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誣い物語りの真実

令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」

五代目坂東玉三郎(芸者お園)、四代目中村鴈治郎(岩亀楼主人)、遊女亀遊(河合雪之丞)、三代目中村福之助(通辞藤吉)、二代目喜多村緑郎(思誠塾岡田)他


1)玉三郎のお園

今月(令和4年6月)歌舞伎座第3部は、もともと「与話情浮名横櫛」半通しが出る予定でしたが、切られ与三郎に出るはずであった仁左衛門が帯状疱疹で降板したために、急遽「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に変更となったものです。こういう場合代役を立てずに演目自体が差し替えになってしまった事例を俄かに思い出せないのですが、既に前売りが始まっていた時点での突然の発表であったので、これにはちょっと驚きました。こうなったのにはいろいろ事情があると察しますけれど、ひとつには「自分が興行を守る」という玉三郎の並々ならぬ決意を感じますねえ。実際今回の演目での玉三郎(芸者お園)の出番・台詞の多さはお富とは比較にならぬものです。芝居のなかでの主役の比重が突出しています。玉三郎の「しゃべり」の芸が味わえるということならば、歌舞伎にこれに匹敵する役はないと云えるほどのものです。玉三郎がお園を演じるのは11回目(歌舞伎座での上演は2回目)で、女形玉三郎の芸を語る時、これを抜きにして語ることが出来ない当たり役のひとつです。

しかし、恐らく仁左玉の久しぶりの与三郎とお富での共演に期待したファンは多かったであろうし、「せっかくの歌舞伎座出演なのに新劇の玉三郎なの?」と云うガッカリが多少あったのかも知れません。客席の入りは玉三郎出演にしてはちょっと寂しい感じがします(終演が9時を過ぎることも影響しているのかも)。が、まあ悪いことは言いませんから、玉三郎の久しぶりのお園は、是非見ておいた方が良いとお勧めしておきます。別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」でも触れましたが、「日本橋」のお孝や「ふるあめりか」のお園ほど玉三郎の体質にピッタリした役を、歌舞伎は十分に提供できなかった・・・玉三郎の天才は、結局、歌舞伎という器に収まり切れなかったのだなあ・・・ということを思いますねえ。女形玉三郎を、或いは歌舞伎の女形を考えるための材料を、この「ふるあめりか」の舞台は提供してくれます。(この稿つづく)

(R4・6・5)


2)語り物芸能の系譜

幕末の開港間もない横浜の遊郭「岩亀楼」で、花魁亀遊が自害してしまいました。この事件が瓦版に「外国人に買われることを拒否して死んだ攘夷女郎」と大々的に取り上げられ、噂を聞きつけた客で岩亀楼は大いに賑わいました。このため亀遊の死の真相を知る芸者お園は、心ならずも「攘夷のヒロイン」を物語る役廻りとなり、自分でも何が何だか分からなくなって、話にどんどん尾ひれがついていく・・・・と、まあ「ふるあめりか」の粗筋を紹介すれば、こんなところかと思います。お園は、いつの間にやら自分が周囲を動かしているような錯覚に陥っていたかも知れません。しかし、お園がしゃべった或る「事実」を好ましからぬと感じた連中から脅迫を受けて、得意満面だったお園は、惨めに打ちひしがれて一間に残されます。この芝居は、世間に横行する「フェイク・ニュース」(事実とは違う作り物の報道)とか、逆にSNSで本音を語ったつもりがその意図に係わらず「誹謗中傷」だと受け取られて大揉め事になってしまうとか、現代にもよくありそうな話しに思えます。

もちろん「ふるあめりか」はそのようにも読むことが出来ますし、多分、それが普通の、現代的な読み方であろうと思います。しかし、伝統芸能である歌舞伎でこの戯曲を取り上げるならば、歌舞伎とは義太夫狂言など語り物芸能の系譜を色濃く引き継ぐ芸能であるわけですから、この戯曲を新劇スタイルでやる時とはちょっと異なる色合いで、この戯曲が見えて欲しいものであるなあと吉之助は思うのです。別稿物語る者と語られる者」は、そのようなことを論じたものです。折口信夫は次のようなことを書いています。

『語る人が、見て居た人で、同時に物語を生活にして居る人だと考えられている。それで、非常に長く生きて居る人があったと(世間に)考えられている。(中略)何の為に生きて物語をしていなければならないか。聖なる仕事をせんが為に長く生きて居ると見える者もある。つまり長生きして語り歩くのは、物語をして人に知ってもらわなければならないことがあったのだ。つまり罪障消滅のための懺悔の生活をして居るんだと言ふ考えにはいってくるのである。』(折口信夫:「八島語りの研究」・昭和14年2月)

