新・十八代目勘三郎の娘道成寺
平成17年(2005)4月・歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」
十八代目中村勘三郎(五代目中村勘九郎改め)(白拍子花子)
(十八代目中村勘三郎襲名披露)
海外で歌舞伎を公演して一番受けない演目は「京鹿子娘道成寺」なのだそうで「この踊りは見たところ恐ろしげにも見えないし、この白拍子は衣装を変える度にどのくらい蛇の本性に近づいていくのか」と聞いて来る観客がいるのだそうな。なるほどこれは「蛇の脱皮」であるのか。この踊りから「ドラマ」や「流れ」を見出そうとするとそういう見方になるのかと気付かされます。 我々はこんなものは理屈で見るもんじゃないと初めから思って見てるせいか、こういうことに余り気が付かないのです。
しかし、蛇は脱皮してだんだん蛇らしくなっていくわけではないでしょう。脱皮しても蛇であることには変わりありません。古い衣を脱ぎ捨てて・また新たな生を生きるのであろうと思います。それにしても白拍子花子の衣装の引き抜きを「脱皮」と言うのは、案外当たらずとも遠からずかも知れません。花子は衣装を次々と変えながら・新たな生を生きるのです。それは同じ人物が踊っていると見てもいいし、別の人物が踊っていると読んでもいいのです。どちらでも構わないのです。
吉之助は「娘道成寺」はまったく謡曲と離れた女心を描いた江戸の世俗変化舞踊の前後に謡曲「道成寺」の枠をつけただけと見た方がスッキリするかなと思っています。昨今は原典との関連で作品を読み込もうとする傾向が強いので、どうしても 「娘道成寺」の解釈は謡曲の方に傾き勝ちです。そうすると「常に鐘に思いを寄せるべし」なんてことになって・どうしても全体の色調は暗めになります。もちろんそれは理屈として正しいことで・「歌舞伎素人講釈」好みの見方なのですが、あえて言えば吉之助はその変奏のすっ飛んだところ・発想の大胆さに江戸の歌舞伎のセンスを見たいわけです。
むしろ次のように考えたいのです。江戸の女性の心情を明るく描くなかに・突然ふっと魔が差す瞬間がある・女心の恐ろしさを垣間見るような気がする、そんな瞬間に周囲の光景が ワープして謡曲「道成寺」の世界に一気に引き戻されるのです。つまり歌舞伎の「娘道成寺」は引き裂かれているのです。そこに黒々とした裂け目が見えてくればいいなと思います。
「あの『道成寺』の舞台をつくり出した江戸時代の劇場と観客の雰囲気は、桜の花のいっぱい咲いた中にやたらに美しい娘姿を踊らせて恍惚としていたので、日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのである。そういう理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさ、気味の悪い美しさを(六代目)菊五郎の白拍子はふんだんに持っていた。菊五郎の『道成寺』を見ていてある老婦人が『こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい』という言葉のせっぱつまった実感は私にもうなづける。菊五郎の『道成寺』はそういうものであった。」(円地文子「京鹿子娘道成寺」)
六代目菊五郎の見せてくれたのは、そうした引き裂かれた「娘道成寺」であったろうと思います。こうした踊りは立役の踊る「娘道成寺」でないと現出できないかも知れないと思っています。(そのことは別稿「菊五郎の道成寺を想像する」をご参照ください。)
そこで今回の新・勘三郎の「娘道成寺」です。勘三郎にとって祖父六代目菊五郎の「道成寺」はずっと遠い憧れの対象であったであろうと思いますが、祖父の踊りの片鱗を確かに実感させてくれるものであったということをまず言っておきたいと思います。鞠唄から恋の手習い・鞨鼓から鈴太鼓に至るまで躍動感と変化のある踊りを展開してくれて・息もつかせませんでした。
特に鞨鼓はあんなにバンバンと撥を激しく打ち込むのを初めて見ました。これに比べれば他の踊り手は鞨鼓に撥をそっと添えているといった風かも知れません。鈴太鼓でも同じでバンバン と力強く打ち鳴らします。とにかく鳴り物と一体になった踊りなのです。その打ち付けるリズムがライヴ感覚というか観客の興奮を煽り立てる感じです。これは悪い意味で言っているのではありません。口の悪い人は下品だというかも知れません 。しかし、ここには「周囲を興奮に巻き込んでいく祭祀」的な何ものかがあります。詩人ジャン・コクトーが六代目菊五郎の「鏡獅子」の舞台を見て感激して書いた文章を思い出します。『歌舞伎は祭祀的だ。かれらは演技し、うたい、伴奏し、奉仕する司祭だ。』思い切って謡曲「道成寺」から離れたところに今回の成功があると思います。
勘三郎も前半・道行から金冠の件までは若干謡曲を意識気味の気配があるようです。特に道行は改良の余地があるようです。神妙にしているつもりなのかもしれませんが、何だか沈んで暗い感じがします。ここはもっとパッと明るくしてもらいたいのです。何か鐘供養の場にふさわしくない場違いなものが突然に現れる・異様な明るさを持つ何ものかが・・という感じが道行には欲しいと思います。最初から恐ろしげな雰囲気を引っ張って出てくるのでは・裂け目は見えてこない。異様な明るさが欲しいと思うのですね。しかし、今回の「娘道成寺」はよかった。六代目菊五郎もこうだったかと思う瞬間が確かにありました。
(H17・4・20)