吉之助が芸談「芸十夜」を読む・前編
武智鉄二・八代目坂東三津五郎:芸十夜
1)芸の精進について
『大隅さんには明日がありませんでした。古靭さんは明日を考えて語ってはります。』
芸談というのは情報がしばしば断片的で言葉足らずです。語る方は当たり前と思って語っているせいか、こちらが「そこのところをもうちょっと聞きたい」と思うところがバッサリ欠けていたりするものです。ですから芸談を読む時は、足らないところを自分の知識・経験と想像力でフィードバックして補っていくしかありません。
上に挙げた発言は、武智鉄二と八代目三津五郎の芸談集「芸十夜」・第二夜のなかで三味線の名人鶴沢道八から聞き取った言として武智鉄二が語ったものです。これは道八が三代目大隅大夫と二代目古靭大夫(後の山城少掾)の芸のどちらが上かなどということを言っているのではありません。道八は「芸の佇(たたず)まい」のようなもののことを言っています。芸の佇まいというのは吉之助の芸道用語ですがね。芸というものにはそれが自ずと醸す雰囲気・趣のようなもの、あるいは自然と浮かび上がってくる演者の品格・人間性のようなものがあるのです。吉之助はこれを芸の佇まいと呼んでいます。つまり、芸のなかに現れる演者の生き様のようなものでしょうかね。それは芸の個性を作り出す大きな要素のひとつですが、そういうものに上とか下とかあろうはずがありません。
道八は「大隅さんには明日がありませんでした」と言います。ひとつには、大隅大夫の芸が毎日が全力投球の芸で、その日その日の芸に力のすべてを出し切ろうと する芸であったということです。「舞台で死ぬ覚悟が出来ている・これこそ芸人の鑑だ」と思うかも知れません。確かにそういうことも言えます。ただし、長く舞台を 勤めていれば誰でも波があるもので、良い時も悪い時も出てくるのです。乗っている時は全力投球の芸というのは素晴らしい。しかし、落ち目になった時には悪い面も出てくるのです。それは余裕がない・どこか荒んだ芸に見えることがあります。聞いていて辛い芸に見えてくることもあるのです。晩年の大隅大夫はそれで段々人気がなくなっていきました。大隅大夫が大阪を追われ、台湾に客死するに至る経緯はそんなところが原因でした。大隅大夫は大名人でしたが、世間からそれに相応しい扱いを受けて幸せと言える人生を歩んだ芸人ではありませんでした。「浄瑠璃素人講釈」を著わした杉山其日庵は、大隅大夫の思い出話をする時、いつも眼に涙を浮かべていたそうです。道八が「大隅さんには明日がありませんでした」という背景にも、そのような涙があるのです。そこに大隅大夫の芸の生き様が出ているのです。
一方、道八は「古靭さんは明日を考えて語ってはります」と言います。古靭大夫の芸は、今日は昨日より良い舞台を勤めよう・明日は今日よりもっと良い舞台を勤めようと考える芸でした。そうやって毎日少しでも・しかし着実に芸の境地を高めていこうと日々努力するのが古靭大夫の芸でした。骨格のしっかりした・筋道の立った芸でありました。古靭大夫は後に掾号を与えられて山城少掾となります。芸人としては幸福な歩みを辿った人でしたが、実はその背後にたゆまぬ努力があったのです。道八が「古靭さんは明日を考えて語ってはります」と言うのはそのところです。これもまた古靭大夫の生き様なのです。
大隅大夫や古靭大夫の芸がそういうものであったことは、「浄瑠璃素人講釈」・「道八芸談」・「山城少掾聞書」など芸談集を読んだり、また音質は十分ではなくても遺された録音などを聞けば自ずと分かってくることです。先ほど書きました通り、芸談というのはしばしば言葉足らずですから、短い文章だけ取ってものを考えたら間違えます。情報をトータルで駆使して・絶えず微調整をしながら、正しい芸のイメージを作り出していかねばなりません。芸談をどう読むかで読み手の力量が試されるということでもありますね。
(H22・11・14)
2)原典主義について
『義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです。』
上に挙げた発言は、芸談集「芸十夜」・第五夜のなかで山城少掾の言として武智鉄二が語ったものです。「もうちょっと頭を使って・考えながら丸本を読みなはれ」と言ったのではありません。そんな偉そうなことを山城少掾が言うわけがありません。山城少掾はあくまで謙虚です。山城少掾が言うことには、ちょっと解説が必要かも知れませんねえ。
山城少掾の言いたいことは、「一定の思考の筋道を以って同じように考えるならば・誰でも同じ結論に達するはずである」ということです。再現芸術家の目指すことは、作者の解釈(義太夫ならば初演の太夫の風ということになります)を正しい形で表現することです。言い換えれば、作者の考えている通りに・同じ思考経路を以って作品を読むならば、それは作者と同じ解釈に到達するはずだということです。そのような強い確信が山城少掾のなかにあるということです。どうしてそのような確信を持つのかと言えば、義太夫ならば丸本というテキストが根拠としてあるからです。テキストのなかに作者の解釈はすべて書き込まれている。だから、テキストを作者の考え通りに正しく読むならば、誰が読んでもそれは作者の解釈と同じになるという・これは絶対的な確信なのです。信仰と言っても良いものです。
もうひとつ付け加えましょう。山城少掾が「私はそれ(作者の意図)を知っているよ」と誇っていると思いますか。芸に謙虚な山城少掾がそんなことを言うはずがありません。山城少掾ならば「私も丸本と向き合って何十年、まだまだそれを掴むには至っておりませんが・・」と言うに違いありません。作者と同じ解釈に至ることは終にないかも知れません。しかし、そこに至ることを信じて私は日々努力しているのです・・ということです。これが「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです。」ということの真意です。その難しさを山城少掾自身が一番知っているのです。
この山城少掾の態度をひと言で表現するならば、これを「原典主義」と言うのです。同時に「一定の思考の筋道を以って同じように考えるならば・それは同じ結論に達するはずである」ということは、それは科学的思考ということなのです。いや義太夫と科学とはまったく水と油のようにお考えの方が多いと思いますがね、実は山城少掾ほど科学的な太夫はおりません。そのきっちりと筋道立った・端正な芸風を聴けば、そのことは明らかなのではありませんか。(別稿「科学的な歌舞伎の見方」をご参照ください。)
ところで原典主義というのは、それは二十世紀初頭の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の旗印なのです。当時ノイエ・ザッハリッヒカイトを標榜する代表的なピアノ演奏家といえばワルター・ギーゼキングでした。 音楽におけるノイエ・ザッハリッヒカイトとは、作曲者の意図は楽譜のなかにすべて書き込まれている・だから解釈の根拠は楽譜から発するという態度なのです。武智鉄二はギーゼキングを尊敬し・その録音を聴いて育ちました。伝統芸能に本格的に携わる以前に、そのような洋楽の素地が武智鉄二のなかにあったのです。その武智鉄二が山城少掾と接した時、武智鉄二は山城少掾の芸をノイエ・ザッハリッヒカイトの芸術思潮において捉え・これを理解したと、そう考えなければなりません。実は、これが芸談集「芸十夜」のなかに一貫して流れている思想です。(このことは別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご参照ください。)
