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二代目右近と初代壱太郎の「二人椀久」

令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」

二代目尾上右近(椀屋久兵衛)、初代中村壱太郎(松山太夫)


1)「椀久」実説の真偽

本稿は令和7年1月歌舞伎座での、「二人椀久」の観劇随想です。昨年(令和6年)に引き続き、吉之助は本年の個人的なテーマを「若手に期待」と定めて、芝居を見ることにしました。今回の「二人椀久」は、右近の椀久・壱太郎の松山という注目の若手の組み合わせが期待されます。

さて例によって作品周辺を逍遥することから始めたいのですが、調べてみても、「椀久」(椀屋久兵衛)という男の素性については、よく分からぬことばかりです。「椀久」の逸話については実際にあったことだとする文献もありますが、椀久の没年さえも諸説があって・定まっていません。大阪市生野区の円徳寺に伝わる過去帳に拠れば椀屋久右衛門(久兵衛ではない)の没年は延宝4年(1676)ですが、大阪市天王寺区の実相寺に伝わる墓碑の記載では延宝5年(1677)です。井原西鶴が書いた小説「椀久一世の物語」では、椀久の没年は貞享元年(1684)となっています。久右衛門についても「椀久」の父親だとする説と本人だとする説とがあるようです。何だか漠然として具体性が乏しい気がします。折口信夫などは、幼少から「あれは椀久が奉納した手水鉢」と祖母に教えられたりして育ちましたが、

『椀久と言う男が、大阪の町に実在しなかったと言うたら、なじみ深い通人俗士おしなべて、この抹殺事件に、いきり立つことであろう。(中略)助六が実は、(江戸の)花川戸に影も形もなかった如く、椀久の如きも手水鉢や過去帳くらいを証拠にふり廻すわけにいかぬ。』(折口信夫:「椀久」・大正7年1月・折口信夫全集第30巻)

と書いて、にべもありません。歌舞伎における「椀久」物の始まりは、「椀久」と付き合いがあったと云う女形・大和屋甚兵衛が当時流行っていた小唄を芝居のなか取り上げたものだとされています。演目外題は伝わっていません。この時の「道行椀久の出端」の歌詞が、当時の俗謡を取材した「落葉集」に収録されているそうです。「椀久一世の物語」のなかで西鶴が描くエピソードは興味深いものです。

『椀久をまねきて何か望みの物ありやと尋ねければ紙子紅うら付けて物まねする事ならば其の外に願ひはなしと云うふそれこそ安けれど俄にこしらえさせて待ちけるに其後は面影も見えずなりにき』(井原西鶴:「椀久一世の物語」・下巻第六)

現代語訳:甚兵衛が椀久を招いて「何か望みの物はないか」と尋ねたところ、「洒落た紙衣(かみご)の衣装を着て・紅おしろいを塗って・役者みたいに歌い踊りすることが出来れば、他に望みはございません」と云うので、「それならばお安いこと、すぐに用意いたします」と応えて甚兵衛が待っていたところが、椀久はどこへ行ってしまったのか、もう影も形も見えなかった。

まあこのエピソードの示すところが「椀久」の実体の無さを暗示しているようにも、吉之助には思えるのですがね。(この稿つづく)

(R7・1・5)


2)「瓢箪かしく」のこと

「二人椀久」と直截に関連するかは分かりませんが、柳田国男に「隠れ里」という論考があって、ここにも「椀久」の名が登場します。伊勢亀山の阿野田の村の椀久塚の伝承です。

『伊勢の亀山の隣村阿野田の椀久塚は、また1箇の椀貸塚であって、貞享年中までこの事があったと伝えている。土地の口碑では塚の名の起こりは椀屋久右衛門或は久兵衛と云う椀屋から出たと云う。この椀久は大阪の椀久のごとく、ある時代の長者であったらしく、(中略)多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、これを三都諸州へ送って利を収めた。其家断絶の後旧地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名付けた。』(柳田国男:「隠れ里」・十三・大正6〜7年)

