずにまさにショパンのものであるのは、その左手の扱いゆえです。 実はショパンのエチュードの本質は左手にあるのです。ショパンのエチュードを古典的(クラシックな)印象に結び付けているのは、左手です。右手は伴奏。その右手の伴奏に物凄く技巧的な手が付けられているのですが、結局、大事なのは左手なのです。

プランテの弾く黒鍵のエチュードを聴けば、木枯らしのエチュードと同様、 ショパンのエチュードにおける左手の重要さが明瞭に分かると思います。要するに、これは足取りの問題ですね。足取りというのは、鶴沢道八が武智に語った義太夫用語なのですが、足取りのなかに曲の風格とか、位取りが自然と現れるということです。イヤこれは決してこじつけではなく、実際、武智はそのようにプランテを聴いたと思いますよ。吉之助もこういう風に音楽を聴くからです。

もうひとつ付け加えておきます。黒鍵をめまぐるしく行き来する右手のパッセージは、無窮動な(果てしなく続いて終わりがない)イメージです。この解決が付かないパッセージを聴いていると、せわしなく動き回る蝶々の動きを止める術(すべ)を吉之助は想像することがまったく出来ません。ところが、この曲の終結部を聴くと、これはちょっと乱暴じゃないかと思えるほど、ホントに思いがけない止め方なのです。グレン・グールドは、ショパンの奇態指数ということを言っています。「奇態指数」(quirk quotient)というのはグールドの造語だそうで、予測がつかない転調・休止・アクセントなどのことを言っています。グールドは、ショパンの音楽では「彼はたった今何をしたんだ?」と 聴き手が思うような予測不可能なことがしばしば起こると言っています。黒鍵のエチュードの終結部は、奇態指数が最高レベルの例です。これはまさに前衛的な表現と云えるもので、その意味でも黒鍵のエチュードは、ショパンが近代的な感性を先取りしていると感じます。(この稿つづく)

(H29・6・5)


6)カラヤンとメニューインとの対話

近代的感性においては、対象(イメージとしての像)は絶えず動いており、定まることがありません。見定めよう・特定しようとすると、それはスルリと逃げる、あるいは別の像に変わる、そういうことを絶えず繰り返します。「私」が対象を見定めようとしても、それを掴むことはとても難しい。しかし、それが決して幻ではないことは、対象が実在感を以て「私」の目に映っていることから明らかなのです。だから、それが真実であることを「私」は決して疑うことがありません。

ここで大事なことは、絶えず動いて定まることがない対象が確かにあると、実在感を以て「私」に認識させるものは何かということだと思います。それはほんの一瞬であるけれど「私」のなかに対象の明確なイメージが刻みつけられたからに他なりません。刻み付けられたイメージがあまりにリアルであるから、それが真実であるのを「私」は決して疑うことはないわけです。つまり真実味(リアルさ)と云うことです。

音楽についてそれを考えてみると、そのイメージをリアルにするもの、これは何でしょうか。それは、音と音の間に在るものを明確に聴き手に意識させるということです。ところで、宜しければ、下記の映像をご覧ください。カラヤンとメニューインの対話です。日本語字幕付きで25分くらいの映像ですけれど、付き合う価値は十分にあります。(1966年1月ウィーンでの収録 )
 

映像の7分辺りからを見てください。

メニューイン:「(楽譜が示す通りに弾かないで)短い音を長く、長い音を短く、大きい音を小さく(してしまうことで、コントラストを正しく付けることができない。)本来、我々は劇的な効果のためにコントラストが必要なのです。」
カラヤン:「さらにもうひとつ、我々が忘れてはならないことがある。音が連続している時に、その間の空間が最も重要なのだ。それらの音そのものよりもはるかに重要なのだ。ひとつの音と次の音との間に、どれだけの時が流れていくか・・・。ひとつの音につづいて次の音のまったく完全に精密に連続させる。もちろんこれで旋律には、より強い緊張が与えられる。そして練習では、まさにこのためにほとんどの時間が費やされる。」

