吉之助の雑談10(平成18年7月ー12月)
○若手を観る楽しみ・その3
「初心忘るべからず」と言えば・もちろん世阿弥の言葉であります。入学式とか・人生の門出に必ず引き合いに出る名言ですが、そのせいか「初心」と言うと・何となく十代半ば頃の若者の初々しい志(こころざし)みたいなものを指すようについ思ってしまいます。しかし、「風姿花伝」を読みますと・世阿弥は二十四・五歳の頃のことを書いていて・「初心」とはこの年頃のことだと書いているのです。
どうして二十四・五歳の頃が「初心」なのか。それは世阿弥の役者としての体験から来ます。ご存知の通り、世阿弥は十二歳の時に観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に出演して、その時に室町将軍足利義満の目にとまり・その寵愛を受けます。しかし、成長して変声期に入ると世阿弥も人並みに苦労したようです。人に笑われたり・罵声を浴びたりして・役者をやめようかという経験もしたようです。二十四・五歳というのは、そういう地獄の時期を経て・声も体格も常態に定まってきて・役者の出発点に立つ時なのです。「初心忘るべからず」とはそうした世阿弥の地獄の体験のなかから出てきた言葉です。
歌舞伎役者でも十代半ば頃は中途半端で・ピッタリした役が付きにくい年頃でして、やはり二十五歳頃というのが役者としての出発点ということにな るのでしょう。先月(平成18年11月)演舞場での花形三人(海老蔵・菊之助・松緑)だけでなく・同年代の若手たちも同様ですが、それぞれ役者としての方向性を見出すべく・意欲的な活動を行っています。今の段階においては「ニンにあるかどうか」など考えずに・何でもチャレンジしてみることです。そうしたなかから「初心」を掴み取ればよろしいの だと思います。
(H18・12・18)
○若手を観る楽しみ・その2
名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが若き日のお話です。1940年、カラヤンがベルリン国立歌劇場でリヒャルト・シュトラウスの楽劇「エレクトラ」を初めて指揮することになって、その初日を作曲者が聴きに来ました。翌日、シュトラウスはカラヤンを昼食に招待し、その後、ピアノを弾きながらいくつかのアドバイスを与えてからこう言ったそうです。
「君はこの二ヶ月もの間、この作品の楽譜を勉強し・リハーサルし・指揮して、この作品とずっと暮らしてきたわけだ。もう何年もこの作品から離れている私よりも、この作品に通じているわけだ。多分君が正しいのだ。さあ、昨夜と同じようにしっかりと振りたまえ。」そう言った後、老シュトラウスはちょっと間を置いてウインクしてこう言いました。「いずれにせよ五年もしたら君も振り方が変わってくるさ。」
「素晴らしい老人の知恵です。」後にカラヤンはそのことを回想して、深い感謝を込めてこう語っています。若手に対するアドバイスはかくありたいものだと思います。
さて、先月(平成18年11月)の「勧進帳」での海老蔵の弁慶ですが、確かに表情が生(なま)に出るというところはあったようです。「まさしく主人を打擲、天罰そら恐ろしく・・・」と義経に謝る時はホントに打ちしおれておりましたし、この後、義経の平家追討の述懐での振りで弓を引く仕草の時には獲物を狙う目付きが実に真剣。まあ、こういうところはあまり表情を変えずにサラリと演技した方がよろしいのでしょうが、海老蔵はちょっと生でハッとしますねえ。しかし、こういうのは長所と裏腹なところがありまして、例えば海老蔵の弁慶は不動の見得や元禄見得などかどかどの決まりでの鋭い目付きが 忘れられていた「荒事の心」を感じさせるものでした。まさに「瘧(おこり)が落ちる」とはこの事かと思わせるような何かがある。「表情を生に出すな」などと言うアドバイスは返ってこうした海老蔵の長所を消すように思われます。
いくつかの劇評で・四天王の詰め寄りを弁慶が押さえる場面において「海老蔵が歯を剥いた・云々・・」と書いているのを読みましたが、あの場面ははやり立って富樫に歯向かおうとする四天王を止める弁慶の必死の気持ちが観客に伝わってくることが大事なのです。その必死の気持ちが出ているならば、目を剥こうが・歯を剥こうが別によろしいことと思います。吉之助はこういうことは一向気になりませんねえ。今の段階においては・まずは必死の思いを伝えることの方が肝要です。まあ、今は感じた通りに一生懸命勤めたまえ・あと五年か十年すれば海老蔵もやり方が変わって来るさ・と言うようなものです。それでいいのですよ。(この稿つづく)
(H18・12・14)
○若手を観る楽しみ・その1
先月(平成18年11月)ほんとに久しぶり・10年ぶりくらいで新橋演舞場へ行ってきました。海老蔵・菊之助・松緑らによる花形歌舞伎です。吉之助は彼ら三人の初舞台を見て いますから、思い返せば随分長いこと歌舞伎を見てるわけです。だからと言うわけでもないですが・彼ら若手の舞台を見ていると「お若いのによくそこまで覚えて・頑張ってるなあ」と言うような 感心した気分になることがあり、なんだか孫を見るご隠居の心境のようでもあります。まだそんな歳じゃないのだけどね。
いずれにせよ若手連中の芸がまだこれからなのは当然のことですから・これをベテラン役者の芸と同じ基準で論じるわけにはいきませんし、またあってはならぬことと思います。そこは長〜い目で見守ってやる必要があります。だから飛んでもない(間違った)方向へ芸が伸びていくならば注意する必要はありましょうが、まあ、一生懸命やっているのならばいいじゃないですか・という感じです。もっともこういう境地に至りましたのも、吉之助にしてもそう昔のことではありません。
『われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。10年たったら、この小さな唐檜(とうひ)が一本の木になるだろう、と。早くこの10年がたってくれたら!50年後にはこのシラカンバがどんなになるか、見たい。本物、いちばん肝心のものは、わたしたちの未来にある。新しい年を迎えるごとに高さと美しさが増していく。ありがたいことに、わたしたちはまた一年歳をとる。』(カレル・チャペック:「園芸家12ヶ月」)
チェコの作家カレル・チャペックのこの文章ほど正鵠を射ているものはありません。歌舞伎400年の歴史にあっては10年如きはアッと言う間のことです。若手を観る時の観劇家 はこの園芸家の心境みたいなものでありたいと思います。(この稿つづく)
(H18・12・10)
○古典性とバロック性・その5:音楽(聴覚)と舞台(視覚)の関係
「レ・パラダン(遍歴騎士)」(初演:1760年)はラモーが76歳の時の作品です。モーツアルトの「フィガロの結婚」は1786年初演でモーツアルト30歳 の時の作品です。時代としては四半世紀くらいしか離れていないわけですが、「レ・パラダン」は典型的なバロック・オペラのスタイルです。
バロック音楽と言うのは、例えば「パッヘルベルのカノン」を思い出していただければよろしいですが、最初の旋律が流れて・次にそれに対位法的に同じ旋律が引き出されて機械的に複雑化していく・この形式に象徴されるように、旋律自体に律動性・発展性があまりないように感じられます。 こういう形式が現代の我々には様式的・古典的に感じられるのです。このことは「歌舞伎素人講釈・別室」でお分かりの通り・吉之助が圧倒的にロマン派嗜好なので・見方が偏っているところがあ るせいですが、ロマン派の観点からすると・そう見えるわけです。
しかし、バロック・オペラの旋律は登場人物の気分に合わせて、嬉しい時は嬉しそうに・悲しい時は悲しそうに旋律が書かれていて、その意味では旋律はひたすら美しく・その表現は直截的です。部分々々の感情は音楽により極大化されていて、言い換えれば・部分々々が分裂してバラバラであるとも言えます。そこがまさにバロック的な要素です。その様式的な旋律のなかに閉じ込められた「心情」も思いやる必要があるでしょう。一方で当時のバロック・オペラの舞台面は文献的なもので想像するしかありませんが、今日の感覚から見れば様式的かつ簡素な舞台装置とパターン化された拙い感じの振りであったと 想像されます。舞台面が音楽のバロック性を緩和して・これによりバロック・オペラは全体の古典的な印象を保ったのであろうと推察できます。
ところが、現代においてバロック・オペラを上演する場合には、奇妙なことですが、今日的な感覚では音楽の方が様式的・古典的に感じられてしまいますから、逆に舞台面をバロック的に展開させないと、全体が活性化できないという現象が起きるわけです。恐らく当時の舞台をそのまま文献通りに再現して上演したとすると、現代人にはその舞台は退屈に感じられてしまう かも知れません。
シャトレ座の「レ・パラダン」上演でのヒップ・ポップやモダン・ダンスですが、そのダンスは登場人物の歌詞の内容とまったく関係のないような即興的なダンスですが、不思議とラモーの音楽に似合うのです。このことは バロック音楽が思想(コンテンツ)を持っていると言うよりは、気分(エモーション・もちろん心情と言ってもよろしい)であるということから来るのでしょう。モダン・ダンスがラモーの音楽が内包するバロック性を形象化させるのです。振り付けのドミニク・エルヴュによれば、ダンサーに対して歌の内容に沿って「恋の歓喜」とか「裏切り」と言うテーマを与え、音楽に合わせてダンサーに即興的に踊ってもらう ・それをベースにして調整を加えながら・振りを組み立てていったそうです。やはりそのキーポイントは「気分」なのです。
以上のモーツアルトとラモーのふたつの例でも分かるように、オペラに於ける音楽(聴覚)と舞台(視覚)の関係は必ずしも内容に則したパラレルなものではなく、 全体の活性化の為にアンビバレントな関係が必要な場合もあるのです。しかも、そういう場合に・思わぬ新鮮な発見があったりします。音楽(聴覚)と舞台(視覚)は時にお互いのバロック性を緩和して古典的に納めることもあり、時にはバロック性を引き立てもするわけです。これは非常に興味深い現象だと思います ね。
(H18・12・6)
○古典性とバロック性・その4:バロック的な要素
ご注意いただきたいのは、本稿で使用している「古典性・バロック性」という概念は 音楽史で一般的に使われる「バロック楽派、古典楽派」という分類と全く異なると言うことです。これは「歌舞伎素人講釈」で提唱している「心情からのバロック論」での概念です 。吉之助は、フォルムを古典性とバロック性との間の揺れ動きのなかで考えています。
フォルム的にはバロック的な要素は、古典性の持つ形式感・安定感を破壊する衝動として働きます。モーツアルトの場合には、それはひとつには音符の多さなどに現われる「過剰性」です。しかし、モーツアルトは「音楽はどんな場合でも美しくなければな りません」と手紙に書いています。モーツアルトの過剰性は、ある面から見れば・抑制の利いた古典的形式美のなかに収められています。ここが大事なところですが、古典性・バロック性と言うものは相対的な感覚でして、ひとつの尺度を以って「この作品は古典度2・この作品はバロック度3」などと計るものではないのです。見方によって、 同じ作品が古典的にも・バロック的にも見えてくるわけです。
ところで、本年11月にパリ・シャトレ座来日公演で、ラモーのオペラ・バレ「レ・パラダン(遍歴騎士)」(1760年初演)が上演されまして話題となりました。ウィリアム・クリスティ指揮のレザール・フロリサンと歌手たちによる演奏 と歌唱も見事なもので したが、ステージ上で繰り広げられる現代的・かつリズミカルなヒップ・ポップ・ダンスと、ステージ背後の巨大なスクリーンに映し出されるCG(コンピュータ・グラフィックス)による動物や人間とのコラボレーションで、ファンタスティックでエレガントなバロック空間を現出させました。(これは言葉で表現するより 見るに如かずですので、このサイトに動画があります から・その魅力を是非ご覧下さい。)「オペラ・ファンタスティーク」というのがこの公演の宣伝文句で す。(注:「オペラ・バレ」とはフランスで発達したバレエを中心とした音楽劇の形態で、フランス風オペラとも言います。)
舞台を見ると分りますが、ラモーが生きていた時代のロココ趣味のフランス宮廷風俗と全然異なる現代的な風俗衣装、ヒップ・ポップ・ダンスなどが舞台上で何とも興味深い調和を生んでいます。どうしてこんなにピッタリ合うのか。これはラモーの音楽とのキッチュな対照が生み出す面白さであるとも言えますが、見方を変えますとラモーの音楽が内包 するバロック的な要素を演出振り付け(ジョゼ・モンタルヴォ/ドミニク・エルヴュによる)が視覚的に形象化していると見ることもできるのです。(この稿つづく)
(H18・12・2)
○古典性とバロック性・その3:そのバロック性
モーツアルトの「過剰性」とは音符が多いということではありません。音符が多いのは表面に現われた現象であって、過剰性とはその音楽の内面に隠れている感情のことです。モーツアルトは革命前の時代(アンシャンレジーム期)に生き ながら、迫り来る革命の息吹きを敏感に感じ取っていました。そこから湧き出る熱さがモーツアルトの音楽を過剰にしているのです。
「フィガロ」について言えば・原作はボーマルシェの戯曲ですが・その反体制的な内容から各国で上演禁止になっていたものでした。これをオペラ化しようと言うアイデア自体が不穏極まることです。当然「フィガロ」のオペラ化は危惧されました。「フィガロ」の上演許可を取るためにダ・ポンテがオーストリア王室にどれだけ奔走工作したかは彼の手記に詳しく 記されています。原作から反体制的な・不埒な要素を抜き取り・他愛ないラブ・コメデイに仕立てましたと言うのが、ダ・ポンテの言い分です。しかし、それは表向きのこと。実はモーツアルトの音楽の過剰さのなかに迫り来る革命の熱さが沸々と感じられる のです。フランス革命勃発(バスティーユ陥落)は1798年のこと、つまり、「フィガロ」初演から12年後のことです。
もちろんモーツアルトは旧体制(アンシャンレジーム)期の作曲家です。モーツアルトは1791年に亡くなるわけですから・革命思想の直接的な洗礼は受けていません。そこが後進のベートーヴェンとは決定的に違うところです。モーツアルトを新体制の作曲家と言うわけには行きません。むしろモーツアルトは音楽のフォルムとしては当時の古典的なスタイルを踏襲しています。モーツアルトのオペラの登場人物たちも類型的に留まっていて・人格の複雑さという点ではまだ 平面的と言うところがあります。それでもその音楽を聴けば・そこに形式の蓋を底から押し上げようとする力が確かに働いているようです。それが例えばモーツアルトの「過剰性」・音符の多さになって現われているのです。
現代のオペラハウスで恒常的に上演されるレパートリーを見ますと、そこにはっきりとひとつの区切りがあることが分ります。現在のオペラの主要なレパートリーは概ねモーツアルト以降です。もちろんそれ以前の作品も上演されますが、いわゆる定番ではないのです。オペラはモーツアルト以前と以後にはっきり分かれます。このことは 歴史的に言えば・フランス革命がヨーロッパ史に及ぼした影響に起因するわけですが、現象的にはモーツアルトがその境界線上にまたがった形で立つわけです。これを発展させる形で新体制の思想を明確な形で主張することになるのがベートーヴェンであることは言うまでもありません。
