六代目菊五郎の「道成寺」を想像する
1)「鐘をあげるのをよせ」
別稿「変容する『道成寺』伝説」において、舞踊「娘道成寺」は古き時代の伝説を近世江戸において全く新しい形で変容させた踊りであった、その魅力は能「道成寺」との関連ではなくむしろその非連続性において考えられるべきであるということを考えてみました。そして本稿ではその魅力を具体的な形で提示したと思われる六代目菊五郎の「娘道成寺」とはどんなものであったのかを考えてみたいと思います。
『あの「道成寺」の舞台をつくり出した江戸時代の劇場と観客の雰囲気は、桜の花のいっぱい咲いた中にやたらに美しい娘姿を踊らせて恍惚としていたので、日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのである。そういう理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさ、気味の悪い美しさを菊五郎の白拍子はふんだんに持っていた。菊五郎の「道成寺」を見ていてある老婦人が「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」という言葉のせっぱつまった実感は私にもうなづける。菊五郎の「道成寺」はそういうものであった。』(円地文子「京鹿子娘道成寺」)
円地文子の文にある菊五郎の「道成寺」の舞台はおそらく昭和の初期、つまり菊五郎全盛期のものだと思います。さすが作家だけに、「ううむ、この舞台は是非見たかった・・・」という気にさせる文章です。もちろん六代目菊五郎を 吉之助は見ていません。菊五郎は吉之助の生まれるずっと以前に亡くなった役者ですから。はるか昔の霧のなかの名舞台です。そこで本サイト「歌舞伎素人講釈」ではその素人の強みを生かし、「見てもいない舞台を想像し憧れる、見てもいない舞台から考える」ということをやってみたいと思います。
菊五郎の「道成寺」は当たり役で昭和十年前後は頻繁に踊っていますから、「その白拍子の結構さと来ては実に無類日本一。踊りの巧さはもとより、その振りから来る女としての美しさ、袂から鞠を出す所や、悋気せまいぞの件あたりの水のしたたるような色気、久しぶりでポウとしてしまった」(岡鬼太郎・昭和5年4月東京劇場批評)というような類の批評・賛辞なら探せば沢山見つかります。しかし、素晴らしいのは無論分かっているので、先に引用した円地文子の文章のように菊五郎の踊りを通じて「道成寺」の魅力まで彷彿とさせるような魅力的な文章となると、これは意外に少ないようです。そこで注目したいのは菊五郎自身が京劇の名優馬連良との対談で語った次の発言です。
「僕は二度死にたいと思ったことがある。『道成寺』の踊りでね、鐘の中に入るまでが非常によく出来た。このまま本当に死んだら極めていい心持ちだろうと思って鐘を上げるのをよせと言った。三味線が鳴り出しても鐘を上げるのが非常に不気味なんだ。後がもう先の通りに出来るかどうか分からない。・・・馬連良さんならこの話をしても通じると思うんだ。そういう時に死にたいな・・・という気持ちがですね。」(昭和17年12月「中央公論」六代目菊五郎・馬連良による対談)
ご承知の通り「道成寺」には二通りの幕切れの仕方があります。ひとつは舞台に鐘を下ろして白拍子がその鐘の上に登って鐘に巻きつく形をして幕となる簡略型、もうひとつは下ろした鐘の中に入り蛇体に変身して押戻しをつけた本格型です。ここでの菊五郎の発言は踊り手の「至福の瞬間」について語っていますので、本人は「娘道成寺」を語っているつもりはないと思いますけど、菊五郎の発言のなかの「三味線が鳴り出しても鐘を上げるのが非常に不気味なんだ」は「娘道成寺」を見る側の観客の心理にもつながるものがあると思います。
見事な踊りのあとに鐘が上がるとあの美しく可愛い白拍子が蛇体に変身している、これほど不気味で恐ろしいことがありましょうか。「鐘を上げるのをよせ」、菊五郎の素晴らしい踊りを見た観客は同じことをきっと思ったに違いないのです。それまでの白拍子の踊りは確かに理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさでした。日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったはずなのです。ところが鐘の上がる段になってその恐怖がどこからか湧き上がってくる、「鐘を上げるのをよせ」、その瞬間に何も関係なかったはずの「道成寺」伝説が蘇ってくるのです。また菊五郎の芸談集「をどり」のなかで踊り手の至福の瞬間について、菊五郎は次のように語っています。
「だから何度やっても、やはりその度に何だか夢中で雲の上でも歩いているように思うことが時どきありますよ。こういう振りはこういう形だなんて勿論、思ったこともないのです。ただひとりでに踊れてくるんだ。あの三味線は舞台で数十回、数百回聞いているけれど『聞いたことのない三味線だな。なんの三味線だろう。そういえばこの踊りもはじめてだな。』とそんな気持ちでただ夢中で踊る、それが僕は楽しいんだ。そこまで行ってはじめて本当の踊りが踊れるのじゃないかな、気狂じみているけれども。唄も三味線も何にも分からずにパッと舞台に出て、やりたい放題に勝手に踊る、それでいてちゃんと間にも拍子にも合っている。それが本当の踊りじゃないかしら。」(六代目菊五郎:芸談「をどり」)
