吉之助が芸談「芸十夜」を読む・後編
武智鉄二・八代目坂東三津五郎:芸十夜
「吉之助が「芸十夜」を読む」・前編はこちら。
○番外編:型とは箒星の光跡なのです
有名な映画「二十四の瞳」(昭和29年)は吉之助の生まれる前のことなので・吉之助には同時代的な思い出はあまりないのですが、映画評論の佐藤忠男氏が昨年暮れ(12月28日)に亡くなった戦後映画の名女優高峰秀子さんの追悼記事を日経新聞に書いておられました。(平成23年1月3日:「高峰秀子さんを悼む〜戦後の心に染みた名演技」)そのなかで興味深い挿話があったので・ここで紹介をしたいと思います。高峰秀子は戦前のアイドル時代に長谷川一夫と時代劇映画で共演することが多かったそうです。長谷川一夫は芸の薀蓄を共演者にすることが大変好きであったので、佐藤氏が高峰秀子に「長谷川先生からたくさん学んだでしょう」ということを聞いたことがあったそうです。高峰秀子は「長谷川先生からは何も学んでいません。先生は演技を型として考える人でした。私は役の心を考えることから役に入っていくのでなければならないと考えていましたから」とあっさり答えたそうです。
高峰秀子の返答は自然主義リアリズムから役作りをする映画女優の立場からすれば至極当然の答えだと思います。どうやったらこの役の気持ちを一番表現できるかということを真剣に考えている女優さんに、「こうやったらもっと女らしく見えるよ・・こういう風にやったら形が良く見えるよ・・・」なんてことを言っても・嫌味なだけで、「そんなアドバイスは私には不要です」となるのは当然ではないでしょうか。イヤもちろん天下の二枚目長谷川一夫が表面的に形を繕うだけの演技をしていたとは決して思いません。しかし、型の裏側にある豊かなものを高峰秀子に気付かせることができなかったのならば、これは長谷川一夫の負けではないですかね。高峰秀子が悪いのではありません。これは教え方が悪かったと言わざるを得ない。
別稿「伝統芸能から何を摂取するか」でも書きましたが、伝統芸能の「ない」の美学・「引き」の美学なんて言ってるようでは、役作りを真剣に考えている現代演劇の役者さんたちに伝統芸能の持つパワー・そこに潜む無限のアイデアを気付かせることは決してできないのです。彼らにしてみれば「そういうことは役の気持ちから入ろうとする自分たちの行き方とは違う」ということにならざるを得ない。それを受け入れれば自己否定になってしまうからです。だから現代演劇の役者さんに「型」の力を気付かせるためには、教え方を変えなければいけませんね。
「歌舞伎の型」などという本を読むと、○○型では「こういう衣装で・・右手をこうして・・・身体をこうして・・」なんてことばかり書いてあります。歌舞伎は形から役の心に入っていく・・・なるほどねえ。しかし、「型」というものを演技の手順、あるいは「・・らしく見せる」為の技術であると理解するのは「型」のひとつの理解ではありますが、あくまで理解のひとつでしかないのです。虎の毛皮を見せて、「これが虎だ」と動物生態学を論じるようなものです。かと言って「型とは心だよ」などと言ってしまうと、それまで確固として形があったものが途端に砂のように崩れて消えてしまうようで心もとないかも知れませんが、型とは結局それなのです。郡司正勝先生がこんなことを仰いました。
「皮肉を言うと、天才だけだったら残らないんです。天才をなぞって、これが菊五郎の型でございますと。そうすると自分は何だか菊五郎と同じことをやっているような錯覚を起こす。六代目はこうやりましたと。これが金科玉条になる。だから伝承というものは高度な天才では伝承できない。それは通り過ぎていった箒星みたいなものだよね。」(郡司正勝インタビュー:「刪定集と郡司学」:「歌舞伎〜研究と批評・第11号」)
それは目の前をピューと通り過ぎて・網膜のなかに残された光跡に過ぎないのかも知れません。「あっ、分かった、これだ」と思った時には、もうそれはそこにないのです。それがあったことは確かに網膜の記憶のなかにあるのですが、形にして再現しようとするとこれが曖昧で・何とも頼りない。しかし、それは確かにあったのだから、「あっ、分かった、これだ」とあの時に感じたことを正しいと信じて、そのようにやろうとするのです。型というのは、そういうものの集積なのです。高峰秀子は若い時に大先輩杉村春子の演技に驚いて一生懸命演技の研究をしたそうです。彼女は杉村春子に箒星の光跡を見た、そういうことです。
(H23・1・9)
「勧進帳」で弁慶が発する最初の台詞ですが、「ヤアレ暫く、御待ち候え、道々も申す如く、これは由々しき御大事にて候。・・・」に始まる長台詞があります。伝えられるところによれば、この長台詞を九代目団十郎はひと息で言ったそうです。「この長い台詞をひと息で言えるはずがない、だからどこかで息を継いでいるはずだ、観客に息を継いでいるのを分からないようにするのがすなわち芸だ」なんて言ってるようでは、芸談を読む意味が全然ありませんね。そういうことを言う方は、長い台詞をひと息で言えるかどうかは肺活量の問題だと思ってるのでしょうね。
九代目団十郎はこの長台詞を確かにひと息で言ったのです。この神話を信じて、そのようにひと息で言うならばどのようにすれば良いか・それをとことん考えてみるところから芸が始まるのです。そうやって考えてみて・結局分かることは、弁慶の長台詞を「ひと息で言うか・言えないか」なんてことがこの芸談が教えるところの核心ではないということです。台詞というものは・人間が身体から発する言葉なのですから、もともと台詞のなかにあるべき呼吸があり・息があるのです。その呼吸に沿って台詞を発声するならば、台詞は淀みなく流れて・息継ぎは自然とその流れのなかに乗ってくるのです。そうすると息継ぎをしていることは観客に意識されません。言っている役者にさえ意識されません。その台詞はひと息で言われている如く流れてるように聞こえるのです。それじゃあやっぱり息継ぎしてるのじゃないかって・・・だからそういうことを言ってる方にはいつまでたっても芸が分かりませんね。台詞がひと息に聞こえるのは自然な台詞廻しの結果に過ぎないのです。ひと息に聞かせる為に息継ぎを工夫するならばこれを誤魔化しと言うのです。そういうのを芸とは呼びません。折口信夫は次のように言っています。
『これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。抑揚頓挫が、ただしく旧来の発声の型に入っているものを、ほめて言う場合に言われることもある。そうでなくとも歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を、名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年・かぶき讃 (中公文庫)に収録)
二代目左団次は明治39年〜40年に欧米演劇視察旅行をして、ロンドンの演劇学校で指導を受けました。このときの経験を左団次は小山内薫との対談で次のように語っています。こういうことに左団次が素直に驚いているのは、逆に言えば歌舞伎に発声法という概念がなかったということなのです。そのような素直な驚きから左団次が創始した新歌舞伎は始まっているわけです。このことは別稿「左団次劇の様式」をご覧下さい。
『私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 』(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版「演劇新潮」)
ところで現在NHK教育テレビで「スーパーオペラ・レッスン〜バーバラ・ボニーに学ぶ歌の心」という番組をやっています。(2010年1月〜3月)アメリカ出身の名ソプラノ・バーバラ・ボニーが、若い歌手を相手に歌唱の指導をしています。題材はプッチー二の歌劇「ボエーム」ですが、ボニーは受講者に対して、この役柄はこうあるべきとか・どういう歌唱スタイルがヴェリズモの様式かとか、そのような指導をほとんどしませんね。彼女がアドバイスするところは、どのような姿勢で・どのような顎の使い方で・お腹の力の入れ方で空気をたっぷり取り入れて、身体全体を楽器のように声を無理なく自然に響かせて、歌唱を行なうかということです。言葉をどういう風に使うか・特に子音の使い方はオペラでもリートでも大事なことですが・それはその次の段階のことです。まず大事なことは呼吸の仕方・そして息の正しい通し方です。それが正しく出来ていれば言葉は自然に正しく出て来るのですね。