音楽の劇的コントラストを付ける為には、楽譜にある音符をその通りの長さに正しく弾くことが大事です。短い音を長く、長い音を短く弾いては駄目です。 作曲者が指定した正しい長さで音符を弾かなければいけません。このことをメニューインが指摘してますが、さらにカラヤンがこれに付け加えます。しかし、音符をその通りの長さに正しく弾くということは、同時に音と音の間、その間の空間、つまり沈黙の時間の長さを正しく決めるということでもあるのです。これによって音楽的イメージは、くっきりと明確なリアルさを持ったものとなるのです。音は耳に伝わったらその場で消えてしまいますが、イメージは実感を持ったものとして聴き手のなかに明確に残ります。

プランテが弾くショパンは、音の粒立ちが良い。指の動きが早いことは大切 なことですが、プランテは逸るところがなく、一音一音をしっかり弾いて、リズムをしっかりと刻んでいます。だから音楽の骨格がしっかりしています。これが武智が、プランテから学んだことのひとつです。歌舞伎役者の台詞回しも同じことです。名優の台詞回しはしばしば音楽的だと感じるものですが、それは一語一語を明確に発声して、リズムがしっかり刻まれているから、観客はそれを音楽的だと感じるのです。

もうひとつ大事なところが、12分辺りです。ここもよく読んで欲しいと思います。

カラヤン:「指揮のテクニックとは何を意味しているのかね?(中略)伝統的に確立されたものもいくつかある。一拍目では手を下におろすとか・・・それでオーケストラを楽に指揮できるという技術は確かにある。だが私は、それに反対なのだ。なぜかと言うと、オーケストラが強制されて修正しても、それはもう間違った響き、間違ったテンポなのだ。だから私は別の意見を持っている。修正自体が正しくないと駄目なのだ。和声的な基礎が正しく置かれれば、その後に来るものは、音楽の本来の流 れを正しく示すのだ。私は何度も面白がってやったのだが、古い世代の指揮者たちの真似をしてみせたのだ。私は尊敬する6人の指揮者の真似を君の前で見せることができる。人々が真似できない彼らの特別の指揮の技術を・・・。だが生徒たちはその精神を感じなくてはならないのだ。表面的な動きは真似できるが、その精神には及ばない。それでは無意味なのであって、自らのやり方で体験すべきなのだ。そうすれば最後には、何とか手の動きで表現できるようになる。最初から手の動きを学ぶべきではない。それは後からで良いのだ。

役者が強制されて修正しても、それはもう間違った演技、間違った台詞廻しなのだ。表面的な動きは真似できても、先達の精神には及ばない。それでは無意味なのであって、自らのやり方で体験すべきなのだ。そうすれば最後には、何とか身体の動きで表現できるようになる。最初から型の手順を学ぶべきではない。それは後からで良いのだ。先達の精神を学び、正しい演技のプロセスを踏むならば、演技はおのずから型本来の動きを示す。

カラヤンが音楽について語っていることと、伝統芸能で武智が普段言っていることと、まったく同じであることがお分かりいただけると思います。音楽と歌舞伎と何か違うところがあるでしょうか?芸の真理はひとつなのです。音楽が分かれば、歌舞伎が分かる。歌舞伎が分かれば、音楽も分かるのです。(この稿つづく)

(H29・6・13)


7)谷崎潤一郎の発想・その1

本稿でここまで触れた事象について、時系列を整理しておきたいのですが、谷崎潤一郎の「吉野葛」発表が昭和6年(1931)のことでした。そしてフランシス・プランテがショパンのエチュードを録音したのが昭和3年(1928年)のことで した。ノイエザッハリッヒカイトという概念が提唱されたのは、第1次世界大戦後の1910年代のことで、演奏様式としては1930年前後がちょうど隆盛期に当たります。武智鉄二は、この時期の芸術思潮に強く影響されて、プランテの録音を愛好しつつ、文楽・歌舞伎などの伝統芸能研究の世界に入り込んで行くわけです。ちなみに武智鉄二が生まれた年が大正元年(1912)であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生まれた年が明治41年(1908)です。言うまでもなくカラヤンはノイエザッハリッヒカイトの流れを汲んだ代表的な指揮者の一人で した。

