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吉之助の雑談44(令和5年7月〜12月)


「古典」へ帰る

今回はホンの雑談です。昨年の今頃ですが、実は吉之助は「来年(2023年・つまり今年のこと)は見るもの(芝居)を絞りたい」と思っていました。ひとつには、本サイトがこの十年くらいは直近の舞台の観劇随想で展開して来たせいで、アレも見なくちゃコレも見なくちゃと話題が総花的になっているので、「歌舞伎素人講釈」本来の方向へ戻したいと考えていたからです。3月の新作歌舞伎「ファイナルファンタジー」とか12月の超歌舞伎を見なかったのはそのせい(これらを批評するには吉之助は適任でないとの判断から)ですが、代わりに京都や大阪へ遠征したり・若手の自主公演を見たりするのが増えたために、本年を振り返ると結果的に「見るものを絞れていない」ことになりました。

理由ははっきりしています。コロナ以後の歌舞伎座のプログラムが(演目的にも・配役的にも)どうも魅力的でないからです。事情はいろいろあろうかと思います。客の入りを見れば歌舞伎座の観客動員が苦戦していることは察せられます。しかし、苦しいって言ったって昭和50年代の歌舞伎のどん底時代と比べれば、まだマシだと思います。それでもあの頃の歌舞伎座には「国劇の殿堂」ということでドーンと構えたところがありました。ガラガラの入りでも平然と「古典」をやってました。このところの歌舞伎座はどうしちゃったのですかねえ。具体的なことは挙げませんが、翌々月の演目が発表される度に「見たいのはコレじゃないんだよね」とがっかりさせられることが多い。むしろ大阪や京都の他劇場の歌舞伎のプログラムの方が関心をそそるものがあります。今の歌舞伎座に必要なことは正道に戻ること・つまり「古典」へ帰ることではないかと思いますがねえ。

いつぞや書いたことがありますが、昭和末期の歌舞伎から平成歌舞伎への芸の受け渡しは結果的に割合スムーズに行ったと思います。これは昭和の大幹部が当時の若手を相手役に古典を地道にやってきたことの成果が出たと思います。当時の観客は大幹部と大幹部の大顔合わせをもっと見せてくれとブー垂れたものでしたが、確かに効果があったのです。それと比べると、平成末期の歌舞伎から令和歌舞伎への移行は10年かそれ以上遅れていると思います。このところの歌舞伎を見ると松竹に伝承プログラムがしっかりしていないことのツケが来ていると思います。やはり歌舞伎役者は「古典」が出来てこそナンボなのです。

しかし、このところの(既に発表されている来年前半のプログラムも含む)20代・30代の若手の活動をみると、彼らのなかに「古典」を吸収したいと云う意欲の高まり・と云うか「今のうちにやっておかないともう残された時間が少ない」という焦りもあるかも知れませんが、彼らには「古典」への強い意欲が見えるようです。その意欲があるならば歌舞伎の復興への期待は、ポーンと世代を飛び越えて、彼ら若手によって果たされることになるかも知れないなあとも思います。来年も彼ら若手を見に歌舞伎座以外へ行くことが多くなりそうです。このように書くと「吉之助は今の40代・50代の中堅どころに期待しないのか」と言われそうだが、これらの世代には「一層の奮起を期待する」と言いたい気がしますね。正しい危機意識を持ってもらいたいです。「歌舞伎の・今そこにある危機」とは歌舞伎座に観客が来なくなることではなく、歌舞伎役者が古典を正しく演じられなくなることです。

今年もまだ残り半月あるので・総括するのは早いかも知れませんが、歌舞伎にとっての2023年はあまり良い年ではありませんでした。年が変わって、この流れが吹っ切れることを期待したいですね。

(R5・12・15)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・余談・藤三郎の首

本稿は「鎌倉三代記」観劇随想の余談ですが、これは「近江源氏先陣館」の続編が「鎌倉三代記」である・つまり作者は同じく近松半二だと決めつけた上での話です。「絹川村閑居」の物語で高綱が、

「あれにいるおくるが夫藤三と云っしは、面体われに見まがふばかり似たるを幸ひ、価をくれて命を買ひ取り、去年石山の陣にて、北條家を欺きし、佐々木が贋首こそかの藤三郎・・」

と明かします。吉之助は「盛綱陣屋」の首実検を見る時いつも、あの首桶の上に載ってる首は藤三郎なんだなあと、高綱の身替わりとなって死んだ藤三郎の人生をチラッと思うのです。チラッとです。こればかり考えてると肝心の芝居がそっちのけになりますから、誰にでもお勧めはいたしません。「盛綱陣屋」の首実検の核心はもちろん小四郎の自害に感じ入った盛綱が決心を翻すところにあるのですから・そのドラマを注視せねばなりませんが、芝居ではただの作り物の首が無言のまま在るだけですけれど、ここで死んだ藤三郎のことをチラッと考えると、はるか未来の「鎌倉三代記」のことまでも線がピーンとつながって、「盛綱陣屋」のドラマに奥行きが出ると思いますね。

*大正5年(1916)11月歌舞伎座:「盛綱陣屋」
十五代目羽左衛門の佐々木盛綱と藤三郎の首(後ろ姿ですが)。

つまり高綱の計略実現のため(京方の勝利のため)命を捨てた者は小四郎だけではない。藤三郎だってそうなのだと云うことです。このことは結構大事な認識で、芝居の小道具にされてツイ忘れられてしまうけど、偽首だって元は生きていた人間だったんだと云うことです。もちろん藤三郎は自発的に身替わりを申し出たでしょう。そうでなければ妻のおくるがその後高綱に協力し行動を共にするはずがありません。「絹川村閑居」でおくるはこう述懐します。

「(夫藤三郎が)誰あらう佐々木様に面ざし似たが仕合せで『討死の数に入るは一生の本望』と、にこ/\笑うて行かれた顔。いま見るやうに思はれて、あなたのお顔を見るにつけ、思ひ出されて懐しうござりまする」

おくるの述懐を聞くと、吉之助の脳裏には、時系列を昔に遡って「盛綱陣屋」の首実検の光景が浮かびます。そうすると今度は「鎌倉三代記」のドラマが立体的に見えて来ます。京方の逆転勝利のため・高綱のために命を捨てて戦ってくれた人々が大勢いたわけですね。その思いに報いることが高綱の責務です。この覚悟が高綱という役を魅力的なものにします。

付け加えておけば、対する鎌倉方にも味方の勝利のために命を捨てて戦った人々が大勢いたはずです。もちろん盛綱もそうです。戦争という極限状況のなかでもみんな必死に生きていたと云う当たり前のことを今更ながら思いますね。

(R5・12・10)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その9

ここまで「絹川村閑居」を三人の女性、時姫・長門・おくるの視点から眺めて来ました。当時の女性の道徳は「夫に従え・家に従え」ということでした。この教えを胸に彼女たちは自らの在るべき道を模索したのです。と云うことは、男たちが彼女たちの犠牲的行為に足る魅力的な存在でなければ、これに尽くす意味はないはずですね。「魅力的」と云うのは、見た目がカッコいいと云うことだけでなく、正義を体現しているとか・勇気があるとか・強いとか・いろんな要素があり得ます。いずれにせよそれが彼女たちの目から見て魅力的な存在でなければ、これに尽くす意味はありません。「絹川村閑居」は時姫・長門・おくるの三者三様の悲劇的様相を描いていますが、男たちが魅力的でないと、彼女たちの悲劇がドラマ的にスッキリ「立たない」ことになります。ここは大事なことだから強調しておきたいと思います。

今回(令和5年11月歌舞伎座)の時蔵の三浦之助は初役だそうですが、儚(はかな)い美しさがあって悪くない出来です。三浦之助は既に深手を負っていますが・死を覚悟していますから、あまり苦痛の表現を出し過ぎると哀れさが立って未練がましく見えると云うことはあります。そこをキリッとした風情で出すということもあり得ると思います。そこの兼ね合いが難しいところですが、女形である時蔵が三浦之助を演じるならばこれで宜しいのではないでしょうか。梅枝の時姫との親子共演もはまって見えました。

問題は芝翫の高綱だと思いますね。前半の藤三郎についてはもう少し世話の軽みが欲しいとは思いますが、それでもそう大きな不満ではありません。しかし、井戸から登場して正体を見顕わす高綱がこれでは困ります。もっと引き締まった感じでやって欲しいですねえ。井戸の水に浸かっているうちにふやけたかと思うような、見掛けばかりで中身が空疎な高綱です。肚が出来ていないからこう云うことになります。芝翫は時代物の大役に相応しい恵まれた風姿を持っているのに残念なことだと思います。先日(10月国立劇場)の金輪五郎(鱶七)のような役ならば、見掛けのスケールが大きく見えれば足りるから、あれでも良いのです。金輪五郎なんてどういう人物だかバックグランドが知れない。肚の裏付けになる材料があまりありません。だから「時代物らしく」やってさえいればそれで足ります。しかし、高綱がこれでは困ります。これでは死んでいく者たちが「立ちません」。

「近江源氏先陣館」・「鎌倉三代記」をざっと見ると、高綱は稀代の策士と云うことになってはいますが、やっていることは虚しいですねえ。息子(小四郎)を偽首の傍証にして死なせてしまうし、周囲の人間を散々巻き込んで、結局、最終目的(鎌倉方の大将時政謀殺)を果たせないのです。大言壮語は吐くけれども、成果を出せていない。だから見掛けばかりで中身が空疎な高綱になってしまうのかも知れませんが、それだと高綱が女たちが尽くしたいと思う「魅力的な男」に映らないんだよね。そこのところをよっく考えて欲しいのです。

史実の真田幸村は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で戦死しました。しかし、幸村は影武者が何人もいたと云われる謀将だから、そう易々と死んだと思えない。きっとどこかに生きていて・巻き返しの機会を狙っているはずだ。と云うことで、大坂城落城直前に幸村が豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたとの伝説が生まれました。その当時、

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」

というわらべ歌が流行したそうです。幸村はあらゆる策を使って徹底的に戦う、勝利への執念はさながら「鬼の如し」と云うわけです。決して負けることはない。(まあ勝ちもしないんですが、決して「負けない」。だから戦い続けるのです。)徳川方には、幸村は鬼のように恐ろしく見えたはずです。

「絹川村閑居」幕切れで、高綱以外の人々の愁嘆の有り様を肚のなかにすべて受け取って、高綱が敢然と立つのです。「おのれ今に見ておれ」と云う風に。高綱の肚のなかには、勝利への執念がぎっしり詰まっています。ですから高綱はしっかりと前を向いて勝利への眼差しを決して捨てることはない。それが京方の逆転勝利のために命を懸けて戦ってくれた人々の思いに報いることでもあります。そのような決然とした姿勢が高綱を(史実の幸村を)魅力的な存在にしているのだと思います。高綱をそのように見せて欲しいものです。

(R5・12・8)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その8

「絹川村閑居」では時姫が「父時政を討ってみしょう」と叫ぶ場面が、形を変えて二度出てきます。まずひとつ目は、

「思ひ切って討ちませう。北條時政討って見せう。父様赦して下さりませ」

です。現行歌舞伎であると、この時姫の台詞が「絹川村閑居」のクライマックスであるかの如く見えると思います。しかし、原作を読むと実はそうではなく、時姫はこの後さらにドラマ的かつ段階的に追い込まれていきます。と云って語弊があるならば、時姫は理念的にさらに高められて行くのです。次の台詞こそが「絹川村閑居」の本当のクライマックスです。その台詞とは、

「オオそれよ。親を捨て命を捨て、主に従ふは弓取の道。夫に従ふは女の操、不孝の罰の当らば当れ、夫ゆえには幾奈落の、責苦を受くとも厭ふまじ。父の陣所に立帰り、仕おほせてお目にかけう。一念通るか通らぬか、女の切先試みん」

です。ただし現行歌舞伎では、この直後に時姫が突き出した槍で姑長門が自害する場面も含めて、この台詞までもカットされています。このため現行歌舞伎では時姫の感情が次第に激していくプロセスがまったく見えないのです。しかし、原作を見直せば、上記二つの台詞の間に、時姫の決意をさらに強固で熱いものにするための段取りを浄瑠璃作者がしっかり準備していることが一目瞭然です。その過程(プロセス)を見てみます。(詳しくは別掲の「絹川村閑居」床本をご参照ください。)まずは、

1.時姫の台詞:「思ひ切って討ちませう。北條時政討って見せう。」
2.高綱の物語
3.おくるの述懐
(これ以後は現行歌舞伎ではすべてカット)
4.時姫は「いづれを見ても義理ゆえに死なねばならぬ定りか」と嘆く。
三浦は「愚か/\、生は難く死は易し」と時姫を叱り、既に自分は深手を負っており命は長くないと告げる。時姫は「これほどの手を負ひ給ふと、知らぬ女の浅ましさ」と泣く。
6.高綱は「三浦が首は安達藤三が討ち取るぞ」と言い、三浦の首を持参して敵の大将時政に近づく計略だと宣言する。三浦は「ハハハハ忝し悦ばしや。最期の本望この上なし、冥途で再会々々」と笑う。
7.時姫の台詞:「
夫ゆえには幾奈落の、責苦を受くとも厭ふまじ。父の陣所に立帰り、仕おほせてお目にかけう。一念通るか通らぬか、女の切先試みん」
8.時姫の突き出した槍を掴んで姑長門が自害する。
9.瀕死の長門の述懐。

となるわけです。これでもか・これでもかと云う感じで時姫を・そして観客を段階的に追い込んで行きます。「これはとても付いて行けない」と悲鳴を上げたくなるほど、登場人物全員が何ものかに憑かれた倒錯状態の嵐なのです。しかし、浄瑠璃作者が本当に訴えたいこと(本作の主題)は実はそこにはありません。それは長門の述懐の最後の方に出て来ます。すなわちそれは、

「親を忘れて義を立つる、手本の鑓先。ヲヽあっぱれ手のうち、健気の働き出かした嫁女・・(中略)とても果報のあることなら女夫この世で末永う、孫悦ぶを冥途から、見るなら何ぼう嬉しかろ。・・」

と云う箇所です。長門の自害によって、幕切れの異様な高揚感は徐々に沈静化していきます。この後は、現行歌舞伎と同じく、三浦・時姫・高綱の三人三様の別れで締められます。(この稿つづく)

(R5・12・6)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その7

今回(令和5年11月歌舞伎座)の舞台では、高麗蔵のおくるも律儀な印象があって役をわきまえた・とても良い出来だと思います。おくるが良かったから猶更そう感じるのかも知れませんが、それにしてもこの芝居でいつも感じることは、述懐の直後におくるが自害せねばならない理由は何もないと云うことですね。原作(文楽)では、おくるは槍を脇腹に刺して瀕死の長門に付き添って最後まで舞台にいるのです。歌舞伎では長門の自死の場面がカットされるので、用済みになったおくるを舞台から消すために無理やり自害させたような印象が強い。おくるを退場させたいのならば、「ソレおくる、奥へ行て母人の世話頼む」とでも言えば済む話なのに・それをせずに殺してしまうのは、マコトに乱暴な処置だと思います。はるか昔にこの箇所を書き換えた座付き狂言作者(誰だか知らないが)のセンスが疑われます。歌舞伎でのおくるの自害は、これに先立つ高綱の物語の・次の台詞を受けたものです。すなわち、

「あれにいるおくるが夫藤三と云っしは、面体われに見まがふばかり似たるを幸ひ、価をくれて命を買ひ取り、去年石山の陣にて、北條家を欺きし、佐々木が贋首こそかの藤三郎・・」

「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」での首実検で登場した・あの偽首が、おくるの夫・藤三郎であったのです。続編「鎌倉三代記」では高綱は藤三郎・つまりただの百姓になりすまして時政に近づこうとします。このため真(まこと)の藤三郎に見せるための協力をおくるに依頼したのです。高綱の物語を受けた・おくるの述懐を見ますと、

「わたしが夫は水呑百姓、かつ/\のすぎわいさへ、長の病気の貧苦の中、不相応な御恩のお貢、金銀に命は売らねど、夫も元は侍の端くれ、生れ付いて臆病で弓引くことも叶はぬ非力、わが身を悔むこの年頃、誰あらう佐々木様に面ざし似たが仕合せで『討死の数に入るは一生の本望』と、にこ/\笑うて行かれた顔。いま見るやうに思はれて、あなたのお顔を見るにつけ、思ひ出されて懐しうござりまする」

歌舞伎では、この述懐の後「夫とともに死出三途」と原作にない台詞を言って・おくるは自害してしまいます。しかし、前述の通り原作でのおくるは、瀕死の長門に付き添って最後まで舞台にいます。

このような歌舞伎の改変が問題であるのは、この場でおくるが自害してしまうと、上の述懐が偽首となって死んだ夫への愁嘆にしか聞こえなくなることです。そのように聞くと、高綱物語でせっかく高揚した芝居の気分を醒ましてしまう作用しか起こしません。しかし、ここが大事なことなのですが、夫の死後もおくるは生き延びて高綱のなりすましの計略にここまでずっと協力して来たわけです。「絹川村閑居」では藤三郎=高綱であると観客に明かしたけれども、鎌倉方(時政)にまで明かしたわけではない。計略の実行はこれからです。京方の逆転勝利の為おくるの協力が必要な場面がまだまだあるかも知れません。そのような緊迫した状況なのに、ここでおくるを自害させることほどおかしなことはありません。

もしそうならば、その後もおくるが高綱に協力して生き続けるならば、上記のおくるの述懐をどのように読むべきかということです。それはつまりこう云うことでしょう。「偽首になった夫の死を無駄にしないためにも、妻である私も高綱さまの計略に協力して、京方のために命を懸けて戦う」ということです。この述懐は、おくるなりの・力強い戦(いくさ)の宣言なのです。おくるの述懐をそのように読まねばなりません。時姫から見ればずっと下の身分の女性ですが、それでも妻は夫のための義理をとことん果たそうとする、究極の状況で「自身のアイデンティティにどれだけ忠実であるか」が試される、そのような実例を時姫はおくるに見ることになります。そこから「夫ゆえには幾奈落の、責苦を受くとも厭ふまじ。父の陣所に立帰り、仕おほせてお目にかけう。一念通るか通らぬか、女の切先試みん」という時姫の決意が導き出されます。(この稿つづく)

(R5・12・5)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その6

今回(令和5年11月歌舞伎座)の東蔵の姑長門は、義理をわきまえ情も厚い、なかなか良い出来です。肝心要の長門の自死の場面がカットされているせいで、せっかくの東蔵の好演が生きて来ないのは残念ですが、それは兎も角、ここでハタっと考えることは、長年「絹川村閑居」から長門の自死の場面がカットされて来た理由は上演時間の制約(今回の十全でない脚本でも1時間20分掛かっているのに・長門の自死を復活すればさらに20分ほど伸びる)と云うことが大きいと思いますけれど、現代人には長門の自死の場面がなかなか理解し難いと云うことも、もしかしたらあるかも知れないなとも思うのです。

それは長門の自死がかなり衝撃的であるからです。何しろ興奮した時姫が「一念通るか通らぬか、女の切っ先試みん」と言って槍を構えて突き出すと、長門が障子越しにその槍先を掴んで自分の脇腹にぶっ刺すのです。「これはちょっと付いて行けないや」と感じる方は少なくなかろうと思います。しかし、そこで踏みとどまって長門の述懐をよく聞いて欲しいと思います。長門は苦しい息の下で

「生みの親御をふり捨てゝ、何の恩もない姑を、誠の母とこのほどの起き臥し介抱心遣ひ、親切とも過分とも、どうも礼の云ひやうがなさ、こなたに功が立てさしたさ、三浦が母を仕止めたれば、生みの父北條殿へ、孝行の一つは立つ。またこの母への返礼には、このとほりの功を立てゝ下され。親を忘れて義を立つる、手本の鑓先。ヲヽあっぱれ手のうち、健気の働き出かした嫁女・・(中略)とても果報のあることなら女夫この世で末永う、孫悦ぶを冥途から、見るなら何ぼう嬉しかろ。・・

と言うのです。長門は時姫に心底感謝しています。「貴方に親不孝者の汚名は着せぬ、三浦の母を仕止めたと云うことで父北条殿への孝行は立とう、その代わり、この義母への手向けに北条殿を討つ、是非ともそれをお願いします」と云うことです。時姫に理不尽な行為を強いねばならないことへの詫びでもありましょうか。倒錯した場面であることは確かです。敗北寸前にまで追い込まれた者たちの凄まじい執念です。と同時に、それと同じくらいに強い時姫に対する愛情を感じますねえ。平和な世の中であったならば夫婦仲睦まじく・婆よ孫よと愛情を以て皆が暮らせたものを、戦争と云う極限状況がこれほどまでに人の心を引き裂き・無残なものに変えてしまうのかと云うことです。そのような問題提起をこの場面は含んでいるのです。ですから長門の自死の場面は、見るのはなかなか辛い場面ではあるけれども、凝視せねばならない場面でもあります。

だから「絹川村閑居」で長門の自死の場面を復活させることは原典主義者である吉之助はもちろん賛成です。しかし、歌舞伎のなかで現行のやり方が定型になっている以上、それはなかなか容易なことではなさそうです。復活すれば復活したで、ドラマが描くものはその分さらに重く深刻なものとなります。この重さは長門だけが背負うものではなく、出演者全員が分担して背負わねばなりません。そのために「絹川村閑居」全体の段取り・バランスを根本的に練り直す必要がありそうです。(この稿つづく)

(R5・12・1)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その5

このように「鎌倉三代記」の時姫のドラマは、「自身のアイデンティティにどれだけ忠実であるか」を問うものなのです。江戸時代のドラマですから戦争という極限状況で「夫を取るか・親を取るか」を問う体裁となっていますが、細かいことはどうでも良いのです。詰まるところは「君は自分が愛するもののためにトコトン生きているかい」と云うことです。バックグラウンドは全然異なっても、そう云うドラマは現代でもたくさんあると思います。「設定は極端だけれど江戸時代の人々も自分が信じるもののために一生懸命生きたのだなあ」と感じないとすれば、現代人が歌舞伎を見る意味はあまりないと思います。歌舞伎からそう云うポジティブなものを読み取ることが「古典」を学ぶ者の努めだと思っています。