「フィガロの結婚」フィナーレの合唱のことに戻りますと、この部分はフォルム的には旧体制好みのロココ的な優雅さを持ちながら・ 古典的な形式を踏まえています。しかし、音楽の内面から見ますと・そこに登場人物たちの生き生きと弾ける生(なま)な心情がその音楽の「過剰性・バロック性」から見て取れるのです。それがめまぐるしく駆け回る音階とリズムになって現われています。それがポネルがあちこち駆け回る恋人たちの映像によって表現したもの なのです。(この稿つづく)
(H18・11・26)
○古典性とバロック性・その2:その過剰性
「フィガロの結婚」のフィナーレの合唱の歌詞は、当時のオペラの幕切れのお定まりのパターンを踏まえたものです。ハッピーエンドですべて が丸く収まる・典型的な古典的な幕切れだと言えます。そう考えると・舞台で恋人たちがそれぞれ手を取り合って・一列に並んで歌う幕切れは、古典性を表現するにふさわしいものだと言えるでしょう。そのどこにギャップがあるのかと思うかも知れません。
しかし、ポネル演出の映像はモーツアルトの音楽に潜む「過剰性」を気付かせてくれました。その「過剰性」とは、モーツアルトが音楽のなかに盛り込もうとしたところの・何かしら激しいもののことです。それがめまぐるしく駆け回る音階とリズムになって現われているのです。そこには何かしら古典性とは異なるバロック的な感覚があり ます。それをポネルはあちこちを駆け回る恋人たちの姿で表現しました。この感覚を基準にして見ると、恋人たちがそれぞれ手を取り合って・一列に並んで歌う古典的な幕切れは無難ではあるけれど・視覚的に何かしら重くて面白くない舞台面 のようにも感じられるのです。そう考えると感覚的な違いが多少お分かりいただけるでしょうが、それでもまだ「ギャップ」という言葉を使うほどの違いがあるのかともお思いでしょう。そこのところをもう少し考えて見ます。
ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」では・「後宮よりの逃走」初演(1782年・ウィーン)を聴いた皇帝フランツ・ヨゼフがモーツアルトにこう言う場面がありました。「このオペラは良い。なかなか良いぞ。しかし、このオペラは音符が多すぎる。人間が一日に耳に入れることが出来る音符の数には限界がある。モーツアルト、このことを覚えておくように。」と皇帝は言うのです。モーツアルトはこれを聞いて口をあんぐり、というわけです。笑える場面であります。
上記は戯曲の話ですが、しかし、皇帝がそれに近い感想を漏らしたのは事実のようです。モーツアルトの音楽は音符が多過ぎるというのは、当時も良く言われていたことでした。まして「フィガロ」のフィナーレはまさに音符が駆け回っています。モーツアルトの音楽の「過剰性」、それは王侯貴族たち・つまり当時の音楽の庇護者たちを何となく苛立たせ・落ち着かなくさせるものがあったのかも知れません。皇帝もそれを感じたに違いありません。結局、その音楽の過剰性が天才モーツアルトの音楽家としての生活を不安定なものにして(モーツアルトは王侯貴族たちの庇護を十分に得られなかったために貧乏した のです)・これが若くして彼が亡くなる遠因にもなったのです。(この稿つづく)
(H18・11・21)
○古典性とバロック性・その1:「フィガロの結婚」の幕切れのこと
先日(平成18年11月4日)の公開講座で・古典劇の「許しの構図」の理解のためにモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」の最後の場面をご覧いただきました。「許しの構図」については別の機会に触れることにし まして、 本稿ではこれに関連した別件について記します。歌劇「フィガロの結婚」はアルマヴィーヴァ伯爵が夫人に謝って・騒動も納まり・めでたしめでたしで幕となるのですが、最終曲は一転してプレスト(早いテンポ)で 軽快に締められます。主要な登場人物が全員で揃って歌う歌詞は次のようなものです。
『苦しみと気紛れと、狂気のこの日を、ただ愛だけが満足と陽気さで、終わらせることができるのだ。花嫁花婿よ、友人たちよ、さあ踊りに行こう、楽しく過ごそう。爆竹に火をつけよう。楽しい行進曲に合わせて、みんなでお祝いをしに行こう。』
この場面ですが、公開講座でお見せする映像を選ぶために・何種類か手持ちのビデオを見比べたのですが、最終的にジャン・ピエール・ポネル演出のユニテル映画版(カール・ベーム指揮ウィーン・フィル・1975年製作)の映像を選びました。このポネル演出は楽譜を実に深く読み込んだ演出で すが・映画版ですから生の舞台ではとても実現できない工夫があります。例えば内心の心情を切々と吐露するような歌詞では歌手が口を閉じたままでも歌が朗々と響きます。つまり歌がアフレコなので、口を開けて歌う必要がないのです。これなどまさに映画ならではの演出です。
ポネル演出は特に最終場面が印象に残るものでした。最後の合唱場面で登場人物たちが一斉にパッと四方に散って・あちこちらを駆け回ります。ある者は恋人を追い駆けたり・ある者はそれを笑ってみたり・ある者は 思わぬ人とばったり出会ってアラうっかり・・であったりします。こうして楽しい笑いの渦のなかでオペラは幕になるわけです。これはダ・ポンテの歌詞にもよく合 っていますし・モーツアルトの躍動する音楽に人物の動きがぴったりです。登場人物が生き生きと跳ね回るようです。ポネルの映像はよく モーツアルトの音楽を読んでいるなあとつくづく感心してしまいます。
ところが、吉之助の手持ちの他の「フィガロ」の舞台ライヴ版のビデオでは・そこのところが違っていました。舞台ライヴ版ではどの映像もカップルたちがそれぞれに手を取り合って・舞台に横一列に並び・じっと立って歌を歌ったままで幕になるのです。これは考えて見れば当然のことで、歌手たちがめまぐるしくバタバタ走り回りながらでは・フィナーレの早いパッセージはとても歌えない し・これでは歌がよく聴こえないと言うことです。だから歌手たちはじっと立って歌を歌うわけです。しかし、ポネルの映画版の素晴らしい映像を知ってしまいますと 、これら舞台ライヴ版の映像はモーツアルトの音楽の表現する生き生きした感覚と・舞台面の人物たちがじっと静止して重たい感覚に何だかギャップを感じてしまうのです。この点が古典性とバロック性を考える材料になると思いました。 (この稿つづく)
(H18・11・18)
クラシック音楽のNAXOSレーベルから日本作曲家選集というシリーズが出ていまして・このほど山田耕作の長唄交響曲・その他の作品を収めたCDが出ました。別稿「音楽と言葉」において、明治の作曲家・山田耕作の日本語による歌曲あるいは歌劇の取り組みについて触れました。以来、長唄交響曲を聴いて見たいと思いつつ・機会果たせずに いましたが、今回やっとその響きを耳にした次第です。
NAXOS:8・557971J 山田耕作:長唄交響曲「鶴亀」、交響曲「明治頌歌」、舞踊交響曲「マグダラのマリア」。湯浅卓雄指揮・東京都交響楽団ほか*CDには片山杜秀氏のとても詳しい解説が添付されており・これは非常に参考になります。
この長唄交響曲(昭和9年・1934)ですが、山田耕作が長唄まで作曲したわけではなくて、長唄は嘉永4年(1851)に十代目杵屋六左衛門作曲の名曲「鶴亀」を そっくりそのまま使って、これに対位法的に共演するハープを伴う2管編成管弦楽のための音楽を付加したというものです。この発想にまず吃驚させられますが、聴いて見ると管弦楽が長唄に付いたり離れたりしながら・くねくねと音楽が展開して行く感じです。残念ながら・録音は長唄が前に出 過ぎて・管弦楽がちょっと引っ込み気味の感じですが、管弦楽だけを注意して聴くと・旋律の展開は飛んでいる感じで・ちょっとした現代音楽の先取りという感じもします。明治の先達の挑戦を非常に面白く聴きました。
興味深いのは、片山氏の解説によれば・山田耕作は「長唄においては三味線が常に定旋律を形成し、唄はその定旋律に対して自由に流転する対位的旋律を形作っている」と見なし、三味線の旋律から管弦楽を発想して行ったと言うことです。これは長唄は唄が主旋律で・三味線は伴奏であるという一般的 見解とは全く異なる見解ですが、三味線が渡来楽器としてのギターから発した楽器であると言う武智鉄二説などをご存知ならば・なるほど長唄の西洋音楽との接点を見るならば・それは旋律楽器である三味線であ ろうと言うのは道理だと思えます。したがって、三味線から管弦楽を構築していくのは・目から鱗が落ちるような発想だと思いました。だから山田耕作の音楽を長唄の唄の方で合わせて聴きますと「訳が分らなくて・気持ち悪い」という感想にもなるのでしょうが、三味線 のリズムから合わせて聴くと・これは管弦楽が三味線の周囲をうねりながら展開している感覚になります。管弦楽がとてもスリリングな動きを見せます。
「長唄の旋律は流動するものである。それはあたかも河の水の如くである。三味線は河床である。この河床に沿って唄の旋律は時に広くときに狭く、時に緩やかにあるいは急に、あたかも水の自由な流れそ のものに美しく流れ去るのである。」と山田耕作は言ったそうです。これも日本の伝統音楽を研究し尽くした音楽家ならではの見解です。「長唄の旋律は流動するものである」という見解はまさにその通りだと思います。そのような流れのなかにも河床はあるはずです。機会があれば是非この録音を聴いて見てください。
(H18・11・13)
○音楽・演劇における基調のテンポ・その2
ダルベルト氏がお手本としてさらって見せた断片の演奏で感心したのは、その断片だけを聴いても・それが全体のなかのひとつの一片(ピース)であることが明確に感じられることです。断片それぞれがひとつの線につながっていて、その位置に断片をはめ込めば全体にピッタリ納まるという感覚があります。つまり、全体の構成がはっきり見えていて・その確信に揺るぎがないということです。こういう感覚があるのは、曲の基調に あるテンポがはっきり意識されているということに他なりません。だから、ある曲想においてテンポを変えたとしても・以前のテンポに移った時に「戻った」という感覚があるわけです。
ここで音楽における基調のテンポについて考えてみます。このことは大脳生理学的に裏づけされます。 例えば階段と言うと・普通は同じ高さの段差が続くものですが、実験で・ある段だけ例外的に何センチか高くする・あるいは低くするという細工をするとします。大抵の被験者がこの階段を上りますと・注意して足元を見ているつもりでも、蹴躓(けつまづ)くか・あるいは空脚(からあし)を踏んで転びます。これはどう言う理由であるかと言うと、大脳が階段の段差を最初の何段かで感知して・次の段はこの高さで続くという予測を無意識のうちにしているということです。だから、目で階段を注意して追っているつもり でも(つまり意識では分っていても)・大脳の予測(無意識の予測)と食い違うので・身体がうまく反応しないと言うことだそうです。
音楽のリズムでも同じことが言えます。音楽をしばらく聴いて・大脳はその音楽の基調になるリズムを感知し・次のリズムの打ちを無意識に予測しているのです。この大脳の予測に実際の演奏のリズムがピッタリはまれば・リズムは心地良く感じられます。しかし、ここで実際の演奏のリズムが突然リタルダンド(遅くなる)・あるいはアッチェレランド(早くなる)しますと、大脳の予測とこれが違ってきますから、この 差異が不思議な心理的効果を生み出します。たとえばグッと深い情感に連れて行かれる 感覚がしたり、急きたてられて興奮に煽られる感覚が起きたりします。このような現象を効果的に聴き手に引き起こすためには、音楽の基調になるテンポを しっかりと聴き手の大脳に植えつけることです。
基調のテンポと言うことは構成が比較的単純な小曲であるとその効果はさほど明確に見えませんが、ソナタあるいは交響曲のような形式を大事にする作品においては基調のテンポを意識することは非常に重要なことになります。基調のテンポとは作品全体を貫くひとつの大きなテンポです。音楽の場合はそのひとつのテンポを見出すことが大事 です。それは作品構造のバランスに関わる問題であることだからです。
基調になるテンポがしっかり見出されてる演奏はがっちりした古典的な印象を受けますが、あまりそれが強過ぎると枠にはめられた窮屈な感じになることもあります。がっちりした印象 をあまり強く出さない演奏では呼吸が自由に感じられる利点もありますが・失敗すると構成が弱くダラダラした感じになります。そこの兼ね合いが難しいところです。ダルベルト先生はリストのロ短調ソナタのレッスンの最後で「この曲は幻想曲のようにも取れますが・リストはソナタとして書いたのです・そのことを忘れてはなりません」と言っていました。このことは重要なことで、形式感のある曲を解釈する場合には構成を意識しながら・全体に枠をはめて行くようなことをしていく 方がうまく行くようです。ダルベルト先生の模範演奏はそのことをよく教えてくれる演奏であったと思います。
一般的には構成ががっちりした曲ではリズムを自由に持つことに意識を持つ方がとうまく行く場合が多く、逆に構成が弱い曲の場合は基調のリズムをより強く意識する必要があるようです。組曲形式の作品・例えばシューマンの「謝肉祭」のように・小曲の断片が寄り集まって・モザイクのように大きなひとつの絵が現われるような作品においても基調のリズムを意識することが必要になります。しかし、全体から枠を強引にはめて掛かると自由度が損なわれてしまいます。そこが難しいところですが、これは前曲との関係(バランス)によって生まれてくるものでしょう。
別稿「芝居のバランスを考える」において、お芝居のバランスのことを考えましたが、 大脳理論についてはまったく同じことが言えると思います。クラシック音楽を聴くことはバランス感覚の習得にとても役立つので・吉之助としては是非音楽を聴くことをお薦めしたいと ころです。(この稿終わり)
(H18・11・9)
NHK教育テレビで放送の「スーパー・ピアノ・レッスン」が面白くて・毎回見ています。10月はドイツ・ロマン派やフランス近代楽派を得意にするピアニスト・ミッシェル・ダルベルト氏によるリストのピアノ・ソナタロ短調のレッスンでした。とても充実したレッスンで、ピアノを専門に勉強する音楽学生だけでなく・一般の音楽ファンにもとても役に立つ番組に仕上がっています。(なお11月は同じくダルベルト氏によるシューマンの「謝肉祭」で・これは吉之助の大好きな曲なので・これも楽しみです。)
リストのロ短調ソナタは技巧的に難しいということもさることながら、曲想がバラエティに富み・構成が非常に難解です。曲は四つの楽章から成りますが、楽章は切れ目なく演奏され・全体でひとつのソナタ形式を成すと考えても良いわけです。ソナタ形式を逸脱したところの・幻想曲(ファンタジー)としてもう少し自由な形式として解釈することも可能ですが、リストがあくまでこの曲を「ソナタ」としたことは重視せねばなりません。 この作品はとにかく統一感を持つ演奏をすることが至難で、うかうかするとバラバラの印象を与えかねません。
