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吉之助の雑談45(令和6年1月〜6月)


〇ブルックナー:交響曲第9番・第4楽章完成版のこと・その2

ブルックナーが亡くなった時(1896年)交響曲第9番は第3楽章までが完成しており・第4楽章はスケッチのまま未完成で遺された、と我々はずっとそう思っていたわけです。しかし、その後の綿密な調査によれば、かなりの量のメモや草稿が見つかっており、作曲の素材としては十分な量があるようです。作曲者の厳密な音楽理論に基づき・これらの断片を再構成してオーケストレーションを施して行くならば、第4楽章の復元は「想像されるよりもはるかに主観的な作業とはならない」(最終校訂者であるフィリップス氏の言に拠る)のだそうです。(この点は本年2月22日に同じくインバル指揮都響で聴いた・マーラーの未完で終わった最後の交響曲(第10番)の復元完成版の経緯と、事情はほぼ似たような感じに思われます。)とは云え、出来上がった交響曲でさえ作曲者自身が何度も手直しを続けて、幾つも版が存在するブルックナーのことですから、絶対的な正解はあり得ないわけですが、兎にも角にもその研究成果を聴くのは貴重な体験です。

完成された第4楽章は、第3楽章アダージョで作曲者がたどり着いた(結論であると我々が信じていた)境地をぶち壊して(という風に感じましたが、こういう展開になると思いませんでしたねえ)さらに魂が不毛の荒野を彷徨うが、最後の最後に救済されると云う感じでしょうかねえ。もしかしたら第3楽章までとオケの響き(というか感触)に若干の差があるようにも感じました(第4楽章の方が響きが鋭く感じられた)が、それがオーケストレーションから来るのか、今後演奏を繰り返すなかで練れてくるのかは分かりませんが、従来の三楽章観念に染まった聴き手に対して、第4楽章はかなり挑戦的に迫って来るなあと云う印象でありましたねえ。なかなかスリリングな体験であったと思います。

*アフタートークでのインバル氏(左)とフィリップス氏(右)

演奏後にアフタートークがあって、SPCM版の最終校訂者であるフィリップス氏の話も聞けたのですが、ブルックナーが亡くなる2年ほど前であったか・もはや第4楽章完成までの十分な時間が残されていないことを悟ったか・もし交響曲第9番が完成しなかった場合は合唱曲「テ・デウム」を第4楽章として演奏して欲しいと語った逸話を引用して、フィリップス氏が、この逸話は「ブルックナーがこの交響曲の演奏を第3楽章で終えてはならないと考えていたと云うことだと私は思う」と語ったことに強い感銘を受けました。

何と言いますかねえ、ブルックナーさんが「この交響曲を第3楽章で終わらせないでくれ」と言ってるのだから私はその実現のために第4楽章復元作業を続けて来ただけなのですとフィリップス氏が語ったわけではないのだけれど、吉之助にはそのように聞こえたのですがね。SPCM版・復元チームが40年を越えて作業を続けてきた動機はホントに純粋無垢なものだったのですね。ブルックナーのために遺された草稿・メモを徹底的に調べ上げる、ブルックナーならばこのように考えただろうかと・思考プロセスを何度も虚心に試行錯誤する、そのうちにこれがブルックナーだというものが脳裏に浮かびあがってくる、フィリップス氏はそれをスコアに書き留めただけ、まあそう云うことだったのだろうと思いました。そのために40年の作業を続けてきたわけです。

これは先達の型を自分のなかに落とし込み・これを自分のものとして再構成して演じる伝統芸能の作業と、何の違いがありましょうか。

(R6・6・14)


〇ブルックナー:交響曲第9番・第4楽章完成版のこと・その1

何だかとりとめのない話になりそうですが、そのうち伝統芸能に関連した話に展開して行くかも知れません。吉之助はクラシック音楽を聴いても、いつもどこかで伝統芸能との関連で聴いております。

先日(6月7日)池袋・東京芸術劇場にて、エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団により、ブルックナー:交響曲第9番・第4楽章完成版(SPCM版)・日本初演を聴いてきました。ご存じの通り、ブルックナーは9曲の交響曲を書きました。しかし、最後の第9番は作曲者の死(1896年・72歳)により完成に至りませんでした。このため現在は作曲者が書き上げた第3楽章アダージョまでを演奏し・これで曲を終えるのがほぼ通例となっています。言い換えれば、我々は無意識のうちに交響曲第9番を「三楽章構成の交響曲」として受け入れてきたのです。もちろん吉之助もそうです。

*SPCM版とは、この版の校訂に関わった4人の研究者(サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカ)の頭文字を取ったもの。

まあこれは仕方ないことであり、我々はシューベルトの第8番「未完成」(新全集では第7番なんだが・吉之助は古い人間なんで・この曲は第8番なのです)でも「この曲は二楽章で途切れる」と思って聴き、この曲が終わらざるが如く・シューベルトの思いも尽きることはないなどと思ったりするわけです。そうすると何だか曲が大いなる余白を伴った古典的な佇まいに思えて来ます。ブルックナーの交響曲第9番にも同じようなところがあって、第3楽章アダージョまでで聴き終えると、ゆったりと大きい静かな旋律で締められるので、何だか老ブルックナーが最後に到達した彼岸の境地を聴かせてもらったような気分になります。そこに深い味わいを感じるわけで、だから本曲は初演(1903年)以来世間にほぼ「(余白を伴った)三楽章構成の交響曲」みたいな感じで聴かれて来て、吉之助もまた同じような聴き方をしてきたわけです。この聴き方で素晴らしい演奏と感じたものはいくつも思い出せます。

しかし、実際にこの曲を聴きながらしばしば感じることですが、ブルックナーの第9番はなかなか奇怪な交響曲で、この曲をこれまでの第7番・第8番の交響曲からの延長で捉えようとすると、「エエッ?」と驚くような瞬間が随所に聴こえるのです。ブルックナーは敬虔なカトリック信徒であり、彼の音楽はほとんど「神への感謝・神への讃美」を告白するものだと言って間違いはないと思いますが、そこへ行くと、第9番の交響曲はちょっと趣きが異なります。これを神への「懐疑」と言い切ってしまうと、語弊がありそうです。ブルックナーに限ってそんなことはあり得ないのだが、それでも「神よ、ホントにこれで宜しかったのでしょうか?」という疑問が作曲者の内面にフツフツ湧いて来て仕方がないと云う感じなのです。第9番では、急に足元がパックリと割れて・そこから暗黒の世界の奥底が見えるみたいな瞬間が聴こえます。このような場面は第7番・第8番には見られないものです。これこそ第9番でのまったく新しいブルックナーの展開と言えます。これが19世紀末の時代の気分から来るものか、死が近いことを意識した老ブルックナーの心境から来るものかについては、これもいろんな議論が出来ると思います。

従来の「(余白を伴った)三楽章構成の交響曲」の聴き方であると、そのような暗黒の・デモーニッシュな瞬間が随所にあったとしても、最後の第3楽章アダージョの最終和音に清められて、「いろいろ迷い・葛藤はあったけれど・最終的には落ち着くべき所に落ち着いたなあ」というところで静かな感動に至るわけなのだが、果たして第9番はこの聴き方で宜しかったのであろうか?それは、決してこれまでの聴き方が間違っていたと云うことではなく、第9番を別の角度から見直した新鮮な驚きがそこにある、かも知れない。そこから新たな発見がある、かも知れない。まあそんなことを思うわけです。今回のSPCM版初演は、そんなことを考えるいいきっかけを与えてくれました。(ここまでの考察は芝居のバランスに関連すると云えますね。)(この稿つづく)

(R6・6・10)


〇令和6年5月歌舞伎座:「鴛鴦襖恋睦」・その4

「鴛鴦」は上の巻(相撲)と下の巻(鴛鴦)の関連が分かりにくいですね。そこは幻想劇(ファンタジー)ですから、細かいところに拘らず、すべてを想念のなかに自由に遊ばせれば宜しいことです。例えば下の巻に出てくる雄鳥の精とは一体どのような存在でしょうか。股野に殺された雄鳥の精は、

「ありし契りの変らずば、今血汐の加被(かび)なせし祐安どのの五体をかりまみえてたべよ我が夫鳥、会いたい見たい懐かしい」

と言っていますから、河津の身体を借りて現れたのです。つまりこの時点で河津は生きていることになるでしょう。しかし、肉体的に河津は生きていても、ドラマ的には河津は「既に死んでいる」のです。この後恋に狂い死にするか・遠矢で射殺されることになるか・それは分かりませんが、もう河津は死んだも同然です。これはもう決まっていることです。「相撲試合の直後に河津は死ぬことになる」、これが江戸の観客の誰もが知る「曽我物語」の常識であるからです。雄鳥が殺されたこと自体がこのことを示唆しています。

とすれば、下の巻の様相をどのように見れば良いでしょうか。下の巻では河津と喜瀬川のペアは人間であって人間ではない、鴛鴦であって鴛鴦でない、そのどちらでもあって・どちらでもないと云うことになります。股野だけが変わらず現実の人間です。「パラレルワールド」という概念がありますねえ。或る世界(時空)から分岐して、これと並列した形で存在する別の世界(時空)ということです。村上春樹の小説にもよく出てくる「アレ」です。「この現実とは別に、もしかしたら別の現実が存在するかもしれない」という考えは、「もしこうだったら」、別のこんな可能性があり得たかも知れないという想像を展開させます。もうひとつ逆の発想としては、「こんなことさえ起らなかったら」、世界はそのまま変わらず平和であったであろうにと、そう云う展開もあるでしょうね。「鴛鴦」の場合は明らかに後者です。

「鴛鴦」はこのように見れば宜しいかと思います。或る意味で鴛鴦とは、別世界の河津と喜瀬川のペアのパラレルな様相を見せるものです。この世界に仲睦まじく愛し合う男女のペア(河津と喜瀬川)がおり、並列した別世界にも仲睦まじく愛し合う鴛鴦のペアがいます。何事も起こらないうちは、二つの世界は互いに干渉もせず、均衡した状態で並列しています。ところがそこに股野が飛び込んで来て、雄鳥を殺し・その生血を河津に呑ませた。このことによってパラレルワールドの均衡が破れて、二つの世界は混ざり合い、そこから世界の混乱が始まるのです。鴛鴦の夫婦は仲睦まじく、それが無理やり引き裂かれてしまったら、互いを求め合って・狂おしく身を焼かずにはいられない、怨念の炎の激しさは、周囲の物さえ焼き尽くさずにおかぬほどである。「こんなことさえ起らなかったら」、二人の愛は永遠に続いたであろうに。

つまり舞踊「鴛鴦」は、悲しい・悲しい「愛の物語」なのです。「曽我物語」の相撲のエピソードから、こんな「愛の物語」を捻り出しちゃう狂言作者の発想ってホント凄いですねえ。

(R6・6・4)


〇令和6年5月歌舞伎座:「鴛鴦襖恋睦」・その3

ところで「鴛鴦」に登場する河津三郎祐安は曽我兄弟(十郎・五郎)の父ですが(つまり「鴛鴦」は曽我物ということになるわけです)が、どうして苗字が違うのかと云うと、河津三郎が殺された後、母が曽我祐信に再嫁したので兄弟は曽我姓を称したのです。「鴛鴦」に出てくる相撲のエピソードがどうして河津三郎なのかと言うことも、いささかややこしい。これは確かに「曽我物語」巻2-1・相撲の事に出てきます。

安元2年(1176)10月伊豆に流されていた源頼朝の退屈を慰めるために地元の武士たちが天城山中で巻狩り(軍事演習のようなもの)を行ったそうです。その時の余興で相撲が行われました。連勝して圧倒的な強さを誇った俣野五郎でしたが、これに河津三郎が挑んで熱戦の末に河津が勝負を制したのです。この時の河津の技が今日の大相撲の決まり手に「河津掛け」として残っています。俗説では相撲に負けたことを深く恨んだ俣野が、工藤祐経にそそのかされたかして、巻狩りの帰路に遠矢を射かけて河津を殺したと云う、これが17年後の建久4年(1193)5月富士の裾野で曽我兄弟が工藤祐経を討った仇討ち事件の遠因になったとするのです。この俗説は民間に結構広く流布したものであるようです。(注:「曽我物語」での表記は「俣野」ですが、「鴛鴦」では「股野」になっておりますね。なお「石切梶原」では「俣野」表記です。)

今日では河津三郎祐安の死は、河津の父・伊東入道祐親と工藤祐継・祐経父子との、二代に渡る所領争いの結果であるとされています。相撲のことは関係がないそうです。世間で俣野と河津の相撲試合(俗に「遺恨相撲」とされている)が曽我の仇討ちと結び付けられてしまったのは、河津の死が巻狩りの帰路のことで、これがたまたま相撲試合の直後であったせいでしょうかね。ましてや舞踊「鴛鴦」にあるように、相撲のエピソードに遊女喜瀬川を巡る恋争いが絡み、さらにこれが鴛鴦殺しに繋がっていくのは、これはまったく狂言作者の想像力の飛躍が成せる技ですね。

ところで「鴛鴦」での「股野」も・「石切梶原」の「俣野」も赤っ面の単純な悪役みたいに見られ勝ちですけれど、歌舞伎の荒事のキャラクターはそのなかに観客の好意的な感情を含むものと吉之助は考えております。「股野」が良くないと「鴛鴦」は面白くなりません。「石切梶原」も同じです。江戸の観客は、竹を割ったように真っ直ぐな・サッパリした気性の人物を好んだのです。これは「平家物語」にあるエピソードですが、斎藤実盛が仲間の意志を探ろうと、自分はそのつもりはないのに「ここは勢いが盛んな源氏方に付こうではないか」と鎌を掛けた時に、俣野五郎は、

『さすがわれわれは、東国では人に知られて、名ある者でこそあれ、吉について、彼方(あたな)へ参り此方(こなた)へ参らんことは見苦しかるべき。(中略)景久に於いては、今度平家の御方で、討ち死せんと思ひ切って候ぞ』(「平家物語」)

と答えたそうです。俣野五郎は「名を惜しむ」ことを知る立派な武士なのです。ちなみに史実の俣野を「鴛鴦」で「股野」と表記するのには、そこに俣野に対する狂言作者の何らかの「申し訳」(スミマセンここんとこちょっと変えてみましたみたいな)が潜んでいるのかも知れないと吉之助は思っているのですがね。(この稿つづく)

(R6・6・2)


〇令和6年5月歌舞伎座:「鴛鴦襖恋睦」・その2

「鴛鴦」には長唄の拍子に乗って役者が歌うように台詞を言う場面があって、これを「拍子舞(ひょうしまい)」と呼びます。拍子舞は、安永天明期の舞踊に流行った技法です。代表的なものを挙げれば、「蜘蛛の拍子舞」(天明元年・1781・江戸中村座)あるいは「鬼次拍子舞」(寛政5年・1793・江戸河原崎座)などがあります。

「下座の拍子に乗って役者が台詞をしゃべる」と云うと、そのような場面は義太夫狂言の「物語」とか・ノリ地で竹本との掛け合いにもあると思うかも知れませんが、義太夫節のような語り物系音楽の場合は、原則的に地の部分を役者が担うものであって、役者と竹本との一定の関係性が守られています。「役者は人形の真似はせぬものだ」という強い意識があるなか、ノリ地のように三味線のリズムが前面に出る場面であっても、役者は糸に丸乗りするようなことはせぬものです。完全にリズムを外すことはあり得ませんけど、音楽に付かず離れず台詞をしゃべろうとするものです。

拍子舞も上記の技法を擬したものに違いありません(元々の発想はそんなところにあったのでしょう)が、長唄など歌いもの系音楽は、旋律や歌いまわしにそれぞれ強い特長を持っています。したがって、長唄での拍子舞では、役者の方にもう少し音楽に寄り添う(音楽に乗って行こうとする)意識が必要になって来ます。そうでなければ下座音楽と役者との関係性が分解してしまいます。そこが義太夫狂言のノリ地とは質的に全然違うところだと思います。指導なさる方はそこら辺もきっちり指導していただきたいと思います。

そこで今回(令和6年5月歌舞伎座)の「鴛鴦」での松也の河津・右近の喜瀬川・萬太郎の股野という若手花形の拍子舞を見ると、三人共に義太夫狂言のノリ地との区別が全然付いておらぬようでありますね。長唄の歌いまわしを無視したまま、役者が二拍子気味のリズムで台詞を連ねている印象です。しかも台詞のリズムが二字目起こしでなくて・頭打ち(一拍目にアクセントが付く)になっていて、台詞がまったく長唄と水と油の状態になっています。前章で「前半の長唄・後半の常磐津の音楽が醸し出す暗い情念とまるで無関係にドラマが推移していく印象」と書きましたが、そうなってしまう原因がここにあります。

特に吉之助がガッカリさせられたのは、右近の喜瀬川です。確か右近は清元の太夫(栄寿太夫)でもあるわけですよね。二刀流を標榜するのであれば、「この役者さんは清元の太夫だけあって、まるで謡うが如くの台詞まわしだねえ」と観客を感嘆させて欲しいと思うのですがねえ。(この稿つづく)

(R6・6・1)


〇令和6年5月歌舞伎座:「鴛鴦襖恋睦」・その1

本稿は、令和6年5月歌舞伎座での「鴛鴦襖恋睦」(おしのふすまこいのむつごと)の観劇随想です。本作はあまり上演頻度が高くなくて、今回は10年ぶりの上演になります。河津三郎と股野五郎の遊女喜瀬川を巡る恋争いに引き裂かれた鴛鴦の夫婦の狂おしい情念が絡む幻想劇(ファンタジー)です。「ファンタジー」にもいろいろな意味合いがあって、現実にはあり得ない絵空事というようにチープに受け取る見方も出来ますが、また一方で現実をデフォルメした形で・イメージを自由に飛翔させた表現形式であると見ることも出来ると思います。

今回は松也の河津・右近の喜瀬川・萬太郎の股野という若手花形の配役で、もちろん一生懸命やってはいます。若手ならではの華やかさもあります。けれど元気が良過ぎて、全体的に何だかセカセカした感触なのだよなあ。或いは三人共に初役ゆえ振りに余裕がないのかも知れませんが、この舞台からは華やかではあっても・絵空事のチープなイメージしか浮かんで来ない気がするのです。それが前半の長唄・後半の常磐津の音楽が醸し出す暗い情念とまるで無関係にドラマが推移していく印象です。シュワーッと炭酸の泡が立って消えていく感覚ですかねえ。彼ら若手には「鴛鴦」という舞踊がこんな感じに見えているのであろうか。今回どなたがご指導をされたのか知りませんけれど、ちょっと一言申し上げたい気分になりました。

吉之助は歌舞伎役者のことを江戸の古(いにしえ)の感触を現代に蘇らせてくれる人たちであると思うております。または舞台にそのような瞬間を期待しております。「鴛鴦」は、確かに前半後半の人物関係が錯綜しており、訳が分からないところがあります。それゆえ難しい理屈は抜きにパーッと幻想美に浸ってもらいましょと云う気持ちは分からぬでもありません。しかし、そう云う場合であっても、「鴛鴦の夫婦は仲睦まじく、それが無理やり引き裂かれてしまったら、互いを求め合って・狂おしく身を焼かずにはいられない」と云うところはしっかりと描いてもらわねばなりません。そこのところは最低限描いて欲しいと思います。「鴛鴦」は情念のドラマなのです。今回の舞台からはそのような暗い狂おしい情念がすっ飛んでしまっています。六代目歌右衛門のように情念をねっとりと描けと言っているわけではありません。情念の描き方にもいろいろあると思います。指導なさる方はそこのところまできっちり指導していただきたいと思いますね。

舞踊「鴛鴦」は、安永4年(1775)11月江戸中村座での顔見世狂言「花相撲源氏張膽(はなずもうげんじびいき)」という芝居の大詰所作事「四十八手恋所訳(しじゅうはってこいのしょわけ)」が最初のことでした。その後上演が絶えていましたが、昭和29年(1954)3月歌舞伎座での六代目歌右衛門の自主公演「莟会」で復活上演されたものです。したがって「鴛鴦」は同じ安永天明期の舞踊にその感触の手掛かりを求めるべきで、そうなれば参考とすべきはまずは「積恋雪関扉」(天明4年・1784・江戸桐座)であろうと思います。洒脱ななかにも・古風な味わいがもっとあって良いと思います。(この稿つづく)

(R6・5・31)


〇令和6年3月歌舞伎座:「伊勢音頭恋寝刃」・その5

以上でピントコナの考察をひとまず終えることにしますが、幸四郎の貢は、上方和事の「つっころばし」的な優美さ・柔らか味をベースにしているため、貢の性根がひ弱く見えるきらいがありますね。これだと「油屋」の縁切り物の骨格が明確になって来ないのです。と云うか・これは作品自体に若干問題があるということですが、いろいろ尾ひれが付いて筋が錯綜しているため縁切り物の骨格がストレートに浮かび上がって来ない、そのような作品の弱みは役者が補わねばならぬところで(もちろんこれは貢だけの仕事でありません)、「油屋」がしっかり縁切り物であることを示さねばなりません。今回(令和6年3月歌舞伎座)の舞台でもその形をもっと太い印象で明確に示して欲しいと思います。もちろんこれは幸四郎の貢だけの課題ではありませんが。

縁切り物の骨格と云うのは、縁切り場の男と女は相思相愛であり、女は或る事情のため愛想尽かしをせねばならぬのですが、実はそれは愛する男のための行為であったと云うことです。一方男の方は女に裏切られると夢にも思っていない。だから最初はこれを笑って受け流そうとしますが、次第に愛想尽かしが本気だと思えてきて、男は冷静で居られなくなります。これが縁切り物のポイントですが、もうひとつ大事なことは、縁切りのドラマは必ず殺し場へと続くことです。怒った男が女を殺してしまった後、事の真相が明らかになる、男は女の真(まこと)の愛情を知るのです。

「油屋」は筋が錯綜しているし・最後にお紺が殺されないので、上記のような縁切り物のパターンに完全に乗っているわけではないのです。実説の油屋騒動でもお紺は助かっています。作者もそこは変更出来なかったでしょう。しかし、芝居を見ながら観客は縁切り物のパターンを自然と踏まえ「油屋」の結末を推測します(或いは期待します)し、或いは作者が観客のそのような心理を巧みに利用したとも考えられます。「伊勢音頭」の異本にはお紺が貢に殺されるバージョンもあるそうですが、これは縁切り物本来のパターンを踏まえるならば当然そうなるべきものです。折口信夫は次のように語っています。

