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初代壱太郎・初役の滝夜叉姫

令和6年3月京都南座:「忍夜恋曲者・将門」

松プロ:初代中村壱太郎(傾城如月実は滝夜叉姫)、初代中村隼人(大宅太郎光圀)

桜プロ:初代中村壱太郎(傾城如月実は滝夜叉姫)、二代目尾上右近(大宅太郎光圀)


1)壱太郎の滝夜叉姫

本稿は令和6年3月京都南座での、壱太郎の滝夜叉姫による「忍夜恋曲者・将門」の観劇随想です。尚この時の「将門」は、松プロでは隼人が光圀・桜プロでは右近が光圀を勤めて、それぞれ演出を変えて上演されましたが、本稿ではふたつの「将門」の舞台を纏めて記することにします。

恐らく南座3月花形歌舞伎の主導的位置にあると思われる壱太郎が、右近・隼人と三人の総意であると思いますが、当月筋書の演者のコメントとして・こう語っています。

『(今回プロの三演目はそれぞれ)河庄」は愛、女殺油地獄は情、「忍夜恋曲者(将門)」は艶(あで)と、テーマを掲げています。』(初代中村壱太郎)

なるほどねえ、今の若い役者にはこれらの作品がそう云う風に見えているのだねえと云うことで、吉之助はそれをとても興味深く思いました。これらを「間違っている」などと云うつもりは吉之助には毛頭ございません。ただし吉之助に見えるものとは、だいぶ異なっているようではありますね。世代の違いとか・そう云う感性(受け止め方)の違いもあると思います。演目の本質を一言で括ると云うことはなかなか難しい。それで大事な要素を取り落とす恐れもあります。しかし、敢えてそれを承知のうえで、演目の本質を一言で表現するならば、「将門」の場合はやはり「妖」ではないかと吉之助は思うのです。そこを壱太郎が「艶」と括ったところが興味深いと思います。繰り返しますが、「間違っている」とは思いません。壱太郎の滝夜叉姫を見ると、艶やかな・ある意味では可愛い滝夜叉姫であると思いますし、確かにこの行き方は壱太郎の個性に似合うようです。ただし作品的にはちょっと取り落としたところがあるように感じますね。

ところでこれは先日(1月)歌舞伎座での「娘道成寺」など壱太郎の舞踊をいくつか拝見したところで感じることですが、ふっくらと春風駘蕩たる・いわゆる「ぼんじゃりとした」上方女形らしい雰囲気を壱太郎が持っていることは貴重なことですが、振りを大きく取ろうとしているせいか、身体の軸(体幹)が前後左右にブレる場面が多く、振りにスキが見えて形がキレイに見えて来ません。もう少し動きをコンパクトに持って行った方が良いように感じますね。もっと角々の形が内面に凝集していく感覚が欲しい。これが江戸期の女性が置かれた閉塞した生活環境に通じる感覚であろうと思います。また同時にこれが女形という特異な存在の感覚でもあろうと思います。六代目歌右衛門はこのような感覚を、卑屈にさえ思えるくらいに内へ内へとこもっていく、凝集する感覚で振りの上に表現しました。壱太郎にそこまでやれとは言わないし、また世代が全然違う彼にその必要はないかも知れないが、やはり女形は伸びやかなばかりではダメで、何かしら抑圧された感覚が欲しいと思うのです。現代の女形として、この感覚をどのように表現するかが大事なことだと思います。(これは壱太郎だけの課題ではなく、若手女形に共通して云えることです。)そこのところ「道成寺」の花子であってもやはり不満を感じてしまうわけですが、ましてこれが父将門の怨念を引き継いで・謀反を企てんとする滝夜叉姫となると、やはり取り落としたところが少なくないのではないでしょうか。(この稿つづく)

(R6・4・1)


「妖」の正体

「忍夜恋曲者」(将門)は、天保7年(1836)7月江戸市村座での「世善知鳥相馬旧殿」(よにうとうそうまのふるごしょ)という長い時代物の大詰の舞踊劇です。本筋の狂言の方は絶えてしまって最後の舞踊の部分だけが伝わったと云う事例で、経緯としては「関の扉」や「戻駕」などと同じです。ただし「関の扉」や「戻駕」は安永・天明期の舞踊です。「将門」はそれから50年ほど時代が下るわけですが、何となく「関の扉」に似た古風・かつ重厚な感触がしてくるのは、背後に秘められた筋(ストーリー)の重さ、それが何か仔細は分からないが・如何にも曰くありげな雰囲気の重さを感じるからでしょうか。まあそれもそれなりに理由があることです。別稿「関の扉」観劇随想で、「関の扉」は天明期の古い舞踊だ、古風ならば大時代だ、黒主は天下を狙う大悪人だと云うので古怪に重い感触に仕立てようとする傾向が見えるけれど、本来の「関の扉」の感触は遊び心満載の、もっと世話に砕けた舞踊なのだと思うと書きましたが、「将門」に関しても同じようなことが言えそうです。

