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駒形茂兵衛の「負い目」について〜「一本刀土俵入」

令和5年9月歌舞伎座:「一本刀土俵入」

六代目中村勘九郎(駒形茂兵衛)、五代目中村雀右衛門(お蔦)、四代目尾上松緑(船印彫師辰三郎)、二代目中村錦之助(波一里儀十)、八代目市川染五郎(堀下根吉)他


1)長谷川伸もののパターンについて

本稿は、令和5年(2023)9月歌舞伎座での「一本刀土俵入」の観劇随想です。この公演の駒形茂兵衛の本役は幸四郎でしたが・吉之助が観た日(22日)は幸四郎が体調不良のため休演で、急遽勘九郎が代役を勤めました。勘九郎は勘太郎時代に茂兵衛を2回勤めていますが、茂兵衛を演じるのは久しぶりのことです。

ところで舞台について触れる前に、ちょっと考えてみたいことがあります。10年振りに取手の宿を訪ねて、茂兵衛は何をしたかったのかと云うことです。

長谷川伸の主人公は、例えば沓掛時次郎や番場の忠太郎のような、渡世人が多いことはご存じの通りです。ここに或るパターンが存在します。長谷川伸ものの主人公はどれも愛する女を幸せにしてやりたい気持ちが人一倍強い。しかし、自分は女の愛情を受けるに値しない駄目な野郎だという負い目も、これまた人一倍強いのです。男は、女の幸せにふさわしくない自分をずっと責め続けています。だからここでやっと二人の幸せが来ると云う場面になると、男は女に気付かれないように静かに身を引くというパターンが多いようです。

ヒロインは悲惨な境遇に置かれています。男にはそこから女を何とか救い出す力がある(多くの場合、それは腕力ですが、なにがしかの金である場合もある)。そこで女を助けるわけですが、目の前の問題が解決されてしまうと、男は急に現実と向き合わねばならないことになる。そうすると今度は自分に付きまとう「負い目」という奴が気になって来ます。負い目がある以上、女との幸せは決して長くは続かない、自分は女を幸福にする資格がないことを男は分かっています。そこで「負い目」が露呈する前に、男は女の元から去ってしまう。こうすることで美談は美談のままで終わり、男の行為の「粋」は保たれる。

「一本刀」の場合、お蔦は茂兵衛のマドンナですが・「愛する女」(恋人とか女房)ではありませんけど、茂兵衛もまた、上述のパターンに乗ることをまず押さえておかねばなりません。茂兵衛はあの時お蔦姐さんに受けた恩を決して忘れることがありませんでした。しかし、十年振りに姐さんに会うということは、「あの時の御礼がしたい」と云うような単純明解なものに決してならないはずです。そこは長谷川伸ものですから捻りが利いている、と云うか屈折したものです。それは茂兵衛に「負い目」があるからです。このため茂兵衛は「あの時の御礼がしたい」と素直に言えなくなっています。それでも「あの時の御礼がしたい」のです。「一本刀」の幕切れでは、そこのところを押さえて置きたいですね。(この稿つづく)

(R5・10・2)


2)茂兵衛の「負い目」について

第二幕第二場「お蔦の家」で十年ぶりに茂兵衛がお蔦と再会する場面の台詞を引きます。

「お見忘れはごもっともでござんす。茂兵衛でござんす。(中略)お約束を無にいたし、こんな者に成り果てまして、お目通りはいたさねえ筈でござんしたが、十年振りでこっちの方へ、流れてきたので思い出して、他所(よそ)ながらお尋ねしてえと、きょう小半日うろついて、それでも判らずにおりましたが、飲み屋の女が唄う鼻唄から気がついて、聞いてみたら女飴屋の口真似だとか、それを手蔓(てづる)に方々聞き、ここへ来てみると子供の声で、昔聞いた節の唄、お蔦さん茂兵衛はモノに成り損ねましたが、ご恩返しの真似事がいたしてえ。お納めを願います。(手早く金包を置く)

「あの時の約束(わしは石に咬りついても出世して横綱になります)を違えて、こんな者(無宿の博打打ち)に成り果ててしまい、とてもお目通り出来る柄ではないが、こんな俺にもあの時のご恩返しの真似事をさせて下せえ」と云うわけです。茂兵衛の「負い目」はふたつあります。ひとつはお蔦との約束を違えて相撲取りとして出世出来なかったこと、もうひとつは堅気にならず(「なれず」かも知れないが事情は分かりません)博打打ちになってしまったことです。だから茂兵衛が十年ぶりにお蔦に会いたいと思ったのは、厳密に云うならば「謝りたかった」と云うことなのです。お蔦に知って欲しいことは、「あの時の御恩を片時も忘れたことは御座いません」と云う・これだけです。ご恩返しは口実、あくまで「真似事」です。と云うことは、茂兵衛のあの有名な幕切れの台詞はどのように響くことになるのでしょうか。

