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物語る者と語られる者〜「ふるあめりかに袖はぬらさじ」

平成19年12月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」 

五代目坂東玉三郎(芸者お園)、二代目中村七之助(花魁亀遊)、二代目中村獅童(通辞藤吉)、十八代目中村勘三郎(岩亀楼主人)他


『とんとある昔。あつたか無かつたかは知らねども、昔の事なれば、無かつた事もあつたにして聴かねばならぬ。よいか。・・・』(鹿児島県大隅肝属郡の昔ばなし出だし)

1)これからの歌舞伎の役割

有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、昭和47年12月文学座公演(名古屋・中日劇場)で杉村春子のお園により初演されました。以来彼女の当たり役として何度も演じられましたが、昭和63年10月(中日劇場)で玉三郎により引き継がれた作品です。ところで玉三郎がこんなことを語っています。

明治末期から大正・昭和にかけて、歌舞伎が古典演劇という枠に入り始めたころ、古典劇をなし崩しに現代劇にすることが出来なくて新派という演劇が生まれました。その新派に、泉鏡花先生や、三島由紀夫先生、北條秀司先生が作品を書いていきますが、これらの作品は大きく考えてみれば、歌舞伎や日本の演劇の流れから生まれたものだと思っています。歌舞伎にとって新作も大切ですが、こうしたつながりのある作品を、現代の歌舞伎俳優達が、歌舞伎の近代の作品として上演することも大切だと思っています。』(坂東玉三郎:歌舞伎美人インタビュー:平成20年5月30日)

これは玉三郎が云うことが、まったくその通りだろうと思います。新派も新劇も理念的には旧劇(歌舞伎)の否定から出発しています。そのため彼らは現代劇(その当時の同時代劇)によって旧劇を乗り越えようとしたのですが、時代 を経るにつれて、本来彼らが自らの財産(レパートリー)として蓄積して行くべき演目が、次第に彼らに合わなくなって来たのです。役者の感覚が変わって、江戸時代はもちろん、明治や大正 時代の感覚も実感を以て現代の役者がしっくりと表現 出来なくなってしまいました。もしかしたら歌舞伎役者だって十分でないかも知れませんが、歌舞伎役者だけにしかそれが出来ない時代がもうすぐそこまで来ています。

遅かれ早かれ新派の演目は、泉鏡花や川口松太郎にせよ北条秀司にせよ、歌舞伎が演じなければならなくなるのかなと思います。新劇の演目にしても、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」だけでなく、江戸時代や明治大正に時代設定を置いた作品はみんなそうです。そう云う作品は、探せば枚挙にいとまがないほどありそうです。だから「ワンピース」だの「ナウシカ」だの云う以前に、歌舞伎が守らないと残っていきそうにない演劇遺産が膨大に在るのです。それがこれからの歌舞伎に求められる役割になるかも知れません。まあ女形を使ったりすれば多少歌舞伎臭くなってしまうことはご容赦いただかなくてはなりませんが、無くなるよりは良いと思いますね。だから玉三郎が鏡花の「天守物語」や有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を上演することを、松竹や他の歌舞伎役者がどう評価しているか分かりませんが、上記発言が問題提起するところはとても重いと思うのです。(この稿つづく)

(H31.1.24)


2)物語すると云う行為

幕末の開港間もない横浜の遊郭「岩亀楼」でアメリカ人に身請けされそうになった花魁亀遊が自害してしまいます。(実は真相は別のところにあるのだが、表向きはそういうことになっている。)この事件が瓦版に「外国人に買われることを拒否して死んだ攘夷女郎」ともてはやされ、「露をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ」という辞世の句まで捏造されます。噂を聞きつけた客で岩亀楼は大いに賑わいます。このため亀遊の死の真相を知る芸者お園は、心ならずも「攘夷のヒロイン」の作り話を語らねばならぬ羽目となり、次第に自分でも何が何だか分からなくなって、話にどんどん尾ひれがついていく・・・・と、まあ「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の粗筋を紹介すれば、こんなところになるでしょうかね。

そこで戯曲「ふるあめりかに袖はぬらさじ」のことを考える前に、語り物としての言い伝え・昔話・物語りの類は、どのようにして成立したのかを考えてみたいのです。「攘夷のヒロイン」の物語を語り伝える芸者お園の姿が、そんなことを思い起こさせるからです。