『脚本に随順して読んでいくと、お紺は余程えらい女で、貢と添われない宿命のもとに生きているのだと言うような風に解しなければならぬように、表現が向いている。それに(七代目)梅幸の演出がやはりそう言う方向へ向いている。今までのお紺に感じなかったことで、どうもやはり、この人がよく読んで演じていると言う気がする。しかし、そうすると、貢に殺されることを待つと言う風に書かれ、演ぜねばならぬのが、昔の芝居なのです。(中略)私などは、お紺も殺される昔に見た芝居の印象が強かったので、お紺の助かった舞台は、幾度見てもああ好かったという気がする。』(折口信夫:「合評会・伊勢音頭」・「演劇研究」第1号・昭和23年9月)

今回(令和6年3月歌舞伎座)の舞台では、「油屋」が縁切り物であることをしっかり示すため、幸四郎の貢は辛抱立役としての性根をもっと太く持って欲しいと思います。雀右衛門のお紺は、哀れさもあって一応のことは出来ていますが、悲壮感とでも云いますか、「愛する男のために私は死ぬ覚悟」というところまでは行っていなかった気がします。魁春の万野は、手順はもちろん六代目歌右衛門に拠っているわけですが、苛めの粘着質的な感触で歌右衛門に互するのはなかなか難しいことだけれど、縁切り物の骨格を明らかにするために万野の役割は大きいと思います。

(R6・5・26)


〇令和6年3月歌舞伎座:「伊勢音頭恋寝刃」・その4

福岡貢の印象がくるくる変わるのは「見た目」だけのことで、貢という男の真実(辛抱立役の性根)が変わるわけではないのです。貢は内心のイライラを押し隠し、お愛想笑いを浮かべますが、貢の内面は「恐ろしく硬張って」います。すなわち貢という役の本質は、「私が今ここで見せている様相は、私が本当に感じていること(真実の私)ではない」で一貫していると云うことです。

ところで別稿「和事芸の起源」において、上方和事の「やつし」の芸では滑稽な要素とシリアスな要素が交互に揺れるように出て来ることを指摘しました。その技法が表現するものは「今の私がしていることは、本当に私がしたいことではない」と云う鬱屈した気分にあります。

ここでやっと貢という役と上方和事が交錯することになりました。「伊勢音頭」は寛政8年(1796)7月大坂角の芝居での初演(作者は近松徳三)ですが、貢が上方生まれのキャラクターだから和事の気分を引き継いだと云う単純な筋道(プロセス)ではないだろうと思います。柔らかで滑稽な印象の伊左衛門(廓文章)が和事の代表的なキャラクターであることは、これは普通に理解が出来ます。しかし、貢が上方和事で処理されなければならない「劇的必然」は、優美さ・柔らかさから発想すると理解が難しい。そこはやはり「今の私がしていることは、本当に私がしたいことではない」という和事の本質を踏まえなければ納得が出来ません。

このことは深いところで当時の庶民の鬱屈した気分を反映してもいます。松平定信の寛政の改革は天明7年(1787)から寛政5年(1793)まで行われました。おかげで景気はすっかり冷え込んでしまって、庶民の反発を買ってしまいました。三方四方から悪態をつかれて我慢する貢が最後にブチ切れて刀を振り回すのを見て、「おい貢よ、何で怒らへんねん、はっきりせんかい」とそれまでジリジリしていた観客のストレスが、ここで一気に開放されます。これが「伊勢音頭」が一躍人気作となった背景です。大きな声では云えないけれど、みんな世の中にイライラしていたと云うことですね。

ひとつの問題は、その後の歌舞伎のなかで、上方和事の本質が忘れ去られて、和事がその優美で柔らかいイメージで表層的に受け取られる風潮になってきたことです。そんなところから「色男、金と力はなかりけり」という「つっころばし」のイメージが、和事の一般的な理解になって行きます。このため貢の役作りも優美さをベースにするかの如くに受け取られていますが、そこに大きな誤解があると思いますね。五代目菊五郎にしても・十五代目羽左衛門にしても、確かに優美な印象が残ったに違いありませんが、歴代の貢役者と云われた名優たちは、みな辛抱立役としての貢の性根をしっかり押さえていたのです。十五代目羽左衛門が五代目菊五郎の貢をこのように回想しています。

『五代目の貢はよかったね。万野を斬って行灯に寄って刀を振り上げた姿など、今に目についているね。それに万野を斬ってからの目色が変わって実際凄みがあったぜ。よく「殺気をふくむ」などと本に書いてあるが、五代目のあれなんざアほんとにそう思えるね。』(十五代目市村羽左衛門:芸談・「演芸画報」・昭和8年7月号)

だから貢の十人斬りが「殺気をふくむ」本気のものでなければならぬのは、当然のことなのです。(この稿つづく)

(R6・5・24)


〇令和6年3月歌舞伎座:「伊勢音頭恋寝刃」・その3

寛政8年(1796)5月4日夜、伊勢古市の遊郭油屋で殺傷事件を引き起こした孫福斎(まごふくいつき)は町医者でした。「伊勢音頭恋寝刃」では主人公福岡貢の職業を御師へ置き換えています。伊勢らしい設定にしようと云う意図だったのかも知れませんが、江戸の役者には御師という職業がよく分かりませんでした。武士ではないが・町人でもなく・さりとて神主とも言えないと云う・よく分からないのが御師なのです。ところで折口信夫がこんなことを言っているのを見付けました。

『脚本には太々講を描いたので、結局貢が御師らしく見えますが、全体を通じても、別に御師としての切実性がないじゃありませんか。謂わば当時としては戯曲質のない職業だったのでしょうね。だから舞台としては侍となっても仕方がないでしょう。事実、誰がやったところで侍になるのです。御師はどういう引き出しに操ったらよいか、役者も知らないのです。ただ侍らしくして侍らしくない処がちょいちょい出ればよいというようなつもりでいたのでしょう。だから何だか似せ婿みたいなものになります。(中略)だが、従来の侍式の行き方と言葉となら、貢の偶像が壊れます。』(折口信夫:「合評会・伊勢音頭」・「演劇研究」第1号・昭和23年9月)

ちなみにこの合評会(池田弥三郎・久保田万太郎・戸板康二・戸部銀作など錚々たる面々)でも誰も「ピントコナ」という用語を使っていません。折口がここで言っていることは、芝居に於いては、結局御師の根本的なイメージを武士に置かざるを得ないと云うことです。ただし厳密には武士ではないので、武士らしくないところがちょいちょい出る、そう云うところで町人とか神職の風がちょっと出せればそれで良いと云うことです。

ところで、ここで折口が「似せ婿みたいなもの」とポロリと漏らしていますけれど、どうして折口が「似せ婿」なんてことを言ったのか、この座談会だけだと全然分かりませんねえ。しかし、別稿「ピントコナ考」でも引用しましたが、「折口信夫坐談」のこの箇所を読めば分かります。戸板氏は気が付いたと思います。

『ある日、(折口信夫)先生は、「ピントコナがわかったよ」といわれた。(中略)昔話の馬鹿むこの話で、団子を買いにゆく途中、団子ということばを忘れては大変なので、団子、団子と口のなかでいいながら歩いてゆくと、往来に水たまりがあり、「ポイトコナ」といって飛びこえて、それからポイトコナ、ポイトコナと口のなかでいってゆくという話、あれからきているらしい。そういう話であった。つまり、馬鹿むこのような役柄という風な意味の、ピントコナなのだという解釈なのである。』(戸板康二:「折口信夫坐談」)

「折口信夫坐談」では、「馬鹿むこ」とあります。合評会では折口は「似せ婿」と言っていますが、これは同じことです。二つの発言を読み合わせて、吉之助はようやく折口が言いたいことを合点しました。武士ではないが・町人でもなく・さりとて神主とも言えないと云う・実体のよく分からない御師の曖昧なイメージ、何かの局面にぶち当たると「ピントコナ」といって飛び越えて、私は武士だと云えばそのように変わる、私は町人だと云えばそのように、私は神主だと云えばそのように、脈路なく自分の見た目のイメージをコロコロ変えてしまうのが「似せ婿」、つまりそれがピントコナなのだと折口は言いたいのであろうと吉之助は納得しました。

ただし大事なところは、変転するのは「見た目のイメージ」のことだけであって、福岡貢という男の真実(性根)が変転するわけではないと云うことです。やはり芝居での貢の性根の根本は、武士(辛抱立役)に置かざるを得ないだろうと思います。(この稿つづく)

(R6・5・21)


〇令和6年3月歌舞伎座:「伊勢音頭恋寝刃」・その2

大正から戦前昭和にかけての代表的な貢役者と云えば、もちろん十五代目羽左衛門です。その羽左衛門がこんなことを語っています。

『今度の油屋は、なかなか体にこたえるね。御覧の通りこの役は三方四方から悪態をつかれて、我慢に我慢した揚句に怒って十人斬りをするんだから、始終体に力を入れてイキむため、首から肩の辺がおッそろしく硬張(こわば)って仕様がないんだ。それで時々按摩に揉ませるんだが、何せチイッと無理だね。』(十五代目市村羽左衛門:芸談・「演芸画報」・昭和8年7月号)

ちなみに十五代目羽左衛門もこの芸談のなかで「ピントコナ」という用語を一度も使っておりませんね。羽左衛門が演じる貢はその優美さと云うか・柔らか味が確かに印象的であったでしょう。そのような羽左衛門の貢の優美なイメージが現行歌舞伎に伝承されているわけですが、上記の芸談から読み取れることは、そのような貢の柔らか味と云うのは表面上そう繕っているだけのことで、実は貢の内面は「おッそろしく硬張っている」と云うことです。何故ならば、油屋で貢は三方四方から悪態をつかれているからです。お鹿に・万野に・同席した酔客・店の者、それにあろうことか愛しいお紺からも冷たいあしらいを受けています。それでも貢はじっと我慢をするのです。そこはもちろんお紺の手前もありますが、もうひとつは、貢が御師であるからです。御師というのはよく分からぬ職業ですが、特定の寺社に属して・参拝客の参詣・宿泊などの世話をする者のことです。だから大きな寺社には御師がいたものですが、特に伊勢御師が有名でした。伊勢神宮のお膝元である古市遊郭でトラブルを引き起こしたら、御師はもう関係先で仕事が出来なくなってしまいます。だから例えどんなに不愉快なことがあっても、感情を顕わにすることは決して出来ません。そこをグッと堪えに堪えて、お愛想笑いを浮かべながら、その場をやり過ごそうとします。我慢するのは仕事のためです。しかし、我慢に我慢を重ねた無理のツケが貢の身体に現れます。だから「始終体に力を入れてイキむから、首から肩の辺がおッそろしく硬張って仕様がない」ということになるのです。

つまり羽左衛門の貢は柔らか味がとても素敵であったと云うのは・それは表面上「そのように見せていた」と云うことであって、貢の性根が全然違うのです。貢の内面はイライラ・ジリジリしていて、いつ爆発するか分かりません。つまり貢という役の本質は、「私が今ここで見せている様相は、私が本当に感じていること(真実の私)ではない」と云うところにあるのです。だから貢のなかの真実でないもの(優美さや柔らかみ)に焦点を合わせると間違えることになります。羽左衛門が貢の性根を如何に正しく掴んでいるかは、羽左衛門が「首から肩の辺がおッそろしく硬張って仕様がない」と証言していることから明らかです。同じ芸談のなかで羽左衛門はこんなことも語っていますね。

『一体この福岡貢という役は妙な人間に出来てるね。始めの相の山で万次郎の身を引き受ける二枚目役で、次の太々講の場ではデレデレした和事師。そして油屋では辛抱立役となるんだから、通しになるとこの仕訳が肝腎なんだね。』(十五代目市村羽左衛門:芸談・「演芸画報」・昭和8年7月号)

実は「伊勢音頭」を通しで見ると各場での貢の人物が一貫しない。そこが本作の難あるところなのですが、ドラマは油屋での十人斬りに向けて展開していくのですから、ここで押さえておくべきは、「油屋での貢は辛抱立役」と云うことだと思いますね。江戸の役者には御師という職業がどんなものであるか、正確なところは分かりませんでした、だから江戸歌舞伎での福岡貢は、ほぼ辛抱立役のイメージで捉えられてきたと云うことなのです。(この稿つづく)

(R6・5・20)


〇令和6年3月歌舞伎座:「伊勢音頭恋寝刃」・その1

本稿は令和6年3月歌舞伎座での、幸四郎の福岡貢による「伊勢音頭恋寝刃」の観劇随想です。今回は通し上演で、序幕は相の山から宿屋・追っ駆けに、二見ヶ浦と太々講。二幕目がいつもの油屋と奥庭になります。序幕はまあこれらの場のおかげで「油屋」の理解が深まると云うほどのものでもないですが、油屋冒頭で万次郎が質に入れたと言ったはずの青江下坂の刀を貢が持って登場する経緯が太々講を見れば分かる、同じく万次郎が騙り取られたと言っている刀の折紙をどうして岩次が持っているのか相の山を見ればその経緯が分かると云うことです。序幕は伊勢の風物を巧みに散りばめて愉しめるものになっています。

本稿でまず話題としたいのは、今回(令和6年3月歌舞伎座)の「伊勢音頭」の舞台を見た人たちの間で、幸四郎が演じる福岡貢と、菊之助が演じる今田万次郎と見た目が良く似ており、どちらが貢だか万次郎だか見分けが付かぬと云う声が多いことです。確かに幸四郎と菊之助は、演じる役どころがよく似ています。実際幸四郎も菊之助もそれぞれ過去2回貢を演じたことがあり、共にニンとしては貢役者なのです。そんな二人を貢と万次郎に配したキャスティングがそもそも悪いと云うことではあるが、配役された以上はどちらが貢だか万次郎だか分からぬ事態は避けねばなりません。そこの対処が出来ておらぬと云うか、まったく考えようとしていない印象ではありますね。

まず万次郎のことですが、万次郎のキャラクターを「つっころばし」とすることに吉之助は異論がありますが、まあ巷間そのように見られていることは認めましょう。そう云う意味では菊之助は柔らか味を出そうと努めてはいますが、まだ「つっころばし」にはなっていませんね。そもそも菊之助であるとオツムが弱い人物に見えません。曽我十郎みたいな江戸和事の印象ではありますが、しかし、東京の役者が演じる万次郎としてはこれはさもありなんとは思います。したがって吉之助は、菊之助の万次郎に関してさほど問題ありと感じないのです。

どちらかと言えば問題は、描線がひ弱い幸四郎の貢の方にありそうです。幸四郎は「福岡貢」と云う役の根本を柔らか味で捉えようとしているようですねえ。貢と云う役は「ピントコナ」で、「ピントコナ」とは上方和事の「つっころばし」よりもうちょっとピンと強く・キリッとしたところがある役だと云うイメージで演じているのではないかと感じます。しかし、舞台の幸四郎の貢を見ると優美さばかり目に付きます。それにしても、「ピンと強く・キリッとしたところがある」って云うけれども、一体それがどのくらい強ければ「つっころばし」が「ピントコナ」になるのでしょうかね?幸四郎の貢を見ていると、そこの違いがサッパリ分かりません。役の性根を理屈で踏まえないでフィーリングで表現しようとするから、造形があやふやになるのではないですか。

別稿「ピントコナ考」で御師(おし・おんし)「福岡貢」という役を考えましたが、そもそも「ピントコナ」ほど由来が曖昧で・よく分からぬ用語はないと思います。例えば「名作歌舞伎全集・伊勢音頭」(東京創元社)の解説のなかで戸板康二氏は「ピントコナ」という用語を一度も使っていません。「ピントコナ」では貢という役を論じることは出来ない・だから「ピントコナ」という用語で説明をしないと云う姿勢は、これもひとつの見識ではないかと思いますね。(この稿つづく)

(R6・5・19)


〇令和6年5月歌舞伎座:「伽羅先代萩〜御殿・床下」・その4

今回(令和6年5月歌舞伎座)の「先代萩」は政岡の悲しみをくっきり描けており、その点においては申し分ありません。そのような古典的悲劇の感触は、芝居の淡々とした足取りに示されています。「足取り」というのはまあテンポと申し上げても良いですが、芝居のなかの感覚的・相対的な速度とでも云いましょうか。例えば緊迫した場面・高揚した場面においては速度は自ずと変化します。それは早くなることもあれば、逆に遅くなることもある。ドラマの局面の変化に応じて芝居の足取りを意識的に「揺らす」、これがバロック的な表現のために大事なことになります。

例えば飯焚きでは政岡が千松に毒見をさせる箇所が二か所あります。最初は飯焚きに使う水を飲ませる、次に焚き上がったご飯を食べさせる、いずれの場面でも政岡は千松の様子を注意深く観察します。顔色、特に眼の色・瞳孔の開き具合などに変化が見えるか・見えないかは大事な情報です。毒見は日常のお務めですが、これは最高に緊張する箇所でもあります。今回の毒見の二か所ですが、政岡が千松の顎に手をやって・顔色を覗き込む、そこで三味線がテーンと鳴りますが、その間合いが早いと感じます。早いと云うか定間(インテンポ)でやっているから、吉之助には間が早いと感じられるのです。ここはもっと間合いを引っ張ってもらいたいと思います。それから音も無神経に強いと感じますね。バシッみたいな強い音に聞こえます。ここは息を詰めて千松の様子をじっと観察している場面なのですよ。もっと繊細に、繊細に弾かねばなりません。

こう云う事は三味線弾きのセンスの問題じゃないかと思うかも知れませんが、実はこれは半分か・もしくはそれ以上に役者の問題に帰せられます。つまりこの場面での菊之助の政岡の演技が定間に入っていることが問題なのです。もちろん定間でも一定の成果は上がります。しかし、これだとまあルーティンの毒見という感じですかね。けれど、ここで間合いをちょっと引っ張るだけで飯焚きの緊迫度合いはグーンと高くなるのです。これだけで飯焚きは見違えるほどバロック的な感触になって来ます。毒見の場面で政岡・千松母子は何かを期待しているのでしょうか、母子は何かを待っているのでしょうか。「忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや」という千松の台詞を思い出してください。飯焚きの場面では結局何も起こらないのだけど、もうすぐ後に母子の覚悟がホンモノであるか試される場面が来る。つまりここでの毒見の場面はその前哨戦とでも云うべきものなのですから、決して疎かに出来ません。

肝心なことは、ここぞと云う時に演技のテンポを意識的に揺らしに掛かる、役者の方から義太夫の息を押したり・引いたりを仕掛ける、そのような役者と床(竹本)との駆け引きをすることです。菊之助の政岡は、芝居の淡々とした定間の足取りで「先代萩」の古典的構図を描き出して余念がありません。現段階においてはこれで十分結構な政岡であると云えますが、菊之助の次の課題は、演技のテンポを意識的に揺らしに掛かること、それを心情の裏付けに於いて行なうことですかねえ。

ところでこの2年くらいで歌舞伎座のお客のマナーが急に悪くなった気がしますねえ。特に芝居中の携帯着信音のことです。役者さんのSNSでもお嘆きの書き込みがよく見られます。吉之助が見た日(7日)は、団十郎の仁木弾正が花道スッポンからせり上がる絶妙のタイミングで、まるで計った如くに「草競馬」の着信音が鳴り響きました。目の前の光景とのギャップが何ともシュールでありましたね。当たり前のことですが団十郎は動じることなく、むしろいつもより気合いを入れてタップリと揚幕への引っ込みを見せてくれた気がしましたが、こういう役での団十郎は押しが効いて・やはり良いですね。

(R6・5・18)


〇令和6年5月歌舞伎座:「伽羅先代萩〜御殿・床下」・その3

菊之助は「然り、しかしそれで良いのか」という古典的悲劇の構図を提示して、政岡の悲しみをくっきり描きました。そこに別段不満を申し上げる必要はないわけで、だから吉之助は多分ここで「ないものねだり」をしているのです。菊之助がもう一段階(ランク)上の政岡を目指すために何が必要かを考えています。ここで考えたいのは、「先代萩」に古典的悲劇の構図を突き抜けて・更にバロック的な展開を見せる可能性はないかと云うことです。

「然り、しかしそれで良いのか」と云う構図は、神(他者)に対して犠牲を捧げて・万感の思いを噛み締めつつ・黙って上(神の方)を向くと云うものです。「神よ、これで良かったのですよね」と問うかのように涙を堪えてキッと上を向く、これが古典的な悲劇の様相であり、歌舞伎も概ねそのような演劇ではあるのです。しかし、中世の演劇である能狂言と比べると、近世の演劇である歌舞伎の場合、バロック的な様相が少々強くなって来ます。「万感の思いを噛み締めつつも」どこか歯軋(はぎし)りの度合いが強くなって行くのです。これがもっと時代が下って現代演劇になると、神(他者)に犠牲を捧げることに明確に異議申し立てすることになります。歌舞伎ではまだそこまでに至りませんが、獏とした疑問は感じているのです。それはまだ明確な形を成すことはありませんが、これを濃縮蒸留すれば、それははっきり懐疑にまで至るものです。

我が子を失った政岡の悲しみを描けば、悲劇として一応のカタルシスは得られます。しかし、それだけであると、ああ千松カワイソウ・政岡カワイソウで、ドラマはそれで丸く収束しちゃうのです。「先代萩」のドラマをここで収束させてしまうのではなく、更にドラマとしてエッジが立った・バロック的な感触に仕立てるためには、この「宿命の母子」が何と対峙していたのかを突き詰めなければなりません。千松は自分に与えられた役割を全(まっと)うすべく死んだのでしょうねえ。その役割が自らのアイデンティティと同一化しているから死ねるのでしょう。そうでなければ、どうして僕はそんなことのために死ななきゃならないの?と疑問に思ってしまうから死ねないでしょう。そういう疑問が生じないから、自分の役割のために果敢に死ねるのでしょう。これは物凄いことだと思うのですね。現代の我々はそのような命懸けるものを何か持っているのでしょうか。また命を懸けようと思わせる価値あるものが果たして現代にあるのでしょうか。まあそんなようなことを考えているうちに、千松が何かの被害者・犠牲者ではなくて、立派に戦って死んだ戦士に見えてくるわけだな。この時、千松の生き様にツーンと来ることになります。そのような人生もかつてはあったのだ・・と云うことを受け入れることによって、古典は現代に相対化されると思うのですねえ。(この稿つづく)

(R6・5・16)


〇令和6年5月歌舞伎座:「伽羅先代萩〜御殿・床下」・その2

菊之助の政岡は、玉三郎の行き方を踏襲しつつも、声のトーンを玉三郎より低調子に置いたことで政岡の感触を女形の実(じつ)のところにしっかり繋ぎ止めています。菊之助の場合、女形のエグ味を感じさせるまでには至っていませんが、それでも声を低調子に置いたことで、菊之助の政岡の印象は柔(やわ)いものにならず、どこか強さを秘めた印象になりました。つまり如何にも歌舞伎の女形らしい(男が演じる女役の)政岡の感触になっているのです。最前「絶妙のマッチング」と書いたのはそこのところで、菊之助の政岡を高く評価したいのは、この点です。だから忠義のために我が子を犠牲にした母親の悲しみがしっかり描かれて、古典悲劇として十分納得できる印象を生み出しています。

