(TOP)     (戻る)

上方和事のフォルム〜二代目右近の治兵衛・初代壱太郎の小春

令和6年3月京都南座:「心中天網島〜河庄」

二代目尾上右近(紙屋治兵衛)、初代中村壱太郎(紀伊国屋小春)、初代中村隼人(粉屋孫右衛門)、初代片岡千寿(五貫屋善六)、二代目片岡千次郎(江戸屋太兵衛)、初代尾上菊三呂(河内屋お庄)他


1)「河庄」のテーマは愛なのか

本稿は令和6年3月京都南座・花形歌舞伎での、二代目右近の治兵衛・初代壱太郎の小春による「心中天網島〜河庄」の観劇随想です。「河庄」の治兵衛は上方和事の代表的な役です。「河庄」の上演記録を見ると、昭和30年代前半までは四代目鶴之助(後の五代目富十郎)・三代目団子(後の二代目猿翁)などが治兵衛を演じた例もあります。しかし、それ以後の「河庄」は長く西の成駒屋の独占演目でありました。初代鴈治郎以来、「河庄」については鴈治郎家のイメージがそれほどまでに強いと云うことです。しかし、現状ではそう余裕あることも言っておられぬ。裾野を広げて行かなければ上方歌舞伎の存続さえも危うい状況です。そう云うわけで、現・鴈治郎が東京の役者である右近に治兵衛を指導し、壱太郎の小春と組んで「河庄」を上演することは、「河庄」上演史上の重要な転機と云うだけでなく、同時に上方歌舞伎の今後の行方を占うことにもなるでしょう。それにしても「河庄」は東京の役者にはなかなか手強い演目ではあります。

まずは例によって作品周辺を逍遥するところから始めたいのですが、恐らく南座3月花形歌舞伎の主導的位置にあるかと思われる壱太郎が、当月筋書の演者のコメントとして・こう語っています。

『(今回プロの三演目はそれぞれ)「河庄」は愛、「女殺油地獄」は情、「忍夜恋曲者(将門)」は艶(あで)と、テーマを掲げています。』(中村壱太郎)

演目の本質を一言で括ると云うことはなかなか難しい。それで大事な要素を取り落とす恐れもあります。しかし、敢えてそれを承知のうえで、演目の本質を一言で表現するならば、どう云うことになるでしょうか。「河庄」が愛、「油地獄」が情、「将門」が艶か・・・・なるほどねえ、今の若い役者にはこれらの作品がそう云う風に見えているのだねと云うことで、吉之助はそれをとても興味深く思いました。これらを「間違っている」などと云うつもりは吉之助には毛頭ございません。ただし吉之助に見えるものとは、だいぶ異なっているようではありますね。世代の違いとか・そう云う感性(受け止め方)の違いもあるでしょう。まあ本稿ではとりあえず「「河庄」のテーマは愛なのか?」、これを取っ掛かりにして、作品を考えてみたいと思います。(他の演目については、それぞれの観劇随想で取り上げることにします。)併せて当月筋書から、治兵衛に対する右近のコメントも引いておきます。

『(治兵衛は)言ってしまえば、だめ男ですね。全員が治兵衛のことを考えているのに、治兵衛は自分のことしか考えていない。そういう不完全な存在の吸引力をどう表現できるか。』(尾上右近)

なるほど東京の若い役者から見れば、治兵衛の優柔不断な態度・フラフラした行動はそう云う感じに見えるわけですね。それも治兵衛のひとつの切り口であると思いますが、ただし、その切り口であると上方和事の治兵衛にはならないのです。上方和事の本質を正しく理解せねばなりません。治兵衛を演じるということは、上方和事の本質を理解するということ。それが分かれば、徳兵衛(曽根崎心中)でも・忠兵衛(封印切)でも上方和事系の役どころは何でも出来るようになるのです。だからまずは上方和事の本質をしっかり掴むことです。

上方和事の「やつし」の芸とは、別稿「和事芸の起源」で触れた通り、シリアスな要素と滑稽な要素が背中合わせに交互に出ると云うことです。それは相反することを表現しているのではなく、演者にとってはどちらも真実である。ただし、シリアスなことをする時、「それは嘘じゃ」とか言って茶化したことをしてしまう。滑稽なことをする時に、フッと真顔に返って涙を流したりしてしまう。そのようなことです。それは「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別のところにあって、今の私は本当の私ではない」という気分を孕んでおり、一定することがない。このような気分は、個人が社会組織に組み込まれて・自由な身動きが出来なくなってきた時代から始まり(つまり元禄期の大坂商人社会から始まり)、これ以後、現在に至るまで強まりこそすれ、弱くなったことはないのです。(別稿「ガイド:和事」をご参照ください。)