このことを念頭に置いた上で、幕切れのお園の台詞を読んでみてください。

『私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい。(汽笛)それにあれからもう五年、藤吉どんはアメリカでいまごろはどうしているんだろうね。このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ。・・(間)・・それにしてもよく降る雨だねえ。・・(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」)

お園は脅された恐怖で混乱しており、最初は自分がしゃべったことは全部本当だと言い、次にはみんな嘘っぱちだと言っています。しかし、そんなところから分かって来ることは、「語られていることは事実か、それとも嘘か、この話しはどこまで信じて良いものか」という問題は、実は大したことではないということです。そんなことは、実はどうだって良い事なのです。物語を語るお園の気持ちは、そう云うところにはない。真実は、「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」と云うところに在ります。お園には、物語をして人に知ってもらわなければならないことがあったのです。なぜならば、お園もまた、寂しくって、哀しくって、心細くって仕方がなかったからです。つまり、お園が「攘夷女郎」の語りを続けるのは、自らの罪障消滅のための懺悔の生活をして居ると云うことです。それがお園の人生であったのです。

「物語りを語る者」と云う伝統芸能の視点からは、有吉の「ふるあめりか」はそのように映るわけです。戯曲の細かいところを読んでも、有吉は「物語り」の成り立ちを確かに分かって書いていると思います。かと云って、この戯曲を、事実に尾ひれがついて次第に成長していく「フェイク・ニュース」と、それを信じて振り回される人々のドタバタ喜劇と読んだって、それが間違いだなんてことは決してありませんがね。それもまたこの戯曲の一面ではあります。(この稿つづく)

(R4・6・6)


3)誣い物語りの滑稽

別稿「和事芸の起源」をなぞることになりますが、「物語り」とは、もともと歴史上あった事柄・事実を語り伝えるのが、本来のあり方でした。しかし、時代が下ってくると、事実でないことを「物語る」ということも出てきます。これを「誣(し)い物語」・あるいは「作り物語」とも言います。しかし、「物語り」はあくまで事実を語り伝えるところに信用があるわけなので、真実味を以って真実めかして語り・これを相手も真剣に聞くことに意味があるわけです。しかし、作り話であるならば、どこかに作り話であることの申し訳が必要になります。そうでないとそれは人を騙すことを意図した「嘘話」になってしまうからです。「これは実は作り話なんでーす・そうかそうかそうだろな」という暗黙の了解が作り手と受け手にあった上での「物語り」なのです。

誣い物語であることの申し訳は、滑稽味・諧謔味という形をとることが多いようです。例えば平安初期の「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などに滑稽味のある作品があるのは、そうした理由から来ているのです。しかし、一方で「源氏物語」のように比較的まじめな作り物語もあるわけですが、これもどこかに滑稽味・諧謔味をその要素に含んでいると考えるべきで、その間に厳密な区別はできないのです。こうして長い歳月を掛けて「まじめな強い物語」が出来上がって行きます。

物語りを素直に信じて感動する者は少なくないでしょうが、どうせ嘘話だとシニカルに笑う者もいるだろうし、どこまでがホントでどこがウソだと始終疑いの目付きで聞く輩もいるでしょう。お園は機転が利く女ですから、聞き手の反応を察知して、話しの方向をパッと変えてしまいます。こうして「物語り」は成長して行きます。このような物語り」の成り立ちを踏まえて「ふるあめりか」の舞台を見ると、そこに映るものは、「攘夷女郎の死」という誣い物語の生成と消長の過程(プロセス)なのです。お園は、自分の意志に係わらず、「物語り」の語り手の役割を負わされてしまいました。これからもお園は「攘夷女郎」を語って生活していかねばならないでしょうが、こうなった以上、それは辛いものにならざるを得ないでしょうねえ。「攘夷女郎」の物語りが既に世間に流行らなくなって来たことは、舞台からも察せられます。

ですから誣い物語りを扱った「ふるあめりか」のドラマが滑稽の様相を呈することは、ごく自然なことではあるのです。しかし、幕切れの状況に於いては、滑稽の申し訳がもはや機能しなくなっています。ここに見えるのは滑稽さではなく、惨めさです。だからお園は、改めて「物語り」の本義に立ち返らねばなりません。「物語り」は本当のことを語るのが本義です。だからお園は、「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」と言うのです。これがお園にとっての真実であるからです。ですからここでお園が主張することは、「誣い物語とは嘘であって、嘘ではない。真実を語っているのだと知りなさい」と云うことです。幕切れのお園の、この台詞は、シリアスに響いて欲しいと思います。(この稿つづく)