ところで「忍夜恋曲者」を巷間の解説を見ると「滝夜叉姫が面明かり(差し出し)に照らされて登場するなど古風な演出が見られる」と書かれたりしますけれど、実はあれは「将門」にずっと昔からあった演出ではないのです。六代目歌右衛門が次のように証言しています。

『差し出し(面明かり)を使い始めたのは、私なのです。永田町のオジさん(六代目梅幸)の時も、私が覚えている限りは、差し出しはございませんでした。やはり差し出しを使いますと、何と申しましょうか、本火ですから、メラメラと動きますでしょう。これは私、大変効果があると思っておりますが・・自分でも…』(六代目歌右衛門談話)

*西形節子:「日本舞踊の心〜芸談で綴る解説」(演劇出版社)に所収。

六代目歌右衛門の「将門」初演は昭和23年(1948)7月三越劇場でのことでした。「差し出しを使い始めたのは確か2回目くらいから」と歌右衛門が語っているので、もしそうであれば昭和27年(1952)4月歌舞伎座から始まったことです。

「将門」の面明かりが戦後昭和に始まったことは結構大事なポイントであるのでじっくり触れておきたいと思います。面明かりに照らされての滝夜叉姫の登場が「古風」だと感じるのは、それはそれで根拠があることです。その感じ方は、「現代の歌舞伎は電気照明によって影が一切消されており・蝋燭による照明だった江戸歌舞伎の懐かしい感触を思い出させてくれない・面明かりの演出はそのことをちょっと思い出させてくれる」と云うところから来ると思います。その感じ方は決して間違ってはいません。

ところが吉之助の視点はまったく逆で、歌舞伎は平面感覚の演劇であって、影を消してしまう現代の電気照明こそそのような歌舞伎の本質を明らかにするものなのです。このことは江戸の浮世絵師が描いた絵を見れば分かります。浮世絵には影がなく、その絵は立体的ではない。江戸の芝居では照明に蝋燭を使わざるを得ず、完全な意味に於いて、浮世絵師が描いた平面感覚の舞台面を現出させることは出来ませんでした、それは電気照明の登場によって初めて可能となったものです。(詳しくは、別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ〜歌舞伎の照明を考える」をご参照ください。)

このような視点から、面明かりに照らされての滝夜叉姫の登場がどのように見えるかと云うと、影のない平面的な(二次元感覚の)歌舞伎の古典的な舞台のなかに、突然影を持った三次元的な存在が浮かび上がる、これこそ古典的な均衡を破壊するバロックの感覚だと云うことになるのです。歌右衛門の証言をもう一度ご覧ください。

「差し出しを使いますと、何と申しましょうか、本火ですから、メラメラと動きますでしょう。これは私、大変効果があると思っております」。

ですから歌右衛門が意図するところは、「古風」な感触を目指すのとはまったく逆なのです。これは平面的な歌舞伎の舞台から、滝夜叉姫の(父将門の)怨念がメラメラと三次元的に立ち上る「生々しさ」、これこそ実にバロック的な、かつ戦後昭和の斬新な写実(リアリズム)感覚であると、まあ吉之助にはそのように見えるわけです。(この稿つづく)

(R6・4・5)


3)壱太郎の滝夜叉姫

そう云うわけで「将門」の「妖」の正体とは、本作が持つ滝夜叉姫が父将門から引き継いだメラメラと燃え上がる怨念の炎なのです。このようなバロック的な感触が、見る角度が違えば「古風」にも感じられるというのは、とても興味深いことです。

ひとつには、「将門」の舞台面が全体的な印象として暗め(照明も暗め)のため、本作が本質的に持つ明晰な感覚を感じ取り難いところがあるせいです。そこが「関の扉」や「戻駕」と異なるところかも知れません。島原の太夫が東国の相馬まで男を追って来ると言う奇天烈な設定ですから、もし傾城如月(実は滝夜叉姫)の〽嵯峨や御室の花盛り・・のクドキを明るい照明にして・洒脱な感覚で以て処理したとすれば受ける印象がかなり変わって、もしかしたら「関の扉」・下の巻の墨染と関兵衛の廓話に似た感触になるかも知れないとも想像するのですが、そうならないところに50年ほど時代が下った天保舞踊の感覚の差異(というか特色)があると云うことでしょうか。