これらの事象はそれぞれまったく相互関連がない事項ですが、実は、同時代的な感性において共通したものが根底に流れていることを、何となく感じ取ってもらえれば良いのです。

近代的感性においては、対象(イメージとしての像)は絶えず動いており、定まることがない。その像を見定めよう・特定しようとすると、それはスルリと逃げる、あるいは別の像に変わる、そういうことを絶えず繰り返す。このことは、本稿で何度か触れました。しかし、もう目の前に見えないのだけれど、「私」の頭のなかには、ざっきのイメージの残像がはっきりと残っているのです。それがあまりに鮮やかなので、「私」はそれが確かに存在していたことを疑うことはありません。しかし、もう目の前にそれがないことも確かなことなので、他人に「それは幻覚だろう」と云われると反論できないし、また証明もできないのですが、「それは昔は確かにあったものだ」と「私」は信じたい。

もうひとつ大事なことは、対象(イメージ)はこのころと姿とその位置を変えるので、「私」にとっては「あれもこれもが確かにあったものになるということです。いろいろな形を取ってみえているけれど、それらは決してバラバラなものではない。「私」は、それらが相互に連関性を以て「私」の心のなかに現れているということを何となく感じているのです。

このイメージはハイゼンベルクの不確定性原理、あるいはこの概念を踏まえて提唱された「シュレディンガーの猫」の寓話を考えれば、よく分か ります。(シュレディンガーの猫は原子物理学の概念論なので、こういうお話が苦手な方は多いと思いますが、あまり考え込まずに、分からないところは無視して読み飛ばしてください。分かる部分だけつまみ読み すれば良いことです。)我々は経験上、生きた猫と死んだ猫を区別して考えており、これを重なった状態で認識することはありません。しかし、量子力学の世界においては、或る確率において生きた猫と死んだ猫が重なり合い、混合した状態を想像することになります。

これを本稿第1章で触れた「吉野葛」の津村の場合にあてはめてみます。津村がその顔を見定めようとすると、それが母の顔になったり妻の顔になったりします。母かと思えば妻に変わり、妻かと思えば母に変わります。それは母でも妻でもないものに変わる場合もあります。その像は絶え間なくくるくる変わって、決して定まることがなく、化ける狐、或は初音の鼓のイメージになったりもします。このことは、どれかひとつのイメージが正しくて、他が間違っているということではなく、津村の頭のなかに浮かび上がるすべてのイメージは、或る確率を以て重なり合って・混合した状態で同時に津村のなかに存在しているということなのです。

ですから、吉之助が言いたいことは、このような谷崎潤一郎の発想は、本人がシュレディンガーの猫を知っていたがどうかは別にして(間違いなく知らなかったと思います)、期せずして、エルヴィン・シュレディンガーの発想とまったく同じ考え方であるということなのです。このことから、谷崎潤一郎の発想も、シュレディンガーの発想も、同じ時代の感性から発しているということが云えます。

津村の頭のなかに浮かび上がるすべてのイメージは、或る確率を以て重なり合って・混合した状態で存在しています。これを別の表現で言い換えると、お花畑のうえを一匹の蝶々が飛んでいますが、「私」はなかなかその蝶々を捉えることができません。蝶々はお花畑をあちこち飛び回って、それはたくさんの蝶々が飛んでいるかの如く見えるのですが、実は一匹の蝶々なのです。(本稿第5章のショパンの黒鍵のエチュードのイメージを重ねてみてください。だから吉之助にとって、黒鍵のエチュードはシュレディンガーの猫なんです。)

ここで云えることは、ひとつひとつのイメージが、或る種の軽さ(軽やか)を以て、等価に存在しているということです。だから容易に他のイメージに置き換えできるのです。イメージが重たい・あまりに鮮やか過ぎると、別のイメージに移行することが簡単ではなくなります。だから谷崎の発想は、とても軽やかであるということが言えると思います。容易に転換ができるのです。これは谷崎文学を考えるうえで、非常に大事なことであると思うのですねえ。(この稿つづく)

