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遊郭「吉原」の搾取構造六代目勘九郎・初役の次郎左衛門

令和6年2月歌舞伎座:「籠釣瓶花街酔醒」

六代目中村勘九郎(佐野次郎左衛門)、二代目中村七之助(兵庫屋八つ橋)、十五代目片岡仁左衛門(繁山栄之丞)、六代目中村児太郎(兵庫屋九重)、四代目中村橋之助(下男治六)、四代目尾上松緑(釣鐘権八)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(立花屋女房おきつ)、五代目中村歌六(立花屋長兵衛)他

(十八代目勘三郎十三回忌追善興行)


『人々がパリと呼ぶ、人の砂漠の中に、今更何を望めばいいの?何をすればいいの?
楽しむのよ、喜びの渦の中で消えていくのよ。私はいつも自由に、快楽から快楽へと遊べばいいの。』
(ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕・ヴィオレッタのアリア「花から花へ」)


1)遊郭「吉原」の搾取構造

本稿は令和6年2月歌舞伎座での、勘九郎の次郎左衛門・七之助の八つ橋による「籠釣瓶花街酔醒」の観劇随想です。歌舞伎座2月猿若祭は十八代目勘三郎十三回忌追善と銘打たれています。勘三郎が亡くなってもうそんなになりますかねえ。勘三郎が存命であれば68歳ということだから、まさに芸の実りを見せる時期にあったはずです。そのことを考えるとまことに残念ですが、時は無情に過ぎて行きます。今では勘三郎のことを思い出す機会も少なくなりました。今回の追善興行では勘九郎と七之助が共に初役で勤めます。

さて例によって作品周辺を逍遥することにします。ご承知の通り、歌舞伎と遊郭文化は切っても切り離せない関係にあります。ひと頃の歌舞伎関係の宣伝やら雑誌やらで、歌舞伎に縁遠い方に関心を持ってもらいたい意図ではあるが、「吉原は江戸のカルチャー・センター」、「吉原ワンダーランド」みたいな安直なキャッチ・コピーをよく見掛けたものでした。まあこれはそんな一面は確かにあるのです。しかし、江戸の吉原を現代のディズニーランドかユニバーサルスタジオに見立てるかのように明るい要素だけを喧伝することは、人身売買や性的搾取など遊郭文化の暗い側面がキレイさっぱり欠落しており負の歴史に対する認識・反省がまったくないと云う批判から、もはや逃れることは出来ないのです。(別稿記事をご覧ください。)正しい歴史認識を以て「古典」と対さねばなりません。負の側面も直視せねばなりません。歌舞伎批評に携わる身として、吉之助もこのこと真摯に受け止めなければならぬと思っています。

「籠釣瓶」も吉原を舞台とする芝居ですが、江戸の遊郭文化の華かな側面(そこに自然と目が行くのは当然であるし・またそれがなければエンタテイメントにはなりませんが)を描くと同時に、暗い側面(廓で働く人々の苦しみ・哀感など)をしっかり描き・負の歴史に思いを致すことも大事なことになって来ます。と云うか・古典演劇を現代に上演する意義は(正の要素だけでなく・負の要素も含めた)「生きた歴史」を実感させることにあると思います。

遊郭吉原で働く女性の多くが、地方から身売りされてここ吉原にやってきた女性たちでした。彼女たちは前借金に縛られ、身動きが出来ない環境に置かれました。一握りの選ばれた女性は太夫だ・傾城だと持ち上げられて教養を学ばされ・着飾られて・贅沢な暮らしも出来ましたが、それとて限定された空間のなかでの「商品」としてのバーチャルな権勢に過ぎなかったのです。

そうしたなかで太夫が間夫を囲うことが多くありました。例えば揚巻は「深いと浅いは間夫と客、間夫がなければ女郎は闇。暗がりで見ても助六さんと意休さんを取り違えて良いものかいなア」を啖呵を切ります。それでは太夫と間夫との関係は、拘束された搾取空間に押し込められた太夫にとっての唯一の安らぎ、「真実の愛はそこ(間夫)にある」と云うものなのでしょうか?まず「籠釣瓶」での八つ橋と栄之丞との関係をそんなところから眺めてみたいと思います。