(R4・6・7)


4)誣い物語の真実

「誣い物語とは嘘であって、嘘ではない。真実を語っているのだと知りなさい」と云うことは、「人生の真実を誣いる」演劇という芸能について目を転じて見ると、これもいろんな場面に当てはまると思います。芸能の演技が「物真似」から発したことは、よく知られています。断じてしまえば、それは嘘事に違いありません。つまり「物真似」が滑稽味や諧謔味を重要な要素とすることも、「誣いる」という行為の原義から来るのです。和事の「やつし」の芸が身分が落ちぶれた哀れさ(シリアスな要素)を強調しながら・その傍らで三枚目的な(滑稽な)演技を見せるのも、そこから来ます。つまり和事芸における真実とは、「ここに見せている惨めな姿は、本当の私の姿ではない、本当の姿は別のところに在る」ということなのです。(別稿「和事芸の起源」をご参照ください。)

歌舞伎に於いて「誣いる」要素の最たるものが、女形であることは言うまでもありません。しかし、普段歌舞伎を見る分には、女形の滑稽ということにあまり思いが至らないかも知れません。実は女形芸にも滑稽な要素が潜んでいるのです(別稿「現代演劇において女形が象徴するもの」を参照のこと)が、歌舞伎のなかでの女形芸は、滑稽な印象を引き起こさないように、独自の様式感覚のなかでしっかり守られているのです。そうでないと演劇上のジェンダーが崩壊してしまいます。そうならないように長い歴史のなかで歌舞伎が編み出した様式感覚で守っているのです。しかし、女形がジェンダーのズレの感覚を意識的に駆使する場面がやはりあります。それは、女武道とか悪婆芸などで見ることが出来るものですが、単純に滑稽という形では現れません。それは、女形の「愛嬌」と云う、やや捻った形で現れます。この場合の女形の真実とは、「ホントはこんなことはやりたくないんですよ、やりたくないんだけど、愛する人の為だから仕方ないのよ」ということです。(別稿「悪婆の愛嬌」・「源之助の弁天小僧」を参照ください。)

さてこれでやっと玉三郎の「しゃべり」の芸について考える準備が整いました。別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」でも触れましたが、伝統芸能としての女形の「しゃべり」の芸は、もちろんそれは従来からも在るものですが、どちらかと云えば、それはアクが強く・重ったるく粘って・しかもどこか暗いと云うのが、これまでの印象だったのではないかと思います。ところが、玉三郎の「しゃべり」には、そのような重ったるいところがなかったのです。玉三郎の「しゃべり」は、軽やかでした。もちろん様式的な裏付けがしっかりあるのだけれども、伝統的な女形のエグ味から開放された軽やかさがあったのです。この「軽やかさ」は、玉三郎の「愛嬌」と言い換えて宜しいものだと思いますね。そこが女形玉三郎が現代的である所以だと、吉之助は考えているのです。

しかし、玉三郎の体質にピッタリ嵌った役は、残念ながら、歌舞伎にはそれほど多くなかったのです。玉三郎の美しい姿を拝める役はもちろん多くあります。役の解釈において玉三郎の優れた理解力に感心させられる役ももちろん多い。しかし、「日本橋」のお孝や「ふるあめりか」のお園ほど玉三郎の「しゃべり」の芸を堪能できる役は、残念ながら歌舞伎にはそう多くはありません。それでは誣い物語りを扱った「ふるあめりか」のドラマのなかで、玉三郎の「しゃべり」の芸がどのような効果を発揮しているか、それについては次章で考えます。(この稿つづく)

(R4・6・8)


5)玉三郎の「しゃべり」の芸

「ふるあめりか」で玉三郎が芸者お園を演じるのは、平成24年(2012)10月赤坂ACTシアター以来10年振りということで、歌舞伎座であると平成19年(2007)12月以来の上演ということになります。今回(令和4年6月歌舞伎座)の玉三郎の芸者お園を見てひときわ印象的であったことは、玉三郎の特質である「軽やかさ」が、これまでよりも前面に出て見えたことです。玉三郎の「軽やかさ」が水を得た魚のように心地良く泳いでいるように感じました。女形が持つ「虚」の要素(つまり「誣いる」要素と云うことです)とその申し訳としての「愛嬌」が、ほどよいブレンドと軽快なテンポで、玉三郎の「しゃべり」の芸の軽やかさとなって現れたということです。