吉之助が見た「鎌倉三代記」の舞台など数が知れていますが、そのなかでは魁春の時姫が素晴らしいものでした。魁春の時姫は、夫三浦之助に「ササ返答如何に」と詰め寄られた瞬間にパアッと輝くのですねえ。この瞬間に時姫に或るスイッチが入るのです。「この瞬間のために私は生きてきたの」という感覚があって、そこで「思ひ切って討ちませう。北条時政討って見せう。父様赦して下さりませ」という台詞が発せられるから、ここで見事に時姫の悲劇のエッジが立つのです。時姫はこれから自分がすることの恐ろしさに震えていますが、同時に夫のために死すことの悦びにも震えているのです。このような乖離した感覚は魁春でしか見たことはないですねえ。(残念ながら吉之助は六代目歌右衛門の時姫を見ていませんが、歌右衛門は魁春にここを厳しく伝授しただろうと思います。)前述の通り現在の歌舞伎での「鎌倉三代記」脚本は十全でないものです。しかし、この不十分な脚本であっても、余計なことを考えず・型が持つものをホントに素直にそのまま出すならば、描かれるべきものはそのまま素直に舞台に現れる、魁春の時姫はその好例であると思います。(魁春の八重垣姫も同様です。)

さて今回(令和5年11月歌舞伎座)の梅枝の時姫ですが、初役にして十分な成果を上げています。容姿の古風な味わいが義太夫狂言によく似合います。もっとも「北条時政討って見せう」でパアッと輝くと云うところまではまだ行きませんが、そこはこれからの課題でしょう。梅枝の良い点は、時姫の行動に何かしら能動的な・ポジティブな側面を見ようとしていることです。状況に翻弄されてヒナヒナ・シクシクばかりの赤姫になっていないと云うことですね。「一生懸命に愛す・一生懸命に尽くす」、まずそこのところがしっかり出来ているならば、時姫の性根は立派に立つと云うことです。(この稿つづく)

(R5・11・29)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その4

「絹川村閑居」が時姫が夫・姑や周囲の人間に寄ってたかって責められて・「父時政を殺してみしょう」と無理やり言わされるドラマであるならば、本当にそうであるならば、本作は現代人・特に女性観客の共感を得ることは決して出来ないでしょう。しかし、時姫が能動的に「それ」を選び取ったとするならば、ドラマはまったく異なる様相を見せると思います。

本作のシチュエーションはかなり極端です。そこは戦争という極限状況が背景だから仕方がないこととして、家来は主人のために命を捨てるべしと云う封建道徳とか・女は夫に従うべきという女庭訓の思想とか、そう云うことをちょっと一時的に忘れてみたらどうかと思いますねえ。例えば「私は私が愛するもの・信じるものの為に生きたい」という主題なら、現代にも立派に通じる主題になると思います。「私は三浦之助さまのために生まれてきた、だから三浦之助さまのために死すことは最高に生きることだ、最高に生きるために私は死ぬのだ」と云う感情は、まあ倒錯しているのは確かですが、愛の感情にカーッとのぼせている瞬間にはそう云う気分になることもあると思います。そこに時姫の真実がある。「曽根崎心中」のお初だってそうです。心中の大義を叫ぶお初の台詞をご覧ください。元禄の世に心中ブームを巻き起こした台詞です。

「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」(曽根崎心中)

お初の台詞と「思ひ切って討ちませう。北条時政討って見せう。父様赦して下さりませ」と云う時姫の台詞の間に何の相違も見出せません。それはどちらも「私は最高に生きる」という感情から発せられています。

前述の通り歌舞伎の「絹川村閑居」は十全な形ではありませんが、それでも時姫の周囲を見回せば、夫(三浦之助)・姑(長門)も高綱もおくるも、それぞれの次元に於いて、自分が愛する共同体(京方)の存続のため全身全霊で命を懸けていることが分かると思います。もはや京方は滅亡の危機に瀕しています。残された策は「鎌倉方の大将北条時政を討つ」しかないと云うところまで追い込まれています。彼らは時姫にどれほど人の道にもとることを頼んでいるのかよく分かっています。と云うことは、裏を返せば、時姫にそのような頼み事をせねばならないと云うことは、夫三浦之助や姑長門がどれほど時姫を嫁として受け入れているか、高綱やおくるがどれほど時姫を愛しているかということの証に他ならないのです。

ですから三浦之助の許嫁であり・三浦之助に尽くすことこそ自らが勤めるべき仕事だと信じて生きて来た時姫にとって、彼女が今日まで生きてきたことの意味がここで問われることになります。時姫は「この瞬間のために私は生きてきたの」と叫ぶことになる。それが「思ひ切って討ちませう。北条時政討って見せう。父様赦して下さりませ」という台詞なのですから、そうすると「父様赦して下さりませ」で時姫の性根をどこに置いてしゃべるべきかは自ずと明らかだと思いますね。そこのところが分からないと、この芝居は「すべては時姫に時政暗殺を迫るための謀略であった」と云うことになってしまいます。(この稿つづく)

(R5・11・26)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その3

「鎌倉三代記」成立の大まかな経緯は前章の通りですが、七段目に当たる「絹川村閑居」が文楽でも2時間10分ほど掛かる長丁場のため、歌舞伎の上演ではさらに大幅な改変を余儀なくされました。前半の局使者・米洗いがカットされ、姑長門の死の場面は削除、さらにおくるが自害させられてしまいました。(原作ではおくるは自害はせず・最後まで舞台にいます。)このような改変で一番被害を被ったのは時姫で、歌舞伎の時姫は、夫・姑・周囲の人間に寄ってたかって責められて「父時政を殺してみしょう」と無理やり言わされるイメージになってしまいました。このような舞台を見て「時代錯誤の倫理思想に染まった何て芝居だ」と感じてしまうのも無理ないことです。しかし、ここでハタッと立ち止まって、近松半二がホントにそう云う芝居を書いたのか、ホントに半二の作意がそこにあったのか、冷静に考えてみて欲しいと思います。読み手から作品の方へ寄って行かねばなりません。これが「古典」の正しい読み方なのです。そうすれば、十全ではない歌舞伎の「絹川村閑居」からであっても、半二の正しい作意を引き出せるはずです。そのためにはまず役の性根を正しく掴む必要があります。

大事なことは、「夫を取るか・親を取るか」という問いに対し時姫が夫を取って親を捨てたと云うことではなく、時姫はこれを飛び越えて、「夫に対して忠・同時に親に対して孝」となる・まったく新しい次元の選択肢を見出したと云うことなのです。なぜならば時姫は三浦之助の許嫁であるからです。時姫は生まれてからここまで、三浦之助の妻になると定められて生きて来ました。時姫が三浦之助に尽くすことは、彼女が勤めるべき仕事として父時政が決めたことです。だから夫に付くことは、父時政の言いつけを守ること(つまり親に対し孝行)なのです。(別稿「私が私であるために」をご参照ください。)このことは、父時政が時姫を取り戻すため絹川村へ送り込んだ二人の局(讃岐の局・阿波の局)に対し、時姫が次のように返答していることでも明らかです。(この台詞は「絹川村閑居」のカットされた前半部分にあります。)

「度々父上よりお召しあれど、女は夫の家を家とせよと、常々の仰せを守る自らに、いまさら帰れとは父上とも覚えぬ。ことに姑御のお失例御介抱の隙なければ、再び鎌倉へ帰る心はないわいの。そのとほり申し上げて給も」

「嫁しては夫の家を家とせよと常日頃言っていたのはお父様じゃないの。その教えを忠実に守っている私に、いまさら帰って来いとはどう云うことよ。私はイヤよ」と言うことです。これが時姫の性根なのです。(この稿つづく)

(R5・11・23)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その2

「鎌倉三代記」は、「近江源氏先陣館」(明和6年・1769・12月大坂竹本座初演)の続編として書かれ、その翌年の明和7年(1770)5月に同じく竹本座で初演された「太平頭鍪飾(たいへいかぶとのかざり)」が原型であると推定されています。外題に「近江源氏」の角書が付されています。作者は近松半二以下「近江源氏」と同じ執筆陣だと思われます。「太平頭鍪飾」の評判は上々だったようですが、お上の神経を逆撫でする箇所がどこかにあったらしく25日で上演差し止めとなり、このため正本が出版されませんでした。(当時の人形浄瑠璃では上演されると必ず台本が出版されたものでした。)現在上演される「鎌倉三代記」は、安永10年(=天明元年・1781)3月江戸肥前座での初演です。「太平頭鍪飾」から11年の歳月が経過し、初演も大坂から江戸に変わっています。詳しい経緯は本稿ではどうでも宜しいのですが、その後の研究に拠れば、お上に問題とされた箇所を修正して筋を整えた上で・別の題名で読本出版がされたり・何度か改訂上演が試みられたようです。残念ながら「太平頭鍪飾」正本が存在しないので、どこがどのように改訂されたかが分かりません。しかし、「鎌倉三代記」はほぼ大筋で「太平頭鍪飾」を踏まえたものと考えて良いようです。

「鎌倉三代記」(文楽)では、時姫は「夫ゆえには幾奈落の、責め苦を受くるとも厭うまじ。父の陣所に立ち帰り、仕おうせてお目にかけう」と言います(注:歌舞伎ではこの台詞はカット)が、その後の展開では、三浦之助は討死に、時政暗殺の計略は失敗に終わってしまい、時姫は自害します。「鎌倉三代記」のドラマが虚しく見えるとすれば、それは結果として時姫が三浦之助を想う強い気持ちが奇蹟を引き起こすことがないせいです。例えば同じく近松半二の作になる「本朝廿四孝」では八重垣姫は勝頼を想う心が奇蹟を起こします。諏訪明神の白狐の霊力の助けにより姫は諏訪湖上を渡り、武田・長尾両家は和睦し、足利の世に平和が訪れます。(別稿「廿四孝」と八重垣姫」をご参照ください。)時姫にも何か奇蹟を起こさせてやりたかったものです。「本朝廿四孝」であれほど大胆な歴史改変を行った半二のことです。もしかしたら半二は「太平頭鍪飾」でもそんな大胆な筋を構想したかも知れない、「太平頭鍪飾」がお上の不興を買ったのは・そういう箇所であったかなとも思うのですが、いずれにせよ吉之助の想像に過ぎませんがね。(この稿つづく)

(R5・11・21)


〇令和5年11月歌舞伎座:「鎌倉三代記」・その1

本稿は令和5年(2023)11月歌舞伎座での「鎌倉三代記」の観劇随想ですが、舞台について記する前に、例によって作品の周辺を逍遥したいと思います。現行の「絹川村閑居」は前半をカットして三浦之助の登場から始まり、幕切れ近くの長門の死もカットするのが通例です。今回上演でもそのようになっていますが、この場割りでは今後本作が歌舞伎のレパートリーとして生き残るのは難しかろうと毎度見る度に思いますねえ。今回もそんなことを感じました。

戦後の上演記録を見ると、本作の上演は78年間で32回(今回含む)と頻度は決して多くありません。しかし、大事な演目として守られてきたと云う印象は確かにあります。時代物の義太夫狂言らしいスケールの大きさと重さがある、主役三人が絵面で決まる幕切れが映える、時姫が女形の大役・「三姫」のひとりであるなど、本作が見取りで上演されてきた理由はいろいろあると思います。しかし、現行の場割りではただ時代物のスケールが大きいと云うだけのことで、迫ってくるドラマがあまりに足りない気がします。大坂夏の陣がモデルだと云うのに徳川・豊臣でなくて、北条だの佐々木だのと訳が分からない、おまけに夫や姑・周囲の人間が寄ってたかって時姫に父親(時政)を殺せと迫るのが倫理的に理解し難いとか、歌舞伎が初めての方には、見掛けは派手だけど、筋が錯綜して内容空疎な芝居に見えて、ちょっと我慢出来ないのじゃないかと思いますねえ。

しかし、吉之助にとって「鎌倉三代記」は通しで見ると筋の面白さでは随一ではないかと思える芝居のひとつなのです。その昔(昭和58年・1983・5月)国立小劇場の文楽公演で、昼の部で「近江源氏先陣館」半通し、夜の部で「鎌倉三代記」半通しという組み合わせで上演が行なわれたことがありました。これは文楽でも滅多にない好企画であったと思います。これが面白いのなんのって、昼の部の「盛綱陣屋」の首実検で高綱の偽首として登場するのは実は身替わりを買って出た百姓藤三郎の首で、夜の部の「鎌倉三代記」では高綱はその藤三郎を名乗って時政を付け狙うと云うのだから奇想天外。これはつまり「盛綱陣屋」の続編になっているわけです。偽首の経緯は高綱物語のなかでも語られますが、多くの方がそこは軽く聞き流してしまいそうです。これは仕方がないことですが、聞くと見るでは大違いと云うか、これらの経緯(謎解き)もそれを芝居で見て承知しておれば、高綱の物語がグンと面白く聞こえると云うものです。十全な姿ならば、「絹川村閑居」はこんなに面白いんだと感動すること間違いなしです。ちなみにこの時の文楽の通し上演は、

「近江源氏先陣館」半通し:坂本城、盛綱陣屋(和田兵衛上使・小四郎恩愛・盛綱首実検)、高綱隠れ家

「鎌倉三代記」半通し:入れ墨、絹川村閑居(局使者・米洗い・三浦之助母別れ・高綱物語)、石山本陣、高楼

という場割りでありました。(この稿つづく)

(R5・11・18)


〇令和5年11月歌舞伎座:「松浦の太鼓」

松浦の殿様は人が好いけれど気分屋で、ご機嫌がいいかと思ったら、何かの拍子にプイッと機嫌が悪くなる。キャラとしては薄っぺらいのだけれど、それもこれも元禄の世を憂い・大石が本望を遂げることを願うゆえと云うところでしょうか。気分がコロコロ変わるのは「揺れる」感覚に通じるところがあるので、上方和事を得意とする仁左衛門としては、そんなところが手掛かりかなどと思ったりもします。ヒョンなところから和事と松浦侯の近しい関係が浮かんで来るようにも思いますね。「松浦の太鼓」はもともと大阪で生まれた芝居ですから、まんざら関係がないわけでないかも知れません。そこが興味深い。

しかし、仁左衛門の柄であると・どうしても賢君のイメージが強くなってしまうようで、松浦侯の薄っぺらさとは多少の齟齬を感じるところがないではない。吉之助には仁左衛門が得意とする青果の「元禄忠臣蔵・御浜御殿」が思い出されて、何だか徳川綱豊卿が連歌会をやっているみたいな妙な感じがしてしまうのですが、そこは芝居巧者の仁左衛門ですから、そこのところは持前の愛嬌で上手く取り繕って観客を掴んで放しません。そう云うところに仁左衛門に如才あるはずがありません。松浦侯は役者が演じて気分がいい役なのでしょうねえ。

興味深いと云えば、松緑の大高源吾もなかなか興味深いものです。松緑の源吾は、第1場・両国橋ではこの人の持ち味で時代っぽい生硬さがあって・最初はもうちょっと世話にやって欲しいと感じたのですが、耳が慣れてくると、何やらこれが源吾が背負っているもの(仇討ちという時代物の論理)の重さを感じる気がして来るから面白い。世話を基調とする芝居(武家屋敷を舞台としていますが写実だから世話が基調になります)のなかで、これが良い対照を見せます。この対照が第3場・松浦邸玄関先で効いて来ます。討ち入りの情景を源吾が物語る場面は、いつもの台詞の癖もあまり感じさせず、実を以てイキイキと語れていました。松緑の時代っぽさがここで生きて来ます。「忠臣蔵」の芝居(外伝)らしい感触になって来るのです。傍らでそれをハラハラしながら聞く松浦侯との対照がよく効いていたと思います。おかげで幕切れの松浦侯の「褒めてやれ・褒めてやれ」が機嫌良く響きました。

(R5・11・15)


〇児太郎再演の雪姫

令和5年9月歌舞伎座秀山祭の「金閣寺」の雪姫は児太郎と米吉のダブルキャストでしたが、吉之助が見た当日の舞台は米吉の雪姫でした。米吉の舞台については、別稿「五代目米吉初役の雪姫」で取り上げました。本稿では、舞台映像により児太郎の雪姫について書くこととします。なお児太郎が雪姫を初役で演じたのは平成30年9月歌舞伎座のことで、今回が5年ぶりの2回目となります。

このところの児太郎は団十郎一座での出演が多く、演じる役どころが限られているように思います。現在の児太郎(29歳)はとにかく芸の経験を多く積むことが大事な時期なのに、これではちょっとマズい。そのせいか歌舞伎座中心に見ている吉之助には、このところ児太郎の印象が薄いように感じていました。先日(5月)の弥生(若き日の信長)も7月のお舟(神霊矢口渡)も神妙に勤めて決して悪い出来ではないのだが、ちょっと陰りがある感じで・もう少しパアッとした華やかさが欲しい。やはり若女形にとっては華やかさは大事なことなのです。

そこで今回(令和5年9月歌舞伎座)の雪姫ですが、先ほどお舟について「ちょっと陰りがある感じ」と悪口を書いたけれども、それが雪姫ではしっとりと落ち着いた色気に見えて、これはなかなか良い出来であると安心しました。特に爪先鼠が良いですねえ。児太郎はラグビー好きだと聞きました。吉之助的には女形とラグビーはなかなか結び付かないのだが、ただしスクラム組んで下腹に力を込めてぐっと踏ん張るところなど、もしかしたら技芸的に共通点が見い出せるかも知れないなあと思いました。と云うのは、児太郎の爪先鼠での雪姫の台詞がよく下腹に力を込めていて素晴らしかったからです。例えば、

「ヘエあの大膳の鬼よ蛇よ、人に報ひがあるものか無いものか、喰ひ付いてもこの恨み晴らさいで置かうか」

「喰ひ付いてもこの恨み(ここまでを床が取り)晴らさいで置かうか」と台詞など、息が詰んでいて、とても良い出来です。「置かうか」は多くの女形が「おこう、カア〜」と泣きを入れて末尾を長く弱く引き伸ばすところですが、児太郎は「置かうか」できちっと息を止めています。だから雪姫に恨みの念・怒りの念があって、大膳に対しこれを晴らさんとする強い気迫を感じます。久しぶりに納得出来る雪姫を見たなと思いました。ここで泣きを交えてしまうと気合いが弱くなります。これでは爪先鼠の奇蹟が引き起こせると思えません。

「オオ誠に思ひ出せし事こそあり、自らが祖父の雪舟様、備中の国、井の山の宝福寺にて僧となり、学問はし給はず、とにかく絵を好き給ふゆゑ師の僧これを戒めんと、堂の柱にまっこのやうに縛り付けて折檻せしが、ひねもす苦しむ涙を点じ、足をもって板縁に画く鼠縄を喰ひ切り助けしとや」

ここでも児太郎は息が詰んで、二拍子のリズムテンポともに申し分ありません。この台詞では多くの女形がヒナヒナしてしまって難儀しますね。児太郎は息を詰めて腹からの発声が出来ているので・床(義太夫)との掛け合いが面白く、言葉のリズムの打ちが観客に確かに伝わります。義太夫の稽古をしっかりやっていると思います。このような発声を女形で聞くことは近頃珍しく、他の役者・立役にも見習って欲しいくらいのものです。(その多くが喉からの発声で・腹から声が出ていないのです。)児太郎の雪姫は、爪先鼠の場面を見るだけで価値が十分あると申しあげておきましょう。

(R5・11・5)


〇幸四郎初役の駒形茂兵衛・その3

そうやって役を検討していくと、細かいところで工夫すべき箇所が見えて来ると思います。例えば第2幕第1場布施の川べりですが、今は渡世人となった茂兵衛が老船頭とその息子が船作業をしているところで取手への道を訊ねます。

「(老船頭に)お仕事中を相済みません。取手へ参るのには、ここの渡しからでござんすか。それとも川下の渡しへ行った方がようござんしょうか。(中略)十年ばかり前に行ったことがあるのでねえ。お船頭さん、取手に安孫子屋という茶屋旅籠みてえなことをしてる家が今でもござんしょうか。

ここでは幸四郎の茂兵衛は渡世人らしく二人に対しており、普通に会話をしているように聞こえます。しかし、厳密に云うと、これだと股旅物のリアリティが出ないのです。渡世人(無宿人)が一般人に話掛けたら警戒されるのがオチです。彼らから見れば、茂兵衛はコワい人なのです。だから茂兵衛はへりくだって・必要以上に口調を丁寧にして、「絡んだり難癖付けたりいたしませんよ、ただ道を訊ねたいだけでございます」というところを前面に出さねばなりません。そうでないと道を教えてもらえません。老船頭は船戸の弥八の名前を出しますが、茂兵衛が弥八のことを知っているらしいと分かった途端、それ以上のことを言おうとしません。茂兵衛と弥八がどんな関係か分からない以上、滅多なことは言えないのです。後でどんな難儀なことになるやら知れません。そのような境遇に茂兵衛はなったのだと云うことを長谷川伸は会話のなかにさりげなく織り込んでいます。それが後場への伏線となっているのです。

幸四郎は前半(序幕)の取的さんの茂兵衛では素朴な味わいを出しており、如何にも頼りなげで、なかなか上手いものだと思います。しかし、後半(第2幕)の渡世人の茂兵衛は、感触が明るいとまで言わないが・屈託ない印象で、「負い目」の暗い影をあまり感じませんね。そこはもう少し工夫が欲しいのです。大事なことは、「しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」と云う幕切れのシーンを茂兵衛の「負い目」の頂点(クライマックス)として、そこへ向けてドラマの段取りをどのように取るかなのです。そのためには、回り道のようでも、長谷川伸の股旅物をいろいろ読んでみて、長谷川伸の主人公の共通したイメージを掴んで欲しいのです。そうすれば役の肚は個々のものではなくなり、もっと太いものに出来るはずです。これが歌舞伎の手法なのです

(R5・11・2)


〇幸四郎初役の駒形茂兵衛・その2

別稿「駒形茂兵衛の負い目について」に於いて、長谷川伸ものの主人公に共通する或るパターンに触れました。「一本刀土俵入」のみならず、「沓掛時次郎」にも「瞼の母」にも「暗闇の丑松」にも「刺青奇偶」にも適用出来る魔法の法則です。長谷川伸の主人公が共通して持つ暗い「負い目」と云うことです。茂兵衛の性根を「負い目」の観点から大きく掴む、ここから心理の細かいところを個々に掘り下げていく、そうすれば茂兵衛の肚を太く持つことが出来るのです。例えば、第二幕第二場「お蔦の家」で十年ぶりに茂兵衛がお蔦と再会する場面の台詞ですが、