(H29・6・29)


8)谷崎潤一郎の発想・その2

谷崎の発想がとても軽やかであるということは、例えば「吉野葛」執筆過程を見れば、そのことが良く分かります。谷崎は昭和4年8月に吉野に滞在、さらに昭和5年10月に吉野を再び訪れました。「吉野葛」は翌年・昭和6年に雑誌「中央公論」1月号と2月号に分けて掲載されましたから、1月号への原稿は年内に出版社に渡さないと印刷が間に合いません。だから昭和5年初秋の時点で既に雑誌掲載が決まっていたはずです。この時点で「吉野葛」執筆が始まっていたかも知れません。いずれにせよ構想はほぼ固まっていたに違いありません。

ところが、本人に拠れば「これだけでは心もとない気がしたので、谷崎は昭和5年11月にもう一度吉野を旅行することにして、11月24日菜摘村の大谷家を訪れ、同家に所蔵されている「初音の鼓」を見せてもらったりしました。この大谷家訪問のことが、「吉野葛・その三・初音の鼓」にほぼそっくり取り入れられています。だから「吉野葛」は谷崎が奥吉野から戻って12月に入って一気に仕上げられたわけです。

「吉野葛・その三・初音の鼓」を読むと、「吉野葛」を津村の母探しの筋として見た場合には、この章は新たな材料を提供するわけではありません。大谷家伝承の初音の鼓と狐との関連を補強する材料が出て来るわけではなく、津村も「私」も期待していたのに成果がなくてガッカリという感じがはっきりあります。結局大谷氏の家で感心したものは、鼓よりも古文書よりも、そこで食した「ずくし」(干し柿)であったと谷崎は書いています。まあそう云う意味では、「その三・初音の鼓」は筋から見ると別に無くても良い章なのです。

ところが、さすがに大谷崎だなと思うことは、結果として「母ー狐ー美女ー恋人」の連想の肉付けには寄与しなかったけれども、大谷家訪問を小説の材料として無駄にしなかったことです。小説的紀行文の体裁を取るなかで、「私」と津村の道中を吉野の伝承の世界に遊ばせ、この挿話クスッと笑ってしまう味わいを醸し出すように仕立てて、次章へ巧みに筋を渡しています。それどころか、この章がなければ「吉野葛」は名作にならなかったと云えるほど、この章が見事に「吉野葛」の筋の転換点、「吉野葛」のなかでの要となっているのです。この小説で最も印象的なのは「ずくし」(干し柿)の挿話だと書いている批評もあるくらいです。11月24日の大谷家訪問が「吉野葛」執筆の直前か・真っ最中に行われたことを考え合わせると、もし谷崎が大谷家訪問を断念していたとしたら、もし「その三・初音の鼓」がほぼそっくりなかったとしたら、それでも小説は書き上がったでしょうが、「吉野葛」はどうなっていただろうかということを想像してみれば良いと思います。これはちょっと驚くべきことです。吉之助は、そこに谷崎の発想の軽やかさを見るわけです。

これは吉之助の想像ですが、谷崎の脳裏に、小説のいろんな場面がちょうどスナップ写真のように、沢山の写真が一冊のアルバムみたいな形で備わっていて、谷崎がアルバムに新しい写真を挿入したり、時には抜き取ったり、写真の順序を適当に組み替えて行けば、それに連れて筋を自由自在に変えられるということだと思うわけです。アルバムに沿って原稿を書き進めてさえいけば、それで小説は出来上がるわけです。このことで、谷崎の感性が如何に健康的であるか察せられます。そこに客観的に自己を見つめる醒めた視点を感じます。すなわち谷崎は小説を書くのではなく、職人が工芸品を仕上げるが如くなのです。

巷では谷崎は変態作家などと云われてます。主人公のマゾっ気とか、その小説の感性の歪んだところが面白いと世間では思われているかも知れませんが、吉之助は谷崎の感性は健康的で、或る対象を鏡にそのまま映したように素直だと思っているのです。そう云えば谷崎は、「職業として見た文学について」というエッセイ(昭和10年1月)のなかで、 こんなことを書いています。