恐らくそれは今回が新派を主体とする共演メンバーであったことにも拠ると思います。そう書くと平成19年(歌舞伎主体)・平成24年(新劇主体)の共演メンバーが良くなかったように聞こえたかも知れませんが・そう云う意味ではないですが、しかし、今回の新派主体の共演メンバーは玉三郎にとってより「水が合っている」と思うのです。だから玉三郎が、自然に振る舞えるのです。やはり玉三郎には新派が似合うなあ・・もしかしたら歌舞伎よりも・・ということをチラッと考えてしまいますが、これは玉三郎にとって全然不名誉なことではないと思いますね。別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」でも触れたように、女形・玉三郎は、明治維新の時点で進化を止めてしまった歌舞伎の女形の、そのもうちょっと先の、新しい感覚を行っているのです。

平成19年歌舞伎座での上演では、歌舞伎の共演メンバーが妙にはしゃいだ印象を受けました。ホントは歌舞伎役者ならばこれを「古典的に」落ち着いた色調で処理すべきところなのですが、そこで変に頑張っちゃってドタバタ喜劇に処理してしまったのです。その筆頭が故・十八代目勘三郎で、滑稽を煽る印象が強いものでした。勘三郎の岩亀楼主人を見ると、「客なんて自分の聞きたい話しを勝手に聞きたがってんだから、例えウソでも適当にあしらっておけば、それでいいんだよ」と言う感じに見えましたねえ。まあそういう解釈もあり得ることとは思いますが、今回(令和4年6月歌舞伎座)の鴈治郎であると、そこのところの程が良い。「お客は自分の聞きたい話しを聞きたがっているのだから、そのようにして差しあげるのが、私らの務めと云うものでしょ」と言う感じに見えます。ホンのちょっとの違いのようであるけれども、それが大きな違いになって芝居のなかに表れるのです。鴈治郎の岩亀楼主人はトボケた味わいのなかに、人の良さと・そのなかで誣い物語りを生み出す者たちの無垢さが見えるようで、これはとても良い出来だと思います。総じて今回の出演メンバーはほどよく落ち着いて、バタバタしたところが少ない。おかげで玉三郎の芸者お園が随分演りやすくなったと思います。(この稿つづく)

(R4・6・12)


6)女形芸の愛嬌について

かつて全国各地を放浪して「物語り」を語ってまわる者たちがおりました。盲目の琵琶法師や熊野比丘尼のような芸能者たちです。彼らが苦労して放浪の旅をして語り歩くのは、物語をして人に知ってもらわなければならないことが何かあったに違いなかったのです。それは、罪障消滅のための懺悔の生活をして居るんだと言ふことです。お園の「攘夷女郎」の物語りが次第に作り話(ウソ)で塗り固められていくのは、或る意図を以て「それらしい」話しを仕立てたと云うことではありません。昨今の・いわゆる「フェイク・ニュース」にはそう云うものが多いでしょうが、お園の物語りはそれとは全然違うものです。似ているみたいだけれど、これはまったく違うものです。

話しを事実通り、「亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだ」ままにしておいたのでは、亀遊さんがあまりに可哀そうだ。語り次ぐ私たち(岩亀楼の面々)も、悲しくってやり切れない。だから死んだ亀遊さんを少しでも綺麗に飾ってあげようじゃないかと云う、そんな気持ちから出て来るのです。なぜならば語り次ぐ私たちの人生だって、考えて見れば亀遊さんの人生と大して違うわけじゃない。みんな寂しくって、哀しくって、心細く感じながら必死で生きているんだと云うことなのです。ですから語りのなかで亀遊を立派に仕立てることで、語り次ぐ者たちも何かしら癒されているのです。だからお園が主張する真実とは、「攘夷女郎」の物語りは嘘であって、嘘ではない。真実を語っているのだと知りなさい」ということです。