「お見忘れはごもっともでござんす。茂兵衛でござんす。(中略)お約束を無にいたし、こんな者に成り果てまして、お目通りはいたさねえ筈でござんしたが、十年振りでこっちの方へ、流れてきたので思い出して、他所(よそ)ながらお尋ねしてえと、きょう小半日うろついて、それでも判らずにおりましたが、飲み屋の女が唄う鼻唄から気がついて、聞いてみたら女飴屋の口真似だとか、それを手蔓(てづる)に方々聞き、ここへ来てみると子供の声で、昔聞いた節の唄、お蔦さん茂兵衛はモノに成り損ねましたが、ご恩返しの真似事がいたしてえ。お納めを願います。(手早く金包を置く)

「茂兵衛はモノに成り損ねました」とは、直接には「お蔦との約束を果たせず横綱になれなかった」ことに違いありませんが、ただそれだけだと考えてはいけません。どうも幸四郎は(勘九郎も同じですが)そのように考えているように見えますが、そうではないのです。

「横綱になれなかった」ことは、恥じることではありません。横綱は相撲の世界の頂点で・限られた人だけが得る地位であり、一生懸命努力したってなかなか横綱になれるものではないのです。お蔦との約束を果たせなかったことは残念ですが、決して恥じることではない。お蔦だってそれを責めはしません。問題は、相撲の世界を離れた後・どういう経緯を辿ったかは分からないが、茂兵衛が無宿人(流れ者)の博打打ちにまで落ちたことです。そこにはやむを得ない事情があったであろう。そこは分かりませんが、茂兵衛は堅気にならなかった(なれなかった)、そこが問題なのです。「茂兵衛はモノに成り損ねました」とはそのような意味ですから、それは非常に卑屈な響きを帯びるものです。約十年の歳月のなかで渡世人として茂兵衛は幾たびの修羅場をくぐって来たことであろう。しかし、渡世人の世界でそんな苦労が出来たのであれば・・・「その同じ苦労をどうして堅気の世界でしてくれなかったのだい」とお蔦姐さんに叱られるかも知れない。それを覚悟で茂兵衛は今お蔦の目の前に居るのだという辛い気分が、幸四郎の茂兵衛からも・勘九郎の茂兵衛からもあまり伝わって来ないようです。

そのようなものは当時の社会制度・倫理観念と密接に絡むもので・令和の現代に生きる若者には理解し難いかも知れませんが、長谷川伸の主人公に共通した或る種のパターン・「負い目」を把握して・そこから役を彫り込んでいけば、役の性根の凡そのところは掴めるはずです。「肚を太く持つ」とはそう云うことで、このようにすれば役の性根の核心のところを外すことは決してありません。これが歌舞伎本来の手法であると思いますね。(この稿つづく)

(R5・11・1)


〇幸四郎初役の駒形茂兵衛・その1

本稿は令和5年9月歌舞伎座での、幸四郎初役の駒形茂兵衛による「一本刀土俵入」について書くものですが、吉之助が見た当日は幸四郎が体調不良により休演してしまって・勘九郎が代役を勤めました。勘九郎の舞台については別稿「駒形茂兵衛の負い目について」で書きました。そこで本稿では幸四郎の茂兵衛について、当月舞台映像による観劇随想として書くこととします。結果的に勘九郎と幸四郎と、ふたつの切り口から茂兵衛という役を眺めることになるでしょう。

まず幕切れの茂兵衛の最後の台詞「せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」ですが、勘九郎は末尾を張り上げて・長く引き伸ばしていましたが、幸四郎は引き伸ばしていません。新歌舞伎の様式(フォルム)からすると、これは幸四郎の方が正しいです。お蔦との約束を果たせず・横綱になれなかった茂兵衛は、恥ずかしくって「横綱の土俵入りでござんす」なんて・とても胸を張って言えないのです。負い目が茂兵衛を責め立てて胸がチクチクする。でもちょっとだけ言ってみたかったのです。これは腹から絞り出すように言うべき台詞です。

だから幸四郎の言い方はフォルム的には正しいのですが、しかし、幸四郎の茂兵衛は見た感じだと肚の持ち様がちょっと異なる気がします。これは台詞・仕草両方から来るものですが、肚が薄いと云うかまだ中途半端な印象です。どうも茂兵衛の「負い目」を切実なものとして表現できていない気がします。多分幸四郎は(勘九郎もそうですが)、正義の味方の流れ者(渡世人)がどこからかやって来てヒロインを助けた後・踵を返して颯爽と去っていく、カッコいいじゃないか・これが男の美学さ・・と思っている風があって、その背後にある「暗く重い影(負い目)」の存在を正しく掴めていないようです。フォルム的に正しくても、肚の持ち様が違っていれば、心情は正しく立ち上がらない。そんな一例を見た気がしますね。

これは大事なことだから申し上げたいですが、茂兵衛は茂兵衛であって・それ以外の誰でもない、だから役の解釈を個々の脚本から独自性を持つ人物として読み込んでいく手法もあると思います。そちらの方が近代演劇的なのかも知れませんが、これだと茂兵衛の解釈が他の役に適用出来ないのです。他の役をやる時にはまた一から作業をやり直しです。これに対して、役の性格を或るひとつのパターンで大きく掴み取って・そこから細部を彫り込んでいく手法もあると思います。多分こちらの方が歌舞伎本来の手法に近いだろうと思います。幸四郎は上手い役者ですが、幸四郎にしばしば感じる「肚が薄い・役の線が細い」と云う印象は、それが十分出来ていないところから来るように思えてならないのですがね。(この稿つづく)

(R5・10・29)


〇アンドラーシュ・シフ・ピアノ・リサイタル2023:その3

今回(2023年来日リサイタル)のトーク形式は、概ね好評のようでした。吉之助もシフ個人の「おもてなし」感覚が伝わってくるアット・ホーム的な感触を好ましく思いましたが、一部の方からは・音楽をよく知っている方からも、「ちょっと長過ぎた」とか「いささか疲れた」という声がないわけでもなかったようです。まあリサイタルは音楽を聴きに行くもの・拝聴するものと云うスタンスであるとトークは不要であろうし、シフの語り口(英語でしたが)は訥々ボソボソで・軽妙とは言えないものなので(加えて通訳の方はシフのご友人ということで専門の方ではなかったようで)、聞いていて疲れたというご感想も分からないことはないです。ともあれシフ自身は今回来日プログラムのなかで次のように語っています。

『近い将来、多くの演奏者たちが、この新しい形のリサイタルを行うことになると思います。何にもとらわれない自由な音楽表現が可能になりますし、演奏会が、より予測の難しい自発的な催しになるからです。(中略)今回も聴衆の皆様へ語り掛け、舞台と会場の間にある壁や柵を壊します。そうすることによって、お互いが、より親密になれるのです。』(アンドラーシュ・シフ:2023年来日リサイタル冊子)

ここでシフが強調することは、トーク形式によるリサイタルで、聴衆との心の交流を強く求めていると云うことです。これはコロナ以後の、将来の予測がまったく難しく、人と人との心の繋がりが希薄になっている時代であるからこそ、そうなるのです。シフがこれを「コロナ以後の時代の・新しいリサイタルの形」と云うのは、そのような意味です。そういう意味ではまあシフの「おもてなし」に向かない人が出ることも多分織り込み済でしょう。

このようなシフの試みは、先日(9月)南青山BAROOMで玉三郎が試みた「坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW」と似たようなものであろうと察せられます。ミューザ川崎は1,997席です。恐らくシフの意図を徹底しようとすれば、会場はもっと規模が小さいホールで行うことが望ましいでしょう。しかし、採算性という問題が裏腹に付きまといますが。BAROOM公演で玉三郎も「BAROOMは100席、ここで20日間公演して・これでやっと歌舞伎座の昼の部1回分の人数です」と言っていました。しかし、「おもてなし」感覚を大事にしようとすれば、こういう試みはやはり小規模の会場の方が望ましい。或いはいっそのこと・やり方によっては・時間も場所も飛び越えて・ネット空間の方が相応しいようにも思われます。

吉之助は思うのですが、もともと広場みたいなオープンな空間で行われていた芸能が、箱のなかの額縁(舞台)に収まって・客席との間に境界を設けて・大人数で鑑賞するなんてことになったのは、そうそう昔のことでないわけです。歌舞伎で云えば概ね江戸中期以降、西洋のクラシック音楽でも大ホールで演奏会を行うのは産業革命以降のことだと思います。次第に箱のサイズが大きくなって・それがピークに達したのが現在。芸能が元々行われていたサイズへ回帰しようとするのは、或る意味必然のことかも知れませんね。

現代アングラ演劇は小空間での開催が主流です。これは採算性(役者さんの生活がかかっている)という問題が付きまとうから妥協点を見出すのは容易なことではありません。やはり観客動員というのは興行では大事なことではあるのですが、それにしても、大劇場に大勢の観客を一か所に集めてイベント的に興行を行う形態は、もしかしたらどこかに綻びが生じ始めているのかも知れません。空席が目立つ昨今の状況を見ると、歌舞伎座(1、964席)での興行も微妙な段階に入っているのかなとも思えるのです。箱の大きさが、今後の歌舞伎の足枷になってくる不安がある。このような時期にBAROOMでの玉三郎の試みは示唆あることだと思います。

(追記)

別稿「コロナ以後の歌舞伎〜歌舞伎は今必要とされているのか?」もご参考にしてください。

(R5・10・29)


〇アンドラーシュ・シフ・ピアノ・リサイタル2023:その2

このトーク形式についてシフ自身は次のようなことを語ったそうです。

『コロナ・パンデミックの辛い時期にいろいろなことを考えました。クラシック音楽にはどんな未来が待っているのでしょう?予測可能なコンサートは良いことなのか?私たち演奏家にとっても、その日その会場、楽器によって条件が変わることすから、曲目の選択もそれによって自発的であるべきです。トークを交えることで聴衆と演奏者との壁を取り払えるのではないか。』(アンドラーシュ・シフ:2022年来日公演プログラム掲載のインタビュー)

事前にプログラム(曲目)を発表せず・演奏者が当日のリサイタルでトークをしながら曲を紹介し・その曲を弾く形式をシフが「コロナ以後の時代の・新しいリサイタルの形」と呼ぶ意味は、なるほどそう云うことかと気付かされます。

日本でコロナ・パンデミックが騒がれ始めたのは、2000年(令和2年)初めのことでした。2月の歌舞伎座での公演はどうにか行われましたが、各地の音楽会や演劇で関係者や観客の罹患のため中止が続発しました。2月26日には政府がスポーツ・文化イベントの開催自粛を要請する事態となり、3月の歌舞伎座の公演も全日程が中止になってしまいました。それでもみんなこの騒ぎも夏くらいには収まると考えていたと思います。世界的なパンデミック騒ぎがこれから3年近くも続くことになろう(今もまだ続いている)とは誰も想像しなかったと思います。

このような大変な時期にシフはちょうど来日中で、一部のリサイタルを中止せざるを得ませんでした。そこでシフは、残念ながらリサイタルを聴けなかった人のために、急遽インターネットのライヴストリーミングで無料のトークと演奏を行なうと発表して、3月14日午後8時にそれが行われました。時間は1時間ほどでしたが、シフの朴訥で暖かい人柄が伝わるいいイベントでありました。おそらくこの時の経験が元になって、現在の「新しいリサイタルの形」が生まれたのでしょうねえ。(この稿つづく)

*吉之助は当夜のイベントをライヴで聴きましたが、今調べたら、当夜の模様がYoutubeにアップされて聴けるのを見付けました。興味ある方は是非覧ください。通訳はシフ夫人である(ヴァイオリニストの)塩川悠子さん。曲目はバッハ・バルトーク・ブラームスの小品と、ベートーヴェンの告別ソナタ。(2000年・令和2年・3月14日・東京KAJIMOTOスタジオ。) なおシフのトークと演奏は映像20分頃からです。

(R5・10・24)


〇アンドラーシュ・シフ・ピアノ・リサイタル2023:その1

本稿は多分別稿「五代目玉三郎のこれから」の続編ということになるかも知れません。先日(10月1日)にミューザ川崎でのアンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルを聴いてきました。このリサイタルはユニークな形式で、事前にプログラム(曲目)を発表することはせず、シフ本人が当日のリサイタルでトークをしながら曲を紹介し・その曲を弾くという形式を取りました。シフはこれを、「コロナ以後の時代の・新しいリサイタルの形」と云うようなことを語ったそうです。

事前にプログラム(曲目)を発表しないと云う形式自体は昔もなかったわけでなく、例えば晩年のスビャトスラフ・リヒテルがそうでした。(もっともリヒテルはトークはしませんでしたが。)これはご本人の神経質な性格も起因したと思います。吉之助はリヒテルでショパンを聴きたかったのだが、当夜行ってみたら発表された曲は吉之助にまったく馴染みのない曲で、ひどくガッカリした記憶があります。シマノフスキのピアノ・ソナタであったかなあ・・今考えれば貴重な体験ではありましたが。まあ事前に曲目が分かっている方が切符を買う側(聴衆)としては安心である。曲目が知れないと・ちょっと躊躇う・と云うか何が飛び出るか緊張してしまう・・しかし、まあそんなところもシフの意図にはあったのかも知れませんねえ。リサイタル直前には・どんな場合もピアニストは緊張するものです。聴衆の方だってちょっとは緊張してもらいたいね・・そんなところはあったかも知れません。

実はこの形式はシフの来日公演では初めてのことではなく、昨年(2022)来日の時にもそうだったのです。しかし、曲目が何になるか分からなかったので、昨年は吉之助はシフのリサイタルに行かなかったのです。(リヒテルでの経験がトラウマになって尾を引いているのです。)その時のリサイタルでは、シフはトークを交えながら10曲ほどを弾き、時間は休息を含めて3時間半掛かり、夜7時開演で終演は10時半を過ぎたそうです。初台の東京オペラシティのリサイタルでこうだと、吉之助は帰りの電車が心配になって・最後の方は途中で席を立ったかもしれません。

それじゃあ本年(2023)シフ来日公演はどうして行ったのかと云うと、10月1日のミューザ川崎でのリサイタルは5時開演予定であったので、3時間半掛かっても帰りの電車は大丈夫だということだったので、安心して切符を買うことにしたのです。曲目が何になるかは依然として不安でしたが、結果的には、ロマン派中心のラインナップで、ブラームスの晩年の間奏曲、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」、メンデルスゾーンの「厳格な変奏曲」が並ぶということで、吉之助にとってはラッキーなことでした。(この稿つづく)

(R5・10・21)


〇令和5年10月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第2部・その6

今回(令和5年10月国立劇場)の「御殿」の菊之助のお三輪の型は、ほぼ玉三郎の型であると思います。玉三郎の行き方は疑着の相に絡む時代物の論理に固執せず、村娘のほのかな恋心の真実にスポットを当てようと云うものです。感触としてはあっさり風味です。この行き方は玉三郎の個性によくマッチしていますが、玉三郎がやるから良いと云う面もあって、役者によって向き不向きがあると思います。

本来の「御殿」はこれでもかと云う感じでお三輪を甚振(いたぶ)り・疑着の相へ向けての段取りをじっくりねっとり取るものだと思います。ただしそのようなイジめの場面は、見ている側(観客)にもあまり気持ちが良くないものです。だからそこの加減が難しいのですが、それが向く役者と向かない役者があろうかと思います。元々粘った芸風の六代目歌右衛門などはやはりじっくりイジめる段取りが向きだと思います。しかし玉三郎で同じことをやられると、見ている方がツラくなります。だから玉三郎型ではイジめと疑着の相への段取りをあっさり風味に変えるのは、さもありなんと理解します。ただし「それでこそ天晴れ高家の北の方」と持ち上げられてもお三輪には実感が全然ないわけなので、玉三郎型であると、お三輪の命が国家存亡の危機を救うために絡め取られていく時代物の非情の構図が淡く見えてしまいます。そこのところは玉三郎型では仕方ないと割り切る必要があるでしょう。それでも玉三郎は村娘のほのかな恋心の真実をしっかり描けているので、これがスパイスになって、最後のところでツーンと鼻の奥に来るものがある。これで「アア」と云う声が少しだけ出て、それでドラマとして持ち堪えると云うことでしょうかね。

本稿冒頭で菊之助のお三輪が「可哀想だが・哀れまでではない」と書きましたけれど、そうなる原因は複合的なもので、ここをこう直したら良くなると簡単には云えません。菊之助は可憐なイメージでお三輪のニンだと思いますが、菊之助のお三輪であると、玉三郎型の弱いところが透けて見えるような気がしますねえ。だから最後にスパイスが利いて「アア」と云う声が出るところにまで至らないのです。そこに玉三郎と菊之助の個性の微妙な違いがありそうです。そこのところを見極めてもらいたいですね。(同様のことは菊之助の「娘道成寺」にも云えると思っているのですがね。)いずれにせよ、いじめ官女のイジめの段取り、疑着の相表出への段取りにもう少し工夫が必要だろうと思います。前章で取り上げた「道行」幕切れの花道七三でのお三輪の表情など、もっともっと工夫をして欲しい箇所です。

芝翫の鱶七(後に金輪五郎)はスケールが大きく、芝翫の個性に似合っています。本人も気持ち良く演じているし、だから鱶七については良い点をあげられますけど、ちょっと憎まれ口をききますが、鱶七のように見掛けのスケールが大きく見えればそれで足る役ならば、まあこれで良いと云うことです。芝翫は「らしさ」に頼り過ぎるところがあって、芸風がちょっとメタボ(内臓肥満)のところがあって、キレが悪いと云うか・細やかな人間描写に於いて、芝翫に向きであるはずの時代物の役でも不満を感じることが少なくない。そこで鱶七については大きな不満はないけれど、ここをもう少し工夫してみたら如何かなと云う箇所を挙げておきます。

鱶七は大時代の役だと思っているようですが、これを漁師鱶七と金輪五郎と仕分ければ、前半の鱶七は世話の役なのです。大時代の金殿に、まったく場違いな世話の漁師が登場するミスマッチ、これが半二の意図したところです。それが体現出来る役者は決して多くはありませんが、「御殿」前半の鱶七はもっと軽めの世話に仕立てるのが本来だと思います。(二代目鴈治郎の鱶七の映像をご覧あれ。)もうひとつは、五郎がお三輪を突き刺す場面です。五郎はお三輪を憐れだと思うところはあっても・憎しと思う気持ちはまったくないのです。吉之助も歌舞伎ではエイヤッと一気に刀を突き刺す五郎しか見たことはありませんが、本来は一瞬のためらいがあって・心のなかで念仏を唱える気持ちがあって・お三輪に刀を突き刺すものです。工夫しようと思えば、工夫が出来る箇所はまだまだいろいろあるものです。

(R5・10・20)


〇令和5年10月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第2部・その5

疑着の相とは嫉妬の相のことを指しますが、恋したところが相手に別の想い人があって・嫉妬の念に駆られてしまうなんてことは結構起こりそうです。しかし、嫉妬する人ならば誰でも生血が入鹿を誅する効力を持つかと云えば、そんなことはない。お三輪は見掛けは普通の村娘ですが、桁違いの執着心を持つ特別な娘なのです。だからお三輪が「選ばれた」のです。多分「道成寺」の清姫を蛇体に変えてしまうのも、同じ様な資質です。「道成寺」説話では「女心の執着はコわ〜い」なんてことが言われますけれど、お三輪の方はいじめ官女に甚振(いた)ぶられたりするので・観客も「カワイソウ」の気持ちの方が先立ってしまって、そこのところが忘れられてしまい勝ちです。しかし、お三輪を悋気させたら凄くコわ〜い娘なのです。

金輪五郎に刺殺される直前・「あれを聞いては帰られぬ」でお三輪が表情をキッと変える場面がそれに当たるのはもちろんです。しかし、それ以前にお三輪の「コわ〜い資質」を暗示出来る場面はないだろうか。そう云うことを考えるのは、結構大事なことだと思いますね。そういう伏線が立たないから「御殿」で疑着の相が唐突な理屈になってしまって、「カワイソウ」な娘が無理やり殺されるだけの話になってしまいます。

そこで「妹背山・四段目」を眺めれば、それ以前にお三輪の「コわ〜い資質」が伺える場面は一箇所しかありません。それは「道行恋苧環」の最後の場面、求女の着物の裾に結びつけたはずの白い糸が切れているのをお三輪が発見してハッとする、花道七三での場面しかありません。しかも、「道行」の義太夫は既に終わっており、ここは完全な無言劇で行われるのです。半二は何ともシュールな手法を編み出したものだと思います。

この場面でのお三輪の気持ちは如何なるものでしょうか。下敷きになっているのは「古事記」の三輪山の苧環伝説ですが、本稿では詳しいことは省略します。大事なことは、愛し合う男と女の縁(えにし)が苧環に巻かれた麻糸に擬せられており、それを手繰っていけば・必ず想っているあの人に出会うことが出来ると云うことです。ギリシア神話のアリアドネの糸も同じ。その糸が切れていたとは、これはどういう意味でしょうか?これは神からあの人との縁を否定されたに等しいことです。「私はあの人のことをこんなに愛しているのに!ここでその糸が切れるなんてことがあっていいの!絶対許せない!」、そう云う気持ちになるはずです。ここでもうちょっと圧力が強くて・お三輪の心情が爆発していれば疑着の相はここで現れる、その寸前の状況なのです。

歌舞伎の「道行恋苧環」の最後の場面でこのようなお三輪の心情を垣間見ることは、残念ながらそう多くはないようです。吉之助の体験でも、それは玉三郎が「道行」のお三輪を人形振りで勤めた時(平成13年12月歌舞伎座)だけです。玉三郎の人形振りはこの時だけでした。その後の玉三郎のお三輪では同じことは起こりませんでした。

大抵の場合この場面は、「アア糸が切れちゃったか、エーイ悔しい」くらいなのです。物理的に糸が切れたのを怒っているだけのことです。今回(令和5年10月国立劇場)の菊之助のお三輪もそうですね。このことはとても残念です。そうではなくて、お三輪にとってまったく理不尽な・許せないことが、ここで起きたのです。私はあの人をこんなに愛しているのに・・これはまったくあり得ないことだ。この憤(いきどお)りを一体どこにぶつけたら良いの・・苛立つその気持ちをグッと呑み込んで、お三輪は求女の後を必死で追うのです。こうしてお三輪は御殿に辿り着く。しかし、御殿ではさらに屈辱的な事態がお三輪を待っていたと・・・「妹背山・四段目」のドラマはそう云うことですね。(この稿つづく)

(R5・10・19)