「物語り」というものは、もともと歴史上あった事柄・事実を語り伝えるというのが、その本来のあり方でした。しかし、時代が下ってくると、事実でないことを「物語る」ということも出てきます。これを「誣(し)い物語」・あるいは「作り物語」とも言いますが、これは嘘をついていると云うことではないのです。しかし、「物語り」というのはあくまで事実を語り伝えるところに信用があるわけですから、語り手は真実味を以って語り、聞き手もこれを真剣に聞くところにその意味があったのです。

例えば世阿弥作とも伝えられる謡曲「八島」で、歳老いた漁師(前シテ)が物語る源平合戦の風景に、次のような詞章が見られます。

『鐙(あぶみ)踏ん張り鞍笠(くらかさ)に突っ立ち上がり、一院(いちいん)の御使(おんつかい)、源氏の大将検非違使五位の尉(じょう)、源の義経と、名乗り給いし御骨柄、あっぱれ大将やと見えし、今のように思い出でられて候』(謡曲「八島」)

「今のように思い出でられて候」と云う詞章について、折口信夫は「八島語りの研究」(昭和14年2月)のなかで、「あたかもその場所に居合わせた者が語っているかのように書いている、なるほど「八島」の語りをして歩く者があるならばそういう風にするだろう、言い換えれば、世間に昔からそんな物語の仕方があったと分かるように作者が書いている」と言っています。(「八島語りの研究」・昭和14年2月)恐らくそのように語らなくては八島語りにならぬと云う或る種の型が世間にあって、世阿弥 もこれを踏襲せざるを得なかったということなのです。(別稿「「八島語り」考」を参照ください。)

「あたかもその場所に居合わせた者が語るかのようだ」というところが、とても興味深く思います。これについて折口信夫は、「物語をする者(語り伝える者)は長生きするものと考えられていた」と言っています。

『(「今のように思い出でられて候」と)語る人が、(その戦さの有り様を眼前に)見て居た人で、同時に物語を生活にして居る人だと考えられている。それで、非常に長く生きて居る人があったと(世間に)考えられている。(中略)何の為に生きて物語をしていなければならないか。聖なる仕事をせんが為に長く生きて居ると見える者もある。つまり長生きして語り歩くのは、物語をして人に知ってもらわなければならないことがあったのだ。つまり罪障消滅のための懺悔の生活をして居るんだと言ふ考えにはいってくるのである。』(折口信夫:「八島語りの研究」・昭和14年2月)

つまりその物語を語り歩くには、物語をして人々に知ってもらわなければならない理由が何かあるのです。語り歩く人は罪障害消滅のための懺悔の生活をしています、そしてその物語を聞く人々も、それを聞いて涙して癒される或いは救われるということなのです。(この稿つづく)

(H31.1.26)


3)物語すると云う行為・続き

物語すると云う行為について更に考えます。「源氏物語」の「蛍」の巻で、物語に熱中する宮中の女御たちを見て、光源氏は玉鬘に

「あなむつかし。おんなこそものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ」
(現代語訳:ああうっとうしことだ。女というものは面倒なことが好きで、人に騙されるために生まれたようなものなのだ なあ)

と言い、さらに源氏は冗談めかして、こんなことも言います。

「ここらのなかに、まことはいとすくなからむを、かつしるしる、かかるすずろごとに心をうつし、はかられ給ひて、あるかはしきさみだれ髪の、みだるるもしらで、かき給うようとて、わらい給うものから」
(現代語訳:多くの物語のなかには、真実がとても少ないことを、一方では知っていながら、こんな下らぬことに心を奪われて、この暑苦しい梅雨時に、髪の乱れるのも忘れてお書きになるとは、と言ってお笑いになり・・)

ところがこれを聞いた玉鬘が源氏をたしなめて、

「げにいつはりなれたる人や、さまざまにさもくみ侍らん、ただいと、まことのこととて、思うたまへられけれ」
(現代語訳:なるほど嘘をつき慣れた人などは、いろいろとそんな風なことを詮索するのでしょうね、私には物語は、ただもう全く本当のことを述べたものだと思われますけどね。)