「椀貸塚(わんかしづか)」とは、祝儀・不祝儀・寄り合いなどで急に膳・椀が必要になった時、塚にお願いを紙に書いて拝むと、翌日にはそれが一式用意されていると云う不思議な伝説です。借りたものを洗って間違いなく塚にお返しすると・次回また借りられるが、返すのを忘れたり・数が足りなかったりすると・それ以後は借りられなくなるのです。つまり貸し手と・借り手の間の信用が大事なのです。(こちらの三重県のサイトをご覧ください。)

阿野田の椀久塚に似た伝承は全国各地に分布していて、特に中部地方に多いそうです。貸椀説話が広まった背景として、木地屋の存在が考えられるそうです。木地屋とは、ろくろを使って木製食器(木地)を作る特殊技能者のことです。彼らは良質の材料を求めて全国を渡り歩いて、各地で木地を作って土地の人に残しました。貸椀説話は、そのような木地屋と地元の人との信用関係から広まったものとされています。

これだけだと椀久塚が「二人椀久」とまだ繋がりませんが、宝永の頃、大坂の町中を夜な夜な狂い歩いた「瓢箪かしく(ひょうたんかしく)」なる願人がいたそうです。僧衣を着て瓢箪を付けた長杖を持って浮かれ踊る瓢箪かしくの姿を写したのが、椀久の物狂いであると曲亭馬琴が「蓑笠雨談」のなかで書いています。

『伊勢出の風来坊なる、瓢箪かしくが、大坂の町へ持ち込んだ伊勢の山家の物語から、久兵衛の一代記が敷行せられて、とてつもない粋(すい)の神様が出来上がったとすれば、その元の形こそ見たいものである。或いは、椀久が小判を掘り出して、狂喜のあまりにとりのぼせた、という様なはかない種が、名高い小判撒きの舞台まで、成長してきたのであろうか。』(折口信夫:「椀久」・大正7年1月・折口信夫全集第30巻)

これでもまだ「二人椀久」の元を辿れていないかも知れないけれど、気になるところを手繰ってみると・思もよらないものが出て来ることもあるものですね。(この稿つづく)

(R7・1・8)


3)「二人椀久」の享楽性

さて今回(令和7年1月歌舞伎座)の「二人椀久」の舞台ですが、右近(32歳)の椀久・壱太郎(34歳)の松山の、まさに花の盛りのコンビの踊りで、絵面として美しいことこの上ない。水死したとされる椀久は享年33歳と云われています。イメージ的にも役に近い印象で、そのせいかも知れませんが、どこかにリアルな感触があると云うか、憂い・或いは儚さの情感が漂っていると云うか、二人共実説と伝えられる「椀久-松山の物語」が醸し出すムードをよく理解して踊っていると感じますね。椀久と松山・二人のストーリーが見えてくる心持ちがします。このことを認めた上で、右近と壱太郎のコンビが更なる高みを目指せるかと云うことを考えてみたいと思います。昨年(令和6年)1月歌舞伎座では右近と壱太郎の二人はそれぞれ単独で「娘道成寺」を競演しましたが、このことは「娘道成寺」に於いても・必ずや役に立つことだと思います。

舞踊「二人椀久」の名舞台と云えば、吉之助の世代では、昭和の末の五代目富十郎の椀久・四代目雀右衛門の松山のコンビにトドメを刺します。右近と壱太郎の若い世代のコンビは背丈も芸風も異なるし、「富十郎と雀右衛門の踊りじゃなきゃダメだ」なんてことを言うつもりなど毛頭ありません。しかし、敢えて富十郎と雀右衛門の踊りに在って・右近と壱太郎の踊りにはそれがちょっと乏しいと感じてしまうところを強いて一つ挙げるとすれば、それは「踊りが持つ享楽的な感覚」と云うことですかね。

享楽的とは「思いのままに楽しむこと」と云う意味ですが、「己の欲望のまま・快楽にふけるさま」という意味もあって・こちらであると余り良い意味になりませんが、吉之助がここで「踊りが持つ享楽的な感覚」と云う時は、どちらかと云えば後者の意味に近い。つまり何も考えずバカみたいに・思わず身体が動いてしまう感覚というか、身体が動いてさえいれば・嬉しくって堪らないみたいな感覚です。このような感覚が富十郎と雀右衛門の「二人椀久」・特に後半の踊り地(〽按摩けんぴき以降)には横溢していました。