〇令和5年10月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第2部・その4

恋する女の弱みに付け込み、橘姫には十握の宝剣を奪わせ、疑着の相を顕したお三輪の生血を以て入鹿の魔力を奪おうとする、政治的野心でふたりの女性を翻弄する求女はまことに冷徹な政治家であると云う見方から、現代人は決して逃れることは出来ません。しかし、「妹背山・御殿」を読む時には、人に恋する個人的な感情がもっともっと大きな時代物の捧げ物の構図のなかに収斂されていく、その有り様に目を向けねばなりません。それは肯定でも否定でもありません。肯定か否定か・そのどちらに傾いても、人に恋すると云う・人間的な感情がどこか不純なものに映ってしまいます。お三輪の(橘姫の)心情のピュアなものを感じ取ってください。レフ・トルストイは「愛とは惜しみなく与えるもの」と言ったそうですが、それと同じことです。彼女たちの心情のピュアなものを感じて心が大きく突き動かされるから、思わずアアと声が出るのです。

今回(令和5年10月国立劇場)の「妹背山」・第2部を見ると、格別にどこが悪い・どこに不満があるわけでもないけれど、どことなく感触が淡くて物足りません。心が動かされないのです。それは、梅枝の求女・米吉の橘姫・菊之助のお三輪、現代人である彼らが、登場人物の感情を脚本そのままに素直に表現することに「これで良いのだろうか」と疑問を感じてしまうと云うか、躊躇(ためら)いを感じてしまうからでしょう。

それでも女たちは「求女さま恋し」の感情に寄りかかれるからまだ良いのです。求女役者は大変だナと察せられます。恋の全責任は求女に掛かって来ます。そもそも求女は奥に引っ込んでしまって何を考えているか最後まで分かりませんから。梅枝はその古風な感触で・このところ義太夫狂言の役どころで成果を上げてきました。例えば昨年(令和4年)10月国立劇場での「鮓屋」の維盛は「もののあはれ」に感応できるセンスがある・とても良い出来でした。求女は維盛とほぼ似た役どころと考えて宜しいかと思います。維盛には落人の悲哀がありますが、それくらいの違いでしょうかね。求女は梅枝に適役だと思いますが、ちょっと難儀しているようです。現代人には求女の恋の背後にある政治的な野心がどうしても気になる、だから求女という役が難しくなって来るのです。

ここは次のように考えてみたら如何でしょうかね。求女の恋の背後にある政治的な野心を忘れるのではなく、これを公人である求女が体現する「大義」として、「恋」と一体化するものだと考えることです。それは求女(藤原淡海=不比等)が持つ「色好み」の徳の「裏表」であると云うことです。「古典」に対し絶対的な信頼が持てないのならば、求女という人物を正しく描き切ることは決して出来ないでしょう。そこが現代人にとっての求女という役の難しさです。そして求女ほど難しくないかも知れませんが、橘姫・お三輪についても同様のことが言えます。古典」(この場合は半二が提示する「女庭訓」)に対して絶対的な信頼が持てないのであれば、橘姫・お三輪も演じることは難しくなります。(この稿つづく)

(R5・10・15)


〇令和5年10月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第2部・その3

杉酒屋の娘お三輪は隣に住む烏帽子折求女と恋仲です。ところが近頃求女のもとへ夜な夜な通ってくる女がいるらしい。お三輪は事の次第を糺そうとしますが、女が帰ろうとするので求女が追う、それをまたお三輪が追う、これが「道行恋苧環」の経緯です。

ここで求女実は藤原淡海ともあろう人が相手が誰か分からぬのに恋をするとは思えない、きっと相手が入鹿の妹橘姫だと知ってのことに違いないと推察することはもちろん出来ます。お三輪についても、求女はわざと姫との関係を見せつけて・お三輪に嫉妬の炎を燃え上がらせたのだろうと推察することも出来ます。こうして橘姫には入鹿が盗んだ十握の宝剣(とつかのほうけん)を取り返すように仕向け、お三輪からは入鹿討伐に必要な疑着(ぎちゃく)の相ある女の生き血を得る、求女は冷徹な政治家であると考えることも出来ます。ただし、これらはすべて「芝居を見た後から考えてみれば・・・」の話です。そのようなドラマの「必然」を逆から読むようなことをしてはいけません。

ところで色好みと云うと、漢語の「好色」と混同されて、近代人はこれを道徳的に良くないことのように考えてしまいがちですが、昔の人は決してそうは考えなかったと折口信夫が言っています。

色好みというのはいけないことだと、近代の我々は考えておりますけれど、源氏を見ますと、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、ということになっております。少なくとも、当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にいる人にのみ認められることなのです。そうでない人がすると、色好みに対しては、「すき心」とか「すきもの」とか云うような語を使いました。(中略)光源氏という人は、昔の天子に対して日本人の我々の祖先が考えておった一種の想像の花ですね。夢の華と申しましょうか。その幸福な幻影を平安朝のあの時分になって、光源氏という人にかこつけて表現したわけであります。(中略)色好みということは、国を富まし、神の心に叶う、人を豊かに、美しく華やかにする、そう云う神の教え遺したことだと考えておった。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月)

「源氏物語」のなかでは、光源氏が持つ、捉えがたい人物の大きさとか奥行きの深さ、徳の高さのようなもの、そのようなものが「色好み」というイメージで捉えられています。「妹背山」の求女(実は藤原淡海)も、またそのように考えねばなりません。求女が持つ徳の高さは、彼が体現する「大義」にも繋がります。求女が持つ徳に知らず知らずのうちに魅せられて、女たちは恋に落ちてしまいます。これらの恋は求女が意図したものでも何でもありません。女たちが勝手に求女に惚れたのです。惚れて来た女がたまたま入鹿の妹であったり、疑着の相を現わす資質の女であったりするのです。いろいろな伏線が絡み絡んで・思わぬところから入鹿討伐の段取りが整って行きます。このようなドラマの「必然」の流れを逆方向から読むことは出来ないのです。

「御殿」の場で十握の宝剣を奪って来いと求女から云われて橘姫は苦しみますが、結局、姫は、

「サア是非もなや。悪人にもせよ兄上の目を掠むるは恩知らず、とあってお望み叶へねば夫婦と思ふ義理立たず。恩にも恋は代えられず。恋にも恩は捨てられぬ。二つの道にからまれし。この身はいかなる報いぞ。(中略)オヽさうぢゃ。親にもせよ兄にもせよ我が恋人のためと言ひ、第一は天子のため、命にかけて仕おほせませう」

と言います。橘姫が「兄のため」・「恋人のため」と云う相反するテーゼを乗り越える為に、これは兄さんを裏切るのではない・「天子様のため」にすることだと自分に言い聞かせるかの如く聞こえます。これはそのように考えて良いと思いますが、そのような論理(ロジック)が成立するのも求女が持つ「色好み」の徳の高さゆえです。(この稿つづく)

(R5・10・13)


〇令和5年10月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第2部・その2

「浄瑠璃素人講釈」のなかの逸話ですが、杉山其日庵が「妹背山・金殿」の稽古に難儀して「なにさま六尺大の男にお三輪の真似は到底出来ぬよ」とボヤいたら、摂津大掾が目を剝いて怒り、

「アンタが真似をしようとなされますから出来ませぬ。(中略)けっしてお三輪の真似ではござりませんぞ。お三輪の心持になるのでござります。それには作者がお三輪の心持で文章を書いていやはりますから、アンタもその文章を読んで、お三輪の心持になって、習うた節(ふし)と詞(ことば)を稽古しなはるのでございます。それが出来ねば人ではございません。(中略)それが分からぬと云うのは、アンタの御熱心がまだ芸道の修業までになっていやはらぬのじゃ。」

*杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」(岩波文庫)

とこき下ろされたそうです。「それが出来ねば人ではございません」とまで云うのはちょっと驚きますが、要するにお三輪の心持になって文章を読めば他人事でなく彼女の気持ちが分かるはずでしょと大掾は言いたいのです。「お三輪は可哀想」ではまだ視点が第三者に留まっている、読み方がまだお三輪に寄り添うたものになっていないのです。そこを突き抜けるために「アア」が必要です。ポール・クローデルは、「あはれ」と言うのはあらゆる事物のなかにあって「アア」を作り出すものであると言いました。(別稿「クローデルの文楽」をご参照下さい。)「アア」を感じ取ることが「人として」大切なことです。大掾の言葉をそのようにお読みください。

一番宜しくないのは「お三輪は(橘姫も同様ですが)その恋を求女(実は藤原淡海)に政治的に利用されてしまった可哀そうな犠牲者である」という読み方です。こう云う読み方は如何にも時代物の捧げ物の構図(庶民の犠牲を為政者がゴッツアンと受け取る)に合致したかに見えますが、実はその上っ面しか捉えてはおらぬのです。現代に於いてはこの読み方から決して逃げられませんが、しかし、お三輪に寄り添うのであれば、今際のお三輪の台詞、

「のう冥加なや。勿体なや。いかなる縁で賤の女がさうしたお方と暫しでも、枕かはした身の果報、あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、忝い。とはいふものゝいま一度、どうぞお顔が拝みたい。たとへこの世は縁薄くと、未来は添ふて給はれ」

をその詞通りに受け取ってやらねばなりません。そのためにお三輪にとって求女とは如何なる存在であったかを考えてみる必要があります。(この稿つづく)

(R5・10・10)


〇令和5年10月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第2部・その1

国立劇場が建て替えられることになり、「初代国立劇場さよなら公演」の締めくくりとして、通し狂言「妹背山婦女庭訓」、先月(9月)は第1部、今月(10月)は第2部を上演して・これで閉場となります。第1部について別稿で触れましたが・第2部も同様(休憩含む上演時間3時間25分)で、一応通し狂言の体裁を取ってはいるけれども、これではボリューム的に甚だ物足らない。丸本時代物の重厚さを実感させるところまで至っていません。今回(令和5年10月国立劇場)の第2部は「御殿」を中心とするお三輪の件ですから、やはり最低でも杉酒屋から通してもらいたかったと思います。これからの歌舞伎での通し狂言はこんな感じで3時間半前後が標準の上演形態になって行くのでしょうか。しかし、これではもはや通し狂言とは云えない中途半端なものになりそうです。初代劇場もこれで取り壊しになるのですから、最後の最後に「通し狂言の国立劇場」のプライドを賭けて見せてやろうと云う意地があっても良かったのにと思うのですがねえ。

菊之助がお三輪を演じるのは二度目とのことですが、正確に云えば菊之助は平成25年・2013・3月新橋演舞場の時は「御殿」だけしか演じていないので、「道行」のお三輪は初役です。菊之助がこれだけしかお三輪を演じていないとは意外です(女形にとってとても大事な役であるし・ニンであると思うのに)が、(経緯は分かりませんが)滅多にない機会だから今回は杉酒屋から通してみようと云う話にならなかったところに、制作・役者双方の熱意不足を感じる気がします。何だか淡々とした「さよなら公演」でありましたね。

「淡々」と云えば、舞台の方も、何やら淡々とした感触がします。菊之助のお三輪・梅枝の求女・米吉の橘姫と云えば、若手花形クラスで三役を揃えるならば、これは近頃なかなかの顔触れだと云えると思います。形はそれなりにしっかり取れています。格別にどこが悪い・どこに不満があるわけでもない。しかし、全体として見ると、何だかあっさりして物足りない。義太夫狂言の修練不足と云うことが真っ先に脳裏をよぎります。そういう云うこともあるでしょうが、菊之助だけでなく周辺の役者も含めて・お三輪の悲劇について共感がいまひとつであるように思えるのです。菊之助初役の時に書きましたが、「お三輪が可哀想だが・哀れまでではない」という印象がしました。今回の印象が、10年前の舞台の印象とあまり変わっておらぬようです。正直言って、このことはちょっと残念です。つまり、お三輪の悲劇が理屈としては理解されているが、感情としてまだ共感されていないということ、多分この点が問題です。

「あはれ」とは、アア・・と思わず声をあげることです。それは肯定でも否定でもありません。心が大きく突き動かされるから、思わず声が出るのです。お三輪は求女のために殺されますが、その求女が実は藤原淡海であり、お三輪の死がもっと大きな時代物の捧げ物の構図のなかに収斂されていく、これでお三輪の個人的な・あまりに個人的な感情とどう折り合いを付けたら良いのか、そこで観客は思わずアア・・と声をあげてしまう、お三輪の悲劇とはそう云うものなのです。(この稿つづく)

(R5・10・10)


〇令和5年10月6日浅草公会堂:「翔の会」

浅草公会堂での鷹之助の自主公演「翔の会」を見てきました。本年は平成23年(2011)1月3日に81歳で亡くなった五代目富十郎の13回忌となるそうです。富十郎はかつきりとした芸風・明瞭な口跡で吉之助も好きな役者のひとりでした。武智歌舞伎の薫陶を受けた人ですから、武智鉄二の弟子を自認する吉之助にとって親近感があると云うこともあります。今回の「翔の会」では追善の意を込めて富十郎の短いプライべート映像(カメラに向かって富十郎が昔の思い出をひとり語りする)が上映されて、キビキビした・ちょっと気忙しい感じもある富十郎の語り口を懐かしく思い出しました。

富十郎の長男・鷹之助は現在24歳で・最近めきめき頭角を現してきました。今回の「翔の会」は、歌舞伎十八番の「矢の根」の曽我五郎と、これは富十郎を知っている方にとって忘れられない舞踊「二人椀久」の椀屋久兵衛を妹の渡辺愛子の松山太夫と一緒に踊るという意欲的なプログラムです。

「矢の根」は(二代目松緑が富十郎に伝授したそうですが)富十郎が松緑に伝授し・今回は松緑がお返しする形で鷹之助に伝授したと云うことで、こういう形で伝承が連なっていくわけですね。鷹之助は動きがキビキビして角々の決めの形も美しく、テンポが良いので・芝居の感触が重ったるくならず・楽しく見ることが出来ました。荒事と云うのは童子の心で演じるものである通り、ここは若さの良いところが出たと思います。

台詞についてはちょっとだけ注文を付けたいと思います。さすが父・富十郎譲りの声で発声が明瞭・甲の声もよく出て・最初はホウと感心しますが、ちょっとガナり過ぎの感があって、だんだん耳に煩くなって来ます。荒事は声を張り上げて元気よく怒鳴るものではなく(そう云う風に思っている役者が多いようだけれど)、狂言の流れを汲む「しゃべり」の芸なのです。端正さが大事、そうでないと「様式」になりません。「矢の根」のことばかり考えず、その発声で「勧進帳」や「助六」とか「鳴神」の台詞までも処理できるか、そこまで考えて欲しいですね。歌舞伎十八番の共通した様式を考えてみてください。勉強会なのだから、将来を見据えてそう云う試行錯誤をじっくりやって欲しいと思います。それと台詞を七と五で割ってしゃべるみたいな感覚が若干しますね。しっかり二拍子のリズムを踏んで・しゃべりの形を崩さず・急かないことです。(別稿をご覧ください。)

富十郎の「二人椀久」は、雀右衛門とのコンビで何度か見ました。実説の椀屋久兵衛と松山太夫の年齢は不詳のようですが、こういうお話はやはり久兵衛と松山コンビに若さのイメージがないとリアリティがない、と云うか面白くなりません。富十郎・雀右衛門はそこを芸の力で魅せましたが、鷹之助・愛子はそこを身体的な若さで魅せました。身体の若さそのものが放つメッセージというのはやはりあるものですね。

(R5・10・8)


〇令和5年9月歌舞伎座:「一本刀土俵入」・その4

雀右衛門のお蔦は、寂しさと云うか・うらぶれた哀しさは十分表現出来ています。そこは上手いものなのだが、そう云う心境にあるお蔦が偶然前を通りかかった情けない取的さんに優しい言葉を掛けてやる気持ちにどうしてなったのでしょうか。そこが大事だと思います。

お蔦はたまらなく人恋しかったのでしょう。誰でもいいから相手してもらいたかったのです。その相手がたまたま茂兵衛であっただけで、それは時が過ぎればすぐ忘れちゃう程度の「情け」であったのですが、この「たまらなく人恋しい」というところが大事なところで、そこが「自分は世間から見放された」と孤独を感じていた茂兵衛の心にビーンと響いたのです。

お蔦がそんな優しい心境になったのは、後から考えれば、それは行方知れずになってしまった辰三郎のことが原因したのであろうと察することは出来ます。しかし、序幕・我孫子屋の場の時点ではこのことは分かりません。しかし、このうらぶれた哀しい状況においては、「人恋しい」という感情は、どこか人生に対して前向きな(ポジティヴな)要素を孕んでもいるのです。それは、この世は真っ暗闇だけど・それがあるならば「人生は決して捨てたもんじゃない」と云う「強さ」にも通じ合うものです。長谷川伸ほど名も無き庶民の哀しみに優しい眼差しを向けた劇作家はいませんでした。

雀右衛門のお蔦はうらぶれた哀しさは十分に表現出来ていますが、そこの域に留まっちゃっている感が若干しますねえ。人生に対して前向きな「強さ」をもう少し前面に押し出してもらいたいと思いますね。これは茂兵衛に対する前向きなメッセージになるものです。この殻を破れるかどうかは、役者雀右衛門の今後にも関わってくることだと思います。

(R5・10・6)


〇令和5年9月歌舞伎座:「一本刀土俵入」・その3

ここまで「横綱の土俵入りでござんす」の末尾を張り上げてはいけない理由の心情的分析をしてきましたが、もうひとつの理由は末尾を強く張ってしまうと、この後、お蔦からもらった巾着を取り出し・心のなかでお蔦に謝る場面の情感がかき消されてしまうからです。ところで生前の十八代目勘三郎が勘九郎(当時は勘太郎)に茂兵衛のこの台詞を教えている映像を見た記憶があります。(平成23年11月4日フジテレビ放送「中村勘三郎・復帰への日々」)

「しがねえ姿の、横綱の土俵入りデーゴーザーンスーゥー。(と長く引き伸ばし張り上げ)中村屋ッ(と自分で掛け声を掛ける。)」

とやっていましたねえ。今回(令和5年9月歌舞伎座)の勘九郎は、亡き父の教えた通りやっていました。まあ十八代目勘三郎がこの末尾を張り上げずにいられなかったところに役者勘三郎の熱さを聞く気がするのも確かですけれど、これだと全然「しがねえ」が利いて来ないのです。(掛け声に至っては論外と云うべきで。)ここは幕切れのしみじみとした情感を大切にしてもらいたいですねえ。そのためには「一本刀」だけでなく・他の長谷川伸作品にも目を通して、そこから浮かび上がる長谷川伸の様式(フォルム)を正しく理解せねばなりません。

勘九郎の茂兵衛には、もうひとつ気になることがあります。序幕はもっさりした情けない取的さん、二幕目は颯爽とした粋な渡世人という変わり目をはっきり見せるのがこの役の勘所だと考えているかに見えますね。そう云うことならば上手いことは上手いのだが、早替り芝居ではないのですから、この二つを描線の太さで結び付けて、ちゃんと連続した同一人物に見せねばなりません。そこに茂兵衛の歳月を感じさせてもらいたいのです。約十年の歳月のなかで渡世人としての茂兵衛は幾たびの修羅場をくぐって来たことでしょう。茂兵衛の身のこなしを見ればそれが分かります。しかし、それは決して自慢することではないのです。渡世人の世界でそんな苦労が出来たのであれば・・・「その同じ苦労をどうして堅気の世界でしてくれなかったのだい」とお蔦姐さんならば茂兵衛に意見をしたに違いない。予期せぬ事態からお叱りを受ける余裕とてなかったけれども、もしかしたらお蔦に叱ってもらうために茂兵衛はここまで来たのかも知れませんね。そう云うこともちょっと考えてみたら如何でしょうか。(この稿つづく)

(R5・10・5)


〇令和5年9月歌舞伎座:「一本刀土俵入」・その2

第二幕第二場「お蔦の家」で十年ぶりに茂兵衛がお蔦と再会する場面の台詞を引きます。

「お見忘れはごもっともでござんす。茂兵衛でござんす。(中略)お約束を無にいたし、こんな者に成り果てまして、お目通りはいたさねえ筈でござんしたが、十年振りでこっちの方へ、流れてきたので思い出して、他所(よそ)ながらお尋ねしてえと、きょう小半日うろついて、それでも判らずにおりましたが、飲み屋の女が唄う鼻唄から気がついて、聞いてみたら女飴屋の口真似だとか、それを手蔓(てづる)に方々聞き、ここへ来てみると子供の声で、昔聞いた節の唄、お蔦さん茂兵衛はモノに成り損ねましたが、ご恩返しの真似事がいたしてえ。お納めを願います。(手早く金包を置く)

「あの時の約束(わしは石に咬りついても出世して横綱になります)を違えて、こんな者(無宿の博打打ち)に成り果ててしまい、とてもお目通り出来る柄ではないが、こんな俺にもあの時のご恩返しの真似事をさせて下せえ」と云うわけです。茂兵衛の「負い目」はふたつあります。ひとつはお蔦との約束を違えて相撲取りとして出世出来なかったこと、もうひとつは堅気にならず(「なれず」かも知れないが事情は分かりません)博打打ちになってしまったことです。だから茂兵衛が十年ぶりにお蔦に会いたいと思ったのは、厳密に云うならば「謝りたかった」と云うことなのです。お蔦に知って欲しいことは、「あの時の御恩を片時も忘れたことは御座いません」と云う・これだけです。ご恩返しは口実、あくまで「真似事」です。と云うことは、茂兵衛のあの有名な幕切れの台詞はどのように響くことになるのでしょうか。

「ああお蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす。

つまりこれは最後の「横綱の土俵入りでござんす」を声を張り上げて言ってはいけないと云うことです。茂兵衛にとってこれは恥ずかしくて言えない台詞です。だって茂兵衛はお蔦との約束を違えてしまったのですから。だから言えた柄じゃないのだけど、でもちょっとだけ言ってみたかったのです。姐さんの目の前で「横綱の土俵入りでござんす」って正々堂々声を張り上げて言ってみたかったなあ・・グスン(涙)スミマセンお蔦さん・・と心のなかで言うということですね。この幕切れこそ長谷川伸です。(この稿つづく)

(R5・10・4)


〇令和5年9月歌舞伎座:「一本刀土俵入」・その1

本稿は、令和5年(2023)9月歌舞伎座での「一本刀土俵入」の観劇随想です。この公演の駒形茂兵衛の本役は幸四郎でしたが・吉之助が観た日(22日)は幸四郎が体調不良のため休演で、急遽勘九郎が代役を勤めました。勘九郎は勘太郎時代に茂兵衛を2回勤めていますが、茂兵衛を演じるのは久しぶりのことです。

ところで舞台について触れる前に、ちょっと考えてみたいことがあります。10年振りに取手の宿を訪ねて、茂兵衛は何をしたかったのかと云うことです。

長谷川伸の主人公は、例えば沓掛時次郎や番場の忠太郎のような、渡世人が多いことはご存じの通りです。ここに或るパターンが存在します。長谷川伸ものの主人公はどれも愛する女を幸せにしてやりたい気持ちが人一倍強い。しかし、自分は女の愛情を受けるに値しない駄目な野郎だという負い目も、これまた人一倍強いのです。男は、女の幸せにふさわしくない自分をずっと責め続けています。だからここでやっと二人の幸せが来ると云う場面になると、男は女に気付かれないように静かに身を引くというパターンが多いようです。

ヒロインは悲惨な境遇に置かれています。男にはそこから女を何とか救い出す力がある(多くの場合、それは腕力ですが、なにがしかの金である場合もある)。そこで女を助けるわけですが、目の前の問題が解決されてしまうと、男は急に現実と向き合わねばならないことになる。そうすると今度は自分に付きまとう「負い目」という奴が気になって来ます。負い目がある以上、女との幸せは決して長くは続かない、自分は女を幸福にする資格がないことを男は分かっています。そこで「負い目」が露呈する前に、男は女の元から去ってしまう。こうすることで美談は美談のままで終わり、男の行為の「粋」は保たれる

「一本刀」の場合、お蔦は茂兵衛のマドンナですが・「愛する女」(恋人とか女房)ではありませんけど、茂兵衛もまた、上述のパターンに乗ることをまず押さえておかねばなりません。茂兵衛はあの時お蔦姐さんに受けた恩を決して忘れることがありませんでした。しかし、十年振りに姐さんに会うということは、「あの時の御礼がしたい」と云うような単純明解なものに決してならないはずです。そこは長谷川伸ものですから捻りが利いている、と云うか屈折したものです。それは茂兵衛に「負い目」があるからです。このため茂兵衛は「あの時の御礼がしたい」と素直に言えなくなっています。それでも「あの時の御礼がしたい」のです。「一本刀」の幕切れでは、そこのところを押さえて置きたいですね。(この稿つづく)

(R5・10・2)


〇令和5年9月歌舞伎座:「連獅子」

この数年「連獅子」がよく出ますねえ。あちらの家が出すならウチの子も・・となってるみたいですが、それぞれの組み合わせの背後にそれぞれのストーリーがあって、どれも興味深いことではあります。今回(令和5年9月歌舞伎座)は、二代目吉右衛門三回忌追善ということで孫の丑之助が父・菊之助と共に「連獅子」を踊ります。

丑之助に感心するのは、「雰囲気を持っている」と云うことです。上手いとか一生懸命とか云うのを超えて、作品が持つ何ものかに感応するセンスを持つと云うことです。これは教えて得られるものではなく、かけがえのない資質です。昨年(令和4年・2022)10月国立劇場での「千本桜・大物浦」での安徳帝は、帝と臣下である知盛との関係を正しく見せて、ホント感心しました。今回(令和5年9月歌舞伎座)の子獅子を見ても、「連獅子」のなかの或る種ストイックなものを雰囲気に漂わせています。舞台を見ながら「丑之助のこの踊りを吉右衛門に見せたかったなあ」ということをフト考えてしまいますね。いつもよりも子獅子の方に目が行くことが多かった気がします。

そのせいか、こんなことも感じました。菊之助の親獅子は立派なものです。勇壮な形容であるし・動きも申し分ないし、ケチ付けるところは無さそうだけれども、敢えてひとつだけ注文を付けましょうか。この丑之助の子獅子に対する親獅子としては、もう少し「雰囲気」が欲しい気がします。完璧過ぎてちょっと冷たい印象がしますね。熱さと云いますかね、完璧さを破綻させる何ものかが欲しい。千尋の谷に突き落とされた子を気遣う親の気持ち、生還した子を見つけた時の喜び、そこに何らかの感情の破綻が欲しいのです。要するに「取り乱して欲しい」と云うことです。(付け加えれば、昨年(令和4年)2月歌舞伎座での「鼠小僧」観劇随想のなかで三吉(丑之助)の台詞に対し幸蔵(菊之助)はもっとはっきり生(なま)な反応をして欲しいと書きましたが、これと同じことですね。)理知的で制御の効いた音羽屋の芸に菊之助が何か付け加える必要を感じていたとすれば、菊之助が岳父・吉右衛門の芸に見出した憧れと云うものはそう云うものだろうと思いますが、如何でしょうかね。

(R5・9・27)


〇令和5年9月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第1部・その3

時蔵初役の定高が、なかなか良い出来です。定高という役は男に負けない女丈夫の印象がどうしても前面に出ますが、その強さは家を必死に守る未亡人が「女だと思って決して侮られまいぞ」と身構えたところから来るものです。定高は本質的には情の深い・か弱い女性です。弱さを隠そうとして殊更に強く出ると云うことです。そのような女の強さと弱さのバランスが大事、と云うよりも強さと弱さは表裏一体になるもので、或る時は強さの面が出て・また或る時には弱さの方へ返ると云うことかと思いますね。時蔵の定高の良いのは、「花渡し」前半の大判事に対し居丈高に出るところも、「吉野川」後半の娘に対する母の情愛もひとつの流れのうえで見せたことです。

玉三郎に役を教わったそうですが、玉三郎の教えに時蔵の持ち味である古風さがミックスされて良い塩梅に仕上がりました。玉三郎の定高はしっかり筋道を踏まえて論理的に詰めていく印象であったと記憶します。そこに当時の女の道徳(婦女庭訓)の強さを感じさせたものでした。(別稿「ピュアな心情のドラマ」を参照ください。)時蔵の定高であるとそれは母の情愛で包まれた印象になるけれども、背後に婦女庭訓があることは確かに分かるのです。

一方、若いカップルには、少々注文があります。梅枝はこのところ典侍の局篝火維盛など丸本物で忘れ難い印象を残しているので・今回の雛鳥も期待しましたが、神妙に勤めてはいますが、憂いの表情がちょっと強過ぎる。定形のお姫様の印象に落ちてしまった感じで、そこはちょっと残念でした。春日野小松原で恋の危険なトキめきをもっと強く表現して欲しいですねえ。この不満が続く「吉野川」へも尾を引いています。これは萬太郎の久我之助にも同様なことが言えます。萬太郎も頑張っていますが、ちょっと表情が硬い印象がしますね。目線の置き方と口元の表現を工夫すれば、いい久我之助になると思います。

小松原の場は「菅原」の加茂堤や「新薄雪」の清水寺花見と同じであると考えて欲しいと思いますね。大事なことは、春日大社の神域において恋を囁くことの禁忌・そして誘惑です。恋の喜びが、晴天に黒雲が掛かるように、一転して不吉な影が差してくる、そのような場です。そのなかに、或いはそれ故にと云うべきかも知れないが、抗し難い恋の喜びがあるのです。「吉野川」のドラマのモデルになった実説の源太騒動(げんだそうどう)の娘やえですが、その死首はうっすらと笑みを浮かべていたと伝えられています。(詳しくは別稿「ますらおぶりの情緒的形象」を参照ください。)雛鳥の首もきっと微笑んでいたはずです。これは恋の成就なのです。観客にそのように想像させるようにお願いしたいと思います。

(R5・9・25)


〇令和5年9月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第1部・その2

松緑初役の大判事は、この人の描線の太いところ・と云うか武骨な持ち味が生かされるならば、これまでの大判事とひと味違ったものが出来るかも・・と云う期待を以て見ました。

そもそも歌舞伎の大判事は、どちらかと云えば情の深い人物として描かれることが多いようです。「吉野川」をベースに役作りするならば、そうなることは理解出来ます。歌舞伎では「吉野川」が単独で上演されることが多いから、そうなりやすいのです。しかし、「吉野川」冒頭を読むと、入鹿に対し恭順な態度を崩さない父親(大判事)に久我之助は強い不信感を抱いていることが察せられます。(この件については別稿「久我之助から見た「吉野川」」で論じたので・そちらをご覧ください。)久我之助は孝行息子ですから・あからさまな反抗はしませんが、息子から見ると・大判事は頑固一徹なところがあるのです。それは大判事が家の存続を思うが故ですが、親子間に微妙な立場の違いが見えます。「吉野川」はそのような親子が最終的に和解するドラマでもあるわけですが、「吉野川」の仮花道からの登場だけで大判事のそのような状況を描き出すのは、無理なことです。

だから、頑固親父の大判事の性格を描くために、「花渡し」の場が大事なことになると思います。ところが、「吉野川」をベースに役作りをすると、「花渡し」での定高との対決での印象が弱くなりやすい。例えば昭和49年(1974)4月国立劇場の「花渡し」でも、あの芝居巧者の八代目幸四郎でさえ、六代目歌右衛門の定高に対し終始押され気味の印象になってしまいました。ここらが通し狂言での大判事の役作りの難しいところです。

そう云うわけで、通し上演の場合「花渡し」を起点に大判事を頑固親父に描くことで、「吉野川」がいつもと違った様相に見えて来るかも知れません。そこで今回(令和5年9月国立劇場)の松緑初役の大判事を見ると、「花渡し」では、時蔵の定高に対し気合いで決して負けておらず、なかなか興味深いものがあります。いつもの癖の強い台詞回しも、ここでは如何にも頑固な大判事らしく聞こえて、それで徳をしています。亀蔵の入鹿も凄みと云う点では課題はあるけれど、ストレートな印象が時蔵・松緑とよくマッチしており、この「花渡し」はなかなか面白いトライアングルになりました。

しかし「吉野川」の大判事の方は、まだまだ工夫の余地がありそうです。役の性根としては、決して間違ってはいません。しかし、熱演のあまり、台詞回しの癖がますます強くなって、聞いていてとても暑苦しい。ひとつ気になるのは、吉野川を挟んで妹山と背山、遠く離れているから声を向こうへ届けないと・・と思っているのではないかと云うことです。これはまったく無用なリアリズムだと思います。

冒頭の久我之助と雛鳥の対話は、無慈悲な吉野川の急流に阻まれます。確かにここではいくら声を張り上げても相手に聞こえない距離感です。しかし、両花道での定高と大判事との渡り台詞では、観客の心理的なクローズアップが効いて来ます。終盤の雛渡しにおいては、さらにカメラは近くなり、妹山と背山の距離感が喪失してしまいます。雛渡しにおいては吉野川の流れは、もはや久我之助と雛鳥の二人を繋ぐ優しい流れなのです。「吉野川」のドラマでは、そのような段階的なクローズアップがされているのです。距離感を意識して台詞を言う必要はまったくないと思います。

付け加えれば、ひとまず「吉野川」の幕は閉まりますが、大判事にはまだ大きな仕事が残っているのです。それは入鹿に子供たちの首を見せて、宣戦布告を叩きつけることです。大判事の勝負はこれからですから、今は泣いているわけに行かないのです。怒りを腹に押し込んで、これを来るべき戦いのための起爆剤とせねばなりません。「あれほど思いつめた嫁、なんの入鹿に従おう」は誰に対して言う台詞でしょうか。これは自分に言い聞かせる台詞です。言いながら自分の胸のなかに怒りを増幅させて行く台詞です。激して叫ぶように言われるものではなく、自分の腹に怒りを押し込むように言って欲しい台詞です。それでこそ頑固一徹な大判事の性格が貫徹出来ると思いますがねえ。松緑の大判事はセンチメンタルに過ぎて頑固親父に徹し切れていないようです。

もうひとつ申し上げると、別稿「団十郎襲名興行の助六」(令和4年11月歌舞伎座)でも触れましたが、大事なことは、身の丈にあったテンポでしっかり二拍子を踏んで「しゃべりの芸の原点」に立ち返ることだと思います。長台詞を勢いよくまくしたてようとするから、声が上ずってしまいます。あの時の松緑の意休の発声は悪くなかったと思います。大判事も同じようにやって欲しいと思いますね。(この稿つづく)

(R5・9・21)


〇令和5年9月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」・第1部・その1

現在の国立劇場(初代)は、新劇場へ建て替えの為近いうちに取り壊されることになります。「初代国立劇場さよなら公演」の最終として、通し狂言「妹背山婦女庭訓」(第1部が9月・第2部が10月公演)が始まりました。国立劇場は昭和41年(1966)開場当初から「通し狂言を心掛ける」ことをポリシーのひとつに掲げています。57年前の開場記念公演は2か月続きの「菅原伝授手習鑑」通し上演でした。今回のさよなら公演も、これに則った形で2か月続きの「妹背山」通し上演です。それはもちろん結構なことですが、50有余年の歳月は、実は歌舞伎興行を巡る様々な環境の変化を伴ってもいるのです。

今月(9月)の「妹背山」・第1部は小松原・太宰花渡し・吉野川の三場構成で、久我之助・雛鳥の件に関しては筋を完結しています。上演時間は2時間45分(休憩時間込みだと3時間35分)になります。これを歌舞伎座の夜の部・午後4時半開演に当てはめますと、午後8時5分に終わると云うことです。これだと夜の部としては物足りない気がします。コスパがあまり良くないと云うことです。一方、来月(10月)・第2部はまだタイムテーブルが出てませんが、道行・御殿・大詰(奥殿・入鹿誅伐)の三場構成で、恐らく上演時間は休憩込みで4時間以内です。とすると歌舞伎座の夜の部だと終演は午後8時半になるわけですが、これもコスパ的にはちょっと不満だが・まあこれは仕方ないかとも思います。吉之助が考えるのは、これからの歌舞伎の通し上演は、よくも悪くも・こんな感じで3時間半から4時間程度の上演形態になっていくのだろうなと云うことです。

これを50年前と比べると、昭和49年(1974)4月国立劇場での吉野川をメインとする「妹背山」では、今回の三場の間に、二段目(猿沢池・芝六住家)が挟まります。これが凡そ95分なので、休憩を含めると5時間を優に超えてしまいます。また昭和44年(1969)6月国立劇場での御殿をメインとする「妹背山」通し(六代目歌右衛門の国立初登場でした)は、今回の三場の前に、序幕として「蝦夷子館」(えみしやかた)が付いて・これが凡そ70分掛かりますから、休憩を含めるとこれも5時間を優に超えます。その昔は、こう云う形の上演が出来たわけです。吉之助の記憶でも昔は歌舞伎座の夜の部の終演は大体9時前後で、時には9時半を大きく過ぎることもありました。今はこう云うのはお客に好まれないでしょう。帰りの電車が気になると云うよりも、観劇で5時間も拘束されるのがとても「モタナイ」と云うことかと思います。まあ芝居が面白ければ・そう云うのは消し飛ぶのだが。

そう考えるとあの「仮名手本忠臣蔵」の、歌舞伎座・夜の部の定番の組み合わせと云うべき、五・六・七段目に討ち入り(十一段目)という上演さえも、令和の現在では、ギリギリか・もはや危ないところに差し掛かっていると云うことです。イヤイヤ厳しいことになってきたなと思いますね。昔はこれに加えて八段目までもやったものでしたが。これから歌舞伎座での通し上演はますます厳しいことになりそうですね。

吉之助が思うには、今回の国立劇場での「妹背山」・第1部は久我之助・雛鳥の二人の恋の成就に関しては確かに筋を通している、が通し狂言としてはボリューム的に腹持ちが今ひとつである、だから大化の改新の厳しい政治状況(時代物の構図)を描くところにまで迫れていない。とは云え、昨今の歌舞伎興行の現状を思えば、これに加えて芝六住家をやるべしなんて言えないことも明らかなのです。

そう云うわけで今回の「妹背山」・第1部は、休憩込みで3時間半と云うのは、吉之助には通し狂言と云うよりも「半通し」のもの足りなさがあるので、小松原と花渡しの間の休憩を無くして・追い出しに何か別に短い舞踊でも付けて欲しい気がしますが。(歌舞伎座は二部制ですが)幸い国立劇場は一部制だから、時間的な無理が少しは効くはずですから、現状と折り合いをつけた形で今後在るべき「演目建ての在り方」を模索して欲しいと思いますね。(この稿つづく)

(R5・9・20)


〇さよなら国立劇場・その2

国立劇場は足回り(交通アクセス)は東銀座と比べればちょっと不便かも知れませんが、劇場としては舞台が見やすいので、吉之助は割と気に入っていました。三等席からでも花道七三がちゃんと見えることは、歌舞伎ではとても大事なことなのです。それは若いお客を大切にしていると云うことです。若き日の吉之助ももっぱら三等席で歌舞伎を見てきました。建て替え前の・先代の歌舞伎座(第四期)は三階席からだと・席から立ち上がらないと花道七三がまったく見えませんでした。現在の(第五期)歌舞伎座は多少改善がされましたが、まだ十分とは云えません。ただし三等観客席の傾斜度と・舞台からの距離との兼ね合いもあるので・歌舞伎座が悪いと一概に言えませんが、新劇場も舞台の見やすさにはこだわって欲しいと思います。

もうひとつ国立劇場で吉之助が気に入っているのは、ロビーが広いことです。劇場通いの愉しみは芝居を見るのはもちろんですが、休憩中に展示を見たり・売店をのぞいたり・ブラブラするのも大事なことなのです。昔の劇場機構は・金毘羅歌舞伎の金丸座を見てもそうですが、木戸をくぐって・履物を脱いで上がるとすぐ観客席になりますから、客が休憩中にロビーをブラブラすると云う発想が、日本では伝統的になかったようですね。そう云う時は芝居小屋の外に出るものだったのでしょう。現在の京都南座などもそんな感じです。しかし、西洋であると近代以後の劇場は社交場でもあるという考え方なので、ロビーが広めなところが多いと思います。将来的に外国人観光客の歌舞伎見物が増えることを考えると、国際標準でもないが、歌舞伎専用劇場でもやはりロビーをゆったり広く取ることが望ましいです。現在の(第五期)歌舞伎座は用地買収が上手く行かなかったのかも知れませんが、国劇の殿堂としてはちょっと残念な印象です。二代目の国立劇場も現在規模くらいのロビーは維持してもらいたいと思います。

(R5・9・17)


〇さよなら国立劇場・その1

「初代国立劇場さよなら公演」、通し狂言「妹背山婦女庭訓」(第1部が9月・第2部が10月公演)が始まりました。現在の国立劇場(初代)は近いうちに取り壊され、新劇場(二代目)が再開場するのは、令和11年(2029)秋頃の予定だそうです。とは云え、本年8月8日報道によれば、新劇場建て替えのための事業者選定(入札)が2回目もまた不成立だったと云うことなので、現状建て替えの目処が立っていないわけなのだが、気が付いたら新劇場開場がズルズル遅れていたなんてことがないようにお願いしたいですね。閉場中の歌舞伎興行の代替えは初台にある新国立劇場中劇場で行われると聞いています。文楽も代替え興行があるそうです。

まっそれは兎も角、国立劇場(初代)開場が昭和41年(1966)11月のことですから・あれから57年の歳月が流れたわけです。国立劇場が伝統芸能としての歌舞伎啓蒙に果たした貢献を過少評価することは決して出来ません。思い返せば、吉之助が初めて国立劇場公演に行ったのは、昭和48年(1973)7月歌舞伎鑑賞教室のことでした。演目は、十二代目団十郎(当時は海老蔵)の粂寺弾正による「毛抜」でした。解説は十代目半四郎であったと思います。これは学校団体で行ったのではなく個人で切符を買って行ったもので、これが吉之助にとっての歌舞伎初観劇ではありませんが、歌舞伎十八番ならば教養として絶対見ておくべき重要演目だろうと思って行ったのです。ところがパンフレットを見たら「忠臣蔵」も「千本桜」も歌舞伎十八番ではないんだってさ、「へーそうなの?」と驚いたくらいです。そんなところから吉之助の歌舞伎観劇も始まったわけでしてね。歌舞伎鑑賞教室で歌舞伎を初めて見た学生・若者は57年を通算すれば相当な数でしょう。歌舞伎を見たのはそれっきりという方は多いだろうが、「歌舞伎を見たことがある」という事実はしっかり残ります。それで良いと思いますね。そのなかから伝統芸能に親しむ方が少しでも育ってくれればそれで宜しいことです。

しかし、これはどうにもならないことですが、他劇場で代替え興行が続くとは云え、国立劇場閉場は、歌舞伎にとってあまり好ましいタイミングでないことになりそうですね。歌舞伎興行がコロナ騒動の痛手から未だ回復していない。平成歌舞伎の幹部俳優が(先年は吉右衛門が亡くなり)ちょうどこれから年齢的・体力的に厳しい時期に差し掛かる。このところの(歌舞伎の牙城であるべき)歌舞伎座の演目建てを見ると、松竹が何を考えているのか分からない迷走振りです。目先のことばかりで、10年後・20年後のことを考えていないみたいですねえ。吉之助の周囲に「歌舞伎座で見たい演目・顔合わせが全然ない」とお嘆きの歌舞伎ファンが大勢いらっしゃいます。それだけ興行的に苦しい場面に直面しているとお察しはしますが、ホントに演目建てが薄い印象になりました。こうなってしまったのは今より以前の20〜30年くらいに遠因があると思いますが、松竹の技芸継承戦略の不備をどうにか補っていたのが国立劇場であったと思います。このところの菊之助の成長は国立劇場のおかげだと言って過言でありません。松竹のなかに国立劇場を巻き込んだうえでの・しっかりした技芸継承プログラムが出来ていれば、伝承の現状はもう少しマシであったろうと思います

今月(10月)の「妹背山」通しも松緑の大判事・時蔵の定高ともに初役と云うのは、本来もっと早くに経験させておかねばならなかったことですが、そうであってもようやく実現したのは国立劇場ならではのことで、松竹はこのことを感謝せねばならないと思います。吉之助が危惧するのは、国立劇場閉場中の期間(6年間)に、このような歌舞伎の技芸継承がどのくらい機能するかと云うことです。この6年の間に歌舞伎が大きく様変わりすることは明白であるからです。そんなことを考えるとあまり良い絵が浮かんでこないのだが、・・話題を変えますかねえ。(この稿つづく)

(R5・9・13)


〇令和5年9月・南青山BAROOM:「坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW」・その2

南青山のBAROOMは、バールームではなく・バルームと呼ぶそうです。円形の空間に包まれて演者と観客が一体となって浮かび上がるイメージを込めた名称だそうです。風船(Ballon)と掛けた造語かも知れませんね。BAROOMはステージを約100人の客席が円形に取り囲む形式で、普段は小編成のジャズ・コンサートなど行なう小空間かと思いますが、バレエと三味線のコラボレーションが試みられたこともあるそうです。このようなシックな小空間で至近距離で玉三郎の姿を拝めることは、得難い機会です。歌舞伎でも一階最前列や花道傍の席ならば至近で役者を見ることは出来ますが、これだと見上げる形になってしまいます。それに客席と舞台には感覚的な隔たりがあります。BAROOMの空間ですとステージと観客席は連続しており、観客もほぼ玉三郎の目線の高さに近いところで・ご対面に近い感じになるわけです。みなさんあまりの至近距離に大感激のご様子でしたね。