ところで和事の「やつし」の芸が身分が落ちぶれた哀れさ(シリアスな要素)を強調しながら・その傍らで三枚目的な(滑稽な)演技を見せると云うことは、先に触れました。演技のなかに実の要素と滑稽な要素が交錯するわけです。この場合、滑稽な要素がウソを云っているということではないのです。しかし、面子やら建前やらで本音を素直に表現できない複雑な状況があって、そのため本音を茶化してみたり、時にわざと本音でないことを混ぜてみたりします。そう云う状況は心理的にストレスが掛かるわけで、だから声の調子が上下してみたり、テンポが微妙に揺れたりします。同時代の、江戸荒事の台詞のような急激な変化ではなくて・緩慢な変化ですが、これも歌舞伎のアジタートな表現のひとつなのです。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」を参照ください。)ただし、これは和事の立役の台詞術のことで、女形の台詞術ではありません。初代藤十郎の相手役であった初代芳沢あやめは、藤十郎の息を当然承知していたでしょうが、当時の女形の台詞術ではまだそれは実現できませんでした。しかし、後年人形浄瑠璃へ移籍した近松門左衛門の「嫗山姥(こもちやまんば)」の八重桐の廓噺の「しゃべり」が、そこに藤十郎の「しゃべり」の女役への応用の可能性を示してくれています。それは、実の要素を女形の愛嬌で紛らせて聞かせる「しゃべり」の芸です。もっとも歌舞伎化された「嫗山姥」では、八重桐のこの場面は「しゃべり」(仕方話)ではなく、「おどり」みたいになってしまいました。やはり在来の女形の「しゃべり」の芸では、具現化が難しかったのかも知れませんねえ。

そう考えると、玉三郎の「しゃべり」の芸が、在来の女形の「しゃべり」と一線を画す、明治維新の時点で進化を止めてしまった歌舞伎の女形の、そのもうちょっと先の、新しい感覚を行っているということの意味も、自ずから明らかだと思うわけです。実の要素と愛嬌とが交錯する「しゃべり」の芸と云うことです。(この稿つづく)

(R4・6・13)


7)幕切れの台詞の改訂

「誣い物語とは嘘であって、嘘ではない。真実を語るものだ」とする時、作り話(ウソ)の要素は、物語のなかでどのような働きをするものでしょうか。本当にあったこと(事実)をさらに「もっともらしく」聞かせるためのウソもあるでしょう。偶然起こったこと(事実)をあたかも「必然的に起こったが如く」重く仕立てるためのウソもあるでしょう。いずれにせよそれらは、話しの真実味をより高めるためのウソなのです。聞き手を陥れる意図があるならばそれは論外ですが、そうでないならば・まあ別にいいじゃないかと笑える程度のウソなのです。誣い物語のウソの申し訳が滑稽味という形をとることが多いのは、そこから来ています。

『横浜はここ岩亀楼、攘夷女郎として天下に名高い亀勇さんが花も蕾の十七才、夢も幼い紅(くれない)を自ら断ったのは文久二年二月二十二日、二の字、二の字が並ぶのは何の因果か因縁か、今から五年前の出来事でございます。・・・』

玉三郎の「物語り」は、小道具の懐剣の恭しく儀礼的な扱い、その「もっともらしい」語り口、あたかもその場に居合わせた如くに語るその「真実らしさ」、お座敷客の反応をサラリといなし・お慰みに供する・その軽やかさと愛嬌を自在に見せて、まことに素晴らしいものです。ここでは本当にあったこと(事実)と作り話(ウソ)は混然一体となっており、どちらが実か虚であるか、両者の境目が見分けのつかないところにあります。「物語り」だけでなく、「ふるあめりか」では、全編に渡り玉三郎の「しゃべり」の芸が堪能できます。これをみれば、立役ならば滑稽で見せるところを女形芸では愛嬌でいなすと云うことは、自然に納得されると思います。

ところで「ふるあめりか」初演は、昭和47年(1972)12月・名古屋・中日劇場での文学座公演で、主演のお園は杉村春子が演じました。残念ながら吉之助は杉村のお園の舞台を見ていませんが、以下に吉之助の推測を絡めて、「ふるあめりか」のお園の、最後の台詞について、若干の考察をしたいと思います。

『私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい。(汽笛)それにあれからもう五年、藤吉どんはアメリカでいまごろはどうしているんだろうね。このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ。・・(間)・・それにしてもよく降る雨だねえ。・・』(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・現行台本)

これが最後の台詞(現行台本)です。この場面において、誣い物語の申し訳としての滑稽は、もはや機能していません。どこまでが実で・どこからが虚か・そんなこととはお構いなく、お園の物語りは「フェイク」(ウソ物語り)と決め付けられ、お園は惨めな姿で取り残されます。この場面でお園がかろうじて自分を保っていられるのは、自分が真実を語っていると云う気持ちだけです。それが「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」という台詞です。なぜならば、お園自身が寂しくって、哀しくって、心細くって仕方がなかったからです。それが、しがない三味線芸者お園の人生であったのです。