『小説家と云う職業は他のいかなる職業よりも道徳的に健全なものであり、最も不愉快なことの少ない、そうしてまた人間を堕落させる恐れのない職業だと考える。』

谷崎はこれをたいへん真面目に書いていると思いますがねえ。(この稿つづく)

(H29・7・3)


9)発想の軽やかさ

前章で谷崎潤一郎の発想の軽やかさということを書きました。頭のなかのアルバムの写真を差し替えるように、谷崎は小説の筋を軽やかに組み立てていると、吉之助は感じるのです。これはノイエザッハリッヒカイトを考える時の大事な要素であると、吉之助は考えているのです。

ノイエザッハリッヒカイトと云うと、まず最初に挙がるお題目は、「原典主義」です。音楽ならば、作曲者の意図はすべて楽譜に書き込まれている、だから楽譜を虚心に読み込んで、そこから作曲者の意図を理解すれば、解釈は必ず正しい沿うものになる(はずだ)という考え方です。このことは伝統芸能の世界でも同じです。例えば山城少掾が「浄瑠璃というものは、頭さえ使えば誰でも語れます」と言うのは、原典である丸本(浄瑠璃の初演台本で、当時は必ず出版されたものであった)を研究して初演した太夫の「風(ふう)」を正しく会得するならば、誰が読んでも解釈は必ず同じ解釈に到達するとするのは、イエザッハリッヒカイトと同じであるわけです。山城少掾がイエザッハリッヒカイトなんてことを知ってるはずがないのだけれど、期せずしてその考え方が一致するのです。 実に不思議なことです。

これは二十世紀初頭の芸術思潮としてあるもので、実は谷崎潤一郎も山城少掾も、同じ時代に生きる人間として、当時のイエザッハリッヒカイトを標榜する西洋芸術家と同じ問題に直面していたのだということは、「歌舞伎素人講釈」のなかで吉之助は何度も書いてきたので、ここでは繰り返しません。本稿で吉之助が言いたいことは、「原典主義」というお題目が、「正しい表現はひとつだ」という風に、しばしば間違って理解されているということです。(「解釈」と「表現」を使い分けていることにご注意ください。)

原典を虚心に読んで、作者の意図を正しく理解すれば、再現芸術家(演奏者・演者)の解釈は、誰が読んでも必ず作者の解釈と同じものになる。これが原典主義の考え方だというのは、正しいです。ここまでは間違いありません。問題になるのは、再現芸術家(演奏者・演者)の解釈が誰が読んでも作者の解釈と同じものになるならば、誰がやってもみんなまったく同じ表現になるのか、誰もが同じ表現であるべきなのかと云う点です。「原典主義」が目指すところの正しい解釈というものは、そういう唯一無二の、理想の表現であると思い込んでいる人が、とても多いということです。これは誤解であるということを申し上げておきたいですねえ。イエザッハリッヒカイトの原典主義というものは、そういうものではありません。

この誤解を避けるために、発想の軽やかさということを、イエザッハリッヒカイトの原典主義のお題目に付け加えたいと考えます。正しい解釈はひとつ(のはず)ですが、その表現の可能性はいろいろあ り得るのです。表現の無限の可能性を追求するために、発想の軽やかさが必要なのです。

元素が原子核(陽子)とその周囲を旋回する電子で出来ていることはご存じであると思いますが、量子力学の世界においては、旋回する原子は粒子として・或る時点の位置を特定できるものではなく、在る確率を持って存在する雲のような存在として理解されます。したがって、原子はあそこにもあるし、そこにもあるのです。それは雲のような存在 (確率)として捉えられるのですから、電子が存在しそうな(確率が高い)領域というのは大体分かるのです。存在する可能性が少ない(確率が低い)領域がどこかということも分かります。そうやって考えていけば、 元素の大体の有り様がつかめて来ます。この元素はこんな形をしているんだなあということが、感覚としてつかめて来ます。原典主義が言うところの正しい解釈の有り様も、そんなものだと考えれば良いのです。ここら辺が正しいのだなあということは大体分かる。正しい解釈と言っても、その表現はひとつではなく、それは雲のように領域としてある、だからいろいろな表現の可能性を持つものです。