したがって上方和事ではシリアスな要素と滑稽な要素が交互に出ますが、それは例えば「シリアス度7・滑稽度3」とか混ざり合って出るものではなく、それは絶え間ない不規則な「揺れ」として出るものです。つまり、先ほど右近は「治兵衛は言ってしまえば、だめ男ですね」と言っていましたが、上方和事の役に「言ってしまえば」とか「はっきり言えば」と云う表現はないのです。そういう割り切ったことをしないのが、上方和事である。「いい男なんだが、だめ男でもある」、「だめ男だが、捨てがたい魅力がある」と云う表現ならば、上方和事の役になります。そこの違いが分かってもらいたいですね。

「全員が治兵衛のことを考えているのに、治兵衛は自分のことしか考えていない」と右近は言いますが、これでは上方和事の治兵衛にはなりません。治兵衛は家にいる時は小春のことばかり考えているのです。だから仕事が手に付かないのです。逆に治兵衛が小春と一緒にいる時は妻子に済まないとか・そんなことばかり考えているのです。だから遊んでいるはずが、ちっとも楽しくない。小春と心中する話ばかりしているのです。そのような男が、上方和事の治兵衛です。治兵衛を理解するためには、例えば太宰治の短編「おさん」(昭和22年・1947)が参考になると思います。

『他のひとを愛し始めると、妻の前で憂鬱な溜息などをついて見せて、道徳の煩悶とかをはじめ、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻をまったく忘れて、あっさり無心に愛してやってください。』 (太宰治:「おさん」)

紙屋治兵衛という男は、女房おさんにこんなことを言われそうな、みっともない男なのです。浮気するなら、明るく楽しくパアッと後腐れなく楽しんでくださいよ。それを女房に申し訳ないとか・俺は悪いことしてるんだとかウジウジ罪悪感を感じながら浮気しても楽しまず、女房の前では御免なさいみたいな顔をして何だか卑屈な態度を取ってみせて・ちっとも晴れ晴れとしない。そんなに済まないと思うなら浮気をしなきゃいいのに、そのくせまたこそこそと浮気する。俺はしたくて浮気してるんじゃないんだなどと自分に言い訳してみたりする。バッカじゃなかろか。男なら明るく、正々堂々と浮気しなさいよ。これはまったく女房の言う通り、治兵衛は明るく浮気できればあんなこと(心中する破目)にならなかったのです。

ところが、あいにく治兵衛はそういう要領良いことが出来る男ではなかったのです。明るく浮気できる男ではなかったのです。常に女房に対する後ろめたさがつきまといます。おさんが出来過ぎた女房だから、なおさら浮気して申し訳ないと感じるのです。身勝手のように見えるかも知れないが、そこに治兵衛という男の弱さと・優しさと、まあこれを言うのも何だが、真っ正直さがあったと云うことです。

だから「治兵衛は自分のことしか考えていない」のではなく、まったくその逆なのです。治兵衛はいろんなことを余りに考えすぎた男であった。あまりに愛し過ぎた男であった。小春やらおさんやら商売やら世間やら、色んなことを考えすぎて要領良く立ち回れないのが治兵衛であり、そう云うところが女たちにはたまらなく愛おしいということになる、それが上方和事の治兵衛なのです。(この稿つづく)

(R6・3・15)


2)「兄さん、もう一言」

「心中天網島」上演史には紆余曲折があって、現行歌舞伎の「河庄」(上の巻)・「紙治内」(中の巻)も近松門左衛門の原作通りではありません。現行の上演台本は、後に近松半二が改作した「心中紙屋治兵衛」をベースにしたものです。ご承知の通り吉之助は原典主義の立場でありますが、何でも原作通りが良いとも限りません。少なくとも現行「河庄」の場合それが元になって上方和事としての治兵衛の性格が決まってきたわけですから、これを無視することは出来ません。原作と突き合わせてみると、なるほど近松半二はそう云うことでこの場面を補ったのかと納得出来るところがあって、一長一短というか、そこは難しいところです。