山城少掾はノイエ・ザッハリッヒカイトという言葉を知っていたでしょうか。多分知らなかったと思います。知らなかったと思いますが、武智鉄二がその芸に接して「自分の理想とする芸がここにある」と感じたということは、その芸術思潮の影響を直接に受けていないにも係わらず・期せずして山城少掾の芸はノイエ・ザッハリッヒカイトなのです。なぜ山城少掾の芸がそうなったのかということについても別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」で触れていますからそちらをお読みいただきたいですが、それは時期的に、文楽においては明治31年(1898)の二代目豊沢団平の死、歌舞伎においては明治36年(1903)の九代目団十郎の死と前後して起きたことです。慶応4年(1868年)大政奉還で江戸時代が終わったのは・それは政治体制のことなのであって、芸の世界では二代目団平・九代目団十郎の死によって江戸は終わったということです。そこから文楽も歌舞伎も過去の遺物となった・もはや同時代の芸能とは言えなくなった。だから、義太夫の風であるとか・歌舞伎の型というものの重要性がいやでも増してくるのです。風とか型とか言うものは、もはや時代と切り離されてしまった義太夫や歌舞伎がそれをつなぎとめておくための縁(よすが)なのです。これを失ってしまったら義太夫も歌舞伎ももはや昔の通りでは有り得ないと思う・それゆえ大事な縁(よすが)なのです。
風も型も江戸の昔からあった用語だからその概念は江戸の昔と変っていないと考えている限り、上記の山城少掾の言葉の真意は決して理解ができません。1900年前後に風も型も、その概念が決定的に変化したということです。そこから山城少掾や吉田栄三、六代目菊五郎・七代目三津五郎の芸が出てくるのです。そのような時代の流れを踏まえたうえで芸談集「芸十夜」をお読みいただきたいと思います。
(H22・11・16)
3)芸の手本について
「お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」
「芸十夜」第一夜に七代目三津五郎の言葉として出てくるものです。七代目三津五郎は芝居の話になると、息子の八代目に「今生きてる奴にろくなのは居らぬ。ああいうのをお手本にしちゃいけない。お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」と盛んに言ったそうです。もう死んじゃった・見てない役者を手本にしろとは・・・と八代目三津五郎は困っちゃったそうです。
このエピソードには考えることがいくつかあるのですが、「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」と言ってることは確かですが、ここで何故九代目団十郎 が出てくるのかということを考えて欲しいのです。同じ見てない役者ならばもっと昔の名人、例えば初代団十郎を手本にしろとか・五代目幸四郎を見習えと言っても良いはずです。大和屋の家系にだって三代目三津五郎という大名人がいました。そのような役者の名前が挙がらないで、「お手本にするなら九代目団十郎ですよ。」と何故なるのかということです。
二十世紀初頭の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイトは、音楽においては作曲者の意図(解釈)は楽譜のなかにすべて書き込まれている・だから解釈の根拠は楽譜から発するという態度によって現れるということは前回申し上げました。クラシック音楽の世界では何よりも大事なものは作曲者の意図であるとされます。月光ソナタならばベートーヴェンの意図ということです。ベートーヴェンはピアノの名手でしたが、残念ながら録音は残っていません。当時はまだ録音という技術が発明されていなかったのです。ベートーヴェンの解釈を示唆する文献的なもの・あるいは周辺の人々の証言などはありますが、いずれにせよ材料は限られます。そうすると理想の解釈への道は袋小路に追い込まれるのですが、逆にそこから作曲者の意図を楽譜のなかに見ようという態度(原典主義)が最後の砦として出てくるわけです。実際百人の演奏家がいれば百の解釈があるわけですが、そのどれもが楽譜を根拠としています。それでは作曲家の意図というのはどこにあるのか。この事態を見て「作曲者の意図はすべて楽譜にあるなんて空論だよ」とお笑いになる方は、クラシックということの意味がお分かりになっていないのです。クラシック(古典的)な態度とは、そのようないにしえの昔の・今は見失われてしまった理想の何ものかを真摯に追い求めようとする態度のことを言うわけです。頼りないものかも知れませんが、楽譜という根拠が確かにあるだけクラシック音楽は幸せだと言わねばなりません。
ですからクラシック音楽から歌舞伎に入った吉之助にして見ると、「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」なんてことは至極当然の考え方なのです。師匠である武智鉄二もそうであったはずです。ところが、歌舞伎というのは伝統芸能というのですが、歌舞伎を学べば学ぶほど「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」というのは、この世界ではどうも当リ前のことではないらしいことに、吉之助は次第に気が付いてきました。もちろん先人を尊敬する気持ちがないことはないのですが、どことなく好い加減に感じられます。それでダラダラとなし崩し的に変容していく。その変容の痕跡を振り返って、これを「伝統」と称しているように思われます。「俺が伝統を継ぐんじゃない・俺がやればそれが伝統になるんだ」というわけです。こういうのをつなぎ止めるためには、「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」という態度を徹底的に叩き込むことがとても大事なのです。しかし、遥かな昔の初代団十郎・五代目幸四郎の芸をいきなり想像せよと言っても無理です。だからとりあえずの取っ掛かりが九代目団十郎になる・これなら想像付かないこともないということなのですが、実はまだ考えねばならぬことがあります。九代目団十郎という名前には、単に名人という意味がこめられているだけではないのです。