「籠釣瓶」大詰・立花屋二階において、次郎左衛門が八つ橋を殺害する直前の会話を引きます。

次郎左衛門:「身請けをしよう、なろうという、相談までもまとまって、我が花とせんその際に、手折りし主の栄之丞ゆえ、満座のなかで悪口され、恩を仇にて次郎左衛門へ、ようも恥辱を与えたな」
八つ橋:「そのお立腹は御尤もながら、これには深いわけある事。お気を鎮めてくださりませ。」

ここで八つ橋は「これには深いわけある事」と言っていますが、そのことを言わないまま八つ橋は殺されてしまいました。一体八つ橋は何を言おうとしたのか?そこを明らかにせねば「籠釣瓶」の真実は明らかにならないでしょう。八つ橋は「お気を鎮めてくださりませ」とも言っています。その「深いわけ」を言えば次郎左衛門は「そうか分かったぞ、そなたの真実はそこにあったのだな」と言って落着きを取り戻して刀を鞘に納める、そう云うものが「深いわけ」であるはずです。

ここでもし八つ橋が「実は私は栄之丞さんをずっと前から愛していたの。それなのに廓の連中が寄ってたかって無理やり貴方との身請けの話を進めてしまったの」と言ったとしたら、それで次郎左衛門がハッと落ち着きを取り戻すでしょうか?次郎左衛門は「手折りし主の栄之丞ゆえ」と言うほどですから、八つ橋がそれを言ったとしたら、次郎左衛門の怒りの炎に油を注ぐだけのことで、一太刀ならぬ二・三太刀喰らうことになるでしょうね。だから八つ橋が云う「深いわけ」とは栄之丞のことではなく、何か別のことだと思います。

その「深いわけ」を考えなければなりませんが、遡って「籠釣瓶」縁切り場を見てみます。八つ橋は「深いわけ」と云うことを縁切り場でも言います。八つ橋は、

「これには、深い、イヤサ深い訳も何もないこと。只あなたが嫌だから、それでお断り申しますのさ」

と言うのです。八つ橋は「深い」と言いかけて止め、これを誤魔化しています。その後、次郎左衛門が栄之丞の姿を見て「さてはお前の間夫であったか」と問い詰められて、「ハイわたしの間夫でござんすわいなあ」と開き直るので、会話の流れからすると「深いわけ」が栄之丞を指すようにも聞こえますが、実はそうではありません。八つ橋にはホントの理由をはっきり言えない「事情」がありそうです。

縁切り場での八つ橋を見れば、何やら八つ橋は次郎左衛門に対する申し訳なさで一杯のようです。八つ橋がこの場を立ち去る時の九重との会話を見ます。

九重:「それではどうでも佐野さんを・・」
八つ橋:「わたしゃつくづくイヤになりんした。」
九重:「すりゃ浮世の義理を振り捨てて・・」
八つ橋:「アイ。・・・
九重さん、堪忍して下んせ。」

この会話も流れからすると「佐野さんがつくづく嫌いになりんした」と言うかのようにも聞こえますが、もしそうならば八つ橋は九重に「わたしゃ縁切りしてスッキリしやんした」と笑顔で答えれば良いのです。どうして八つ橋は「堪忍して下んせ」と萎れているのでしょうか。それはもちろん次郎左衛門に対して済まないと思っているからです。「九重さん、堪忍して下んせ」と言いながら九重に対して謝っているのではなく、次郎左衛門に対して謝っているのです。

そうすると八つ橋が「わたしゃつくづくイヤになりんした」という台詞は、別の響きを帯びると思います。これは「わたしゃ遊女であることがつくづくイヤになりんした」、或いは「わたしゃ生きているのがつくづくイヤになりんした」と云う八つ橋の嘆きに違いありません。(この稿つづく)

(R6・2・19)


2)間夫という搾取システム

別稿「八つ橋の悲劇」論考はビゼーの歌劇「カルメン」とのコラボレーションになっています。「籠釣瓶」のなかで八つ橋が置かれた状況を考える時、「カルメン」は驚くほどの符号を見せます。スラヴォイ・ジジェクの「斜めから見る」(青土社)を「籠釣瓶」の流れに沿って読んでみます。

『カルメンは男たちにとっての対象であり、彼女の魅力は、男たちの幻想空間のなかで彼女が演じる役割に由来していた。彼女は自分が「糸をあやつって」いるのだと錯覚していたが、彼女は男たちの症候にほかならなかった。』(スラヴォイ・ジジェク:「斜めから見る」〜欲望の「現実界」を避ける二つの方法)