例えば治兵衛が小春を縁を切ると言い、「ナア兄さん、私も思い切った女の所(とこ)にいるのは、ふつふつ嫌やによって、もう去(い)にましょか」と兄・孫右衛門と一緒に店を出ます。ところが治兵衛はそこで立ち止まり、何だかウジウジして立ち去りたくない様子を見せ始めます。この場面は近松門左衛門の原作にないものです。

孫右:「今までは、去のう去のうとやかましゅう言うていて、治兵衛、どこぞ悪いのかえ。」
治兵:「イヤどうもしやしませぬけれど、ナア申し兄さん、一言(ひとこと)言い残したことがありますのんやがな。これを言わんと、どうも胸がさばけんのんやがな。ちょっと言うたら悪うおますか。」

花道でのじゃらじゃらした兄とのやり取りの後、治兵衛は店へ戻るや否や小春の胸ぐらをつかみ・再び未練がましい恨みつらみをぶつけ始めます。この場面に「シリアスな要素と滑稽な要素が交互に出る」と云う上方和事の本質が典型的に現れます。

同じような場面をシェークスピアの「ハムレット」に見ることが出来ます。第3幕第4場・王妃の居室でハムレットが母(ガートルード)を交わす長い会話のことです。ここでハムレットが、先王(父)亡き後・母が現王(ハムレットにとっての叔父クローディアス)と結婚したことをなじりになじります。激しい罵りはやがて哀願にも似た響きに変わります。壁掛けの陰で立ち聞きしていたポローニアスを刺殺し、ハムレットは遺体を引きずって部屋を立ち去ろうとします。ところがここでハムレットは何を思ったのか引き返し、「母上、もう一言」と言って、今度はこれまでの自分の発言を否定するのかのように、

「何でもなさるがいい、いま申し上げたことは一切忘れて。脂肪太りの王様の言いなりに、今宵もお床入りなさるがいい。」(ハムレット)

などと言い始めるのです。一体、ここでハムレットが取る奇妙な行動の意味は何なのか、心理分析のジャック・ラカンは次のように言っています。

『言うべきことの頂点に達すると、ハムレットのうちに唐突な(気持ちの)降下が生じる。(中略)われわれがここで辿っているのは、ハムレットの揺れの運動に他ならない。ハムレットは喚き散らし、罵り、懇願し、それから、彼の口上は降下し、パロールそのもののうちに投げやりな態度が現れ、母の欲望への同意のうちに彼の訴えは消え失せる。抗いがたいものとして姿を見せる何ものかの前で、彼は戦意を喪失してしまったのである。』(ジャック・ラカン:1958年のセミネール「欲望とその解釈」)

すなわち彼が自身の前に立ちふさがる「状況」(他者)を何とかしようと悪戦苦闘を試みますが、状況に抗することが出来ないと分かった瞬間、主体は一気に崩れ去る。彼は状況に屈し戦意を失なってヘナヘナとなるのです。

上方和事のキャラクターが自身のシリアスな感情を裏切る時、それは或る種の申し訳けを必要とします。彼は「イヤあれはホンの出来心でおました、本心やあらしまへん」と茶化し始めるのです。(上記のハムレットの場合はこれですね。)逆にそんなことを言い続けていると、自身の胸がズキズキ疼(うず)き始めて・苦しくなって来る。だから「兄さん、もう一言言わしとくなはれ」と言って、今度はシリアスな感情をぶつけ始めるのです。(治兵衛の場合がこれです。)上方和事のなかで、このような感情の大きな揺らぎが生じているのです。「河庄」改作本の作者が治兵衛の性格を如何に正しく掴んでいるか・この改訂箇所ひとつだけでも明らかですね。原作のフォルムをまったく壊すことなく、実に巧妙な場面を治兵衛のために付け加えています。

もうひとつラカンの「ハムレット」解釈のなかの重要なポイントは、「ハムレット」とは欲望のドラマであり、欲望に対するハムレットの立ち位置のバロメータがオフィーリアであるとすることです。

『オフィーリアに対するハムレットの立ち位置が経験と、欲望に対する彼の立ち位置全般を決定するものの間には、本質的な関連がある。』(ジャック・ラカン:1958年のセミネール「欲望とその解釈」)