これは「歌舞伎素人講釈の読むためのガイド:九代目市川団十郎」にも書いたことですが、歌舞伎の歴史を見れば、九代目団十郎本人が意図したか・意図しなかったかに係わらず、それ以前の歌舞伎は九代目団十郎に流れ込み・それ以後の歌舞伎は九代目団十郎から発するという形になっているのです。歌舞伎における九代目団十郎は、哲学におけるカント・文学におけるゲーテ・音楽におけるバッハのような存在です。後世の歌舞伎役者たちが九代目団十郎のことを「劇聖」と呼ぶのは、その故郷である江戸という時代から切り離された歌舞伎を・失われた時代につなぎ止めるためのシンボルとしたからでした。九代目団十郎というのは巧い役者・名人とかいう範疇を越えて、歌舞伎が歌舞伎であり続けるために・歌舞伎役者が守り続けていかねばならぬ何ものかを示しているのです。そこから七代目三津五郎の「お手本にするなら九代目団十郎です」という発言が出てくるわけでして、三津五郎は「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」ということだけを闇雲に言っているのではありません。
「芸十夜」という本は、二十世紀初頭という時代(つまり若き武智鉄二と八代目三津五郎の育った時代)の芸術思潮にとても強く結びついた書物なのです。ですから、二十一世紀初頭にこの本を読む方々は、江戸という時代から・明治という時代からさらに遠く切り離された時代においてこれを読むわけですから、読み手は「クラシック(古典的)な態度」という概念をより明確に意識する必要があります。
昨今は時代が何となくイライラしているせいか・歌舞伎関連の評論・随筆など読みますと、「若い頃に自分が熱中した頃の歌舞伎(多分お歳からすると昭和30年代か40年代の歌舞伎でありましょうかね)と・現在の歌舞伎は何かが変ってしまった・何かが違ってしまった・それが実に嘆かわしい・寂しい」というような文章をよく見掛けますねえ。まあ言いたいことは分からないこともないですが、要するに自分が熱中した若い頃の歌舞伎の思い出に固執しているわけだな。「それはその方が目の前の役者の芸しか見てこなかったからだろう」と吉之助は思いますねえ。吉之助が見ているのは「見てない役者・昔の名人」ですから、そんなの関係ないのです。吉之助はいつも「目の前の舞台がこんなに素晴らしい、ならば昔の名人の舞台はもっともっと素晴らしかったに違いない」と思って舞台を見るのです。
吉之助が歌舞伎を熱心に見たのは昭和50年代ですが、吉之助は二代目松緑や十七代目勘三郎の舞台を見ながら六代目菊五郎はどうだっただろうと思って見てました。だからと言って目の前の舞台を楽しまなかったわけじゃありません。もちろん大いに楽しみましたが、家に帰ったら武智鉄二や戸板康二などの本やら古い雑誌の「演劇界」などで、昔の六代目菊五郎はどうやったか確かめたものです。そうやって松緑や勘三郎で得た役や作品のイメージを調整していくのです。だから六代目菊五郎の芸をもちろん生(なま)では見てないけれど、吉之助は知っているつもりです。さらにこの方法論で九代目団十郎だって、初代団十郎だって・五代目幸四郎だって行くのです。だから昭和50年代と平成20年代の歌舞伎の差なんてあって無いようなものです。
晩年の松緑・勘三郎は、黙阿弥の七五調を正しくしゃべれませんでした。録音などを聴くと・昭和30年代はまだ六代目学校の効果が持続してまともであったと思いますが、晩年はかなり崩れてダラダラ調でした。ですから吉之助は晩年の松緑・勘三郎の舞台は、「あそこをちょっと引き締めれば六代目かな・ここはもうちょっと早くサラッと行きたいものだね」とか考えてながら見ていたものです。付け加えますが、それは晩年の松緑・勘三郎が駄目だと言っているのではありません。彼らの身体のなかに確かに潜む師匠・六代目菊五郎の芸の痕跡をどうやって見出すかということなのです。
現代の歌舞伎役者についても同じ方法論が可能なはずです。というよりも、これから歌舞伎を学びたい若い方々もそれを信じて舞台を見るべきです。どんな歌舞伎役者でも、その忠実再現度というところに多少の個人差はあるにしても、伝統を継ぎたいという気はあると思います(そこを疑っちゃうとどうしようもありません)。ですから、歌舞伎をこれから学んでいこうと思う方に申し上げたいことは、「目の前の役者の芸を見る」という見方に加えて、目の前の役者の身体を通じて「見てない役者・昔の名人」の芸を想像するということです。歌舞伎の場合は目の前の舞台だけを見ていては駄目です。七代目三津五郎の言葉をそのようにお読みいただきたいのです。
(H22・11・21)
4)正しい芸・良い芸とは
「はやるからダメなんだよ。」
これも「芸十夜」第一夜に七代目三津五郎の言葉として出てくるものです。七代目三津五郎は息子の八代目に「いまのお客が手を叩いているのはいけないですよ。あんなものに手を叩いているのをいいと思っちゃいけませんよ。」とよく言ったそうです。「だって客に受けてるじゃないか」と言い返すと、「受けてるからダメなんです。」とピシャリと言われたそうです。こういうのは芸談にはよくある話ですが、それじゃ具体的にどういう芸が良いのかというと・そういう疑問には何も答えてくれないのです。正しい芸・あるいは良い芸というのは目の前ではないどこか別のところにあって、それを必死に追い求めていかねばならぬということです。
上記の七代目三津五郎の教えを「客に受けてる・流行ってる芸は駄目、良い芸・正しい芸は客に受けないもの・流行らないものだ」という読み方をする方がいそうですが、それは全然違いますねえ。会話のなかでの教えですから・流れでそのように聞こえるかも知れませんが、芸談というのはある種の禅問答みたいなものです。裏を読まなきゃいけません。三津五郎が言いたいことは、「客に受けようとする芸・客に媚(こび)ようとする芸が駄目なんだ、受けている・流行っている芸を見る時はちょっと距離を置け、何が正しいか・間違いかをしっかり見極めよ」と言うことです。
ちょっと考えてみて欲しいのですが、「芸十夜」には正しい芸・良い芸の手本として九代目団十郎や六代目菊五郎の名前が頻繁に出てきますが、九代目団十郎の芸は客に受けなかったのでしょうか。六代目菊五郎の芸は流行なかったでしょうか。九代目団十郎には同じ時代に、五代目菊五郎や四代目芝翫という強力なライバルがいました。六代目菊五郎にも、十五代目羽左衛門や七代目幸四郎などのライバルがいました。ライバルに人気では引けを取る 場面があったとしても、九代目団十郎や六代目菊五郎は常に時代の第一線に立ちつづけたし、その意味で客に受けたし・流行ったのです。それならば九代目団十郎や六代目菊五郎の芸は駄目なのですかね。答えは明らかであると思います。このことだけ考えても、「客に受ける芸は駄目、正しい芸は客に受けない」なんて図式が間違いであることなどすぐ分かることです。
九代目団十郎の芸は明治期の、六代目菊五郎の芸は大正から昭和初期の、そろぞれの時代の芸の規範とみなされるべきものです。そうなるのはもちろん彼らの芸が正しいからですが、彼らの芸が当時の客に受けて・流行って、誰のなかにもその芸が残像としてあるからこそ規範になるのです。例えば野球選手の鑑と言えば、昔なら王貞治選手・今ならイチロー選手でありましょうかね。素質才能は天才的で・人格も素晴らしく・人一倍努力した、しかし故障が多くてほとんど二軍生活で終わってしまった無名の○○選手が野球少年たちの模範になるでしょうか。誰も知らなければ規範になりようがないのです。