「ああお蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす。

つまりこれは最後の「横綱の土俵入りでござんす」を声を張り上げて言ってはいけないと云うことです。茂兵衛にとってこれは恥ずかしくて言えない台詞です。だって茂兵衛はお蔦との約束を違えてしまったのですから。だから言えた柄じゃないのだけど、でもちょっとだけ言ってみたかったのです。姐さんの目の前で「横綱の土俵入りでござんす」って正々堂々声を張り上げて言ってみたかったなあ・・グスン(涙)スミマセンお蔦さん・・と心のなかで言うということですね。この幕切れこそ長谷川伸です。(この稿つづく)

(R5・10・4)


)勘九郎の茂兵衛

ここまで「横綱の土俵入りでござんす」の末尾を張り上げてはいけない理由の心情的分析をしてきましたが、もうひとつの理由は末尾を強く張ってしまうと、この後、お蔦からもらった巾着を取り出し・心のなかでお蔦に謝る場面の情感がかき消されてしまうからです。ところで生前の十八代目勘三郎が勘九郎(当時は勘太郎)に茂兵衛のこの台詞を教えている映像を見た記憶があります。(平成23年11月4日フジテレビ放送「中村勘三郎・復帰への日々」)

「しがねえ姿の、横綱の土俵入りデーゴーザーンースーゥー。(と長く引き伸ばし張り上げ)中村屋ッ(と自分で掛け声を掛ける。)」

とやっていましたねえ。今回(令和5年9月歌舞伎座)の勘九郎は、亡き父の教えた通りやっていました。まあ十八代目勘三郎がこの末尾を張り上げずにいられなかったところに役者勘三郎の熱さを聞く気がするのも確かですけれど、これだと全然「しがねえ」が利いて来ないのです。(掛け声に至っては論外と云うべきで。)ここは幕切れのしみじみとした情感を大切にしてもらいたいですねえ。そのためには「一本刀」だけでなく・他の長谷川伸作品にも目を通して、そこから浮かび上がる長谷川伸の様式(フォルム)を正しく理解せねばなりません。

勘九郎の茂兵衛には、もうひとつ気になることがあります。序幕はもっさりした情けない取的さん、二幕目は颯爽とした粋な渡世人という変わり目をはっきり見せるのがこの役の勘所だと考えているかに見えますね。そう云うことならば上手いことは上手いのだが、早替り芝居ではないのですから、この二つを描線の太さで結び付けて、ちゃんと連続した同一人物に見せねばなりません。そこに茂兵衛の歳月を感じさせてもらいたいのです。約十年の歳月のなかで渡世人としての茂兵衛は幾たびの修羅場をくぐって来たことでしょう。茂兵衛の身のこなしを見ればそれが分かります。しかし、それは決して自慢することではないのです。渡世人の世界でそんな苦労が出来たのであれば・・・「その同じ苦労をどうして堅気の世界でしてくれなかったのだい」とお蔦姐さんならば茂兵衛に意見をしたに違いない。予期せぬ事態からお叱りを受ける余裕とてなかったけれども、もしかしたらお蔦に叱ってもらうために茂兵衛はここまで来たのかも知れませんね。そう云うこともちょっと考えてみたら如何でしょうか。(この稿つづく)

(R5・10・5)


4)雀右衛門のお蔦

雀右衛門のお蔦は、寂しさと云うか・うらぶれた哀しさは十分表現出来ています。そこは上手いものなのだが、そう云う心境にあるお蔦が偶然前を通りかかった情けない取的さんに優しい言葉を掛けてやる気持ちにどうしてなったのでしょうか。そこが大事だと思います。

お蔦はたまらなく人恋しかったのでしょう。誰でもいいから相手してもらいたかったのです。その相手がたまたま茂兵衛であっただけで、それは時が過ぎればすぐ忘れちゃう程度の「情け」であったのですが、この「たまらなく人恋しい」というところが大事なところで、そこが「自分は世間から見放された」と孤独を感じていた茂兵衛の心にビーンと響いたのです。

お蔦がそんな優しい心境になったのは、後から考えれば、それは行方知れずになってしまった辰三郎のことが原因したのであろうと察することは出来ます。しかし、序幕・我孫子屋の場の時点ではこのことは分かりません。しかし、このうらぶれた哀しい状況においては、「人恋しい」という感情は、どこか人生に対して前向きな(ポジティヴな)要素を孕んでもいるのです。それは、この世は真っ暗闇だけど・それがあるならば「人生は決して捨てたもんじゃない」と云う「強さ」にも通じ合うものです。長谷川伸ほど名も無き庶民の哀しみに優しい眼差しを向けた劇作家はいませんでした。

雀右衛門のお蔦はうらぶれた哀しさは十分に表現出来ていますが、そこの域に留まっちゃっている感が若干しますねえ。人生に対して前向きな「強さ」をもう少し前面に押し出してもらいたいと思いますね。これは茂兵衛に対する前向きなメッセージになるものです。この殻を破れるかどうかは、役者雀右衛門の今後にも関わってくることだと思います。

(R5・10・6)

(追記)本公演の駒形茂兵衛の本役は幸四郎でしたが、幸四郎が体調不良のため休演、20日〜23日までを勘九郎が代役を勤めました。なお幸四郎は24日から舞台復帰しました。幸四郎の茂兵衛については別稿「十代目幸四郎初役の駒形茂兵衛」をご覧ください。


 

 


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