つまりオフィーリアはハムレットの「欲望のなかの対象」であるから「自ら動くことはない」。オフィーリアはただハムレットの立ち位置を決める「座標」としてのみ機能するので、オフィーリアが何を求め、主体的に何を欲望したかは、ドラマでは問われることはないのです。

これと全く同じ状態を、吉之助は「河庄」の小春のなかにも見ますね。小春はただ治兵衛のことを考え、物思いに沈み、時折り溜息をついて・すすり泣くだけです。小春が主体的に動く(欲望する)ことはありません。小春が治兵衛を愛しているのは確かですけれど、ドラマ的にみれば、小春が主体的に治兵衛を愛する場面は「河庄」のどこにも見られません。「治兵衛を憂える」という状態だけがそこにある。この状態が「小春」なのです。時おり小春が治兵衛に向ける哀しげな「眼差し」に反応して、治兵衛の感情はあっちやこっちゃ勝手に動き回り、決して落ち着くことがありません。(この稿つづく)

付記:以上の考察は、立木康介著:「女は不死である〜ラカンと女たちの反哲学」(河出書房新社)から大きな示唆を受けております。

(R6・3・16)


3)小春の性根について

小春のことをもう少し考えます。現行「河庄」には丁稚三五郎がおさんの手紙を届けにやって来る場面があります。これは近松門左衛門の原作にない場面です。原作では芝居が始まる以前のところで小春がおさんからの手紙を読んだと云うことです。そしておさん宛に「親にもかえぬ恋なれば、思い切る」との返事を書いて・治兵衛と別れることを決意する、この段取りが終わったところから原作「河庄」が始まります。となると経緯を承知せぬ観客は小春が本気で心変わりしたものと思って芝居を見るわけです。そして芝居終わり近くで孫右衛門が落ちた文を取り上げて「さてはさっきの縁切りは文の主に義理立てしてのものであったか」とハッとしたところで初めて観客は経緯を知ると云う設計です。つまり芝居の最中の小春の気持ちは「心ならずも治兵衛と別れる」というところで固まっており、小春の気持ちに変化はないことになります。

一方、現行「河庄」(改作)では、芝居の最初の方に小春がおさんからの手紙を受け取って・これに対する返事を書く場面が付け加えられました。この改訂によって「河庄」のドラマの感触が大きく変わることになります。観客は小春がおさんに義理立てし「治兵衛と別れる」と決意した経緯を実際に見ますから、その後の展開の人間模様の細かい綾がよく理解出来る利点があると思います。しかし、いくつかの齟齬と云うか・不具合が生じてしまうようです。しかし、たった今「不具合」と書きましたけれど、この点こそ・改作者(近松半二)が原作にさらに深みと陰影を与える工夫をしたところではないかとも思えるのです。例えば、心ここに在らずの小春が侍客(実は侍を装った孫右衛門)に

「アノお侍さん。同じ死ぬる道にも、十夜のうちに死んだ者は仏になるといひますが定かいなア」

「ムヽホンニそんなら問ひたいことがあるわいなア。自害すると首括るとは定めしこの咽を切るはうが、たんと痛いでござんせうな」

となど問う場面がそうです。この台詞は原作との相違はないのですが、おさんに「思い切る(治兵衛と別れる)」との返事を書いた後の台詞ですから、観客にはこれは思い詰めた小春が独りで死ぬことを考えていると聞こえると思います。ところが、奥の間から小春を連れて出た侍客が、

「なふ小春殿。宵からのそぶり、詞のはしに気をつくれば、花車が話の紙治とやらと、心中する心と見た。イヤサ違ふまじ。

と言うところを見ると、やはり小春は治兵衛と一緒に死ぬつもりであったようである。ここで推察するに、この場面の小春の心理は不安定で、いろんなことが思い浮かんで苦しみ揺れており、話すことに脈路がない。侍客と会話をしながら、小春は次第にこの恋を断念する方向へ覚悟を固めて行く、そのように受け取れます。やがて小春は、

「なんの因果に死ぬる契約したことぞと、思へば悔しうござんす」

と言い始めます。(この会話を外で聞いていた治兵衛が激高するのです。)

以上の小春と侍客との会話は原作と相違はないわけですが、改作であるとおさんの手紙を読む件を付け加えたために、小春の心理が大きく揺れたように見えて来る、そこが改作の狙いであろうと思います。原作であれば「自害すると首括るとは・・」の台詞も小春と治兵衛とが二人一緒に死ぬ(心中する)つもりで言っていると解釈するのがやはり妥当です。とすると原作での小春の心理の揺れは小さいと思われます。

もうひとつ、ここから改めて小春が三五郎からおさんの手紙を受け取る場面を振り返ると、小春の驚き・懊悩の反応があまり見えない、そこにちょっと齟齬があると感じないでしょうか。気分は沈んではいるけれども、小春の態度が妙に落ち着いていることに気が付くはずです。すなわち小春が前々から覚悟を決めていたようにも感じられる。平凡な作者であれば、ここで小春にひと芝居させそうなところです。例えば「お内儀様からのお手紙か・・」でハッと驚き・取り乱す、どんな内容かと不安顔、手紙を読んで「ああ私はどうしたらいいの・・」と身悶えして、「思い切る」と心にもないことを返事せねばならぬ我が身の辛さに涙が止まらぬ・・そのような芝居を小春に長々させても良さそうなところなのに、改作者(近松半二)はそれをしないのです。そこが大事なところだと思います。

このことは、おさんから手紙が来たことが小春にとって大きな驚きでなかったことを示しています。それは遅かれ早かれいつか予感されたことであった。小春と治兵衛との間に「一緒に死のうか」という話が何度もあっては立ち消え・ズルズル引き延ばされている現状において、こんな事をいつまでも続けていてはいけないと云う思いが、小春のなかにもずっと在ったと云うことです。だからと云って「二人が別かれる」という話には即ならないが、このままの関係を続けていたら治兵衛さんはホントのダメ男になってしまうという心配は、小春のなかにも在ったのです。そして、これは女房おさんの思いでもあった。まさにおさんからの手紙には小春の思いとまったく同じ思いが妻としての立場から綴られていた。だから小春は「親にもかえぬ恋なれば、思い切る」との返事をおさんに書いたのです。

だから小春が治兵衛と別れると決心したのは・おさんから手紙を貰った時点であったように見えるが、実はそれはホンの「きっかけ」に過ぎないのです。治兵衛との今の関係をこのままズルズル続けることは許されない、それでは大坂商人としての治兵衛が「立たない」ことに、以前から小春は深く思い悩んでいる。そのような深い淵のなかに小春はいるのです。このため小春はやつれて、体調がずっと思わしくありませんでした。改作「河庄」冒頭で小糸が「小春さんと芝居見物の約束をしたのにスッポカされた」と言って怒っています。大して気にならない台詞ですが、小春が約束をスッポカしたのも治兵衛のことが原因に違いない。改作者がそのように思わせる伏線をさりげなく設けています。

ですから改作では治兵衛に対する小春の思いは揺らいで見えはしますが、大局から見れば小春の性根は改作でも原作と変わらず、「このままの関係をズルズル続けていては、治兵衛さんの為にならぬ」という深い思いのまま・ほとんど動かないわけです。ほとんど動かないまま・小さく揺れる。ドラマ的にみれば、小春が主体的に動く場面は「河庄」のどこにも見られません。「治兵衛を憂える」状態だけがそこにある、それが「小春」なのです。

そこで今回(令和6年3月京都南座)の「河庄」にそこがしっかり描けているかと云うと、若干課題があると思いますね。総体では壱太郎の小春はなかなか良いです。小春は始終治兵衛のことを思い悩み・俯いたまま・ずっとシクシクしている辛抱役です。そこのところはしっかり押さえられている小春です。しかし、多分壱太郎は「おさんから手紙を貰った時点で治兵衛と別れると決心する」・これ以前に小春は治兵衛と別れる考えを全然持ってなかったと考えているかに見えますね。三五郎からの呼び出しを受けて登場する小春の最初の出の印象が、明るいとまでは言わぬけれども、深く思い悩む様子があまり見えません。これではいけません。ここに小春の性根の置き方の課題があると思います。最初の一瞥で小春の性根を見せてもらいたいですね。

小春はおさんからの手紙を読んで初めて「治兵衛と別れようと思う」のではないのです。決意してはいなかったにしても、「このままの関係をズルズル続けていてはならぬ」と云う切迫した気持ちが小春にずっと前からあったのです。おさんの手紙がそのような小春の気持ちに後ろから背中を押しただけのことです。ですから小春は最初登場した時から思い悩み・やつれて、心ここに在らずの状態でなくてはなりません。(この稿つづく)