ですから「ヤアレ暫く、御待ち候え・・」という弁慶の長台詞を九代目団十郎はひと息で言ったという芸談を読む時に考えなければならないことは、台詞それ自体が求めている呼吸のリズムを取って・そのリズムでいかに自然な台詞回しを心掛けるかなのです。「スーパーオペラ・レッスン」をご覧になれば、オペラも歌舞伎も・発声の基本に何ら変わりがないことが分かると思います。オペラファンのみならず演劇ファンにもボニー先生のレッスンを是非ご覧いただきたいと思います。
(H23・1・23)
1)どんな身体芸術でも呼吸のリズムに根差すものである
吉之助は武智鉄二の弟子を自称しているくらいですから・武智の思想をなぞるところから出発していることはもちろんですが、何から何まで武智の発言が正しいと思っているわけではありません。下記は「芸八夜・第八夜」に出てくる武智の発言です。
『外国の芸術というのは心臓の動悸がもとで、トントントンと常間に運ぶんです。日本のは呼吸作用だから、すーッと引くのと、ふーッと吐くのと、その間合いでしょ。』
師匠には申し訳ないですけれど、今どき「西洋音楽のリズムは呼吸に根差してない」なんて言うのは、昔の西洋音楽の理解です。明治時代の学者が「ルビンシュタインが弾いても、猫が鍵盤の上を歩いても同じ音がする」と言ったのとあまり変わりない程度のご理解です。現代日本の生活を見てください。周囲に西洋音楽がわんさか溢れており、それを避けて生活できることなぞあり得ないのです。逆に三味線の響きは意識してそうしようと思わなければ年に一度さえ耳にすることができないくらいです。我々は知らず知らずのうちに西洋音楽脳で音を図っているのです。西洋音楽への理解は昔とは比べ物にないくらいに進んでおり、我々の内部にあるのです。我々は否応なしに、そのような時代に生きています。ならばこの状況を逆に利用していくしかないのじゃないでしょうか。
吉之助がまず申し上げたいことは、「世界の音楽のなかで邦楽はまったく独自のものである」などと言うのはもう止めにしませんかということです。世界の音楽って16〜7世紀にヨーロッパで生まれた平均律で組み立てられて発展してきた音楽のことを言ってるのですか?確かに西洋音楽はいま世界を席巻しているかも知れませんが、グローバル・スタンダードでも何でもありません。むしろ、世界の音楽のなかでみれば、もっとも特異で歪(いびつ)な発達をしたのが西洋音楽だと言っても良いくらいなのです。西洋音楽は確かにリズムの打ちが前面に出ることが多い音楽ではあります。武智が若い頃によく聴いたノイエ・ザッハリッヒカイトの演奏家たちはイン・テンポ(テンポを一定に保つ)をその理念としていました。表面的にはメトロノームが打つテンポを厳格に守る音楽のように思うかも知れません。しかし、そんなことは決してありません。インテンポという旗印がどういう意味があるかと言えば、音楽を演奏する時にテンポを一定に保つことがいかに難しいかということを逆説的に教えているのです。なぜならば歌や旋律は息に(つまり呼吸に)根差すものですから、ある一定の揺らぎを持つのは当然です。それが旋律の自然さを生むわけです。ノイエ・ザッハリッヒカイトには「楽譜に記された通りにやる」いう理念もあります。それがイン・テンポに持つための理論的根拠としてあるものです。しかし、五線譜の記譜法で音楽のすべてが表現できるはずがないことは昔から言われていることです。だからこそ逆に原典としての楽譜にしがみつこうとするのです。これは歌舞伎が「型を守らないと歌舞伎じゃない」と言っているのとほとんど変わりないわけです。
「歌舞伎素人講釈」はノイエ・ザッハリッヒカイトは20世紀初頭の世界的な芸術思潮であるということを場面をいろいろ変えて申し上げています。自らを意識的にイン・テンポの表現に縛っていくという行為は、近代社会のストレスの掛かった精神生活の或る一面を反映しています。ノイエ・ザッハリッヒカイトを標榜する武智は、もちろんそういうことを分かって言っているのです。むしろ、武智はそのような芸術思潮のまっただなかにあって・これを吸収してきたわけですから、イン・テンポが基調になった設計のなかに敢えてテンポの自由を盛り込むことに反義的な意味を見出したと思います。例えばそれは六代目菊五郎の舞踊への傾倒になっていきます。かつきりした規格正しい踊りのなかに表現の自由さを盛り込んでいく菊五郎の踊りは日本におけるノイエ・ザッハリッヒカイトの理想であると、武智には思えたことでしょう。これと武智が愛したギーゼキングの弾くモーツアルトが対立構図に位置すると思いますか?そんなことがあるはずがありません。だから吉之助が武智から教わったことは、つまりこういうことです。ギーゼキングのイメージで歌舞伎を見るならばそれで六代目ということです。実に単純でしょ。
あるいは音階面から言えば、武智がシェーンベルクの十二音(無調)音楽・「月に憑かれたピエロ」を聴いて・そこに邦楽の音階との共通性の響きを聞き取ったというようなことです。それは三代目鶴沢清六や豊竹山城少掾の芸への傾倒につながっていきます。武智は晩年に「伝統芸能における自分の評論の原点はクラシック音楽批評にある」と告白しています。だとすれば歌舞伎の美学を西洋視点で計ることこそが武智理論の独自性だと言うべきなのです。その基礎がノイエ・ザッハリッヒカイトであることは「歌舞伎素人講釈」で申し上げている通りです。(別稿「伝統における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご覧下さい。)
ですから「西洋音楽はトントントンと常間に運ぶもので、呼吸に根差していない」と武智が言うのを真に受けて、呼吸が邦楽だけに特有の本質だなんて思わないで欲しいものです。身体芸術でも・スポーツでも身体を使うもので呼吸のリズムに根差さないものなど、世界のどこにも在り得ません。そんなことは当たり前のことなのです。武智の場合は日本の芸能関係者のご機嫌を損ねないように、「アンタ達が最高」と持ち上げているだけのことです。それが上記の武智の発言ということです。(この稿つづく)
(H23・2・8)
2)過去の映像はつねに私を驚かす
『いまはテープで聞いて覚えちゃうからいけないんですね。呼吸(いき)はテープで録れないですからね。テープでは上げ下げしか分からない。』
これは「芸十夜・第三夜」に出てくる武智の言葉です。武智の言いたいことは、映像や音声で遺された記録(今で言えばDVDとかCDのこと)を鵜呑みにせずに・自分の身体で体験してみて・そこから得たものを大切にせよということです。これは伝統芸能に限らず、物事を学ぶ態度として当然のことですね。表面をサラリと撫でただけで・分かったつもりになってはいけないということは、これも当然です。しかし、世の中には出来る人はいるもので、一を聞いて十を知る人もいるにはいるものです。どんな分野でもこんな簡単に要点をさらっ ちゃっていいのかと驚くような人が確かにいます。そういう方は・傍から見れば表面をサラリと撫でただけで・要領が良いだけのように見えるけれども、ちゃんと奥底まで真実を見抜く手法(コツ)を知っているのです。それには心構えが必要です。
武智は映像やレコードは真実を記録しないなどということを言っているのではありません。表面的に受け取るなと言っているだけのことです。まあ演劇においては生(なま)信仰が依然強いのは仕方ないところではあります。しかし、特に伝統芸能においては、古い映像やレコードはその価値をますます増していくこということを言っておきたいと思います。これは今の舞台で見る芸に価値がないということではありません。しかし、伝統演劇というものは常に過去において計られ・過去から高められるものなのですから、古いものがどんな形であれ・多少であっても・具象的な形で残っているならば、それはとても力強い導きになるものです。その力を信じなければなりません。
クラシック音楽の世界では・昔のSP録音の時代(まあ大体1945年以前とお考えになれば良い)は、指揮者でも・器楽奏者でも・その録音を聴けばそれが誰が演奏しているかすぐ分かるほどの強い個性をそれぞれが持っていたものでした。昨今の演奏家の演奏を聴くと・技術的には相当の進歩があるけれど・それを聴いて誰かすぐ分かるというような強烈な個性がない・まっとうな解釈だけれどみな横並びで特色がない・これは今の演奏家が他人の録音をよく聴くので解釈が自然と似てくるせいだ・昔の演奏家は他人の演奏など聴かなかったものだと、そういうことを言う方がクラシック音楽の世界にもいらっしゃいます。まっそういう方もいっらしゃいますがね。しかし、昨今の演奏は解釈の点においても練れていて、トンでもなくはずれた解釈はまずありません。昔よりも全体の水準はずっと高いことは確かなのです。これは大事なことなのです。それは現代の演奏家が他人の演奏を実演でも録音でもよく聴いて学んでいるからです。同様に観客の方も耳が肥えているということが言えます。実際、優れた音楽家は実演でも録音でも他人の演奏を実によく聴くものです。ただそれを公言しないだけのことです。ホントに音楽が分かる人ならば、どんなに貧しい録音であっても・たとえ断片であったとしても、それを手掛かりに何かを得ることができます。記録された映像や音声については、ロラン・バルトが古い写真について語ったことをそっくりそのまま当てはめることができます。すなわち、それを信じる者だけがその価値を感じ取ることが出来るということです。
『写真は過去を思い出させるものではない。写真が私に及ぼす効果は(時間や距離によって)消滅したものを復元することではなく、私が現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれる点にある。写真はつねに私を驚かす。(中略)写真は何か復活と関係があるのだ。写真については、ビザンチン人がトリノの聖骸布にしみこんでいるキリストの像について言ったことを、そのまま繰り返すことができるのではなかろうか。つまり、それは「人為に拠るものでない」と。』(ロラン・バルト:「明るい部屋〜写真についての覚書」)
ロラン・バルト:明るい部屋―写真についての覚書
いつぞや御曹司(誰だか失念)がひとり部屋にこもって・昔の父親だか祖父だかのビデオを見ながら一生懸命振りをさらっているのをテレビの放送で見たことがあります。周囲にそれを教えてくれる先輩がいないのか、お弟子さん筋にもそれを知っている人もいないのか、それをチェックしてくれる人もいないのか。実に孤独なことだなあと思いました。現代においては伝統を継ぐということは、とても孤独な作業なのかも知れません。口伝でも文献でも、何かを手掛かりにひとりで伝統を必死で追い求めていかねばならない時代に、「ビデオで見て覚えちゃうからいけないんです」という悠長なことはもう言ってられないのです。どんなものでも古い音声や映像が残っているならば、これほど有難いことはないのです。それを取っ掛かりにして何かをつかめば良いのです。現代の伝統芸能というのは、概にそういう危ない崖っぷち状態にあるのです。これは観客についても同じです。ですからひとり部屋にこもってビデオで振りをさらう御曹司も、彼がそれを信じて・何かを求めながら・それを見るならば、そこから彼は何かをつかむことでありましょう。その力を信じなければなりません。(この稿つづく)
(H23・4・2)
3)時代を正しく生きる者だけが正しい時代感覚を得る
『あの若さで、あれだけの芸をする。不思議だねえ・・・。あの人(=四代目井上八千代)はきっと新聞読んでないよ。』
「芸十夜・第二夜」に出てくる七代目三津五郎が四代目井上八千代の踊りを初めて見た時の感想です。芸談なんてものはしばしば言葉足らずですから、新聞を読まない井上八千代が社会や時代の変化に無関心だったなどと、字面だけで読まないようにして欲しいと思います。七代目三津五郎の真意は全然別のところにあるのです。
日本では芸術家・芸人は俗世から離れた人というイメージが根強いようです。常識はずれた馬鹿なことをしても、芸阿呆だと言って許される。「破目をはずすくらいでなければスケールのある魅力ある芸はできない・そういうのは芸の肥やしだ」などという風潮は今でもあります。芸人を社会的に甘やかす風潮があるのは、日本くらいのものでしょうねえ。外国の芸術家は積極的に自らの思想的・政治的立場を表明し・社会と能動的に関わっていこうとする方が少なくありません。個人が集団・社会との係わり合いのなかで生きており・芸術も生活のなかから生まれてくるものですから、芸術も人々の生活のなかで生きて初めてその価値を発揮することが出来るわけで、これは当然のことなのです。日本と欧米のアーティストのインタビュー記事を比べて御覧なさい。日本のアーティストのインタビュー記事で芸談として面白いものはあまりないです。欧米のアーティストは・若い方でも、実にしっかりと自分の考えを述べます。自分の生き方が芸の在り方に影響するものだということをしっかり心得ています。自分を磨くために自分のジャンル以外のことにも強い関心を持っています。それは単に自分の教養を深めるということではなく、自分の生き方にトータルに係わるものだということが分かっているからです。
井上八千代が新聞を読まなかったということが事実であったとしても、彼女が社会や時代の変化とかを無視して・ひたすら芸を極めるという方向に集中していたと考えるならば、それは「本物の芸がそれを見る者に何を指し示すか」ということがお分かりではないのです。本物の芸が指し示す(象徴する)ものは人生の真実です。井上八千代がその時代の空気を吸って生き、この舞台を見る観客もまた同じ時代の空気のなかで生きています。そこで共有される真実が必ずあるのです。それが観客を共感させるのです。パフォーマンス芸術というものは、時と同じくする芸能者と観客の心の交流であり、だからこそ芸事とは時に神事・祭事にも例えられます。
井上八千代がそのように観客と同じ時代の空気を共有するためには、彼女がまず社会人として・あるいは生活者として行なうべきことを行なうことを、正しくできていなければならない、これが大前提なのです。それは現代で言えば、東証株価がどうなったかとか・政治家がどういう発言をしたかとか・どこでどんな事件が起きたかとか・夜のテレビで面白そうな番組があるかとか・どこかの店の料理がおいしくて話題であるとか・人気俳優が結婚したとか離婚したとか、そういうこととは違います。そういうことはいわば「雑音」です。そうしたものは、彼女の思考をかき乱すものでしかありません。新聞を読めば、そういう雑音が否応なしに入り込んできます。だから井上八千代は新聞をシャットアウトするのです。しかし、それが井上八千代が社会や歴史の変化から離れた所に自分を置いていたということになるのでしょうか。答えは否です。
例えば美人画の大家である鏑木清方は九代目団十郎の「娘道成寺」について「当時(明治)の娘そのままだった」と述懐したそうです。鏑木清方の証言を読んで、団十郎は当時の女性の流行感覚をここで取り入れたと安直に考えることはまったくの間違いです。この証言は芸の秘密のもっと深いところを明かしています。団十郎は当時の時代の空気のなかで生き・時代の何ものかに共振するところでその芸を構築しているのです。それは 団十郎の「娘道成寺」の娘の感覚のなかにだけ生かされているのではなく、彼が遺した「勧進帳」や「熊谷陣屋」や活歴のなかにも同じように生かされているのです。鏑木清方は団十郎の「娘道成寺」を見て・そこに自分と同じ時代感覚を見たわけです。
時代を正しく生きている者(生活者)だけが、正しい時代感覚を得ることができます。これは芸術家だけのことではありません。我々一般人であっても同じことです。インターネットや携帯電話が普及した現代においては、情報の渦のなかで・人々は雑音に巻き込まれて生きることから逃れることはできません。それらは連関なく・バラバラで・序列がなく、不必要に受け手を混乱させ・イライラさせます。しかし、インターネットや携帯電話を遮断することは現代生活ではもはや不可能です。ですから次々と振り掛かってくる情報と誘惑の雨(それはもちろん有益なものも含まれますが、それ以上に無益・有害なものが圧倒的に多い)からどのように自分を守るかということは、現代においては、井上八千代の時代よりも複合的かつ宿命的な課題となってきます。インターネットや携帯電話を遮断すれば、それで自分が守れるわけではありません。時代に対峙する個人のスタンスの取り方が、現代においてはますます重要になってくるということです。(この原稿つづく)
(H23・11・4)
4)はるか昔から自分へ向けてつながる芸の道筋を見ること
「芸三夜」に出てくる話ですが、武智の狂言の師であった善竹弥五郎が晩年に小謡をレコードに録った時のエピソードです。
『(武智)全曲を三日がかりで吹き込んで、それが終わってテークバックで音が出るでしょう。それを聞いていて、こっちは録音の具合がどうかと思って、「弥五郎さん、いかがでございましょうか」といって聞いたら、じいっと聞いてて、「親父の謡そっくりでございます。安心いたしました」』
このエピソードを、弥五郎が自分の父親を芸の基準にして・自分が父親のレベルでそっくりだと言って・その程度のレベルで満足したなんて読んで笑うようならば、芸談なんぞ読まない方がよろしいです。芸談はその方に何の教えも授けることはないでしょう。八代目三津五郎が父親(七代目)から「(とっくの昔に死んでしまった)九代目団十郎を手本にせよ」と言われて途方にくれた話は前に触れました。その芸の何が正しいか・何が間違っているか、はたまた自分が受け継ぐべき芸とは何なのか、そのようなことは様々な試行錯誤と修行のなかで自分で掴んでいくしかないのです。「これが正しい芸です・これがお手本です」なんてものが、目の前に都合よく転がっているわけではありません。また芸の世界では正しいものがひと つだけとは限りません。表現の可能性はいっぱいあるのです。自分が何を継ぐべきかは自分自身で追い求め・自分で選ぶしかありません。その時に手掛かりとなるのは、まずは師匠の芸になるのは当然のことなのです。伝統芸能では世襲の家が多いですから、多くの場合はそれは父親(あるいは祖父)の芸ということになります。
それは手っ取り早く目の前の父親の芸を基準にして済ませるというようなことではありません。父親の芸がいい芸の系統なら良いが・そうでないならば不幸だなんてことを言う方がいるようですが、どれが正しい芸で・どれが悪い芸だという基準などどこにもないのです。だから、まずは伝統芸能家は父親の芸から出発せざるを得ません。そこから試行錯誤と修行が始まります。だから「見てない人を手本にしろ、昔の名人の芸に憧れろ」ということがなおさら重要になるのです。試行錯誤しているうちに、はるか昔の名人から自分の父親へ向かってまっすぐつながっている芸の道筋がおぼろげにでも見えて来ます。その時に、ずっとつながっている伝統芸能の系譜の一番端っこに自分が位置しているということが認識できたならば、その時に彼は伝統芸能家としての自覚ができたということなのです。
ですから弥五郎が「親父の謡そっくりでございます。安心いたしました」と安堵の声を洩らしたということは、曽祖父がそのようにして・これを祖父が受け継ぎ・またこれを父親が継承して・・・そうやって代々受け継いで来たものを、どうやら自分が確かに受け継ぐことが出来たかな・・・とりあえずこれで自分の役割はちょっと果たせたかな・・・ということなのです。この時に弥五郎は父親の芸のことだけを考えていたでしょうか。そんなはずは絶対にありません。弥五郎は、父親や祖父や曽祖父ら先祖が歩んできた・もっと昔の芸のはるかな道程を見ていたのです。弥五郎の態度はどこまでも謙虚であると言わねばなりません。
ところで山川静夫氏が雑誌で書いていた思い出話ですが、四代目津太夫にインタビューした時、津太夫が「一生懸命練習しても・まだ親父のように語れない、私、それが悔しい・・・」と言った途端にワンワン大声で泣き出したということがあったそうです。このエピソードも同じようにお読みいただきたいものです。父親を尊敬できないところに伝統芸能が成り立つはずがないじゃありませんか。(この原稿つづく)
(H24・1・16)
5)息を詰めるということ
『京都の博物館で南画展がありまして、日本の偉い人の南画があったんですが、それを見ていたら前のボックスに沈石田(しんせきでん)の絵巻物があるんですよ。それを見たらびっくりしたんですよ。その息の長さたるや、あんな細かい線引けないと思うの、細かい波が、あれあれあれと思うほど続いていて、こっちは息が詰まっちゃうんですよ。』
「芸八夜」に出てくる三津五郎の談話です。これは武智歌舞伎の重要なキーワードのひとつ・「息を詰める」ということに深く関連するのですが、その前後の会話 を見れば、息を詰めることの秘密を明かしてはいません。対談というものはしばしば言葉足らずです。ここで武智と三津五郎は呼吸の話をしています。武智は「伝統芸能だとか・演劇だとかいうものは、呼吸作用さえ覚えればいいんだからね」などと言って煙に巻いています。そんなことなので、「息を詰める」ということはひと息で線を描くということではなく・他人には分からないように・ひと息でやっているかのように・巧く息継ぎをできることだ、それができるかできないかが名人かそうでないかの判断基準だなんて読み間違いをする方が出てくるかも知れませんねえ。
仮に名人の描いた絵の描線を薄くコピーした画用紙が目の前にあったとして、「名人の線を体験するために・その線を鉛筆でなぞって(トレースして)みてください」と言われたとします。貴方は鉛筆で名人の線を慎重になぞりながら・どういう呼吸をしますか?ちょっと気を抜けば、鉛筆は名人の線からそれてしまいます。貴方は名人の線をたどることに全神経を集中しますから、息を深く保った状態を続けるはずです。それはまったく呼吸しないということではなく、横隔膜を下げたまま・息を腹に溜めた状態で、ちょうど車のエンジンをアイドリングするような感じで、細かく横隔膜を上下させながら・微小な呼吸を続ける状態を保つのです。これが「息を詰める」ということです。「息を詰める」ということは、巧く息継ぎをすることとは全然違うことです。
大事なことは、対象に対して全神経を集中して・雑念を追い払い・懸命にイメージを研ぎ済ませることです。そうすると自然と息は深く・横隔膜が下がった状態で・上下動が最小限になるような呼吸の仕方になるのです。「息を詰める」のが芸の目的なのではなく、緊迫感のある・集中力がある芸がすることの生理的・可逆的な結果として「息を詰める」という現象があるのです。
『長い射程をもってテンポをあげていき、同時にクレッシェンドして頂点に到達しようとする、そんな箇所の失敗がどれほどあったことだろう。クレッシェンドの始まりが遅くて、頂点には到達できなかった。あるいは早過ぎると、すべてのエネルギーは空費され、頂点に達する余力が残らない、など。これらが何年もいっしょに味わってきた体験である。さてプローべとなると、まずこの体験について話し合って、最初は技術的な側面から手直しを試みなければならない。指揮者から即されずともオーケストラは自発的にクレッシェンドを始めなければならない。(中略)しかし、その前に年々と積み重ねた作業が要るのだ。ひとつの作品を一回こっきりのプローべで仕上げるのは不可能だ。オーケストラの側だけに責任があるのではない。何十年もの間の努力と作業と愛情によって、内的な緊張を保ちながら進んでいくことが可能になる。魂の基本的なありようを表現すること、そしてそれを人々に伝えることが常に肝心なのである。』(ヘルベルト・フォン・カラヤン:「プローべ」・書かれなかった本からの二章〜フランツ・エンドラー:「カラヤンの生涯」に所収)
フランツ・エンドラー:カラヤンの生涯
カラヤンが指揮の秘密について書き・結局生前には出版されることのなかった原稿のなかからの引用です。「長い射程をもってテンポをあげていき、同時にクレッシェンドして頂点に到達しようとする」、そのような旋律があるとし ます。それがどのような線を描きながらテンポを上げていくか・同様にクレッシェンドはどのような線を描いていくか、実はそのようなことを楽譜は曖昧にしか指示していないのです。それは指揮者の頭のなかのイメージのなかにあります。プローべ(リハーサル)では、指揮者は自分のイメージをオーケストラに伝え・根気良くそれを具現化していかねばなりません。それは指揮者の頭のなかにある旋律線のイメージを注意深くなぞる(トレースする)作業に似ています。カラヤンとベルリン・フィルのレガートの美しさは空前絶後と言われたものでした。そのために指揮者とオーケストラとの間にどれほどの「息を詰めた」 旋律線のトレースの作業の積み重ねがあったかは想像を絶するものがあります。こうしてあのカラヤンの奇蹟のようなレガートが生み出されたのです。(この稿つづく)
(H24・2・6)
6)「長くなるのは下手の証拠」か?
『僕たちが真似しようとすると、自分のおなかから納得いくまでやると延々とのびちゃう。山城さんのなんかを聴くと逆につまっちゃう』
第3夜に出てくる三津五郎の言葉です。武智は「長くなるというのは下手の証拠ですね」と受けています。「息を詰む」というのは芸道用語で、武智の話に頻繁に出てくる重要単語ですが、生半可な理解がまかり通っているようです。「息を詰む(詰める)」というのは息を止めるということと同じではないのです。息継ぎをするのをグッと我慢して演技するということではありません。ところが、巷間そのように思い込んでいる方がとても多いようなのですねえ。
よく考えてもらいたいのですが、感情をこめて心理の綾を細やかに描こうと意識して演技すると、大体テンポは遅くなるのです。三津五郎が「僕たちが真似しようとすると、自分のおなかから納得いくまでやると延々とのびちゃう」と言っている通りです。それは息を腹にもって・その間(ま)のなかに感情なり何なりを込めようとするからです。真剣に演技するならば、そこに出来た間がただの空白になってしまうのを嫌うのは当然で・これを何かの表現行為によって埋め合わせしようとする。表現することに良心を持つならばそのような間の圧力を感じるものです。そのような圧力に耐えて繊細な線を描くことが息を詰めるということなのです。ですから感情を込めようとすれば演技は遅くなり(伸び)勝ちなわけですが、これが安易な逆サイクルにはまると、演技を遅くしただけで何となく感情をこめ易くなる・そうすると「息を詰めた」ような擬似感覚に浸れるということになる。まあ確かにそういう例も多いことでしょう。だから長くなるのが下手の証拠になってしまうということです。
しかし、本当に「長くなるのは下手の証拠」なのかと言えば、芸道の世界をみればそうでないものがいくらもあるのです。音楽の世界でも・芝居の世界でも、大体歳を取ればテンポは自然と落ちてくるものです。これは体力・心肺機能とかが関係もしますが、歳を取れば息の修練は出来てくるもので・名人というのは大抵歳取っているものですから、名人にはテンポが遅い方が少なくありません。それでいて間が伸びた弛緩した印象を決して与えないものです。我々はそういうものを名人芸と呼ぶわけです。ご注意いただきたいですが、「テンポが遅い」と「長い」は決して同じではないのです。テンポが遅い・早いは時計で測れますが、長い・短いは感覚の問題です。しかし、一般には「テンポが遅い」と「長い」が同じ意味合いに使われることが多い。前述の武智の言もそのように使われているようです。それで誤解を生みます。
六代目歌右衛門の演技が長かったということを仰る方がいます。お岩の髪梳きでも・尾上の引っ込みでも良いですが、とにかく時間的に見て演技が長かったのは事実でした。しかし、歌右衛門の演技は間伸びしていたでしょうか・弛緩していたでしょうか。吉之助は断言しますが、断じてそんなことはありませんでした。吉之助は歌右衛門の一挙一動を見逃すまいと息を詰めて見ましたから、長いなどと感じたことは決してなかったのです。
ここが大事な点ですが、芸能者(パフォーマー)との息が合わせられなければ、演技は長く感じられるということです。つまり、これはある意味で芸能者と観客の息の勝負なのです。勝った負けたという勝負ではないですが、そのような息のやり取りがそこにあるわけです。その演技が長いと感じる場合にはふたつのことが考えられます。ひとつは芸能者の芸が間延びして弛緩している場合で・これは問題外ですが、もうひとつは観客の力量が劣る・芸能者の息に合わせて息を深く取ることが出来ない場合です。世間で名人と評価されている方の芸を見て「長い」と感じるならば、その人の芸を駄目だと斬り捨てる前に、まず自分の息の取り方を疑った方が良いのです。息を詰めた名人のテンポの遅い芸を見る時に、その息のリズムに巧く乗れないと・見ているこっちの呼吸の間が持てなくなって・苦しくなってきます。だから、そのような場合は、見ている時に腹に息を溜めて・リズムの打ちをおなかで取るのです。見ている方にそれが出来ないと演技が長〜く感じられます。逆の現象もあります。芸能者のテンポが早くて・見る方が息のリズムに巧く乗れない場合リズムが先にどんどん行ってしまう感じで・足がもつれて・身体が前のめりになって来る、無理にこれに合わせようとすると呼吸がだんだん浅くなって・やはり息が苦しくなってきます。まあお金払って見るわけですから観客は芸能者に感動させてもらう権利があるとは言えますがね。しかし、「感動したくてわざわざ劇場に行くのなら、名人の息に合わせてご覧なさい」と言いたくもなりますねえ。
ところで武智は「長くなるというのは下手の証拠」 などと言っていますが、武智はノイエ・ザッハリッカイトの信棒者であったということを忘れてはなりません。ノイエ・ザッハリッカイトの芸術家は形式・規格に重きを置きますから、テンポが厳格な人が多いわけです。代表的なのはもちろんトスカニーニですが、トスカニーニは晩年になってもテンポが落ちませんでした。むしろ晩年の方がリズムの打ちが前面に出たということを証言する方もいます。テンポが落ちることはダレることだという 考えは、恐らくトスカニーニにもあったことだろうと思います。あるいはそこに老化・衰えのイメージを見たのかも知れません。武智の場合もノイエ・ザッハリッカイトの立場からすると、どちらかと言えばテンポが早めで表現が簡潔なものを好んだということです。六代目菊五郎も山城少掾の芸もそのようなものです。これはこの時代の嗜好だということです。しかし、テンポが遅くても立派な芸はごまんとあるのです。「テンポが遅い」と「長い」は決して同じではないということは肝に銘じて置くべきことです。
ところで、先ほど「感情を込めようとすれば演技が遅くなり勝ち(伸び勝ち)である」ということを書きました。これを矯正する訓練方法はあります。感情を込めて・息を詰めてしっかり演技をする・その息の深さと呼吸のリズムをしっかり感じ取ります。次の段階として、息の深さを同じに取って・呼吸の速度だけを早くしてみることです。
『ベートーヴェンの第7番・第4楽章のようにテンポの速い曲の場合は音符のひとつひとつが明確に表現されないと切れ味がなくなってしまいます。私がドイツでまだ指揮者として若かった頃は、その終楽章を現在よりずっとゆっくり指揮したものでした。そうするのは間違っているとは分かっていたものの、どうしてももっと速いテンポでは指揮できなかった。また当時どうしてそんなことができたでしょう。そのうちに、ついにふたつのこと、つまり正しいテンポと内容とがひとつに結ばれました。ロマン派の作品を指揮する時など、私はときどきオーケストラに言ったものです。「さあ、好きなように演奏していいですよ。ただし4/4拍子でね。みなさんは音楽の内容を非常に深く感じているので5/4拍子で演奏しています。そこで感じ方の方はそのままにして、演奏の方は逆に正確にしてみてください」とね。』(ヘルベルト・フォン・カラヤン:リチャード・オズボーンとの対話)
リチャード・オズボーン著:カラヤンの遺言
ベートーヴェンの交響曲第7番についてのカラヤンの談話です。その第4楽章(アレグロ・コン・ブリオ)はワーグナーが「舞踏への聖化」とも呼んだ・リズムを主体にした熱狂的な終楽章です。この楽章をもっと早く演奏すべきだと分かっていたけれども・若い時はそれがどうしてもできなかったとカラヤンは言います。若い頃の自分はまだ未熟で・自分の内面にあるテンポと表現をひとつのものにする技術を会得できていなかったと言うのです。それほどに息を詰むということは難しいのです。それができないのならば例え不本意なテンポであったとしても・むしろテンポを落として息使いを正しく取った方が良い・そのことを若いカラヤンが知っていたということも凄いことです。リハーサルにおいてカラヤンは速いパッセージをわざとゆっくりとオーケストラに演奏させることがしばしばありました。ひとつひとつの音のニュアンスを入念に磨き上げた後で「感じ方はそのままに・倍のテンポでやってみましょう」とオーケストラに言うのです。だからどんな速いパッセージにおいても 息の深さが保たれ、その演奏は音符のひとつひとつが粒が立っていて・形が崩れることがなく、リズムはしっかりと打ち込まれていて・前のめりになることがありません。結果として音楽の正しいフォルムが描かれることになります。速いパッセージにおいて・いかにも勢い良く演奏しているようでいて、実はリズムが前のめりになっていて・十分に打ち込まれておらず・音符の刻みが崩れていて・旋律の歌いこみが不足する演奏にしばしば出くわします。それは上記のような訓練が十分でないのです。音楽の基本は「作曲者が指定した通りの長さで音符を正しく保っていられるかどうか」ということです。芝居の台詞や・踊りの振りでも同じことが言えるのですが、歌舞伎の世界ではこのことがおろそかにされていると思います。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代の黙阿弥の七五調はかなり間延びしていたということは別稿「写実の黙阿弥のために」でも触れました。おそらく当時の幹部連中(二代目松緑や十七代目勘三郎)は六代目菊五郎・初代吉右衛門ら先輩たちの台詞まわしを気分のなかで受け継ぎ・その気分を丁寧に追っていくうちに自然と台詞のテンポが落ちていったという風に吉之助は考えています。これは芸の受け継ぎの手法として決して間違いではないのですが、次の段階での「感じ方をそのままにして・もっと早くやってみましょう」というところが十分でなかったのです。現代の役者の黙阿弥の場合は父親たちの間延びした台詞の反省からか・今度はテンポだけを速くしようとして、結果的に感じ方の方がなおざりにされています。そのため黙阿弥のフォルムがすっかり崩れてしまいました。ですから黙阿弥の正しいフォルムを考えるには目の前の舞台で見る個々の役者の台詞回しを取り上げて・それが良いの悪いのを論じてみても仕方ないのです。歌舞伎の時代の大きな流れを感じながら・その正しいフォルムを想像しなければなりません。(この稿つづく)
(H24・2・26)
7)型とは方法論である
「熊谷陣屋」で熊谷が陣屋へ戻って来て、一番最初にいうセリフが、「うム、詮議とは、ウなにごとやらん」 あれは「うム、詮議」といっている時は、まだ相模のほうに熊谷の気持ちがいっているわけですよ。梶原が詮議に来たというところに、「とは」の間に意識が行って、あッこれは大変だという間(ま)があって、それをとぼけて、「なにごとやらん」といって、ともかく早く軍次に梶原を監視させようという気持ちで、梶原をもてなせというわけですね。ところが今の役者がやっているのは、みんな梶原の存在を忘れてますね。
「芸七夜」に出てくる武智の言葉です。「熊谷陣屋」は宝暦元年(1751)豊竹座での初演。並木宗輔が文章を書き・名人豊竹筑前掾が節付けしたもので、筑前風の大曲です。武智は「丸本は頭を使って行間を読め。これが演劇の読み方だ。」なんてことを言っているのではありません。そのような丸本の読み方を各々が良かれと思ってし始めれば、十人いれば十通りの読み方が・百人いれば百通りの読み方が可能になるのです。しかも、その読み方のどれもが正しいということがあり得るのです。それでは何を以ってそれを「正しい」・あちらは「違う」と云うのでしょうか。伝統芸能において基準となるものは一体何だろうかということを考えて欲しいと思うのですねえ。
武智はノイエザッハリッヒカイト(新即物主義)の時代の芸術家であるということを、吉之助は何度も書いてきました。ノイエザッハリッヒカイトの原則は原典主義です。「吉之助が芸十夜を読む・前編・その2」で山城少掾が「義太夫というのは頭さえ使えば誰にでも語れます」と言ったことを取り上げました。山城少掾が言うことは、「一定の思考の筋道を以って同じように考えるならば・誰でも同じ結論に達するはずである」ということです。つまり、「熊谷陣屋」ならば作者並木宗輔はどう考えてこの詞を書いたのか・筑前掾はどう考えてこの詞にこの節を当てたのか、そのことを私は常に考えますということです。そして、作者の思考過程を・作曲者の思考過程を辿って同じように丸本を読んで行くならば、それは必ずや作者の考えた通りの・作曲者の考えた通りの姿になって再現できるはずだ、それならばこんな詰まらない私(山城少掾)であっても・名人筑前掾にちょっとは近づけるのではないかと思って私は日々努力を続けていますということです。山城少掾はどこまでも謙虚です。伝統芸能において基準となるものはその確信しかないということです。だから原典(丸本)にすがるのです。野村萬齋がインタビューで次のように語っています。
『歌舞伎では「○○屋の型」というように、家に永く伝わるもの、非常に因習として捉えられていますが、狂言の型というのはひとつひとつの動きとか、解釈論というよりも、もっと方法論に近いところがあります。型自体を演出や意図によって、その仕方を変えてしまうということは私にはあります。同じ型をするのにしても、たとえ動きは同じでも、解釈によってその型の意味の持たせ方を変えるのです。そういう制約を自分に課しながら再創造していくわけです。』(野村萬齋インタビュー・「現代を生きることこそが古典のアップデートにつながる」・SPT(世田谷パブリックシアター)07)
SPT 07 特集 古典のアップデート
まったくその通り、型というものは解釈論というよりも方法論であると言うべきです。これが伝統芸術における型の正しい理解なのです。歌舞伎の「○○屋の型」というのは因習だというのも、まったく正しい指摘ですね。ですから九代目団十郎の型を受け継ぐということは、九代目団十郎の方法論を学ぶということなのです。九代目団十郎の方法論を学べば、君も九代目になれるということです。九代目がそこでクルッと回って右手を上げたから私もそうしますというのが、型を学ぶということではないのです。九代目の方法論を会得していれば、九代目に教えてもらわなくても、例え九代目が演ったことがなかったものでも、九代目がやったらこうなっただろうということで自分で作り上げることが可能になります。「吉之助が芸十夜を読む・前編・その10」で取り上げたことですが、六代目菊五郎が言っていることがまさにその通りではありませんか。
『・・しかしですね、どうにも仕方のないもので、直接には(九代目団十郎に)教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それがつまりコツだね。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。手を取って教えないまでも、芸の意気がうつるというのだからやっぱり伯父さんは偉いんだね。』(六代目菊五郎:昭和2年4月本郷座での所演の談話:掲載「演芸画報」昭和2年5月号)
ですから「うム、詮議」といっている時はまだ相模のほうに熊谷の気持ちがいっているという武智の解釈が正しいかそうでないかということは、まずは置くべきです。そういうことは、実はどうでも良ろしいのです。それは山城少掾の語りを聴いて武智がそう感じたというだけに過ぎません。まずは山城少掾の語りを通して見えてくる山城少掾の方法論を聴くべきです。さらに山城少掾の方法論を通して、はるかに見えてくる(であろう)並木宗輔の方法論・筑前掾の方法論を聴くべきです。そう考えた時に、武智が山城少掾の芸の何に感動して・これを規範としてきたのか、そのことの意味が分かるはずです。それは武智が学んできたノイエザッハリッヒカイト(新即物主義)の態度とも合致します。山城少掾の語りを聴きながら、同時に武智は筑前掾の語りをも聴いてるのです。同じように喜び・同じように泣き・同じように怒るならば、それは正しく同じ姿になって現れるはずである。その方法論を踏まえたところで「うム、詮議」といっている時の熊谷の気持ちを考えるのです。そうでなければ解釈は型としての意味を決して持ち得ないでありましょう。山城少掾も、武智鉄二もそのように信じているのです。
(H23・3・19)
8)芸のリアリズムと人生の真実
『義太夫は語りものの形式自体がウソでしょう。それから浄瑠璃の内容もウソですからね。(中略)その外部のウソやフィクションを、中身の真実で埋め返していくわけですね。(中略)ところが自然主義以後の演劇だと、外側がほんとうだから、中身の役者がなにをやっててもいいし、何もやらないでただせりふをしゃべっていても良い。』
「芸5夜」に出てくる武智の言葉ですが、自然主義以後の演劇を引き合いに出して義太夫節を持ち上げたことで誤解を生む場面があると思います。対談はこういう言葉足らずのことがしばしばあるので、注意して読まねばなりません。歌舞伎の三津五郎相手だからこういう発言になっているだけのことです。
義太夫は語り物系の音曲ですから、形式自体が写実(リアリズム)を志向する演劇からみればウソであることはもちろんです。「そのウソを中身の真実で埋め返していく」というのは良い表現であると思います。しかし、そうやって義太夫が表現するドラマ、熊谷陣屋でも寺子屋でも良いですが、それが心底感動できるものになっているのなら、その表現は確かに「真実(リアル)」なのであろうと思います。まずこのことを大前提として押さえてもらいたいと思います。我々が演劇において写実(リアリズム)と言っているものとは、どういうことなのだろうということを考えて欲しいわけです。人生の真実を映し出すことこそ写実(リアリズム)の究極の目的であるはずです。
九代目団十郎はいわゆる「活歴」を創始しました。これはその後の新歌舞伎・あるいは新劇のさきがけとも言えるものです。しかし、張子の茶碗を拒否し・本物の瀬戸物の茶碗を求め るような九代目の態度は悪写実で、張子の茶碗をいかにも瀬戸物の茶碗の如く見せるのがすなわち芸だというような議論をする方がいます。そのような議論は演劇における写実(リアリズム)は何かという議論と同次元のものでしょうか。そういうことに疑問を感じてもらいたいと思うのです。
張子の茶碗か・瀬戸物の茶碗かなんてことは、実はどちらでも良いことなのです。芝居自体がウソっぱちだからです。そんなことくらい九代目が分っていないはずがありません。それでも可能な限りは本物を求めたいという九代目の気持ちは、写実(リアリズム)を追求しようとする役者の良心というべきなのです。同時代の五代目菊五郎も同様に本物へのこだわりが強い役者でした。こだわりがない役者が良い役者であるはずがありません。それが高じれば舞台に本物の土を撒け・書割でなくて本物の樹を植えろなんて話になりかねませんが、そこまで出来ないのは当たり前。しかし茶碗くらい・衣装くらいは本物でやりたいという役者の欲求は、幼稚に見えるかも知れないけれども、写実(リアリズム)の初期段階であることを認めなければなりません。その次の段階として、何は本物にこだわって・何はウソで構わないという選別が来ます。これは明治初期の演劇改良運動の波のなかで歌舞伎が一度は経なければならなかった過程です。その過程を経て晩年の九代目の古典の見直しが始まることになります。今我々が目にする「勧進帳」・「熊谷陣屋」などの九代目の型はそういうプロセスを経て生まれたものです。そのような九代目の役者としての良心を笑ってしまったら写実(リアリズム)の本質は分からないと思います。三島由紀夫は次のようなことを書いています。
『芸能の本質は「決定的なことが繰り返され得る」といふところにある。だからそれはウソなのである。先代(七代目)幸四郎の一世一代の「勧進帳」といへども少なくともその月二十五回は繰り返された。「葉隠」の著者が芸能を蔑んだのは多分このためであり、武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則としていて、そこへ込められる精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいている、というところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができようか。』(三島由紀夫:「行動学入門」・昭和45年)
「葉隠」において「武士道は死ぬことと見つけたり」と書いた山本常朝が芸能を蔑んだのは「芸能では決定的なことが繰り返され得るからだ」と三島は言います。武士社会でなぜ歌舞伎役者が河原乞食だと卑しめられたかと言うと、「 忠義の武士が切腹をして見せても・あれは竹光を腹に当てて死ぬ真似をしているだけのことで・本当に死んでないではないか」とそれだけだというのです。しかも、興行期間中に同じ役者が同じ 嘘っぱちを何度も繰り返すのです。(別稿「芸能の一回性を考える」を参照ください。)
ですから劇場という空間で芝居を演じる限りは、どんなことをしても・それは所詮ウソっぱちであり、常にウソを中身の真実で埋め返していくことをしなければならないのです。そのことは義太夫であっても、歌舞伎であっても、自然主義以後の演劇であっても、ジャンルは違っても、まったく同じなのではありませんか。ウソっぱちなのに、劇場で芝居を見て感動し・泣いたりするのは何故でしょうか。ウソに感動して泣いているとは思いたくはありません。やはり何かの真実に触れて、感動して泣いているはずだと思いたい。その時に改めて、人生の真実を映し出すことこそ写実(リアリズム)だという命題が浮かび上がってくるはずです。繰り返しますが、それは張子の茶碗か・瀬戸物の茶碗かというレベルの話ではないのです。しかし、昨今はその辺の区別さえつかない方が少なくないようですね。上記武智の発言もその危険性を孕んでいます。もちろん我が師匠はそこのところを承知のうえで意図的な発言をしているわけですが、くれぐれも誤解のないようにお願いしたいと思います。
(H24・3・31)
9)作者・作品に対する謙虚な態度
『古典の読み方が近頃、非常に粗雑になってきた』
「芸五夜」に出てくる三津五郎の言葉です。「古典の読み方が近頃、非常に粗雑になってきた」ということは多分その通りでしょう。吉之助もそのように感じることは多いです。しかし・・・それならば正しい古典の読み方、古典への正しい対し方とは何だろうかということです。上記の前後で・武智と三津五郎の対話では文章の読み方のことを言っています。例えば次のような箇所です。
三津五郎:「(「先代萩」で)八汐が「現在のそなたの子、悲しう、は、ないかいな」という時に八汐は別に悲しくないということで、今の人の読み方では意地悪くなるでしょ。」
武智:「「現在のそなたの子」という時、「そなた」の気持ちのなかに入ってって、悲しいということで、確かに悲しいはずだという経過が、日本人のものの考え方のなかにはあはるはずですよ、そういう弁証法的な・・」
三津五郎:「ところが、現代的な解釈だと、現在のそなたの子、悲しうはないかいな」と悲しくも何ともなくなっちゃうから、味もそっけもなくなっちゃうんですね。だから綾(あや)がなくなってる。」(注:文章は吉之助が多少アレンジしました。)武智と三津五郎が言っていることは、「丸本の詞章を文学的に読んだら駄目・演劇的に読むべきである」なんてことではありません。解釈の可能性なんてものは、無限にあるのです。自分はこう感じるからこう読む・これが良いと信じるからこう読むというスタンスである限り、何だって正しいことになります。それでは改めて問いますが、正しい古典の読み方、古典への正しい対し方とは何かということです。答えは、はっきりしています。それは「作者の意図はどこにあるのだろう」ということを謙虚に考えるという態度なのです。判断の基準は自分ではなく、作者(あるいは作品)の方にあるのです。そうは言っても「作者の意図はここにある」と判断するのは自分ですから・結局基準は自分にあるのじゃないか・・・そう考える方は、その時点でお間違えです。作者(あるいは作品)に対して謙虚な態度が取れるか・取れないかということ、違いはそれだけですが、しかし、最後にそれが決定的な違いとなって現れるのです。
「型とは解釈論ではなく方法論である」ということは、そういう意味です。九代目団十郎の方法論を習得できれば、貴方も九代目になれるということです。その方法論が会得できれば、たとえ九代目が演じたことがない役でも、九代目ならば確かにこのように演じたであろうという演技ができるのです。六代目菊五郎が言っている通り、『直接には(九代目団十郎に)教わらなくても自分で工夫する時になって、ああこういう場合にはこうした方がいいな、ここはこうと、自然天然、伯父さんに仕込まれた考えが浮かんでくるんです。それをその考え通りに踊ると、見物した人から「イヤ伯父さんソックリです」と言われる。これがつまりコツだね。』と云うことです。(「その7」をご参照ください。)
「現在のそなたの子、悲しう、は、ないかいな」という八汐の台詞回しを考える時に、丸本作者の意図(役の心と考えても良い)と・節付けした太夫の意図(それは役の解釈につながる)の両方の方法論を考えるべきです。八汐は、じっと凍りついたような政岡を見詰め・その肚のなかを探るように・つまり政岡の心理のなかに入り込むように「現在のそなたの子・・」と情を込めてしっとりと言い・政岡の心を揺り動かそうとします。政岡、あなたは悲しいだろう・ホラ悲しいはずだ・・そうじゃないかいな・・あなたはこの子の母親だもの・・という感じで「・・・悲しう、は、ないかいな」を言うのです。「悲しう」を深い悲しみと込めて低く言い、「は」で政岡の表情の変化をそっと伺い、「ないかいな」で更に政岡の心理を強く押すのです。義太夫の節付けのなかに、そのような作者の方法論があるのです。型を学ぶ・風を学ぶということは、そのような方法論を読み取るということです。武智と三津五郎の言うことをそのようにお読みください。
付け加えると、それは「型を変えてはいけない」ということを決して意味しません。方法論を会得したうえで、必然があるならば・変えても良いということなのです。ただし、その必然の基準を自分に置いては駄目です。あくまで会得した方法論のなかでそれを行なわなければなりません。そのような縛りを自分に掛けるために、原典主義という態度があるのです。山城少掾が「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです」と云うのは、そういうことです。義太夫ならば丸本というテキストが根拠となります。テキストのなかに作者の解釈はすべて書き込まれている。だから、テキストを作者の考え通りに正しく読むならば、誰が読んでもそれは作者の解釈と同じになるという・これは 絶対的な確信です。それは信仰と言っても良いものです。敢てこれを変えるならば、それなりの覚悟で臨まねばなりません。
原典主義はノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の旗印でした。(「芸十夜」というのはノイエ・ザッハリッヒカイトの本だということを吉之助は 場面を変えて何度も言っていますが、そのことを最後に念を押ししておきたいと思います。)ヴェルディの歌劇「オテロ」は1887年2月ミラノ・スカラ座で作曲者自身の指揮により初演されました。そのリハーサルでのこと、第1幕・愛の二重唱の場面でチェロ四本の静かな旋律が流れます。ここでヴェルディが「第2チェロ、もっと音を大きく・・」と指示しました。演奏は再開されましたが、同じ箇所で再びヴェルディが音楽を止め「もっと音を大きく・・」と 再度指示します。また繰り返されますが、同じ箇所でヴェルディは三たび音楽を止めて・指揮台を下り、チェロ奏者の傍に行き、「もっと音を大きくと言っているのに分からないのか」と言ったのです。するとそのチェロ奏者は何とヴェルディに向かって、「だって、マエストロ、楽譜にはppと記してあるじゃないか、pとは書いてない」と言い返したのです。ヴェルディは「確かに楽譜にppと書いたのはこの私だ。しかし、本当に心から感じる必然があるならば、必ずしもその通りにやる必要はない。さあ、言う通りに弾き給え」と答えました。この時にヴェルディに言い返した若きチェロ奏者こそ・後の大指揮者トスカニーニでした。言うまでもなくノイエ・ザッハリッヒカイトの代表的な指揮者です。お分かりでしょうが、原典主義とは、恣意的要素を入れず・客観的に楽譜通りにやるということではないのです。 若いトスカニーニはここでひとつ学んだわけです。
「俺の柄に合わないから俺の判断でこう変える」ということを安易に行なう役者は、「俺は役の性根は守っている」と口では言えど、実は型の心を守る気持ちが全然ないのです。型の心を守るならば、悩みに悩み・苦しみに苦しんで・・・しかし、やっぱり自分はこのようにできない・・だから手順を変えざるを得ない・・・という過程が必ずあるのです。その苦しさを知る役者だけに、型を変える資格があるのです。と言うよりも、そのような資格がある役者は、そもそも型を変えることをあまりしないのですね。
「古典の読み方が近頃、非常に粗雑になってきた」というのは多分その通りだと思いますが、大事なことは、作者・作品に対して謙虚な態度が取れるかどうか・ということであると思います。それは広義において日本人の心を学ぶということにも通じます。だから歌舞伎・文楽は、伝統芸能なのです。
(H24・3・19)
吉之助の三冊目の書籍本です。
「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。
「武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈」