六代目菊五郎の「道成寺」
別稿「菊五郎の道成寺を想像する」で、六代目菊五郎の舞踊について考えてみました。観客に「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」と言わせるような六代目菊五郎の「道成寺」の魔力は、その舞台を見ていない者にとっては写真や証言の断片にすがりながらその芸の秘密を想像してみるほかに方法はありません。しかし、このような作業は無駄であるどころか、伝統芸能から未来へつながるエネルギーを得ようとするには、これしか方法はないと言ってもよろしいのではないでしょうか。
本稿に載せた写真三葉は昭和11年6月明治座での菊五郎の「道成寺」です。体力気力ともにまさにピークであった時期の舞台と言えましょう。
菊五郎に薫陶を受けた現7代目芝翫が、菊五郎に「道成寺」を習った時の思い出を次のように語っています。
『金冠では「なるべく鳥帽子が前後左右に動かさないようにしなさい、ゆらゆらしてはいけない」と教えられました。(中略)もう一つ、帯の後ろの垂れが動くのを嫌いました。「もし横に飛び出したら、ここで入れろ」とか「こうやったら戻る」というのも教えてくれました。おやじ(菊五郎)は浴衣で踊らせておいて、それを見て全てがわかるんですよ。「ほら、その首が動くんだよ」「その足を使うから垂れが揺れるんだ」と指摘するんです。』(中村芝翫:「芝翫芸模様」)
これに関連した話で、菊五郎が「道成寺」を初役で踊った大正元年9月市村座でのエピソード:幕になりかけたところで、たまたま見に来ていた先々代藤間勘十郎(女性ですが名人と言われた)が舞台に走り寄り、閉まりかけた幕を頭からかぶって「金冠がああ動いていいのか、もう一度やってくれ、目が腐らあ!」と菊五郎をどなりつけたといいます。菊五郎は平謝り。あとで勘十郎が教えてくれたことには、金冠をつけている間は一切踊ってはいけない(つまり「踊り」ではなくて「舞い」である)、冠を取ってから娘の踊りになるのだ、ということでした。それ以来、菊五郎はこの教えを堅く守ったということです。
吉之助はもちろん菊五郎の舞踊は、あの有名な「鏡獅子」の映画以外には見てないわけですが、菊五郎の踊りの魅力のひとつはその弾けるような躍動感・リズム感ではないかと想像して います。これは「三社祭」のような踊りでなくて、純女形の「道成寺」のような踊りであってもそう言えるのではないかと想像します。
そういう躍動感はどこから来るかというと、目いっぱい身体を使い切っていることから来るような気がします。それでいてアクロバチックにならずに、舞踊として見事に枠に納まっているということではないか、と思います。
上の写真・あるいは下の写真は、そうした身体を極限まで使い切った菊五郎の瞬間の動きをよく捉えています。こういう形はシャープな連続する動きのなかで瞬間的に現れるもので、動きに勢いがないと現れないものです。この「形」が観客の目に触れた瞬間には菊五郎はもう次の動きに移っているのでしょうけれど、しかし、観客の網膜にはまるで残像のようにその「形」がくっきりと残っている、とそういうものでしょう。見事な踊りというのはまるでスローモーションのように「連続した形」として動きが印象付けられるものです。
『(世間では「恋の手習い」が難しいだろうと言われているようですが)私の経験から言えば「鞨鼓」は特にむつかしく、ただ鞨鼓をテンテン叩いているだけでは、飴屋も同じことになってしまいます。鞨鼓は本来が打楽器であるだけ、打つ方へ気を入れると踊れなくなるのです。つまり、鞨鼓をひとつの曲として完全に間を打ち込みながら踊ることで、踊って打ち、打って踊る、そこに一寸の隙もなく全身が躍動していくところになかなか至難な点があるのです。』(六代目尾上菊五郎:「芸」)
(H13・6・15)