(R6・3・19)


4)上方和事の治兵衛とは

今回(令和6年3月京都南座)の「河庄」の治兵衛を東京の役者である右近が演じることは、「河庄」上演史上の重要な転機であると本稿冒頭で書きました。もちろん右近がいきなり上方和事を見事に演じるなんて期待はしていませんが、この経験を取っ掛かりに何かを掴んでもらいたいと思います。様式と云うものは、多分或る種の気分から生まれるものであろうと思います。上方和事ならば、それは上方の気分から生まれます。どこがどう云うところが江戸の気分と違うか・明確な説明は出来ないが、違うことは何となく感覚で分かる、感覚とはそのような漠然たるものです。しかし、そう云うことが掴めてくると、治兵衛はもちろんのこと、例えば右近が昨年3月南座で演じた「六段目」の勘平だってひと味違ってくると思うのです。あの時の勘平について吉之助は「様式に・もっとたっぷり様式に」と書きました。様式が或る種の気分から生まれるものであるならば、様式から役の気分を醸し出す・そう云う可逆的なプロセスも可能になるはずだ、そのように考えてもらいたいと思いますね。例えば右近は治兵衛について、

『(治兵衛は)言ってしまえば、だめ男ですね。全員が治兵衛のことを考えているのに、治兵衛は自分のことしか考えていない。そういう不完全な存在の吸引力をどう表現できるか。』(尾上右近)

と言います。これは東京人の感じ方としてまったく間違っていないと思うし、治兵衛には確かにそういう一面があるのかも知れませんねえ。しかし、その感じ方であると上方和事の治兵衛の感触にならないのです。しかし、その違いを漠然とした「気分」から説明しても、東京人である右近にはピンと来ないでしょう。ここは技術として割り切った形で、つまり上方人の形態模写をやってやるくらいの調子で技術として受け入れることから始めてもらいたいと思います。

ですから「上方和事の「やつし」の芸ではシリアスな要素と滑稽な要素が背中合わせに交互に出る」と云う認識がとても大事なことになります。(別稿「和事芸の起源」をご参照ください。)例を挙げれば、一体誰から手紙を貰ったのじゃと激高した治兵衛が小春を打とうとして右の拳を上げる、これを見た孫右衛門が「その手は何じゃ」と止める、治兵衛はハッとして「この手は・・この手は・・」とうろたえ、「この通り、お膝に置いておりまする」と叫んで右手を膝に置く。同時に兄から見えないように左の手で小春の足をツネると云う場面です。(注:この場面は近松の原作にないものです。)

この場面ですが、右近の治兵衛は怒りの感情を露わにして、湧き上がる怒りを抑えきれないと云う感じで演技していますね。動きがギコチないですが、これは拳を振り上げたのを兄に止められて「コンチクショウ」という表情で止めるが、なおも打とうとする感情を抑えきれず、やむを得ず膝に手を置く、それでも小春に対する口惜しさで思わず動きがワナワナしてしまうというところを形として見せているわけです。小春に対する怒りで一貫しており、演技がひと色です。東京生まれの治兵衛ならば分かるけれども、これでは上方和事の治兵衛にはなりません。ストレートに怒ったらあきまへんねん。それは愛情の裏返しなのです。

上方和事の場合は、ここは意識を役から離して、第三者的な観点から戯画的に処理した方が宜しいのではないでしょうかね。確かに治兵衛は小春が自分ではない何者かから手紙を貰っていたことを怒っています。それで拳を振り上げたわけですが、拳を振り上げた瞬間、「アカンわてはこの女を好きなんや、好きな女に手荒なことは出来ん」という反省に襲われるのです。そこに兄から「その手は何じゃ」と指摘されると、もう治兵衛から怒りの感情が消えてしまう。振り上げた拳はもはや行先を失ってしまって、遊ぶしかない。「この手は、この手は・・・サザエ殻じゃわいな」という感じで右手はクルクル回りながら膝へ向かって落ちていく。この時の治兵衛の表情はちょっと含み笑いを見せても良い。もう完全にパロディになってしまっているのです。ところが右手を膝に置いた途端に、「やっぱりこの女に一発食らわせてやるんやった・・・わては何と情けない男や」と云う怒りの感情が内から湧き上がって来て、またどうしようもなくなるのです。それで「この通り、お膝に置いておりまする」と言いながら、兄から見えないように左の手で小春の足をちょっとツネる。ちょっとだけ・・です。もうその瞬間には治兵衛の怒りは消えている。あるのは小春に対する「愛おしさ」だけです。上方和事の様式とは、このような形でシリアスと滑稽の間で揺れるものです。このように様式から役の気分を醸し出してみてください。(次いでながら、ここで孫右衛門が「その手は何じゃ・・・その手は・・・その手は・・・」と合いの手を入れるタイミングとニュアンスも大事になります。)

京都南座のお客さんは反応して、よく笑ってくれています。正直に申し上げると、東京生まれの右近と隼人に上方和事らしい軽妙なやり取りが出来ているわけではありません。しかし、京都南座のお客さんが「拙いなあ」と笑ったのでないことは、その笑い声のニュアンスから明らかです。ここが歌舞伎座ならばシラーッとした空気が漂いそうなところでも、南座のお客さんは好意的に反応して、役者の背中を押してくれていると感じました。だから上方歌舞伎の修業をするならホントは関西でやらなきゃダメなのだろうねえ。お客が演技のツボを心得て・それなりに先読みしているようです。ここが上方歌舞伎の演技のツボでっせとお客さんが教えているのです。そのような箇所をチェックして、そこから二代目鴈治郎・四代目藤十郎などの映像で当該箇所をじっくり研究すれば宜しいでしょうね。(この稿つづく)

(R6・3・24)


5)右近・初役の治兵衛

別稿「様式か写実か」で若手役者が「いかに写実するか」或いは「いかに様式するか」という課題で苦しんでいることに触れました。まあこれはいつの時代であっても若手の課題ではあるのですがね。歌舞伎は伝承芸能であるから、何らかの様式の取っ掛かりを以て演じなければ、もちろん歌舞伎にならぬわけです。そうすると歌舞伎というフィクショナルなシステムのなかで、「世話」という理念でさえも様式と化し、結局それは「なぞり」になってしまうのであろうか。とすれば「なぞり」のなかの写実は、言ってみれば定型の演技のなかの香り付けに過ぎないのでありましょうか。今回の舞台だけのことでなく、歌舞伎ではそんなことを考えることがしばしばあります。例えば、

〽魂抜けてとぼとぼうかうか、身をこがす。
「今向こうの煮売屋で顔は見えねど善六太兵衛、高声あげて小春が噂。侍客で河庄方」

この場面は初代鴈治郎以来、ほとんど型もの同然です。ここは二代目鴈治郎であっても・四代目藤十郎も、初代鴈治郎の厳格な手順を追っています。「河庄」は世話物のはずだけど・と云うことは写実に根差すはずなのだけど、まるで様式(型)に感じられる場面です。二代目鴈治郎がこんな回想をしています。

『父(初代鴈治郎)はどこをどう直したらいいかという教え方は一切せなんだ人でした。教わるのではなくて、見て覚えるものだというのです。だから客席で正面から見る、舞台の袖から見る、毎日見ては手順を覚えていくのです。「河庄」の紙屋治兵衛を私はそんな具合に覚えていきました。「魂ぬけてとぼとぼと」のチョボ(義太夫)で、花道から父の治兵衛が出て行きます。そのころの劇場は、今日のように鉄筋コンクリートの防音完備ではありませんから舞台の音は遠くにいても聞えます。父が花道を出る。揚幕がチャリンと音をたてて開きます。私は、花道の下の奈落で、同じように舞台に向かって進んでいきます。チョボもうっすらと聞こえるし、父の足音も、花道の板をへだてて伝わってきます。一歩、二歩、三歩、上の父の治兵衛が止まると、下の私も止まります。父が動けば、私も動く、こうして「のぞく格子の奥の間に」のチョボで舞台にきて門口までたどりつくのでした。』(二代目中村鴈治郎:「鴈治郎の歳月」〜「芸を盗む」・文化出版局)