と言います。すると源氏は言い訳するかのように、今度は逆に物語を擁護するようなことを言い始めます。

『その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経るのありさまの、見るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心に籠めがたくて言ひおきはじめたるなり』
(現代語訳:はっきりと誰それのことと、あからさまに言うことはないけれど、善いことも悪いことも、世の中の生きる人のありさまの、見ても飽きない、言葉にも尽くせない、後の世にも語り伝えたいようなことなどを、心のなかにしまっておけずに物語として語り始めたものなのだな。)

「源氏物語玉の御串」のなかで本居宣長は、作者紫式部はこの箇所で作中の源氏の言葉を借りて「源氏物語」を書いた自らの本意を述べたのだとしています。「物語は作り話ではあるが、嘘ではないと知りなさい」と式部は言うのです。

ところが、これは見解(解釈)の相違と云うべきですが、源氏が最初に冗談めかして語った通り、「物語が語ることが過去の事実でないならば、それは嘘事(作り話)だ、したがってそれは話が面白ければそれで良い興味本位のものであって、信じてはいけない、所詮物語は慰め事に過ぎない」と云う考え方も、これは現代でも厳然としてあるわけです。むしろ現代においては、そのような感じ方がますます強くなっていると思います。そう云う場合の最大の関心事は、「そこに語られていることは事実か、それは信じて良いものなのか」なのです。

もちろんそういう物語の読み方もあると思いますけれど、物語や芝居を愉しむ者は、まずは「物語は作り話ではあるが、嘘ではない」というところを肝に銘じたいと思いますね。そもそも芝居なんてもの自体が作り事なのですから。ところで本稿冒頭に、鹿児島県大隅肝属(きもつき)郡の昔ばなしの出だしを挙げました。

『とんとある昔。あつたか無かつたかは知らねども、昔の事なれば、無かつた事もあつたにして聴かねばならぬ。よいか。・・・』

昔ばなしの語り口は、大体「・・たげな」、「・・だそうな」、「・・であったと」など、伝聞ゆえに真偽のほどはよく分からぬと云うニュアンスを含むものが多いそうです。この大隅肝属郡の昔ばなしのような出だしは、珍しいようです。しかし、昔ばなしを聞かせる語り部は、聞く者に「私の話を信じること、よいな」と宣誓を要求しているのではないのです。もともと昔話と云うものは、「無かつた事もあつたにして聴かねばならぬ」ものであったのです。それは当たり前のことだったのです。物語の「もの」とは、「もののけ」のものと同じようなもので、或る種の霊魂・過去の記憶みたいなものでした。そういうものは、いろいろな姿を取ることが出来ます。また語り継がれるにつれて、自然と姿を変えて行くものです。それでも中心にある「もの」は変わりません。そのような「もの」を語るのが、物語なのです。(この稿つづく)

(H31.1.27)


4) 物語が語り継ぐもの

本稿で取り上げるのは、平成19年12月歌舞伎座での「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の映像です。気になったことは、演出(戌井市郎)のせいか、役者のせいか分かりませんが、お園ほか登場人物の一挙手一投足に観客の大きな笑い声が湧き上がることです。玉三郎は演技に集中したいときは大向うに掛け声の自粛を要請するくらいの方ですから、こういう雰囲気では玉三郎はさぞやりにくかろうと心配になります。まあこういう処理(演出)の仕方もあるだろうと思いますが、もう少し落ち着いた色調の芝居を見たいものだと思います。歌舞伎は「古典劇」なのですから、新劇作品も歌舞伎でやるならば、古典的な佇まいを呈さねばならないと思います。だからそのような「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を見せて欲しいのです。

前章で「新劇を歌舞伎でやるならば多少歌舞伎臭くなってしまうことはご容赦いただかなくてはならない」と書きました。それは女形を起用することだけを言ったわけではないのです。歌舞伎で新劇作品を扱うならば、様式自体が異なるのですから、微妙な色調までも変わって当然と云うことなのです。良い意味でも悪い意味でも歌舞伎臭くなって来るでしょう。またそうでなければ、歌舞伎が新劇作品をやる意義がありません。そこで歌舞伎役者のセンスが問われます。

ところで「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の主人公お園ですが、心ならずも「攘夷女郎・亀遊の死」の物語を語る役割を負わされる破目となり、最初は否定をしたりもするのですが、周囲にもてはやされているうちに、自分でもなんだか訳がわからなくなって来ます。次第に事実と嘘が綯い交ぜになって、話しに尾ひれが付いて行きます。作り話が勝手に肥大化して世間に真実だと思われて、お園は物語の語り部として引っぱりだこになります。しかし、数年後、かつて亀遊を攘夷のヒロインに祭りあげていた当の攘夷派の連中によってお園が語る「攘夷女郎」伝説に疑念が抱かれます。