したがって舞台を見て・取り立てて大きな不満を感じるところはないのだけれど、さらに菊之助がもう一段階(ランク)上の政岡を目指すために、思い付いたことなどちょっと書いておきます。千松が飛び出して不審な菓子を食べ散らかして八汐に殺される「忠義の瞬間」、それはいつ果てるとも知れなかった苦しみから母子が開放される瞬間、やっと母子が普通の関係に戻れる瞬間だと云うことです。この瞬間のために母子は生きてきたわけなのです。だから千松が八汐に殺される瞬間こそ、実は母子が最高に生きている瞬間であると云う、まことに倒錯した状況がここに現出します。

大抵の政岡役者はこの場面を凍った如く身を固くして無表情で通そうとします。敵方に我が子を殺される悲しみ・悔しさ・怒りを感付かれてはならぬわけで、「お上へ対して慮外せし千松、御成敗はお家の為」と冷然と言い切る、そこが政岡役者の為所とされます。ここは菊之助の政岡も同様であろうと思います。もちろんその解釈もよく分かります。しかし、それであると傍で政岡の様子を観察していた栄御前があまりに早合点だったということになってしまいます。栄御前が「其方の顔色変らぬは取替子に相違はない」と判断するためには、栄御前をそのように誤認させてしまう積極的な根拠が政岡の反応のなかに必要ではないかと思います。

別稿「引き裂かれた状況」に於いて、吉之助はこの瞬間に政岡は苦痛とも歓喜ともつかない倒錯した表情を見せたのではないかと推理しました。そのような政岡は、女形のエグ味を以てしか表現出来ないと思うのですね。これは理知的な音羽屋の芸にはない要素で、そこに播磨屋の芸が持つ或る種の「クサさ」に通じるものがあると云うことです。次の段階として、菊之助はそこに挑戦してみれば如何かと思うのです。

そうすると幾つかの箇所の政岡のデッサンも自ずと変わって来ると思います。それは例えばクドキの、「出かしやつた、出かしやつた、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや」の箇所です。この場面の菊之助の政岡は、この台詞を政岡の本心からのものではないとして、(万歳をするかのように)両手を高く掲げることはしない(出来ない)という解釈であろうと思います(これは玉三郎の解釈でもあるわけです)。しかし、エグ味を強調した政岡であると、「出かしやつた、出かしやつた」と、「死ぬるを忠義と云うことは何時の世からの習わしぞ」の、そのどちらもが政岡の本心だと云うことになるのです。矛盾する感情が入り混じったところに政岡はある。それが政岡のクドキなのです。(この稿つづく)

(R6・5・14)


〇令和6年5月歌舞伎座:「伽羅先代萩〜御殿・床下」・その1

本稿は令和6年5月歌舞伎座での、菊之助の政岡による「伽羅先代萩〜御殿・床下」の観劇随想です。菊之助が政岡を勤めるのは、平成29年(2017)5月歌舞伎座以来の7年ぶりのことで、これが3回目となります。このところ立役への傾斜を強めている菊之助ですが・まあそれは仕方ないこととしても、菊之助にはもう少し女形芸を極めておいて欲しい気がしています。前回の政岡も手堅い出来であったと思いますが、今回の政岡は表現の細部の彫り込みがさらに入念になった印象です。元より性根の把握に如才があろうはずもなく、正攻法の政岡としてまずは申し分のない出来栄えを示しています。このことを認めたうえで、菊之助の政岡の現状と今後の期待について書きたいと思います。

菊之助の政岡は、玉三郎の行き方を踏襲したものです。玉三郎の政岡が写実を極めて・繊細な・或る意味で「女優の政岡の可能性」さえ想像させるものであったのに対し、菊之助の政岡はこれを本来的な女形芸の感触へ引き戻したと云えると思います。これは玉三郎と菊之助の芸質の違いから来ます。菊之助が声質を意識的に低めに取って・演技が実(じつ)に根差していることが成功要因ですが、これが現在46歳の菊之助の時分の美しさとの間に絶妙のマッチングを示しています。最初は若干重めな感じがしましたが・途中から持ち直して、飯焚きで・鶴千代君や千松にひもじい思いを強いねばならない厳しい状況に政岡が思わず泣き崩れる場面など、政岡の心情が切々と伝わってきました。栄御前が去った後・千松の遺骸に取りすがってのクドキも上手い。閉塞した時代空間のなかでの、乳人政岡と千松の悲劇になっており、描くべきものはしっかり描き込まれています。良く制御(コントロール)された理知的な印象です。現時点の菊之助の政岡としてベストのところを見せていると思います。

舞台を見て・取り立てて大きな不満を感じるところはありませんけれど、菊之助が岳父・故吉右衛門に私淑し・その芸を吸収しようとしているところを見込んで書くのですが、(音羽屋の理知的な芸には見られないところの)播磨屋の芸の或る種の「熱さ」・あるいは「クサさ」とでも云いましょうかね、今後の課題としては、女形の役どころに於いても、そう云う方向を目指してもらいたいと思います。吉右衛門は女形ではなかったけれど、ヒントは六代目歌右衛門の政岡に見えると思います。(歌右衛門が初代吉右衛門学校の生徒であったことはご承知の通り。)それは、余りに過酷な状況のなかで、「このような辛い状況が続くならば、もういっそのこと・どうなってしまってもいい」とさえ思ってしまいそうな倒錯した感情のことです。これが母親の絶体絶命のピンチに千松が飛び出して不審な菓子を食べ散らかして八汐に殺される、さらに母親は我が子が惨殺されるのを見て身じろぎもせぬ、母子のすべてはこの瞬間のために在ったのですから、もう一段階(ランク)上の政岡のために・そこを目指してみたら如何かと思います。別稿「引き裂かれた状況」をご参照ください。)

その兆しが今回の舞台に全然見えなかったわけでもないのです。ひとつには、それは丑之助の千松に見えます。但し書きをつけますが、丑之助は現在10歳半で・現行歌舞伎の「御殿」がイメージする子役としては既に「大き過ぎる」と云うことになるかと思います。現行歌舞伎が千松に期待するのはいわゆる定形の子役の演技で、何も考えず・言われた通り棒でやってくれればいい・後の細かい芝居は大人がやるからと云うものです。これは子役の演技を均質化するための歌舞伎の様式上の知恵でした。そう云うところからすると、丑之助の千松の感触は歌舞伎の子役として若干逸脱しているかも知れません。感情が表に出ています。ただし「出過ぎている」印象はしませんが。そこは抑えられて子役の演技の範疇にどうやら収まっていますが、それでも感情が滲み出ていることは隠せません。しかし、そんな丑之助の千松を吉之助は積極的に評価したいと思います。この状況がたまらなく辛い、逃げ出したいほど辛いという気持ちがよく伝わってきます。これは現時点の丑之助にしか出来ない千松だと思います。

現行歌舞伎の子役の千松であると、母親に「忠義の家来はかくあるべし」みたいなことを日頃から言い含められ・これを無批判的に信じ込まされて・母親の指示通りに千松は「その行為」に動くと云う風に解されます。それはそれとして宜しいものですが、一方、丑之助の千松を見ると、この千松はちゃんと考えて「ここが忠義の為所(しどころ)だ」と自ら判断して・そのうえで「その行為」に至っていると思います。

「コレ母様、侍の子といふものは、ひもじい目をするが忠義ぢや、また食べる時には毒でも何とも思はず、お主のためには喰ふものぢやと言はしやつた故に、わしや何とも云はずに待つている。その代り、忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや。それまでは明日までもいつまでも、かうきつと座つて、お膝に手をついて待つてをります。お腹がすいても、ひもじうない、何ともない。」

ここで大事なことは、「忠義をしてしまふたら」もう千松の命はないと云うことです。このことに思いが付かぬほど、今この時の状況が過酷であると云うことです。「ここが忠義の為所だ」と云う時は、いつ果てるとも知れなかった苦しみから母子が開放される瞬間、やっと母子が普通の関係に戻れる瞬間です。(もちろんその時には千松の命はないわけですが、このことはあえて無視されています。イヤ正確に言えば「そういうことは考えたくない」のです。)丑之助の千松のおかげで、これまでの「御殿」とは微妙に異なる感触が垣間見えたと思いますね。(この稿つづく)

(R6・5・9)


〇令和6年3月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜寺子屋」・その3

しかし、今回(令和6年3月歌舞伎座)の「寺子屋」での一番の上出来を挙げれば、それは梅枝の千代であったかも知れません。梅枝の千代は不思議な雰囲気を持っていますねえ。もちろん我が子を身替わりに供せねばならぬ母親の悲しみを表現しない千代役者などいません。どの役者だってそこのところに如才はありません。しかし、梅枝の千代が独特だと感じるのは、何と云いますかねえ、母親の悲しみが形象化して・千代が悲しみそのものに見えることです。この薄幸な女性の「人生」とか・「宿命」そのものに見えることです。これは本人が意識してそう出来ることではなく、まったく梅枝のニンから来ることですね。同じことは本年(令和6年)1月国立劇場公演で見た梅枝の葛の葉にも言えることです。

ところで折口信夫は「手習鑑雑談」のなかで、こんなことを書いています。「菅原伝授手習鑑」の外題は何だかおかしい。道真が伝授したとしても菅原と呼び捨てなのは畏れ多くて合点がいかぬ。「菅家伝授」ならばまだ分かるが。なぜ菅原と据えたか外に理由があるに違いない。近松門左衛門に「賢女手習並新暦」(けんじょのてならいならびにしんごよみ、貞享2年・1685)というのがあり、これも熟せない外題であるが、仮名草子の伝統には「賢女鑑」というものがある。近松は手習いと賢女は艶書手習いと関係があるとしてみたものであろう。そこで今度は、賢女の艶書で行くところを正しい教えの書道で行くということで菅原伝授とふりかざしてみた気がする。だから外題にひょうきんな洒落があると云うのです。

『この浄瑠璃で、手習いを名のる理由は、勿論「伝授場」「寺子屋」もあるが、主としては、いろは送りの処の文句にあると思ふ。近松以来果されなかつた、その、賢女手習と言ふ語の意義を、ここで解決してゐるのだと思ふ。天神の伝授と言ふべきところを、ただの理由でかう言ふ冒涜な言い方はしないだらうと思ふ。外題の表現は、一番難しい。ことにこの時分の作者は、その表現に、のたうち廻つたと思ふ。そして前代の人々に出来きらなかつたものを、次第に表現して行つたのだと思ふ。それを考えて来ると、いろは送りが、千代の持ち場になつている理由も分かると思ふ。(折口信夫:「手習鑑雑談」・昭和22年10月)

このように折口信夫はいろは送りの場面に特別重い意味を見ているわけです。梅枝の千代を見ながら、実は吉之助はこんなことを考えたのです。ご存知の通り、文楽の「寺子屋」の最後の場面・いろは送りはまったく千代の持ち場になっています。いろは送りの詞章に合わせて千代が躍るような仕草を見せます。これはちょっとおかしいだろうと云うことで、歌舞伎ではこれをしません。これには吉之助も同感で・いろは送りで千代が躍るのは不自然だと思っています。(別稿「千代について」をご参照ください) これは初演で千代を遣った名人・吉田文三郎の我儘の産物ではないかと吉之助は考えているのです。ところが梅枝の千代を見ながら、吉之助は折口信夫の上記の文章をフト思い出して、いろは送りで梅枝の千代が躍る場面を見てみたいと思ったのです。何か大事なヒントを与えてくれそうな気がします。これまで「寺子屋」を何回見たか分かりませんが、こんなことを考えさせてくれた千代は梅枝が初めてですねえ。

(R6・5・3)


〇令和6年3月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜寺子屋」・その2

菊之助初役の松王は、確かに五十日鬘と病鉢巻が似合わないとか・登場した時には見た目の違和感は若干ないでもないですが、思いの外に役の太さを強く意識した演技で感心しました。成功した要因は、台詞を低調子に持って来たところにあると思います。義太夫狂言では台詞の低調子は床(義太夫)との兼ね合い上大事なことですが(昨今はこれが出来ていない役者が多い)、おかげで芝居が水っぽくならず・しっかりと安定感を以て味わえました。これはモドリの役ところである松王の性根を考えた結果でしょうが、松王だけではなく、義太夫狂言では常に低調子を意識してもらいたいですね。役者によっては前半の松王は敵役だから低調子、後半になると善人にモドると云うので声の調子を高めに上げる不届き者がいますが、さすがに菊之助はそんなことはありません。おかげで前半後半で松王の人物の整合性がしっかり取れました。

もうひとつ感心することは、名優たちの過去映像などもいろいろ見たと思いますが、菊之助が台詞廻しをよく研究していることが分かることですねえ。角々のニュアンスの表出がキメ細やかで、とても上手い。例えば後半千代に対し「泣くな、泣くな、エエ泣くなと申すに」と叱る場面でも、「泣くな」のニュアンスをそれぞれ微妙に変えて、最後の「エエ」を強めに言ってから・次の「泣くなと申すに」をちょっぴり自分の涙も加えて・シンミリ聞かせる辺りなどは、数多い松王役者のなかでも上手い部類ではなかったでしょうかね。兎に角、台詞廻しのニュアンスのキメ細やかさが松王の性根の裏付けを以て聞こえるところは大したものでした。それだけ作品のなかで松王の人物像がしっかり描き込まれていると云うことでもありますが、期せずして菊之助は「役の本質を或るひとつの括りで大きく掴み取る」ことが出来ていました。初役でこれだけの出来ならば上々吉と云わねばなりません。

前半・首実検の松王もなかなか良かったですが、ここでは愛之助の源蔵・新悟の戸浪の夫婦が緊迫感をしっかり盛り上げてくれたことも大きく貢献しています。このところの愛之助は、菊之助と共演しても・幸四郎と共演しても・上手く対照が付いて・互いを引き立て合う、ますます貴重な役者になって来たようですね。肚が座った太い印象の源蔵に仕上がっています。「せまじきものは宮仕え」を台詞で言わずに・床に取らせるのは松島屋のやり方ですが、一理あるところです。この台詞はとても難しいと思います。なぜならば「せまじきものは・・」と言いながら結局源蔵は弟子子を斬ってしまうからです。この気持ちは肚にぐっと収めておけば良いと云う理屈は納得できる気がします。

新悟の戸浪も勤めるところはしっかり勤めて隙のない良い演技でしたが、ちょっとだけ注文があります。源蔵が首桶抱えて奥に向かう時に戸浪の方をきっと振り返る瞬間、もうひとつは首実検で床が「天道様、仏神様、憐み給えと女の念力」という場面、この二つの箇所で新悟の戸浪は顔を伏せたまま演技をしているようでした。ここの為所は観客に分かるようにはっきり顔を上げて演技をした方が宜しいかと思うのですが、ここはどなたかの型であるのですかねえ。良い戸浪であるだけに、もったいない気がしますね。(この稿つづく)

(R6・5・2)


〇令和6年3月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜寺子屋」・その1

本稿は令和6年3月歌舞伎座での、菊之助初役の松王による「寺子屋」の観劇随想です。五代目菊五郎・六代目菊五郎も松王を当たり役としました。「寺子屋」が音羽屋にとって大事な演目であることは言うまでもありません。また岳父・故・吉右衛門も松王を得意としました。このところ新たな立役の数々に挑戦して成果を挙げて来た菊之助ではありますが、松王を演ると聞いた時にはやはりちょっと驚きました。音羽屋を継ぐ者として松王は何としてもモノにしたい役なのですねえ。(注:源蔵については、菊之助は平成23年・2011・12月平成中村座で初役を経験しています。)

ところで当代・七代目菊五郎は、歌舞伎上演データベースで調べると、「寺子屋」では戸浪や千代を演じた記録はありますが、松王も源蔵も演じていないようです。松王は兎も角、源蔵はやっていても良さそうに思うのですが(さぞかし良い源蔵であろうと思うのですが)演っていないのです。何か理由があるのでしょうかねえ。ただ機会(チャンス)がなかっただけのことかも知れませんが、当代菊五郎は新たな領域に踏み入れることにわりかし慎重であるように思います。しかし、菊之助はそこのところ実に果敢と云うか、特に今回の松王に関しては、一歩ならず二三歩踏み込んできたなと思いますね。

松王という役は、前半の敵役の太いイメージと・後半で善人にモドることによるイメージの振幅がとても大きい。これを一つとするところに至難があると思います。どちらかと云えば優美さとか律義さのイメージが勝る現在の菊之助にとって、必ずしも役のイメージがすんなり重なるとは云えないかも知れません。特に前半が難しいことになると予想されます。しかし、新調したばかりの服が最初はしっくり来なくても・着こなすうちに次第に身体に馴染んで来るのと同じように、くり返し演じる内に役は役者にだんだん馴染んでいくものです。同時に役者のニンも少しずつ変化していく、こうして芸は深化していくものです。

先日・1月国立劇場公演での「石切梶原」の観劇随想に於いて、菊之助の梶原は「まとまり過ぎている」、予定通りにドラマが進み・予定通りの出来で終わる、そのような優等生的な印象を突き破る「熱さ」あるいは「興奮」が欲しいと書きました。そのために「役の本質を或るひとつの括りで大きく掴み取って、そこから細部を彫りこんでいくことが大事である」と書いたわけです。今回(令和6年3月歌舞伎座)の「寺子屋」で感心したことはまさにこの点で、今回の松王には、これまでの菊之助の優等生的な印象を突き破ろうとする「熱さ」が見える、役の本質を大きく掴み取ろうとしている、少なくともその方向がはっきり見えたと云うことです。

これについてはもちろん菊之助を褒めるべきことですが、改めて痛感することは、やっぱり「寺子屋」は作品としてよく出来た芝居だなあと云うことですねえ。つまり松王を演って熱くならない役者なんていないと云うことです。これで菊之助も一皮剝けたと思いたいですねえ。もうひとつは、愛之助の源蔵以下・共演者一同気合いが入ったとても良い出来であったことです。共演者のおかげで菊之助の松王がより引き立って見えました。(この稿つづく)

(R6・5・1)


〇令和6年4月琴平町金丸座:「伊達娘恋緋鹿子〜櫓のお七」

本稿は令和6年4月琴平町金丸座での四国こんぴら歌舞伎大芝居・「伊達娘恋緋鹿子〜櫓のお七」の観劇随想です。眼目はこのところメキメキ頭角を現している若手女形のホープ・壱太郎が初役で「櫓のお七」の人形振りを見せることです。芝居にとって本来人形振りは外連(ケレン)の技芸ですが、「異形」の相を見せることで、人間は何やら得体の知れない感情に操られる木偶(デク・人形)に過ぎないと云う切り口を見せるものです。その正体は現代では深層心理とか潜在意識とか呼ばれるものですが、歌舞伎ではまるでフロイトの発見に先駆けるが如く、このことを見事に形象化しているのは驚くべきことですね。

「私は吉三さんのことが大好き・吉三さんに会いたい」と云うのは、まあ娘らしい・可愛い感情だと言えます。しかし、「私は何しても吉三さんに会いたい・どうしても吉三さんに会いたい」となると、何やら雲行きが怪しくなって来る。「ご法度しても吉三さんに会いたい」、さらに「火付けをしてでも吉三さんに会いたい」(実在のお七はどうやらそれをしたらしい)となると、もうそれは人間的なポジティヴな感情とは言い難いわけなのです。見方によってはトンでもない馬鹿娘なのですが、そういうポジティヴかネガティブか・境目が付かないところにお七はいるわけなのです。

しかし、江戸の民衆は「私は吉三さんのことが大好き・何としても吉三さんに会いたい」と苦しむお七の気持ちを「あはれ」であると受け取って、お七のことを供養してやりたいと思ったのです。そこに何かしら気分的に解き放たれていなかった江戸の庶民の日常を思いますねえ。彼らも「こんな風に情熱に身を焼かれる熱い恋もあるのだなあ」と云うことを思ったに違いありません。チラと羨ましく感じたかも知れません。しかし、これを真似しちゃいけないくらいの分別は江戸の観客は皆ちゃんと持っていました。芝居から帰ったら、観客は明日からまた同じような日常を送らなければなりません。これは現代の観客が「櫓のお七」の人形振りを見ても同じことですね。

だから吉之助が申しあげたいのは、「松竹梅湯島掛額」のなかのお七から、「櫓のお七」の人形振りが唐突に出たように感じられてはならないということです。段差はあってよいのだけれど(そうでないと衝撃がないことになる)、どこかに繋がっている感覚が欲しいと思います。吉祥院お土砂の場は他愛のない笑劇に違いありませんが、この場でお七役者が娘方の定形のヒナヒナした演技に終始して「イヤじゃわいノオ」とヒイヒイ泣いて生きた演技をしないのを見ると、吉之助にはこのお七が恋に身を焼いて・遂にはご法度の行為にまで及ぶとはとても思えません。何と云いますかねえ、生きた娘からでないと・生きた恋心は出て来ないのです。これがお七の行為をポジティヴな印象に繋ぎ止めるために必要なことだと思います。吉三への恋心の真実味をほのめかしてくれないと、後に続く人形振りが嘘事になってしまいます。だからお七役者には娘方の定形の演技に終始して欲しくありません。しかし、お土砂の場のお七は大抵の場合そうなりやすいようです。

若女形はただ綺麗なばかりでは駄目で、自らのセンスでその時代の若い女性の気分を取り込んで行かねばなりません。時代を代表すると云われる女形はみんなそうだったのです。壱太郎の女形には、そんな生きた感覚があるようですね。お七が内側にある得体の知れないものに操られる異形の感覚が確かにあります。それは人形振り以前のお七に生きた娘の感覚が見えるからです。

(R6・4・28)


〇令和6年4月琴平町金丸座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その3

幸四郎の十兵衛は、令和元年(2019)9月歌舞伎座で故・吉右衛門が病気休演した時3日間勤めたのが初めてのことで、翌年(令和2年)3月歌舞伎座で本役を勤めるはずがコロナのため公演自体が中止となってしまった(無観客上演の映像が残っています)と云うことなので・今回を3回目と呼ぶべきかは難しいところですが、今回の十兵衛はそれなりに手慣れた出来を示しています。声質・表情の微妙なところでフト吉右衛門を感じさせて懐かしいことですが、叔父・甥の関係だから当たり前と云えば当たり前のことではある。しかし、全体として見ると柔い印象が強いようで、「高麗屋の十兵衛」として見るとどこか物足りない気がするのも事実です。もうちょっと実(じつ)の方向に持っていってもらいたいのです。

確かに吉右衛門も十兵衛では意識して柔い感触を出そうとしていたと思います。しかし、それは吉右衛門の芸風が元々実に根差すものだからそうするわけであって、もともと印象が細めの幸四郎が柔い感触を出そうとしたら、元々柔い印象がますます柔くなってしまう。何と云いますかねえ、「吉右衛門の真似する仁左衛門」みたいになる。言うまでもなく吉右衛門の十兵衛も・仁左衛門の十兵衛も立派なものです。しかし、ここはどちらかであってもらいたのです。だから性根が中途半端に見えてしまいます。