二代目鴈治郎の回想を読むと、父(初代)の芸への強い憧憬を感じますね。子供が父の姿を探し求める哀しい声が聞こえるようです。「河庄」の治兵衛は、「鴈治郎」の名を継ぐ者として何としてもモノにしなければならない役でした。そのようにやらないと世間から成駒屋の「河庄」と認めてもらえない、そのような物凄い重圧があったはずです。この重圧はさらに子(四代目藤十郎)・孫(四代目鴈治郎)へと受け継がれました。こうやって「魂抜けてとぼとぼ・・」が様式になっていくわけです、

昭和57年(1982)5月国立小劇場での近松座・旗上げ公演の「心中天網島」の舞台のことを思い出します。吉之助は花道七三すぐ傍の席であったので、「魂抜けてとぼとぼ・・」で登場した治兵衛(藤十郎・当時は二代目扇雀)の足元を至近で観察出来ました。印象に残っているのは、藤十郎が呼吸する息の深さですねえ。実に長くゆっくりと息を最後まで吐き切って、しばらく長い間を置いて(脱げた草履を足先で探してトンと)、そしてまたゆっくりと呼吸を開始する、演技の息の詰め方と呼吸の深さです。そこに治兵衛の深い憂鬱が表れていて、熱に浮かされてえらく具合が悪そうな感じがして、吉之助は思わず花道上の治兵衛の顔を見上げてしまったほどでした。それがすなわち「芸」でしたねえ。あの時の藤十郎のスーーーフーーーという長い鼻息の音が、今も鮮明に思い出されます。

今回(令和6年3月京都南座の「河庄」では、当代・鴈治郎の指導のもと、右近も型を踏襲しようと苦闘しています。「今向こうの煮売屋で・・」は声を意識的に低調子に取って、なるほど鴈治郎の映像を繰り返し見て稽古したんだなあと云う感じでありましたね。(途中から・いつもの高調子に戻っていましたけどね。本稿ではこの件に深入りはしません。)揚幕から登場した姿はなかなか優美である。しかし、花道から河庄店先に着いて店内に入ったり天水桶に隠れたりする一連の動きは、手順が内面と一致していない印象を受けると云うか、内面にないものを無理して形(外面)で合わせようとして・却って身の丈に合っていない印象を呈しているようです。これは上方和事を「女性的なやわらかい仕草や台詞回しを特徴とする」と考えて様式を気分(フィーリング)みたいな漠然としたもので捉えようとしているからでしょう。

これでは東京の役者が上方和事をものにするのは、なかなか難しいことになります。様式が或る種の気分から生まれるものであるならば、様式(形)から役の気分を語らしむ・そう云う可逆的なプロセスも可能になるはずだ、このように考えてもらいたいと思うのです。だから「上方和事の「やつし」の芸はシリアスな要素と滑稽な要素が背中合わせに交互に出る」と云う認識がとても大事になるのです。

この「魂抜けてとぼとぼ・・」の場面ですが、前章で触れた小春に拳を振り上げる場面ほど感情の「揺れ」は大きくありません。風情だけで見せる場みたいですが、実はこの場面でもまた治兵衛の内面がゆっくり揺れているのです。ここの治兵衛は「小春に会いたい気持ち」ばかりではありません。もちろん会いたい気持ちはあるが、女房おさんの手前小春に会ってはおられぬ、会ってはいけないことは分かっている、もう会うまいとも思っている。しかし、やっぱり小春のことが気になってここへ来てしまった・・・という感じなのです。誰か知らない侍客と小春が逢っているらしい・・と聞いて気が気でないからワテはここに来ている、と云う理由でも付けないと、治兵衛はこの場に来れないのです。その深い憂鬱が治兵衛を滅入らせる、それで具合が悪くなって来る、それが治兵衛の深い溜息のなかに現れると云うことです。そのような「揺らぎ」を形象化することで、その振動を演じる者(役者)の内面へと伝えていく、そして内面をも共振させて行く、そしてそれが役の性根となる、そのような可逆的なプロセスを取ってもらいたいですねえ。このプロセスであれば東京の役者が上方和事をものにすることも可能になるだろうと思いますね。

本稿冒頭で「「河庄」のテーマは愛なのか?」という問題を掲げましたが、まあ愛だと云う読み方もあろうけれど、治兵衛に於いても・小春に於いても、内面はいろんな方向へ千々に乱れて揺れる、これが「河庄」の様相なのですから、吉之助ならば「河庄」のテーマは「憂」或いは「鬱」といたしたいですね。

(R6・3・27)


 

 


  (TOP)     (戻る)