もうひとつは、戦後昭和の「将門」のイメージを決定付けた六代目歌右衛門の芸風がねっとりと重めの感触であるがゆえに、歌右衛門本人がバロック的な「妖」の感覚を志向したとしても・それがなかなか軽めの感覚に映って来ない、何かしら重ったるく見えると云うことがあったかも知れませんね。逆に重ったるく思えることがどこか「古風」な印象に映ってしまう。このことは歌右衛門が演じる「先代萩」の政岡などでも似たようなことが言えそうです。しかし、このことに気が付いた上で歌右衛門の舞台を見るならば、見える様相がかなり違ってくると思うのです。歌右衛門の芸の軽みとでも云いますか、そんなことも別の機会に書いてみたいと思います。ところで歌右衛門は「滝夜叉姫は花道の出で決まる」と言っていますね。

『〽雨もしきりにふる御所に解語(かいご)の花の立姿・・とここで、何と申しましょうか、娘が現れるのではもなく、傾城が現れるのでもなく、さりとて姫と名乗る滝夜叉がそのまま出るのではなく・・やはり「解語の花の立姿」。(中略)これはご承知のように楊貴妃のことでございますからね。なまめかしい中にも、格がございますね。(中略)やっぱり大した役でございますよ。』(六代目歌右衛門談話)

この歌右衛門の談話から感じることは、娘でもあり・傾城でもあり・滝夜叉姫でもあり、それらの像が幾重にも重なって見えてブレる、「揺れる」、これがバロック的な「妖」の感覚だと云うことです。

話を壱太郎の滝夜叉姫に戻すと、壱太郎がふっくらと春風駘蕩たる・いわゆる「ぼんじゃりとした」上方女形らしい雰囲気を持っていることは貴重なことなので・この個性を生かすことは当然のこととして、作品が持つバロック的な「妖」の感覚をどのように表現するかなのです。壱太郎の滝夜叉姫は艶やかではあるけれど、ちょっと健康的に過ぎる印象がしますね。まあそこが壱太郎の持ち味だとも云えますが、芸のエッジが立ったバロック的な「妖」の感覚には乏しいところがあります。

今回(令和6年3月京都南座)の舞台を見たところでは、どちらかと云えば最後の滝夜叉姫が正体を顕わしての大立ち回りと屋台崩しのスペクタクル、そちらの方に主眼が行っているようにも思われました。まあ壱太郎には前プロの近松物、「河庄」(小春)と「油地獄」(お吉)が辛抱役で気分が塞ぐから「将門」で発散・・と云うところがあるのかも知れません。いずれにせよ滝夜叉姫は繰り返して演じる価値がある大役ですから、再演に期待したいところです。(この稿つづく)

(R6・4・7)


4)隼人の光圀・右近の光圀

今回(令和6年3月京都南座)の「将門」は、壱太郎の滝夜叉姫が共通で、松プロでは隼人が光圀・桜プロでは右近が光圀を勤めて、それぞれ演出を変えて上演されました。

まず松プロでは滝夜叉姫は花道スッポンから・差し出し(面明かり)を使って登場し、最後は崩れた大屋根のうえで滝夜叉姫と光圀がキッと決まって幕となる、これは従来通りの演出です。

一方桜プロでは滝夜叉姫は花道スッポンからの登場では差し出しを使わず、最後は崩れた大屋根のうえで光圀が太刀を抜き放ちつつ・大口をあけた大見得、今度は幕外から滝夜叉姫が再び花道スッポンからせり上がり、この時は差し出しを使って、仁木弾正よろしく妖術を使って空中浮遊の心で無言のまま揚幕へ引っ込むというやり方でありました。

どちらも面白く見せてもらいましたが、桜プロの演出は過去に何か典拠があるのでしょうかねえ。それにしてもこのやり方であると長い時代物の大詰の舞踊劇の格付けにはならず、その後の筋の展開に含みを持たせるという感じになりそうです。閉じた印象にはなりませんが、まあそれも興味深くはありますね。

松プロでの隼人初役の光圀に時代物の太い印象があって、これはなかなかの掘り出し物でありました。振りがきっちりした端正な踊りに好感が持てます。桜プロの右近初役の光圀は見た目の印象はやや軽めなれども、切れの良い動きで隼人に対抗し・これも愉しめました。

(R6・4・13)


 

 


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