終幕(第4幕)「岩亀楼・扇の間」の場で、攘夷派の連中が熱を挙げて議論し合うことは、最初はお園が語る「攘夷女郎」の話は事実なのか、それとも嘘(作り話)かと云うことです。しかし、冷静になって考えてみると、話の全部が全部嘘でもないらしい、どうやら事実と嘘が入り乱れているらしいことが、彼らにも分かってきます。そこで次に議論になるのは、「何が事実で、どこからが嘘なのか」ということです。結局、彼らはお園に金をやって自分たちに都合の悪い「事実」を今後口外しないようにクギを差して去って行きます。得意満面で「攘夷女郎」を語っていたお園は、惨めに打ちひしがれて一間に残されます。

「ふるあめりかに袖はぬらさじ」はこのような幕切れになっていますから、どうしても観客の関心は「そこに語られていることは事実か、それは信じて良いものか」というところへ行き勝ちです。だからお園は「攘夷女郎」の虚像を振り撒くトリックスターの役回りに見えて、或る種滑稽な様相を呈しています。観客がお園の一挙一動を見て笑うのは、そんなところに要因があります。もちろん、この感じ方は間違いではありません。そういう見方も確かにあるのです。ただし、それはどこか醒めてシニカルで、それゆえ現代的な見方なのです。現代劇の解釈ならば、もちろんこれで良いと思います。現代劇においては「懐疑」は大事な要素であるからです。しかし、歌舞伎であるならば、もう少し色合いを変えてみた方が良いのではないでしょうか。

「物語は作り話ではあるが、嘘ではないと知りなさい」と云う紫式部の教えを思い起こしてもらえれば、まったく別の解釈が拓けて来るのではないでしょうか。その解釈を取るならば、この作品を古典劇としての歌舞伎に相応しい、「そは然り」と云う感触に変えることが出来ます。以下本稿はそのことを考えます。まず幕切れのお園の台詞を引用します。

『私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい。(汽笛)それにあれからもう五年、藤吉どんはアメリカでいまごろはどうしているんだろうね。このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ。』(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」)

お園は、攘夷派に脅された恐怖で混乱しています。ここでお園は、最初は 自分がしゃべったことは全部本当だと言い、次にみんな嘘っぱちだと言います。だからそこまでの「攘夷女郎」の物語全体が嘘っぱちだと思う方がいるかも知れませんが、決してそうではありません。「おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだ」は確かに作り話ですが、「お園が吉原にいた」のは事実だからです。「吉原時代にお園が大橋先生に会って唄を教えてもらったことがある」も事実なのです。また「亀遊は寂しくて哀しくて心細くてひとりで死んだ」と 云うのは事実ですが、物語の立場からみれば、表に出すには適当でない事実です。要するに物語の全部が全部事実ではないが、全部が全部嘘でもないのです。

しかし、そんなところから分かって来るお園の気持ちとは、「語られていることは事実か、それは信じて良いものなのか」ということは、お園にとって実は大したことではないということです。それはどうでも良い事なのです。お園の気持ちは、そう云うところにはない。だからお園の台詞で作者・有吉佐和子が言いたいことは、「お園が語ることは作り話ではあるが、彼女か語る気持ちは真実であると知りなさい」と云うことなのです。「事実」と「真実」とは、次元がまったく異なるのです。(この稿つづく)

(H31.1.28)


5)物語る者と語られる者

第3幕で「攘夷女郎」の噂を聞いて早速駆け付けた武士が、亀遊が自害した部屋が北向きの狭くて暗い行燈部屋だったことを「何と酷い扱いではないか」と咎めます。するとお園はサッと話を修正して、「亀遊が自害したのは実はこの大広間で、ここで亀遊は懐剣を逆手に見事に自害したんです、なにしろ亀遊は武士の娘でありましたから」と巧みに言い繕ってしまいます。お園は機転が利く女なのです。そこが仇となって、お園は「攘夷女郎」の物語を語る役割を周囲から押し付けられてしまいます。

このことは、昔ばなしや説話の成り立ちを思い起こさせます。昔ばなしでも、それが語り継がれる過程で、こうした方が話がもっと面白く出来るとか、派手に出来るとか、話の食い違いが解消できるとか、話の流れがもっと良くなるとか、様々な理由(都合)で次第に話が変わったり、尾ひれがついていくことがあったと思います。語り手が自らそうする時もあれば、周囲の聞き手が語り手に自然とそうさせる時もあったと思います。語り手と聞き手との相互関係のなかで、昔ばなしが変化するのです。ただし際限なく話が変化するわけでもなくて、或る種定型的な形に収まって行く感じがするのは、やはり「それは作り話かも知れないが、決して嘘ではない」という心の縛りがどこかにあって、無責任かつ無制限に話しを作り替えることが出来なかったからです。何故ならば、それでは御先祖さまに対して申し訳が出来ないからです。それを手前勝手にするのは、嘘つきがすることです。

だからお園は噓つきではありません。「攘夷女郎」の物語は、お園がそれを勝手に作り上げたということではないのです。自分では意識していませんが、お園にも「それは作り話かも知れないが、決して嘘ではない」という心の縛りがどこかにあるのです。「攘夷女郎」の物語は、こうして出来たものです。ここでまた折口信夫の言葉を思い出します。

『語る人が、見て居た人で、同時に物語を生活にして居る人だと考えられている。それで、非常に長く生きて居る人があったと(世間に)考えられている。(中略)何の為に生きて物語をしていなければならないか。聖なる仕事をせんが為に長く生きて居ると見える者もある。つまり長生きして語り歩くのは、物語をして人に知ってもらわなければならないことがあったのだ。つまり罪障消滅のための懺悔の生活をして居るんだと言ふ考えにはいってくるのである。』(折口信夫:「八島語りの研究」・昭和14年2月)

語り歩く人には、物語をして他人に知ってもらわなければならない理由(動機)が何かあるのです。それではお園が物語して他人に知ってもらわなければならない理由とは何でしょうか。それは幕切れのお園を台詞を見れば察しが付きます。

「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい。」

これが、お園が物語を語り続ける理由です。お園も亀遊も共に社会の最底辺で喘ぐ女でした。お園は三味線芸者・亀遊は花魁ですが、古くから互いをよく知っており、かつては吉原、今は横浜にまで流れて来た哀れな境遇です。お園は亀遊の寂しさを共有していますから、彼女の哀しさ(それは自分の哀しさでもある)を知って欲しくて、「攘夷女郎」の物語を語り続けているのです。亀遊の哀しさを知っているから、お園が語る「攘夷女郎」の物語は、凛として立派に死んでみせた亀遊にどんどん変わって行かねばならなかったのです。なぜならばそれを事実通りに語ったら、あまりにやりきれなくて、自分まで惨めになってしまうからです。ならば嘘でもいいから、亀遊は立派に死んだことにしてやりたい。次いでに語っている自分までも、何だかちょっぴり立派なような気分になって来ます。もちろんそうしていれば話が聞き手に受けるので、自分は金が稼げてそれで生活が出来ると云うこともあったかも知れません。お園はそんなしたたかさも持ち合わせた女ではありますが、物語の動機はピュアな寂しさであると云えます。根本にピュアなところがないのであれば、お園は噓つきになってしまいます。

ところで、お園はその場を取り繕っただけであるのに、お園の語りに救われたまず一人目の聴き手が、通辞の藤吉です。

『いや、なんだか肩の荷が降りたような気がしますよ。(中略)あの人が死んだのは私のせいだ。私が殺したも同然じゃないかって気がして仕方がなかったんです。(中略)それが、何だか急に、さっきから、篝火のように盛大に燃え出したんです。あの人は急に別の人になってしまった。私が殺したんじゃないんだ。懐剣で喉をついて、あっぱれ攘夷の志を遂げたんだ。(中略)これでほっとしましたよ。救われました。』(第3幕の藤吉の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」)

藤吉は「あの人が死んだのは私のせいだ」と、いたたまれない思いで居りました。必死で救いを求める気分であったのです。それがお園の物語を聞いて、何だか急に癒されてしまいます。これが「物語」の効果なのです。罪障害消滅のための懺悔の生活を続ける遊芸民の語る「物語」を聞いて、聞き手(定住民)もその罪障害消滅が出来て癒される、それが古い時代の「物語」の形であったのです。それが事実であったかなんてことはどうでも良い、物語を聞いているその時だけでも心底癒されるのであれば、それで十分なのです。お園は「攘夷女郎」の物語のなかで、亀遊の哀しみを語りながら、自らの哀しみをも語っています。同時にそれはそれを聞いて癒される者たちの哀しみでもありました。(この稿つづく)