音楽で言えば、1960年代から70年代初期のポピュラー音楽をリードしたのはもちろんザ・ビートルズでした。他にもいろんな歌手やグループが出てきました。それらの曲を今聴けば、「ああ、あの時代はこうだった」という思い出と強く繫がって懐かしいというものは確かにたくさんありますが、現代の若者が「おっ、このサウンド、カッコいいじゃん」と思わず身を乗り出すような新鮮さを保っている曲となるとやはり限られます。流行るものはその時代特有の色や匂いを強く持っており、それゆえ流行るのでしょうが、逆に言えば時代に縛られやすいものです。時代を越えたものだけが本物だという言い方は必ずしも正しいとはいえませんが、敢えて時代を越えて聴く者を刺激するサウンドやリズムは本物だという決め付けをするならば、確かにビートルズの曲はそのように感じるものが多いという感じが確かにします。吉之助にとってはそれはロックン・ロール系のものではなく、アコースティックな要素が強い曲ですが、まあ評価はひとそれぞれです。ともあれビートルズが本物であることを認めない方はいないと思います。彼らは間違いなく1960年代最も受けて・流行って成功したミュージシャンでした。そして、今でも強い影響力を保持しているミュージシャンです。
正しい芸・良い芸は必ず客に評価されるはずです。評価されるならば、それは必ず客に受けて・流行るはずですし、またそうならねばなりません。それを信じて芸人は努力するのです。それが望ましい芸のサイクルであるはずですが、現実にはしばしばそうでないことが起こります。またそこにしばしば本物でないものが混じります。そして本物でないものの方が受けて・本物が冷や飯を喰ったりするのです。そうなると何が本物か・本物でないかが瞬時に見分けが付かなくなります。だから客に受けたか・受けないかを、本物か・本物でないのかの判断基準にするなと言うのです。七代目三津五郎が言うことはそういうことです。
しかし、七代目三津五郎の言葉のなかに「良い芸は客に受けないものさ」という斜に構えた響きがどこかにあるのも確かです。三津五郎は決して人気役者ではなかったし・良い役を ドンドンもらえる位置にあったわけではないので、そこにスネが出ているのです。「あそこ(舞台中央)で良い気分でポーズを取ってる奴より俺の方が知ってるんだよ」という気持ちが出ているのです。だから「俺は客の拍手が欲しくて、お給金が欲しくて芸をやってるんじゃない」という客に背を向けたポーズになっていきます。そこのところは割り引いて読まなくてはなりません。「芸十夜」の教えるところをもう一度確認しておきますと、「客に受けようとする芸は駄目だ。客に受けたか・受けないかを、安直に本物と本物でないものとの判断基準にするな。」と言うのが、その正しい読み方なのです。
(H22・11・23)
5)初代吉右衛門のこと
「芸十夜」を読んでいると、武智鉄二と八代目三津五郎が正しい芸の見本として六代目菊五郎をしばしば引き合いに出しているのに、菊五郎と並び称される「菊吉」の片割れ・初代吉右衛門の話が出てこないのを不思議に思うことでしょう。ふたりは吉右衛門の話を避けているように見えるかも知れません。しかし、武智と三津五郎が芸談で吉右衛門の話をここでしないのは、吉右衛門の芸が語るに値しない・その芸は江戸歌舞伎の伝統を正しく継いでいないと解するならば、これはまったくトンデモないご想像だと言わざるを得ませんね。
菊五郎の芸が時代を代表する正しい規格を持ったものであるのはその通りで、これは「芸十夜」のなかで繰り返し言われていることですけれど、考えてみて欲しいのですが、菊五郎と同じ時代にあって・吉右衛門ほどに菊五郎の芸を真正面に受け止めて・がっぷり四つに組んだ芝居に出来た役者が他にいたのでしょうか。二長町市村座での菊吉の競演は幕が開く前からそれぞれの贔屓が「音羽屋・播磨屋」を連呼し合って、その熱気たるや凄まじいもので、これは今でも語り草です。だからこそこのコンビは菊吉と並び称されました。これは歌舞伎の常識です。この事実だけで吉右衛門が菊五郎に伍する名優であったことが明白なのです。菊五郎の芸をがっちり受け止めることが出来たということは、これに耐えられる息を吉右衛門が持っていたということですから、吉右衛門の芸も正しいということです。遺された映画や録音などを聴けば、このことはさらに裏付けできます。
ただし、吉右衛門が菊五郎に対していま一歩後塵を拝するところがあったとすれば、彼が名門の出ではなかったという点だけです。吉右衛門は三代目歌六の息子で、歌六は巧い役者でしたが・大坂の地芝居の出身で江戸歌舞伎の名門ではなく、芸風としては臭いところがありました。折口信夫は「折口信夫坐談」のなかで「吉右衛門は菊五郎から離れると歌六がついつい出てくる。つまり芝居が客に媚びる方向に向いてしまいそうになる。だから吉右衛門のためには菊五郎が必要だ」というようなことを言っています。吉右衛門の芸には確かにそういうところがあって、その点で菊五郎に対して譲るところが若干あったかも知れません。またその点が武智が吉右衛門を嫌ったところでした。しかし、吉右衛門は菊吉と並び称されるだけの力量を確かに持っていた名優であったのです。吉右衛門が名門出身ではなかったことで、どれほどの苦労をしたのかを知っておいた方が良いと思います。別稿「吉右衛門の馬盥の光秀」において書きましたが、市村座での「馬盥の光秀」の総ざらえで満座でイジメを受け、それでも自分の思うところを貫きとおしたのが吉右衛門でした。(そのイジメの輪には七代目三津五郎も多分いたでしょう。)そこでイジメに屈していれば「吉右衛門の生涯をかけての歌舞伎の見直し、歌舞伎を型から人間へという芸術的主張はそこで挫折していたはずである」と武智は書いています。(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」・「演劇界」昭和53年7月)武智は吉右衛門のことをちゃんと分かって書いているのです。
折口信夫:戸板康二編・折口信夫坐談
それではどうして武智は「芸十夜」のなかで吉右衛門のことを無視したのでしょうか。ひとつは武智が熱烈な菊五郎贔屓ですから話がどうしても菊五郎一辺倒になるということがありますが、もうひとつは武智自身が芸の世界のなかでは所詮よそ者であったからです。(この点は吉右衛門と環境が似ていると言えます。)資金があって・それを注いでくれるから芸人たちは表向きはチヤホヤしてくれますが、武智は冷ややかな視線を始終浴びねばならなりませんでした。敵が多かったのです。この世界では武智は常に突っ張っている必要がありました。武器としたのはまず資金・次に芸の知識理論ということですが、ハッタリを利かせてわざと議論をふっかけるようなところが多分にありました。武智がまずしたことは歌舞伎や文楽の世界で彼を押し立ててくれる人を育てることでした。やがて 断玄会において援助をしてきた山城少掾・鶴沢道八や吉田栄三らが貴重な話をしてくれるようになり、彼ら名人たちから伝え聞いたことをバックにして武智が理論をまくしたてたのです。逆に言えば、こうしないと武智の言うことを誰も聞いてくれなかったのです。武智歌舞伎の盟友とされている八代目三津五郎でさえ外では「私は武智さんではなくて、山城(少掾)さんの言葉だと思って聞いていますから・・」と言っていたくらいです。このような環境下で伝統・口伝・芸の継承ということをテーマに武智が語る時に、権威付けが大事になっています。菊五郎だと箔をつける材料になるが、実力があっても「初代の成り上がり」の話では箔にならないということです。武智の唯物史観的な立場からすると、歌舞伎の閉鎖的な門閥体質を打ち破る意味でも吉右衛門を応援しても良かったのにと思いますが、こういう時に武智は妙に寄らば大樹になっちゃうわけです。もし吉右衛門が初代ではなく五代目くらいであったならば、武智はホイホイ付いていったに違いありません。我が師匠ではありますが、武智にはそういうところがありましたね。参議院に立候補した時も周囲はひっくり返ったものでした。
