十代目幸四郎襲名の与兵衛〜「女殺油地獄」
平成30年7月大阪松竹座:「女殺油地獄」
十代目松本幸四郎(七代目市川染五郎改め)(河内屋与兵衛)、四代目市川猿之助(豊島屋お吉)、四代目中村鴈治郎(豊島屋七左衛門)、五代目中村歌六(河内屋徳兵衛)、五代目坂東竹三郎(母おさわ)、九代目市川中車(山本森右衛門)
(十代目松本幸四郎襲名披露)
1)真に迫った与兵衛
本稿で紹介するのは、平成30年(2018)7月大阪松竹座での十代目幸四郎襲名披露興行での「女殺油地獄」の、シネマ歌舞伎の映像です。幸四郎の与兵衛は平成13年(2001)6月博多座が初演で、その後何度か勤めてはいますが、恐らく幸四郎の路線のひとつが十五代目仁左衛門の持ち役の継承と云うことであろうから、その後を占う上でもこの上演は大事であろうと思います。
まず仁左衛門の与兵衛のことですが、シリアスなところはシリアスに描き・滑稽な三枚目的なところはそのように描くと云う、その場その場の局面々々をそれなりに真実に描く与兵衛でありました。(別稿「和事芸の多面性」を参照ください。)或る場面では「ああここで与兵衛が云うことは本当のことなのだなあ」と観客をホロリと同情させ、別の場面では「あっここで与兵衛の気持ちが豹変したぞ、ここで殺意が芽生えたな」と戦慄させるのです。与兵衛の取る行動は、第三者から見ればバラバラに分裂しており・一貫性がないものに見えるかも知れませんが、どんな場合においてもそれは彼の真実から出ているのです。このようなアンビバレントな・統合しきれない要素を、仁左衛門が演じる与兵衛は絶妙のバランス感覚でひとつにして見せてくれました。もしかしたら我々は「仁左衛門の芸を味わう」という姿勢を取ることによって、与兵衛の行為を突き放して見る客観性を得たのかも知れません。そこが歌舞伎の和事の芸の面白さなのです。
一方、幸四郎の与兵衛ですが、仁左衛門の段取りをよく取っていますが、同じことをしても、幸四郎の場合は年齢が役に近くなる(と云っても当時の幸四郎は45歳ですが。与兵衛は多分20歳ちょっとでしょう)せいか、演技の感触がよりリアリズムの方に寄っている感じです。これは悪いと言っているのではなく、演技ベクトル(表現が志向するもの)が微妙に異なるからです。仁左衛門は、アンビバレントな統合出来ない要素を醒めた眼でコントロールしながら・これをひとつのものにすることで、これを「芸」として成立させているわけです。幸四郎の場合には、恐らく「役になり切る」という方法論なのでしょうねえ。理念的には近代演劇のリアリズムに根差していると云うことなのです。これは世代の差から来るものです。だから幸四郎の与兵衛は、演技が真に迫って来て、生の不条理が見る者に突き刺さる感覚がします。お吉殺しの場面では、時に見ているこちらが苦しくなる場面があります。もちろんこれも優れた与兵衛に違いありません。(この稿つづく)
(R2・3・2)
近松研究者として知られる広末保先生が、「近松も「女殺油地獄」辺りになってくるとね、僕はあのあと近松が生きているとどうなっているかと思うことがあるけどね・・」と語っています。(郡司正勝との対談「近松と南北の意味するもの」・「国文学」・1971年9月号)「油地獄」は享保6年(1721)7月大坂竹本座の初演。近松が亡くなったのは享保9年(1725)のことですから、「油地獄」は最晩年の作品になります。ちなみに「油地獄」の前年に「心中天網島」が書かれています。「あのあと近松が生きているとどうなっているか」と広末先生が云う気持ちは、「近松序説」(昭和32年・1957)を読むとよく分かります。
広末先生はこう言っています。「天網島」のような上中下の三巻形式で書かれた世話物浄瑠璃は、まず上の巻で主人公の基本的な矛盾関係を提示し、その矛盾が中の巻で激化し、下の巻で決定的な破局に至る流れで構成されている。ところが「油地獄」のそのような状況設定になっていない。上の巻での事件(恋敵の喧嘩沙汰とそれによって伯父森右衛門を窮地に追い込む羽目となる)は、下の巻でお吉が殺されなければならないという劇的必然を持つ伏線になっていない。お吉殺しはまったく偶然の出来事のように起こり、近松はその出来事のために必然的な葛藤を用意することが出来ないと云うのです。