そのような体のなかから自然に湧き上がってくるような躍動感こそが、乗っている時の菊五郎の踊りであったのだろうと思います。この本能的とも言える感覚が観客に理屈抜きの面白さを味あわせるのです。だからこそ鐘を引き上げる時の恐怖が際立ってくるのではないでしょうか。
2)立役の踊る「道成寺」
最近の「娘道成寺」の舞台は原作回帰とでも言いましょうか、その味わいが能に近づいているように思われます。その反面、菊五郎の「道成寺」の持つ理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさからは遠くなっているようです。これは現代という時代を考えればそうなって当然ということかも知れません。現代人にとって能の「道成寺」と歌舞伎の「娘道成寺」は次元の異なるものではなくて、そこに起源を同じくした同質のものを見ようとする傾向が強いようです。そうなると、白拍子が踊っている時でも鐘につねに心を向けていなければならぬとか、乱拍子では能を習ってここを鱗型に踏むんだ、とか言われれる口伝が重要性を増してくるということなのでしょう。形式は踊りでも心は能である(「能の心を踊りで描く」と表現した方が積極的な感じがしていいかナ)という感じがします。
しかし不肖「歌舞伎素人講釈」ではむしろ「娘道成寺」に能との非連続性(断層)を意識し、そこに舞踊「娘道成寺」の本質があると考えたいのです。これは吉之助の推論ですが、能への回帰は「娘道成寺」を「真女形」の舞踊の最高峰と見ることによっても起こっているように思われます。陰の視覚的イメージが能への回帰を即しているように思われるのです。
菊五郎の「娘道成寺」は一分足らないほどの断片ではありますが、昭和11年4月歌舞伎座での全盛期の映像が8ミリ・フィルムで残っています。もちろん音声はなく、舞台遠くから撮った鮮明ではない白黒映像で細切れ断片ではありますが、菊五郎の「道成寺」を考える大事な手掛かりです。まず印象に残るのは体全体をダイナミックに使った踊りで、動きが大きく躍動感があり、語弊があるのを承知で言えば「踊りというより新体操に近いような感じ」がすることでしょう。驚くのは「恋の手習い」で右手で手拭いを振る時にめいっぱい大きく振っていることで、「手拭いを振り回している」ような感じさえする、とても力強く勢いがあることです。「鐘入り」直前の鈴太鼓の踊りもじつにダイナミックで体全体が跳ねるようです。つまりなよなよとしていない、振りでことさらに媚びることのないカラッとした陽性の踊りであって、菊五郎の「娘道成寺」は本質的には立役の加役としての女形踊りだと思いました。
こういう感じ方は時代における女形の受け入れられ方と女性観の変化に影響されるところも大きいので安易な断定は危険だと思います。よく検討された上で論じられないといけないことです。岡鬼太郎の批評にもあるように「その振りから来る女としての美しさ、袂から鞠を出す所や、悋気せまいぞの件あたりの水のしたたるような色気、久しぶりでポウとしてしまった」ということですから菊五郎の女形の美しさ・魅力もなかなかのものであったと思います。しかし現代人の吉之助から見て今から65年前の菊五郎の女形が加役に見えてしまうということは(ご注意:加役であるのが悪いというのではありません。女形が菊五郎という役者の本領ではないということのみです)、それだけ現代の女形のイメージが昔と比べて嫋嫋としてなよっとしているということだろうと思います。
このことから吉之助の想像はさらに飛躍していきます。吉之助は現代においては「娘道成寺」は真女形より立役が踊る方がもしかしたら本来の味に近くなるのではないかという気がしているのです。「娘道成寺」を初演した初代中村富十郎は、女形の始祖初代芳沢あやめの三男であり、また女形の技巧である内輪歩きを編み出した名優でもありました。しかし一方で富十郎は芸域の広い役者で 、想像もつきませんが荒事も演じたという「兼ねる役者」でした。嫋嫋としてなよっとしていたとは思えません。だとすれば、初代富十郎の「道成寺」から、素晴らしいと言われた九代目団十郎の「道成寺」・そして団十郎の薫陶を受けた六代目菊五郎の「道成寺」と、この三人を結んだ線上に江戸歌舞伎の大輪の陽性の華ともいえる「京鹿子娘道成寺」の本質を見るような気がしますが、いかがなものでしょうか。
(追記)最後の結論については、いささか唐突な持って行き方かも知れませんね。その時代の女形の演技形態がどうであったかは当時の女性観に大きく関係します。美人画の大家である鏑木清方は九代目の「娘道成寺」について「当時(明治)の娘そのままだった」と述懐したそうです。それをもしタイムマシンで見ることができたとしたら今の我々にはどう見えたであろうか?という問題はあくまで私自身の想像に過ぎません。 吉之助の場合には、初代富十郎・九代目団十郎・六代目菊五郎をつなぐ線上に同じような感触が見えるような気がしたということです。全く根拠がないような、あるような、しかし何となくそんな気がするのです。芸談を読みながらこういう想像は楽しいと思いませんか?
(追記)
本稿の続編「歌右衛門の道成寺」も併せてお読み下さい。
写真館『六代目菊五郎の「道成寺」』もご参考にしてください。
(H13・6・10)