生徒のフランソワ君は優秀な学生ですが、ダルベルト先生はなかなか鋭い指摘をしますね。ダルベルト先生がお手本で生徒と同じ部分をさらってみせると・その演奏がまるで見違えるような骨格の明確な音楽で・音のひとつひとつの陰影がはっきりした立体的な響きなのです。これはフランソワ君が下手ということではないのです。ただフランソワ君は曲想の変化を気分で・色合いの変化として捉えようとする傾向があるようで (ペダルを使い過ぎのような気もします)、局面は見ているのですが・曲全体を見通す一貫した筋のようなものが若干弱いようです。言い換えるとスクリーンに映る映像のような感じで・実体が乏しいように聴こえるわけです。 しかし、レッスン聴いてますと第4回目辺りからフランソワ君の演奏が変ってきて・音楽がしっかりしてきたのがはっきりと分かって・ダルベルト先生も嬉しそうでしたね。
ダルベルト先生が頻繁に指摘したのはテンポの問題です。「なぜ君はそうしばしばテンポを変えるのかね」、「どうしてこの旋律をふたつのテンポで弾くのですか」という具合です。曲の中間部をレッスンしていた時に、ダルベルト先生が突然「曲の最初の部分を弾いてごらん」と言いました。フランソワ君が弾いて見せると「冒頭部の指定はレント・アッサイ(非常に遅く)ですね。中間部のこの部分の指定はクワジ・アダージョ(アダージョに近い速さで)ですよ。それが君のテンポでは大体同じなんですか。」 この指摘にはフランソワ君もギャフンでしたね。つまり、細部の構築にこだわっているうちに、建築で言えば・気がつけば主柱が曲がってついていたというようなものです。
特に重要なのは左手の使い方であったかも知れません。通常は右手が主旋律を受け持ち、左手はその伴奏と言うか・基調になるリズムなど音楽の骨格の役割を受け持ちます。ダルベルト先生が弾くと、旋律の対位法的構造がはっきりわかって・主旋律の線が浮き上がって来て・音楽に立体感が生まれてきます。基調になるテンポが常に意識されているので、ある部分でリズムが微妙 に変化しますと・空間が一瞬ふっと揺らめくように感じられます。つまり、リズムの変化の妙が際立つのです。(注:音楽でテンポあるいはリズムと言う時はほぼ同じことを指していると考えて良ろしいです。ただテンポと言う時は速度を意識し、リズムと言うと刻みを意識するという違いがあるかも知れません。)(この稿つづく)
(H18・11・6)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その9:鳴り響く気分
『あらゆる劇的シチュエーションと同じく、音楽的シチュエーションも同時的なものを持つが、力の働きは一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象は、ともに鳴り響くものを共に聴くということによって生じる統一である。劇が反省しつくされていればいるほど、ますます気分は明白に行動(ハンド リング)として現われる。行動(ハンドリング)が少なければ少ないほど、ますます叙情詩的契機が有力になる。このことはオペラにおいてはまったく当を得ている。オペラは性格描写や行動のなかにはあまりその内在的な目的をおいてはいないが、それはオペラがあまり充分に反省的でないからである。それに反してオペラのなかでは、反省されない実態的な情熱が表現される。音楽的シチュエーションは、分離した声の多数における気分の統一に存する。音楽が声の多数を気分の統一のなかに保ちうるということこそは、まさしく音楽の特異な点である。」(キルケゴール:「あれかこれか」)
ここでキルケゴールは演劇とオペラのシチュエーションの対比を行っています。一般的に西洋近代演劇でのシチュエーションは作品の主人公に集中し・他の登場人物は主人公との関係において相対的な位置を占め るものです。言い換えれば、主題が明確になればなるほど・副人物たちはそのなかで相対的な絶対性を持つようになります。逆に演劇が気分に支配される要素が強い 場合には、そのような劇は主題が明確でないという印象になります。これは近代演劇においては欠点になるのですが、オペラにおいてはそうではないとキルケゴールは言 っています。だからオペラにおける登場人物は徹底的に反省されている必要はないともキルケゴールは言っています。この意味において歌舞伎の劇的シチュエーションはオペラのそれに近いものであることが理解できると思います。 歌舞伎においても登場人物は徹底的に反省される必要はないのです。
オペラの登場人物はそれぞれ勝手に振舞っているように見えますが、実はそれらはすべてひとつの「鳴り響く気分」によって支配されています。それは「一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象はともに鳴り響くものを共に聴くということによって生じる統一」 なのです。オペラの音楽の内的気分の統一は幕切れ・つまり最後の協和音による終結において果たされます。歌劇「ドン・ジョヴァン二」が古典的な構図を持つのはそれ故 なのです。逆に言いますと、終結を果たすためにオペラは幕切れに古典的な構図を求めるのです。
「ドン・ジョヴァン二」という同時代オペラ(それは非常にラジカルな試みでありました)は無事に終結を迎えるために・もう一度ドン・ジョヴァン二芝居の原型を回顧する必要がありました。ダ・ポンテはゴルドーニの先行作の幕切れを振り返り、リフレイン(繰り返し)をしているのです。そこで繰り返される古い歌はもはや同じ歌ではあり得ないのですが。
『そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!』
「四谷怪談」幕切れにおける佐藤与茂七の討ち入り装束・繰り返される「仮名手本忠臣蔵」の古い歌もまさに同じ意味を持つのです。鶴屋南北は「四谷怪談」の同時代劇に古典的構図を持たせるために・古い歌をリフレインしているのです。「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の討ち入りという江戸の同時代の出来事を室町時代の架空の出来事として劇化したものでした。だから「忠臣蔵」は 伊右衛門にとっての古い歌なのです。伊右衛門はそこから発し・そこから逃げ出し・そして再びそれに取り込まれます。
ここで大事なことは、古典的構図を得るために幕切れは協和音で終結しなければならないということです。幕切れの協和音とはすなわち、すべてを「然り」と変えるものです。協和音は根本的に肯定を意味するものです。「四谷怪談」の世界が「忠臣蔵」の世界と対立し・これを否定 しようとするものではないことが、大詰「蛇山庵室」幕切れの古典性において理解できると思います。 「四谷怪談」幕切れはすべてを「然り」と受け入れて・「鳴り響く気分」の統一によって締められるのです。(この稿終わり)
(H18・11・3)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その8:アイロニーとしてのお岩
「四谷怪談」において伊右衛門を討つのが封建社会の論理であるという見方があります。これは必ずしも間違いとは言えませんが、もう少し分析が必要です。 伊右衛門を討つのは奉行所のお役人のような・お上の権威の直接的な執行者でないのです。伊右衛門を討つのは、四十七士のひとりである佐藤与茂七です。四十七士はもちろん武士ですが、正確には禄を離れた元武士(浪人)です。つまり、四十七士は封建社会の側の執行者ではないのです。しかし、彼らは正義の観念は正しく持っている人間であって・「まともな武士」であるということが言えます。「忠臣蔵」の四十七士は江戸の世にあっては武士の鑑であったということを忘れてはなりません。
つまり、伊右衛門を討つのは「体制」ではなく・「まともな武士」だということです。言い換えれば「真人間・道徳的に正しい人間」と言っても良いと思います。だから、与茂七が伊右衛門を討つ「四谷怪談」の大団円が倫理的な意味合いを帯びるのです。四十七士が守護する「忠臣蔵」の世界が「四谷怪談」を包み込むことになります。これが「四谷怪談」の大団円の意味です。
キルケゴールが「このオペラが決定づけている方向はすぐれて道徳的であり、このオペラがもたらす印象はと言えばすぐれて善的なのである」と言うことは、「四谷怪談」にもそのまま当てはまります。 その幕切れを見れば「四谷怪談」 もまた道徳的であり・善的であると言うことができます。このことは「忠臣蔵」に絡め取られる時代物としての大団円から引き出されてくるものです。そこに南北の健康な批判精神が見えてきます。さらにキルケゴールの「ドン・ジョヴァン二像」を見ていきます。
『オペラの登場人物はキャラクターとして見通されるほど反省されている必要はない。したがって、当然、オペラにおいてはシチュエーションは完全に発展されたり、展開されたりはできないということになる。同じことが行為(ハンドリング)にもあてはまる。厳密な意味で行為(ハンドリング)と言われるものは、意識と結びついてある目的に向かう行動のことであるが、これは音楽の表現能力の手の届かないところのものだ。そしてオペラにあるのは、いわば直接的行為のみである。「ドン・ジォヴァン二」では、この両者が該当する。行為が直接的行為そのものなのである。私はここで、ドン・ファンがいかなる意味で誘惑者であるか、ということを思い出す。また、行為が直接的行為であると言う・そのことが反映して、この作品ではアイロニーが極めて大きい役割を果たすことになる。なぜなら、アイロニーは直接的な生の鞭・懲らしめであり、また常にそうなのだ。一例を挙げてみると、騎士長の登場はすさまじいアイロニーである。ドン・ファンはあらゆる妨害に打ち勝つ。が、人は亡霊を殺すことはできない。シチュエーションは徹底して気分によって運ばれる。』(キルケゴール:「あれかこれか」)
ここでキルケゴールは「ハンドリングHandling」という言葉を使っています。「ハンドリング」については別稿「近松心中論」で引用したように・ワーグナーも同じ言葉を使っています。なお、キルケゴールの「あれかこれか」は1843年の出版で して・ワーグナーが初めてこの言葉を使用した1859年より早いもので、これはワーグナーの影響を受けたものではないことが明らかです。また研究者に拠ればワーグナーがキルケゴール の本を読んだ形跡はないそうです。したがって、ふたりがそれぞれ独自の思索から「ハンドリング」という概念にたどり着いているわけです。
「ハンドリング」について、キルケゴールは「直接的な行動・行為」としており・ワーグナーは「劇(ドラマ)における内的な移行手法」のことを言っています。その共通 したコア・イメージは「たゆまなく浮遊し・揺れる状態」ということです。つまり、存在そのもの・生き方そのものが揺れているということです。キルケゴールはそこにドン・ジョヴァン二の軽やかさを見ているわけです。
伊右衛門のイメージは絶えずユラユラと浮遊しています。ある時は極悪人のようでもあり・ふてぶてしく・虚無的でもあり、ある時は情けない小心者のようでもあります。そしてある時は伊藤家が婿に迎えようとするくらいだから立派な男にも見えたのでありましょう。お岩も一度は惚れた男です。また伊右衛門はある時はお岩を愛し・慕い ・ある時は邪険に毛嫌し、またある時は怖れて逃げ回るのです。伊右衛門の行動は一貫性・持続性がなくて、実に「軽い」のです。恐らく伊右衛門なりにその時々の真情があるのだろうと思います 。しかし、そのことは他人には分かりません。このような分裂した様相がある意味で現代的にも思えます。このような伊右衛門の生き方そのものを懲らしめる存在(アイロニー)としてお岩の怨霊があるのです。
騎士長「悔い改めるのだ、生活を変えるのだ、最後の時なのだ。」ドン「いやだ、いやだ、わしは悔い改めはせぬ、わしから離れてくれ。」騎士長「悔い改めるのだ、悪党め」ドン「いやだ、頑固な老いぼれめ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ!」(第2幕第15場)
お岩の怨霊は伊右衛門の裏切りを責めているのではなく、もっと深いところで・伊右衛門と言う存在に対するアイロニーなのです。 伊右衛門はお岩を裏切ったのではなく・つまり「選択」をしたのではなく・単に放り出して逃げただけなのかも知れません。ここにおいて「四谷怪談」の時代物としての幕切れの意味が見えてきます。 (この稿つづく)
(H18・10・31)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その7:軽やかな伊右衛門
軽やかなドン・ジョヴァン二の理論的先駆けとなったのがキルケゴールです。キルケゴールは著書「あれかこれか」のなかでドン・ジョヴァン二論を展開し、当時一般的であった「魂の救済を求めて苦悩するドン・ジョヴァン二」の重苦しいイメージを取り払い、絶え間ない浮遊状態にあり・軽やかに誘惑するドン・ジョヴァン二像を作り上げました。
『モーツアルトの「ドン・ファン」は非道徳的だとよく言われる。だが今や正しく理解すると、それは賞賛でこそあれ、非難を意味するものではない。このオペラでは誘惑者について単に語られているだけではない。そこに誘惑者がいるのだ。そして、音楽が個々においてしばしば十分な誘惑的な効果を発揮していることも議論の余地がない。(中略)このオペラが決定づけている方向はすぐれて道徳的であり、このオペラがもたらす印象はと言 えばすぐれて善的なのである。と言うのも、すべてに偉大さが浸透しており、あらゆる情熱、喜びと厳粛、享楽と憤激、これらが作為のない・真のパトスとなってあふれ出ているからである。』(キルケゴール:「あれかこれか」)
本稿をここまで読めば吉之助の意図は大体お分かりかと思いますが、吉之助は伊右衛門の色悪的イメージの解体を試みたいと思うのです。色悪の伊右衛門は明治期の南北解釈から一歩も発展していないように思われます。伊右衛門から色悪の重さを取り払いたいと思うのです。
もちろんドン・ジョヴァン二と伊右衛門はそれぞれ異なった性格を持っています。また作品が描いている状況もまたそれぞれ異なります。しかし、ドン・ジョヴァン二をデモーニッシュな性格に読み込もうとする感性と・伊右衛門を色悪に読み込もうとする感性には共通した19世紀の重苦しい 世紀末的感性が見られます。そう読み込むことに19世紀の感性の必然があるのは当然のことです。しかし、21世紀にはもう少し別の見方をして見たいと思うのです。その共通した重苦しさを取り除くと、恐らく鶴屋南北が初演時に想定したところの・軽くて薄っぺらな伊右衛門が現われてくるであろうという目算が吉之助にはあります。
その取っ掛かりがキルケゴールにあります。「このオペラでは誘惑者について単に語られているだけではない・そこに誘惑者がいるのだ」と言うことです。生まれながらの誘惑者には「選択」する必要などありません。なぜなら誘惑者そのものなのですから。だからドン・ジョヴァン二に「悔い改めろ」などと言っても意味がないことになります。そのことがドン・ジョヴァン二の軽やかさを生みます。ドン・ジョヴァン二は選択の負い目など負うことはないのです。
伊右衛門の場合を考えて見ます。伊右衛門は塩谷浪人ですから・もちろん武士です。しかし、御用金紛失の不祥事に深く関わりのある人間であり・忠義心に欠けた人間なのは明らかです。何かデカいことやってやるという気がないわけでもないのですが、浪人なのに・積極的に職を求めようとせず・フラフラとしており・努力する気がない。たまたま隣家の娘が惚れてくれたおかげで伊藤家の婿になって・高師直に仕官しようとするわけですから、反体制の意識があるようにも思えません。要するに伊右衛門は行き当たりばったりに生きている男です。「四谷怪談」が初演された文化文政期にはこのような禄を失って路頭に迷う浪人武士が多くなっていて・社会問題になりつつあったことを頭に入れておかねばなりません。定職につく気が無くて・働く意欲もなく・ただブラブラと暮らす若者が増えている現代もちょっとこれと似た状況があることに気がつくと思います。
つまり、伊右衛門は本来が軽い・薄っぺらな性格なのです。厳密に言えばこれは「軽やかさ」とは感じがちょっと違いますが、「重苦しさがない」ことでは共通していますし、役としてある種の魅力を帯びなければ面白い芝居にならないわけです。だから、吉之助は ここで「軽やかな伊右衛門」のイメージを提起したいと思います。伊右衛門はお岩に付きまとわれながら「恨めしい、悔い改めよ、生活を変えるのだ」と言われて逃げ回っています。しかし、伊右衛門は「選択」する気などさらさらないのです。なぜならば彼はこうなってしまったのが自分のせいだと思っていない からです。何が悪かったのか・何を反省していいのか、伊右衛門は根本的に分っていないのです。だから、伊右衛門は「選択」する負い目も感じることはないのです。これが伊右衛門の「軽やかさ」の正体です。
「軽やかな伊右衛門」を「無責任な伊右衛門」と言い換えても良いと思います。古い流行語で恐縮ですが植木等的な無責任ということです。 もっとも昭和30年代の無責任男はアッケラカンとしてましたが、平成の無責任男はやや投げやりの風があるかも知れません。無責任男を「いい加 減にしろ」とか「お呼びじゃない」とぶっ飛ばしてコントは終わりになるわけですが、まあ、「四谷怪談」が道徳的だと言うのもあまり大げさに考えずに・その程度に考えておけばよろしいことだと思います。(この稿つづく)
(H18・10・27)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その6:軽やかなドン・ジョヴァン二
19世紀の感性は、ドン・ジョヴァン二の地獄堕ちの場面を重要視しました。地獄堕ちの場面で物語は悲劇的に締められ、予定調和のハッピーエンドの六重唱は 省かれました。
騎士長「悔い改めるのだ、生活を変えるのだ、最後の時なのだ。」ドン「いやだ、いやだ、わしは悔い改めはせぬ、わしから離れてくれ。」騎士長「悔い改めるのだ、悪党め」ドン「いやだ、頑固な老いぼれめ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ!」(第2幕第15場)
こうしてドン・ジョヴァン二は地獄に落ちるのですが、19世紀の感性はこのドン・ジョヴァン二の地獄落ちを彼の「選択」の結果であると読みました。ドン・ジョヴァン二は騎士長の石像に「悔い改めよ」と迫られ、これを「いやだ」と拒否します。これはつまり、ドン・ジョヴァン二を悔い改めることを敢然と拒否し、もう片方(地獄行き)を選択したと19世紀の感性は読 んだのです。
これは「究極の選択」と言われるものです。例えばリンゴとミカンとどちらが食べたい?と聞かれて、もしあなたがリンゴを取るならば・あなたはミカンを拒否したことにになる。いや、別にミカンを拒否したつもりはないとあなたは言うでしょうが、究極の選択ではそういうことになるわけです。そこに選択の重みがあり、選んだことの責任・ 選ばなかったことの負い目が常につきまといます。ドン・ジョヴァン二の場合はそれは「悔い改めるか・さもなければ地獄落ちか」と言う究極の選択です。永遠の誘惑者は悔い改め・生活を正すくらいならば ・あえて死を選んだと、19世紀の感性はそこにドン・ジョヴァン二の悲劇性を見たわけです。
しかし、別の見方ももちろんあり得ます。そもそも「悔い改めるのだ」と言われてドン・ジョヴァン二が「いやだ!」と叫んだのは「選択」したということなのだろうかということです。これがもし「選択」でないならば、ドン・ジョヴァン二はその重さから解き放たれることになります。そのような軽やかなドン・ジョヴァン二があり得るのではないでしょうか。 なぜならばドン・ジョヴァン二は女性とあらば片っ端から誘惑するのですから。女性を選ぶなんてことは 決してないのですから。ドン・ジョヴァン二は生まれながらの誘惑者ですから、選ぶなんて必要はないのです。
実は「ドン・ジョヴァン二」には、黒い衣装を身にまとい・悪魔に魂を売ったデモニッシュなイメージとはまったく異なる・もうひとつの系統の演出が存在します。それは、きらめく純白の衣装に身を包んだ・華やかな伊達男ドン・ジェヴァン二です。その代表的なものは、イタリアの名歌手エツィオ・ピンツァの演じる軽やかな誘惑者としてのドン・ジョヴァン二です。幸い1942年メトロポリタン・オペラでの素晴らしいライヴ録音(ブルーノ・ワルター指揮)が残されています。現代の舞台演出では、このような 「軽やかな」ドン・ジョヴァン二が主流になっています。
同じような役柄解釈の変化の例としてヴェルディの歌劇「オテロ」のイヤーゴが挙げられます。イヤーゴもちょっと昔まではいかにも腹に一物ありそうな・虚無的な暗い人物に描かれたもので した。これもいかにも十九世紀的なイメージです。しかし、現代ではむしろ優男で・明るい感じに描かれることが多くなっています。 イヤーゴは優しい顔をしながらオテロに近づき・嘘をささやきます。オテロに対して悪意があるのか・それとも騙すのが楽しい性格なのか・それさえ分りません。
このようにドン・ジョヴァン二やイヤーゴの性格が「軽やかさ」の方に変化していくことは、そのまま現代の感性のある部分を映し出しています。それは複合的な状況 の不条理性を問うものかも知れません。(この稿つづく)
(H18・10・21)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その5:19世紀の伊右衛門
文政8年(1825)江戸中村座初演では「四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」とテレコで上演されました。しかし、その後の「四谷怪談」はお岩の怪談芝居として人気になり・単独で の上演が繰り返されてきました。お化け芝居として上演されるにつれて・「忠臣蔵」との関連が次第に弱くなっていきます。お岩をさらに怖くしようとするならば、その怨念の対象である伊右衛門もそれにふさわしい残忍な悪人でなければなりません。こうしてお化け芝居としてのお岩の肥大化につれ て、伊右衛門は極悪人に次第に仕立て上げられていきます。
幕末期に上演されていた南北作品は「四谷怪談」と「馬盥の光秀」くらいになって南北は影が薄くなりますが、明治になると西洋の近代劇のセンスで再評価されて、南北は再び脚光を浴びるようになります。伊右衛門は封建社会に敢然と反抗し、あくなき自由を求めるニヒルな近代人的性格を持つ人物であると解釈されました。「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞が、伊右衛門のふてぶてしい反抗精神を示すものだとされました。現代の伊右衛門のイメージはこうした過程で出来上がったものです。
こうした伊右衛門の「色悪」の印象は、19世紀における「引き裂かれたドン・ジョヴァン二」解釈と似ているところがあります。その背景に19世紀の共通した時代感覚があるからです。ひとつには社会経済が大きく変化し・個人に対して状況が重く圧し掛かってくる世紀末的状況がありました。社会倫理の基準が揺らいでいた時代 であったのです。
ドン・ジョヴァン二は究極の恋を求めて苦悩する放浪者であると見なされました。ドン・ジョヴァン二ほどの色事師ではないにせよ・伊右衛門の「色悪」のイメージにもこれと似た・「色に掛けて世を渡ろうとする悪人」というイメージが重ねられています。そこでは個人に重く圧し掛かってくる状況の存在・その非人間性が強く意識されています。その非人間的なものは醜く恐ろしい顔をして・伊右衛門に重圧を掛け・どこまでも執拗に追いかけてくるのです。しかし、伊右衛門は決して妥協をしません。あくまでも自由を求めて逃げ回わります。19世紀的な感性は伊右衛門をそのような人間であると見たわけです。(この稿つづく)
(H18・10・16)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その4:行き過ぎた急進性
中世以来、ドン・ジョヴァン二が不道徳であるとされてきた背景は、彼が単に女たらしであるということだけではありません(女にモテるということはある意味でいつの世でも男の願望なのですから)。彼が無神論者あるいは無政府主義者に見えたということにあります。ドン・ジェヴァン二の従者であるレポレッロの歌う有名な「カタログの歌」の歌詞を見てみます。
『可愛い奥様、これが目録です。私の旦那が愛した女たちの、この私が作った目録なんですよ。御覧なさい、私と一緒にお読みください。イタリアでは640人、ドイツじゃ231人、フランスで100人、トルコで91人、だがスペインじゃもう1003人。そのなかにゃ田舎娘もいれば、下女もいるし、都会の女もいる。伯爵夫人、男爵夫人もいれば、侯爵令嬢、王女さまもいるし、あらゆる身分のご婦人、あらゆる姿かたち、あらゆる年齢のご婦人がおりますよ。(略)お金持ちの女だろうが、醜くかろうが、美人だろうが我は張らぬ。ぺティコートさえつけてりゃ、あの方が何をするかはご存知でしょ。』(第1幕第5場:「カタログの歌」)
ドン・ジョヴァン二は、身分も金も・年齢も美醜も関係なく・女たちを分け隔てなく愛します。その意味でドン・ジョヴァン二は、当時は既に形骸化していた封建領主の特権である初夜権を振りかざし・使用人のスザンナを追い駆け回す歌劇「フィガロの結婚」(1786年ウィーン初演)のアルマヴィーヴァ伯爵の願望の延長線上にある存在です。アルマヴィーヴァ伯爵はひと夜を要求し、ドン・ジョヴァン二はすべての夜を要求するというわけです。 ドン・ジョヴァン二は飽くことを知りません。決して妥協をしないのです。だから、女たらしの貴族ドン・ジョヴァン二は中世に生まれた人間像であり、旧体制(アンシャン・レジーム)の落とし子なのです。まずこの点を押さえて置く必要があります。
さらにもうひとつ、女たらしのドン・ジョヴァン二はもちろん「女の敵」ですが、実はそれ以上に「男の敵」なのです。ドン・ジョヴァン二が 男にとって危険なのは・その男から妻あるいは恋人を奪い取るという意味ももちろんありますが、それだけではありません。ありとあらゆる階級の女を誘惑し・その魅力の虜とすることで、男たちが作り上げ・女たちもそこに組み込まれているところの社会構造・そして社会道徳を根底から揺さぶる ということです。女たちはドン・ジョヴァン二の魅力に取りつかれ、ドン・ジョヴァン二によって彼女たちが囲われていたところの社会的拘束から自由になれると感じるのです。それは一時的な幻想であり・後には破滅が待ち受けているのですが、しかし、女が一度は夢見るだけの価値がある幻想でありました。
これはあらゆる階級の男たちが阻止したいことでありました。だから男たちの抵抗が強ければ強いほど、ドン・ジョヴァン二の意欲は高まるのです。障壁が多いことがドン・ジョヴァン二をそそるのです。それが証拠に・カタログの歌の歌詞を見れば、ドン・ジョヴァン二の誘惑した女の数は一夫多妻のトルコで91人と一番少なく、宗教的 規制の強い保守的なスペインにおいて1003人と圧倒的に多くなります。
ドン・ジョヴァン二は女たちのみならず・男たちとも対立し、あらゆる階級と折り合いません。旧体制の出身でありながら旧体制と対立し、旧体制を否定しながら・旧体制のみならず・次の時代に台頭していく新体制とも折り合わないのです。そこにドン・ジョヴァン二の 行き過ぎた急進性 ・革新性があります。それゆえドン・ジョヴァン二は不道徳であるとされたのです。(この稿つづく)
(H18・10・13)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その3:引き裂かれたドン・ジョヴァン二
歌劇「ドン・ジョヴァン二」は1787年にプラハで初演され・成功を納めましたが、その後ただちに人気作というわけではなかったのです。モーツアルトの音楽の素晴らしさを認めつつも、不道徳で怪しからぬ内容のオペラであるとされた時代が長く続きました。19世紀には「ドン・ジョヴァン二」は「光と闇のドラマ」として上演されることが普通でした。主人公ドン・ジョヴァン二は黒い衣装を身にまとい、悪魔に魂を売ったデモーニッシュな人物として描かれました。そして、女性から女性へと永遠に彷徨えるドン・ジョヴァン二を救い出すのが、彼を憎みつつも・抗いがたく愛しているドンナ・アンナです。ハッピーエンド的なフィナーレの六重唱はカットされて、オペラは石像の訪問客によってドン・ジョヴァン二が地獄に落とされる場面で悲劇的に締められた ものでした。19世紀的な感性は予定調和的なフィナーレを拒否したのです。この六重唱についてカーマンは次のように書いています。
『このエピローグは、問題に対する答えをいっさい与えてくれない。それはただ、ドンのいない人生がいかに退屈なものかということを示すだけである。』
つまり、ハッピーエンドの六重唱は取るに足らないと言うわけです。ドン・ジョヴァン二は飽くなき理想を求めて既成道徳に反抗した人物である・そのような不道徳な人間 は地獄に落とされなければならない・・・そう言いながら、逆に言えばそれほどに19世紀的感性はドン・ジョヴァン二の悪魔的な魅力に抗し難く捕われていたと言うことです。
歌手で言うならば、チェーザレ・シエピあるいはティト・ゴッビの歌うドン・ジェヴァン二の重厚かつ悪魔的なイメージでしょうか。幸い1954年ザルツブルク音楽祭でのシエピのドン・ジョヴァン二(指揮はフルトヴェングラー、演出:グラーフ)の映像がDVDで見られますが、その舞台は19世紀のドン・ジョヴァン二観の影響を濃厚に引きずっています。(注:この舞台ではフィナーレの六重唱は演奏されています。)
黒い衣装に身を包み・虚無的かつ悪魔的な魅力を持つドン・ジェヴァン二のイメージ、これは歌舞伎の「色悪」のイメージにどことなく通じます。色悪の魅力とは何でありましょうか。 彼らはまったくどうしようもない奴で、やっていることはとんでもない事なのです。しかし、彼らは自分を取り巻く閉塞した状況を自らの行動で打開しようとする意志は持っている人間と言えるかも知れません。状況に不満を感じながら何も変えようとしない善人たちより、もしかしたらその点においてのみ・ちょっとは 見所がある奴なのかも知れません。多分そのことが(そのことだけが)歌舞伎の色悪を魅力的にしているのです。(この稿つづく)
(H18・10・7)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その2:同時代劇ということ