太夫とは、吉原という幻想空間が作り上げた仮想の権威構造の頂点に居る存在です。花魁道中の八つ橋は、目の前であばた顔の田舎者(次郎左衛門)がへナヘナとなったのを見て、自分が男たちを操っているという快楽に酔いしれたことでしょう。しかし、それは錯覚に過ぎず、実は彼女自身が男たちの欲望が作り上げた症候にほかならなかったのです。

『彼女(カルメン)は男たちを破滅に導くと同時に、自分自身の快楽への渇望の犠牲者でもある。権力欲にとりつかれ、男たちをたえず操るが、同時に、第三の、曖昧な人物の奴隷でもある。彼女が神秘のオーラをまとっているのは、まさしく、彼女を主人と奴隷の対立に明確に位置付けることができないからである。』(同掲書)

自分が客に金で買われるのとは違って、間夫を囲う時には、女郎は自分が男を養っていると云うことで精神的優位に立つことが出来・あたかも自分が自由意志で男を愛しているような幻想に浸ることが出来ます。だからその意味では間夫は吉原というシステムと対立しているかのように見えるでしょう。しかし、実は間夫は、吉原というシステムと対立するものではないのです。それはシステムに寄生して咲く毒花であって、或る意味、遊郭「吉原」と共生する搾取システムの一部のようなものです。それが「間夫がなければ女郎は闇」と揚巻が言うことのホントの意味です。女郎と間夫との関係に真実はありません。間夫とは、仕事も何もせず・女を食いものにするだけの・どうしようもない存在です。間夫が甘い蜜を吸わせてくれる宿主を捨てることは決してありません。宿主を最後までしゃぶり尽くすだけです。間夫である栄之丞がこのことを八つ橋に思い知らせます。

『何度シャッフルしてもカードはつねに彼女(カルメン)の死を予告する。遂に彼女は、出会った男たちの運命を左右した自分自身が運命の犠牲者であり、自分では支配できない力の手中の玩具なのだということに気づくだけでなく、欲望を諦めることなく自分の運命を無条件に受け入れる。すなわち死の欲動の「現実界」を素直に受け入れる。』(同掲書)

八つ橋は栄之丞に詰問されて、自分が遊郭「吉原」の搾取構造から逃れることは決して出来ないことを思い知りました。八つ橋は欲望を諦めることなく「現実界」を無条件に受け入れることに同意せざるを得ません。こうして八つ橋は、栄之丞の指図通りに満座で次郎左衛門に愛想尽かしするのです。

『彼女(カルメン)が強烈な快感に貫かれているかのように見えるまさにその瞬間、じつは恐ろしく苦しんでいるのだということが明らかになる。いったい彼女は楽しんでいるのか、苦しんでいるのか、男を操っているのか、それとも彼女自身が操られているのか、どうしてもはっきりしない。』(同掲書)

吉原の人たちは八つ橋が豹変したことに驚いて、何故かと問い・その心変わりを咎めます。内心は次郎左衛門に済まないと感じている八つ橋は周囲から責められて一層苦しくなりますが、引くに引けない立場から次第にムカムカしてきて、遂に怒り出します。「何も隠すには及ばないよ、あの人はハイわたしの間夫でござんすわいナ」と叫ぶ時、いったい八つ橋はこの愛想尽かしを楽しんでいるのか、それとも苦しんでいるのか、そのどちらなのかも判然としません。

以上が八つ橋の心理分析ですが、八つ橋と次郎左衛門との関係を考えるためには、もうひとつ別のオペラ、ヴェルディの歌劇「椿姫」を取り上げるのが相応しいでしょう。主人公ヴィオレッタはパリの高級娼婦で、男と酒とゲームとで楽しく遊び暮らす日々です。そこに若い純情男(アルフレート)が現れて心からの愛の告白を受けます。これまで享楽的な暮らしのなかで嘘偽りの恋愛沙汰しかして来なかったヴィオレッタは大いに戸惑います。思い切ろうとしてもアルフレートのことが思い出されます。「馬鹿なことを考えてはいけない。私はいつだって自由。昼も夜も快楽を求めて遊べばいいの」、そう叫びながら彼女の心は落ち着かないのです。本稿冒頭に引用したのは、第1幕幕切れに登場する技巧的なアリア「花から花へ」の歌詞です。