そう云えば令和2年(2020)9月・コロナ休場から再開したばかりの歌舞伎座で、玉三郎が「映像X舞踊 特別公演・鷺娘」という企画を出しました。あの時も衣装紹介と若干のトークがありましたが、今回はそれの小空間バージョンと云うことでありましょうかね。あの時も「お客様がこの企画を心底愉しんでいただけているか」という気遣いが伝わるものでしたが、今回は小空間ですから「おもてなし」の気持ちがより強く伝わって来るようでした。至近で見る衣装(「船弁慶」の静御前・「天守物語」の富姫・「廓文章」の夕霧の衣装など10点ほど)はもちろん見事なものでしたが、それらを玉三郎が羽織った形で見せてくれると・衣装の見事さがより以上に映える、と云うよりもやはり衣装は役者に着用されてこそ本当に「生きる」ということを思いますね。玉三郎の解説でこれらの衣装が絵柄デザイン・織りの細かいところまで職人さんたちとの打合せを経て出来上がったものであることを知り、衣装の作り手さんの思い纏っていることがよく分かりました。

衣装紹介をしながらフト思い出したのか、玉三郎がこんなことを言いました。幼い頃・衣装を作ってくださる職人さんに心付けを渡して「いい衣装を作ってくださいね」と言ったら、それを聞いた父(十四代目勘弥)に後で「襤褸の衣装でも、いい衣装に見せて芝居するのが役者と云うものだ、お前いい衣装じゃないと芝居出来ねえのか」とひどく怒られましたと言ってましたねえ。もちろん幼い玉三郎がそんなつもりで言ったのでないことは分かり切ったことですが、役者の家ではそうやって幼い頃から厳しく躾(しつけ)をするのですねえ。と同時に、「どんな衣装でも役者はこれをいい衣装に見せて芝居をせねばならない」と云う教えと、こうして玉三郎が衣装制作にこだわりを持つことは、ちょっと見は相反することのように見えるかも知れないが、「作り手さんの思いを纏って・この衣装に見合う・もっともっといい役者になりたい」と云う思いで玉三郎が長年役者をやって来たのだと分かる、いいエピソードであったと思いますね。

小空間での催しには、いろんな可能性があると思います。今回のエンディングでは玉三郎が地唄舞「黒髪」の一節を舞って静かに退場という形でしたが、短い一曲で良いから・この濃密な空間でじっくり地唄舞(素踊りで結構)を見せて欲しいと思いました。これからの玉三郎が何をしたいのか、何となくつかめたような気がしましたが、心静かに待ちたいと思います。

(R5・9・8)


〇令和5年9月・南青山BAROOM:「坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW」・その1

9月に入っても相変わらず暑い日が続きますが、南青山BAROOMで行われた「坂東玉三郎 PRESENTS PREMIUM SHOW」を見てきました。吉之助が見たのは「口上と衣装解説」でした。後半日程ではシャンソンを中心とした「スペシャル・コンサート」が行われるそうです。

ちなみにこの企画がプレス発表されたのは、本年6月5日のことでした。この時マスコミが「スワッ玉三郎が大劇場公演から引退か?」みたいに面白おかしく騒ぎました。吉之助は玉三郎が歌舞伎座に出なくなるとまで思っていませんが、吉之助には別に驚きはなかったのです。ここ10年の玉三郎の活動を見れば、少しづつではあるが第一線から身を引こうとする気配は見えていました。どこかで本人が言っていた気がしますが、「気が付いたら舞台から消えていた」と云うのが玉三郎の理想なのではないかと感じていました。むしろ最近2・3年の活躍の方が玉三郎には予定外のことであって、令和2年(2021)に始まった世界的なコロナ禍で各地劇場が休場に追い込まれた後、歌舞伎興行の回復のために玉三郎が一肌も二肌も脱いでくれたおかげで、それで「桜姫東文章」・「東海道四谷怪談・「ふるあめりかに袖はぬらさじなどの舞台が実現したことは、我々には望外の喜びでありましたが、これらすべて玉三郎にとって予定外の奮闘であったと思っています。従ってもしコロナ禍がなければ、今回のような小空間での公演企画は今より1・2年早く実現していた気がします。(以上は吉之助個人の推測です。)これは遅かれ早かれ予期されたことで、「気が付いたら舞台から消えていた」という事態よりは、細く長く続けてもらえるわけだから・むしろ望ましいのかも知れぬと思ったりもします。

思えば六代目歌右衛門は、平成に入ってから舞台出演がめっきり減りました。ちなみに平成元年(1989)の時点で歌右衛門72歳でした。女形というのは重い衣装を着てなかなかの重労働ですから、身体への負担が大きいのです。(そう考えると80前半まで矍鑠(かくしゃく)としていた四代目雀右衛門や四代目藤十郎は凄かったですね。)玉三郎(現在73歳)がそのような微妙な時期に差し掛かっているのは確かなことなので、玉三郎も歌舞伎役者として、今後歌舞伎のために自分が出来ることをいろいろ考えていると思います。今回吉之助がBAROOM公演を見に行ったのは、これからの玉三郎が何をするのか・何をしたいのか、そんなところの手掛かりが欲しいなあと云うことでした。と同時に吉之助ももう50年近く玉三郎を見続けてきたわけですから、そこのところ最後までしっかり見届けたいと思うわけです。(この稿つづく)

(R5・9・6)


渡辺保先生の新著「吉右衛門〜「現代」を生きた歌舞伎役者」

二代目吉右衛門が亡くなったのは、令和3年(2021)11月28日のことでした。あれから1年半ほど過ぎて・来月(9月)歌舞伎座では没後から2回目となる秀山祭が行われると云うタイミングで、渡辺保先生の新著「吉右衛門〜「現代」を生きた歌舞伎役者」(慶應義塾大学出版会)が出版されましたので、これを紹介したいと思います。

元々渡辺先生はサイトでの毎月の劇評でも吉右衛門の評価がひときわ高く、本書に於いてもそのような内容になることは予想が付くことではありますが、吉之助がちょっと驚いたのは、渡辺先生のここ10年の著作と比べても・本書の印象がずいぶんと重いと云うことですねえ。「重い」というのはいろんな意味がありますが、他の著作が軽いと云うことではないですが・他著と比べて・本書がひときわ深刻(シリアス)な筆致で書かれていると感じることです。恐らくは、昨今の・この十数年来の歌舞伎の動向が渡辺先生の理想とするところから大きく乖離し始めている・そのことに大きな危機感を感じており、その乖離を繋ぎ留めると云うか・修正するための規範として吉右衛門の芸に期待するところ大であったのに、その規範が失われてしまったということの喪失感、そう云う思いが渡辺先生のなかにひときわ強くあると察せられます。

本書では吉右衛門が得意とした35役について、「吉右衛門がこの役をこのように演じた」という手順(型)が詳細に語られています。しかし、本書は吉右衛門の評伝ではなく、渡辺先生が見た吉右衛門の舞台の数々を通して・現代(令和のこの時代)の歌舞伎に真に求められるものは何か、何が不足しており・何が間違っているかを検証したと云うことかと思います。その気持ちは渡辺先生の論理(ロジック)に長く慣れ親しんで来た吉之助にはよく理解出来ますが、これから歌舞伎に親しんでいこうという若い方が本書を手にする場合には、或いはこの印象の重さが障壁になるかなと云う気もしますね。敢えて「軽く」説いてみることが必要であったかも知れませんねえ。その辺のことは吉之助の最初の本「十八代目中村勘三郎の芸」を振り返ってみての反省でもあります。あれもちょっと重たかったかも知れませんねえ。まあ対象に対する思い入れがあまりにも強いと、語り口はどうしても重たくなってしまうものです。

吉右衛門の評伝ではないと云うことではあろうけれど、娘婿の菊之助・甥の幸四郎を始め歌昇・種之助など、吉右衛門の芸を継いでいく立場の若手は少なからずいるわけで、これからも芸脈は繋がっていくのですから、本書で取り上げる役を少々削ってでも、吉右衛門の芸の方法論(型の心)の方にもう少し分量を割いて総括的に論じて欲しかった気がしますが。そうすれば令和以後のこれからの歌舞伎への良き指針となったであろうにと思いました。

(R5・8・31)


〇令和5年8月歌舞伎座:「新門辰五郎」・その5

歌舞伎が伝統芸能である所以は、作品が内包する気分を様式(フォルム)に語らしむという演技プロセスだと思います。もちろん心が大切だが、そのためにまずは形から入ると云うことです。新歌舞伎の場合、もはや一刻の猶予もならぬと云う熱く切迫した気分様式は早めの二拍子でタンタンタン・・と畳みかける急き立てるリズムによって表現されるのですから、そこをしっかり押さえてくれないと、芝居が間延びしたものになってしまいます。

今回の舞台では大方の役者が二拍子の急き立てるリズムを体現出来ていませんが、そのなかで新歌舞伎になっているのは、猿弥(金看板の源次)だけですねえ。これは猿弥が薫陶を受けた三代目猿之助歌舞伎(例えば「ヤマトタケル」など)の台詞の基調が二拍子であることが大きいです。しっかりリズムを踏んで言葉の粒を揃えて・きっちり「前に押す」発声が出来ています。新歌舞伎の台詞は、こう云う感じでなければなりません。他の役者は猿弥の台詞回しをよく聞いて欲しいと思います。それと七之助(芸妓八重菊)も悪くない出来です。こちらは七之助の発声が明晰で凛とした印象であることが功を奏していますが、欲を云えばもう少しテンポを付けて緊張感が表出できればもっと良いものになるでしょう。

幸四郎の辰五郎は、江戸の火消しの威勢の良さを見せようとして・台詞を如何に早く捲し立てるかしか考えていないような台詞回しですねえ。それと残念ながら、勘九郎の会津の小鉄も似たようなものです。二拍子のリズムをしっかり打てていないから、台詞がまくれます。急き立てるリズムになっておらず、リズムが前のめりになって・足がもつれているようなものです。これでは侠客の度胸の良さ・腹の太さが出せません。後ろからチョイと押したらコケそうな感じですなあ。新歌舞伎の台詞で大事なことは、台詞を快速でしゃべり飛ばすことではなく(どうも二人共そう思っているような感じですが)、リズムを踏んで言葉の粒を揃えて「前に押す」(台詞の推進力を維持する)ことです。それが上手く行かないのであれば、出来るレベルにまで・台詞のテンポを落とす(ゆっくり言う)ことです。大事なことは、言葉をはっきり発声し「前に押す」感覚を維持することです。

幸四郎・勘九郎のお二人に申し上げたいですが、このような新歌舞伎の台詞回しと、「勧進帳」の弁慶・富樫の山伏問答とは、実はとても近いところにあるのだと云うことに早く気が付いて欲しいですね。(別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。)辰五郎や小鉄が出来るようになれば、自然に弁慶も富樫も上手く出来るようになるのです。ですから新歌舞伎だとか・古典だとか・区別を付けないで頑張ってもらいたいものです。

(R5・8・27)


〇令和5年8月歌舞伎座:「新門辰五郎」・その4

これは芝居でも音楽でもそうですが、演者が多少拙かったとしても、作品が内包する気分をスタイルとして正しく掴んでさえいれば、作者の意図したもの(作意)は素直に立ち上がって来るものです。作品の気分を表現するやり方は、何通りだって考えられます。作品には固有のものがあるのですから、しっくり来るやり方が他にもあるならば、それでやったってちっとも構わないのです。しかし、真山青果もの・あるいは左団次劇・新歌舞伎とジャンルを拡げて考えていくと、共通した或るひとつのスタイルが浮かび上がることに気が付いて来ます。これを「様式」と呼ぶのです。「様式」とは何か、まあいろんな定義があるだろうけれども端的に云えば、とりあえずそれさえ押さえておれば・そのジャンルの作品群の本質を掴んだのと同じことになる魔法の公式です。歌舞伎と云うのは、過去から発し・過去から鼓舞され・過去から批評される芸能なのですから、様式を意識してくれないと困るわけです。

別稿「若き日の信長」観劇随想のなかで、心持ち早めの二拍子でタンタンタン・・と畳みかける急き立てるリズム感覚・つまり新歌舞伎様式が、昭和の終り頃の新歌舞伎の舞台にはまだしっかり残っていたと云うことを書きました。ところが平成に入ると、新歌舞伎の・このリズム感覚が、急速に薄れて行きます。こうした傾向は、平成という時代の保守的な風潮、平成歌舞伎の古典志向への流れと無関係ではありませんが、歌舞伎作品のなかでもとりわけ理屈っぽく、「我々日本人はどう生きるべきか」みたいな尖った思想性を内包する真山青果ものにとっては少々具合が悪い時代になってきました。

そこで今回(令和5年8月歌舞伎座)の「新門辰五郎」の舞台が、作品に通奏低音のように響く一発触発の幕末のイライラした気分、日本がどこに向かうか・その答えを見出すのにもはや一刻の猶予もならぬと云う、切迫した気分を正しく掴んでいるかと云うことですけれど、残念ながら、今回の舞台はそのような気分が全体的に足りないように思いますね。舞台にピリッとした緊迫感が足りません。だから登場人物たちが何を考えて・何をどうしたいか、熱い思いが見えて来ません。芝居のなかであんまり活躍しなかったようだけど、結局、辰五郎(幸四郎)は何をしたかったの?みたいな感想になって来そうです。

まず序幕・京都祇園社・石鳥居前が、何となく間(ま)が伸びたような印象ですねえ。人々が行き交う往来で、不審な浪人に何を渡したかと子供(丑之助・勘太郎)が問い詰められています。事の次第に寄ったら、捕り物が始まるか・子供であっても手荒な扱いをされかねない心配な事態です。そのような緊迫感が舞台にないですねえ。「度胸のある子供がアハハ頑張ってるなあ」という微笑ましい芝居にはなっています。まあ歌舞伎座らしいことだなとは思いますし、その意味では勘太郎はなかなか頑張っていますよ。しかし、そこをドラマにしっかり組み込んで、ここで幕末の京都の不穏な空気を表現して見せるのは、演出の仕事・周囲の役者の仕事ではないかと思いますがね。ここは誰がと云うでもなく、所作でも台詞でも、緊迫したセカセカしたリズム感覚が全体的に足りません。場全体が急いた雰囲気になって来れば、その場に不似合いな山井実久(獅童)のお公家風も生きてくるのだけどね。歌六の勇五郎は悪くはないですが、丑之助が目明かしに尋問されている間、脇で様子を見ながら丑之助を指差したり・身をよじって大笑いしてみたり・随分と余裕で眺めているようですが、まあ青果のト書きでも「ニヤニヤ笑いながら物陰で身を潜めて応答を聞いている」とありますけれども、勇五郎には場合によっては仲裁に入らねばと云う緊張が確かにあるはずです。大笑いはほどほどにしてもらいたいものです。これだから丑之助のやり取りが緊迫化しません。そんなこんなを演出(織田紘二)はきっちり整理してもらいたいと思いますね。(この稿つづく)

(R5・8・24)


〇令和5年8月歌舞伎座:「新門辰五郎」・その3

戯曲「新門辰五郎」は表向きは(本筋としては)慶喜の警護ということで京都へやってきた浅草十番「を組」の者たちと京都守護職を預かる会津の中間(ちゅうげん)部屋の者たちの、「どちらが京都の警備を仕切るか」と云ういがみ合いを描いていますが、通奏低音のように響くのは一発触発の幕末のイライラした気分であり、それが彼らのいがみ合いをますます熱いものにしています。実は青果が描きたいのは、そちらの方です。「京都の安全・日本の安全を守るのは俺たちだ」という顔をして、あそこを歩いている浪人者は怪しい・水戸かそれとも長州かなどと京都の街を毎日肩をいからせて闊歩している。そういう雰囲気のまっただなかに辰五郎がいるのです。これは絵馬屋のご隠居が言う通り、「お前さん、世間の評判に甘やかされて、己(うぬ)を増長させているのだろう」と云うことです。

前章で「本作での辰五郎は意外とカッコ良くない」と書きました。辰五郎が輝くのは、祇園町の火事騒ぎを見て、「祇園さまは京都の宝だ、京都の宝は日本の宝だ。新門の命にかけても、必ずこの火事は消口(けしぐち)をとつてみせる」と叫ぶ時だけです。この時だけは辰五郎は自分の本分に戻っています。しかし、その次の場ではやはり水戸さまを取るか公方さまを取るかで悩む元の辰五郎に戻っています。切羽詰まって腹を切ろうかと考えている時、会津の小鉄がやってきて「昨晩の祇園でのお前さんの働きは、さすが江戸っ子のなかの江戸っ子だ、わたしらなんかとは生まれついての物差しがちがう」と言って坊主頭を見せるものだから辰五郎も気を呑まれて、・・・やっぱり俺の本分は火消しなんだ、こいつアまったく絵馬屋の親父っさんの言った通りだったナアと思い知ると云うのが、青果が付けた芝居の落ちですね。

ですからもし検閲の役人に問われたら、青果は澄まして「これは幕末の京都のエピソードを書いた・ただのエンタテイメントに過ぎません」と答えるでしょうねえ。表向きはそのように書いてあるのです。しかし、そこはさすがに真山青果です。決してただのエンタテイメントに終わらせません。ただしそれをあからさまにしないと云うことです。(この稿つづく)

(R5・8・22)


〇令和5年8月歌舞伎座:「新門辰五郎」・その2

青果の戯曲「新門辰五郎」のなかに潜む「気分」とは何か、ちょっと考えてみます。辰五郎は江戸の町火消だから江戸が舞台かと思いきや・芝居では京都が舞台なので面食らいますが、事情はこういうことです。文久3年(1863)4月、将軍徳川家茂は上洛して孝明天皇に拝謁しました。これは表向きは朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体」政策の一環でしたが、朝廷の本心は幕府に対し攘夷実行を迫ることにあったようです。将軍後見職・一橋慶喜はひと足先に京都に入りますが、浅草十番「を組」の頭・辰五郎は、慶喜に気に入られて、その警護を仰せつかう形で・手下約200名を引き連れて、ここ京都に来ていたのです。京都の情勢は将軍上洛でひとまずの落着きを見せていたものの、水面下では攘夷か開国か、はたまた尊王か佐幕か、各方面の立場と意見が対立して一発触発のピリピリした状況でした。そのような混乱の下では庶民の気分も落ち着きません。噂話であっちに味方したり・こっちに味方してみたり、風評が絶えません。日本がどこに向かうか、その方向性が全然見えないから落ち着かない。上も下もみんながイライラしています。ひょんなことがきっかけで事件が起こりかない危険な雰囲気なのです。青果の「新門辰五郎」のなかに通奏低音のように響く気分とは、一刻の猶予もならぬと云う切迫した、そのようなイライラした気分です。このことを、芝居が執筆された昭和初期の、戦争の泥沼にのめり込んでいく日本の状況と改めて較べてみる必要はないと思います。

青果の芝居のなかの主人公・辰五郎は、本来ならば御政道に関与することがない町火消ですが、自ら望んでか望まぬか・国の混乱の渦に巻き込まれて・自らはどうしようもなく・苦しんでいる人物です。ですから青果の芝居での辰五郎は、意外とカッコ良くありません。却って隠居の町火消・絵馬屋の勇五郎の方が気楽な分だけに、辰五郎が置かれた状況が冷静に見えています。二条城堀端で勇五郎が辰五郎に意見する台詞を見ます。

『なるほどなア。江戸に居りゃあ御朱引外(ごしゅびきそと)の田舎火消と云われた新門の辰五郎も、京都に来りゃ大名づきあい、長州が油断ならねえとか、やれ薩州がどうしたとか、五十万石、百万石の国持大名を、まるで朋輩扱いだ。へええ、豪いもんだ。(中略)ええ皮肉じゃねえ、おら本当のことを云ってるんだ。』

『頭(かしら)、おめえは浅草十番組、を組の当番をあずかって、五ヶ町の町内と店々(たなだな)を受け取っている町火消だせ。将軍家お供も大事だろうが、また五ヶ町の人々に火事の心配なく、夜々安心して眠らせる、その商売も軽いことじゃねえ。それを、所司代屋敷に三日も詰めて、将軍家長州御進発の御相談を受けたからって、男になったの、出世だなどと嬉しがるようじゃ心細い。火消が真(しん)から命をかけて働く場所は、火事場がひとつ。またお前の口から男が立つとか立たねえとか云うのは、火事場に立って、他の組合の者と消口(けしぐち)を争う時にだけ云う言葉だ。御政治向きのことまで口を出し、それを自分の働きと思うのは、お前さん、世間の評判に甘やかされて、己(うぬ)を増長させているのだろう。』

『まことに当節はやりにくい世の中だよ。江戸ッ子だからって将軍さまの下知につき、馬鹿正直にそれを守って行って好いという時代じゃねえ。と云ってまた、諸国浪人と一緒になって、勤皇騒ぎに江戸御政治の邪魔をしているのが好いとも云われぬ、まことに難しい世の中になっているのだそうだ。大は大なり、小は小なり、みな銘々、身分相応この日本国というものについて、見通しをつけなけりゃならない時代なそうだ。うぬの見栄とか外聞とかで、つまらねえ侠客振りなんどする時じゃねえ。』

勇五郎が言いたいことは、多分こういうことです。世間で喧伝されるプロパガンダや風評に惑わされて、庶民が自分の本分を忘れて舞い上がり、世界だ国家だ日本だと大きいことばかり言っていないで、もう一度自分の本分に立ち返り・実生活に立脚したところから、今この日本はどうあるべきかじっくり考えてみたら如何なものだい?胸に手を当ててよく考えてみなと云うことでしょうかねえ。(この稿つづく)

(R5・8・20)


〇令和5年8月歌舞伎座:「新門辰五郎」・その1

真山青果の「新門辰五郎」初演は昭和18年(1943)8月新橋演舞場での前進座公演で、主な配役は三代目翫右衛門の新門辰五郎、四代目長十郎の絵馬屋の勇五郎、四代目鶴蔵の会津の小鉄でした。本作は脇のすみずみまで生き生きして・アンサンブルがしっかりした如何にも前進座にぴったりの芝居だと思いますが、執筆経緯を見ると、青果は最初どこで上演するという当てもないまま書き始めたようです。「新門辰五郎」は、はじめ雑誌「経済往来」の昭和8年(1933)7・8月号に二幕目まで発表されて、以後未完のまま置かれていたものでした。多分芝居の落ちの付け方に迷いがあったのだと思います。劇団前進座が創立されたのは昭和6年(1931)5月のことですから、当時前進座は生まれたばかりでした。その後執筆を再開し「講談倶楽部」昭和14年(1941)5〜9月に完成稿が掲載されたわけですが、この時には前進座での上演が想定されていたかも知れません。青果と前進座との付き合いは、昭和12年(1937)新橋演舞場での「償金四十萬弗」から始まり、昭和14年(1941)新橋演舞場から開始された「元禄忠臣蔵」9編全編系統的上演で確固たるものになっていました。