その違いがどこから発するかは説明ができます。それは前述の通り、右近と壱太郎のコンビが「椀久-松山の物語」が醸し出すムードを頭で理解して踊っているからです。理屈で踊るのは、これは決して悪いことではないのですが、このため椀久と松山のストーリーが或る種の憂いを以て悲しく映る。多分右近も壱太郎も、椀久と松山の物語をホントにあったことと見なしているであろう、そう云うことが大いに関係すると思われるのです。

そこで思い切って椀久と松山の物語から一時的に離れて、これを無かったことにして・これはいわば「趣向」に過ぎぬと割り切ることにしましょう。悲しみの覆いを取り払ってしまえば、「二人椀久」という舞踊が本来的に持つ「享楽的な感覚」がはっきり見えて来るのではないか、そのように申し上げたいのです。本稿の前座で「瓢箪かしく」の話を長々しくしたのは、実はそのような背景もあったからです。(この稿つづく)

(R7・1・10)


4)「二人椀久」の享楽性・続き

つまり現代の舞踊家ならば「詞章をよく読んで意味を考えて踊る」ことはもちろん大事なことではあるのだが、あまりに筋(ストーリー)に付きすぎると、踊りが本来的に持つ享楽性を曇らせる場合もあると云うことなのです。別稿「芝居と踊りと」で、そのことを考えました。

『(六代目)菊五郎などはあれだけを歌舞妓に専念したら、どんな役者になったらうか。あの人気の源になつている踊りは、あの人の芸を触んでいるものだと言うことに気がつかない筈はないと思ふのだが。又(七代目)三津五郎に踊りが出来なかつたら、あの特殊な顔を以つて、もっと役者としての大をなしているだらうに。踊りのために、実に其れだけの役者と謂つた形になつて終わつている。此ほどあの人にとつて気の毒なことはない。(中略)歌舞妓が、歌舞妓発生時代から劇的要素を自由に伸ばさないやうにさした踊りと、平行しているのがいけないのだ。そして歌舞妓芝居の景気の悪い時は、踊りでつなぐと言ふことが、いつも行はれるが、これは歌舞妓そのものから言つて悲しむべきことであるし、又踊りから言つても喜ぶべきことでない。歌舞妓と踊りは別個のものとして進んで行かなくては、どうしてもいけないだらう。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)

折口が言うことは、歌舞伎というものは、能狂言でも同じですが、物真似芸に発し、本義は写実に根ざすものです。それに対して踊りは、表現ベクトルが反写実の方に向く。だから歌舞伎が写実の本義を貫き通してドラマ性を追求するならば、歌舞伎は踊りの要素を当然振り捨てて行かねばならないだろうと云うことです。このことを逆に舞踊の側から考えてみると、振りの本義(享楽性)を追及していくために、舞踊は思い切って筋(ストーリー)から離れる必要があると云うことです。

『我々からすれば、能がかりだとか、芝居がかりでない方が踊りらしい気がする。だから、これでも踊りかと言う気のするものが多くて、踊り自身ですら早くから不純なものになつていたのではないだろうか。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)

当世の「二人椀久」の人気は、後半の踊り地(〽按摩けんぴき以降)での、活気のある早いテンポの椀久・松山の連れ舞いにあることは明らかです。現行のテンポはかなり速いですが、

『昔はもっとゆっくりだったようです。先代(初代尾上菊之丞・振付)の時もこのスピードにしたのは最近らしいですね。恐らく、雀右衛門さんと富十郎さんから、(中略)先代がこの二人ならということでテンポアップして演らせたということはあるかも知れません。』(二代目尾上菊之丞談、西形節子・「日本舞踊の心」〜「二人椀久」)