『人々がパリと呼ぶ、人の砂漠の中に、今更何を望めばいいの?何をすればいいの?楽しむのよ、喜びの渦の中で消えていくのよ。私はいつも自由に、快楽から快楽へと遊べばいいの。』

「私はいつだって自由。快楽を楽しむだけ」、そう叫びながら、牢獄に捕らわれて、一番もがき苦しんでいるのは、主人公ヴィオレッタです。コロラトゥーラの高音はまるでヴィオレッタが悲鳴をあげるが如くに聴こえます。ヴェルディがそう書いているのです。「籠釣瓶」の八つ橋もまた同様の状況です。「わたしゃ好いた所へ行く気でありんす。わたしゃ身請けは否じゃわいなあ」と叫びながら、実は一番もがき苦しんでいるのは八つ橋です。八つ橋の真実が栄之丞にあるか・次郎左衛門にあるかは、そこを考えれば明らかなことです。(この稿つづく)

(R6・2・24)


3)「籠釣瓶」の社会的視座

もうひとつ考えなければならないのは、「籠釣瓶」と云う作品の社会的視座と云うことです。「籠釣瓶」は三代目河竹新七の作で、明治21年(1888)東京千歳座(後の明治座)で初演されました。ご存じの通り、この頃の歌舞伎は演劇改良運動が最も激しい時期でした。旧態依然の荒唐無稽な筋立てを排して・新しい時代の道徳に即した芝居を創始せねばならぬという運動で、旧弊の権化として槍玉に挙げられたのが黙阿弥でした。これに嫌気が差した黙阿弥は明治14年11月に「島月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」を書いて二代目新七を改め・黙阿弥を名乗って引退宣言してしまったほどです。「籠釣瓶」もそのような荒波の時期の作品ですから、座付狂言作者が書いた旧式の歌舞伎作品に違いないですが、演劇改良運動の波に洗われた社会的視座がはっきりとあるはずです。

もともと黙阿弥の高弟である三代目新七は廓の風俗の細かいところを描くことに長けた書き手で、黙阿弥が「天衣紛上野初花」(明治14年3月新富座)を書いた時には大口寮の場面を三代目新七に任せたほどでした。それでは「籠釣瓶」のどこに社会的視座が見えるでしょうか。歌舞伎の愛想尽かしでは、いつも裏切られる男(辛抱立役)の悔しさがじっくりねっとり描かれます。奏でられる胡弓の音色が男の哀切さをさらに掻き立てます。そこは「籠釣瓶」の愛想尽かしでも同じですが、三代目新七は吉原の実態を知り尽くしているだけに、愛想尽かしする(せざるを得ない)八つ橋の心理描写の説得力が全然違います。三代目新七の社会的視座がそこから浮かび上がって来るようです。

愛想尽かしする八つ橋の心のなかは、次郎左衛門に対する申し訳なさでいっぱいです。ホントは真相(深いわけ)を説明して許しを請わねばならぬところですが、八つ橋の立場ではそれが出来ません。周囲の人々は八つ橋の豹変に驚き、その理由を問い、八つ橋の心変わりを咎めます。もともと申し訳ないと思っているのですから、周囲から責め立てられると、八つ橋はますます苦しくなります。しかし、八つ橋はこれからも太夫として吉原に君臨せねばなりません。ここで毅然としたところを見せなければ、太夫としての面目が立ちません。遂に八つ橋は「わたしゃ好いた所へ行く気でありんす。わたしゃ身請けは否じゃわいなあ」と叫び出します。「決めるのはわたしでありんす。太夫のわたしが否といったら後には引けぬ」と云うことです。この瞬間、太夫であることが何の意味も持たないことが誰の目にも明らかになってしまいます。太夫とは遊郭の搾取システムのなかで創り上げられたヴァーチャルな権勢、何の実体も持たない・偽りの存在であったのです。前章で引用したジジェクの文章を思い出してください。

『遂に彼女は、出会った男たちの運命を左右した自分自身が運命の犠牲者であり、自分では支配できない力の手中の玩具なのだということに気づくだけでなく、欲望を諦めることなく自分の運命を無条件に受け入れる。』(スラヴォイ・ジジェク:「斜めから見る」〜欲望の「現実界」を避ける二つの方法)