ところでここで「新門辰五郎」が執筆・上演される前後の日本の状況を振り返っておきたいと思います。世界大恐慌が昭和4年(1929)10月頃から始まり、満州事変勃発が昭和6年(1931)9月、盧溝橋事件(日中戦争全面化)が昭和12年(1937)7月、真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)が昭和16年(1941)12月となります。世相が不安化して、次第に日本が戦争の泥沼にのめりこんでいった時代です。これらの出来事は幕末の町火消・新門辰五郎に何の関係もない事項ですが、実はこの時代の気分が作品に濃厚に反映しています。青果は幕末の京都における辰五郎を巡る状況に執筆当時の日本の状況に似たものを見ていたと云うことです。誤解しないでいただきたいですが、青果が昭和初期の時勢批判として「新門辰五郎」を書いたと言いたいのではありません。そんな薄っぺらいものではないと思います。しかし、作品のなかに潜む気分を舞台で素直に表現出来れば、作品の作意がスッと正しく現われます。すると青果は戦時の真っただ中にこんな危ない芝居をよく書けたものだ・・・と心底唸ることになります。青果は澄まして「これは幕末の京都のエピソードを書いた・ただのエンタテイメントに過ぎませんから」と一笑に伏すでしょうねえ。しかし、そこを明確にしておかないと、青果が何故あの時代に「新門辰五郎」を書かねばならなかったかが分からないのです。そして令和の今・何故「新門辰五郎」かと云う問いにも答えられません。

「令和の今・何故「新門辰五郎」か」と問うことは大事でしょうか。吉之助は大事なことだと思います。「仮名手本忠臣蔵」をやる時でも、「義経千本桜」をやる時でも、大事なことです。別にご大層な回答を捻り出す必要はありません。歌舞伎を令和の今に必要なものとするために、このことを問い続ける姿勢が大事だと思います。(この稿つづく)

(R5・8・19)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その7

そう云うわけで吉之助が「菊宴」に期待するのは、歴史によって(或いは世間によって)不当な扱いをされてきた「不義士」たちがその重荷から解き放たれて・再び活き活きと動き出す、その「軽やかさ」なのです。そこに笑いの戯作者・四代目南北の真骨頂があると思います。昭和59年(1984)10月歌舞伎座での「菊宴」復活初演は、ちょうど隆盛期に差し掛かっていた三代目猿之助歌舞伎の勢いと重なって、なかなか面白い出来になったと記憶します。(ちなみに昭和61年(1986)が「ヤマトタケル」初演になります。)当時の面々は主演の三代目猿之助が当時44歳、与五郎(直助)を務めた歌六が34歳でしたから皆若かったのです。伸びる役者の勢いが芝居をますます面白くしていました。

しかし、今回(令和5年7月歌舞伎座)の・久しぶりの「菊宴」は不幸な経緯(詳述しませんがお察しください)があって、上演が当初の目論見通りに行かなかったのは残念なことであったなと思います。そんななかで急遽代役で定九郎を初役で勤めた中車はよく頑張りました。「初めての宙乗り」がいきなりダブル宙乗り・落下傘落ちと云うのは実におっかない(と云うか危ない)ことですが、吉之助が見た楽日近くには凧に乗って余裕で眼下の観客を見回していた(ように見えた)のはホントよく頑張ったと褒めてあげたいですね。演技に関して云えば、まだまだ古典の役どころにハンデがある中車だけに、今回は古典の南北物・・と云うことを意識し過ぎて・自信のなさが露呈した感が若干します。「菊宴」に関しては南北物と云っても伝統が断絶してしまっているわけですから、さほど気にする必要はありません。中車ならばむしろ新作物を演じる気分で図太く行くくらいの方が良かったのですがねえ。それならば定九郎(星五郎)の面白さが十分出せたはずだと思います。ハイな気分よりも悲壮感が出てしまったようであったのは、この状況下では仕方ないことかも知れませんが、やはりここは「ハイな気分」で行きたかったですね。

先月(6月)の中車の「吃又」について「心は出来ていても・まだ肚にまで至っていない」と書きましたが、肚とは腹のことでもあり・まだ丹田に力を込めた舞台発声になっていないようです。「古典」の役だと云うので「かぶきらしさ」を過度に意識してしまうのかも知れませんが、南北の台詞ならば二拍子で打つ新歌舞伎の応用で十分通用するはずです。台詞の末尾まで息が続かず・尻つぼみになる感じがあるようですが、二拍子でリズムを打ちながら息を継いでいく訓練が出来れば、もっと肚が太い印象に出来ると思います。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」を参考にしてください。)

ともあれ「菊宴」がこのまま消えてしまうとすれば実に残念なことで、頃合いを見計らったところで脚本・演出を全面的に見直したうえでの再演を望みたいものです。

(R5・8・17)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その6

「不義士として知られる斧定九郎は実は義士だった」という「菊宴」の大前提は、確かに観客の度肝を抜きます。まあこれは「正史」とされるものに対する疑義を申し立てるものかも知れませんねえ。しかし、四代目南北はここで観客に対して価値観の転倒、例えば不義がホントは正義で・実は正義が不義だったと云うようなことを申し立てているわけではありません。定九郎(盗賊暁星五郎)が奔走するのは、宝剣を取り戻して主家(塩治家)を再興することが目的です。これは由良助以下四十七士が追及したのと何ら変わりない忠義の行為です。つまり南北は「忠臣蔵」が持つ「世界観」を反古にしているわけではないのです。ここは大事なことなので強調しておきたいと思います。このことが忘れられたところで巷間南北のパロディ精神が議論されていると思われるからです。

例えば「熊谷陣屋」で「一谷の戦いで熊谷直実が斬ったのは無冠の太夫敦盛ではなく・実は我が子小次郎だった」と云う一大虚構が提出されます。芝居がシリアス・タッチのせいもありますが、これを並木宗輔の「パロディ」だと受け取る方は誰もいないと思います。「平家物語」が語るところの歴史的真実(直実は無常を感じ後に出家することとなる)を転倒させる意図などないことは明らかです。この虚構が直実の悲劇の色合いを深め、更に「真実」を強化していることを誰もが認めると思います。

ところが、南北に限って、何故かそう云う読み方がされないのですねえ。何故か南北が何かの意図を以て対象を笑いのめして・批評したというイメージになってしまうのです。例えば「東海道四谷怪談」でも、伊右衛門は封建論理の束縛を拒否する自由人だ、「四谷怪談」は忠義批判・仇討ち批判だと云う読み方をされてしまいます。「盟三五大切」もそうです。四十七士も一皮めくれば殺人者の群れに過ぎないと云う読み方をされしまいます。もはや封建主義の世の中ではない現代人の眼からはそのように映ることは吉之助も理解はしますが、それであると「古典」の読み方にならないのです。「古典」を読む態度と云うのは、読み手の立場に対象を強引に引き寄せて解釈することではなく、逆に対象の立場に自分を置いて・古人の気持ちに立つことです。そうすれば「古典」は胸襟を開いて真実を明らかにしてくれるのですがね。(別稿「道化としての鶴屋南北」のご参照ください。)

まず手始めに「菊宴」のドラマを眺めてみます。文政4年(1821)初演当時の古老も「とんと茶番狂言じゃが。今少し正真の狂言らしう行ないたい物じゃ」と言う通り、「仮名手本忠臣蔵」・それに「太平記忠臣講釈」など、既存の「忠臣蔵」ものの、よく知られた台詞や場面を並び変えて新たな筋を作り出しただけの茶番劇なのです。戯作者としての手腕は実に見上げたものですが、筋はいつもの忠義と御家大事の物語に乗っかっているだけで、別に「忠臣蔵」ものとして斬新な切り口があるわけではない(ように見える)。初演は評判が良かったものの・本作が昭和59年(1984)復活上演まで再演がされなかった理由は、まさに本作が「他愛のない茶番狂言」・その程度の作品だと見なされたからに違いありません。しかし、南北の本作の作劇手法の延長線上に4年後の「東海道四谷怪談」と「盟三五大切」(ともに文政8年・1825初演)があることを考えるならば、この両者を繋いだところに、南北の戯作者精神のポジティヴな側面を見出せそうな気がするわけです。それは日本古来からの本歌取りの、健康な「遊び心」の伝統とでも言うべきものでしょうか。

例えば柳橋両国の花火の場に、そこに何かの裏返しだか・批判だかが存在するわけでは全然ないのです。「アハハここは五段目のもじりだね」という健康な遊び心しか、そこにありません。しかし、そこから「仇討ちに参加しなかった者たちは不義者だ、道から外れた落伍者だ」と云う、重い・あまりに重過ぎる歴史の決め付けから解き放たれて、登場人物たち(例えば斧九太夫・定九郎親子)が軽やかに動き始めて、そしてまた新たなストーリーを紡ぎ始めるのが見える、そう云うことですかねえ。九太夫も定九郎もそれぞれの人生を一生懸命生きていることがそこから見えると云うことです。もちろん作中で悪人扱いされる与五郎(直助)だってそうなんですがね。ですから吉之助のイメージでは、「菊宴」は軽やかな印象になります。この菊宴」の延長線上に「東海道四谷怪談」や「盟三五大切」があることが分かれば、これら二作品の読み方も根本から変わってくるのではないでしょうかね。「菊宴」を見ながら、吉之助はそんなことを考えるのですがね。(この稿つづく)

(R5・8・16)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その5

浅野内匠頭刃傷の報が国元に届いて大混乱のなか、浅野家筆頭家老大石内蔵助は家臣二百数十名に登城を命じ、対応を協議することになりました。評定で大石は全員籠城・切腹を強く主張して、恭順・城明け渡しを主張する末席家老大野九郎兵衛と真っ向から対立しました。また資産の分配の件でも大野と意見が対立しました。最終的に大石は城明け渡しを決めますが、この時大石が求めた盟約に加わった者は六十数名で、大半の者が離散してしまいました。大野も急ぎ赤穂を退去して、その後の足取りは定かでないそうです。赤穂城明け渡しは元禄14年4月18日に行われました。

その後元禄15年12月14日に大石以下四十七名が本所松坂町・吉良邸に討ち入りし、吉良上野介の首を挙げたのは、ご存じの通りです。世間は熱狂し、彼らを「義士」と褒めたたえました。他方、仇討ちに参加しなかった者たちは「不義士」と蔑まれることになりました。不参加の者たちは肩身が狭く・世間の目をはばかって暮らさなければならなかったようで、記録などはほとんど残っていないようです。

以上が史実ですが、これを劇化・小説化すると、筋を面白く仕立てるために、「義士」が輝かしく描かれる一方で、「不義士」はますます臆病で姑息で自己中心的な輩に描かれることになります。大野九郎兵衛がその代表格でした。「仮名手本忠臣蔵」では斧九太夫として登場し・七段目で師直方の間者をして由良助に殺されてしまいます。九太夫の息子が定九郎ですが、これもどうしようもないグレ息子で、五段目で鉄砲に撃たれて死んでしまいます。

うすると「義士を描いたドラマばかりでは画一的で面白くない。不義士にだって何か言い分があるだろう」と考える人もやはり出てくるわけです。何の根拠があるかは知らないが、「実は大石の討ち入りが失敗した時のために、第二陣の討入隊が用意されており、その頭領が大野であった。しかし、大石が成功したため、不本意ながら大野は不義士の汚名を着ることとなった」という説がまことしやかに生まれることになりました。四代目南北の「菊宴月白浪」も、「仮名手本忠臣蔵後日談」として、この「大野九郎兵衛・隠れ義士説」を取り上げたものです。

「忠臣蔵後日談」(由良助の討ち入りから一年後のこと)とあるけれど、斧定九郎は五段目で・斧九太夫は七段目で死んじゃってるはずですが、「菊宴月白浪」では、南北がちゃんとそこのところを考えて「斧九郎兵衛」としています。だからこれは「忠臣蔵」とは別人物なのですね。定九郎も・お軽も「忠臣蔵」とは別人物だと云うことです。南北朝時代ではなく、江戸時代の別人物なのです。深い詮索はしないことにします。(この稿つづく)

(R5・8・12)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その4

文政4年(1821)江戸河原崎座での初演は好評でした。文政5年刊の評判記「役者早(そくせき)料理」の合評会で、

(ヒイキ)「いずれも大でき大でき、おもしろい事であったぞ。」
(老人)五段目鉄砲場の気取りで、越後獅子が花道から駈け出て下座へ入ると、鉄砲の音がドンと鳴ると、後ろへ花火上がりて「玉や」という所、とんと五段目の茶番狂言じゃが、今少し正真の狂言らしう行ないたい物じゃ。」 

とあります。古老が「今少し正真の狂言らしう行ないたい物じゃ」と言うのは、「おふざけが過ぎる、もっと真面目にやれエ」という批判ですが、まあこれはそれなりに一理あります。しかし、どうせおふざけをするなら、「ここはオリジナルのあの場面をもじりました」と云うことをはっきり際立たせないと面白くならないと思います。(今回補綴脚本とはまったく異なりますが)大南北全集第7巻(春陽堂)の柳橋両国の場を参照すると、

(星)「また降りだしたか、ハテうるさい雨だ。」
トこの時下手、バタバタにて兼松、件(くだん)の獅子をかぶり、一升徳利を提げ、捨て台詞云いながら一散に向こうへ走り入る。このとき星五郎、柳の方へ片寄り居て、向こうをよくよく覗き見て、
(星)「なんだ、彼奴は。ああ夕立に逢った角兵衛獅子だな。」
トこれをきっかけに、下手にて本鉄砲の音がする。
(大勢)「玉屋ア。」
ト褒める声と同時に一時に知らせあって黒幕落ちる。向こうは東両国の方。一ツ目橋。お船蔵。川面には屋形船かかりいる体(てい。)

となっています。もちろんこれは「五段目・二つ玉」の趣向を借りているわけで、定九郎はお馴染みの黒羽二重の単衣(ひとえ)に大小を差し、裾をからげて、少し破れた蛇の目傘。角兵衛獅子は猪、柳は稲わら、花火が鉄砲の見立てです。ト書きにはありませんが、吉之助が演出するならば、星五郎(定九郎)は花火の音に驚いてよろめき、「エ?もしかしたら俺は死んだかな?」と思って身体に鉄砲の穴が空いてないか調べる仕草くらいはさせたいものです。それならば「なるほどここは五段目ネ」という笑い声もあがるでしょう。

昭和59年歌舞伎座の復活初演の・この場面は、電飾の花火がなかなかレトロで良かったけれど、角兵衛獅子と花火の間に加古川の幽霊が出たり入ったり、段取りが込み入ったせいで、「五段目」があまり浮かんで来ない不満がありました。しかし、今回(令和5年7月歌舞伎座)補綴脚本では、角兵衛獅子は冒頭に出てくるけれども何のために出るのかさっぱり分からない。段取りが「五段目」になってないからです。液晶大画面で極彩色の花火を派手に見せることばかり考えている演出ですねえ。(それならばもっと花火の爆音を派手に轟かせた方が良かったのでは?)液晶画面の花火が妙に空疎に映りました。最新テクノロジーを取り入れて、これが進歩・開化の歌舞伎でしょうか。写実(リアル)の基準が大分ずれている気がしますねえ。歌舞伎のホントの魅力は、こう云うところを江戸のレトロな手作り感覚で見せることだと思うのですがね。南北全集の脚本を読んだだけで、脳裏に極彩色の光景が浮かんで来ないでしょうか?文政4年初演の舞台の方がずっとリアルであったろうと吉之助は思いますね。(この稿つづく)

(R5・8・1)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その3

「菊宴」2幕目は、オリジナル脚本(昭和59年上演)の配列であると、新鳥越借家・隅田川花屋敷・三囲堤・柳橋両国・小名木川隠家の順番です。(今回の上演では花屋敷の場は上演されません。)各場は隅田川(大川)の流れを軸に配列されています。文政4年(1821)初演河原崎座の観客は江戸の地理が頭に入っていますから、隅田川の流れに沿って筋の展開を理解します。そうすると、今回上演のように柳橋両国の場が小名木川隠家の後に来ることはあり得ないことが分かります。まず地図で各場の凡その位置をご確認ください。

新鳥越借家では、下男与五郎に加古川が殺されます。与五郎は死骸を布団にくるんで川に流そうとしますが、新鳥越には川がありません。だから与五郎は死骸を神田川まで運んだようです。加古川の死骸は神田川が隅田川に合流する辺り・柳橋に流れ着きます。ここから両国橋はすぐそこです。非人たちが死骸を見て騒いでいる傍を、宅兵衛と子役芳松が通り過ぎて行きます。遅れて定九郎が通りかかります。加古川の死骸は、そのまま隅田川を流れて行きます。

一方、三囲堤では、仏権兵衛が妹浮橋に斬り付けます。これを助けようとした縫之助が権兵衛に左肩を斬られて、隅田川に転落してしまいました。どこら辺で縫之助が助けられて岸に上がったかは分かりません。しかし、柳橋両国の場では定九郎は独りでしたから、定九郎が主君縫之助を助けた場所は、両国橋よりも下流であるはずです。この後定九郎は縫之助を小名木川隠家へ連れ帰ります。

小名木川隠家の場で、定九郎が主君のために我が子を犠牲にしようとするのを加古川の幽霊が阻止します。同時に、加古川の遺骸が小名木川の流れに乗って隠家前に漂着しました。加古川の遺骸は神田川に投げ込まれ、柳橋両国を経て隅田川を下り、この後、小名木川へ入って定九郎の元に流れ着いたことになります。ここでは西から東へと流れる神田川と小名木川の流れが、隅田川よりもずっと緩やかであることまで南北の計算に入っているようです。

もうひとつ頭のなかに入れておいて欲しいことは、「菊宴」初演(文政4年)の4年後の文政8年(1825)江戸中村座で初演されることになる「東海道四谷怪談」のことです。田宮伊右衛門は雑司ヶ谷浪宅で死んだお岩の死骸を、小仏小平の遺骸とともに戸板に括りつけて川に流しました。その後、砂川穏亡堀で伊右衛門はお岩の死骸を再び見ることになります。このお岩の遺骸(戸板)の流れが「菊宴」の加古川の遺骸の流れとぴったり重なるのです。すなわち戸板は雑司ヶ谷近辺の神田川に投げ込まれ、神田川から柳橋両国を経て隅田川を下り、この後戸板は小名木川へ入り、さらに横十間川へ曲がって、砂町穏亡堀にまで辿り着くのです。したがって「菊宴」初演時の観客にはそう云うことはまったくないわけですが、その後の「四谷怪談」を承知している現代の観客は、そこに南北の予定作意を見ることになるわけです。こう云うことは、本所石原町石屋の場が「四谷怪談」の三角屋敷のプロトタイプ(原型)であることなど、「菊宴」には他にもあるのです。

柳橋両国の場を小名木川隠家の後に置くべきではない理由は、まだあります。前章で述べた通り、加古川は忠義一途の女性であると同時に、我が子芳松の命を救いたい一念に凝り固まって幽霊となって小名木川隠家に現れたのです。その結果、主君縫之助は本復し・芳松の命も救われました。加古川は安堵して成仏していきます。そうすると、その後の場に加古川が幽霊になって現れる理由がもはや存在しないはずですね。ところが今回(令和5年7月歌舞伎座)上演では順番が入れ替わって、小名木川隠家の後に柳橋両国が出て、加古川の幽霊が宙乗りで現れますが、ドラマを正しく理解していれば、こう云うことは決してあり得ないことがお分かりになるはずです。

補綴の石川耕士・演出の藤間勘十郎にこんなことが分らないはずはないですが、分かっていてもこう云う改変をしてしまうと云うことは、「第2幕幕切れを両国の花火でド派手に景気良く締め括ってやろう。これが最高のエンタテイメントさ」と考えたとしか思えませんねえ。先人に対する敬意が少し足りないのではありませんか。(この稿つづく)

(R5・7・31)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その2

二幕目・小名木川(おなぎがわ)隠家での、宅兵衛と子役芳松が絡む件を、少々長くなりますが、かいつまんで記しておきます。定九郎が傷身の主君縫之助を匿っている隠れ家へ、宅兵衛が孫の芳松を伴って物乞いに来ます。実は宅兵衛は定九郎の妻加古川の父親なのですが、互いに顔を知りません。しかし、宅兵衛の話を聞くうちに定九郎はそれに気付いて、芳松が我が子であると悟ります。定九郎は我が子可愛さに耐えられなくなりますが、お尋ね者(盗賊暁星五郎)の罪が我が子に及ぶことを恐れて打ち明けることが出来ません。ところが、二人が去った後、芳松が落としていった守り袋を開けてみて、定九郎は我が子が辰年辰月辰刻の揃った生まれであったことを知りました。そこで定九郎が思い出したことは、主君縫之助の傷を直すためには、辰年辰月辰刻の揃った者の生き血と一緒に秘薬を与えることが必須であると医師から告げられていたことです。そこで定九郎は不憫ながらも我が子を手にかけようと考え、駆け出したところに、何と妻加古川(実は幽霊)が芳松と一緒に現れます。思いがけない再会を定九郎は喜びつつも、芳松を殺さねばならないことに気が気ではありません。加古川の目を盗んで定九郎が芳松を殺そうとした時、加古川は幽霊の正体を現わして、これを阻止します。同時に、家の前の流れに加古川の遺骸が流れ着きます。その遺骸はまるで生けるが如くの仮死状態です。加古川の幽霊が言うことには、自分は下男与五郎に殺されて既にこの世にない、実は自分も我が子と同じ辰年辰月辰刻の揃った生まれである、だから芳松を殺すのは止めて、我が遺骸の胸を切り裂いて・その生き血を主君縫之助に与えるようにと加古川が言うのです。かくて縫之助は本復し、芳松の命は救われて、加古川は安堵して成仏していきます。定九郎は高野の血筋・与五郎を主君の仇・妻の仇として討つことを決意します。