これは5年前の記事ですが別稿「十代目幸四郎が進む道」に於いて、幸四郎は、代々の「幸四郎」と云う芸名が背負う重い時代物や実悪の役どころを引き継がねばならぬ、と同時に、優美で柔らかい印象の色男の類を演じることが期待されてもいる、この印象的に相反する芸道二筋道を幸四郎は進まねばならないわけですが、その仕分けはうまく出来るのかと云うことを論じました。幸四郎は現在51歳ですが、目下のところ吉之助が危惧した通り、役者幸四郎の印象はますます柔い方向に向かっているようです。イヤご本人が「これで良いのだ」と思っていらっしゃるならばそれで結構ですけれど、弁慶や熊谷と、伊左衛門のどちらか一方を選べと迫られれば、弁慶や熊谷を選ばねばならぬのは、「幸四郎」として当然だと思います。これは本人だってそう思っているに違いない。ならば弁慶や熊谷を本役とする「幸四郎」 に相応しい伊左衛門の設計図と云うものを持たねばなりません。十兵衛だって同じことだと思いますね。「高麗屋の十兵衛」としてこれで宜しいのかと云うことです。

今回の十兵衛でも、前半のご機嫌な十兵衛はまあそれなりに見えます。しかし、お米の印籠盗みが発覚して・ドラマの局面がシリアスに傾いて来ると、幸四郎の柔い印象が次第に気になって来ます。十兵衛に迫ってくる「時代」の厳しい状況がツーンと来ないのだなあ。後半の十兵衛はこの状況に必死で立ち向かい、「義理ある御方の明かしてはならぬ情報(それは平作・お米らが追う敵の行先のことです)を私は明かす」という重い決断にまで至る、さらに言えば十兵衛はこのために結局死なねばならないことになるのですから、そこのところを実(じつ)を以て描いてもらいたいと思います。これでこそ「高麗屋の十兵衛」になります。ここから逆算して考えると、それなりに見えた前半のご機嫌な十兵衛も、柔い印象を抑えた方が良いことになります。結局は肚の持ち方の問題と云うことになりましょうか。(別稿「世話物のなかの時代」をご参照ください。)

最後になりましたが、壱太郎のお米は、世話の真実味があるなかに・艶やかさもあって、安心して見ることができる・まことに良い出来です。

(R6・4・22)


〇令和6年4月琴平町金丸座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その2

ここ数年の鴈治郎は良い味を出して、歌舞伎のなかで得難い存在になって来ました。ちなみに鴈治郎が初めて「沼津」の平作を勤めたのは、鴈治郎襲名を半年後に控えた平成26年(2014)7月大阪松竹座でのこと・つまり翫雀時代のことでした。この時の十兵衛は藤十郎が演じました。上方和事の代名詞・鴈治郎の名跡をもうすぐ息子が継ごうと云う大事な時期に(しかも大阪で)、自分が十兵衛を演じて・息子に平作をさせる藤十郎さんの「のほほん」ぶりには開いた口が塞がりませんでしたが、その後鴈治郎は平作を何度も演じて・すっかり持ち役としています。結果として見れば平作を演じたことで或る意味芸域を拡げたとも云える。まあ藤十郎さんがそこまで深く考えたとはとても思えませんけど、結果オーライですね。しかし、吉之助は現・鴈治郎の十兵衛には依然として未練が残ります。今からでも機会があれば是非十兵衛にも挑戦してもらいたいものです。きっと良い十兵衛になると思います。

ところで「沼津」の千本松原を見ていつも思うことは、敵の側に在る息子に対し自ら刀を腹に刺して「敵の居場所を教えろ」と迫る・かなり極端なシチュエーションであるわけですが、結局平作がこういう手段でしか親子の絆の確認が取れなかったところに、暗澹とさせられると云うか・「何と悲しいことか」と感じると云うことです。本来人間の自然な感情であるべき親子の愛情を素直に表明することが許されない、内面に愛情が高まれば高まるほど行動に対して自己規制が強くなる、彼ら親子をこのように素直でなくさせてしまった「状況」の非情さを考えずにはいられません。

この「状況」は、芝居のなかでは仇討ち事件に巻き込まれた名も無き庶民の悲劇ということに違いありませんが・決してそれだけではなく、恐らく幼い我が子(平三郎・十兵衛の幼名)を養子に出さざるを得なかった平作の事情も含まれると思います。厳しい生活であったと察せられます。平作はこれも事情が定かではありませんが、お米も遊女に出さざるを得ませんでした。こうして遊女となったお米(瀬川)を巡る争いが仇討ちの一件と絡むこととなります。したがってそれやこれも含めて平作の「状況」は単純ではありません。

平作が息子の脇差を抜き取り・自らの腹に突き立てて「おりゃこなたの手にかかって死ぬるのじゃ」と言う時、これを平作が息子に敵(股五郎)の行き先を白状させるための責め詞だとだけ聞くのでは、これは平作に対して余りに酷なことになります。それでは平作があまりに非情な父親に映ってしまいます。吉之助は、脇差を腹に突き立た平作は幼い我が子を養子に出さざるを得なかった過去を詫びている・そう云う気持ちが含まれると考えたいのです。我が子を養子に出したりしなければ、そもそも親子の・この悲劇は起こらなかったのです。

鴈治郎の平作は人柄が良い好々爺ぶりがとても良いですねえ。明るかったドラマの雲行きがお米の印籠盗みが発覚してから・ドラマが急変して暗雲に包まれていく、そのなかでも鴈治郎の素朴さがよく生きていたと思います。平作はホントにどうしようもなく、こういう手段しか思いつかなかったのであろう。それゆえ観客は「何と悲しいことであろうか」という思いになるのだと思います。(この稿つづく)

(R6・4・22)


〇令和6年4月琴平町金丸座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その1

本稿は令和6年4月琴平町金丸座での四国こんぴら歌舞伎大芝居・「伊賀越道中双六〜沼津」の観劇随想です。吉之助にとっては平成18年(2006)4月以来・18年ぶりのこんぴら歌舞伎でした。こんぴら歌舞伎も、令和2年(2000)4月公演が世界的なコロナ・パンデミックの影響で中止を余儀なくされてから5年ぶりの公演再開となります。久しぶりの公演は、地元の期待もさることながら、古(いにしえ)の芝居小屋の雰囲気を濃厚に残す金丸座での歌舞伎上演は、歌舞伎ファンにとっても大きな愉しみです。もちろん現代の金丸座での上演は、江戸期の昔のそっくりそのままの、自然光採光・蝋燭による照明の上演と云うわけではなく、そこは雰囲気作りというものだけれども、現行の法的規制に則った上で持てる劇場機構を大いに生かした「手作り感覚」を大事にしていることは嬉しいことです。

「役者と観客との距離が近い」と云うことは、誰もが口々に仰ることです。金丸座の収容人員はフルで740名だそうです。(ちなみに歌舞伎座は1964名だそうです。)意外と入るものですが、「沼津」でも十兵衛と平作が客席に分け入っていくと、これは歌舞伎座でもやる演出ではあるけれど、金丸座だと役者と観客とがぶつかる距離になるので「触れ合い度合い」が全然異なります。今回(令和6年4月金丸座)の「沼津」では二回の場面転換に人力による廻り舞台が使われました。こうして町の人たち総出で芝居が支えられているわけですね。

と云うわけで芝居の方は大いに愉しませてもらいましたが、18年ぶりのことですっかり忘れていましたが、平場の桝席の座椅子での観劇は、狭いスペースがやはり辛かった。吉之助は相席のご婦人(地元の方であったようです・有難うございました)に座席を入れ替わってもらって少し脚が伸ばせる姿勢が取れたので良かったのですが、それでもなかなか厳しかったですねえ。まあそれも今となってみれば愉しい江戸体験と云うことですが、膝腰に難を抱えていらっしゃる方はちょっとご用心が必要かも知れません。

平成18年の時と印象が違っていた点は、あの時は和蝋燭の光を擬した照明は黄色味が強めであって、舞台が少々暗めに感じられたことです。陰影も多少生じていたように記憶しています。今回はそんな印象はまったくなくて、舞台の明るさは控えめではあったが、色調からすると昼白色に近く感じました。多分これは18年前とは照明機械自体が変わったのだと思います。いつ頃変わったか吉之助には分かりません。この照明なら現代の観客にはさほど違和感がありませんし、また見やすくもあります。しかし、今思い返せば18年前の・あの黄色味がかった薄暗さはなかなか貴重なものであったと思いますね。普段の我々はあまり気にすることなく見ていますが、照明が舞台の印象を大きく左右することを改めて思います。(別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ〜歌舞伎の照明を考える」をご参照ください。)(この稿つづく)

(R6・4・20)


〇令和6年3月京都南座:「忍夜恋曲者・将門」・その4

今回(令和6年3月京都南座)の「将門」は、壱太郎の滝夜叉姫が共通で、松プロでは隼人が光圀・桜プロでは右近が光圀を勤めて、それぞれ演出を変えて上演されました。

まず松プロでは滝夜叉姫は花道スッポンから・差し出し(面明かり)を使って登場し、最後は崩れた大屋根のうえで滝夜叉姫と光圀がキッと決まって幕となる、これは従来通りの演出です。

一方桜プロでは滝夜叉姫は花道スッポンからの登場では差し出しを使わず、最後は崩れた大屋根のうえで光圀が太刀を抜き放ちつつ・大口をあけた大見得、今度は幕外から滝夜叉姫が再び花道スッポンからせり上がり、この時は差し出しを使って、仁木弾正よろしく妖術を使って空中浮遊の心で無言のまま揚幕へ引っ込むというやり方でありました。

どちらも面白く見せてもらいましたが、桜プロの演出は過去に何か典拠があるのでしょうかねえ。それにしてもこのやり方であると長い時代物の大詰の舞踊劇の格付けにはならず、その後の筋の展開に含みを持たせるという感じになりそうです。閉じた印象にはなりませんが、まあそれも興味深くはありますね。

松プロでの隼人初役の光圀に時代物の太い印象があって、これはなかなかの掘り出し物でありました。振りがきっちりした端正な踊りに好感が持てます。桜プロの右近初役の光圀は見た目の印象はやや軽めなれども、切れの良い動きで隼人に対抗し・これも愉しめました。

(R6・4・13)


〇令和6年3月京都南座:「忍夜恋曲者・将門」・その3

そう云うわけで「将門」の「妖」の正体とは、本作が持つ滝夜叉姫が父将門から引き継いだメラメラと燃え上がる怨念の炎なのです。このようなバロック的な感触が、見る角度が違えば「古風」にも感じられるというのは、とても興味深いことです。

ひとつには、「将門」の舞台面が全体的な印象として暗め(照明も暗め)のため、本作が本質的に持つ明晰な感覚を感じ取り難いところがあるせいです。そこが「関の扉」や「戻駕」と異なるところかも知れません。島原の太夫が東国の相馬まで男を追って来ると言う奇天烈な設定ですから、もし傾城如月(実は滝夜叉姫)の〽嵯峨や御室の花盛り・・のクドキを明るい照明にして・洒脱な感覚で以て処理したとすれば受ける印象がかなり変わって、もしかしたら「関の扉」・下の巻の墨染と関兵衛の廓話に似た感触になるかも知れないとも想像するのですが、そうならないところに50年ほど時代が下った天保舞踊の感覚の差異(というか特色)があると云うことでしょうか。

もうひとつは、戦後昭和の「将門」のイメージを決定付けた六代目歌右衛門の芸風がねっとりと重めの感触であるがゆえに、歌右衛門本人がバロック的な「妖」の感覚を志向したとしても・それがなかなか軽めの感覚に映って来ない、何かしら重ったるく見えると云うことがあったかも知れませんね。逆に重ったるく思えることがどこか「古風」な印象に映ってしまう。このことは歌右衛門が演じる「先代萩」の政岡などでも似たようなことが言えそうです。しかし、このことに気が付いた上で歌右衛門の舞台を見るならば、見える様相がかなり違ってくると思うのです。歌右衛門の芸の軽みとでも云いますか、そんなことも別の機会に書いてみたいと思います。ところで歌右衛門は「滝夜叉姫は花道の出で決まる」と言っていますね。

『〽雨もしきりにふる御所に解語(かいご)の花の立姿・・とここで、何と申しましょうか、娘が現れるのではもなく、傾城が現れるのでもなく、さりとて姫と名乗る滝夜叉がそのまま出るのではなく・・やはり「解語の花の立姿」。(中略)これはご承知のように楊貴妃のことでございますからね。なまめかしい中にも、格がございますね。(中略)やっぱり大した役でございますよ。』(六代目歌右衛門談話)

この歌右衛門の談話から感じることは、娘でもあり・傾城でもあり・滝夜叉姫でもあり、それらの像が幾重にも重なって見えてブレる、「揺れる」、これがバロック的な「妖」の感覚だと云うことです。

話を壱太郎の滝夜叉姫に戻すと、壱太郎がふっくらと春風駘蕩たる・いわゆる「ぼんじゃりとした」上方女形らしい雰囲気を持っていることは貴重なことなので・この個性を生かすことは当然のこととして、作品が持つバロック的な「妖」の感覚をどのように表現するかなのです。壱太郎の滝夜叉姫は艶やかではあるけれど、ちょっと健康的に過ぎる印象がしますね。まあそこが壱太郎の持ち味だとも云えますが、芸のエッジが立ったバロック的な「妖」の感覚には乏しいところがあります。

今回(令和6年3月京都南座)の舞台を見たところでは、どちらかと云えば最後の滝夜叉姫が正体を顕わしての大立ち回りと屋台崩しのスペクタクル、そちらの方に主眼が行っているようにも思われました。まあ壱太郎には前プロの近松物、「河庄」(小春)と「油地獄」(お吉)が辛抱役で気分が塞ぐから「将門」で発散・・と云うところがあるのかも知れません。いずれにせよ滝夜叉姫は繰り返して演じる価値がある大役ですから、再演期待したいところです。(この稿つづく)

(R6・4・7)


〇令和6年3月京都南座:「忍夜恋曲者・将門」・その2

「忍夜恋曲者」(将門)は、天保7年(1836)7月江戸市村座での「世善知鳥相馬旧殿」(よにうとうそうまのふるごしょ)という長い時代物の大詰の舞踊劇です。本筋の狂言の方は絶えてしまって最後の舞踊の部分だけが伝わったと云う事例で、経緯としては「関の扉」や「戻駕」などと同じです。ただし「関の扉」や「戻駕」は安永・天明期の舞踊です。「将門」はそれから50年ほど時代が下るわけですが、何となく「関の扉」に似た古風・かつ重厚な感触がしてくるのは、背後に秘められた筋(ストーリー)の重さ、それが何か仔細は分からないが・如何にも曰くありげな雰囲気の重さを感じるからでしょうか。まあそれもそれなりに理由があることです。別稿「関の扉」観劇随想で、「関の扉」は天明期の古い舞踊だ、古風ならば大時代だ、黒主は天下を狙う大悪人だと云うので古怪に重い感触に仕立てようとする傾向が見えるけれど、本来の「関の扉」の感触は遊び心満載の、もっと世話に砕けた舞踊なのだと思うと書きましたが、「将門」に関しても同じようなことが言えそうです。

ところで「忍夜恋曲者」を巷間の解説を見ると「滝夜叉姫が面明かり(差し出し)に照らされて登場するなど古風な演出が見られる」と書かれたりしますけれど、実はあれは「将門」にずっと昔からあった演出ではないのです。六代目歌右衛門が次のように証言しています。

『差し出し(面明かり)を使い始めたのは、私なのです。永田町のオジさん(六代目梅幸)の時も、私が覚えている限りは、差し出しはございませんでした。やはり差し出しを使いますと、何と申しましょうか、本火ですから、メラメラと動きますでしょう。これは私、大変効果があると思っておりますが・・自分でも…』(六代目歌右衛門談話)

*西形節子:「日本舞踊の心〜芸談で綴る解説」(演劇出版社)に所収。

六代目歌右衛門の「将門」初演は昭和23年(1948)7月三越劇場でのことでした。「差し出しを使い始めたのは確か2回目くらいから」と歌右衛門が語っているので、もしそうであれば昭和27年(1952)4月歌舞伎座から始まったことです。

「将門」の面明かりが戦後昭和に始まったことは結構大事なポイントであるのでじっくり触れておきたいと思います。面明かりに照らされての滝夜叉姫の登場が「古風」だと感じるのは、それはそれで根拠があることです。その感じ方は、「現代の歌舞伎は電気照明によって影が一切消されており・蝋燭による照明だった江戸歌舞伎の懐かしい感触を思い出させてくれない・面明かりの演出はそのことをちょっと思い出させてくれる」と云うところから来ると思います。その感じ方は決して間違ってはいません。

ところが吉之助の視点はまったく逆で、歌舞伎は平面感覚の演劇であって、影を消してしまう現代の電気照明こそそのような歌舞伎の本質を明らかにするものなのです。このことは江戸の浮世絵師が描いた絵を見れば分かります。浮世絵には影がなく、その絵は立体的ではない。江戸の芝居では照明に蝋燭を使わざるを得ず、完全な意味に於いて、浮世絵師が描いた平面感覚の舞台面を現出させることは出来ませんでした、それは電気照明の登場によって初めて可能となったものです。(詳しくは、別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ〜歌舞伎の照明を考える」をご参照ください。)

このような視点から、面明かりに照らされての滝夜叉姫の登場がどのように見えるかと云うと、影のない平面的な(二次元感覚の)歌舞伎の古典的な舞台のなかに、突然影を持った三次元的な存在が浮かび上がる、これこそ古典的な均衡を破壊するバロックの感覚だと云うことになるのです。歌右衛門の証言をもう一度ご覧ください。

「差し出しを使いますと、何と申しましょうか、本火ですから、メラメラと動きますでしょう。これは私、大変効果があると思っております」。

ですから歌右衛門が意図するところは、「古風」な感触を目指すのとはまったく逆なのです。これは平面的な歌舞伎の舞台から、滝夜叉姫の(父将門の)怨念がメラメラと三次元的に立ち上る「生々しさ」、これこそ実にバロック的な、かつ戦後昭和の斬新な写実(リアリズム)感覚であると、まあ吉之助にはそのように見えるわけです。(この稿つづく)

(R6・4・5)


〇令和6年3月京都南座:「忍夜恋曲者・将門」・その1

本稿は令和6年3月京都南座での、壱太郎の滝夜叉姫による「忍夜恋曲者・将門」の観劇随想です。尚この時の「将門」は、松プロでは隼人が光圀・桜プロでは右近が光圀を勤めて、それぞれ演出を変えて上演されましたが、本稿ではふたつの「将門」の舞台を纏めて記することにします。

恐らく南座3月花形歌舞伎の主導的位置にあると思われる壱太郎が、右近・隼人と三人の総意であると思いますが、当月筋書の演者のコメントとして・こう語っています。

『(今回プロの三演目はそれぞれ)河庄」は愛、女殺油地獄は情、「忍夜恋曲者(将門)」は艶(あで)と、テーマを掲げています。』(中村壱太郎)

なるほどねえ、今の若い役者にはこれらの作品がそう云う風に見えているのだねえと云うことで、吉之助はそれをとても興味深く思いました。これらを「間違っている」などと云うつもりは吉之助には毛頭ございません。ただし吉之助に見えるものとは、だいぶ異なっているようではありますね。世代の違いとか・そう云う感性(受け止め方)の違いもあると思います。演目の本質を一言で括ると云うことはなかなか難しい。それで大事な要素を取り落とす恐れもあります。しかし、敢えてそれを承知のうえで、演目の本質を一言で表現するならば、「将門」の場合はやはり「妖」ではないかと吉之助は思うのです。そこを壱太郎が「艶」と括ったところが興味深いと思います。繰り返しますが、「間違っている」とは思いません。壱太郎の滝夜叉姫を見ると、艶やかな・ある意味では可愛い滝夜叉姫であると思いますし、確かにこの行き方は壱太郎の個性に似合うようです。ただし作品的にはちょっと取り落としたところがあるように感じますね。

ところでこれは先日(1月)歌舞伎座での「娘道成寺」など壱太郎の舞踊をいくつか拝見したところで感じることですが、ふっくらと春風駘蕩たる・いわゆる「ぼんじゃりとした」上方女形らしい雰囲気を壱太郎が持っていることは貴重なことですが、振りを大きく取ろうとしているせいか、身体の軸(体幹)が前後左右にブレる場面が多く、振りにスキが見えて形がキレイに見えて来ません。もう少し動きをコンパクトに持って行った方が良いように感じますね。もっと角々の形が内面に凝集していく感覚が欲しい。これが江戸期の女性が置かれた閉塞した生活環境に通じる感覚であろうと思います。また同時にこれが女形という特異な存在の感覚でもあろうと思います。六代目歌右衛門はこのような感覚を、卑屈にさえ思えるくらいに内へ内へとこもっていく、凝集する感覚で振りの上に表現しました。壱太郎にそこまでやれとは言わないし、また世代が全然違う彼にその必要はないかも知れないが、やはり女形は伸びやかなばかりではダメで、何かしら抑圧された感覚が欲しいと思うのです。現代の女形として、この感覚をどのように表現するかが大事なことだと思います。(これは壱太郎だけの課題ではなく、若手女形に共通して云えることです。)そこのところ「道成寺」の花子であってもやはり不満を感じてしまうわけですが、ましてこれが父将門の怨念を引き継いで・謀反を企てんとする滝夜叉姫となると、やはり取り落としたところが少なくないのではないでしょうか。(この稿つづく)

(R6・4・1)


〇追悼・マウリツィオ・ポリーニ

先日(2024年3月23日、世界最高峰のピアニストのひとり、マウリツィオ・ポリーニがミラノの自宅で亡くなりました。吉之助はまだ老けてはいないつもりですが・それなりに歳を取って、ここ数年、自分の問題として「晩年をどのように実りあるものにするか」、或いは「最晩年をどのように処するか」ということを時折考えるようになりました。きっかけは大抵、長い間慣れ親しんできた芸術家が亡くなった時です。

ちょうど吉之助がクラシック音楽を聴き始めた辺り(1970年代初め)にポリーニは本格的なレコード・デビューをしました。独グラモフォンでの初録音・ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」からの3楽章を初めて聴いた時の鮮烈な印象は、今も忘れません。それ以来、吉之助の音楽歴のなかでのポリーニは、或るピアノ曲を勉強するために何人かの名演奏家の録音を選ぶ時に、その数人の選択肢に必ず入る一人と云う存在なのです。このように「好きな芸術家」とか「優れた芸術家」というところを越えて、自分の音楽歴(と云うか・この場合は「人生」と云うべきかも知れないが)と重なってくるところが多い人が亡くなるのは辛いことですね。音楽に限らず・歌舞伎に於いてもそう云う方・或いはこれからそうなりそうな(未来形)方は、吉之助にも何人かいます。そのような方々の芸を拝見する時、芸を見せてもらうことは勿論ですが、その方の「生き様」を見るということもあると思います。