一方の八代目三津五郎ですが、芸として筋目正しいものを持っていたのは確かですが、人気役者ではありませんでした。名門の出である三津五郎から見れば、吉右衛門は所詮成り上がりで面白くない存在なのです。菊五郎は良いけれど、吉右衛門だと「まあなかなか良くやってはいますがね・・」という程度の扱いになるのです。これは狭い世界にはよくあることです。年長の者が偉そうなことを言っているのを目下の者たちがヘイヘイ聞いているところに、実力ある若者が出てきて正論を吐くと、周囲の人たちが取る態度は大抵無視なのです。八代目三津五郎が吉右衛門について触れないのも、それと同じことです。ですから初代吉右衛門に関しては武智と八代目三津五郎との間で思惑が何となく一致して、互いに触れないで済ませたということです。それが「芸十夜」のなかで起きていることです。
「芸十夜」では、吉右衛門がバタを踏む(見得をした時に下半身がグラついて足を動かす)という話でわずかにその名前が出てくるだけです。バタを踏むのは、腰を落としきれていない・重心が決まっていない為に起こる現象で、下身体の使い方が悪いということです。播磨屋のバタ足というのは有名だったようです。しかし、吉右衛門の弟子であった秀十郎が「秀十郎夜話」のなかで師匠は膝が悪かったということを証言しています。まっそんなことも背景にあっただろうと吉之助は思います。ちなみに吉之助のペンネームは初代吉右衛門からその一字を戴いておりますのです。
千谷道雄:秀十郎夜話―初代吉右衛門の黒衣
(H22・11・26)
6)型とは心だよ
「芝のおじさんの勘平ってすごいですねえ、まるで新劇みたいですね」
「バカヤロッ、何が新劇だい、あれが歌舞伎だよ」「芸十夜」第三夜にある挿話です。八代目三津五郎が六代目菊五郎が演じる勘平を見て感激して「まるで新劇みたいですね」と言ったら、父親(七代目三津五郎)から「バカヤロッ、あれが歌舞伎だよ」と怒られたというのです。この挿話ですが、八代目三津五郎が間違った見方をしていたのでしょうか。そうではありません。六代目菊五郎の勘平は確かに写実の演技で、新劇みたいな印象だったのでしょう。それでは七代目三津五郎が「あれが歌舞伎だよ」と言うのが間違いなのでしょうか。そうではありません。六代目菊五郎の勘平は確かに歌舞伎であったのです。つまり、写実で新劇みたいな印象なんだけれど、実はそういうものがホントの歌舞伎なのだということです。つまり歌舞伎の本質は写実だということです。上記の挿話はそのように読まなければなりません。
考えてみればそれは当然のことです。能狂言も歌舞伎も・もちろん新劇も、すべて演劇というものは物真似に発するからです。物真似とは対象の有り様をそのままに演じるということです。それがつまり写実(リアリズム)です。様式というものは写実の手法に一定のパターンが決まってくれば、初めてそれが様式となっていくのです。そうやって、それが能狂言の様式になり、歌舞伎の様式になっていくのです。別稿「伝統芸能から何を摂取するか」でも申しましたが、能狂言の演技も物真似から発したのですから、それは写実に根差します。能狂言の写実(物真似)が長い時間の試行錯誤と淘汰を経てどのようにして無駄を削ぎ落とした・現代から見ればシンプルと思えるものになっていったかと言うことを想像しなければなりません。それを最初から能狂言の「ない」の美学なんて言っちゃったら、もうそれで芸の創造の秘密は分からなくなるのです。
六代目菊五郎の演じた勘平は、いわゆる音羽屋型の勘平です。それは三代目菊五郎によって創始され、五代目菊五郎から六代目菊五郎へと受け継がれた型です。六代目菊五郎の演じる音羽屋型の勘平が八代目三津五郎にはまるで新劇に見えたということは、六代目菊五郎は型を型だと感じさせなかったということでしょう。勘平は今このように感じている・だからこういう行動をする・こういう動作をする、ということが、六代目菊五郎だと手に取るようにリアルに分かるのです。それは「本論その2」で書いた通り、その型を創始した三代目菊五郎が考えた筋道と・六代目菊五郎はまったく同じ筋道を辿って勘平という役を考えていたということです。だから必然的に六代目菊五郎は三代目菊五郎の取る行動(役の解釈・演技の手順)はそっくり同じになるのです。型はたった今その瞬間に生成したかのように見える、昔からある型なのに型をなぞった感覚がまったくしないということなのです。これが科学的・論理的ということです。それが六代目菊五郎の演じる勘平で起こったことです。だから、それは新劇のように見えるけれど・実はこれがホントの歌舞伎だと言えるのです。
ところで七代目三津五郎は「型とは心だよ」ということも、常々言っておりました。「型とは心だよ」ということは、その型の心をしっかりと理解して役を演じているのならば、この箇所で先代は右手を上げたというところで、左手を上げたって別に構わない、手順を守ることが必ずしも型を守ることではないんだと言うことです。七代目三津五郎の言うことはまったく正しいのですが、そうするとその言を逆手に受け取って、「俺は役の性根は守るが、ここは俺の柄に合わないから俺の判断でこう変える」ということを安易に行なう不届き者が横行し始めます。安易にそういうことをする役者は「俺は役の性根は守っている」と言っているけれども、実は「型の心」を全然守る気がないのです。「型の心」 を守るならば、悩みに悩み・苦しみに苦しんで・・・しかし、やっぱり私にはこのようにはできない・・だから手順を変えざるを得ない・・・という過程があるはずです。その苦しみの果てに型を変える場合は、その役者は元の型の心も、手順を変えざるを得なかった理由も承知していますから、他人に型を伝授する時に「俺はこうやっているぜ」という教え方を絶対にしないのです。「これが本来の正しい型である」というものをちゃんと伝授することができるわけです。そういう役者だけに型を変える資格があるのです。というよりも、そういう資格がある役者はそもそも型を変えることをあまりしないのですねえ。
現実には「これは俺の柄に合わないから、こうやった方が見た目が良くて客に受けるから・・」という理由で安直に型をいじくりまわす役者が多いわけです。そうなると「型は心だよ」というせっかくの教えも、そうした不届き者の格好の根拠になっちゃうわけです。「俺はこうやっているぜ」というのが伝授されますから、型はどんどん崩れていきます。ですから、こういう不届者を矯正するには「手順から型に入る・まず手順をなぞってみるところから型を心を知ることをせよ」ということを、敢えて反義的にうるさく言わなければならない時代になったということです。実はこのような時代は、今に始まったことではありません。それは時期的に、文楽においては明治31年(1898)の二代目豊沢団平の死、歌舞伎においては明治36年(1903)の九代目団十郎の死と前後して始まったことです。(このことは「本論その2」で申し上げました。) 現代というのはこの傾向の上にあるのです。六代目菊五郎はそのような時代の流れのなかで、かろうじて「型は心だよ」ということを身体で体得できた数少ない役者であったということす。