歌劇「ドン・ジョヴァン二」の時代設定は一見すると明確ではないのですが、実は「ドン・ファン」伝説が誕生した17世紀のスペインではありません。それがはっきり分るのは第2幕第13場でレポレッロが晩餐の準備をしているところで・舞台上の楽師たちが奏でる音楽からです。それはその年(1787)にプラハで上演されて人気のヴィンセンテ・マルティン・イ・ソレルの歌劇「ウナ・コサ・ラーラ(珍事)」からの旋律、 次にやはりプラハで流行していたモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の旋律です。「ウナ・コサ・ラーラ」には大喜びのレポレッロは、「もう飛ぶまいぞ」には「そいつはあいにくご存知さ」とそっけない態度です。これは楽屋オチということもありますが、歌劇の時代設定が1787年であること・つまりこれが同時代劇であるということを示しているわけです。
パリのバスティーユ監獄が襲撃されて・フランス革命が勃発するのは1789年のことです。(ちなみにモーツアルトが死去するのは1791年です。)つまり、歌劇「ドン・ジョヴァン二」は旧体制(アンシャンレジーム)期の作品ですが・すでに内面に沸々とたぎる革命への息吹きが時代のなかに漂い始めた時期の作品だと言うことです。 実際、歌劇「ドン・ジョヴァン二」を読むためにはこれが同時代劇であるという認識が必要です。
一方、「四谷怪談」は文政8年(1825)江戸中村座での初演で「忠臣蔵」とテレコで上演されていることから分るように、世界を太平記に取っています。ということは室町時代ということなのですが、しかし、誰だって赤穂義士の討ち入りは元禄時代の事件であったこと・それを室町時代に当てはめて劇化していることくらいはご存知なのですから、「四谷怪談」もやはり間違いなく同時代劇なのです。「四谷怪談」には浅草寺雷門・隠亡掘・蛇山などまさに同時代の江戸であることを示す 地名と風俗がたくさん出てきます。無理に「忠臣蔵」に関連付けようと言うなら・江戸を鎌倉に・浅草寺を極楽寺にでも移すことをしたのでしょうが、南北はそんな矛盾などへっちゃらで・同時代劇を堂々と主張しています。
したがって、歌劇「ドン・ジョヴァン二」も・「四谷怪談」も同時代劇なのですが、その時代設定には二重構造があるわけです。ひとつは主人公がアイデンティティーを発するところの古い時代です。もうひとつは、そこから発展変革して・新たなものを生み出していこうという新しい時代がすぐそこに来ているということです。大事な点は新しい時代が必ずしも旧時代のものを全否定しているわけでないということです。もちろん否定の要素もありますが・反発あり・ひねくれあり・愛情あり・郷愁あり、なかなかその思いは複雑なものです。旧時代は故郷であり・父親であることは間違いないからです。しかし、息子が成長するためには一度は父親と対決せねばならないということもあるようですね。
ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」(映画化もされました)では、「ドン・ジョヴァン二」序曲冒頭の和音が父レオポルドとの確執のなかでの・息子ヴォルフガングの想いとして印象的に扱われました。ドン・ジェヴァン二を地獄に落とす石像の訪問客に父レオポルドのイメージが重なります。したがって「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」という古い歌は、機械仕掛けの神のように・劇の最後に取ってつけて歌われる形式的な歌ではあり得ないのです。リフレインされる古い歌は、 同じ歌であっても・もはや昔と同じようには歌えません。「四谷怪談」における「忠臣蔵」もそのように考える必要があると思います。 (この稿つづく)
(H18・10・4)
○ドン・ジョヴァン二と伊右衛門・その1:とっても古い歌
別稿「時代物としての四谷怪談」の冒頭に、モーツアルトの歌劇「ドン・ジョヴァン二」第2幕フィナーレの六重唱の歌詞を掲げておきました。これは石像の訪問者の「悔い改めよ」と言う要求をドン・ ジョヴァン二が拒否して地獄に落ちた後に、ドンナ・アンナほかの登場人物たちが歌うフィナーレです。本稿はこのことについて考えてみたいと思います。
『そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!』
歌劇「ドン・ジョヴァン二」(1787年・プラハ初演)はロレンツォ・ダ・ポンテの台本ですが、ドン・ジョヴァン二(ドン・ファン)は中世期のスペインに伝わる伝説に出てくる人物で す。女性を次々と誘惑する男が・その罪深い放蕩な人生のために罰を受け・地獄に落とされると言う・ファウストと同じ中世的な人物です。この作品には先行作がいろいろありまして、ダ・ポンテはそれらを参照しながら・台本を巧みにまとめてい ます。このフィナーレの部分について言えば、1738年にヴェネチアの劇作家ゴルドー二が書いた5幕仕立ての悲喜劇「ドン・ジョヴァンニ・テノーリオ」の幕切れに典拠があるとされています。その幕切れは次のようなものです。
『なぜなら、人はその生にふさわしく死に、天はすべて堕落する者を憎んで、罪人を罰することを欲する』
この幕切れは当時のバロック演劇の形式に則ったものです。「この世は神によって完全に支配されており、神さまは「善は善・悪は悪」と正しく判断をしてくださる、神の栄光がそこに示されている」というのが、この時代の芸能(演劇でも音楽でも)の主題でありました。ダ・ポンテは「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」と書いていますが、ここでダ・ポンテは古い時代の演劇のテーマをリフレイン(繰り返し)しようとしているのです。(このリフレインがどういう意味を持つかは後ほど考えます。)
吉之助が「四谷怪談」の論考冒頭に「ドン・ジョヴァン二」の歌詞を掲げた意図はこれでお分かりでしょう。「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」という言葉を「四谷怪談」の場合に当てはめるならば、それは「仮名手本忠臣蔵」を指すということになります。そのように吉之助は見て論考を進めておりますので、以下をそのようにお読みください。 (この稿つづく)
(H18・9・30)
○科学的な歌舞伎の見方・その10:玉手御前の場合
玉手御前の恋は真なのか偽りなのか。ここは役者にとっても解釈の分かれるところで・またそこが工夫の為所ですから、さまざまな芸談が残されています。古くは吉之助が師と仰ぐ武智鉄二がフロイト流深層心理学的観点から、玉手御前は(芝居のなかでは「建前の恋」とされてはいるが)心の 底では俊徳丸を愛しているのであるとしておりました。その影響で現代においては この視点から玉手御前の行動を読む傾向が強いようです。
我が師匠の読み方なので畏れ多いことですが・そう言う解釈もあり得るとは思いますけど、この解釈では吉之助は「合邦庵室」の主題が研ぎ澄まされてこないと感じています。こうした玉手御前の読み方は・少なくとも初心者にはお薦め したくないと思います。そこで本稿「科学的な歌舞伎の見方」の最後にこのことを考えてみたいと思います。
なぜ「玉手御前は心の底では俊徳丸を愛している」という解釈を吉之助は採らないのか。それは、玉手御前の長い告白があって・「コレ申し父さまいな、何と疑いは晴れましてござんすかえ」と娘に言われて・合邦はすべてを納得して「ヲイヤイ・ヲイヤイ」と叫ぶわけですが、合邦の納得が絵空事になってしまうと思うからです。頑固一徹の合邦がついに心を開いて・血を吐くような思いで「ヲイヤイ」と叫ぶ以上は、玉手御前の無実は疑いようがないというのが私の確信です。それでも「心の底で玉手御前は密かに俊徳丸に惚れていた」と言うのならば、玉手御前は親を騙したことになります。だから、そういうことは絶対にないのです。先に引用した斎藤隆介氏の言葉を再確認しておきます。
『だから、そのぼけるってこと自体がおかしいんです。「やさしさ」と言ったらね、ひとつしかないんで、それがぼけてくるというなんて言い方はね、戦わないからですよ。だから「やさしさ」といったら、ぼけてくることはないんで、「やさしさ」と言ったらますますはっきりしてくるべきなんですよ。敵側の「やさしさ」と自分たちの本来の働く人間たちの「やさしさ」と言うものを曖昧にしてしまうもんだから、こんがらがってくるんですよ。敵の「やさしさ」は「やさしさ」じゃないんだ。そいつは「薄情」なんだ。それと違う理解がある「やさしさ」なんて言うものは・もしあったらですね、それは危険なんであって、そういう「やさしさ」の観念とは戦わなければならないのです。だから、「やさしさ」は正しい答えはひとつしかないんで、それがぼける理由は何もないんです。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)
大事なことは、作品の本質を原形質的に見据えることです。「合邦庵室」の主題は「大事なもののために命を捧げてこれを守る行為の尊さ」ということです。あるいはその裏返しとしての「大事なものを守らねばならぬ・生きることの厳しさ」であります。「心の底で玉手御前は密かに俊徳丸に惚れていた」という見方は、この「合邦庵室」の主題を 曖昧にさせる(ボケさせる)ものです。玉手御前は自分の行為を父親に認めてもらって・初めてその行為を完結することが出来ます。玉手御前と合邦は一体で主題を担っています。玉手御前は真実を告白し、合邦は真実を受けて「ヲイヤイ」を言わねばなりません。そこで「まだ他に隠していることがあるのじゃないの?」と勘ぐるような見方は、作品解釈にとって余計だと思います。何と言いますかね、精神的に高められ ることのない見方だと思いますね。それは科学的にスッキリくるものとは言い難いということです。 「私は玉手御前のように死ねません。でも玉手御前のような生き方もあるのだと思います」と感じることが大事なのです。
もちろん「合邦庵室」の主題を「道ならぬ恋に身を焼く女の業(ごう)」として読もうとするなら話は別になるでしょうが、そうするとドラマにおける合邦の位置が失われてしまうでしょう。つまり、一見フロイト心理学を使って科学的な見方をしているようですが・ こういうのは曲読みであって、決して正攻法の読み方ではないのです。まあ、その次の段階としてはこういう読み方もしてみれば違う側面が見えてきて一興かも知れないということかな。同様に「女殺油地獄」でお吉が与兵衛を内心では惚れていたとする解釈も巷間流布してい ますが、吉之助はこれも正しいとは思いません。これらの点については、いずれそれぞれの作品を取り上げる機会に触れてみたいと思います。 (この稿終わり)
(H18・9・23)
○科学的な歌舞伎の見方・その9:創作の秘密
『モーツアルトが「ドン・ジェヴァン二」を組み立てたなどと、どうして言えようか。コンポジシオン・・まるで卵と粉と砂糖をかき混ぜてケーキかビスケットでも作るように、彼がこの作品を組み立てたなどと言えるだろうか。精神的な創造とは、部分も全体もただひとつの精神の鋳型から取り出され、ひとつの生命の息吹によって貫かれることである。作者は決して試したり、継ぎはぎをしたり、自分勝手に振舞ったりはしなかった。彼は自己の天才のデモーニッシュな衝動に突き動かされて、それが命ずることを実行せざるを得なかったのだ。』(ゲーテ、1831年6月20日、エッカーマンとの対話)
ゲーテが創作の秘密について語っています。大事なことは、優れた芸術作品のフォルムは必ずしも論理的な積み重ねを通して構築されるようなものではなく、むしろまるで全体を見通しているかのように・そこから逆算して一本の糸を導き出して作り出 されたかのような・筋道の正しさを持つものです。そうしたものは・見かけがとてもシンプルで ・すっきりとした「科学性」を感じさせるものになるのです。
作品解釈において・作品の生成過程をたどろうとするならば、原因から結果という流れで・作品を冒頭から結末へと順にたどっていくだけでは不十分なのです。併せて結末から最初へ溯って・結末から必然を探っていく作業も必要になってきます。この作業を何度も繰り返し・作品を前後から撫で回すように見ていると、作品の主題・本質は研ぎ澄まされてきて、同時に不自然な解釈(見方)を切り捨てることが出来るようになります。そうすると突然「見えた!分った!これならば理にかなっている」という感覚が訪れてきます。 (この稿つづく)
(H18・9・19)
○科学的な歌舞伎の見方・その8:六代目菊五郎の芸・2
発端から結果をつなぐ一本の糸のようなものがはっきり見える ・つながっているという感覚があるならば、その考え方は「科学的である」と言えます。「見えた!分った!これならば理にかなっている」という感覚が正しく科学的な感覚なのです。
リズムをトントントン・・・と踏んでいって、これを結局は一尺に納めるように踊り込む・これじゃ少し足らないかなと思ったら・ちょっと継ぎ足して見事に一尺にぴったりと納めてみせる。これは科学的な感覚であると言えます。「これが一尺だ」とどうやって感知するのか・それはうまく説明できませんが、そういうことが六代目菊五郎はできた人でした。
『今年の盂蘭盆には思ひがけなく、ぎりぎりと言うところで・菊五郎が新仏となった。こんなことを考えたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現われているやうで、寂しいが、ふつ と笑ひにも似たものが催して来た。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)
まるで測ったかのように・盂蘭盆ぎりぎりに亡くなった菊五郎のことを・そのかつきりした芸格と重ね合わせて、「寂しいが・ふつと笑ひにも似たものが催して来た」と折口が語っています。この「かつきりした菊五郎の芸格」というのはリズム感覚(間の感覚)だけを言っているのではありません。作品や役の本質をつかみとり・まるで結果を見通して・まるでそこから逆算して一本の糸を導き出して役作りをしていくかのような・その芸の過程、その筋道の正しさのことを言っています。
その筋道の正しさは論理的な過程を積み重ねて構築されるものではなく・ある瞬間に感性の飛躍によって導かれるものです。だからこれを人は「菊五郎の天才」と呼ぶので しょうが、実はそうではないわけです。直感(インスピレーション)だけに頼っているように見えるが・実は科学的合理的な方法論に拠っているのです。折口はそのことを「菊五郎の芸の科学性」と言っているわけです。
『(二代目)左団次なども聡明という側から、同質の特徴を持った人のように考える人があるかも知れぬが、それは時流性とでも言うべきもので、時代の受け容れ方がどういう傾向に向いておるかをよく弁えた人であったのだ。(五代目)歌右衛門なども、何かこうかつきりした所の目についた人だが、この常識が珍しい程度に発達していて判断が性格だったと言う側の人であった。単純化と言った才能はあったが、芸の正確という点には疑問がある。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)
菊五郎と左団次・歌右衛門との芸風の違いがよく分かると同時に、折口信夫の「科学性」のイメージもよく分かると思います。(この稿つづく)
(H18・9・15)
○科学的な歌舞伎の見方・その7:六代目菊五郎の芸
折口信夫は六代目菊五郎の芸が好きでした。折口は菊五郎について・次のような文章を書いています。
『今年の盂蘭盆には思ひがけなく、ぎりぎりと言うところで・菊五郎が新仏となった。こんなことを考えたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すといった、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現われているやうで、寂しいが、ふつ と笑ひにも似たものが催して来た。このかつきりとした芸格は、同時代の役者の誰々の上にも見ることの出来なかったものと言へる。此を、彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。』(折口信夫:「菊五郎の科学性」・昭和24年8月)
大坂生まれで・しかも民俗学という古いものとのつながりを云々する学問をやる折口信夫と・六代目菊五郎の芸風の新しい感触とは、ちょっとイメージが結びつかないと感じる人がいるかも知れません。菊五郎の芸風は江戸前の斬れの良さ・イキの良さとして一般に理解されていていると思います。 また、ここで折口が突然「科学性」という言葉を使っているのがちょっと奇異に感じられるかも知れません。しかし、ここに折口信夫を考える鍵があるのです。六代目菊五郎の著書「芸」に九代目団十郎の言葉として・次のようなことが記されています。
『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)
あるいは三味線の名人鶴沢道八はこう言っています。
『義太夫の三味線で足取が重要なことはお話しするまでもないことです。世話時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないことはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。ですから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。』(鴻池幸武:「道八芸談」より)
団十郎と道八の言葉に共通している事は、「リズムをトントントン・・・と踏んでいって、これを一尺にぴったりと納めるように踊り込む(弾き込む)」と言っていることです。「これが一尺だ」という感覚はどこから来るものでしょうか。しかも、 こういう場合の一尺の感覚は相対的なもので・人によって・あるいは場合によっても一尺の感覚は微妙に異なるものです。それでは「あとこれだけ踏めばぴったり一尺 に決まる」という感覚はどこから来るのでしょうか。実はこれが折口信夫の言っている「科学性」なのです。
「見えた!決まった!これならば理にかなっている」と言う感覚があることがまさに「科学性」の感覚です。このことが菊五郎の芸の近代的なかつきりした印象に通じています。しかし、これは先達である団十郎や道八の言葉で分るように・実は菊五郎だけのものではありません。これは芸を極めた人共通の感覚 なのです。つまり、その感触は新しく見えるけれども・それは確かに古典的かつ伝統的な感覚です。(このことは別稿「菊五郎の古典性」あるいは「古典性と様式性」において触れていますからご参考にしてください。)
民俗学・あるいは万葉集の研究を通じて「古典性」というものの感覚に精通した折口信夫がかつきりとした菊五郎の芸に古典性を見出すということは、意外でも何でもありません。むしろ折口が菊五郎の芸を愛したのは必然だと言えるもの だと思います。(この稿つづく)
(H18・9・11)
○科学的な歌舞伎の見方・その6:歌舞伎は民俗であるか
池田弥三郎氏が師折口信夫についての思い出をこう語っています。
『芸能は、イコール民俗であるか。このことについて、私は折口信夫に直接に質問したことがある。私の質問にはいつも気軽に即答してくれた折口信夫であったが、この時はややしばらく考えていて、やがて慎重に、芸能は多分、イコール民俗ではあるまい、と言った。そして、もし、芸能が、イコール民俗であるならば、柳田(国男)先生が、芸能研究の分野を、自分に任せるはずがない、と言った。』(池田弥三郎:「芸能の流転と変容」)
話がちょっとそれるようですが・ここが大事な点であるので「折口がしばらく考えていて・やがて慎重に・芸能は多分イコール民俗ではあるまいと答えた」という点について触れておきます。「国文学の発生(第三稿)」の雑誌「民族」への掲載を柳田が拒否したことな ど、折口と柳田との関係はなかなか屈折したものがあったようです。しかし、ここで折口がちょっと口ごもったのは芸能を研究することに対するうしろめたさ・恥ずかしさから来るものだと思っています。折口の芸能に対する複雑な思いを示す文章を挙げておきます。
『私どもの・青年時代には、歌舞伎芝居を見ると言ふことは恥ずかしい事であった。つまり、芝居は紳士の見るべきものではなかった。だから今以って、私には、若い友人たちの様に、朗らかな気持ちで芝居の話をすることが出来ない。私の芝居についての知識は、いわば不良少年が店の銭函からくすねて貯めた金のような知識で、理屈から言へば何でもないことだが、どうもうしろめたい。』(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年)
「私どもの・青年時代には・歌舞伎芝居を見ると言ふことは・恥ずかしい事であった」という感覚はみなさん分りますかね。 今では想像もできないかも知れませんが、実学が奨励された明治大正期には、芸能を研究するなんてのは・道楽であったのです。芸能を志そうなんて言おうものなら「そんなものを男子一生の仕事にするのか」と父親に殴られそうな時代でありました。しかし、折口は小さい時から芝居や浄瑠璃に親しむ環境に育ちましたから、そうした・うしろめたさ・恥ずかしさが折口にちょっと答えをためらわせたのだと思 っています。このうしろめたさの感覚は折口の芸能論考を考える場合に重要な点です。
話を戻しますと、「芸能は多分イコール民俗ではあるまい」と折口は言っていますが、芸能というのはもともと神事に発しますから・その根本は間違いなく民俗にあるのです。しかし、芸能は世につれ変容していくものです。歌舞伎が慶長8年の出雲のお国のかぶき踊りから発したものであるのは確かですが・歌舞伎はその時代のなかで形を少しづつ変化させていき・今の歌舞伎からお国かぶきの面影を想像することはほとんど不可能になってしまいました。民俗学研究においては現地でのフィールドワーク・つまり実証という作業が大事な仕事になります。ところが、特に芸能分野はその変容の度合いが非常に大きなものがあって・その変り様がまったく別物と考えてもいい ほどのものもあります。したがって、民間に近い田植え唄であるとか・巡礼唄のような素朴な芸能ならば話は別になりますが、今現在の舞台で見られる形態の能狂言や歌舞伎を認めつつ・これらをフィールドワーク的 ・文献的に民俗学の分野として研究していくことは難しいことになります。しかし、能狂言も歌舞伎も間違いなくそのルーツを民俗に持っているのですから、現行の舞台からそのルーツを類推あるいは想像することは決して不可能ではないのです。どこかにその痕跡が間違いなくある。だからこそ能狂言も歌舞伎も「伝承芸能」と称するのです。
だから能狂言や歌舞伎のような芸能分野をイコール民俗ではないとしても・民俗的な部分を多少でも持つものとして民俗学の研究対象にしようとするならば、その見方にはある種の感性の飛躍(ワープ)が必要になります。そうすることでそこに原点からまっすぐにつながる一本の線を見出すことが出来るのです。しかし、このことは文献的・論理的になかなか説明が難しいことがあります。感性の飛躍(ワープ)を他人に説明することはとても難しい。柳田国男は「理」の人でありました・少なくとも「理の人」であろうとした人であると思います。これに対して折口信夫も「理の人」であろうとしたと思いますが、同時に「情」の要素がとても強い人でありました。
「国文学の発生(第三稿)」の雑誌「民族」への掲載を柳田が拒否したのは、折口信夫が論証のプロセスを経ずに・いきなり結論に入るような論文に不快を感じたことが原因と言われています。ふたりの方法論は微妙に異なっていたのです。一方、折口信夫は感性の飛躍が出来る人でありました。現行の歌舞伎の舞台と・そのルーツとしての民俗との亀裂を感性の飛躍によって結び付けることの出来る資質の持ち主でありました。だから 、柳田国男は芸能研究の分野を折口信夫に任せたのです。あるいは柳田国男は芸能研究が自分に不向きとして「逃げた」のかも知れませんが、まあ、しかし、自分より折口信夫の方が向いていると考えたのだろうと思います 。
このような感性の飛躍(ワープ)はいろいろなものが混じりあった物質から純粋な貴金属を抽出していく作業を一気に行うような・まさに「科学的」な精神作業なのです。そうすると「見えた!分った!これならば理にかなっている」という瞬間が出現するのです。こうしてみると斉藤隆介と折口信夫の方法論が実は似通っていることが分かると思います。どちらもその態度は「科学的」であるのです。
吉之助は武智鉄二とともに・折口信夫も師と仰いでおります。もっとも武智鉄二は「自分は民俗学は大嫌い」と常々公言してはばかりませんでした(しかし折口信夫との対談は残っております)が、「歌舞伎素人講釈」にとっては「歌舞伎イコールある程度民俗」と考えることは大事なことでありますし・この点で折口信夫は常に教えられる師なのです。ここから科学的な歌舞伎の見方をさらに考えていきます。 (この稿つづく)
(H18・9・3)
○科学的な歌舞伎の見方・その5:「科学的」ということ
話題がそれるようですが・ちょっと前にテレビで「新進気鋭の脳科学者」というキャッチフレーズのお方が司会して各界で成功している方のビジネスの秘訣を探るという番組をやっておりました。この時はケーキ職人の 方がゲストでした。そのゲストの方が言うには、ケーキの下地の調整だけは絶対に自分でやる・ケーキの下地作りは微妙なものでやる度に味が変わるので・一定の味を保つためにこの作業だけは他人には任せられないと言うことでした。その言葉を聞いて・その司会の脳科学者先生が「同じレシピで同じ作業をすれば同じ味が出るというのが科学なんですが、そうじゃないんですか」と大げさに驚いておりました。確かにケーキの下地作りは「芸」みたいなところがあるようです。
ところで「同じレシピで同じ手順で作業をすれば同じ味(結果)が出るというのが科学」なのですかね。まあ、一般の方を対象にした娯楽番組であることだし・その脳科学者先生がホントにそう信じているとは思いませんけど、「同じレシピで同じ手順で作業をすれば同じ味(結果)が出る」なんてのはニュートン以前の科学のイメージであって、アインシュタイン/ハイゼンベルク以後の現代科学のイメージではありません。「同じレシピで同じ手順で作業をすれば大体似たような味(結果)に落ち着く」というのが正し く科学的な言い方でしょう。これは不確定性理論やバラつき理論を承知している者には自明のことです。現代の科学はそういうところに立脚しているのです。
この脳科学者先生の言葉だけ聞きますと「科学を超えた微妙な感性で味を一定に保つ・それが職人の技術(芸)だ」と言いたいようです。ケーキ職人の方はどうやって自分の理想とする一定の味にケーキの下地を調整していくのでしょうか。当然ですが、状況を見ながら・その先にある味を予測して・レシピや手順(混ぜ方の速度や温度・水の加え方・寝かしの時間など)を微妙に変えながら・理想の味に近づける作業をしているからに他なりません。その誤差をどうやって感知するのか・そこのところはよく分からないが、そうやって 手順を微妙に変えていくことで・狙っている結果を最小限の誤差に落とすのです。実はこの道筋こそが「科学」なのです。
「科学」とは発端から結果までの道筋をしっかり見極めるものです。ご注意いただきたいですが、「道筋」とは手順(プロセス)のことを言っているのではありません。発端から結果をつなぐ一本の糸のようなもののことを言っています。その道筋がはっきりと見える・つながっているという感覚があるならば、その考え方は「科学的である」と言えるのです。「見えた!分った!これなら理にかなっている」という感覚こそが正しく科学的な感覚です。職人の技術(芸)は他人になかなか説明は出来ないと思います。しかし、それでも・これは 確かに科学的な感覚の所産です。「見えた!分った!」という感覚がそこにあるからです。
斎藤隆介氏の発言に話を戻しますと、八郎の本質(やさしさ)を読み取り・その方向性を見出し・その先にあるもの(我々の理想とする共同体の姿)のイメージをスッキリと見出すという作業は、まさに科学的な感覚なのです。
『だから、そのぼけるってこと自体がおかしいんです。「やさしさ」と言ったらね、ひとつしかないんで、それがぼけてくるというなんて言い方はね、戦わないからですよ。 「やさしさ」といったら、ぼけてくることはないんで、「やさしさ」と言ったらますますはっきりしてくるべきなんですよ。だから、「やさしさ」は正しい答えはひとつしかないんで、それがぼける理由は何もないんです。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)
本質をはっきりさせていけば・その先にあるものが明確に見えてくるということです。「ぼけてくる」というと言うことは思考法が正しく取られていないということに他なりません。本質を見極め正しい 道筋が取れていれば・見えるものが見えてくる・その時には本質はますます研ぎ澄まされてくるということです。これが斎藤氏が「私の創作民話は科学的・合理的なものでありたい」ということの意味です。 (この稿つづく)
(H18・8・30)
○科学的な歌舞伎の見方・その4:「やさしさ」がぼける理由はない
座談会で、「やさしさ」が大事だと言うけれど・「やさしさ・やさしさ」と言っていると何だかぼけてくるところがありますねという発言に対して、斉藤氏は次のように答えています。
『だから、そのぼけるってこと自体がおかしいんです。「やさしさ」と言ったらね、ひとつしかないんで、それがぼけてくるというなんて言い方はね、戦わないからですよ。本来あるべき「やさしさ」というのものはひとつしかないので、悪を戦えると言うものが「やさしさ」であってね。悪とは戦えない「やさしさ」なんてのは、敵側が言っている「プチブル的やさしさ」であって、そんなものは「やさしさ」の真実ではないんです。だから「やさしさ」といったら、ぼけてくることはないんで、「やさしさ」と言ったらますますはっきりしてくるべきなんですよ。(中略)敵側の「やさしさ」と自分たちの本来の働く人間たちの「やさしさ」と言うものを曖昧にしてしまうもんだから、こんがらがってくるんですよ。敵の「やさしさ」は「やさしさ」じゃないんだ。そいつは「薄情」なんだ。それは「やさしさ」とは正反対のものだと言う理解がきちんとあればですね、これが日本国民の「やさしさ」の 、本来の「やさしさ」であるべきなんです。あるいは世界人類の、その「やさしさ」であるべきなんです。それと違う理解がある「やさしさ」なんて言うものは・もしあったらですね、それは危険なんであって、そういう「やさしさ」の観念とは戦わなければならないのです。だから、「やさしさ」は正しい答えはひとつしかないんで、それがぼける理由は何もないんです。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)
斎藤氏の言う「科学的」 ということはどういうことでありましょうか。おそらく人間の持つ根源的な美しい感情の意味を・余計な観念や思想のノイズに邪魔されずに・まっすぐに見据えようとする態度というものが、努めて「科学的」な精神に通じるところがあるからです。 そうすると「やさしさ」という意味は研ぎ澄まされてくるのだということです。
「八郎」の場合で言えば、海が荒れて・村の田んぼが潮かぶって駄目になってしまうとわらしこ(子供)が泣いているのを見て・八郎は「んだば分った、しんぺえすんな、見てれ」と言ってわらしこの頭をひと撫でして・ ニッコリ笑って・山を背負って海のなかに沈んでいくのですが、これは八郎が立派な英雄的行為をしようとしたのではなく、泣いているわらしこがかわいそうであった・ ただそれだけのことなのです。「やさしさ」が八郎の行動の原点なのです。「おらはこうしておっきくおっきくなって、こうしてみんなのためになりたかったなだ、んでねがわらしコ!」と八郎が叫ぶのはそうして見ると確かに一部から批判される通り・若干の違和感がないわけではないですが、これも八郎がその「やさしさ」の使い道の方向性を見出した喜びであると考えれば納得ができるでしょう。
「僕は八郎のように死ねません。でも八郎のようになりたいと思います」という子供たちは、八郎の本質(それは「やさしさ」なのです)をまったくストレートに 素直に見て、しかも ある方向性(八郎のようになりたい)を見出しています。その先に我々の目指すべき共同体のイメージが漠然と見えてきます。
しかし、世の中には余計な観念や思想のノイズが多すぎますから・世の大人たちは八郎の行為を「社会のため・民衆のための英雄的行動」であると言うような読み方をついついしてしま うこともあります。世の大人たちの為に多少の「方法論」が必要なのかも知れません。作品から本質を原形質的に見据えること、それはいろいろなものが混じりあった物質から純粋な貴金属(それこそが本質です)を抽出していく作業のようなものです。それはまさに「科学的」な精神作業なのです。 (この稿つづく)
(H18・8・26)
○科学的な歌舞伎の見方・その3:「科学的」ということ
「社会変革のなかでの自己変革。これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ。」 斉藤氏はこう書いています。この発言は読もうとすれば・個人と社会を対立的に捉えて・個人のなかから社会変革を起こして行こうと言う・いわゆる「社会主義的創作態度」にも読み取れますし、実際、大人たちは斎藤氏をそういう作家であると見勝ちでありました。これは戦後の民主教育が戦前教育の否定から始まったことからすれば自然なことかも知れません。
しかし、上記の「八郎」・「ベロ出しチョンマ」での斎藤氏の発言でも分る通り、斎藤氏の理想が社会変革にあるのは確かとしても、斎藤氏は個人と社会との関係を階級闘争的に・対立した存在に見ているわけではないようです。そうではなくて・登場人物のメッセージを個人の心情として原型質的に捉えることを斎藤氏は求めているのです。その心情をしっかりと押さえたところを出発点として・そこから理想の社会への方向を見据えていこうということになるでしょう。この方法論は斎藤氏が自らの創作を「民話」と規定することから来ているのです。だから斎藤氏の創作はまさしく戦後民主主義精神の産物ですが、そこのところが自ら「民話」でなければならないとするものなのです。
『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)
この斎藤氏の発言のなかに「科学的」という言葉が出てきます。「思想がどう使われているかということ・誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けなければならない」と言うのです。さらに 斎藤氏の言う「科学的」の意味を考えていきます。(この稿つづく)
(H18・8・19)
○科学的な歌舞伎の見方・その2:民話の原点
斎藤氏の代表作のひとつである「ベロ出しチョンマ」(1966年)ですが、これは歌舞伎の「佐倉義民伝」でもよく知られる佐倉宗五郎伝説をべースにした創作民話です。長松(チョンマ)の父親(注:作品では惣五郎としてはいません)は農民たちの苦しみを見かねて将軍に直訴に及び・捕われの身となり ・磔(はりつけ)の刑を受けることになります。長松兄妹も父ともども捕らえられて刑場に送られます。刑を執行される時、妹のウメが槍の穂先を見て泣き出します。 その横で磔になっている長松は「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んで、眉毛をカタッと「ハ」の字に下げてベロッと舌を出して見せたという話です。いかにも 宗五郎の息子らしい挿話のように思えますが、これは斎藤氏のまったくの創作です。
ところで、斎藤氏はいわゆる偏向作家(左翼系の作家という文部省用語)と見られがちでして、この「ベロ出しチョンマ」も封建社会のもとで厳しい収奪を受けてきた民衆が権力の非人間的な弾圧に屈することなく、踏まれても蹴られても・たくましく真実を貫いてきた民衆の不屈の精神を描いた作品であるとよく評されたものでした。こうした読み方は・「従来の社会を変革して・人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない・その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていくのだ」と言う斎藤氏の発言と考え合わせると・なるほどそんなものかとついつい頷いてしまいそうなところがありますが、ところが当の斉藤氏がそのような読み方に猛然と反発するのです。
『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)
どうやら斎藤氏の真意は、社会が何だ・民衆が何だとこざかしい理屈を言う前に・長松という子供の気持ちを素直に捉えて読んで欲しい・そこ が民話の原点であり・すべての出発点であると言うところにあるようです。
同じことは斎藤氏の最初の創作民話である「八郎」(1950年)にも言えます。身体が山よりも大きくなった八郎が、嵐で村が大波に襲われて危機に瀕した時、泣きさけぶわらしこ(子供)の頭をひと撫でして・八郎は山を背負って海のなかに沈んでいくのですが、この時に八郎は「分ったァ!おらがなして今までおっきくおっきくなりたかったか!おらはこうしておっきくおっきくなって、こうしてみんなのためになりたかったなだ、んでねがわらしコ!」と叫びます。これについても斉藤氏はこう書いています。
『八郎を「民衆の前を独走する英雄」とする見方には作者として納得できない。民衆の胸の中にはみな八郎か八郎的部分か、八郎への憧れが生きているのだ。(中略)(八郎の最後の言葉が)「説教的で・非芸術で、この一句でぶち壊しだ」という批判も、私は、自分の幸福だけを追求している世界から、わらしこへのやさしさを足がかりにして、思わずもう一次元高い幸福の世界を掴んだ時の、歓喜の詩的絶叫として書いた。話がこうなるとは、書き出す時は考えてもいなかった。(中略)子供の読者は評論家より私を理解し励ましてくれる。彼らの手紙は口を揃えて言う。「僕は八郎のように死ねません。でも八郎のようになりたいと思います」 私もそうだ。本気で八郎のようになりたいやつが大勢出てくれば、仲間はみんな死ななくてすむ。』(斉藤隆介:「八郎」について・1975年) (この稿つづく)
(H18・8・16)
○科学的な歌舞伎の見方・その1:創作民話について
本稿は「科学的な歌舞伎の見方」ということを考えつつ逍遥するのが目的であります。最初の方は歌舞伎と関係ありませんが、話が進むにつれ・だんだんと歌舞伎に近寄っていくと思います。
斉藤隆介氏(1917−1985)は「八郎」・「ベロ出しチョンマ」・「モチモチの木」などの作品で知られる作家です。私はこれらの作品は民間伝承の採話 であるとてっきり思い込んでいた時期がありましたが・そうではなくて、これらの作品は斎藤氏の完全な創作なのです。斎藤氏は自らの仕事を「創作民話」と規定しています。民話風創作ではなくて ・あくまで「創作民話」です。「民話=民衆のための話」というところに斎藤氏はこだわっています。
『戦後に民話ブームが起こったのは、民主主義・主権在民などと言う言葉が大きく叫ばれ、憲法にまで明記されてきた社会情勢から生まれたものだ。法的にも初めて人民が自身の運命を切り開いていかねばならぬ権利と自覚を持った時、我々の祖先はどう暮らしどう生き、何を感じ何を考えていたかを、その伝承に探ろうとしたのは当然のことであろう。(中略)だから私の言う創作民話は、伝承民話の豊かさと力を受け継ぎながら、それを超える積極的で意志的な姿勢をはっきりもたねばならぬと考えている。従来の社会を変革して、人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない。その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていくのだ。社会変革のなかでの自己変革。これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ。』(斉藤隆介:「八郎」の方法・1973年)
上記の斎藤氏の発言でも分るように・斉藤氏は「戦後民主主義」の色合いの強い作家でして、その意味では戦後生まれの吉之助にもその感性が重なるところがあるようです。私も少年時代に「八郎」などの創作民話を・それと知らずに読んでお世話になっていたわけです。
「民話」というのは民衆が作り出し・民衆がその生活のなかで永く語り継いできた話です。民話には作意と言うようなものがあるようでもありますが、本来が自然発生的に生み出された お話ですから・それはあまり明確なものではないのです。そこでは作意と言うものが原型質のままで浮かんでいるように思われます。「原形質」という表現は分りにくいかも知れませんが、観念的なものではなく・そこに実質的な重さがあり・しかも根源的な感情という意味合いでありま す。しかし、「創作」の場合には作家の作意というものがどうしても表面に出て来ざるを得ません。と言うよりも・それを明確に出すことが近代作家の創作態度であるとされていると思います。
とすれば斎藤氏の表明するところの「創作民話」という概念は・一見すると・相矛盾する要素があるように思われます。しかし、実はそこに斎藤氏なりの方法論があるのです。まずそこのところを取っ掛かりにして科学的な歌舞伎の見方を考えてみたいと思います。 (この稿つづく)
(H18・8・13)
「新歌舞伎というのはどこが歌舞伎なんでしょうか・何だか歌舞伎の名を借りた普通のお芝居に見えますが・・」というご質問を頂くことがあります。吉之助はこういう時には「歌舞伎役者が演る芝居はみんな歌舞伎なんです」と答えることにしています。これは別に答えをはぐらかしているつもりは ないのです。やはり「新歌舞伎」と呼ぶからには、どこかに歌舞伎たる何ものかがあるはずです。
これは一般論で・例外はいくらでも挙げられますが、まず内容(思想)的に見ればそこに「やむにやまれぬ思い」・「それでもやらねばならぬ」という引き裂かれた心情があるならば・「かぶき的心情」に連なる演劇として・演技様式はどうであれ・それは「歌舞伎」と呼んで良いものだと思います。(別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」をご参照ください。) 泉鏡花を歌舞伎に取り込む取っ掛かりもここにあるのです。
歌舞伎というのは、その長い歴史のなかで様々な演技様式を取り込んでいった結構懐の深い演劇ですから、歌舞伎はどのようにでも変化し得えます。 鏡花のフォルムというものを歌舞伎のなかに取り込んでしまえばそれでよろしいことです。巷間言うところの「歌舞伎らしさ」なんてものは観る者の固定観念に過ぎないと思っています。
(H18・8・7)
『なぜなら美というものは、ファイドロスよ、よく覚えておくがいい、美というものだけが神々しいと同時に目に見えるものなのだ。そう言うわけだから、美は感覚的な者の行く道であるし、芸術家が精神へ行く道なのだ。そこで君はしかし、愛する友よ、精神的なものへ行くために感覚を通らなければならぬ人間が、一度でも英知と真の人間の品位を獲得することができると思うかね。それとも君はむしろ(私はその決定を君の自由に任せるが)これは危険でかつ愛すべき道であり、真に邪道であり・罪の道であって、かならず人を邪路に導くものだと思うかね。なぜと言って、これは是非言っておかねばならぬが、我々詩人たちが美の道を進んで行けば、必ずエロスの神が道づれになって、得々と道案内をするに決まっているのだ。(中略)我々は奈落を否定したいし、品位を得たいとは思うのだが、しかし我々がどう身を転じようとも、奈落は我々を引きつけるのだ。なぜと言って認識には、ファイドロスよ、何の品位も厳かさもないからだ。それは物を知り・理解し・許すもので、品性も形態もない。それは奈落に共感を持つ。それはまさに奈落なのだ。』(トーマス・マン:「ベニスに死す」)
トーマス・マンの小説「ベニスに死す」(1913年)の主人公・初老の作家アッシェンバッハがその死の数日前に見る幻影の場面です。アッッシェンバッハは旅先のベニスでギリシア美を想わせる美少年タッジオに魅せられ・彼の姿を追い求め、死へと突き進んでいきます。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画ではアッシェンバッハは音楽家の設定になっていますが、これはマンがグスタフ・マーラーをモデルにしてアッシェンバッハの人間像を作り上げたと考えられているからです。映画ではマーラーの交響曲第5番の第4楽章アダージェットが印象的に使われていました。特にアッシェンバッハが海辺にたたずむ美少年タッジオを見ながら倒れる最終シーンは原作に伍する名場面だと思われました。
泉鏡花の「山吹」(1923年)も同じような同時代的テーマに拠っているのですが、必死になって正気に踏みとどまろうとして奈落に堕ちていくアッッシェンバッハとは違って・画家島村はかろうじて奈落に堕ちるのを踏みとどまります。(別稿「鏡花の耽美主義について」をご参照ください。)
「うむ、魔界かな。これははてな、夢か、いや、現実だ。(夫人の脱ぎ捨てていった駒下駄を見る)ええ、俺の身も、俺の名も棄てようか・・・(夫人の駒下駄を手にす。苦悶の色を顕しつつ)いや、仕事がある。(その駒下駄を投げ棄つ。)」
このような芸術家の奈落への誘惑は、「圧し掛かって くる時代の重さ・状況の重さ」から出てくるものです。日本的に言えば「世間の重さ」ということになります。明治期における「かぶき的心情」は個人と社会の問題から捉えられます。別稿「特別講座:かぶき的心情」で明治期におけるかぶき的心情のバリエーションとしているものがそれです。 江戸期のかぶき的心情は社会(世間)を個に対立するものと意識していませんが、明治期はこれを明確に意識しています。引き裂かれる時代的心情がそこから出てきます。