以上が、小名木川隠家の主筋(ドラマ)です。加古川の遺骸が死後もなお仮死状態に留まると云う発想は、おそらく「実盛物語」の小万から得たものでありましょうか。加古川は死してなお忠義厚く、愛する我が子の命を守ろうと、その一念が籠もって遺骸が生けるが如くになったと云うことです。宅兵衛と芳松はまるで吸い寄せられるように、定九郎がいる小名木川隠家へとすべてが集結して行きます。「菊宴」のなかでここが最も芝居らしい場面であることが、お分かりになると思います。と云うよりも、ここがなければ本作はほとんど筋を並べるばかりの芝居になってしまうと言うべきですね。

ところが、今回(令和5年・2023・7月歌舞伎座)の「菊宴」再演では、上記の宅兵衛と子役芳松が絡む件がバッサリカットされてしまいました。そして加古川の幽霊が現れて・我が生き血を縫之助に与えるようにと定九郎に指図するだけの、実に詰まらぬ筋に書き直されてしまいました。(この書き直しで20分ちょっとセーヴ出来たかも知れませんねえ。)「菊宴」を今回の舞台で初めて見た若い観客は、何も知らなきゃ「ああ南北なんてこんなものか」と思うだけでしょうが、上記の相違をお読みになれば、「何でこんなことをしたのか」と愕然となさるはずです。これは補綴の域をはるかに逸脱しており、改悪と呼ぶべきではないでしょうか。

もう一点付け加えると、この場面では子役(芳松)が重要な役割を果たすと云うことです。しかも、これが普通の子役に要求されるものをはるかに超えたレベルなのです。芳松は加古川の幽霊に操られるという形で女形言葉をしゃべり、女形の品(シナ)を使い、立廻りまでもやらねばなりません。昭和59年10月歌舞伎座の復活初演では、これを二代目亀治郎(四代目猿之助・当時9歳)が勤めました。この時の亀治郎の演技は吉之助の記憶のなかにありありと残っています。(ちなみに昭和60年の再演も亀治郎が勤め、平成3年の三演目では大和田靖くんという子役さんが芳松を勤めて、いずれも評判は上々でした。)兎に角、「菊宴」は腕の立つ子役がいないと出せない芝居なのです。「菊宴」が評判が良い割りに上演が少なかったのは他にも理由があるでしょうが、子役の起用がネックであったことは疑いないと思います。(こうなると文政4年の初演の時に芳松を勤めたのは誰だったか?というのが気になるのですが、これが分からないのだなあ。)

上演時間が足りないとか・腕の立つ子役が見つからないとか、改変の理由はいろいろあるでしょう。しかし、納得できるレベルの上演が実現出来ないのならば「菊宴」は出さないと云う「良心」があっても良いと思いますね。「どんなレベルであっても、筋を自在に書き直して、一応見れる形にして御覧に入れます」なんてのが「補綴」の仕事でしょうか。それではちょっと情けない。補綴に当たっては、先人に対する敬意を以て・作意を生かす態度が大事であると云うのは、そこのところです。これがなければ節操がなくなります。(この稿つづく)

(R5・7・30)


〇令和5年7月歌舞伎座:「菊宴月白浪」・その1

四代目南北の「菊宴月白浪」は文政4年(1821)9月9日江戸河原崎座での初演。紋番付には9月17日初日との記載があるそうですが、恐らく9月9日が正しいでしょう。9月9日は、五節句のひとつである重陽の節句でした。別名を「菊の節句」とも云い、菊の花を飾ったり、菊の花を浮かべた菊酒を飲んで無病息災や長寿を願ったものでした。また秋は空が澄んで月が美しい季節でもあります。「菊宴月白浪」という外題は、これに主役の盗賊暁星五郎(実は忠臣斧定九郎)を演じて大活躍の三代目菊五郎の「菊」を重ねたものでしょうね。

文政4年の初演は好評でしたが、その後は再演されることがなく、本作が復活上演されたのは、何と163年ぶりの、三代目猿之助(二代目猿翁)による昭和59年(1984)10月歌舞伎座による上演でした。この上演は、吉之助はもちろん見ました。三代目猿之助による復活狂言は、「伊達の十役」を始めとして数多いですが、吉之助は個人的に、そのなかでも「菊宴」は最も出来の良かったもののひとつと思っています。最後を猿之助の宙乗りで締めくくるのはいつものパターン(宙乗りがなけりゃあ猿之助歌舞伎じゃない)ですが、全体としてテンポ感覚が良く、筋が引き締まって見えたのは、猿之助歌舞伎の全盛期の勢いを示したものであったと思います。猿之助以下役者たちも活き活きしていました。その後、本作は昭和60年(1985)12月京都南座、平成3年(1991)10月歌舞伎座でも再演がされました。吉之助はこれらの上演は見ていません。したがって、今回(令和5年・2023・7月歌舞伎座)の「菊宴」再演は、吉之助にとっては39年ぶりの観劇ということになります。

ところでコロナ非常事態宣言下で歌舞伎座が三部制上演を余儀なくされた時期には、本来は二部制で通し狂言で出すべきところを、三部制で上演時間に制約があるという理由で、筋を端折ったアレンジ上演がされたことがありましたね。例えば猿之助歌舞伎で云えば、これのどこが「天竺徳兵衛」と関係あるの?と思ってしまいそうな「小幡小平次外伝」、これならばいっそ「先代萩」にしちゃえば良いのにと思ってしまいそうな「伊達の十役」などです。これらはまあ三部制ならば仕方がないにせよ、二部制に戻った暁にはチャンと元の姿に戻して上演してくれるのだろうね?と思うのですが、今回の「菊宴」の台本補綴を見ていると、どうやらそれも疑わしいように思われますねえ。

チラシを見ると、二代目猿翁が今回の制作にどの程度関与しているか分かりませんが、今回の台本補綴は石川耕士、演出は藤間勘十郎。昭和59年10月歌舞伎座上演ではほぼ4時間掛かっていたもの(休息時間含まず)を今回は3時間10分ほど、2割強の分量をカットしたことになりますが、そのカット・改訂の内容が非常に問題です。オリジナルの(奈河彰輔の)「菊宴」台本の、芝居として面白い・一番肝心なところを切り捨てて、筋の辻褄を合わせることしか考えていない補綴台本ですねえ。これでは「菊宴」の本当の面白いところが、全然伝わらないと思います。吉之助としては、今回の補綴台本で芝居を見て、「何ーんだ昭和の三代目猿之助と奈河彰輔の復活狂言がこの程度の仕事だったのか」と思われることは、大変残念なことです。また原作者・四代目南北にとっても本意ではなかろうと思います。何と言うかな、補綴に当たっては、先人に対する敬意を以て・作意を生かす態度が大事であると思いますね。

具体的には、二幕目・小名木川隠家での、宅兵衛と子役芳松が絡む件を全面的にカットして・筋が大幅に書き換えられたこと、もうひとつは、本来小名木川隠家の前場であるべき両国柳橋の花火の場を、小名木川隠家の後場に入れ替えたうえに・内容が大幅に書き換えられてしまったことです。それが問題である理由を以下に申し上げることにします。(この稿つづく)

(R5・7・29)


〇令和5年7月大阪松竹座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その2

このような先々代(二代目鴈治郎)・先代(四代目藤十郎)に共通した十兵衛の「はんなり」感が、初代鴈治郎から発する西の成駒屋の芸の大事なところだと思います。これは紙治や・その他和事系にも共通するものです。これを役者の「愛嬌」だと理解してしまうと、江戸歌舞伎のセンスだと多分これが近いかなと思いますが、もちろん重なるところは多くありますが、完全にぴったりはそぐわないようです。「愛嬌」と云うと、上方の語感だと、どこかにわざとらしさが残ってしまうようです。「はんなり」はもっと天然系ではないかと思いますねえ。出そうとして出るものではない。言い方は悪いけれど、何も考えていなくてもその身から自然に滲み出てしまう明るさ・華やかさなのです。しかもそれが「きりっ」とした印象と背中合わせに出るのが、上方の「はんなり」ではないかと思います。(例えば地唄舞の井上八千代の立ち姿を思い出してもらえば良いです。)だから「はんなり」は「はな(花・華)あり」だけであると完全に説明が出来ないのではないでしょうかね。やはり「晴れなり」というセンスがどこかに必要だと思います。

二代目鴈治郎の十兵衛を思い出しますが、「沼津」前半でのお米に気のあるところを見せる柔らか味ある演技は絶品でした。平作との掛け合いの面白さは語り草で、そこに「はんなり」の一面が確かに出ていました。しかし、むしろ二代目鴈治郎の十兵衛は、お米が人妻であると聞いてから以後の後半の変化(落差)が核心であったと思います。ここでの鴈治郎は興覚めしたヨソヨソした態度に変わり(つまり十兵衛は決まりが悪いわけです)そそくさと家を立とうとしますが、ここで事態は紆余曲折して、平作とお米が幼い時に別れた親妹だと分かる。ここから最後の千本松原での悲劇へと至ります。ここで命を賭けた平作の訴えに敵の行方を明かす行為を、「許されないこと・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という決然たる行為に見せるものは、「晴れなり」の感覚です。つまり鴈治郎の十兵衛の「はんなり」は、決して前半の見た目に楽しい場面のためだけにあるのではない。「沼津」全体を通して「はんなり」が一貫してあります。「はんなり」が十兵衛の性根と一体化したものとしてあるのです。だから「沼津」幕切れこそ「はんなり」の結実だと捉えて欲しいと思います。これで翻って前半の「はんなり」の楽しさも生きて来ます。これでこそ「面白うてやがて哀しき」浄瑠璃の本質に沿うことになります。(別稿「世話物のなかの時代」をご参照ください。)これは裏返せば平作にとっても同じことで、「沼津」幕切れこそ「はんなり」と云うことなのですね。

今回(令和5年7月大阪松竹座)の、当代鴈治郎の平作・当代扇雀の十兵衛ですが、芝居の勘所として押さえるべきところは押さえられています。堅実な出来で、平作・十兵衛親子の悲劇は十分描き出されています。別に大きな不満はないのだけれど、西の成駒屋の「沼津」としては、ちょっと渋い印象かなという印象ですねえ。悪いと云っているのではありません。堅実な出来ではあるのですが、やはり「はんなり」があってこそ西の成駒屋の「沼津」なのです。大事なことは、「はんなり」を役の性根と一体化したところまで落とし込むと云うことです。ここは紙治や忠兵衛・その他和事系にも通じることです。いいところまでは行っているのだから、先々代・先代の映像など見て研究していただきたいですねえ。

(R5・7・23)


〇令和5年7月大阪松竹座:「伊賀越道中双六〜沼津」・その1

大阪松竹座での、扇雀の十兵衛・鴈治郎の平作による「沼津」を見てきました。堅実な出来で、平作・十兵衛親子の悲劇は十分描き出されています。そこに大きな不満はないのだけれど、吉之助は先々代つまり二代目鴈治郎の十兵衛・先代つまり四代目藤十郎の十兵衛の舞台もそれぞれ複数回見てはいるので、今後の西の成駒屋のために些細なことを書いておきたいと思います。

上方の芸の伝承はもともと「芸は教わるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」と云うところにあるので、初代鴈治郎は頑として息子(二代目)に芸を教えることをしませんでした。二代目鴈治郎も息子に対して、基本そうであったと思います。だから紙治にしても・十兵衛にしても、四代目藤十郎のそれは、父親(二代目鴈治郎)とは感触が微妙に異なっていました。藤十郎の方がどこか「かつきり」としていたと思います。そこに武智歌舞伎の薫陶を受けた藤十郎の個性があったと思います。(武智歌舞伎には「かつきり」した印象が付きまといます。)

したがって藤十郎の十兵衛の「上方らしさ」が一体どう云うところから出るか、何が代々の成駒屋を繫ぐのかという問いは、簡単に言葉で説明できないフィーリング(感覚)みたいな・甚だ頼りないものになります。これを香り付けみたいなものに考えてしまうと、役の本質と直接的に関連しないように思われるかも知れません。しかし、それがないと何だか物足りない。何だか決定的に物足りないことになるのです。したがってそれは断じて「上方芝居らしさ」の香り付けなのではない。だから何かしら役の本質に深く関連するところがあるのであろう。それは「面白うてやがて哀しき」浄瑠璃の本質にも深く関わるものであろう。一応そのように当たりを付けてみることにします。

それでは藤十郎の十兵衛に、父親(二代目鴈治郎)のそれとどこに共通点(繋がったところ)を見るかということですが、吉之助が思うには、上方の「はんなり」した気分が「かつきり」した印象と裏腹で出る、はんなりした気分が出たと思えば引っ込み、引っ込んだかと思えばまたひょっこりと顔を出す、そんなところに共通したところがあったように思うのです。しかし藤十郎の方に「かつきり」した印象が強いので、「はんなり」した気分との対照性がより強く出る、そんなところがあったかも知れませんねえ。

「はんなり」は、辞書で引くと「上品で気品を兼ね備えて、明るく華やかなさま」と説明しているものが多いようですが、どうも漠然とした感じです。「上品で落ち着いた」とすると、「華やかでキャピキャピ」した感じと相反するようです。しかし、京言葉の感覚としては、「明るく華やかな」と云う方へ比重が掛かるようです。「はんなり」の語源は諸説があるようで、「はな(花・華)あり」を語源とする説が有力だそうです。長い歴史のなかで様々な意味が積み重なっているような気がしますが、吉之助には「晴れなり」が語源だとする説も捨て難い気がしますねえ。「晴れなり」は「天晴れ・あっ晴れ」(つまりかぶき的心情に通じ、「上方芝居らしさ」を説明する時に都合が良さそうな気がします。(この稿つづく)

(R5・7・20)


〇令和5年7月大阪松竹座:「京鹿子娘道成寺」

菊之助の「娘道成寺」は、本興行としては令和元年(2019)5月歌舞伎座以来であると思います。(間に令和3年・2021・8月国立劇場・無観客での映像収録が挟まります。)菊之助は、現在45歳。今回(令和5年7月大阪松竹座)の舞台は、現時点で技芸・体力の総合からも「娘道成寺」のひとつのピークを示すものと見て宜しいかと思います。まさに気力充実、安定した踊りで、一瞬たりとも目が離せない面白さです。

菊之助の白拍子花子を見ていて、特に横顔ですかねえ、菊之助の祖父・七代目梅幸の面差しをふと思い出す瞬間がいくつかありました。菊之助の折り目正しい踊りが、そんなことを想わさせるのでしょう。梅幸の花子は、ほんのり明るく色づいて可愛らしい印象がしたものでした。一方、菊之助はそこの感触が微妙に異なっていて、どこか陰を背負ったような印象がします。暗いということでもないのだが、しっとり落ち着いた色調です。これは菊之助が清姫の鐘の恨みを強く意識していることに拠ると思います。つまりそれだけ菊之助の方が本行(能)寄りの感触だということです。そこに祖父との個性の違いを見せています。これはどちらが良い悪いとも言い難い。世代の違いにより古典(クラシック)への対し方が微妙に変わってくると云うことがあるかと思います。令和3年国立劇場での映像については「娘道成寺」が「かぶき」の道成寺であることの意味はどこにあるかと云う問題を主に書きましたけれど、生(なま)の舞台のライヴ感覚のなかで吉之助の印象も変わってくるのは、菊之助が筋が一本通ったものをそこに保持しているからに違いありません。

菊之助の「娘道成寺」の見ものは、後半の鞠唄以降であると思います。そこでは菊之助のなかの・明るさと暗さが微妙な均衡を保っています。明るい場面に暗い陰がふっと差す瞬間があったりして、菊之助の設計の巧さがよく分かります。翻ってこの後半部の面白さは、道行を含む前半部に於いて鐘の恨みを幾分暗めの感触でしっかり踊り込んでいるからこそ生きて来ると云うことなのです。したがって今回は鐘入りまでで・押し戻しは付きませんが、「この踊りであれば押し戻しはまったく余計だ」と納得させるバランス感覚の良さ、いい踊りを見せてもらったという満足感が味わえます。

(R5・7・14)


〇令和5年7月大阪松竹座:「平家女護島〜俊寛」・その2

仁左衛門の俊寛は、人情味が強い。と云うことは世話の要素が若干強めに出てくると云うことで、そうすると「俊寛」のなかの「平家物語」の政治的構図(時代物の構図)が少し後ろに退くということになろうかと思います。時代物の構図を意識することは、作品解釈のうえからは大事なことに違いありません。しかし、実際のところ、「俊寛」の幕切れの感動は、そのような平家物語の世界の構図とはちょっと異なったところから来るものでしょう。それは「愛する人の役に立って死んでいくことの尊さ」(犠牲になると云うことではなく、もっと積極的な意味合いに於いてです)ということで、これだけで「俊寛」の悲劇は十分に立つと云うことなのです。「自分が大切だと感じているものを命を掛けて守り抜く」ということです。このことを仁左衛門の俊寛は、ホントに気負わず自然体の感覚で教えてくれました。

これは前月(6月)歌舞伎座での、仁左衛門のいがみの権太で書いたのと、まったく同じことなのです。平家物語の時代物の構図から無関係にしても、「鮓屋」での権太一家の悲劇は立つと云うことです。仁左衛門は、そこに「鮓屋」や「俊寛」の普遍的視点・とでも云うか「感動の取っ掛かり」を見ているのです。二つの舞台に共通した自然体の感覚(それはどこか世話物的感触に通じる)がするところに、現在の仁左衛門の芸の成熟を見る思いがします。

この俊寛であると見苦しい様を見せないままで終わりそうな気もしますが、まあ人間と云うものは・そう理屈通りに動くものではないわけで、悟っているようでも浅ましい姿を晒してしまうのが人間という生き物の愚かしさなのでしょうねえ。仁左衛門の俊寛は、花道の波布に切れ目を入れて・スッポンを下げて・俊寛が肩まで海水に浸かって・船を呼び続ける場面を写実的に見せました。これはかつては初代猿翁や三代目延若が見せた古い上方での演出法だそうです。

幕切れでの・孤岩の上で沖合いに消えゆく船影を見つめる俊寛の表情は、ここはどんな役者も工夫を凝らす箇所です。誰が良いとか・誰が正しいとかではありませんが、仁左衛門の俊寛の場合は、五体からフッと力が抜けて「ウンウン・・そうだ、これで良かったんだ・・」と微笑みをかすかに浮かべると云う感じであったでしょうか。ホント優しい目でありましたねえ。あの俊寛の目には「弘誓の船」の帆が遠くに映っていたことでしょう。

今回(令和5年7月大阪松竹座)の「俊寛」は、周囲の役者も仁左衛門の俊寛の意図を体現すべく、不足ない演技を見せたと思います。前述のとおり、「平家物語」の政治的構図(時代物の構図)がやや後ろに退いて、世話物的なこじんまりした感触になりましたが、逆に云えば「まとまりが良かった」と云うことになるでしょうか。丹左衛門(菊之助)が「・・見ても見ぬふり知らぬ顔」と鸚鵡して瀬尾(弥十郎)をやりこめる場面は近松の原作にはないものだけれど、上手く出来れば効果的な場面になります。今回は観客によく受けていましたねえ。それだけ観客が芝居に入れ込んで見ていたと云うことですね。(大阪のお客さんだからかもね。)幕切れの俊寛の微笑みが、後味良く感じられた舞台でありました。

(R5・7・11)


〇令和5年7月大阪松竹座:「平家女護島〜俊寛」・その1

歌舞伎を見ると、俊寛はヨボヨボ老人に仕立てられることが多いと思います。これは演じる役者の年齢にも拠りますが、鬼界ヶ島に独り置き去りにされる俊寛の哀れさを強調したいと云う意図が大きいように思います。草の根食んでも生き延びそうな頑健な俊寛であると哀れでなさそうだからです。しかし、「平家物語」・巻第三・「僧都死去」に拠れば、俊寛は亡くなった時に37歳であったようです。まだまだ血気盛んなお年頃であったのですね。鹿ケ谷の変への関与もそんなところから発したものかと思います

まあそれは兎も角、歌舞伎の俊寛が史実より大分年上のイメージに仕立てられることが多いなかで、今回(令和5年7月大阪松竹座)の仁左衛門演じる俊寛は、「若さ」を強く意識した俊寛だと云えそうです。そこを興味深く見せてもらいました。仁左衛門は常に若々しいイメージを大事にする役者さんですが、特に今回は俊寛の「若さ」が、都に残した妻東家への愛情という形で意識されていたと思います。丹波少将と海女千鳥との恋の話を聞いた俊寛は、これを我が事のように喜んで、こう言います。

『珍らしし珍らしし、配所三歳(みとせ)が間、人の上にもわが上にも、恋といふ字の聞き始め、笑ひ顔もこれ始め。殊更海士人の恋とは大職冠行平も、磯にみるめの汐なれ衣。濡れ初めはなんと、なんと。俊寛も故郷にあづまやといふ女房、明け暮れ思ひ慕へば、夫婦の中も恋同然、語るも恋聞くも恋、聞きたし聞きたし、語り給へ』

俊寛の東家への思いと云うのは「恋同然」で、ワクワク・生き生きした・暖かい人間的な感情を伴ったものです。俊寛は、少将の恋話を聞いて客観的に喜んでいるのではなく、同じく現在恋をする者として共感しているのです。俊寛の東家への恋と、少将と千鳥の恋が重なっている。ホントに我が事なのです。「今生よりの冥土」と呼ばれる鬼界ヶ島に棲む身にとって、この二つだけが大切な・絶対に守らなければならない希望です。このことが仁左衛門の俊寛であると、よく分かります。イヤ他の役者さんの俊寛がそうでないと言っているわけではありません。多分、仁左衛門の俊寛には「現在恋をする者」の実感と云うか、色気があると云うことなのでしょうねえ。確かにヨボヨボ老人の俊寛だと、この色気は出せませんね。このことが後半になって効いてきます。自分の代わりに船に乗れと千鳥に言う時の俊寛の台詞を見ます。

『アヽこれ、われこの島に止まれば、五穀に離れし餓鬼道に、今現在の修羅道、硫黄の燃ゆるは地獄道、三悪道をこの世で果たし、後生を助けてくれぬか。俊寛が乗るは弘誓(ぐぜい)の船、浮世の船には望みなし。サア、乗つてくれ、早乗れ』

この「俊寛が乗るは弘誓の船」と言う時の仁左衛門の俊寛の表情は、何と言いますかねえ、「ああ何という喜び・・」と云うかのように満たされた、しかし遠くの方を見る優しい目付きでありましたねえ。妻東屋を亡くした俊寛にとって、少将と千鳥の恋だけが、残された自己実現への道なのです。つまり今回の俊寛のキーワードは「恋」、現在進行形の恋と云うことです。(この稿つづく)

(R5・7・7)


 

 

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