それにしても、「新劇のように見えるホントの歌舞伎」というものを想像してみて欲しいですねえ。型を型だとまったく感じさせない・そんな勘平を見たいと思いませんか。
(H22・12・1)
7)簡単なことをややこしくしているのはアナタ自身だ
もう一度お浚いをしておきたいのですが、山城少掾が「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです。」(「その2」参照)ということの真意は、節付けをした初演の太夫が考えていたこと(解釈・意図)通りにやれば私のような者でも必ず同じように語れるようになると信じています・そのためにはもっと頭を使って丸本を読まねばならないと私は思うのです」という意味です。同じことが六代目菊五郎の勘平に起こっています。六代目菊五郎は、音羽屋型を創始した三代目菊五郎が役作りで考えた筋道とまったく同じ過程を辿って役を演じている・だから昔からある型なのに手順をなぞっているように見えない・勘平が何を考えてその動作をしているのか手に取るように分かるということなのです。つまり、型とか風というものには再現性があると、ふたりはそう信じているということなのです。
「同じ材料を持ってきて・同じ配合をして・同じ処理をすれば・誰でも同じ結果が得られる。」とするのが科学です。実はそんな単純なものでもないのですがね。(吉之助は化学出身で、いちおう科学者です。)まあ一般的な科学のイメージはそうですし、原則的にそのように考えて間違いではありません。「科学はある種の秘密を公(大衆)のものにした」というのが、19世紀から20世紀初頭の科学のイメージです。二十世紀初頭の芸術思潮であるノイエ・ザッハリッヒカイトは、そのような時代の影響を強く受けているのです。ですから、その思潮は科学のイメージで捉えることができます。「型や風というものは再現性があり・一般化ができる」とする考え方は科学性ということなのです。
例えば折口信夫が菊五郎の芸について「舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たもの、(中略)このかつきりとした芸格は、(中略)彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。』(「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)と評しています。多くの方は歌舞伎を考える時に科学ということを思い浮かべないと思います。また折口信夫の思想は感性的・直感的であり・科学から最も遠いように思っている方が多いと思います。その折口信夫が菊五郎の芸を語る時に「科学性」という言葉を使っていることを奇異に感じるかも知れませんが、実は不思議でも何でもないことです。武智鉄二も折口信夫も山城少掾も六代目菊五郎も同じ時代に生きて・それぞれの分野を究めた人たちですから、それは同じ時代の共通したものを帯びているということです。それでなければ良い仕事などできるはずがないのです。それは結局、科学性・単純性・あるいは一般化というイメージで物事を捉えるセンスということなのです。
『何でもなくやれることを、何でもなくやれないようにして、その何でもないところから、何でもなくやれるところを掴むというところが、伝統芸能の根本なんですね。』
これは「芸十夜」・第七夜での武智鉄二の言葉ですが、武智の言うことをややこしく・深遠に捉えて・つまらない解釈をつけてはいけません。芸というものは奥深いものだ・容易に到達できない境地だなんてことを武智は言ってはいません。「何でもないことをその通り何でもなくできるように修行さえすれば名人の心に近づけることができる」というのが、武智が言うことです。「簡単なことをややこしく考えてややこしくしているのはアナタ自身だ」と武智は言うのです。「芸十夜」というのはノイエ・ザッハリッヒカイトの本、「誰にでも芸は分かる・誰でも名人に近づける」とする思想の本なのです。
(H22・12・4)
8)死者との対話
『あたしゃね、死んだ人に見てもらっているんだよ。うちの親父、堀越のおじさん、成駒屋のおじさん、寺島のおじさん、この人たちが後ろで見ていると思ったら怠けるなんてできませんよ。』
これは「芸十夜」第二夜に出てくる七代目三津五郎の言葉です。一緒に舞台に出て踊る六代目菊五郎はお客が団体さんだったりすると、やる気がなくなってしばしば手を抜いたりしました。三津五郎の方は、どんな時でも手を抜かずにきっちり踊りました。その理由を息子(八代目)に問われて、七代目三津五郎は「六代目はお客を相手にしてるからそうなるんだろ。あたしゃ、死んだ人に見てもらっているから。」と言ったというのです。父親である十三代目勘弥、大先輩である九代目団十郎・四代目芝翫・五代目菊五郎、これらの人に見られていると思ったら怠けるなんてできませんと言うのです。
この挿話は芸というのは果てしがないもの・冥途に行った時に初めて完成するものと考えるのもまあ結構ですが、それならば「・・ああそうですか」というようなものですね。この挿話は「芸十夜」第一夜にある「見ていない芸を手本にせよ。手本は九代目団十郎だ。」という三津五郎の言葉と関連させて読まないと、その言うところが完成しないのです。(その3を参照のこと)そうすると三津五郎の教えがとてもストイックかつ、ロマンティックに響いてくると思います。
三津五郎は踊りながら死者と対話をしているのです。「お父っあん、こんな風で如何です。」、「悪かねえが、そこんとこ、もう少したっぷりやってくんねえ。」、「分かりました」・・・「伯父さん、このところ、少し工夫してみましたが、如何です。」、「いいじゃないか、それでやってみな」、「分かりました」・・・という死者との対話です。しかし、三津五郎は別に霊媒師というわけじゃありません。結局、三津五郎は自分の頭のなかで、彼がイメージとして追っている大先輩の芸(お手本)と対話しており、その演技に絶えずチェックと修正を掛けているということです。
ここで大事なことですが、三津五郎の思考のなかにふたつの流れが交錯しているということです。ひとつは、もう死んでしまって眼にすることのできない・直接指導をお願いできない大先輩の芸の面影をただひたすらに追おうとする思考です。つまり、現在から過去を見る視点です。その場合、例えば九代目団十郎はこの場面をこんな風に演ったという記憶がその思考の根拠となっており、それを手掛かりにして芸を構築していくということになります。もうひとつは、もし亡き大先輩がそこに現れて、自分の芸を見たら何と言うだろうか、「なかなかやるじゃねえか」と認めてくれるか・「大根ッ」と言って怒られるか、そういうことを常に謙虚に考えるということです。これは、過去から現在が見られているという視点です。しかし、実はこれも九代目団十郎はこの場面をこんな風に演ったという自分の記憶から来ているわけです。それは孤独ではあるけれども・決して孤独ではなく、しかし、熱くはあるけれども・また哀しい対話です。死者は決してその場に蘇って直接指導をしてくれることはないからです。