かつて「ミスター・パーフェクト」と云われたピアニストが老齢を迎えてミスタッチが散見されるのを見ることは・ちょっと寂しいことではあるが、それを越えてその方の「生き様」を聴いたと思えるならば素晴らしいことであるし、またそのような聴き方をしたいと思います。もしかしたらポリー二は聴く方に全盛期の「パーフェクト」のイメージが強すぎて、晩年のケンプとかルービンシュタインのように「枯淡の芸」と云われるような・芸の枯れ方をしなかったかも知れませんが、それも含めてこれがポリー二の生き様だと思います。或る意味ではそういう苦しいところをさらけ出して見せてくれたとも言えます。それにしても昨年(2023)6月23日のポリーニのロンドン・ロイヤルアルバート・ホールでのリサイタルのレビューを見ても、同じ日の批評でも「悪夢のよう」と書いているのもあり・「人間精神の勝利」と書いているのもありましたが、どちらの聴き方が人間として「正しい」のかは言うまでもないと思います。技術的な問題を超えて「心の内から語らしむ」と云う芸が必ずあるはずです。そういう芸が分かる批評家でありたいと思います。最後は互いの人生を賭けた真剣勝負ということですね。

ポリー二の来日公演は、2018年10月が最後となりました。7日のリサイタルはポリー二のコンディションが良くて素晴らしい出来でありました。メインのショパンのソナタ第3番を弾き終えた時の表情は、ガッツポーズはしなかったけれど・心のなかではそれをやっていたのじゃないかと思ったくらいで、多分「俺もまだまだやれる」と思ったのであろう、アンコールでショパンのスケルツォ第3番(難曲)を弾き始めた時には内心ちょっと驚きましたが、この時の頑張り過ぎが祟って腕の疲労が抜けず、その後のリサイタルの日程・曲目が変更になってしまいました。今となっては、この最後の来日リサイタルの思い出は吉之助の一生の宝物です。ご冥福をお祈りします。

*2018年10月・最後の来日公演のチラシ。

(R6・3・28)


〇令和6年3月京都南座・「女殺油地獄」・その4

現代演劇の分野でも「女殺油地獄」は興味深い舞台に出来ます。しかし、その場合の与兵衛は、解釈の切り口が現代的で鮮やかであるほどリアル感が増して、自己中心的な人物になるか・或いは主体性を持たない滑稽な人物に描かれるか、いずれにしても同情の余地がない人物になってしまいそうです。恐らく歌舞伎の場合のみ、どうしようもない悲惨な悪事を犯した人物なのだけれども、それでもどこか同情してしまうと云うか、「可哀そうな奴だなあ」と憐れみを以て眺めることが出来る与兵衛になるのです。

歌舞伎の与兵衛がどうしてそのような感触になるかと云うと、それは写実と様式の微妙なバランスに拠って起こるのです。「私が今見ているのは(凄惨な殺人現場を見ているのではなく)リアルに迫った・そう云う見事な芸を見ているのだ」という申し訳に於いて(別の言い方をすれば多少の「余裕」を以て)観客はこの恐ろしい場面に耐えることが出来ます。現代演劇ならば「この現実を直視せよ」というメッセージを観客に向けて放つことになる、現代演劇とはそう云う立場なのです。これに比べると歌舞伎の場合は「ズルい」と云いますかねえ、観客をトコトン追い詰めることはしない、そこのところを上手に逃げるのです。

前章で上方和事の本質とは「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別にあって、今の私は本当の私ではない」と云う気分であると申し上げました。これと反転した関係に於いて、同様なことが観客の心のなかにも起こっているのだろうと思います。「私が今見ているのは(殺人現場を見ているのではなく)リアルに迫った・そう云う見事な芸を見ている」と申し訳するとは、そう云うことなのです。こうして上方和事はリアルとエンタテイメントとの微妙な境目を行きます。そんな際どい与兵衛を描くことが出来るのは、歌舞伎だけでしょうね。そのような上方和事の見事な与兵衛役者が十五代目仁左衛門なのです。(別稿「和事芸の多面性」をご参照ください。)

今回(令和6年3月京都南座)の舞台を見る前の吉之助は、隼人の与兵衛は「上方和事の様式感の表出に難儀するかな」と云う予想でありました。確かに上方弁や和事の柔らかみ・滑稽味というところではまだまだ課題が多い。そこは東京の役者であるし、初役であれば仕方がないことです。しかし、隼人の与兵衛は、役が持つ偏執狂的にカーッと来る熱い側面をよく捉えており、これを取っ掛かりに与兵衛の人物を太いタッチで描けていました。だからナヨッとした甘ったるさは少ないけれど・シリアス感覚がやや強まったところで、上方和事の様式の「揺れ」がそれなりに出ていたと思います。これはもちろん仁左衛門の指導の賜物であるが、隼人と役との相性が良かったということでもありますね。他の上方和事の役ならば・こうは行かなかったかも知れませんが、隼人がこれだけ与兵衛を見事に演じ切ったことは、今後の歌舞伎界にとって朗報であると思います。特に豊島屋での殺し場・花道の引っ込みの場面のシリアスさはなかなかのものでした。

前章で「女殺油地獄」に於いては「情」の要素は或る種雰囲気みたいなものとして納得されるだけと書きましたが、もちろん背景としての「情」がしっかり描かれなければドラマの「あはれ」は際立って来ないのです。周囲を上方勢で固めて隼人をサポートしてくれたおかげで、どれだけ隼人の与兵衛の「あはれ」が引き立ったことか。壱太郎のお吉は、「情」もあり・哀れさもある、申し分のない好演でありました。

(R6・3・22)


〇令和6年3月京都南座・「女殺油地獄」・その3

別稿「与兵衛の悲劇」で広末保先生の論考を引用しました。「女殺油地獄」では与兵衛を取り巻く人たちの「情」のドラマが細やかに描写されますが、「それらは或る種雰囲気みたいなものとして納得されるだけで、悲劇への必然的な段取りになっていない」、だから本作は悲劇として完全ではないと広末保先生は仰るのです。しかし、吉之助の見立てでは、「主体的な意思決定の場が失われている」ことこそ本作が近世悲劇であるための核心なのです。本作が悲劇であると見極めようとするならば、視点を与兵衛の哀しい「状況」へと向けなければなりません。そのことを示唆する台詞は何かと云えば、それは真っ暗になった豊島屋店先でお吉に向けて短刀を構えた瞬間の与兵衛の、

『オオ死にともないはず、もっとももっとも。こなたの娘がかはいいほど、おれもおれをかはいがる親仁がいとしい。銀払うて男立てねばならぬ。諦めて死んでくだされ。心でお念仏。南無阿弥陀。南無阿弥陀仏。』

という台詞以外にありません。

巷間云われるように上方和事を「優美で鷹揚な若旦那が落ちぶれて・女性的な柔らかい仕草や台詞回しを見せる芸である」と表面的に理解するのでは、「油地獄」の与兵衛を上方和事のキャラクターの範疇に入れることがとても難しくなります。与兵衛は殺人犯ですから演者が共感出来ないのは当然であるし、与兵衛の性格はどこか偏執狂的にカーッと来る熱い側面があります。これは「河庄」の紙屋治兵衛とは感触がかなり異なります。江戸期の歌舞伎で「油地獄」が上演されなかったのには色々理由があるでしょうが、そこが大きなネックになったことは疑いないと思います。しかし、平成・令和の現代の我々にとっては、与兵衛を上方和事のキャラクターとすることは案外スンナリ受け入れられるだろうと思いますね。これはもちろん十五代目仁左衛門の与兵衛が、現代の「油地獄」の規範になっているからです。(別稿「和事芸の多面性」をご参照ください。)

十五代目仁左衛門の与兵衛があるから、その後の、例えば愛之助幸四郎の与兵衛もあるし、今回(令和6年3月京都南座)の隼人の与兵衛もある、このことをつくづく思いますねえ。それぞれの芸質(いわゆる仁)に於いて感触は微妙に異なりますが、どれも与兵衛のカーッと熱くなるシリアスな性格をしっかり捉えています。そこから逆に上方和事の本質を考えることが出来ると思うのです。別稿「ガイド:和事」で触れた通り、上方和事の本質とは、「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別にあって、今の私は本当の私ではない」と云う気分です。

この気分を当て嵌めながら・先ほど引用した与兵衛の台詞を読むと、お吉に向けて短刀を構えた瞬間の与兵衛の心理が渦巻く有り様が苦しいほどに見えて来ます。「おれもおれをかはいがる親仁がいとしい」という与兵衛の言葉に偽りはありません。これは美しい感情です。しかし、その美しい感情は「銀払うて男立てねばならぬ」という論理に打ち消されて、今度は「諦めて死んでくだされ」というおぞましい醜い感情へと大きく振れます。この醜い感情は「南無阿弥陀仏」の念仏で打ち消されようとします(つまり与兵衛はお吉を殺すことを思いとどまろうとしていたのです)が、しかし、完全に否定されることはなかったのです。完全に否定されていれば、与兵衛は短刀を鞘に収めたはずです。この台詞はそのような与兵衛の哀しい「状況」(有り様)を示しています。この気分の「揺らぎ」こそ上方和事の本質です。(この稿つづく)

(R6・3・19)


〇令和6年3月京都南座・「女殺油地獄」・その2

恐らく南座3月花形歌舞伎の主導的位置にあるかと思われる壱太郎が、右近・隼人と三人の総意だと思いますが、当月筋書の演者のコメントとして・こう語っています。

『(今回プロの三演目はそれぞれ)河庄」は愛、「女殺油地獄」は情、「忍夜恋曲者(将門)」は艶(あで)と、テーマを掲げています。』(中村壱太郎)

なるほどねえ、今の若い役者にはこれらの作品がそう云う風に見えているのだねえと云うことで、吉之助にはそれをとても興味深く思いました。これらを「間違っている」などと云うつもりは吉之助には毛頭ございません。ただし吉之助に見えるものとは、だいぶ異なっているようではありますね。世代の違いとか・そう云う感性(受け止め方)の違いもあるでしょう。他の演目についてはそれぞれの観劇随想で取り上げることにして、本稿では「女殺油地獄」のドラマを一言で括れば「情」と云うことになるのか?と云うことを考えます。

別稿「与兵衛の悲劇」において、「女殺油地獄」のドラマを詳しく論じました。そこで論じた大事なポイントは、「近松の世話悲劇が描くものは「状況」であって・「行為」ではない」ということでした。与兵衛がそのような選択をしてしまう状況に置かれていることがそもそも悲劇なのです。これまでの与兵衛はビタ一文盗むこともせず、借金の期限が遅れても何とか苦労してこれを返して来ました。同じ状況下でも、これまで何の悪事もせず過ごして来たのです。これからもそうであるはずでした。その時と状況は大して変わらぬようなのに、たまたま(と言ったら語弊があるかも知れないが)フト魔が差す瞬間が訪れてしまいました。与兵衛が置かれた状況が突然牙を剥いた瞬間に、たまたまお吉がその場に居合わせたのです。これが与兵衛の「悲劇」です。

のような「悲劇」のなかに「情」が関与するところがあるのでしょうか?例えば同業者のよしみ・或いは近隣・幼馴染みのよしみでお吉が与兵衛に掛けた「情け」(親切)に、金に切迫している与兵衛が「溺れる者は藁をもつかむ」思いで縋り付いた、こうして思わぬところで強盗殺人事件に発展する、そう云うことでありましょうかね。或いは放蕩三昧の息子に怒りながらも・実は見えないところで息子のことを心底心配して見守っている母おわさ・義父徳兵衛の「情け」、親の思いに応えようと焦りまくった与兵衛が、周囲のことが見えなくなって・ただ借金の返済のことばかりに頭が行ってしまい、それが思わぬところで強盗殺人事件に発展する、そう云うことでありましょうかね。いわば与兵衛に掛けた「情け」が、トンでもない形で跳ね返って来たわけだ、「女殺油地獄」というのはそういうドラマなのでしょうか。

「情けは人のためならず」という諺がありますが、これは情けは他人のためにするものではなく、いつかは巡り巡って自分に返って来るものだ、だから他人のために「やってやる」ではなくて、自分のためでもあると思って他人にも親切にしなさいという意味です。しかし、いつ頃からか、「情けは人の為ならず」は、「情けをかけることは、結局はその人のためにならない、だから親切はしてはいけない」と解釈する人が巷間次第に多くなっているそうです。そう云う方々は「女殺油地獄」を見れば、「やはり過度な情けは人を駄目にするから、してはいけない」との思いを新たにするのかも知れませんねえ。今回の舞台では上演されませんが、下の巻・豊島屋お吉の三十五日法要・「逮夜」の場で捕縛された与兵衛が自分の身を嘆いてこう言います。

『一生不孝放埓の我なれども、一紙半銭盗みといふことつひにせず、茶屋、傾城屋の払は、一年、半年遅なはるも苦にならず、新銀一貫目の手形借り、一夜過ぎれば親の難儀、不孝の咎(とが)勿体なしと思ふばかりに眼(まなこ)つき、人を殺せば人の嘆き、人の難儀といふことに、ふつと眼つかざりし。』

後になって与兵衛に状況を説明させれば、そう云うことになります。それを今さら説明されても観客にはどうしようもなく、もう与兵衛を許すことは叶いません。しかし、「アア人間とは何と愚かしいものか、人は誰でもフトしたことからこのような過ちに陥らぬとは限らぬものだ、人間とは何と哀しいものか」と与兵衛のために泣いてやることは出来るかも知れませんね。「あはれ」を感じ取ることが近松の世話物浄瑠璃を聞く時の正しい態度だと思うのですね。

ですから吉之助は、芝居の本質を一言で括ることは難しいが・敢えてそれをするならば、「女殺油地獄」は「あはれ」としたいと思いますね。「女殺油地獄」は哀しい芝居だと思います。(この稿つづく)

(R6・3・16)


〇令和6年3月京都南座・「女殺油地獄」・その1

本稿は、令和6年3月京都南座・三月花形歌舞伎での、隼人の与兵衛・壱太郎のお吉による「女殺油地獄」の観劇随想です。本年(令和6年・2024)は、享保9年(1724)に亡くなった近松門左衛門の没後300年に当たります。これをきっかけに歌舞伎でも近松作品を数多く取り上げて欲しいと思います。戦後の一時期は「日本のシェークスピア」と云われてもてはやされたこともありましたが、近年近松はあまり顧みられなくなりました。コンスタントに上演がされるのは、「廓文章」・「吃又」と「俊寛」・それに「油地獄」くらいのものでしょうかね。「河庄」・「封印切」も西の成駒屋の演目として切れ目なく上演はされていますが、上方歌舞伎の現状では将来が心もとない。だから、上方弁・或いは上方味と云うことではハンデが少なからずあるとしても、東京から役者を呼んででも、何としても上方歌舞伎の存続を図って貰わねばならないと思います。今回(令和6年3月京都南座)の花形歌舞伎では、鴈治郎が右近に紙屋治兵衛(河庄)を、仁左衛門が隼人に河内屋与兵衛(油地獄)を指導すると云うことで、まずはここから上方歌舞伎の存続・さらに復興へ向けて足掛かりを作ってもらいたい。いずれは廃絶の危機に瀕する多くの上方歌舞伎作品の復活に取り組んで欲しいと思います。

幸い吉之助は関西の生まれなので・上方歌舞伎のニュアンスはそれなりに感じ取れるつもりですが、例えば「河庄」での隼人の孫右衛門と右近の治兵衛の兄弟のやり取り、右近も隼人も東京の役者であるから当然上方弁は心もとないし・動きも何だかぎこちない、上方のニュアンスはもちろん十分に表現出来てはいない、それは確かであるけれども、京都南座のお客さんは、東京歌舞伎座のお客さんとは違った反応を見せる。そこがとても興味深く思いました。どこがどうだと言い難いですが、笑いのタイミング・あるいは笑い方のニュアンスが微妙なところで明らかに違う。やはり関西やなあ思いますね。歌舞伎座ならば同じ演技でもシラーッとした空気が漂うのではないかと思うようなところでも、南座のお客さんは好意的に反応して、役者の背中を押してくれていると感じました。演者が東京の役者であっても、お客の方が演技のツボを心得て・それなりに先読みしてくれているようです。そんなお客さんの反応に乗せられて、右近も隼人もだいぶ力を貰ったのではないかと思います。

だから上方歌舞伎の修業をするならホントは関西でやらなきゃダメなのだろうねえ。今回の上演をビデオか何かの形で残しておいて、右近も隼人も、何度も繰り返し見直して欲しいと思います。その時に南座のお客さんから反応があった箇所をよく確認してみることです。そこが上方歌舞伎の演技のツボでっせとお客さんが教えてくれている個所なのです。お客さんに教わることも多々あるものなのです。そこから二代目鴈治郎などの古い映像で当該箇所をじっくり研究すれば宜しいでしょう。

そこで「女殺油地獄」(桜プロ)の隼人の河内屋与兵衛ですが、実は吉之助はちょっぴり不安でおりました。と云うのは、本年1月浅草公会堂での切られ与三郎がガチガチに様式を意識した硬い演技であったのと、当日昼に見た「河庄」(松プロ)の孫右衛門もほぼ似たような印象であったからです。それで夜の「油地獄」の与兵衛はどんなものになるであろうかと、まあ正直申し上げると「覚悟して」舞台を見たのですが、何とこれが素敵に出来た与兵衛でありました。もちろん上方弁とか上方味とか・そんなところには課題があるにしても、まずドラマとして与兵衛という役をしっかり押さえたものになっていました。これはやはり仁左衛門の指導の賜物に違いありませんね。(この稿つづく)

(R6・3・14)


〇令和6年2月大阪松竹座・通し狂言「源平布引滝」・その4

二段目「義賢最期」は大蔵館から九郎助が葵御前を連れて脱出する・小万が白旗を携えて脱出する、この二点で三段目「実盛物語」へと繋がりますが、単独で見ると切場としての格にいまひとつ不足して、どこか端場みたいな印象(ホントは二段目切場なのです)がすると思います。まあ派手な大立ち回りがあるから大端場ということでしょうか。しかし、「源平布引滝」の反復構造が分かっていると、浄瑠璃作者が「実盛物語」から逆算した形で「義賢最期」の筋を組み立てていることがはっきりと見えてきます。「義賢最期」と「竹生島遊覧」・「実盛物語」を序破急の三部形式に見立てた時、「義賢最期」を端場という風に捉えると、これが「序」のピースにまさにぴったりと嵌まるように思えるのです。すべてのドラマは「老実盛は北国篠原で髪を黒く染めて見事に討たれる」という未来に向けて流れ込みます。実盛の死は芝居では描かれませんけれど、描かれない未来が「源平布引滝」という絵巻物の余白の部分になっているわけですね。

義賢と実盛の二役は別けても良いと思いますが、二役を同じ役者が兼ねて演じれば、二段目で義賢が「君はカッコ良く死ねるか」というメッセージを投げ、三段目で実盛がこれを受け取って「俺もカッコ良く死んで見せるぞ」と応える反復の構図を、観客に対して印象付けるためにとても効果的です。愛之助は義賢と実盛の二役共どちらも良いですねえ。丸本時代物を骨太く見せるという点で、愛之助は中堅どころで最も安定していると思います。

周囲も堅実なサポートを見せています。まず小万(壱太郎)の好演を挙げねばなりませんが、九郎助(松之助)も良くて、おかげで「義賢最期」から「実盛物語」まで太い筋が通りました。「実盛物語」では瀬尾(鴈治郎)も孫への情がよく出た手堅い出来です。「義賢最期」と「竹生島遊覧」・「実盛物語」の通し上演は、上演時間も適度であるし、もっと試みられて良い企画だと思います。

(R6・3・10)


〇令和6年2月大阪松竹座・通し狂言「源平布引滝」・その3

民間伝承に拠れば、篠原の戦いで実盛が乗った馬が田圃の稲の切株に躓いて転んだため・実盛は投げ出され、そこへ飛び掛かった手塚太郎に討たれたそうです。実盛の霊はこのことを深く怨んで、死後に稲を害する害虫となったと伝えられています。実盛虫と呼ばれるものがそれです。民衆はその年の豊作を願うお祭りを、不幸な死を遂げた人の霊を慰める御霊信仰に結び付けたのです。実盛送り(または実盛祭)と呼ばれる、稲に害を及ぼす害虫を外に送り出す虫送りのお祭りが、全国各地の農村に今でも数多く残っています。藁人形を作って悪霊に見立て、鉦や太鼓をたたきながら行列にして村境に行き、これを川に流します。

「源平布引滝」は寛延2年(1749)11月大坂竹本座での初演。本作では篠原の戦いでの討死は実盛が28年前にあらかじめ予告したことの実現・つまりアッパレなことであるわけですから、死んで稲に怨みを残して害虫になったなんて暗い中世民間伝承は綺麗サッパリ落とされてしまいました。このことが理性的な・明るいイメージを実盛に与えていることは確かです。しかし、実盛から陰惨な要素が消え去ったわけではありません。それは「負い目」という形で絶えず実盛を責め苛みます。その度に実盛はそのことを思い出し、最後にはそのために死ぬことになるのです。

実盛の「負い目」とは源氏の身でありながら現在は平家の禄を食んでいることですが、「源平布引滝」のなかで、実盛は向き合いたくなかったそれ(負い目)を何度も思い起こすことになります。これが「源平布引滝」の反復構造です。琵琶湖船上での実盛は、小万の腕を切りたくて切ったわけではありません。源氏の白旗を平家に奪われまいための、やむを得ない仕儀でした。平家ばかりの船上では、自分が密かに源氏に心を寄せることを周囲に気取られないために、こうするしか手段がなかったのです。実盛がこうするしかなかったことも、その「負い目」ゆえと云えると思います。

「九郎助内(実盛物語)」では、実盛は思いがけなく自分が切り落とした右腕と再会することになります。ここでまたしても負い目が実盛の前に現れます。もしここで、実盛がそれが自分が切ったものであることを黙っていれば、実盛は28年後に死ななくても済んだはずです。しかし、実盛はこのことを正直に吐露してしまいます。実盛がこうするしかなかったことも、その「負い目」ゆえであると思います。こうして実盛は御座船で小万を切った仔細を物語りますが、ここで実盛は自らを苛むものが何であるかはっきり見極めたと思います。幕切れでは、実盛は太郎吉(後の手塚太郎)に28年後の北国篠原での対面し見事に討たれることを約束して去ります。この時、実盛は自らの「負い目」と正対して・これに最後の決着を付けることになるのです。