そうなると、この次にある「このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」と云う台詞の扱いがとても気になって来ます。この台詞で観客の笑い・拍手を引き起こしてしまうと、お園の人生の哀しみがしんみり伝わって来ない気がします。吉之助ならば、この台詞を叫ばせたくありません。どうも具合が良くないなあと思って吉之助は有吉佐和子の意図を図りかねたのです。ところが「ふるあめりか」初出台本(昭和45年・1970・7月・中央公論)を参照すると、最後の台詞は次のようになっていました。なお昭和45年と云うことは、文学座での初演以前と云うことです。

『(ややあって立とうとするが、腰が抜けている。這いながら、膳を手前にひいて、銚子の酒を茶碗に注ぎ、一息に呷る。)ああ、あーあ、こわかった。(まだ震えが止まらない。)ずぶ濡れだよ、まあ、ふるあめりかに袖はびしょぬれ。畜生!(もう一杯、飲む。たて続けに三杯。そこら中の銚子を集める。)なんだい、へっ、抜き身がこわくて、刺身が喰えるかってんだ。私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んでしまったのさ。(汽笛)・・それにしてもよく降る雨だねえ。・・』(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・初出台本)

初出台本では、「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれ」の台詞が、ずっと前の方に位置しています。この台詞は叫ぶ台詞ではありません。なるほどこの台本であれば、「亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」が、シリアスに響く気がします。恐らく、昭和47年文学座での初演に当たり、事情あって有吉が書き換えたのが、現行台本であろうと推測します。多分、幕切れをあまり暗くせず、もう少し明るい幕切れに処理したい意図だったのでしょう。とすると、吉之助にはこの改訂は一長一短があるような気がしますねえ。初出台本であると、物語りの語り手が「真実」に却って、お園の人生の哀しみがしんみりと伝わって来るようです。改訂台本であると、確かに幕切れは映えますが、「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」とお園が叫ぶと、ここで観客が思わず拍手してしまうので、語り手の「真実」が消し飛びそうな感じです。

恐らく杉村春子のお園も、「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」と叫ぶところでは、観客の拍手と笑い(もちろん好意的な笑いですが)を若干引き起こしただろうと想像はします。しかし、杉村には女としての「実」がありますから、そこはさすがに滑稽にも愛嬌にもならず、語り手の「真実」(お園の哀しみ)は伝わっただろうと思います。そこがやはり杉村の名優たるところで、その目算がないのならば、有吉は台本改訂をしなかったと思います。

一方、歌舞伎の女形は、女ではない者が女を演じると云う・いわば「誣いる」存在である。それが人生を誣いる「物語り」の語り手の立場と、自然にオーバーラップしてくるのです。おかげで「ふるあめりか」では、「誣いる」存在の申し訳としての玉三郎の愛嬌が、絶大な効果を発揮しました。虚と実の狭間に遊ぶ感覚が、まさに女形ならではの面白さです。ところが、最終場面に至り攘夷武士の脅しのために愛嬌の申し訳が機能しなくなってしまいました。ここで「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」と叫んでしまうと、どうしても観客から拍手と笑いが起きてしまいます。そうすると「亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」の台詞もシリアスに伝わらないことになります。なぜならば、ここで却るべき「実」が女形の方にないからです。そこが女形芸の限界であるかなと云うことをちょっと思いますねえ。

しかし、吉之助は玉三郎のお園の幕切れが悪いと言うつもりは毛頭ないのです。多分、玉三郎のお園は、杉村のお園の幕切れとは、少し異なる色合いを見せているのです。横浜にまで流れてきた・うらぶれた三味線芸者としては、玉三郎は綺麗過ぎるせいもあります。玉三郎のお園は、最後の最後にいくらか平静を取り戻し、また明日からもお呼びが掛かれば、またあの「物語り」を何とか続けていけそうな気がします。物語りの語り手の「真実」と云っても、それは一時の感傷に過ぎない。そんなことにこだわっていたら、わたしゃ明日からおまんまを喰って行けませんよと言いそうなお園ではある。まあそれもそうかも知れませんねえ。

*文中に参照した台詞は、有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらさじ」はどちらも中公文庫からですが、初出台本は(昭和57年2月出版)、改訂台本が(平成24年9月出版)です。

(R4・6・17)



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