それにしても七代目三津五郎の場合はもう死んでしまったとしても・お手本である九代目団十郎の芸を生(なま)で自分の眼で見たことがあるのだからまだ良いですが、息子(八代目)の方は「見ていない芸を手本にせよ。手本は九代目団十郎だ。」と言われて面食らってしまうというのは確かに分かりますねえ。このハンデは決して小さくないかも知れません。一体そのお手本をどうやって探せば良いのか。しかし、芸の対話の方法論としては、七代目三津五郎と息子(八代目)に別に違いがあるわけではないのです。「目の前の舞台がこんなに素晴らしい、ならば昔の名人の舞台はもっともっと素晴らしかったに違いない」という思いが伝統芸能を継ぐ者をストイックかつ、ロマンティックにするのです。そう考えれば見てないハンデをチャラにできるわけです。そうして上掲のような内面的な芸の対話を同じ続ければ良いのです。そうすれば親父(七代目)と息子(八代目)のスタンスは決して変わりません。(このことについてはその3を参照ください。)
もうひとつは「六代目はお客を相手にしてるからそうなる(舞台を投げる)んだろ。」というのも大事な戒めですね。要するに「受けたい・褒められたい」という気持ち・世俗的な願望がどこかにあるから、そうなるのです。「芸十夜」では六代目菊五郎は盛んに持ち上げられていますが、どんな場合でもお手本というわけでもなかったことはこのことからも分かります。六代目菊五郎 にもどこかにやはり芸人的な卑しさがあったということです。しかし、但し書きつけておけば、そのような卑しさが歌舞伎からスッカリ抜けてしまって・歌舞伎が芸術化したら・その歌舞伎はホントに面白いのか、ということも考えておかねばなりませんね。この問いは本論とは直接関連しませんけれど、そこから武智の議論を切り返すことも十分可能なことです。まあ理論と実践のなかに生ずる必然的な軋轢ということになりましょうか。もっとも武智の方はそのことを十分承知したうえで、落し穴掘って議論し掛けてくる者を待ち構えていたのだから、ちょっとワルでしたね。
(H22・12・12)
9)本物でないものにも良いものはある
『つまり僕の考えでは、結局、林中とか団平・大隅大夫とか、あるいは九代目団十郎が正しい芸だと思うんですよ。』
「芸十夜」第一夜に出てくる武智鉄二の言葉です。「芸十夜」では「正しい芸」とか・「本物」という言葉がよく出てきますが、実はこれはよく注意して使わねばならない言葉です。「芸十夜」は対談ですから、その場の勢いで・表現が十分に吟味されていない場合があります。あるいは言い足りないことがしばしばあります。逆に言えば行間がスカスカ空いているところが対談の魅力です。しかし、ここで大事なことは、そもそも「正しい芸」・「本物」とはどういうものなのかということです。そういうことの深さを十分に知らないで、こういう言葉を簡単に使うと誤解を生じます。もちろん武智は分かって使っているのですよ。しかし、「正しい芸」とか・「本物」とか言うことを、武智がどういうバックグラウンドの深さを以って言っているかをよく考えてみて欲しいわけです。これは「芸十夜」一冊読んだくらいでは分からぬことです。あくまでこの本は取っ掛かりなのですから。
ところで、本物の反対語は「偽物」であると思いますか。世の中そんなに簡単なものではありません。本稿その4で、吉之助が本物に対して偽物という言葉を使わないで、「本物でないもの」という言葉を使っているのはそこのところです。それが偽物ならば話は単純です。しかし、世の中には本物でないものの方が本物より良く見えて、本物の方がショボく見えることがしばしばあります。本物でないものの方が、本物よりずっと面白いことがしばしばあります。その見分けをつけることは、簡単ではないのです。しかし、本物でないことをやり続けていると気が付いた時には全体がもう歌舞伎でないものに変化してしまっている、そうなりかねない危険性を孕むものが たくさんあるのです。だから、ここはカッコ良く見えないけれども・派手に見えないけれども・面白くないけれども・お客には受けないけれども、それをやっちゃあお仕舞よ・それをやっちゃあ歌舞伎じゃなくなるよ、ここはこれを守らなきゃいけませんというものがあるはずです。これが歌舞伎の場合の「本物」と「本物でないもの」の境目ということになります。このことを郡司正勝先生は次のように言っています。
「あれは違うよと、俳優さんはみんなそういう意識を持っていると思います。あんなことをやっては、あれは違うよ、という意識はある。最後の一線、最後の踏みこたえる線はそれしかないの。」(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)
しかし、立場を変えて別に歌舞伎ということにこだわらなければ、本物でないもののなかにも良いものが沢山あるのです。本物でないものが偽物だということでは決してありません。立場によってそれが容認できないということだけのことです。本物と本物でないもののの違いを見極めて・これを仕分けることは、決して容易な仕事ではないのです。
武智はその批評のなかで対象を、これは駄目だとか・あれは偽物だとか、情け容赦なくバッサリと斬りました。批評というものは、自分の立場を明確に決めて・物事の白黒を断じるものですから、自然とそうならざるを得ないところがあります。批評というのは仕事でありますから、批評者は明確な責任を負って文章を書くものです。同じような良し悪しを言っているだけのようでも、いわゆるご感想とは同じであるように見えて実は全然違うものです。批評する者のバックグラウンドが明確、背後に確固とした理論があるということです。それが批評なのです。武智のバックグラウンドを理解したうえで、武智が正しい・とか本物とか言うものを読み込んでいかないと間違えます。武智が思うところの本物が他の方にとっても本物かどうか、それは分かりません。吉之助が武智が「これが本物だ・これが正しい」と言うものから出発しているのは、もちろん吉之助が師匠である武智を信じているからです。
それにしても武智は批評のなかで対象をバッサリやったことで、随分と要らぬ敵を作ったと思いますねえ。これは武智がわざと波風を立てて・話題を作り・論争を引き出そうという意図があったかも知れません。しかし、今日までもこれが武智の評価に災いしているようです。戸板康二がその昔、「岡(鬼太郎)さんは文章が下品。僕の理想は三宅(周太郎)先生である。」と書いていたのを思い出します。多分戸板は武智の文章は下品だと思っていたと思います。若い頃の吉之助 はそのような武智の文章を痛快に思ったものでしたが、この歳になると吉之助も戸板の指摘が正しいと思うようになりました。下品な批評は書かないように気をつけています。そこのところは吉之助にとって武智は反面教師なのです。ですから武智の言葉を表面的に受け取って、「芸には本物と偽物のふたつしかない」などという決め付け方をしないようにして欲しいと思いますね。本物と本物でないものの境目を見極めるのは、決して簡単なことではないのです。