「実盛物語」幕切れでは、実盛が「軍(いくさ)の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」と言うと、葵御前が「げにその時はこの若(後の木曽義仲)が恩を思ふて討たすまい」と返します。芝居で実盛役者があまりに爽やかでカッコ良過ぎると、観客は「そうだよ、こんな良い人は討っちゃダメだよ」と思ってしまいそうですね。まあそれも尤もなことですが、28年後の北国篠原で実盛が見事に討たれないと、芝居のなかの反復構造が完成しません。実盛は無惨に討たれなければならないのです。ですから「実盛物語」では、実盛のカッコ良さの傍らに常につきまとう陰惨な負い目の存在を意識せねばなりません。

この点に於いて、今回(令和6年2月大阪松竹座)主役の実盛を演じる愛之助は、生締め役のカッコ良さと、そこに陰のようにつきまとう「負い目」の陰惨さとのバランスが、ホント理想的に宜しいですね。吉之助がこれまでに見た「実盛物語」のなかでも出色の出来であったと思います。(この稿つづく)

(R6・3・8)


〇令和6年2月大阪松竹座・通し狂言「源平布引滝」・その2

今回(令和6年2月大阪松竹座)のように、「義賢最期」と「竹生島遊覧」・「実盛物語」までを続けて通すと、「源平布引滝」の反復構造がはっきり実感出来ます。しかも前場になる「義賢最期」と「竹生島遊覧」・二場は、すべて後場の「実盛物語」の「反復」の実現へ向けて、史実の変えてはならないところ・変えてもいいところをあらかじめわきまえた上で、意図的に「虚実」を取り混ぜて芝居が書かれていたことが明らかとなります。浄瑠璃作者の作劇技法の見事さに改めて感嘆してしまいます。詳細は別途論考をお読みいただくとして、「源平布引滝」の時系列に沿って反復構造を分かりやすく列記してみると、

A)「義賢最期」:義賢は「君はカッコ良く死ねるか」というメッセージを源氏の白旗に託して見事に死す。白旗を預かった小万は大蔵館を脱出して故郷を目指す。

B)「竹生島遊覧」:小万は琵琶湖遊覧の御座船上で実盛と遭遇する。実盛は白旗を平家に奪われてはならぬと、やむなく小万の右腕を切り落とす。

C)「実盛物語」:実盛は白旗に託されたメッセージを受け取り、28年後の篠原の戦いで見事に討たれてみせることを宣言して、自らの未来を定める。実盛は駒若丸(後の木曽義仲)を木曽に送り届けるべく九郎助に託す。

実盛が背負った「負い目」(源氏でありながら現在は平家の禄を食むことの負い目、白旗を守るため・やむを得ず小万を殺さねばならなかったことの負い目)が反復され、義賢が白旗に託したメッセージに答えるべく、実盛は自らの負い目に決着を付けます。ここまでが「源平布引滝」の芝居が描くものです。実盛の反復は、28年後の篠原の戦いで見事に死んでみせることで完成することになります。実盛が約束を違えることは絶対にありません。それは必ずや実現する未来です。観客は皆そのことを史実として知っているのです。

D)寿永2年(1183)6月11日・加賀の国篠原の地で、実盛は白髪を墨で黒に染めて木曽義仲との戦いに参加し、手塚太郎に討たれて見事に死す。

後世の武士は実盛の死を「武士の理想の死に方」と賛美しました。以後「君はカッコ良く死ねるか」のメッセージが、後世の武士たちによって無限に反復されることになります。

E)寿永3年(1184)1月21日の近江国粟津ヶ原の戦いで木曽義仲が見事に討ち死にする。

F)慶長20年(1615)5月6日・大坂夏の陣で豊臣秀頼の臣・木村重成が鎧兜に香を炊き込めて出陣し見事に討ち死にする。

「葉隠」のなかで山本常朝は「やさしき武士は古今実盛一人也。討死の時は七壱拾余也。武士は嗜(たしなみ)深く有るべき事也」と書きました。武士たる者、爽やかに・カッコ良く散っていきたいものだ。そんな理想の死に方を選んだのが、実盛なのです。しかし、大事なことは「見事にカッコよく死ぬ」ことは、「無慙に死ぬ」ことの裏腹であると云うことです。だから「あっぱれ」とはすなわち「あはれ」なのです。死のカッコ良さの裏には、常に陰惨さがつきまといます。後世の武士たちは「もののあはれ」を強く意識し、実盛の無慙な死こそ武士の理想の死に方であると肝に念じたわけです。

ですから、「実盛物語」の実盛は白塗りの生締め役でカッコいい、それは確かにその通りではあるのですが、そのような華やかな明るい要素ばかりに目を向けるのではなく、芝居のなかの陰惨な要素も思いやらねばなりません。それでこそ芝居は実盛に対する供養になります。(この稿つづく)

(R6・3・7)


〇令和6年2月大阪松竹座・通し狂言「源平布引滝」・その1

本稿は令和6年2月大阪松竹座での、愛之助の源義賢・斎藤実盛・二役による通し狂言「源平布引滝」の観劇随想です。この公演のポイントは、普段はそれぞれ単独に出される二段目「義賢最期」と三段目「実盛物語」を、間に「竹生島遊覧・御座船」を入れて三場を通したことにあります。これで「実盛物語」で描かれる歴史の「反復構造」が明らかになりました。

歌舞伎上演を調べると、戦後では「竹生島遊覧」の上演は、昭和55年・1980・10月池袋サンシャイン劇場と、昭和57年・1982・2月大阪・新歌舞伎座での、共に三代目猿之助(二代目猿翁)による「源平布引滝」通し上演での2例と、それと平成20年・2009・9月新橋演舞場での通し上演で海老蔵(現・団十郎)が上演した例しかないようです。

昭和55年サンシャイン劇場の三代目猿之助公演を吉之助は生(なま)で見ましたが、この時の上演は映画と交錯して芝居を上演する・いわゆる「連鎖劇」の形を取ったもので、「竹生島遊覧」は映画の場でした。恐らく劇場機構の制限から大船の大道具が持ち込めない・迅速な舞台転換が出来ないことなどの・やむを得ない処置であったかと思われます。しかし、芝居の出来自体は面白いもので、バラバラに見ると・いまひとつ関連性が見えて来ない「義賢最期」と「実盛物語」を、このように通し上演で見ると、腑に落ちるところがいくつも見えました。それに「実盛物語」だけだと・チョイ役に見えかねない小万が、通しであると、とても重要な意味を持つ役になります。九郎助もいい役になりますね。そう云うわけで今回(令和6年2月大阪松竹座)の通し狂言「源平布引滝」は、とても意義ある公演でした。

「源平布引滝」の反復構造については、別稿「義賢から実盛へのメッセージ」とその続編「実盛物語から義賢最期を読む」の2本の論考をお読みになれば、お分かりいただけます。明治29年出版の「浄曲百番 語り物の訳」には、「綿繰馬の段(実盛物語)」について、「名前は有名、事実は無根。例に依って例の如き歴史的の夢幻劇」と書いてあります。まあそれはその通りかも知れませんねえ。「源平布引滝」で取り上げられる元ネタはまったく事実に則していません。例によって例の如く、都合よく材料を組み合わせて筋をデッチ上げているかに思われます。しかし、実際に「義賢最期」から「竹生島遊覧」・さらに「実盛物語」と三場続けて見てみると、この芝居は事実には則しておらぬけれども、確かに歴史の「真実」を描いていることが見えてきます。

それは寿永2年(1183)6月11日・加賀の国篠原の地で、斎藤実盛が老齢の身でありながら「最後まで若々しく戦いたい」との覚悟で白髪を墨で黒に染め、木曽義仲追討の戦(平家方)に加わって、義仲軍の武将・手塚光盛に見事に討たれたという史実に根拠があります。実は義仲は実盛には深い恩義がありました。義仲は恩人の死を知ってさめざめと泣きました。「源平布引滝」は全然事実に則してはおらぬのですが、九郎助住居で実盛が

「ムハハハなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」

と云った瞬間、まるで稲妻が走ったかのように、実盛の未来までもがパッと見通されます。ここまでの「源平布引滝」のドラマが加賀の国篠原での実盛の死(史実)へ向けて一直線に進んでいたことがはっきりと理解されます。浄瑠璃作者のこの作劇技法には驚かされます。デタラメの歴史認識どころではなく、歴史にトコトン精通していなければ、こんな見事な芝居を書けるはずがありません。

歌舞伎を見て感心することは、「老斎藤実盛は髪を黒く染めて見事に討たれる」、或いは「熊谷直実は無冠の太夫敦盛を討ったことで世を儚んで出家する」、「筑紫に流された菅丞相は死んで天神様となる」、そのような歴史の「真実」が江戸期の観客には自明のものとして共有されていたと云うことですねえ。このような歴史感覚は現代日本においてはもはやあり得ないのです。現代の歴史とはただ事実を連ねた知識の集積に過ぎず・それは暗記物みたいなもので、学校で歴史の「真実」を教えることはもうなくなってしまいました。(この稿つづく)

(R6・3・1)


〇どうなる?国立劇場

先日(令和6年2月16日)のことですが、伝統芸能第一線の実演家10名(歌舞伎の中村時蔵、文楽の吉田玉男、日本舞踊の井上八千代など)が、都内の日本記者クラブで会見を行い、「老朽化のため建て替える」ということで昨年10月に閉場になった国立劇場が、二度の入札不調のため・未だ建て替えの目途が立っていないことについて、再開場スケジュールがズルズル伸びるのは「由々しき事態」であるとして、「日本の文化施策が後回しになって良いのか」と窮状を訴えたそうです。伝統芸能第一線の実演家の皆さんが感じている不安・危機感は至極もっともなことだと思います。

これは昨年(令和5年)9月の記事(「さよなら国立劇場」)ですが、この時点でも国立劇場建て替えスケジュールの目途が全然立っていなかったのに、劇場閉場への段取りだけがトントン進んで行くことに、「一体これで大丈夫なのかねえ?」と訝しく感じていましたが、閉場(令和5年10月29日)からまだ半年も経ってないと云うのに、やはりこの問題が出てきたかということで・別に驚きもしませんが、日本の文化行政の貧困ここに極まれりと云うことかと思いますね。

詳しい経緯を承知していませんが、当初は劇場内部機構を最新のものに改修する(この機会に桟敷席を設けたりもする)という話であったかと記憶しています。それがいつの間にやらホテルを併設した高層建築に全面建て替えなんて話にすり変わったのには、いろいろ背景もあったと思いますが・いずれにせよ経済的事情であって、文化的事情が置いてけぼりされたのは明らかであると思います。

個人的にはここで当初プランである劇場内部機構の部分改修に立ち帰った方が良いと思いますけれど、来年(令和7年)開催の大阪万博の方もゴタゴタが続いているし、本年1月に起きた能登半島地震での地域復興対策など問題が山積しているので、国立劇場のことなどは後回しになってしまうでしょうね。改築については費用的にクラウドファンディングなどで賄えるものでないのは明らかですが、個人で出来る範囲なら微力ながらお役に立ちたいとは思っております。このままでは日本の伝統芸能は厳しい状況に立ち至ると懸念しています。まずは俳優協会主導で署名活動など如何でしょうかね。

(R6・2・21)


〇遊郭文化と歌舞伎

本稿は元々今月(2月歌舞伎座)の「籠釣瓶花街酔醒」観劇随想の前説として書き出したものですが、これは独立した記事にした方が良い内容だろうと思い直して、以下に書くのです。

来たる3月26日から(5月19日まで)上野の東京芸術大学大学美術館にて「大吉原展」という展覧会が開催されることになっています。(公式サイトはこちら。)公式サイトはポップなピンク色を基調とするデザインで、「美術館が吉原になる」、「お江戸吉原は年中イベント三昧」、「ファッションの最先端。吉原は江戸カルチャーの発信地」、「イケてる人は吉原にいる」などと、吉原の華やかな側面を強調するコピーが並んでいます。

まあこれはそんな一面も確かにあるとは思いますが、その取り上げ方があまりに一面的ではないか、人身売買や性的搾取など遊郭文化の暗い側面がキレイさっぱり欠落しており、負の歴史に対する認識・反省がまったくないと云う批判が、公式サイト開設以来続出・炎上しており、主催者がこれに対する声明を出す顛末になってしまいました。その要旨(2月8日付)は以下の通り。

『本展がテーマとする、花魁を中心とした遊郭「吉原」は、前借金の返済にしばられ、自由意志でやめることのできない遊女たちが支えたものであり、これは人権侵害・女性虐待にほかならず、許されない制度です。本展では、決して繰り返してはならない女性差別の負の歴史をふまえて展示してまいります。』

「開催を中止すべき」という過激な意見もあったようですが、展示の内容については再検討・修正がなされることでしょう。まあ開催1か月前に問題が噴出して・事前の手直しの時間が取れたことは良かったと思いますね。上記声明が反映されてどんなものになるかは、展覧会を拝見したうえで、また必要ならば本欄で取り上げることになるかも知れません。

この話題を他の畑のことだと傍観しているわけには参りません。これはそう遠くない時期に必ず歌舞伎にも飛び火することです。それは、もちろん歌舞伎のなかで遊郭文化が切っても切れない関係にあるからです。負の遺産だからと云って、「助六」や「籠釣瓶」が見られなくなるとしたらとても困ります。イヤ吉之助が困るのではなく、日本の貴重な伝統遺産が失われてしまうことが困るのです。広義に見るならば、「曽根崎心中」や「六・七段目」だって引っ掛かるかも知れません。しかし、「吉原は江戸のカルチャー・センター」、「吉原ワンダーランド」みたいな安直なキャッチ・コピーを、この二・三十年の歌舞伎関係の宣伝やら雑誌やらでもよく見掛けたものでした。もうそのような見方は大幅に修正せねばならないと思いますね。正しい歴史認識を以て「古典」に対さねばなりません。負の側面も直視せねばなりません。歌舞伎批評に携わる身として、このこと真摯に受け止めなければならぬと思っております。

(R6・2・16)


〇追悼・小澤征爾さん・その2

昨年(2023)3月にリッカルド・ムーティによるイタリア・オペラ・アカデミーを聴講した時、ムーティ以外・ここ(東京文化会館大ホール)に集まったのはほぼみんな日本人(オケも合唱団もソリストも・吉之助を含む聴講生も)で、どうして・何のために・我々はここに集まって・海の向こうの文化(ヴェルディ)を必死に学ぼうとするのか?、どうしてムーティは情熱を傾けてこの極東の異国に正しいヴェルディを伝えようとするのか?という問いが湧き出てきて、この問いははっきりとした結論を見出さないまま、吉之助のなかに今も残っています。

多分吉之助の場合これは、どうして自分は歌舞伎や文楽など日本の伝統芸能の奥底を知りたいと頑張っているのか?と云う思いと表裏一体を成していると感じます。インターナショナルなものを追おうとするとますます内なる日本と向き合わざるを得ないということです。逆から言うと、内なる日本のイメージを研ぎ澄ませるためにインターナショナルなものと対峙せざるを得ないということでもあります。(必ずしもインターナショナル=普遍的ではないのだが、そこに普遍的なものへの取っ掛かりがあるだろうという幻想・と云うか目論見がある。)本サイト「歌舞伎素人講釈」のなかに歌舞伎とオペラが混然としているのも、そう云うことであろうと自己分析しています。

そう云う意味では、1950年代に日本を飛び出して・欧州の音楽界に斬り込んでいった小澤さんの生涯もそう云うところがあったと思うのです。しかし、西欧音楽の厳格な体系とあの時代の欧州楽壇の保守的な価値観・システムのなかで単身勝負するということになると、内なるものを捨ててでも・インターナショナルに徹しないと活路が拓けない場面が多々出てくるわけです。東洋的なモーツアルト、日本的なベートーヴェンなんて言っておれないのです。そのなかで欧州の音楽界に自分を認知させて行かねばならなかった小澤さんの苦労は、相当なものであったろうと思います。多分現在世界楽壇で活躍している若者(小澤さんより40年ほど遅く生まれた世代)はそう云う切迫した思いをあまりせずに済んでいると思います。あの頃とは時代環境が全然変わって、多様性が受け入れられる時代になっています。これはもちろん小澤さんの苦労のおかげと云うことでもあります。

このように吉之助は小澤さんの音楽をどうしても「インターナショナル」というキーワードで捉えてしまうところがありますが、小澤さんの演奏から「日本」(と云うか東洋)をそこはかとなく感じたことが全然なかったわけではありません。吉之助にとってはそんな思い出深い小澤さんの演奏(録音)を二つあげておきます。

ひとつはベルリン・フィルとのバルトーク:管弦楽のための協奏曲(1994年10月27日・ベルリン・フィルハーモニー・ホール)、もうひとつはサイトウ・キネンOとのマーラー:交響曲第2番「復活」(2001年1月2日・東京文化会館)です。「吉之助のクラシック音楽雑記帳」の小澤さんの項をご参照ください。



*小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
マーラー:交響曲第2番「復活」
2000年1月2日東京文化会館ライヴ

小澤さんは、日本各地をまわって音楽の愉しさを広める演奏会など長期に渡り地道に続けて来られました。別にプロの演奏家になるためだけが音楽を学ぶということでなく、もっと気楽に音楽の愉しさを知ってくれたらそれでいいんだと、そういう場合にはモロにローカルの地を出していたようです。そこのところは割り切って考えていたと思いますね。

『僕が西洋の人と同じようにバッハができることになるのが目的ではなく、問題は、演奏した時にその僕がやったっていう価値があるものが出て来るかどうかなんです。(中略)ドイツ語を話す人、イタリア語を話す人がやるバッハではそれぞれ味が違う。日本で地方にホールがありますよね。そこでやるバッハは、東京とかウィーン・ミュンヘンでやってるのと違うけど、価値がある時代がくれば最高なんです。そこに聴きに行くと、「おらがバッハだ、音楽だ」と、西洋人が書いた曲なんだけど、おらがやるのが価値があるんだ、というところまでくればもう立派なもんだね。』(小澤征爾インタビュー:「週刊朝日」02・3・8号)

まあそう云うわけなので、吉之助のなかでの小澤さんは、インターナショナルなものと内なる日本との対立を一身に背負い、敢えて「インターナショナル」に徹した音楽家ということになりましょうかねえ。ご冥福をお祈りします。

(R6・2・13)


〇追悼・小澤征爾さん・その1

指揮者・小澤征爾さんが先頃(6日)亡くなったとのことです。日本のクラシック音楽ファンにとって、小澤さんは日本人音楽家が世界で活躍する道筋を切り拓いたパイオニア的存在でありました。現在世界で活躍する日本人演奏家は数多くいますが、みんな小澤さんの後を追ってきた人たちです。吉之助は小澤さんの演奏を生(なま)で聴く機会はそれほど多くなかったですけど・いろんな録音を通じて・もちろん吉之助の音楽歴のなかでも重要な音楽家の一人です。取り留めのない文章になるかも知れませんが、本稿で小澤さんに感謝の意を伝えたいと思います。

吉之助は小澤さんと個人的な面識はありませんが、小澤さんに声を掛けられたことが一度あります。それは1983年8月17日のザルツブルク祝祭劇場でのことで、当日はロリン・マゼール指揮によるベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」上演でしたが、第1幕が終わって・その休憩時間に2階ロビーの柱に寄りかかってプログラムをパラパラやっていた時でした。「ヨオッ」と声がしたので顔をあげたら、10mくらい先でタキシード姿の小澤さんが吉之助に向かって笑顔で右手を振っていらっしゃいました。吉之助は慌てて最敬礼をしましたが、それだけのことなんですけどね。多分吉之助のことをこちら(欧州)に勉強に来ている音楽学生だと勘違いしたのだと思います。あの頃の吉之助は既に歌舞伎は毎月見ていましたが、まだ音楽評論を諦めていなかったし、若い頃の吉之助には音楽をやっていそうな雰囲気はあったと思いますね。小澤さんは21日にウィーン・フィルを振る予定(ベートーヴェンの第7番など)であったので早めに現地入りをしていたようです。ただし旅程の関係で小澤さんの演奏会は聞いていません。

今回の訃報に当たり多くの方が同様のコメントをなさっていますが、音楽で結ばれた人には分け隔てなく接する気さくな方であったと思います。吉之助の脳裡には小澤さんのあの時の笑顔が今もしっかり刻まれています。あの頃に携帯があればその場で写真を撮っていたところだが、写真がなくてとても残念です。

小澤さんの音楽的業績は今更ここで書くまでもないことですが、小澤さんが24歳の時、「外国の音楽をやるためには、その音楽が生まれた土地、そこに住んでいる人たちのことを知らねばならない」と一念発起して、スクーターに乗ってヨーロッパ一人旅にむかった話を本にまとめた「ボクの音楽武者修行」(昭和37年・1962年刊行)は、小田実の「何でもみてやろう」((昭和36年・1961年刊行)と並んで、その後の日本の若者の海外旅行ブームの先鞭をつけたものだと思います。そういう意味では音楽以外の功績も大であったわけです。吉之助も(スクーターに乗ってではないけれども)学生時代にヨーロッパ一人旅をしたのは、小澤さんの影響が多少なりともあったことは疑いのないところです。(この稿つづく)

(R6・2・10)


〇令和6年1月新国立劇場中劇場:「梶原平三誉石切」・その4

菊之助が当月筋書の「出演者の言葉」のなかで、梶原について「六郎太夫と娘・梢との情愛や心情に加え、名刀を作った刀鍛冶の思いも悟れるところが梶原の魅力で、理想の男だと思う」と語っています。これは全くその通りです。確かにこれがなければ生締めの捌き役になりません。しかし、これだけであると橘屋型の華やかでカッコいいのと大して変わりがないようです。大事なことは、「花よりも実(じつ)」とする播磨屋型の渋いところを観客にどのように見せ付けるかだと思います。ならばどこに橘屋型との差異を見るべきでしょうか。

それは、六郎太夫が何としても刀を売って金を作りたい差し迫った事情を理解しつつも、「たかが刀の切れ味を試すために人間の身体を切ろうとは何たる事か、人の命を粗末に扱ってはならない」という義憤であろうと思います。そこには明治以降の人権感覚が多少なりとも反映しています。恐らくこの感覚は江戸期生まれの「石切梶原」には本来そう強くないと思います。しかし、現代の観客がこの芝居を見るならば、「刀の切れ味を試すためだけに二つ胴するとは、何て非人間的な残酷なことをするんだ」という考えから決して逃れることは出来ないのです。明治以降の近代歌舞伎は、そのような時代の要請に応える必要がありました。そこに初代吉右衛門の近代的感性の取っ掛かりがあったわけなのです。公正な裁判で死罪が決まった呑助のことは兎も角、六郎太夫については・これを無慈悲に二つ胴にしてしまうことから何としても救わなくてはならぬ。だから梶原は、六郎太夫と大庭・俣野との間で二つ胴の話がポンポン進むのを黙って聞いていましたが、試し斬りしようと俣野が勇んで刀をつかんで立ち上がった瞬間、梶原はこのように叫ぶのです。

