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超自我の幻想

平成18年(2006)7月・歌舞伎座:「海神別荘」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(公子)、五代目坂東玉三郎(美女)他


平成18年7月歌舞伎座は泉鏡花の戯曲4作一挙上演で・さながら玉三郎リサイタルの観がありますが、玉三郎は自らのサイトのなかで次のようにコメントしています。

『私が勝手に決めさせていただいております泉鏡花三部作というものは、「海神別荘」・「夜叉ヶ池」・「天守物語」と考えているのです、実は20年ほど前から、いずれは一つの劇場で全て上演したいと考えておりました。』(坂東玉三郎サイト・2006年6月のコメント)

なるほど玉三郎のご指摘の通り、「海神別荘」・「夜叉ヶ池」・「天守物語 」の三作品は妖怪あるいは妖精・海神という・この世に在らざる存在を主人公としており、これを人間界と対比することで筋を展開していく幻想的な作品で・まさに玉三郎好みの作品群なのでありましょう。そのなかで毛色が変っているのは「海神別荘」です。ここに登場する竜宮の公子(おうじ)は人間の感情を解そうとせず・最後まで人間界との接触を拒否しているからです。人間界との交錯のなかで劇が展開していく「夜叉ヶ池 」・「天守物語」とはそこが違います。

それにしても「海神別荘」の公子はまことに興味深い役柄です。公子と博士との問答のなかで、浄瑠璃のおさん茂兵衛の処刑引き回しの刑の場面が語られると・公子は嬉しそうに次のように言います。

「唯、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。馬に騎(の)った女は、殺されても恋が叶(かな)い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。」

さらに博士が八百屋お七の火あぶりの処刑の場面を語ると、公子は目を輝かせて次のように言います。

「それはお七という娘でしょう。私は大好きな女なんです。ご覧なさい。何処に当人が嘆き哀しみなどしたのですか。人に惜しまれ哀れがられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。何故それが刑罰なんだね。(中略)娘は幸福(しあわせ)ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼(か)の生命(せいめい)を飾ったのです。抜き身の槍の刑罰が馬の左右に、その誉れを輝かすと同一(おんなじ)に。」

この公子の台詞は耽美的であり・恋愛至上主義的でもあり、公子の台詞を借りて・浄瑠璃に描かれた封建道徳的な見方を鏡花が批判しているようにも見えます。そこに解釈の新鮮さがあると、まあ、そう考えても間違いではないと思いますが、そこのところもう少し考えてみたいと思います。哲学者スラヴォイ・ジジェクは次のように書いています。

『カントの哲学においては、美しいものと崇高なものと異形なものとは三つ組みを成す。三項の関係はボロメオの結び目の関係であり、二つの項が第三の項を介してつながっている。(注:三角関係をイメージして見ればよいでしょう。)美は異形が崇高になるのを可能にし、崇高は美と異形とを媒介する。それぞれの項を極端にするー完全に実現すると、隣のものに変化する、徹底して美しいものは、もはや単に美しいのではなく、崇高になる。同様に徹底して崇高なものはどこか異形になる。あるいは逆に言い方をすれば、崇高の要素がない美しい対象は、真に美しいものではないし、異形のきざしとなるような次元を欠く崇高なものは、真に崇高なのではなく、単に美しいだけである。』(スラヴォイ・ジジェク:「幻想の感染」・無意識の法・青土社)

ジジェクは「崇高の感覚は、自然の存在としては取るに足らない人間が、その精神的な次元においては無限の力を持つというズレから生じる」と書いています。その一例として・ジジェクは英国ヴィクトリア朝末期に実在した「エレファント・マン」という人物のことを挙げています。当時出版されたこの人物について書かれた本のタイトルは「人間の尊厳の研究」と言うのでした。まあ、そのことは置くとしまして、「美しいものと崇高なものと異形なものとは三つ組みを成す」という関係において、浄瑠璃におけるおさん茂兵衛・八百屋お七の処刑の場面の描写を見ますと、その場面は残酷さ無惨さを描写することで「異形」なのであり・人間の心情の真実を描写することで「崇高」なのであり・それゆえにひたすらに「美しい」のです。その感じ方にある種の奥行き(あるいは深さ)があると言えます。