そのように考えると、あの富十郎の椀久・雀右衛門の松山のコンビの〽按摩けんぴきの面白さと云うのは、一つには恐らく本来の(オリジナルの・昔の)テンポより倍くらい早いのではないかと思える・長唄のあの早いテンポ、二つ目にはそのテンポに乗って考える間も無いほどに・次々と繰り出される振りの連続技、そこから踊りが本来的に持つ享楽性が立ち上がると云うことであったのだなと改めて思うのです。そこでは「椀久と松山の物語」という筋(ストーリー)が一時的に消し飛んでいました。何も考えずバカみたいに・思わず身体が動いてしまう感覚というか、身体が動いてさえいれば・嬉しくって堪らないみたいな感覚だけが残る、それが逆説的に「二人椀久」が持つ「面白うてやがて悲しき」の思想を解き明かしていく、そう云うことなのだろうと思いますね。(この稿つづく)

(R7・1・12)


5)「趣向」の機能

井上ひさしは、芝居の「趣向」について次のように書いています。(別稿「趣向のごった煮」を参照のこと。)

『芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい。誤解をおそれずに言えば、芝居では思想でさえも趣向の一つなのだ。』(井上ひさし・「芝居の趣向について」・昭和49年・1974・1月)

戯作者は「芝居なんて世の中のお役に立たないものでございますよ、これはただのお慰み(エンタテイメント)に過ぎませんから」なんて嘯(うそぶ)きながら、必死になって「趣向」を工夫します。ところが、その結果、作品に現われて来るものは、「百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい」と言っていたはずの「思想」なのです。だから趣向が狙い通りに正しく機能しないと、芝居のなかの思想が浮かび上がって来ません。

椀久と松山の物語から一時的に離れて・これは「趣向」に過ぎぬと割り切って〽按摩けんぴきの華やかな連れ舞いを理屈抜きで愉しんでいるうちにフッと松山の姿が消え失せる・・・さてはあれは幻影であったか・・となる。観客はここで「ああそうであったな、これは椀久の悲しい物語であった」とフト思い出して、「あはれ」の感情がそこはかとなく湧いてくる、舞踊「二人椀久」が描く思想とはそのようなものです。

そこで今回(令和7年1月歌舞伎座)の「二人椀久」の、右近と壱太郎の後半の連れ舞いですが、早いテンポに遅れずよく頑張っていますが、所作に若干セカセカした印象が付きまといます。このことは「二人椀久」のひとつの側面を見せているということは確かに云えます。別稿「機械的なリズム」でも触れましたが、幕が下りて結局分かることは、椀久は松山の幻影に「踊らされて」いた・木偶人形のように「振り回されて」いたと云うことです。湧き上がる喜びのなかで踊っていたのではなく、そのように「思わされて」いたのです。セカセカした踊りの印象は、椀久が置かれた歪(いびつ)な状況を正直に表していると云えます。しかし、ホントはそういうことは幕が下りた後、ハッと気付かせてくれれば、それで十分なのです。今はただその享楽的な喜びに浸らせて欲しい・・・観客にとってそのことの方が大事なのです。それでこそ椀久の趣向が正しく機能します。

松山の幻影が消えた瞬間、踊りの色合い(カラー)がガラリと変わる、そこの切り替えが大事になります。そこまでは憂い・或いは儚さの情感の表出は、極力控えた方が良い。「椀久-松山の物語」の筋(ストーリー)にあまり付き過ぎることが、「二人椀久」が本来的に持つ「享楽的」な愉しみを妨げてしまう。椀久の趣向が正しく機能しなくなって、セカセカした印象になってしまうと云うことです。

所作がセカセカした印象に見えると云うことは、技術的な見地から見れば、やはり〽按摩けんぴきの早いテンポに対して振りに余裕が足りないと云うことでもあろうと思います。右近と壱太郎両人共に、若干振りが大きいように感じますね。もう少し振りをコンパクトに持っていけば、早いテンポにも付いていけるのではないでしょうか。肘の使い方を工夫することです。もう一つの対処法は、しっかりと振りが取れるレベルにまでテンポを落とすことだと思います。現行のテンポは五代目富十郎・四代目雀右衛門があってのもので、やはり尋常ではないテンポ設定であると思います。少しぐらいテンポを落とすことは、恥でも何でもありません。それよりも振りがしっかり取れることの方がずっと大事なのです。

ともあれ右近と壱太郎の「二人椀久」は令和の・これからの歌舞伎の呼び物となるべき演目だと思いますから、じっくり腰を据えて・長く取り組んでもらいたいですね。

(R7・1・15)


 

 


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