『主人公の行為を通して基本的な葛藤を追求し、その過程で、それそれの主要な段階を押さえ、それを発展的に積み重ね、展開させていくのではなく、ある断面を切断し、その断面を集中的に写実することによって場面を構成する。それはいつでも起こり得たし、いつ起こってもよいことなのである。(中略)行為と葛藤の展開を描くことを放棄し、葛藤の単一な連関を放棄することによって、逆にどうしようもない現実の悪矛盾を凝視し、その結果の散文化を、お吉のイメージや、お吉殺しの瞬間の興奮を舞台化することによって克服しようとする。』(広末保:「近松序説」〜「女殺油地獄」の位置・1957・論理の流れを整えるために文章を若干いじっています。)
広末先生の苦悶の表情が文章に見えるようです。広末先生は「天網島」の三巻形式を世話物悲劇の理想的な形式であるとしているので、「油地獄」がまるで形式美の崩壊のおぞましさの如くに感じられるのでしょう。広末先生は自分の気持ちを正直に吐露していて、生真面目な方だなあと思います。しかし、吉之助に言わせれば、「天網島」の上の巻(河庄)だって主人公の基本的な矛盾関係を提示してはいないのではないですかね。しっかり女房を持って子供もある治兵衛がどうして家業を傾けてまで遊女に溺れるに至ったかと云う経緯を、近松は全然描いていないのです。それこそ悲劇の発端ではないのでしょうかね。上の巻ではおさんが小春に宛てた手紙の真相さえ伏せられています。上の巻は悲劇の発端ではなくて、崩壊が既にかなり進行しており、もうそれは止めることが出来ないという状況だけが描かれていると吉之助は考えますが。吉之助の世話物悲劇の考え方については、別稿「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ」を参照ください。本稿では近松の世話物は三幕物のように巷間考えられています(広末先生もそうです)が、これは概念的に一幕三場と考えるべきだと云うことだけ指摘するに留めます。そう考えることで、近松の世話物はストリンドベリのような西欧近代戯曲の一幕物と並べて議論出来ることになります。
話を「油地獄」に戻しますが、通常の歌舞伎の「油地獄」は与兵衛がお吉を殺して・本舞台から花道を経て揚幕に消えるという形で終わります(今回の幸四郎の舞台もその線です)が、これは与兵衛の悪事が露見する「逮夜」(三十五日法要)の場を出して・与兵衛の捕縛までをきっちり描かないと、近松の作意が正しく理解されないと吉之助は思いますがねえ。与兵衛の花道引っ込みで幕を締めるやり方は、多分これは「夏祭」での義平次殺しの後の団七の花道引っ込みに倣った発想でしょう。同様なものに「暗闇の丑松」の丑松の花道引っ込みがありますが、これらは芝居の流れを唐突にチョン切って・観客を不条理の際に立たせて終わる効果があるのかも知れません(広末先生が「油地獄」を与兵衛の行為の結果の散文化だと云うのも、そういうところから来ているように思われる)が、実際のところは殺し場の高揚感のなかで芝居を終わらせたい役者の下心でしょうねえ。丑松の殺しは「お米よ、お前の仇を取ったぞ」という感じで結末が付いた感じに見えなくもないですが、与兵衛のお吉殺しには観客が犯人に同情する余地がほとんどないので、尻切れトンボ感がより強いと思います。多分これは仁左衛門のような人気役者が与兵衛を演じるから許されるようなものです。悪事に対する結末はきっちり付けてもらわねばなりません。芝居というものは世間の倫理感覚を体現するものです。近松はそこのところをいい加減に描いてはいないし、そこをきっちり描いてもらわないと近松の作意が誤解されることになります。広末先生が「「油地獄」の後も近松が長生きしていれば一体どうなっていただろうか」と云う疑問も、そんなところから出て来るのではないでしょうかね。
実は吉之助は仁左衛門の与兵衛で「油地獄」を見た時には与兵衛の花道引っ込みで終わってもさほど不満を感じなかったのです(それは仁左衛門の芸を味わうという視点に立っていたからです)が、シネマ歌舞伎で幸四郎の与兵衛の「油地獄」を見終わった時には、これは「逮夜」の場まで出してくれないと観客は救われないなあと思いました。人形浄瑠璃でも「油地獄」は江戸時代中には再演がされなかったのですが、芝居が殺し場までで終わったのでは観客はいたたまれません。この不満は、まあ良く云うならば、幸四郎の与兵衛・猿之助のお吉による油まみれの殺し場がそれだけ真に迫っていたということなのですが、ドラマとしての尻切れトンボ感がとても強かったのです。やはりここはきっちり結末を付けてもらわねばなりません。それでこそ正しく与兵衛の悲劇に出来るでしょう。幸四郎にはこのことの意味を真剣に考えて欲しいと思いますねえ。多分、近松はストリンドベリに約200年先駆けていたのです。
(R2・3・3)