(H22・12・21)
10)正しい芸の継承について
前項その9において武智鉄二が「僕の考えでは、結局、林中とか団平・大隅大夫とか、あるいは九代目団十郎が正しい芸だと思うんですよ。」と言ったことを紹介しました。ここで挙げられているうち、常磐津林中(明治39年没)・二代目豊澤団平(明治31年没)・九代目市川団十郎(明治36年没)は「明治の三名人」と称された人物たちです。伝統芸能の世界には他にもいろいろ腕利き・人気者がいましたが、この三人を以って名人は止めを刺すのです。(大隅大夫は団平に訓練を受け・その芸を継いだ人ですから、ここでは名人団平の芸の名残りであると考えられます。)ここに見える武智の彼らの芸が正しいという認識はどこから来るのか・ということが問題なのです。大正元年生まれの武智は彼らの生(なま)の芸を見ても・聴いてもいないのに、何を根拠にその芸を正しいと言うのか・ということが問題なのです。それは彼らの没年を見れば、はっきり分かります。「彼らの芸が最後の江戸であった」ということです。彼らの芸が亡くなった時、江戸は終わったということを人々は実感した。そのようなことを考えさせる芸であったということです。これが武智の根拠です。
しかし、伝統芸能の世界には他にもいろいろ腕利き・人気者が沢山おりました。彼らが死んだ時にも「いい役者がいなくなったなあ」・「これで面白い芸がみられなくなったなあ」という感慨はあったでしょう。しかし、「これで江戸は死んだ」とまで思わせた芸人がどれだけいたでしょうか。そこに芸格において隔絶した質的な違いがあったということなのです。明治の三名人というのはそういう人たちであったのです。この厳然たる違いを見極めなくてはなりません。この井原敏郎(青々園)は明治36年に九代目が亡くなった時のことを次のように書いています。
『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)
いくら九代目が名優であったとしても・ひとりの歌舞伎役者の死を「歌舞伎はもう終わりだ」というほどに人々が思いつめたというのは尋常ではありません。このことの意味を考えてみる必要があります。(このことは「歌舞伎素人講釈を読む為のガイド:九代目市川団十郎」に詳しく書きました。)ですから、ここで武智が正しい芸として明治の三名人の名前を挙げる時には「彼らの芸が最後の江戸であった」という認識がまずあって、彼らの芸が「江戸」というものを人々の心のなかにまざまざと想起させる・ある種の折り目正しさ・規格のようなものをそこにイメージしているのです。言い換えれば、明治の三名人の芸の在り方・あるいは生き様というようなものです。そのようなトータルなイメージを以って、武智の「正しい芸」という言葉が出たと考えて欲しいわけです。
ですから「九代目団十郎の芸は正しい芸だ」という時に、文献的にひとつの事例を挙げて・「九代目はこうやったから、こうやるのが正しい」と言うのは、まあ芸の検証の手法としてはあることですが、正しいやり方ではないのです。トータルのイメージとして「堀越の伯父さん(九代目)がいま生きているならば、きっとこうやるに違いない」というのが、正しい芸の発想法です。九代目が得意とした「積恋雪関扉」の関兵衛を、菊五郎が初役で踊った時に「いやあ、さすが九代目直伝で・・」とあちこちからお世辞を言われたそうです。しかし菊五郎が関兵衛の踊りを九代目から直接習ったことはなかったそうです。
『・・しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。その偉い伯父さんの通りだと言われ直伝だと思われているんだから、マア不名誉なことじゃない。考えてみれば悪い気持ちはしませんから、ヘエ、と言ってるようなわけさ。』(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)
このような六代目菊五郎の考え方が、芸の継承のもっとも素直な・純粋なあり方であると言うべきです。しかし、現実には自分勝手に「伯父さんはこうやるに違いない」というものを作り上げる不届き者が出たりします。その不届き者も 彼なりに真面目にやっているつもりで・別に悪意があるわけでもないのです。しかし、やることが好い加減であるわけです。不届き者がやっていることにも全然根拠がないわけでもないのです。こういうものにも 「伯父さんはこうやった」という根拠があったりして、少しは本物が混じっていたりするので、これがまたややこしいということになります。そういうものを選り分けることは簡単ではないのです。
九代目もその生涯で様々な試行錯誤をやりました。そのなかには大失敗がいくつもありました。例えば明治12年(1879)2月新富座の「勧進帳」において九代目が「素顔に地天窓(あたま)にて眉毛も格別太くせず白粉も施すことなく・・」という散切り頭の扮装で弁慶を演じた記録があります。九代目が「活歴」に熱中していた頃のことです。しかし、この時の弁慶の扮装が幸か不幸か甚だしく評判が悪かったのです。それで九代目も仕方なく「勧進帳」 を昔風の姿に戻したのです。もし・ここで九代目の「実験」が成功していたら、現代の舞台の「勧進帳」や松羽目舞踊は散切り頭で演じられていたに違いありません。
九代目が創始した活歴は、これも評判があまり良くないものです。活歴のなかで九代目は史実に則った衣装や小道具に本物を使うことにこだわりました。こうした九代目の態度を悪写実だと言ってお笑いになる方は、九代目の芸のトータルな在り方がお分かりではないのです。歌舞伎史のなかで九代目を正しく位置付けできていれば、そういうことは起こらないです。五代目菊五郎は「戻橋」創作に当たって・京都に人を遣って橋の板の枚数を数えさせて・それを舞台装置に生かしたそうで、そのことを「自伝」のなかで得意気に語っています。こういうのは傍からは無邪気なようにしか見えないでしょうが・実は本人は大真面目なので、それは彼の役者としての良心というところに係わってくるのです。九代目も五代目も、一度はそこまで写実(=本物そっくり・それは自然主義の考え方でもある)をとことん突き詰めてみる必要があったということです。それが明治初期の演劇(歌舞伎ではなく演劇です)の時代の要請であったからです。それが分かれば、活歴も九代目の生き方のひとつとして不可欠なものであったことが分かります。活歴を九代目の芸歴のなかの汚点のように言うのは間違っています。活歴や散切り物を通り抜けてきたところ・もちろん反省も加わったところで、晩年の九代目 や五代目の芸の評価が固まってくるのです。芸というものはそのトータルな在り方(その役者の生き方も含む)で評価されねばならないもので、ひとつひとつの事象において評価するものではありません。武智の「正しい芸・本物の芸」という評価は、そういうトータルなところから出るものなのです。
(H22・12・25)
(後記)「吉之助が「芸十夜」を読む・後編」もご覧下さい。
吉之助の三冊目の書籍本です。
「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。
「武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈」