「歌舞伎素人講釈」を読むためのガイド
九代目市川団十郎*近年巷間「ダンジュウロウ」を「團十郎」と表記することが多くなっています。これについて、歌舞伎学会誌・「歌舞伎 研究と批評」第22号(平成10年発行・1998)・九代目市川団十郎特集号の、編集後記(飯島満先生による)に次のような趣旨のことが書かれています。
「なるほど文献上の表記は、「団」ではなく「團」であるが、それを云うならば、役者名や作品名で旧字体のものは他にいくらでもある。それなのに、近年の研究論文で「團」のみを特別扱いするのは、理屈が通らない。学会誌「九代目市川団十郎特集号」を「団十郎」と表記したのは、活字処理の煩わしさが問題であったのではなく、旧字体で「團十郎」とする必然性がないと判断したからである。」
本「歌舞伎素人講釈」では、上記の考え方に賛同し、すべて「団十郎」表記に統一しています。
1)歌舞伎にとって九代目団十郎はひとりの名優という以上の意味を持つ。
九代目市川団十郎(天保9年・1838〜明治36年・1903)は「劇聖」と呼ばれた明治の大名優ですが、歌舞伎史を考える時、九代目団十郎は単なるひとりの役者 という以上の意味を持ちます。「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎は2回死んだ」ということを考えています。「歌舞伎の第1回目の死」とは寛永6年(1629)幕府による女優の禁止です。創成期の歌舞伎は女優を禁止されて・写実の演劇への発展を妨げられたのです。 「歌舞伎の第2回目の死」を象徴する出来事が明治36年(1903)の九代目団十郎の死です。
九代目市川団十郎之像(朝倉文夫作)国立劇場所蔵
2)九代目団十郎の死(明治36年)は「歌舞伎の第2回目の死」であった。
九代目団十郎の死は「歌舞伎の第2回目の死」である。これは「歌舞伎素人講釈」の重要な史観です。明治36年、五代目菊五郎が亡くなり・嫡子六代目菊五郎の襲名興行での口上において・九代目団十郎は「自分と故人(五代目)が最後の江戸っ子である」と言いました。そのすぐ後に九代目団十郎も亡くなるのですが、これにより歌舞伎はその故郷である江戸との精神的つながりを絶たれたことになります。
『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)
いくら名優とは言っても・ひとりの歌舞伎役者の死を「歌舞伎はもう終わりだ」というほどに人々が思いつめたというのは尋常ではありません。このことの意味を考えてみる必要があります。明治36年(1903)・九代目団十郎の死 と「歌舞伎の第2の死」については「時代にいきどおる役者 」をご参照ください。
3)九代目団十郎の死以後に歌舞伎の「型」の意味が決定的に変化する。
九代目団十郎の死により・歌舞伎はその故郷である江戸との精神的つながりを絶たれました。その意味は重大です。このことは歌舞伎が現在進行形の演劇ではなくなったことを意味するのです。歌舞伎とは簡単に言えば・江戸に精神的な故郷を持ち・江戸時代という封建社会を背景にした・チョンマゲ帯刀のお芝居なのです。ところが時は明治になって・世は封建社会ではなくなり・チョンマゲ帯刀は廃止され・西洋風俗思想が流入してきます。歌舞伎は時代とは完全に水と油になります。これをかろうじて繋ぎ留めていたのが九代目団十郎・五代目菊五郎など江戸の雰囲気を知る役者たちであったのです。九代目団十郎以後の歌舞伎は過ぎ去った時代を憧れる芸能になったということです。
歌舞伎は自らが伝統芸能であることの規範を明確にして行きます。それが「型」の意味の変化です。もちろん江戸時代にも「型」という言葉はありました。それは役者の演技の工夫・広義には演出のことを指しました。極端に言えば・江戸時代には何をしたって・それは歌舞伎でありました。しかし、九代目団十郎以後の「型」 ではそうではなくなります。「九代目団十郎はこうやった・五代目菊五郎はああやった」これを守ることが「型」だということになるのです。同じようにしなければ歌舞伎には見えない・同じようにしていればとりあえず歌舞伎に見える ・それが「型」であるという風に・「型」の意味が変化するのです。
4)九代目団十郎の死以後に伝統芸能としての歌舞伎の位置付けが明確になっていく。
これは歌舞伎だけのことではありません。美術でも岡倉天心のもと天平美術に回帰することで日本画の伝統を守るということになります。文楽でも「風」ということが言われるようになるのは明治後半( この概念が公にされた杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」が最初のことです)からのことで、それまでは楽屋内で密かに受け継がれていたものでした。このように守るべき基準を設定することで伝統芸術は自らのフォルムの崩れを防ごうとするわけです。そのような意識が歌舞伎のなかで明確になっていきます。
*九代目団十郎・五代目菊五郎を規範と仰ぎ・これをひたすら守ることで歌舞伎の存続を図るということが、九代目団十郎の死(1903)以後・百年間・ほぼ20世紀の歌舞伎の流れです。その重要な演劇 現象のひとつが二長町市村座です。ここから生まれたふたりの名優・六代目菊五郎と初代吉右衛門がその後の歌舞伎をひっぱっていくことになります。「型の概念の転換」及び「菊五郎の古典性」を参照ください。