(H31.1.29)


6)古典劇の目論見

「僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」 (雑誌「演劇界」での座談会での三島の発言:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)

これは自作の「「鰯売恋曳網」初演(昭和29年11月歌舞伎座)についての三島由紀夫の述懐です。現代の作家が過去の人物をそれらしく古典劇に仕立てようとしても、脚本のなかにどこかに現代のセンスが顔を覗かせてしまいます。これはどうしようもないことです。そこに現代と古典の齟齬が見えてしまいます。だからそこは作家が一番隠して欲しいところなのですが、反対に役者の方はそこに解釈の取っ掛かりを見ようとし勝ちです。何故ならばそれが手っ取り早いし、楽だからです。結果的に作者が一番隠して欲しいところを役者がいじくり回して、齟齬を露わにしてしまいました。三島が嘆いているのは、そこです。

例えば有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」であれば、役者の目の付け所は、お園が語る「攘夷女郎」の話は事実か嘘(作り話)かという点です。「昔むかし・・」で語り始められる昔ばなしは、「作り話であるから信じてはいけない、面白ければそれでよろしい」ものであったので、それを前提に民衆は昔ばなしを楽しんだと考える民俗学者もいるようです。これは考え方としては当然あり得る話です。だから良い言い方をすればこれは現代的視点ですが、そうすると何だかお園が、芝居の筋をひっかき混ぜるトリックスターの如く、ちょっと滑稽に見えて来ないでしょうか。

平成19年12月歌舞伎座での「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を見ると、玉三郎のお園は確かに上手いです。しかし、本人にそんな意図があるはずがないのに、何気ない仕草・台詞の調子が、演技が上手であれば上手であるほど却って、何だか滑稽で、笑いを誘うように見えて来るのです。観客の方も、芝居のなかに自分なりに楽しむ(分かる)取っ掛かりを探そうとして見るわけですから、「ここは笑うきっかけです」というサインらしきものを見付けると、それで観客は一斉に笑ってしまうのです。「この舞台は何だか観客の笑い声が多い」と感じてしまうのは、そのせいです。これは演出(戌井市郎)が責任を負うべきですが、周囲の役者たちの責任でもあります。勘三郎の岩川楼主人ほか、何人か滑稽を煽っている役者がいます。こういうのは、イカンと思いますねえ。

注を付けますが、本作を新劇でやるならばこれでも良いのかも知れません。幕末期の混乱期の攘夷の浪士たちの欺瞞性や、噂に付和雷同する世間の節操の無さを諷刺しているという視点も当然あると思います。しかし、歌舞伎が同じことをやってても意味がないと云うことも考えて欲しいと思うのですねえ。ここでは「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を歌舞伎役者がやるのですから、古典劇である(しかし能狂言ほどには古典劇になり切れていない)歌舞伎がこの芝居をやるのであれば、芝居をどういう感触に仕立てるかと云う目論見をしっかり持つべきです。恐らく将来も、新派や新劇の作品を歌舞伎の演目として掛けることがあろうかと思います。或いは新作の歌舞伎作品を上演する場合にも役立つことだと思いますが、その時は古典劇である歌舞伎としての方法論を、歌舞伎役者はしっかり見極めた方がよろしい。

古典的な「ふるあめりかに袖はぬらさじ」上演を意図するのであれば、歌舞伎役者の解釈の取っ掛かりはどこにあるでしょうか、それは「お園が語ることは作り話ではあるが、嘘ではない、彼女か語る気持ちは真実であると知りなさい」と云うことです。「攘夷女郎」の物語のなかで、お園は亀遊の哀しみを語りながら同時に自らの哀しみをも語っているのです。そのことが分かれば、幕切れの感触も自ずと変わって来ると思います。昔ばなしや物語がどのように成り立つか、そう云うことをちょっと考えてみれば面白いのではないでしょうか。

*本稿に引用した台詞は、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」(中公文庫)からの引用です。

(H31・2・3)



 

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