これに対して・公子の見方はそこに徹底した「美しさ」しか見ていないのです。それゆえ公子の見ている美しさは異形のきざしも・崇高のきざしもなく、単にそれは表面的に美しいだけです。そのようにしか公子はおさん茂兵衛・八百屋お七の処刑の場面を見ておらず、ただ無邪気に喜んでいるだけです。つまり、ある面から見ると見方が薄っぺらだと言うことです。それどころか公子の見方にはどこか滑稽味あるいは奇矯さが感じられます。

そう考えますと、鏡花が公子の見方を借りて・「浄瑠璃に描かれた封建道徳的な見方を批判している」と考えることは決して出来ません。浄瑠璃の文句を聞いて無惨さと哀れを感じて涙する人間の見方に対して、それを揶揄 するような形で公子の見方が提示されているのですが・それは人間の見方と対峙できる実質のある見方では決してないのです。

別稿「鏡花の耽美主義について」でも触れましたが、戯曲「山吹」において も・歪んだ快楽に浸ることを理想の境地として鏡花が描いているのではありません。同じことが「海神別荘」にも言えます。おさん茂兵衛・八百屋お七の処刑の場面を公子が無邪気に喜んでいるのを見て、これが鏡花の耽美主義だと考えては誤解を生じます。

このことを踏まえて公子という存在を考えるなら、公子とは「ネバーランドのピーターパン」に他ならないのです。ピーターパンが子供のままの純真な心を保ち続けていると言うといかにも素晴らしいことのように聞こえるかも知れませんが、実はピ−ターパンは自我があるがままの(超自我の)状態で・精神の成長を止めてしまった妖精なのです。

公子が竜宮のなかで・人間界と同じように多くの侍従召使を従えて封建社会を作っているのは、竜宮が超自我の存在の集合体とするならちょっと有り得ないことですが、これはこのように考えれば良いと思います。竜宮は公子ひとりのために、侍従召使たちは公子に奉仕し・ 公子を楽しませるためにだけに存在しているのです。だから、公子が消え去れば竜宮も侍従たちもすべて消え失せてしまうでしょう。妖精界全体が公子という超自我の幻想の産物だと考えてもよろしいかも知れません。

公子をピーターパンとするなら、一方の美女は適齢期を迎えたウェンディです。だから、大人になってしまったウェンディ(美女)はピーターパン(公子)と話が噛み合いません。美女は故郷の親や浦の者たちにこの竜宮で自分が生きていることを知らせたいと言い だします。

「だって、貴方、人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。誰も知らない命は、生命(いのち)ではありません。この宝玉も、この指輪も、人が見ないでは、ちっとも価値(ねうち)がないのです。」

これを聞いた公子は眉を曇らせて「それはいかん、貴女は栄耀(えよう)が見せびらかしたいんだな」と言います。公子には美女の言うことが理解できないのです。公子は「宝玉を人間たちに施しても良い・しかし人知れずでなければ出来ない・自分の名前を出し姿を見せて施すことはならない 」と言います。美女は「それでは何にもならない・何の効(かい)もない」と言い張ります。そこで公子は美女に「貴女はもう人間ではなく・人間からは貴女の姿は蛇に見えるであろう」と秘密を打ち明けます。美女はなおもこれを認めようとしません。

この会話のなかで明らかであるのは、人間界で美しい感じるものと・妖精界で美しいと感じるものは異なる・その感受性の次元がまったく異なるということです。だから妖精界では美しい姿である美女も・人間からは蛇身と見えるのです。

このことから先ほどの浄瑠璃でのおさん茂兵衛・八百屋お七の処刑の場面についての公子の見方を読み直すと、公子の感じ方の奇矯さが理解できると思います。公子は血と残虐さと悲惨さに美しさを感じています。それは妖精界では無邪気な当たり前の感性なのですが、妖精の美しい姿が人間には蛇身と見えるように・人間からするとそれは感性が歪んでいるように見えるのです。耽美主義?それは人間界の尺度で公子の見方を無理やり解釈しようとするからそう見えるのです。