自分がただの操り人形に過ぎないことを自覚した八つ橋は、「わたしゃつくづくイヤになりんした」と思わず吐露します。ここで八つ橋が自覚したのは遊郭「吉原」の搾取システムのことだけではありません。自分に寄生して甘い汁を吸い続ける間夫(栄之丞)も判人(権八)もこの遊郭の搾取システムの一部なのであり、それらにがんじがらめに縛られているのが自分の境遇であることを八つ橋ははっきり自覚することになります。

もうひとつ・ここで大事なことは、八つ橋が自覚したのと同じことを、同時に次郎左衛門も自覚したと云うことです。彼が入れ揚げた八つ橋太夫とは吉原の搾取システムが産み出した幻想に過ぎなかったと云うことです。吉原こそ享楽的・消費的な都市である江戸が生み出した典型的な搾取システムである。この認識が「籠釣瓶」の社会的視座です。そんなことが何故分かるのかと言うと、それはこの後、次郎左衛門が俗に云う「花の吉原百人斬り」をすることになるからです。次郎左衛門が八つ橋が愛想尽かしされたのに怒っただけならば、八つ橋を殺し・栄之丞と権八を斬れば、それで事は終わるはずです。しかし、次郎左衛門はなお多くの無関係な人々を殺傷することになる。と云うことは、次郎左衛門は「自分が満座で恥を掻かされた」と云うことでなく、もっと大きいものに対して怒っているに違いないのです。

このことは、「籠釣瓶」から影響を受けたとされる後の池田大伍の「名月八幡祭」(大正7年・1918・8月歌舞伎座)を見ると、はっきり見えて来ます。美代吉に振られて気が狂った新助が小判をばら撒くと・取り囲んだ者たちが驚いて拾う。これを見た新助がヘラヘラと笑います。「お前ら江戸者は、コレ(お金)が欲しいんダロ、コレが好きなだけなんダロ」と云う、田舎者の強烈な僻(ひが)みが見えます。同時に江戸の(=後の東京の)享楽的な・消費的社会構造の薄っぺらさがそこに批判されています。これが大正期の新歌舞伎の、池田大伍の社会的視座なのです。

明治21年の「籠釣瓶」では、確かに三代目新七ははっきりそれを意識して書いたわけではないでしょう。しかし、三代目新七は遊郭のシステムを知り尽くしていました。その彼が仔細を尽くして芝居を書いた時、本人がそれを意識せずとも、明治20年代当時の社会的視座が自然と立ち現れると云うことがきっとあるはずです。名作と呼ばれるものは、そう云うものなのです。「籠釣瓶」を見れば妖刀「籠釣瓶」を絡めた因果噺の仕立てになっている(旧態依然としたものを引きずってはいます)が、はっきり後の新歌舞伎「名月八幡祭」に先立つものが見えます。

その証左として挙げたいのは、次郎左衛門が愛想尽かしされた後、怒りに任せてすぐさま八つ橋を殺傷するのではなく、「籠釣瓶」では次郎左衛門が刀を振るうのはその4か月後と、そこに長い時間差が存在することです。実は「籠釣瓶」初演時には、故郷へ帰った次郎左衛門が身辺整理をしてから江戸へ向かう幕(佐野勘兵衛住居の場)がありました。初演の時から「愛想尽かしと八つ橋殺害に時間が開き過ぎで、これでは怒りが冷めちゃうでしょ」という批評が少なからずあったそうです。これに対して初演の次郎左衛門を勤めた初代左団次が

次郎左衛門は愛想尽かしされた後・一度故郷へ帰り暇乞いして・それから四ヶ月後に戻って八つ橋を殺すのだから、そうカッと怒ってはいけない。大体あの場で怒っていれば翌日八つ橋を殺していただろう。だから腹のなかで怒っても形に怒りを表すのは間違いだ。』

とはっきり言ったそうです。一旦故郷へ帰って、商売を畳み・屋敷田畑を売り払って・身辺をキレイにしてから、次郎左衛門は事を進めたのです。次郎左衛門の律義さと粘着気質、その怒りの凄まじさが察せられます。次郎左衛門は度々そのことを思い出して・怒りに震えたに違いありませんが、怒りを腹のなかに納めて・何度も反芻(はんすう)しつつ、じっくり考えたうえで行動しています。そのような次郎左衛門であってみれば、そこに確かな社会的視座があったに違いない。決して「満座で恥を掻かされた」ということだけで怒ったわけではないのです。「俺が田舎者だからこんな目に合わせたのだろ。俺があばた顔だからこんな目に合わせたのだろ。お前ら江戸者は、表向きは人の良さそうな顔をしていても、実は金が欲しいだけなんだろ」とか、そこに強烈な僻みが潜んでいるのです。そうでなければ「花の吉原百人斬り」など決して出来ないことです。そこを芝居ではまだ妖刀「籠釣瓶」のせいにしていますが、そのような強烈な僻みが行間から垣間見えて来ます。何故ならばそこに4か月の時間差があるからです。これこそが30年後の「名月八幡祭」へと繋がる社会的視座の証左です。だから「籠釣瓶」はプレ(前段階の)新歌舞伎だと云うことになりますね。

「籠釣瓶」は直接的には講談「三都勇剣伝」(さんとゆうけんでん)から材料を取ったと云われています。「三都勇剣伝」の八つ橋は、明らかに栄之丞・権八と結託して・次郎左衛門を喰いものにしようと企む性悪女です。八つ橋殺しは縁切りの4ヵ月後のことではなく、次郎左衛門は愛想尽かしされた後・宿屋に帰って刀を持ってすぐさま吉原へ戻って殺しに至るのです。次郎左衛門は八つ橋と栄之丞がひとつ部屋で「うまくしてやったり」 などと言っているところへ踏み込んで、まず栄之丞を斬り・次に八つ橋を仕留めます。

つまり八つ橋殺しを愛想尽かしから四ヶ月後の設定に変えたところに歌舞伎の「籠釣瓶」独自の工夫があるわけです。もしかしたら、この改変は初代左団次からの提案だったかも知れないと思うのですが、これは吉之助の想像に過ぎませんがね。(この稿つづく)

(R6・2・28)


4)七之助の八つ橋・勘九郎の次郎左衛門

このように縁切り場の八つ橋の性根は、次郎左衛門に対する申し訳なさに置くことが肝心だと思います。今回(令和6年2月歌舞伎座)の「籠釣瓶」での七之助初役の八つ橋は、玉三郎に教えを受けたそうです。玉三郎の八つ橋であると・申し訳なさでヨヨッと崩れ落ちそうなところを太夫のプライドでかろうじて持ち堪えていると云う印象ですが、七之助の八つ橋はもう少し気が強そうです。内心の申し訳なさが強いから、周囲からの責めがあまりに強くなると、必要以上に居丈高に出てしまうと云った感じでしょうかね。次郎左衛門に間夫の存在を問い詰められて開き直るところなどはまさにそうで、次郎左衛門に対する申し訳なさと太夫のプライドとの間に引き裂かれて、ジジェクが指摘するところの「彼女は楽しんでいるのか、苦しんでいるのか、男を操っているのか、それとも彼女自身が操られているのか、どうしてもはっきりしない」という光景がここに現出しました。それは肚に次郎左衛門に対する申し訳なさをしっかり保持出来ているからです。見事な八つ橋でありましたね。対する勘九郎初役の次郎左衛門も実事(じつごと)の性根をしっかり持って、七之助の八つ橋に拮抗した見事な次郎左衛門になりました。

ところで今回の「籠釣瓶」は、「十八代目勘三郎十三回忌追善」と銘打たれています。平成の傑出した人気役者であった父の後を継いで・中村屋の長として一門を率いる当代勘九郎の苦労は並大抵でないと思います。父の人気をそのまま引き継げるというメリットもありますが、観客がどうしても亡き父の芸の再現を息子に求めます。それはもちろん仕方のないことですが、それに応えようとする勘九郎の舞台が何となく亡き父のコピーに見えて来る、そのような場面をこれまで幾度となく見てきました。しかし、勘九郎の芸質は愛嬌が勝った亡父とはちょっと異なるもので、線が太い色合いであろうと思います。どちらかと云えば、実事の役に向きのニンである。これまでの勘九郎はそこをどことなく亡父の方へ引き寄せてしまった印象があって、自らの資質を十分生かし切れていなかったと思います。

今回の次郎左衛門を見ると、勘九郎は父の死以来・やっとその影響から脱し、もちろん父のやり方を踏襲してはいるが、決して父のコピーになっていない・自分なりの次郎左衛門像を創れていた気がしました。人柄が良い・誰からも愛される次郎左衛門でなく、実直で飾り気のない・線が太い次郎左衛門になっていました。ここ十年ほど見てきた勘九郎の舞台のなかで最も良い出来であったと思いますね。これが十三回忌追善と云うことで勘九郎のなかで何かが吹っ切れたと云うことならば、これからの勘九郎は期待できると思います。

以上のことを認めたうえで、勘九郎の次郎左衛門について思い付いたことを書きます。次郎左衛門を線が太い色合いに作れているのは良いことだが、熱演の余り(と云うことだと思いますが)末尾を長く引き伸ばす場面が散見されます。役者によって台詞が多少異なりますが、例えば、

「廊下で逢った二人連れのあの客は、八つ橋、おぬしの間夫だな」

と叫ぶ台詞では、勘九郎は「オヌシ」辺りからテンポをグッと遅くして末尾を「マーブーダーナーア」と長く引き伸ばす言い方です。こうすると確かに「芝居らしく」は聞こえます。中村屋!と声が掛かりそうです。ただしこれだと会話がここで終息してしまいます。時代物めいて写実の表現から遠くなってしまいます。せっかく次郎左衛門を世話の実事で演じているのに、語尾を長く引き伸ばすことで写実から離れてしまいます。このことはこの場の演技の息の置き方にも深く関連して来ます。この場面の会話は、

次郎:「廊下で逢った二人連れのあの客は、八つ橋、おぬしの間夫だな」
お辰:「イエあれは四谷のお客でござります」
八つ橋:「何も隠すには及ばない。お察しの通りアノ人は繁山栄之丞という浪人で、実はわちきの間夫でござんす」

となりますが、ここが縁切り場のクライマックスです。吉之助が思うには、ここは次郎左衛門は「おぬしの間夫だな」を言い切って、ここでグッと息を詰めて返答を待つ。「アノ人は繁山栄之丞という浪人で・・」まで次郎左衛門は息を詰め、八つ橋の台詞が区切りに着いたところで、「アッそうであったか」と云う感じで残った息をガッと吐き出す。「実はわちきの間夫でござんすわいナア」で、次郎左衛門は次第に顔を上げ・ワナワナワナと怒りの顔色を露わにする(ここで息を深く吸う)と云う感じではないでしょうかね。

次郎左衛門が「マーブーダーナーア」と末尾を長く引き伸ばして息を吐き切ってしまうと、ここからの長い息詰めが持ちません。と云うことは勘九郎はどこかで息を継いでいるでしょうが、これではいけません。これでは息が抜けてしまいます。「芝居らしく」は見えますが・「らしい」だけで、これでは縁切り場のクライマックスが真実になりません。このことは大詰・殺し場での次郎左衛門の、

次郎:「満座のなかで悪口され、恩を仇にて次郎左衛門に、おのれは恥を掻かせたな」

という台詞も同様なことです。「カーカーセーターナー」と末尾を長く引き伸ばすのではなく、怒りの台詞を簡潔に一気に言い放つことが肝心です。そうしないと刀を抜き放つ息に乱れを来たします。せっかくの良い実事の次郎左衛門であるのに、もったいない。多分「籠釣瓶」を古典歌舞伎の範疇だと考えているのではないかな。そうではなくて「籠釣瓶」を明治21年の「プレ新歌舞伎」だと考えるならば、演じ方は自ずと変わってくるのではないでしょうかね。(この稿つづく)

(R6・2・29)


5)妖刀・籠釣瓶の魔力

もうひとつ考えたいことは、「一旦抜き放てば血を見ないでは収まらぬ」と云われる妖刀・籠釣瓶の魔力のことです。今回(令和6年2月歌舞伎座)の立花屋二階・殺し場での勘九郎の次郎左衛門は、八つ橋に恨みの言葉を投げつけた後・床の間に刀を取りに走り、刀を鞘から抜き放つや、刀がまるで斬る者を求めるかのように動く、これに引きずられるように次郎左衛門は八つ橋に躍りかかって斬り付けると云う、木偶のような・ぎこちない動きを見事に見せました。これは妖刀・籠釣瓶の仕業だということを明らかにする演技です。刀身を眺めて「籠釣瓶はよく斬れるなア」という狂気に憑かれた目付きもなかなか良かった。ここの箇所は父・十八代目勘三郎の次郎左衛門より鮮やかだったかも知れませんね。

しかし、確かに「良かった」と思うけれども、ここで妖刀・籠釣瓶の仕業だと云うところを強調すればするほど、芝居が写実(リアル)から離れて行くのです。「伊勢音頭・油屋」の福岡貢が振り回す青江下坂も同じですが、妖刀を振り回す者は心神喪失しており・これは本人が殺すのではなく・刀が人を殺めるのだと云う理屈では、福岡貢の怒りも・佐野次郎左衛門の恨みもその真実味(リアリティ)を損なってしまう。延いてはドラマそのものを無意味なものにしてしまうのです。

「伊勢音頭」については別稿「伊勢音頭の十人斬りを考える」で触れましたから、そちらをお読みください。同じことを「籠釣瓶」で検証すれば、こう云うことです。佐野次郎左衛門が・いわゆる「花の吉原百人斬り」事件を引き起こしたのは享保年間のことだとされています。詳しいことは伝わっていません。そんなに多くの人を殺めたわけでもないようですが、この事件は世の人々に強烈な衝撃を与えました。ここで大事なことは、「理由はよく分からないが、兎に角、コイツは激しく怒っている」、このことが人々に「荒ぶる神・怒れる神」を想起させたと云うことです。歌舞伎の荒事の主人公(御霊)はみんな、政治であるとか・社会とか、そのような自らが置かれた「裏切られた状況」に激しく怒っているのです。同じように次郎左衛門も、近世江戸の荒ぶる神に重ねられます。この事件が何かしら社会的な問題を孕むものであることを、当時の人々もみんな感付いていたのです。しかし、公にそれを口に出すことは憚られることでした。それはとても危険な感情でした。だからそれを「妖刀の仕業」に擬して・とりあえずそのことを考えないようにするのです。つまり妖刀・籠釣瓶とはドラマを穏便に回すための方便に過ぎないのです。真実は別のところにあります。

明治21年に書かれた「籠釣瓶」は、まだこのような江戸歌舞伎の残渣を濃厚に引きずっていました。ですから次郎左衛門の八つ橋殺しを「妖刀の仕業」として演じることが間違いだとは決して言いません。確かに台本にそのように書いてあるのです。しかし、「妖刀の仕業」と云うことをしゃかりきになって演じれば演じるほど、次郎左衛門の怒りは真実味(リアリティ)を失ない、ドラマは虚しいものになって行くのです。それならば八つ橋は何のために殺されたのか?と云うことになってしまいます。刀の祟りで八つ橋は死んだのでしょうか?

八つ橋も・そして次郎左衛門も、遊郭「吉原」の搾取システムの犠牲者であることを観客にはっきりと意識させねばなりません。そこに新しい時代(近代から現代へ)の歌舞伎の方向性を見出さなくてはなりません。恐らくこれは三代目新七の時代には見定めようとしても、薄暗い暗がりのなかに在って、まだはっきり見えなかったものであったかも知れませんね。しかし、三代目新七にだって全然見えていなかったわけではない。それが証拠に30年後の新歌舞伎「名月八幡祭」に向けて補助線を引いてみれば、「籠釣瓶」が持つ社会的視座がはっきりと見えるではありませんか。この点を明確にすることは、現代に「籠釣瓶」を上演するために必須のことです。歌舞伎役者はそう云うことをもっと真剣に考えて欲しいですね。(折しも3月歌舞伎座では「伊勢音頭」通しが掛かりますが、幸四郎はそこをどのように処理するでしょうかね。)

「籠釣瓶」で・このような社会的視座を明確に打ち出すための手法はただ一つ、それは次郎左衛門が明確に自分の意志で以て・怒りを以て八つ橋を斬ることです。だから「妖刀の仕業」ということは必要最小限に留めるべきです。刀身を眺めて「籠釣瓶はよく斬れるなア」で狂気の目付きをする場面さえあれば、そこはこれで十分なのです。しかし、刀に操られて八つ橋を斬る演技については上手く演れば演るほど余計なことになります。せっかく実事の良い出来の次郎左衛門であったのに、そこがちょっと惜しかったですね。

(R6・3・1)


 

 


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