『目利きいたした某、一言の礼儀もなく貴殿が彼を試さんとはあまりなる踏みつけ業(わざ)、近頃以て無礼でござろう』

この台詞が「刀の目利きをした梶原の面子を潰された怒り」から来ると云うのは、実は表向きのことです。俣野が二つ胴するのを阻止して・何としても自分がこの役を引き受けねばならぬ、これが梶原の本心です。このため尚更台詞の調子が居丈高になってしまう、そう云うことです。ですからこの台詞に至るまでの梶原の心理は、ただ黙って座っていたように見えますけれど、実は内心は沸々と煮えたぎっていたはずです。自分はどうすべきか、それがどんな結果を生むか、最善の方法をシミュレーションしたうえで、梶原はこの行動に出ているのです。梶原は二つ胴を仕損じたように見せかけて六郎太夫を救います。この結果は「刀の恥」(斬れ味が悪いと云うこと)なのだけど、同時に「斬り手の恥」でもあるわけなのです。その汚名を引き受けてでも俺は六郎太夫を救う。そこに「例え二股武士の汚名を背負うことになっても、俺は頼朝公に賭ける(源氏方に付く)」と重なる梶原の気概を感じますね。これこそが「梶原の実(じつ)」と云うことになると思います。芝居の最終場面でこのことが明らかとなります。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。)

実は別稿「菊之助・初役の盛綱」のなかで、ほぼ同じようなことを申し上げたのです。「そこのところは腹のなかにグッと持っている」と云うことかも知れないけれども、菊之助の梶原は、傍目からはジェットコースターのような梶原の心理の激しい変転があまり見えて来ない感じがします。控えめに・綺麗ごとに見えてしまうきらいがある。そこが古典的で丸く収まった印象にもつながるわけですが、芸の次の段階においては、この印象を意識的に崩しに行くことを試みてはどうですかね。つまり、ここは表情・目付きの変化、声色の変化を大きく付ける工夫をすることです。こういう演技は「クサい」と感じるかも知れないが、クサいと思うくらいでちょうどよろしいのです。播磨屋(初代吉右衛門)の芸のクサさは、「法界坊」とか「お土砂」みたいな観客に受けに行くような演目にだけ出るものではなく、「熊谷陣屋」とか「盛綱陣屋」などシリアスな演目に於いても、播磨屋のクサさは形を変えて、真摯なストイックな方向で、「花よりも実(じつ)」という形で出るものだと吉之助は考えているのです。例えスケールが小さくなったとしても良い、目指すべきは細やかな感情表現、感情の変わり目をくっきりと観客に示唆することです。音羽屋の御曹司である菊之助が、岳父・二代目吉右衛門を尊敬して・播磨屋の芸を学びたいと云うことならば、菊之助が最終的に学び取るべき・播磨屋の芸のポイントはそこであると、吉之助は思います。

(R6・2・9)


〇令和6年1月新国立劇場中劇場:「梶原平三誉石切」・その3

梶原平三が手水鉢を斬る時、播磨屋型(初代吉右衛門)では観客に背を向けて刀を構えます。一方、橘屋型(十五代目羽左衛門)は観客の方を向いて刀を構え・斬った手水鉢の間を飛び越えて決まってみせます。「桃太郎じゃあるまいし」との揶揄もあるようですが、橘屋型の方が派手でカッコいいと云うので、昨今はこちらの方が優勢のようではあります。恐らく観客に背を向けて刀を構える方が型の起源としては古いように思いますが、まあどちらが正しいかはどうでも良いことです。しかし、全盛期(大正から昭和前半)の花の橘屋を傍らに置いて初代吉右衛門が観客に背を向けて刀を構える時、「俺は観客に受けを狙うなんてことはしないんだよ」というポーズを意識的に取っていると云うところが多少なりともあったと思うのですね。そこが大事な点かと思います。つまり「花よりも実(じつ)」だと云うことです。これが播磨屋の芸の本質だと思います。

同様なことが「六段目」の勘平の腹切りでも見られます。ご存じの通り「六段目」で一般的なのは音羽屋型(つまり六代目菊五郎)です。「金は女房を売った金、撃ち止めたるは舅どの・・」で勘平が観客の方を向いて刀を腹に突き立てます。一方、播磨屋型(初代吉右衛門)は上方オリジンで、観客に背を向けて腹を切る渋い型です。(吉之助も播磨屋型の勘平は見たことがありません。)十七代目勘三郎はもしほ時代に勘平を初役で勤めた時、兄(初代吉右衛門)の眼が光っているので、音羽屋型で演じたかったのに播磨屋型でやらざるを得ず、イヤでイヤで仕方がなかったそうです。吉之助が見た十七代目勘三郎晩年の勘平はもちろん音羽屋型でしたが、役者ならば観客に向けて腹を切りたい気持ちはよく分かります。逆に言えば、六代目菊五郎全盛(大正から昭和前半)の当時、初代吉右衛門の勘平が観客に背を向けて腹を切るのは、「俺は花よりも実(じつ)を取るんだ、菊五郎とは違うんだ」というポーズがやはりどこかに潜んでいたと思います。

(注:ところで上演記録を見ると、二代目吉右衛門の勘平は昭和55年(1980)3月歌舞伎座での一度切りのようです。この舞台は吉之助は見たはずだけど・まるで記憶が抜け落ちてますが、これは音羽屋型であったと思います。なお菊之助の播磨屋型の勘平が見たいなどと言うつもりはまったくありませんので、これも付け加えておきます。)

要するに吉之助が言いたいことは、播磨屋の芸の本質を「花よりも実(じつ)」に見ると云うことなのです。見た目の形が良いとか派手だとか・押し出しが利くと云うことではない。解釈の基準がドラマ本位・人間本位なのです。二代目吉右衛門も試行錯誤を重ねながら・この方向で芸を磨き上げてきたものと理解しています。これは初代吉右衛門の芸談やら二代目吉右衛門の数多い舞台から吉之助のなかに生まれたものでなく、初代白鸚・十七代目勘三郎・二代目白鸚・さらに六代目歌右衛門の舞台や芸談など色んなものを総括して・抽出して、そこから吉之助のなかに生まれてきた播磨屋の芸のイメージです。

同様に菊之助のなかにも、菊之助の人格から生まれた・菊之助だけの「播磨屋の芸」のイメージがあると思うのです。それをはっきりと打ち出して欲しいと思うのです。それがあれば、「肚が太い」どっしりした印象の梶原に出来ると思いますがね。何だか梶原のことしか考えていないように思えるのです。「ここはこうする、次はああする」と云う手順を忠実に追えば・そのまま播磨屋の梶原になると云う考えに留まっていると感じるのです。確かにそう云うことならば間違いなく出来てはいるのです。初役であることを考えれば立派なものです。しかし、菊之助は日常的に故人(二代目吉右衛門)の人柄に接し、ここ数年播磨屋系の役の数々に取り組んで来たはずです。その実績を考えれば、もう一味違っていても良いと思うのです。吉之助が菊之助に期待したいことは、「俺が考える播磨屋の芸とはこれだ」という・熱い人間的な息吹きです。(この稿つづく)

(R6・2・4)


〇令和6年1月新国立劇場中劇場:「梶原平三誉石切」・その2

以前同じようなことを書いたことがありますが、「石切梶原」の主人公は梶原平三であってそれ以外の何者でもない、だから個々の脚本から独自性を持つ人物として役を読み込んでいく手法もあるのです。そちらの方が近代演劇的かも知れませんが、これだと梶原の解釈が他の役に適用できないのです。他の役を演じる時にはまた一から作業をやり直しです。これに対して、役の性格を或るひとつの括りで大きく掴み取って、そこから細部を彫りこんでいく手法もあると思います。多分こちらの方が歌舞伎本来の手法に近いと思います。「ひとつの括りで大きく掴み取る」と書きましたが、括りの仕方はいろいろあり得ます。役どころで括るやり方があります。(例えば梶原ならば生締めの役どころ。)その役を初演した役者・或いは当たり役にした役者で大まかに括ってみることも出来ます。「石切梶原」ならば昔は十五代目羽左衛門・そして初代吉右衛門ということになりましょうか。もちろん二代目吉右衛門で括ってみても結構です。これは役どころを役者の芸風と云うか・人格で以て大きく受け入れると云うことです。

そんな感じで梶原と云う役を多方面から眺めてみる作業が、菊之助にはもっと必要だと思いますね。二代目吉右衛門は梶原を「こうやった・次はああやった」、「そこはこう云う心持ちでやった」、そのような型の手順については、菊之助はきっちり習得出来ています。性根を正しく捉えているから・菊之助の梶原に「肚が薄い」という印象はありませんけれど、まだ「肚が太い」という域には達していない。演技が頭脳プレイに留まっており、どっしりした存在感はまだありません。それは梶原と云う役をそれだけで考えているからではないでしょうか。

厳しいことを書くようですが、型の手順をその通り忠実になぞっただけでは、それだけでは「二代目吉右衛門」にならぬと云うことです。形は似ていても心を捉えていなければ、型は十分に機能しません。逆に言えば、心を捉えてさえいれば、「ここはこうする、次はああする」なんて手順などどうでも良くなるのです。菊之助はこの数年・二代目吉右衛門の役どころを系統的に追って来たのですから、与兵衛を・光秀を・盛綱を・知盛を演じた経験から総括的に引き出した「俺が考える播磨屋の芸とはこれだ」というものを何か掴んでいるはずです。そこから二代目吉右衛門の梶原を割り返すことも出来ると云うことです。そうすれば肚が太い梶原が構築出来ます。ちょっとやそっとでは揺るがない。それは全人格から出たものであるから。これこそ伝統芸能である歌舞伎が長年培って来た智恵であるはずです。(この稿つづく)

(R6・2・1)


〇令和6年1月新国立劇場中劇場:「梶原平三誉石切」・その1

本稿は令和6年1月新国立劇場中劇場での初春歌舞伎「梶原平三誉石切」(石切梶原)の観劇随想です。三宅坂の国立劇場が建て替えで閉場中の為、本公演から当分の間、初台の新国立劇場・中劇場での開催となるそうです。菊之助の梶原は初役で、岳父・二代目吉右衛門(故人)の書き抜きや映像など参考に役を構築したとのことです。

先年(令和4年3月国立劇場)「盛綱陣屋」の盛綱を菊之助が初役で勤めた時、「これで菊之助は斎藤実盛や梶原平三なども射程圏内に収めたことになる」と観劇随想に書きました。その通り・2年後に菊之助が梶原を勤めることに驚くことは全くありません。演じたい役をリストアップして、計画通り順番に取り組んでいるようですねえ。(本年3月歌舞伎座では「寺子屋」の松王丸を演じるそうです。)果たしてこの梶原も型の手順を確実に手に入れて・自己流に崩すことがない。性根の把握もしっかりしており、見ていてほとんど文句の付けようがない仕上がりです。初役でこれだけの梶原を演じるならば、もちろん「初役として」と云うことですけれど、上吉あるいは上々吉と云うところです。

そこのところを認めたうえで申し上げると、菊之助の梶原については「まとまり過ぎている」と云う不満を覚える方がいるかも知れません。「まとまっている」から古典的に丸く収まった印象になって来るわけで、これを良い方に捉えるか・悪い方に捉えるかにも拠りますが、何と言いますかね、予定通りにドラマが進み・予定通りの出来で終わる、そのような優等生的な印象を突き破る「熱さ」あるいは「興奮」がもっと欲しいと感じますね。菊之助は役者の道程を着実に歩んでいると思うけれども、そこの殻(限界)を突き破ってこそ菊之助の次の段階(ステージ)が見えてくると思うのです。

菊之助が(音羽屋の領域にない)岳父・二代目吉右衛門の役どころに取り組むということは、(丑之助のために播磨屋の芸を繋ぎたいと云う理由があるにせよ)そのような自らの芸の殻を突き破りたいと云う目論見からであろうと吉之助は勝手に考えていましたが、盛綱とか・今回の梶原から「まとまり過ぎた」印象が依然として抜けないとなると、これはどう云うことかな?とちょっと疑問を感じてしまうのですがね。(この稿つづく)

(R6・1・30)


〇令和6年1月歌舞伎座:右近の「京鹿子娘道成寺」

本稿は令和6年1月歌舞伎座・初春歌舞伎の、右近による「娘道成寺」の観劇随想です。今回の「娘道成寺」は、白拍子花子を月前半が壱太郎、後半を右近とダブルキャストで分ける形になっています。右近の白拍子花子は、昨年(令和5年)8月浅草公会堂での自主公演(初役、この時の上演は道行から鐘入りまで)以来のことです。それから半年で歌舞伎座での再演と云うことですから、右近に対する周囲の期待の高さが伺われます。

別稿「壱太郎の娘道成寺」随想において、道行をカットして・乱拍子から始める場合の「娘道成寺」のバランスの変化について触れました。この場合、「娘道成寺」のなかの芝居の要素(鐘への執心)は奥へ引き、代わりに次から次へと繰り出される踊りの変化の妙が前面に出ることになるのです。今回(令和6年1月歌舞伎座)の・この場割りは、右近の踊りには良い方に作用しました。華やかで愉しい踊りに仕上がったと思います。

今回の白拍子花子は、前半(乱拍子から恋の手習い)の出来がとても良いです。前回は猛暑のなかの強行軍(2日間で4公演)でクタクタであったせいもあったか・振りに若干粗いところが見えましたが、今回は振りが丁寧で、気合いが入っていることが良く分かります。右近の花子の良いところは、ちょっとした表情・呼吸のなかに生き生きした江戸の町娘の感覚が見えることです。これが謡曲オリジナルの暗い情念の物語を、世話の「かぶき」の世界の方へと引き寄せます。鞠唄の踊りが「鐘なんか・怨念なんか何のことよオ」というアッケらかんとした明るい感覚になる。これこそかぶきの「娘道成寺」の感覚だと思います。

右近らしさと云うことならば、後半(鞨鼓から鈴太鼓)の踊りの方にそれが良く出ていると思います。しかし、こちらの方は、踊りが元気過ぎる・振りが大き過ぎる印象です。良く云えば身体が大きく使えていると云うことですが。多分動きがダイナミックで・リズム感覚があって興奮させられたと云う感想が多かろうと思います。ここには十八代目勘三郎の花子にも似た狂熱が見えます。そのことは認めますけれども、吉之助の好みからすると、ここはもう少し動きをコンパクトに・振りを抑えめにして欲しいと思います。振りが粗っぽいとまで申しませんが、ここは動きを抑えて狂熱をもっと内に秘めてもらいたいのです。狂熱は「娘道成寺」のなかの芝居の要素(鐘への執心)に通じるものです。この感覚は最後の最後まで、花子が鐘に踊り掛かって行くまで内に秘めねばなりません。そこまでは世話の「かぶき」の感覚を維持してもらいたいのです。むしろここでは踊りの端正さこそ望ましい。「娘道成寺」ではそのような踊りの設計がなされていると感じますがね。

しかし若い内は後半のようにリズミカルな踊りで思わず身体が動いてしまうことは理解できますし、今の段階では目一杯若さを謳歌することも大事なことなのです。まあ踊り重ねる内に動きも次第に変わって行くだろうと思います。右近の「娘道成寺」は、これから20年くらい目が離せない・歌舞伎の呼び物になると思います。

(R6・1・24)


〇令和6年1月浅草公会堂:「魚屋宗五郎」

本稿は令和6年1月浅草公会堂での初春歌舞伎の夜の部・「魚屋宗五郎」の観劇随想です。松也の宗五郎は初役、新悟のおはまも初役(おなぎはすでに経験済み)、米吉のおなぎは2回目であるようです。

別稿「源氏店」観劇随想(「写実か様式か」という話題)の続きになりますが、芝居の出来としては、昼の部の「源氏店」よりもこちらの方がしっくり来るようです。松也はじめ・若い役者たちが生き生き演じています。アンサンブルも噛み合っているし、安心して芝居を見ていられます。同じ世話物でも「源氏店」(嘉永6年・1853・初演)よりも、「魚屋宗五郎」(明治16年・1883・初演)の方が様式の重圧(プレッシャー)が少ない。だから表現の自由度が高くて芝居が演じやすいと感じるのでしょう。

如皐と黙阿弥のスタイルの違いもあろうけれど、これはやはり成立年の違いが大きいです。間に明治維新が挟まって、江戸から明治へと世の中が転換しています。チョンマゲ・帯刀の風俗は既に過去のものになっていました。初演では30年しか違わないけれど、ふたつを比べると、写実(リアル)の感覚が変わったことがはっきり感じ取れます。この2年前(明治14年)に黙阿弥は66歳で引退を声明しました(しかし劇作は続けました・周囲が完全引退を許さなかったのです)。主たる理由は演劇改良運動論者たちの激しい攻撃でした。しかし「魚屋宗五郎」は、改良論の急先鋒・依田学海(よだがっかい)さえ「宗五郎が禁酒を破って・だんだん酒に酔っていくところは、なかなかあんな風に書けるものじゃない」と唸らせたほどの出来となりました。黙阿弥は彼らを黙らせようという気概で芝居を書いたと思います。

大事なことは、酒にだんだん酔っていく「芸」の過程(プロセス)と、磯部の殿様への義理で押さえ付けていた怒りの感情が表面に出始める過程が、ドラマとぴったり重なっていることです。これを写実(リアル)だというのは酔いっぷりの芸が上手いと云うことではなく、「理不尽な理由で妹が殺された」ことへの怒りが生々しいもの(つまりリアル)でなければ、ドラマは決して立たないわけなのです。宗五郎を得意にした六代目菊五郎が「私はいつも現代劇をやっているつもりです。だって宗五郎はちゃんと現代の観客の心を打ってるじゃありませんか」と言ったのは、そこのところです。

酒に次第に酔っていく「芸」、これは歴代の宗五郎役者のイメージが積もり重なって「様式=フィクション」となっている。そのようなフィクショナルなイメージを少しでも「なぞって」行かないと「かぶき」の感覚に沿って来ないと云うことは確かにあると思います。しかし、「理不尽な理由で妹が殺された」ことに対する怒り、「身分が高いからって何をしても許されるのか」という憤りがリアルなものでなければ、世話物の芸は決して研ぎ澄まされたものにならないのです。

松也の宗五郎はまだその入り口に立った段階ではありますが、役者としての色気・量感も兼ね備えた宗五郎として上々の出来ではなかったでしょうかね。様式と写実のバランスは、役者として永遠の課題です。新悟の女房おはまも息の合ったサポートを見せて好演です。

(R6・1・22)


〇令和6年1月浅草公会堂:「本朝廿四孝〜謙信館」・その3

米吉初役の八重垣姫は、清らかで可愛らしいお姫様になっています。そこのところは予想通りで、手順の一応のところは出来ていると思いますが、現在のところはまだ可愛らしさに留まっていると云うことかと思います。これは初役ならば仕方がないことで、可愛くなけりゃあ米吉でないとも言える。今の段階ではそれで宜しいのですが、演じながら型の背後にあるもの(心)を身体のなかに落とし込んでいかねばなりません。八重垣姫と云う役はもちろん美しいには違いありませんが、その美しさはパアッとした・裏表のない・明るい美しさとはちょっと異なると思います。それはどこか陰にこもった粘着質的な要素を持つものです。そのような八重垣姫の粘着質的なもの(性格)が十種香の奇蹟を引き寄せるのです。(別稿「超自我の奇蹟」をご参照ください。)

と云うことは、現在の米吉の翳りのない無垢な美しさと、八重垣姫に求められる美しさとはちょっと趣が異なるものと云うことになろうかと思います。しかし、歌舞伎の立女形の役どころにはそう云う性質のものが多いわけですから、これから米吉もそう云う役どころを何としてもモノにして行かねばなりません。

そこで大事になることは、所作の息の持ち方だと思います。身体の動きのなかに、ねっとり粘着質的な息の深さが欲しいと思います。動きをゆっくりすると云う意味ではなく、深い息を以て舞踊のようにじっくり緩急をとって形を決める。そう云う要素が付け加わることで、米吉の美しさも奥行き・深みを持ったものに変化していくだろうと思います。例えばサワリの「許嫁ばかりにて枕交はさぬ妹背中、お包みあるは無理ならねど、同じ羽色の鳥翼。人目にそれと分らねど親と呼び、又つま鳥と呼ぶは生(しょう)ある習ひぞや。・・」という竹本の詞章に、今の米吉は動きを合わせて形を決めるだけで精一杯であろうと見ましたが、じっくりとこちらから竹本を引っ張るくらいの心持ちで息を詰めて掛かる、そういう修練が必要であろうと思います。そのような息の詰め方で参考になるのは、何と言っても六代目歌右衛門ですね。

新悟の濡衣は悪くありませんが、八重垣姫との対照上もう少しトーンを下げてもらいたいですね。そこを直せばもっと落ち着いた印象になろうかと思います。「謙信館」後半(謙信登場以降)は、小気味良く芝居が運びました。立役三人(歌昇の謙信・種之助の六郎・巳之助の小文治)ともに好演です。

(R6・1・17)


〇令和6年1月浅草公会堂:「本朝廿四孝〜謙信館」・その2

このように「謙信館」冒頭は死んだ勝頼への鎮魂の念がお香の煙のように全体に立ち込めているのです。実はその「勝頼」は偽勝頼であったと云うことですが、しかし、この場が鎮魂の念に満ち溢れていることは疑いありません。事情は三者三様ですが、鎮魂の気持ちは三人(八重垣姫・濡衣・蓑作)ともに同じです。八重垣姫のことは前章で述べました。濡衣・蓑作についてはどうでしょうか。

まず濡衣については、(二段目・勝頼切腹の場で描かれますが)偽勝頼の恋人が濡衣であったと云うことで、まさに鎮魂の当事者です。濡衣は、八重垣姫が死んだと思って一生懸命弔っている勝頼が実は生きていることを知っています(それは自分の恋人です)から、思いは複雑です。しかし、濡衣は恋人の死を大っぴらに嘆くことさえ許されません。(本物の勝頼と偽勝頼は見た目がそっくりと云うことになっています。ここが十種香の奇跡のために大事な伏線です。)立場が複雑であるのは蓑作(実は本物の勝頼)も同じことで、蓑作は何も知らない八重垣姫を不憫に感じていますが、今は真実を明かすわけに行きません。また蓑作には濡衣の気持ちを思いやり、偽とは云え武田の家を守るために切腹した偽勝頼のことを弔う気持ちももちろんあることです。(偽勝頼は自分が偽であることを知らぬままで死んだのです。別稿「廿四孝と八重垣姫」を参照のこと。)