鏡花は冷静かつ正確に事象を読んでいます。例えば竜宮の女房が美女に対して「若様は悲しむのがお嫌いです。ここ(竜宮)は、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ」と言う場面です。ジェジェクは次のように書いています。

『授業に退屈している生徒のひとりがつまらなそうに窓の外を見ていると、教師がその生徒に、からかうように質問する。「校庭にそんなに面白いものがあるなら教えてくれないか」。この教師が無関心な生徒に質問することでおどろおどろしくなっているのは、まさにその質問が、昼日中、ふつうは隠されている「正常な」事態についての真実をあからさまに見せているところにある。享楽は直接の自然発生的な状態ではなく、超自我の命令によって維持されている。超自我命令の究極の内容は「楽しめ」なのである。もしかすると、超自我の逆説を見せる一番手っ取り早い方法は、「好きだろうと嫌いだろうと楽しめ」と言う命令かも知れない。日曜日のピクニックを挙行 しようとあれこれやって、何度か延期になり、うんざりしたあげく、子供たちに向かって「今度こそ楽しまないとひどいぞ」と言う、ありがちな父親というのを考えよう。休日に出かける時は「楽しまなくては」という強迫を感じることはごく普通のことである。「楽しまなければならない」。楽しまなければ罪悪感を感じてしまう。』(スラヴォイ・ジェジェク:「幻想の感染」・崇高から滑稽へ・青土社)

竜宮の公子は超自我の振る舞いをまことにそのように見せてくれます。美女は自分の姿が人間には蛇身と見えることを嘆 きます。紳士的に振舞っていた公子は突然怒りだし・形相を変えて・美女の処刑を命じます。「楽しまないとひどいぞ」と言うわけです。これは正確に言えば「楽しんでいるところを見せて俺を喜ばせないとひどいぞ」と言うことです。超自我はつねに独りよがりです。細君になるはずの美女さえ も公子を楽しませるために存在するに過ぎないということになります。

「何処まで疑う。(憤怒の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の眼だと言うに。俺の・・魔・・法。許さんぞ。女、悲しむ者は殺す。」

海老蔵の公子は前半の闊達な演技がピ−ターパンの無邪気な振る舞いにふさわしく・それも興味深いのですが、海老蔵の海老蔵たる魅力は公子が怒りだし・目を剥いて憤怒の形相に突然変化する場面に現われていま した。まさにそこにあるものがムクムクと変化して超自我の独善的な様相を剥き出しにする瞬間が見事に表現されていました。これこそ歌舞伎役者にしか表現できないものです。

玉三郎の美女は、錨に縛められて・刃を抜いた公子にまさに殺されようとする寸前の風情がさすがによろしいようです。被虐美・・これは人間界の感性であるとそう言うことになりますが、まさにそう呼びたいものがここにはあります。そうなると(変な言い方ですが)殺してくれないと被虐美は完成しないことになるわけですが、公子の感性ではそうではないのです。「ああ、貴女、私を殺す。・・・早く殺して。ああ、嬉しい」と美女がニッコリすると、美女が「楽しむ処・喜ぶ所・遊ぶ処」という竜宮の 方針を感得したことを認めて、あっさり殺すのを止めてしまいます。こうして公子と美女はめでたく結婚できることになります。公子は血を流し・殺すことに興味があるわけではないのです。単に楽しみ喜ぶことだけが公子という超自我的存在の命令であることが、ここでも分ります。

(博士)「(あの花は)竜胆(りんどう)と撫子(とこなつ)でございます。新夫人(にいおくさま)のお心が通いまして、折からの霜にひときわ色が冴えました。若様と奥様の血の俤でございます。」
(公子)「人間にそれが分るか。」
(博士)「心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。
(公子)「お前、私の悪意ある呪いでないのが知れたろう。」

吉之助には「海神別荘」はまるで演劇の形を取った心理学の教科書のようにさえ思われます。

(H18・7・25)

(参考文献)

泉鏡花:海神別荘―他二篇 (岩波文庫)

スラヴォイ・ジジェク:幻想の感染・松浦俊輔訳・青土社

(付記)「吉之助の雑談」での別稿「永遠のオモシロイ」もご参考にしてください。
 

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