*上の図は、ニールス・ボーアの原子モデル
電子は雲のように原子核を取り巻く。色の濃い部分が電子が存在する確率が高いところ。

しかし、再現芸術家は、演技をする・音を出すと云う行為で、表現をある形にして見せなければなりません。表現はいろいろな可能性を含んでいますから、この表現もいいね、あの表現もいいね、その表現も捨てがたいねとあれこれ迷 ってしまうのだけれど、再現芸術家はそれでは仕事にならないのです。表現をひとつの形にする決断をして、初めて仕事に出来るわけです。これは雲のなかに確率として存在する電子を粒子として位置を特定する作業とまったく同じです。表現をひとつに決めること自体に、芸術行為の矛盾が存在するのです。それはシュレディンガーの猫の寓話が示すものとまったく同じです。

ですから、いろいろな表現の可能性を切り捨てて、ひとつに決める決断をすることが、再現芸術家の仕事ではあるのですが、次に彼が演じる時に、(前回は彼が切り捨てたところの)別の可能性の表現を今度は取り上げることは、十分にあり得ることなのです。それらひとつひとつの選択が、創造行為としてすべて等価な意味を持つからです。この時のために、再現芸術家に必要な資質は、発想の軽やかさであると、吉之助は言いたいわけです。

山城少掾は、「仏芸(ほとけげい)」と云うことを言いました。表現がひとつにこり固まって、いつやっても同じ表現というのは、それが完璧に見えても実は死んだ芸、そういう表現を仏芸と云うのです。「だから自分は、語る度に、常にどこかを変えて語ります」と、山城少掾は武智鉄二に語ったそうです。だから山城少掾にとって、正しい解釈はひとつだけれど、表現の可能性はいっぱいあるのです。それが表現の軽やかさということです。

武智歌舞伎というものを考える時に、原典主義という概念は大切なことですが、人形浄瑠璃がやっている通り(人形浄瑠璃も実は色々変えてはいるのだが、歌舞伎から見れば一応原典ということになる)に戻して、歌舞伎が歪曲してきたものを正す、それが武智歌舞伎の理念であると思っている方が少なくありません。この見方が間違いであるのは、武智が定めた手順(目に見えるところの動作、台詞廻しなど、演出に係わる表現のすべて)を、武智が原典主義から引き出した絶対の表現だと考えているからです。

手順(表現)には、いろいろな可能性があるのです。演出者として武智は、その時にはそういう手順を採用したということに過ぎません。次に同じ作品を演出する時に、武智は別の手順を採用することを躊躇しなかったでしょう。発想の軽やかさがないのならば、演出者は決して良い仕事ができないのです。(この稿つづく)

(H29・7・16)


10)伝統芸能の軽やかさ

シュレディンガーの猫の寓話が教えることは、極小の世界(量子力学の世界)で起こる事象は、これを極大の世界(現実の世界)に適用しようとすると矛盾を生じるということです。精神世界においてこの考え方を適用すると、脳内に浮かぶイメージは、これを表現として現実世界に固定しようとすれば、いろんなものを取り落とすという矛盾を引き起こすと云うことです。

表現する行為とは、あれやこれや湧き上がる選択肢を切り捨てて、ひとつの形を選び取る行為です。選択に芸術家は責任を持たねばなりません。その表現はいいねとか・あまり良くないねえとか、芸術家はその選択によって評価されます。だから表現の行為は、最終的に評価という重い結果になって芸術家に跳ね返って来るでしょう。

そうすると芸術家は、熟考に熟考を重ねて呻吟の果てに湧き上がるイメージを切り捨てて、これをひとつに選び抜くという、実に重い選択をすることになるのでしょうか?もちろんそういう場合もあると思います。しかし、そうでない場合もたくさんあると思うのです。こっちもいいねえ、あっちもいいねえ、それも捨てがたいね、でも今回はまっこれでいいか、エイヤッというような、軽やかな選択があり得るのです。イヤ実際には、そちらの方がずっと多いと吉之助は思うのです。しかし、そのような軽やかな選択においても、責任は必ず付きまといます。選択が重くても・軽くても、芸術家は評価という形で重い結果を負わねばなりません。このことは表現行為のパラドックスと云うべきです。