島村の「いや、仕事がある」と言う台詞をダサいと笑うわけにはいきません。そこに島村がかろうじて正気に踏みとどまる芸術家の冷徹な観察眼があると思わざるを得ません。 もしかしたら踏みとどまることもまた奈落なのではないでしょうか。
(H18・8・4)
泉鏡花のお芝居と言うと・どうしても新派のイメージがしますが、実は新派で有名な「滝の白糸」・「婦系図」・「歌行燈」などは鏡花の小説を他人が脚色したものでして、鏡花自身の筆になる脚本ではありません。三百余篇といわれる鏡花作品においてオリジナル戯曲は約二十編というところです。どちらかと言えば鏡花オリジナルより・脚色作品の方で鏡花のイメージが出来上がっているところがあるようです。しかし、鏡花のなかで戯曲のウェイトが低いわけでは決してありません。
それまで小説専門であった鏡花が大正期に入って戯曲創作に意欲を見せ始めたきっかけは、明治40年(1907)にドイツ文学者登張竹風との共訳で・ハウプトマンの戯曲「沈鐘」を出版したことにあるそうです。この「沈鐘」は山に棲む妖精と・人間の鋳鐘師との恋を描いた世紀末的幻想戯曲です。そして大正2年(1913)3月に戯曲「夜叉ヶ池」が発表され、さらに同年7月に「紅玉」・12月には「海神別荘」と戯曲が三本立て続けに発表されることになります。
ということは「夜叉ヶ池」と「海神別荘」は・同時期に並行して構想されたということでして、ハウプトマンの世紀末芸術の影響下においてこれを見る必要があるということです。「夜叉ヶ池」と「海神別荘」は対の関係で見た方が良さそうです。今月(平成18年7月)の歌舞伎座でこれら二作品で昼のプログラムにしているのも・確かに玉三郎の意図を感じさせるところです。
「夜叉ヶ池」や「海神別荘」に世紀末的な要素がどこにあるかと言うと、ひとつには現世(日本的に言えば世間)と言うものに対する歪(ひず)んだ感性がそこに見えるからです。このことは妖精界と人間界との対比のなかで描かれており、特に「夜叉ヶ池」では村人たちの俗物ぶりが滑稽に描かれているから・妖精界の方が多少清らかに見えるかも知れませんが、別に妖精界のことを鏡花が理想郷と描いているわけではないのです。よく見れば妖精(妖怪)たちも彼らの次元のなかでそれなりに俗物であるのですから。妖精界は人間界の陰画と考えた方がよろしいでしょう。
現世(日本的に言えば世間)と言うものに対する歪みというのが・どこに実感されるかといえば、現世から押し出される者たちの心情から出てくるのです。それは「夜叉ヶ池」で言えば荻原晃であり・「山吹」では夫人と人形遣いであり・「天守物語」では図書之助です。彼らは世間からはみ出し・世間の重圧から押し出され・あるいは疎外され・拒否されて、異界へ流れて来るのです。「海神別荘」はちょっと趣が異なるのは生贄にされた美女が世間への恨みを口にせず・親子の情愛を 頑固に主張する(実はそれも世間への意地から出るものである)からですが、現世の歪みを観念的に解き明かしている点で「海神別荘」は非常にユニーク な作品です。このことは別稿「超自我の幻想」をご覧下さい。「海神別荘」は「夜叉ヶ池」と対を成し、観念的に補完し合っているのです。
そう言えば「夜叉ヶ池」の竜神になっている白雪姫はその昔・百合と同じように村人たちに人身御供にされて夜叉ヶ池に身を沈めたという前世を持つのでした。同じく「天守物語」の富姫も負け戦の落人の美しい婦人が襲われて自害した身が転生して姫路城の天守閣に棲む妖怪になったので した。つまり、妖怪たちも元は現世から押し出されてきた者たちなのです。
そこに「世間への強い意地」というものが見えてきます。このことは別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」で考察しましたが、登場人物に圧し掛かって くる時代の重さ・状況の重さ、「今自分たちを取り巻いているこの状況はこれでいいのか」という強い苛立ち・憤りがそこにあるのです。これが1900年前後の世界的に共通した時代的心情です。この意味において泉鏡花の芝居は世紀末的であり、 同時にかぶき的心情と同質なものを持つのです。
吉之助が鏡花作品はいずれ歌舞伎に組み入れられるだろうと言うのは、新派において女形芸が消え去りつつあるという・そのことだけで言うのではありません。作品の持つ心情において・綺堂や青果の新歌舞伎と同質のものを鏡花作品が持っている ・鏡花作品を歌舞伎にする取っ掛かりがそこにあるということになるわけです。
(H18・8・1)
別稿「超自我の幻想」は泉鏡花の戯曲「海神別荘」についての論考ですが、ここで超自我命令の究極の内容は「楽しめ、好きだろうと嫌いだろうと楽しめ」という逆説であるという哲学者スラヴォイ・ジジェクの言葉を引きました。論考においては話が脇にそれるので割愛をしましたが、ジェジェクはさらに興味深いことを書いています。
『日本人はもしかすると、超自我の行き詰まりから脱出する特異な方法を見つけているかも知れない。彼らは「好きだろうと嫌いだろうと楽しめ」という逆説に立ち向かい、日常の義務の一部として「オモシロイ」を組織し、公式の・組織的な活動が終わると、義務から解放され、やっと自由になって本当に面白いことをすることが出来、本当にリラックスして楽しめる・・・。』(スラヴォイ・ジジェク:「幻想の感染」・崇高から滑稽へ・青土社)
ジジェクは日本人のこういう鋭い観察をどこから仕入れたのでしょうか。ゾロゾロとガイドさんを先頭にしてヨーロッパの観光地を練り歩き・みやげ物店のブランド品に殺到する日本人のツアー集団からでしょうかね。いまや国際語であると言われる「カワイイ!」もこの類です。西欧人も日本人の生活の智恵(?)を学びつつあるということかも知れません。しかし、まあ、哀しい智恵ではありますね。
美女が「・・・早く殺して。ああ、嬉しい」とニッコリするのは、美女が俗世を棄て・美の世界に蘇生したということではありません。「お前、私の悪意ある呪いでないのが知れたろう。」という公子に対して美女は「お見棄てのう、幾久しく・・」と答えてふたりは結ばれるのですが、ここに鏡花は(美女うなだる)とト書きを入れているのを見逃してはなりません。美女は屈服した(あるいはあきらめた)のです。永遠に「オモシロイ」を組織しているのが竜宮であったわけです。しかも、「オモシロイ」の義務から解放されて・リラックスする時が絶対来ないのが竜宮なのです。(このト書きの部分を玉三郎の美女が十分に表現していたと は言えなかったと思いますが。)
そう考えると幕切れの公子の「おい、女のいる極楽に男はおらんぞ。男のいる極楽に女はいない。」もなかなか意味深に聞こえませんか。
(H18・7・28)
「日本文化私観」と言いますと・真っ先に浮かぶのは坂口安吾の評論(昭和17年)ですが、安吾の「日本文化私観」は実はブルーノ・タウトの同名評論(昭和11年)に対するアンチテーゼとして書かれたものでした。タウトは桂離宮の美を絶賛し「純粋無垢の様相を兼ね備えうる円熟の特性を持っている」として、「日本のまったく独創的な業績、世界共有の傑作」と評しています。その一方で同じ小堀遠州の設計に なる日光東照宮の方は俗悪と退けています。これに対して、安吾は「簡素なる茶室も日光の東照宮も・ともに同一の「有」の財産であり、詮ずれば同じ穴の狢(むじな)なのである。この精神から眺むれば、桂離宮が単純・高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はない」と反論しています。
若い頃の吉之助は安吾の評論に大いに影響されていましたので・そのせいもあって吉之助はタウトの本を長く読まないままでおりました。しかし、読んでみますとタウトの「日本文化私観」はタウトの専門の建築だけを論じたものではなく・ひろく日本文化全般を論じたもので・同じく「ニッポン」(昭和9年)などを読んでも・たった三年間の日本滞在であったにも係らず・タウトの日本への深い観察・洞察力とそこに裏打された教養には驚嘆せざるを得ません。非常に教えられるところの多い本であると思います。ところでタウトは「日本文化私観」の「芸術稼業」の章のなかで歌舞伎のことについても触れています。
『この歌舞伎は将軍治下のあの警治国のいわゆる太平時代における血腥い戯曲の意義を表明するものであった。すなわち国民は岡っ引きをつけられたり・無理難題を蒙って・息苦しいばかりの緊迫を感じているために、神経に対する安全弁が必要なのであった。そして身の毛もよだつようなものを様式の力によって、道化芝居や狂言に高め得たということ、すなわち自然そのものが独自の哲学的意義を持つ芸術の領域にまで高め得たということは、日本の芸術感情の一大功績のひとつに数えられるべきものである。写楽の様式のある物を思わせるものが、今日もなお日本の劇場に見られ得るということは、何と言っても感謝すべき事柄である。』(ブルーノ・タウト:「日本文化私観」・講談社学術文庫)
歌舞伎美のバロック的な本質を突いた見事な指摘だと思います。ところで、文中でタウトは具体的な演目名を挙げておりませんので・これは中期から幕末の歌舞伎の一般的イメージを書いているのだろうと 漠然と思っていました。もちろんそう読んで一向に差し支えないわけですが、実はこのタウトの印象は昭和9年6月18日・新橋演舞場での前進座公演で鶴屋南北の「謎帯一寸徳兵衛」の舞台を見た感想に発したものであったということです。この時の前進座は創立3年目で・「謎帯」を昭和6年に初演していますから・この時は再演になります。配役は翫右衛門の徳兵衛・国太郎のお辰 ・長十郎の団七でありました。
前進座はこの時期に「お染の七役」や「亀山の仇討ち」など南北作品を積極的に取り上げており、「南北物は前進座」という定評はこの頃に出来上がったものです。タウトは文中でも誕生間もない前進座について とても好意的な評言を書いています。本年(平成18年)6月国立劇場で前進座は創立75周年記念として「謎帯一寸徳兵衛」を再び上演しています。
日本文化私観―ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫 (1048))
(H18・7・10)
「見得」の技法を別稿「見得〜クローズアップの技法」で取り上げました。エイゼンシュタインが指摘しているように、見得には単に動作を止める(ストップモーション)以上の意味があるのです。それは動作のある瞬間を絵のように焼き付けるだけのものではなく・本来あり得ないところの 感情表出の裂け目を作り出し・それにより演技の別の一面を抉り出すのです。これがまさに「クローズアップ」と呼ばねばならないものなのです。十三代目仁左衛門が次のように言っています。
『目を剥いたとき一点をグッと睨むのですが、ただ客席に向かって無意味に睨むのではなく、そこにちゃんと理屈がなくてはいけません。目標があるわけですね。例えば「絵本太功記」十段目の光秀の初めの大見得のところ、「現われ出でたる武智光秀」のチョボにのって竹薮を踏み分けて出て、笠をあげて大見得をするところ、あそこはこの家のなかに真柴久吉がいるのだという心で・久吉に対して・舞台上手に対して見得をする心であって、正面切ってお客の方へ見得をするものではないんです。』(十三代目片岡仁左衛門談話・歌舞伎のアングル・季刊雑誌「歌舞伎」・第6号・昭和44年)
この談話で仁左衛門は見得をする目標(相手)がない時は見得はしてはならない・見得をするには理屈(ドラマの裏打ち)がなくてはならないということを言っています。このことは大事なことです。そうなれば本当の大見得 ができる場面は必然的に限られてきます。どんな作品でもそれは一回かせいぜい二回になるのです。先ほどの「太十」でも・大見得は登場と幕切れの二回だけです。
今はどちらかと言えば・見得は隈取と並んで歌舞伎の技法の代表の扱いですから・見得をすることが歌舞伎の証しだという感じさえあります。(あえて誰の舞台と 申しませんが)カーテンコールでもツケ打って役者が見得している舞台さえあるのは驚きです。まさに見得の大安売りです。もっと「見得」というものを大事に扱ってもらいたいものです ね。
(H18・7・8)
映画になった文学作品(小説・戯曲)数は長谷川伸が圧倒的に多いそうです。いわゆる股旅物というジャンルになる「沓掛時次郎」・「瞼の母」などは映画だけでなく、大衆演劇・あるいは素人芝居でも盛んに上演されたものでした。長谷川伸は国民的に愛された作家であると言って良いと思います。「一本刀土俵入」や「刺青奇 偶」・「暗闇の丑松」と言った作品は長谷川伸が六代目菊五郎のために書いた新歌舞伎作品でした。(別稿「長谷川伸作品のヒロインたち」をご参照ください。)長谷川伸は自分の作品を六代目が演じてくれるのが嬉しくてたまらず、六代目が自分の戯曲をどう料理してくれるか・勝負のつもりで書いたということです。
「暗闇の丑松」(昭和9年6月東京劇場・六代目菊五郎の丑松による初演)を見ますと、場割りが映画的であるなあと感じます。そのことを一番感じるのは大詰め「相生町の湯釜前」の場面です。普通に考えると「湯殿の長兵衛」よろしく丑松が四郎兵衛に恨みの言葉を投げつけ・ 風呂場で派手な殺しの立ち廻りを見せる方が歌舞伎なのです。ところが、そこを敢えてしないのが長谷川伸です。そういう凄惨な殺しは舞台裏で丑松がやったことにして・周囲の人間の舞台表の騒ぎのなかで殺しを表現しちゃうのです。場面作りとして・なかなか巧いなあと思いますねえ。結果として当時の菊五郎劇団の芸達者な脇役たちを生かしているのです。しかし、丑松に焦点を絞ったドラマとしてはカタルシスがいまひとつ(つまり丑松の積もり積もった鬱憤を発散する場面がない)ということになるかも知れません。なんだかこの後に続 く場がまだありそうな気がしてしまいますが、「暗闇の丑松」の舞台はここで終わりなのですね。 (実は原作脚本にはこの後にエピローグ的な「金子道場の場」というのがあるのですが・上演されないのです。)
序幕「浅草鳥越の二階」でも・丑松が登場すると「階下でふたり(お熊と浪人)を殺しちまった」と言わせて済ませてしまって・殺しの場面を芝居で描いていません。実は原作脚本を見ますと・階下で丑松とお熊が言い争う場はあるのですが、実際の上演ではカットされています。まあ、殺しの背景は大体察しがつくわけで・はっきり言えばどうせ大したことでないのです。丑松が「不幸な奴・ついてない奴」ということが観客に感じられればそれで十分であって、その不幸がどういう原因から来てるのかということにはあまり関心がない。と言うか・そこを突き詰めると観客が丑松に同情できなくなっちゃうかも知れないからそこはわざと避けるのです。
そう言う風に「暗闇の丑松」を見ていくと、丑松を次第に心理的に追い込んで行って・兄貴分の四郎兵衛を殺す場面をドラマのクライマックスにもって行くという論理的な積み上げを・この芝居は採っていないのです。ある視点から見ると・芝居としては密度が薄くて・スカスカなところがあるとも言えます。逆に言えば芝居にテンポがあって、簡潔に筋を追っているとも言えます。映画的に見ると行間(カメラワーク)に雰囲気を盛り込む工夫の余地が多いということですね。そこが長谷川伸の芝居の魅力であるのかも知れません。
(H18・7・1)