以上のように「謙信館」冒頭には、三者三様の死んだ勝頼に対する鎮魂の念が満ち溢れている。だからこの場を「十種香」と通称するのです。この場を高調子に派手に明るく語るものではないことは、これで明らかです。暗くなってはいけないけれど、しっとりと落ち着いた色合いで語らねばならぬものです。

このような三者三様のトライアングルのなかで、特に立役の蓑作のトーンの取り方が大事になるはずです。八重垣姫と濡衣は女形である以上抑えると云っても高めの調子ですから、三重唱で蓑作の台詞を高めの調子に作ってしまうと、全体の印象が平板に聞こえてしまいます。鎮魂の念が伝わって来ないのです。今回(令和6年1月浅草公会堂)の「謙信館」が浮いた印象に聞こえるのは、米吉(八重垣姫)と新悟(濡衣)がキンキン高調子であるせいもありますが、橋之助(蓑作)が台詞のトーンをもっと低調子に取っていれば、印象はかなり変わって来るはずです。トライアングルはもっと落ち着きのある趣になったはずです。

橋之助(蓑作)についてはもう一つ申し上げたいことがあります。橋之助は役の性根を勝頼に・つまり大名の御曹司としての品格と容姿優れた若衆の色気に置いていると感じますが、これで良いのかと云う疑問です。このことは冒頭の「われ民間に育ち人に面を見知られぬを幸ひに花つくりとなって入りこみしは・・」をどう読むかという問いに関わってきます。ここを字面だけ読めば、本物の勝頼に立ち戻り・素でしゃべっているかのように読める、橋之助はそう思っているのでしょう。だから台詞の調子が自然と時代に・高調子になって来ます。しかし、吉之助はここはそうあるべきでないと思いますね。勝頼は決して蓑作の意識を捨てていません。ここでそのことを忘れたら潜入計画はおじゃんになってしまうのです。このことは濡衣が「申し蓑作さま、合点の行かぬあなたのお姿・・」と呼びかけていることでも分かります。もちろん花作り蓑作は身体から滲み出る品格と色気を隠そうとしても隠されぬ・そう云う人物ですが、この場面では「勝頼」ではありません。「謙信館」では勝頼の気分で言う台詞と蓑作の立場で言う台詞とが交錯しますから、そこは語調の変化で対処して、蓑作のトーンに一本筋が通ったものが欲しい。つまり蓑作にしっかりした男(実)の印象が欲しいのです。優美一辺倒ではならぬと思います。(この稿つづく)

(R6・1・16)


〇令和6年1月浅草公会堂:「本朝廿四孝〜謙信館」・その1

本稿は令和6年1月浅草公会堂での初春歌舞伎の「本朝廿四孝〜謙信館(十種香)」の観劇随想です。米吉の八重垣姫・新悟の濡衣はともに初役、橋之助の蓑作は令和4年10月御園座での初役以来の2度目ということです。「謙信館」は丸本時代物の人気作品ではありますが、ドラマに取り立てて山場がなくて・滔々と流れる大河の如くの・風格本位の芝居であるので、ともすれば芝居がダレてしまう。こういう難物は、今の段階では型(手順)を覚えて身体に落とし込むだけで精一杯でしょう。それは仕方がないことで、一度はこの過程を経なければ芸の「先」は見えてこないわけですが、演じながら型の背後にあるもの(心)を常に意識して欲しいと思いますね。まあそんなわけで、舞台を拝見して感じたことを徒然なるまま書いてみたいと思います。

この二・三十年来歌舞伎を見て義太夫狂言の多くに感じる共通した問題は、竹本も含めて全体が次第に高調子へと推移していることです。高いと云ってもホンのちょっとの差異です。しかし、そのホンのちょっとがとても大きな舞台の印象の差異になって現れるのです。今回の舞台も例外ではなく、主要三人(八重垣姫・濡衣・蓑作)ともにかなり高調子気味です。このことは歌舞伎全体の問題であるので・つまりそう云う過去の舞台がお手本になっているので・今回の舞台だけをあげつらっても仕方ないことですが、今回の「謙信館」前半(謙信登場より以前)が浮いて聞こえるのは「なぜなのか」?原因をじっくり考えてみた方が良いかと思いますね。

この芝居の通称を「十種香」(じしゅこう・じゅっしゅこう)と申します。十種香とは、栴檀(せんだん)・沈水(じんすい)・蘇合(そごう)・鬱金(うこん)など十種類の香木を調合したお香のことです。八重垣姫は許婚の武田勝頼が切腹して死んでしまった(表向きにそうなっている)と信じているので、仏間にその絵姿を掛けて香を焚いて回向しています。「十種香」冒頭は死んだ勝頼への鎮魂の念がお香の煙のように全体に立ち込めているのです。・・であるとすると、この場の空気は沈痛で重いものでなければならないのではないでしょうか?そう云うことを歌舞伎役者はあまり考えないみたいですねえ。この芝居は八重垣姫の「恋」を描いている、そう思っているようです。確かに芝居が終わってみればそう云うことですが、しかし、「十種香」前半はそうでないのです。八重垣姫は、

「申し勝頼様、親と親との許嫁、ありし様子を聞くよりも、嫁入りする日を待ち兼ねて、お前の姿を絵に描かし見れば見る程美しい。こんな殿御と添ひ臥しの身は姫御前の果報ぞと、月にも花にも楽しみは、絵像の側で十種香の、煙も香花となつたるか。回向せうとてお姿を絵には描かしはせぬものを、魂かへす反魂香、名画の力もあるならば可愛とたつた一言の、お声が聞きたい」

と言います。ここに「魂かへす反魂香」という詞章が出てきます。「反魂香」とは、焚くとその煙のなかに死んだ者の姿が現れるという不思議なお香のことを言います。その典拠は中国の故事にあります。唐の詩人・白居易の「李夫人詩」のなかに、漢の武帝が最愛の李夫人を亡くした後、道士に霊薬を調合させて金の炉で焚き上げたところ、その煙のなかに李夫人の姿が見えたとあるそうです。大事なことは、あの世へ旅立っていった者(死者)を弔い、現世に生きる者(生者)が自分が追い求めるもの(故人の姿)を煙のなかに見たいとする思いの強さです。そんな八重垣姫の思いが届いたか、勝頼が眼前に現れます。これは十種香の煙が引き寄せた反魂香の奇跡に違いありません。

八重垣姫が恋するのは、そっくりの「蓑作」ではなく、あくまで「本物の勝頼」です。八重垣姫には、これがまことの勝頼さまか・幻影か?どちらか確信が持てません。八重垣姫の眩暈(めまい)は、濡衣から「ご推量に違わず、あれが誠の勝頼様」と云われるまで続きます。ということは、ここまで八重垣姫の死んだ勝頼への鎮魂の念が持続していなければならないはずです。この場の空気は沈痛で重いまま維持されねばなりません。そうでなければ反魂香の効果が失せてしまいます。だからこの場の台詞は高調子に派手に明るく語るものではないということですね。(この稿つづく)

(R6・1・14)


〇令和6年1月歌舞伎座:壱太郎の「京鹿子娘道成寺」・その2

今回の「娘道成寺」は、前幕がモノクロームで暗い内容の芝居(小山内薫の「息子」)であるせいもあって、観客からすると余計にその華やかさへの期待が募ることになります。巧い演目配置をしたものですね。「古(いにしえ)の鐘の説話のドロドロした情念なんかどうでもいいから、理屈抜きで馬鹿々々しいお愉しみに浸らせておくれ、気持ちよく芝居を打ち出しにしておくれ」というのが観客の正直な気持ちです。こうなると鐘への思いなんてことは二の次になりますが、道行がカットの版(ヴァージョン)でやると一旦決まった上からは、次から次へと繰り出す踊りの変化の妙で観客を魅惑せねばなりません。

前述の通り、烏帽子姿で登場した時の壱太郎の白拍子花子の第一印象はなかなか素敵なのです。このままふっくら柔らかな印象を維持しつつ、「娘道成寺」全体をホンワカした春風駘蕩たる気分に浸らせてもらいたい。吉之助はそのように夢想するのですが、実際の壱太郎の踊りはなかなかそうなって来ないようです。全体的な流れのなかでの起伏が乏しくて、のっぺり平板に感じられます。踊りが変われば着物の色も変わるわけですが、踊りの色合い(気分)もまた変わって行かなけれなりません。そう云うウキウキ感覚がちょっと足りないのだな。

ひとつには初役ゆえ振りがまだ十分手に入っていないので、踊りに余裕がないせいかも知れませんねえ。振りを大きく取ろうとしているせいか、身体の軸(体幹)が前後左右にブレる場面が多い。テンポが早めで躍動感ある踊りでは、振りにスキが見えて形がキレイに見えて来ません。もう少し動きをコンパクトに持って行った方が良いように思いますね。振りがコンパクトになれば、自然と動きにリズム感覚が出てくると思います。その証拠には、テンポがゆっくりめの「恋の手習い」では、振りがしっかり取れて情感がこもって見えました。今回の壱太郎の「娘道成寺」では、「恋の手習い」がしっとりして一番出来が良かったと思います。まあ回数重ねていくうちに、動きもこなれて来るのではないでしょうか。再演を期待したいと思います。

(R6・1・11)


〇令和6年1月歌舞伎座:壱太郎の「京鹿子娘道成寺」・その1

本稿は令和6年1月歌舞伎座・初春歌舞伎の「娘道成寺」の観劇随想です。今回の「娘道成寺」は、白拍子花子を月前半が壱太郎・後半を右近とダブルキャストで分ける形になっています。壱太郎と右近を対で売り出したいという松竹の思惑が伺われますが、それならば道行をカットしたりせずに、ちゃんとした形で「娘道成寺」を競演させて欲しいと思います。これに道行を付けたら上演時間がどれだけ伸びるんじゃい・経費が増えるんじゃい。売り出しの仕方が中途半端じゃないかと思いますがねえ。本気でふたりを売り出したいのならば松竹は売り出し方をもっとよく考えてもらいたいと思います。

まあそれは兎も角、道行をカットして・いきなり乱拍子から始まるのならば、「娘道成寺」のバランスは当然変化します。今回は関係がないことだけど、幕切れに押し戻しが付くか・付かないかでも当然バランスが変化します。バランスが変わるのに・いつもの踊りを同じように踊れば良いってものではないのです。七代目三津五郎は、「「娘道成寺」のなかで嫉妬物として芝居を見せる場面は道行にしかありません」と言っています。そのように重い意味を持つ道行を「娘道成寺」から省くのならば、省くことを良しとはしませんけれど・それがやむを得ぬとすれば、「娘道成寺」のバランスはどう変わって行くのだろう?そう云うことを考えなければなりません。多分、「娘道成寺」のなかの芝居の要素(鐘への執心)は奥へ引いて、代わりに次から次へと繰り出される踊りの変化の妙、その面白さが前面に出てくることになるでしょう。もちろんそのなかでも鐘への思いは全体を貫くものとして在るには違いないが、「道成寺」の主題による変奏曲のレビュー的な愉しさ、繰り出す踊り・ひとつひとつの趣の変化をくっきりと付ける、そこが何よりも大事なことになるのです。

壱太郎が白拍子花子を勤めるのはこれが初めてのことだと思います。「娘道成寺」のバランスなんてことをいきなり言われても困るかも知れませんが、繰り出す踊り・ひとつひとつの趣・色合いの変化をくっきり付ける、そこに「娘道成寺」中間部(乱拍子から鐘入りまで)の御見物の興味があるのだと云うことは分かってもらえると思います。初代富十郎が初めて「娘道成寺」を出した時、或る方がどんな難しい振りを付けるかと思いきや・案外そうでもなかったので・拍子抜けがして「平凡な踊りですね」と感想を述べたところ、富十郎は「こういう平凡な振りでなければ後世に残りません」と返したそうです。この逸話の意味をよく考えて欲しいと思います。

そこで壱太郎の「娘道成寺」の踊りのことですが、全体的な流れのなかでの起伏が若干乏しいと云う印象を持ちますねえ。踊りを終えて花子が袖に引っ込む、次はどんな踊りを見せてくれるかな?サア出てきたゾ・・と云うワクワク感がいまひとつ。何だか流れがのっぺり平板に感じられます。そこのところをレビュー的な愉しさ・華やかさへと持って行けるか、そこに壱太郎の「娘道成寺」の今後の改善の課題があろうかと思います。

しかし、最初に紅白幕が上がって烏帽子姿の白拍子花子が現れたところの壱太郎の第一印象はなかなか良いのです。ふっくらと春風駘蕩たる・いわゆる「ぼんじゃりとした」上方女形らしい花子が見られそうな期待がします。近頃は現代風のシャープな印象の花子が多いですから、壱太郎の・このふっくら柔らかな印象はどこか古風な趣がして、それが何とも貴重です。それだけにこの第一印象を全体を通じて生かし切れていないのは、とても惜しいことです。そんなことなど考えながら壱太郎の「娘道成寺」の舞台を見ていたのですがね。(この稿つづく)

(R6・1・10)


〇令和5年12月歌舞伎座:「天守物語」・その2

今回(令和5年12月歌舞伎座)の舞台の七之助と虎之介は、「姫君への敬愛」の視点での富姫と図書之助との関係を、前回よりもクッキリ明確な輪郭を以て描き出しました。もちろん玉三郎からの再度のチェックが入った結果でもありましょうが、この半年間の二人の確かな成長を示してもいます。七之助の富姫は自信が増して、前回よりも凛とした風情が前面に出てとても良い出来です。まあ七之助は当然のことかと思いますが、特に虎之介の図書之助の成長には目覚ましいものがありました。前回の舞台でも新歌舞伎様式の二拍子のリズムが一番しっかりとれていたのは虎之介であったと思いますが、リズムの打ち(台詞の息の深さ)には改善の余地があって、まだ役が完全に自分のものになっていない印象を受けました。今回はその点が大幅に改善されて、役の感情から発したところで台詞が言われている印象になりました。役が手に入って自信がみなぎっているように感じました。図書之助でこれだけの発声が出来るならば、虎之介は今後が期待できるのではないでしょうか。

ところで「天守物語」を二人のめくるめく熱い恋の物語であると読みたい方には、今回の舞台は醒めたかのように見えて若干物足りなく感じられたかも知れませんねえ。しかし、ここが大事なことだと思いますが、これは人間と「異界」の妖怪との恋なのですから、決してこの恋は対等であり得ないのです。図書之助からはそれは常に仰ぎ見る構図になります。これが玉三郎がこの物語を貫くものは「姫君への敬愛」だと云うことの意味です。

前章で触れた玉三郎で観客の笑い声が上がった三か所の件ですが、ここで笑い声が起きるか起きないかが、「天守物語」の感銘をかなり大きく左右します。今回笑い声を引き起こさなかったことはまったく七之助と虎之介の功績と云うべきです。それだけ観客をドラマの世界に没入させていたと云うことですね。おかげで富姫と図書之助との恋が「実(じつ)」のあるものになりました。こう書くと吉之助が玉三郎の富姫を貶したと思われそうだから但し書きを付けますが、玉三郎の富姫はもちろん独自の魅力を持つものです。そこは吉之助も長年の玉様ファンであるからよく分かっていますが、上記の得失点差によって、七之助と虎之介のコンビは感銘度合いにおいて玉三郎の「天守物語」にかなり迫った高水準の出来となったと思います。しかし、どちらが鏡花のフォルムを正しく表出できていたかと云うことならば、吉之助は今回の舞台の方を取りますね。

前回では前半部(図書之助が登場する以前)のバランスがやや重ったるいと書きましたが、今回はこの点も改善されました。「天守物語」前半はやはり戯画的な軽みが必要だと思います。獅童の朱の盤坊はそんな感じを出してなかなか良かったのではないでしょうか。玉三郎が亀姫で出たのは、もしかしたら七之助の富姫が演り難くないかと心配しましたが、まったく富姫の邪魔にならず・可愛い妹分に成り切っていたのにはさすがと云うか・感心させられました。

(R6・1・8)


〇令和5年12月歌舞伎座:「天守物語」・その1

本稿は歌舞伎座12月大歌舞伎の、七之助の富姫と虎之介の図書之助による「天守物語」の観劇随想です。この公演は昨年(令和5年)6月平成中村座・姫路城公演から半年後の再演に当たります。姫路の舞台については観劇随想を書きました。だから今回の再演も「まあ凡その見当は付くかな」くらいの軽い気持ちでいましたが、いざ舞台を見てみると七之助も虎之介も格段の成長を遂げていて感心しました。今回の歌舞伎座公演は姫路の舞台よりも演技の輪郭がシャープになって、鏡花の作品コンセプトがより明確に描き出されたと思います。

それは鏡花の「天守物語」は富姫と図書之助との単純な恋の物語ではないと云うことです。確かに富姫は「千歳百歳(ちとせももせ)に唯一度、たった一度の恋だのに」と言っています。けれども、実はそんなに単純なものではない。別稿「愛する理由」で触れた通り、鏡花の女の場合、「弱い男に女が惚れて・女がこれを擁護する、その弱い男に正義がある、いわば女は「正義に惚れたも同然」というところを押さえなければなりません。つまり女の方が精神的優位に立った「恋」なのです。この点については虎之介がインタビューで次のように語っているのが参考になるでしょう。

『図書之助が姫君の顔をまっすぐ見てしゃべるのって、芝居全体で恐らく1分もないんですよ。玉三郎さんに言われたのが、この作品を貫くのは「姫君への敬愛」だと。僕は最初、これはふたりの恋愛の話だと思っていましたが、いやあ未熟でした。姫君に敬意を表しているんです。だから目を合わせない、なれなれしくしないんです。』中村虎之介インタビュー:ぴあ「ゆけ!ゆけ!歌舞伎”深ボリ”隊!」 2023.12.13

このインタビューは参考になるところが多いですから、是非お読みになることをお勧めします。虎之介はよく分かってますね。同時に演出責任者である玉三郎の読みの確かさがこの証言でよく分かります。姫路公演の観劇随想のなかで、玉三郎の富姫では本来あるべきでないところで「ウフフ・・さあ始まったワ」みたいな笑い声が三か所起きる、もちろんそれは玉様ファンの好意的な笑いではあるのだが、これは玉三郎本人からするとガッカリの反応だろうと書きました。吉之助の推察通り、それは玉三郎が意図したものでなかったことが、虎之介の証言から明らかになりました。ここで笑い声が上がっちゃうようではマズイのです。但し書きを付けますが、ここは玉様ファンが悪いわけではなく、玉三郎の芸のなかにある媚態(或いは愛嬌)のせいであるので、回り回れば玉三郎が悪いと云うことになるかも知れません。まあこれは玉三郎人気の表と裏ということかと思いますね。詳細はいずれ吉之助が「坂東玉三郎論」を書く時のための材料として取っておくことにしますが、似たような事例をひとつ挙げておくと、「本朝廿四孝」で玉三郎演じる八重垣姫が濡衣に「あれ(蓑作)が誠の勝頼様」と言われた時に「ソーレ見や」(私が思った通り・この御方が勝頼様だったでしょ)と艶然と微笑むところでやはり観客が笑いますが・これも同じことで、(玉三郎の意図と関係なく)玉三郎の芸のなかにある媚態が引き起こすことです。しかし、これが作品本来の八重垣姫の感触と若干かけ離れたところへ観客を連れて行ってしまいます。

話を戻しますが、今回(令和5年12月歌舞伎座)の七之助と図書之助では、上述の三か所で観客への余計な笑い声が起きません。おかげで富姫と図書之助の対話のプロセスが明らかになり、これがドラマの感銘に大きな意味を持ってくるのです。富姫の「恋」は、

「・・すずしい言葉だね」(=フーン、あなたは他の人間の男たちとはちょっと違うみたいだね。)

「ああ爽やかなお心・・」(=ああ、あなたはホントに真っすぐな心をお持ちの方なのだねえ。)

「・・帰したくなくなった」(=この真っすぐな若者を私は護ってあげたい。)

という三段のプロセスを経ます。富姫は人間であった時にあわや乱暴狼藉を受けそうになって舌を噛んで死んだ高潔な女性であって、生半可なことで人間の男に恋するなど決してないことです。つまり富姫は図書之助が「いい男」だから好くのではない。図書之助が(常の男と異なり)清く正しい若者であり、さらに庇護を必要とする若者であることを認めて、それで段階的に・或る意味において論理的に「恋に落ちる」のです。これが鏡花の「天守物語」の作品コンセプトですね。(この稿つづく)

(R6・1・6)


〇若手への期待

昨年(令和5年・2023)はいろいろな事があった年でした。世間的には、長かったコロナの閉塞期間から解き放たれて・物事が再び動き始めた年と云うことになるでしょうか。しかし、何もかも昔通りに戻ると云うわけに参りません。理由はコロナだけでないにせよ・歌舞伎座の観客の入りはなかなか回復しないし、肝心の芝居の方もピリッとした出来のものが少なかったようです。吉之助としてはこのままモヤモヤした気分で令和5年が終わりそうでしたけれど、最後の最後に・12月25日の観劇納めで暗い気分が吹っ飛んで、明るい気分で新しい年を迎えられることが出来ました。

それは歌舞伎座12月大歌舞伎の、七之助の富姫と虎之介の図書之助による「天守物語」のことです。この公演は昨年(令和5年)6月平成中村座・姫路城公演からの半年後の再演に当たります。吉之助は既にこの件で観劇随想を書いてもいましたので・「まあ凡その見当は付くかな」くらいの気持ちでいましたが、再演の舞台を見ると七之助も虎之介も格段の成長を遂げていて感心しました。特に虎之介の成長は目覚ましいものがありました。もちろん玉三郎の指導の賜物に違いありませんが、作者(泉鏡花)がイメージした世界を過不足なく描き出した立派な舞台であったと思います。吉之助としては個人的に、今回の歌舞伎座12月の「天守物語」の七之助と虎之介に対し令和5年度の歌舞伎大賞を差し上げたいくらいです。副賞は何もありませんけどね、近日に観劇随想を書いてその代わりとしたいと思います。先日の「雑談」に「これからは20代・30代の若手に期待する」と書きましたが、本年は必ずやそのような期待の年になることと思います。みんな真っすぐ伸びてもらいたいですね。

吉之助はクラシック音楽の方でも良いことがあって、先日の某海外オケの来日公演にガッカリさせられて気分がちょっとブルーでしたが、年末(12月24日)すみだトリフォニーホールでのアラン・ギルバート指揮東京都交響楽団のベートーヴェンの交響曲第9番が太い筆致で力強い・素晴らしい演奏であったので、これには大いに鼓舞されました。クラシック音楽の方もこれからは若手に期待です。(ギルバートは中堅どころだけど、都響の若手奏者の皆さんへ。)

まっそういうわけで、新しい年(令和6年・2024)の「歌舞伎素人講釈」も・明るい希望を以て進んで参りたいと思います。今年は4年ぶりに再開される金毘羅歌舞伎への遠征を予定しています。

(R6・1・1)


 

 

 

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