前章で谷崎潤一郎の発想の軽やかさについて書きました。頭のなかのアルバムの写真を差し替えるように、谷崎は小説の筋を軽やかに組み立てます。写真の順番を前後取り換えてもどちらでも良い、この写真は別の写真に差し換えてもどちらでも良いという場合がしばしばあるのです。そうすると小説の筋が微妙に変わってしまうことになるでしょうが、別にどちらでも構わないということは実に多いものです。落とした写真(材料)は、まだ別の作品で使えば良いじゃないか。そんな感じで軽やかな選択をしないと、表現者は仕事を完成できないことが、しばしばあるのです。これは吉之助が評論を書いていても同じです。

伝統芸能を見る方には、歌舞伎の型は重いものだとお考えの方が多いと思います。熟考に熟考を重ね、呻吟に呻吟を重ね、無駄を削ぎ落とし、さらに歴史によって取捨された結果としてある。だから型は実に重いとお思いの方が、とても多いのではないでしょうか。それが「伝統の重み・有難味」だと云う気持ちは分からなくはないですが、多分それは、勘平はあっちを向いて、煙管を持った右手をこう出して・・と云う手順(段取り)を歌舞伎の型だと思っているからです。型生成のプロセスを 反対方向から見ているのです。極大の事象で極小の世界を推し量っているのです。

しかし、歌舞伎の型というものを「心」だと考てみてください。「心」とは、例えば三代目菊五郎がこの場面なら勘平はこうしただろうとイメージながらこの手順を作った、その発想法だと考えるならば、歌舞伎の型はずっと軽やかなものになるのです。型とは、いろんな表現の選択肢の、軽やかな選択の結果に過ぎません。手順よりも、発想プロセスの方が大事なのです。三代目菊五郎の発想プロセスを会得すれば、菊五郎が創始した他の型、例えばいがみの権太もすぐ分かる。たとえ菊五郎が演じた記録が残っていない役であっても、菊五郎が演るならばこうやったかなと見通せるようになるのです。

前章でノイエザッハリッヒカイトの原典主義について書きました。原典主義とは「テキストのなかに作者の意図はすべて書き込まれている」とする態度です。しかし、伝統芸能で型を大事にすることは、型の手順を厳格にその通りに守って行う・何も変えてはいけないと云う態度を指すのではありません。そう信じている方は多いと思いますが、そうではない。手順がテキストではないからです。型の「心」こそテキストなのです。それが伝統芸能の原典主義の正しい態度です。

六代目菊五郎は、少年時代に茅ヶ崎の九代目団十郎宅に預けられて舞踊の指南を受けたことは、よく知られています。後年、「積恋雪関扉」の関兵衛を、菊五郎が初役で踊った時、「いやあ、さすが九代目直伝で・・」とあちこちからお世辞を言われたそうです。実は菊五郎が関兵衛の踊りを九代目から直接習ったことはなかったのです。

「しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。その偉い伯父さんの通りだと言われ直伝だと思われているんだから、マア不名誉なことじゃない。考えてみれば悪い気持ちはしませんから、ヘエ、と言ってるようなわけさ。」(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)

直接に教わらなくても、自分で考えながら、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくる。六代目菊五郎の選択は、とても軽やかに行われています。その表現は今まさに生まれたばかりのような新鮮さを持っています。だって実際、そのようにして生まれたのですから。「それがつまりコツだね」と六代目菊五郎は軽く言っていますが、これが型の秘密なのです。

ですから伝統芸能を考える人たち(演者も鑑賞者も)にとって、伝統芸能を軽やかに、動的にイメージすることは、非常に有益なことであると思うのです。

(H29・7・27)


吉之助の三冊目の書籍本です。

「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。

武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈



 


 

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