*型の意味・その概念については「型の周辺」及び「古典劇における趣向と型」で考察をしましたので、そちらを参照。
*二長町市村座については「市村座という伝説」を参照。なおここで言う市村座は江戸三座のひとつの市村座とは別のもので、明治末から大正にかけて・興行師田村成義によって始められた劇場の名前です。
大事なことは九代目団十郎自身が「俺が歌舞伎の規範になるものを残す」などと考えたことは一度もないということです。九代目団十郎の「勧進帳」は演るたびにどこかが違っていたと言われています。九代目団十郎存命中は「型」というものはまだ動いていたのです。「型」が固定化し・規範となるのは九代目団十郎死後のことです。つまり、九代目団十郎を神格化することで・歌舞伎を守り抜こうとした 後輩たちがいたのです。
5)九代目団十郎の芸は明治前半期の「変革」の時代と密接に関連している。
九代目団十郎が巧い役者であったかどうか・ということは議論してもあまり意味はありません。例えば先輩には五代目彦三郎・四代目芝翫がおり、同時代には五代目菊五郎という・巧さでも人気でも勝るとも劣らない役者がおりました。しかし、世に「団十郎名人・菊五郎上手」という言葉がある通り、どれほど菊五郎が悔しがっても・菊五郎は世間の序列において団十郎を抜くことはついに出来なかったのです。これは確かなことです。逆に言えば歌舞伎における団十郎の突出した位置付けは、その技芸を越えたところで・時代との関連を見なければ十分に理解ができません。明治という時代を見据えた時、九代目団十郎の代表的な演目は次の三つです。すなわち「勧進帳」の弁慶、「熊谷陣屋」の熊谷直実、「忠臣蔵」の大星由良助です。
*「勧進帳」の弁慶については「身分問題から見た歌舞伎十八番・天覧歌舞伎」を参照。
*「熊谷陣屋」の熊谷直実については「団十郎の熊谷を想像する」を参照。*「忠臣蔵」の大星由良助については「忠臣蔵のもうひとつの見方」を参照。
九代目団十郎が心を砕いたのは文明開化の明治の世に(もはや時代遅れとも見える)封建主義のヒーローたちを如何に表現するかということです。九代目団十郎はその根拠を主人公たちの忠義に見出しました。つまり、彼らを「皇国君臣の鑑」として描いたということです。しかし、単にそれだけならば・上(為政者)からの押し付け臭がして・民衆の支持を 簡単に受けることはできなかったでしょう。時代の要請として・ 民衆から湧き上がるような形で演劇改良の気運が盛り上がっており、そして団十郎たち興行の側もそれが必要だと感じていたからそれに乗った・それがお上の要請にも合致したということです。九代目団十郎の芸が明治という時代と密接に関連しているのはそれゆえです。九代目団十郎の創始した「活歴」も・現代ではあまり上演されませんが、こうした明治の状況からその意義を考えなければなりません。
『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)
明治初期という時代は、民衆は江戸の封建社会から解き放たれて・「自由」を感じた・湧き上がるような「変革の時代」でありました。そういう時代の気分を表現するには団十郎の芸風が最もふさわしいもの であったのです。それが団十郎の「肚芸」と呼ばれる・言葉を少なくして・演技を簡潔にして・余韻を持たせる演技でした。
6)九代目団十郎の芸は六代目菊五郎への線において想像するしかない。
歌舞伎の歴史は(本人が意図したかどうかに関わらず)九代目団十郎に流れ込み・そこで集大成され・また九代目団十郎から発するかのように思われます。九代目団十郎は、哲学におけるカント・文学におけるゲーテ・音楽におけるバッハのような偉大な存在なのです。もちろん九代目団十郎によって切り捨てられたもの・取り上げられなかった要素ということも思いやる必要がありますが、それはまた別次元の問題です。それほどに 歌舞伎での九代目団十郎の存在は大きいのです。
それでは九代目団十郎の芸を如何にして想像するか・あるいは九代目団十郎の今日的な意味を如何にして見出すかということですが、その手掛かりは六代目菊五郎にあります。
「ですから不幸にして(六代目)菊五郎が五代目菊五郎の子であって、「魚屋宗五郎」や何かがはまって「熊谷」なんかができないで、これは不幸なんだが、もし菊五郎が「熊谷」や何かのできる人だったら団十郎になりますね。(中略)本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎しかいない。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っておりませんね、そう思いますがね。(中略)団十郎のもので今完全に残っていると思うものは一つもないって言っていいかも知れませんね、形だけは似てますが。』(遠藤為春聞書:「私の見た名優」:昭和32年「演劇界」連載)
*「菊五郎の古典性」と「古典性と様式性」では九代目団十郎の「肚芸」の息が、六代目菊五郎にどのように受け継がれたかを考えます。九代目団十郎の芸脈については 七代目幸四郎・五代目歌右衛門・十五代目羽左衛門などいくつかの線が引けますが、正しい形は九代目団十郎から六代目菊五郎への線で想像していくしかないのです。
(H19・8・17)