「八島語り」考〜「義経千本桜」
1)「安徳帝、八島の波に沈み給へば」
『忠なるかな忠、信なるかな信、勾践(こうせん)の本意を達す陶朱(とうしゅ)公、功なり名遂げて身退く。五湖(ごこ)の一葉の波枕。西施の美女を伴ひし。例(ためし)をこゝに唐(から)倭(やまと)、四海漸く穏やかに、寿(ことぶき)永き年号も、短く立つて元暦と命(みことのり)も革(あらたま)り。閉ざさぬ垣根卯の花の、皆白旗(しらはた)と時めきて、武威はますます盛んなり。宝祚(ほうそ)八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給へば。後白河の法皇政(まつりごと)を執(とり)行(おこな)わせ給ふ。』
「義経千本桜」丸本・大序の冒頭です。大序の冒頭部と云うのは、浄瑠璃の世界定めを行う大事な詞章で、何時ごろの時代の設定であるか、どのような物語を語り始めようとしているのか、いろんな情報がここに込められていますが、本稿では以下の箇所に焦点を当てて考えてみたいのです。すなわち「宝祚八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」の詞章のことです。
宝祚とは皇位のことです。安徳帝は第81代天皇ですが、時は元暦2年/寿永4年3月24日(西暦1885年4月25日)、長門国壇ノ浦の戦い(現在の山口県下関市)で母方祖母・二位の尼に抱かれて入水しました。これが栄耀栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)の最後の戦いでした。元暦/寿永と元号が併記されているのは、寿永3年4月16日に朝廷が元暦に改元したけれども、平家方が相変わらず寿永を使用し続けたことに拠ります。平家が滅びた壇ノ浦の戦いの後、元号が元暦に一本化されたということです。したがって詞章にある通り、寿永年間は実質的にまことに短かったのです。「短く立つて元暦と命も革り」という文句は、この辺の事情が反映されています。ちなみに元暦という元号も、元暦2年8月14日に文治へ改元がされました。
ところが浄瑠璃作者は「宝祚八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」と、妙なことを言い始めます。安徳帝は八島(=讃岐国屋島、現在は香川県高松市)の海に沈み給うた、つまり平家は八島の戦いで滅んだと云うのです。しかし、 屋島の次の戦いである壇ノ浦の戦いで平家が滅んだということは誰でも知っている歴史的事実です。「昔の人はそういうところの知識が好い加減なので、あまり深く気にしなかったのだろう」などと考えるのは大きな間違いで、古くは遊芸の琵琶法師が語った「平家物語」や近くは講談などによって平家滅亡の物語は 「もののあはれ」を詠うものとして当時の庶民の教養として在ったものでした。「八島の波に沈み給へば」と云われれば誰でも「アレッ?何か変だぞ」と思わないはずがありません。もしそれを不思議に感じないのであれば、そこに作者と観客との間に暗黙に通じる或る認識があったに違いないのです。だから、これは明らかに浄瑠璃作者が確信犯的にそうしたのです。そもそも「千本桜」自体が「死んだはずの平家の三人の公達、知盛・維盛・教経が実は生きていた」という大胆極まる歴史虚構を前提に据えた時代浄瑠璃です。ですから浄瑠璃作者は「平家は八島の戦いで滅んだ」と虚構することで何かを意図したと考えなければなりません。本稿ではこのことを考えて行きます。(この稿つづく)
(H30・12・2)
2)「思いぞ出ずる壇ノ浦の」
「千本桜」で気になる箇所は、他にもあります。それは四段目の「道行初音旅(吉野山)」です。静御前と忠信の道行きは、やがて中盤で八島合戦物語となり、忠信が「思いぞ出ずる壇ノ浦の」と言う場面があります。ここで「壇ノ浦の」という詞章を聞くと、ちょっとギクッとしないでしょうか。しかも続いて語られるのが、八島合戦の挿話として有名な、悪七兵衛景清と三保谷の四郎の錣引(しころびき)、続いて忠信の兄・継信の戦死であって、どちらも壇ノ浦の戦いの挿話ではないのですから、どうしてこうなったのか、混乱してしまいます。しかし、これには何か理由がありそうです。
実はとても興味深いことですが、八島(屋島)にも壇ノ浦という場所があるのです。正確には讃岐国ダンノウラは「檀ノ浦」と書いて、漢字が木扁であって・土扁ではありません。(ただし浄瑠璃床本には「壇ノ浦」とあります。)音が同じ為に、両者がしばしば混同されているそうです。だから上記「吉野山」で忠信が言うところの「壇ノ浦」は讃岐国檀ノ浦のことを指し、長門国壇ノ浦ではないとされています。現在の屋島は地続きとなっていますが、当時の屋島は独立した島でした。平家は海側からの 舟による攻撃のみを予想していましたが、源義経率いる源氏方は裏をかいて陸側から奇襲を掛けて、敗走する平家方との間で屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜辺りが主戦場となったようです。
「なるほどそういうことだったか」と納得してしまえば話しはそれで終わりですが、吉之助は尚も気に掛ります。それならば「安徳帝は八島の海に沈み給うた」と大虚構を打ち出す意味はどこにあったのかと云うことです。例え八島に壇ノ浦があったにせよ、耳で聞く語り物浄瑠璃としては、紛らわしいことをしたものだなあと思います。二段目「大物浦」を見ると、ここには典侍局に抱かれて安徳帝があわや入水と云う場面があって、これは長門国壇ノ浦での安徳帝入水と重ねられていることは明らかですが、二段目では壇ノ浦という語句が注意深く避けられています。例えば義経は知盛に対して「その方、西海にて入水と偽り、帝を供奉し此所に及び」と 、西海として何処とも取れるように曖昧にぼかしており、壇ノ浦とは言っていません。この使い分けが当然ではなかろうかと思って調べてみると、丸本の「道行初音の旅」には「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章がやはりないのです。(丸本とは浄瑠璃の初演時に出版された台本・つまり原典です。)これは延享四年初演時にはない詞章で、後世に挿入された詞章であったわけです。いつの時期の改変であったかまでは分かりません。
但し書きを付けますが、本稿は「道行初音旅」に「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章があるのが間違いだと言っているのではなく、観客の混乱を招きかねないのに、なおかつ後世の文楽の 誰かがわざわざそのような詞章の入れ事をしたくなった、その事情を考察しているのです。そこで現行の浄瑠璃床本を見ることにします。
『「げにこの鎧を給はりしも、兄継信が忠勤なり。誠にそれよ来(こ)し方の、思いぞ出づる壇の浦の、海に兵船平家の赤旗、陸(くが)に白旗、源氏の強者(つわもの)。『あら物々しや』と夕日影に長刀(なぎなた)を引きそばめ、『何某(なにがし)は平家の侍、悪七兵衛景清』と、名乗り掛け/\、薙ぎ立て/\薙ぎ立つれば、花に嵐の散々ぱつと、この葉武者、『言ひ甲斐なしとや方々よ、三保谷の四郎、これにあり』と、渚に丁ど討つてかゝる、刀を払う長刀の、えならぬ振舞ひいづれとも、勝り劣りも波の音、打ち合ふ太刀の鍔元より、折れて引く汐返る雁。勝負の花を見捨つるかと、長刀小脇にかい込んで、兜の錣(しころ)を引掴み、後へ引く足よろ/\/\、向ふへ行く足たじ/\/\、むんずと錣を引き切つて、双方尻居(しりい)にどつかと座す。『腕の強さ』と言ひければ、『首の骨こそ強けれ』と『ハヽヽヽヽヽヽ』『ホヽヽヽヽヽヽ』笑ひし後は入り乱れ、手繁き働き兄継信、君の御馬の矢表に駒を掛け据ゑ立ち塞がる、「オヽ聞き及ぶその時に、平家の方には名高き強弓(つよゆみ)、能登の守教経と名乗りもあへずよつ引いて、放つ矢先は恨めしや、兄継信が胸板にたまりもあへず真っ逆様」、あへなき最後は武士の、忠臣義士の名を残す』(「道行初音旅」・現行浄瑠璃床本 、なお歌舞伎の舞踊「吉野山」もほぼこれに準拠した詞章です。)
上記のなかで、赤字部分が初演時の丸本にない詞章(入れ事)です。有名な悪七兵衛景清の錣引の場面を挿入して、前後の詞章が若干アレンジされています。「道行初音の旅」では、義経の鎧を見た忠信が、八島で戦死した兄・佐藤継信のことをふと思い出すのが核心ですから、錣引の場面は本来あってもなくても良いはずです。ここでの継信戦死は淡々と事実だけ簡潔に描写されています。これと比べると挿入された錣引の詞章が随分と長めです。これもバランス的に奇妙なことです。しかし、或る事情から、ここに錣引の場面を挿入してみたくなったのでしょう。恐らくそこに八島合戦物語・いわゆる八島語りのお約束があるようなのです。(この稿つづく)
(H30・12・4)
3)謡曲「八島」について
「道行初音旅」の「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章は、世阿弥作と伝えられる謡曲「八島」幕切れ近くの、後シテ(義経の亡霊)の「今日の修羅の敵(かたき)は誰そ、なに能登の守教経とか、あらものものしや手並(てなみ)は知りぬ、思いぞ出ずる壇ノ浦の」から 来ています。現行の浄瑠璃床本では、この部分を取り 上げて初演時の丸本にない詞章(入れ事)を創作しているわけです。「道行初音旅」ではこの詞章の後に錣引(しころびき)の描写が続きますが、「八島」での錣引 の挿話は前シテ(漁師)の述懐のなかで語られるものですから、幕切れの「思いぞ出ずる壇ノ浦の」と錣引との関連はありません。このことは後でもう一度検討することとして、ここでは「八島」の本文をちょっと見てみたいと思います。
旅の僧が讃岐国八島の浜で塩屋(塩を焼く海人の家)に一夜の宿を借ります。そこに年老いた漁師(前シテ)が現れ、その昔この地で起った源平合戦の物語を始めます。
『鐙(あぶみ)踏ん張り鞍笠(くらかさ)に突っ立ち上がり、一院(いちいん)の御使(おんつかい)、源氏の大将検非違使五位の尉(じょう)、源の義経と、名乗り給いし御骨柄、あっぱれ大将やと見えし、今のように思い出でられて候』(謡曲「八島」)
現行の修羅物の多くは世阿弥の作になるそうです。そのなかでも「今のように思い出でられて候」と云うのは、特殊な書き方であるそうです。この詞章について折口信夫は「八島語りの研究」(昭和14年2月)のなかで、あたかもその場所に居合わせた者が語っているかのように書いている、なるほど「八島」の語りをして歩く者があるならばそういう風にするだろう、言い換えれば、世間に昔からそんな物語の仕方があったのだと分かるように作者が書いている、つまり謡曲「八島」以前に古い「八島」の語りの形が伝わっていたのだと推測しています。
古い八島語りの形があったと云う、この根拠として もうひとつ折口が挙げるのは、漁師(前シテ)が悪七兵衛景清と三保谷の四郎の錣引を語り、続いて佐藤継信の戦死の場面を語る箇所です。この描写は要領だけで済まされて、さらに続く平家方で能登守教経の侍童菊王丸の死も何の説明もなく突如現れます。菊王丸は教経の矢を受けて倒れた継信の首を取ろうと近付きますが、駆けつけた弟・忠信が応戦して傷つき、舟に戻されて亡くなります。この経緯がまったく省かれています。詞章も場面を早回しにしたみたいで、何となく流れがぎこちない。これは継信や菊王丸の討たれは聴き手の誰もが知っている挿話だから、長々しい説明は不要だという前提に立っていると云うのです。こういう言い回しが昔から伝わっていたのかも知れません。その箇所を引きます。
『これ(景清と三保谷の錣引)を覧じて判官、御馬を汀にうち寄せ給えば、佐藤継信、能登殿の矢先に かかつて、馬より下(しも)にどうと落つれば、舟には菊王も討たれければ、ともにあはれとおぼしけるか、舟は沖へ陸(くが)は陣へ、相退(あいびき)に引く汐の・・』(謡曲「八島」)
八島合戦は、錣引や、継信・菊王の戦死の他にも、義経の弓流し(謡曲「八島」では後段に登場します)、那須与一の扇の的など戦物語として興味ある挿話が豊富で、華やかなイメージがあります。それでいてそこはかとなくあはれなイメージもあるのです。これは遡って一の谷合戦での、敦盛熊谷組討ちにも適用されますが、とりわけ八島合戦は戦物語の代表的なもので、戦の話をしても必ず八島になるほど、昔は人気がありました。室町期には「八島」は幸若舞の演目として民間に広まりました。能でも「八島」は勝ち修羅と云って、祝言に属し縁起が良いものとされています。勝ち修羅は勝ち戦の武将をシテとしたもので「八島」・「田村」・「箙」の三曲のみです。それ以外の修羅物は負け修羅ですから、「八島」は縁起が良い演目なのです。歌舞伎でも、例えば「素襖落」のなかで太郎冠者が那須与一の扇の的を踊るのが踊り手の見せ所となっていますが、実は狂言の「素襖落」にはこの場面がありません。これは明治期になって松羽目舞踊に成った時に挿入されたものです。このように何の関係もないどうでも良いところに、ふっと八島合戦が出てきたりします。八島は縁起が良い から、そこに八島合戦が出て来る必然があるのです。
「道行初音旅」ではせっかくの静御前と狐忠信の道行きとしてウキウキした華やいだ気分が欲しいところなのに、丸本の詞章であると、義経の鎧を見た忠信は八島で戦死した兄・継信のことをふと思い出してしんみりしてしまいます。これでは 景事としては何だか面白くないと、後世の文楽の関係者は感じたのでしょう。そこで伝統の八島語りのスタイルを借りて、豪快でちょっとユーモラスなところもある錣引の場面を挿入してみたと云うことだろうと思います。(この稿つづく)
(H30・12・6)
4)謡曲「八島」について・続き
ところで、「八島語りの研究」のなかで折口は触れていませんが、吉之助は、 八島語りの形が古くから在ったと云う折口の推測が適用できる箇所が、謡曲「八島」にはもうひとつあると考えています。それは終わり近くの、後シテ(義経の亡霊)が言う「思いぞ出ずる壇ノ浦の」という詞章のことです。つまり後の文楽関係者が「道行初音旅」補綴で引用した箇所です。当該箇所は、義経の亡霊が有名な義経の弓流しの語り、修羅道の戦いの有り様(カケリ)を舞ったところで出て来ます。
『また修羅道の鬨(とき)の声、矢叫びの音震動せり。「今日の修羅の敵(かたき)は誰そ、なに能登の守教経とや、あらものものしや手並(てなみ)は知りぬ。思いぞ出づる壇ノ浦の、その舟戦(ふないくさ)今ははや、その舟戦今ははや、閻浮(えんぶ)に帰る生死(いきしに)の、海山一同に震動して、舟よりは鬨の声、陸(くが)には波の盾、月に白むは、剣の光、潮(うしお)に映るは、兜の星の影』(謡曲「八島」)
謡曲「八島」はこの後、「春の夜の波より明けて、敵(かたき)と見えしは群れいる鴎(かもめ)、鬨(とき)と聞こえしは、浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐(あさあらし)とぞなりにける」で締められます。だから場面は八島(高松の地)に間違いありません。それでは義経の亡霊が言う「思いぞ出ずる壇ノ浦の」と云うのは、讃岐国八島の檀の浦のことでしょうか。そうではなくて、明らかにこれは長門国壇ノ浦のことを指していると聞こえます。(ちなみにこれは吉之助だけの解釈ではなくて、小学館の「日本古典文学全集・謡曲集2」でも当該箇所は山口県下関市の壇ノ浦を指すと校註しています。)
義経の亡霊の述懐に現れるのは、まさに舟戦の光景です。しかし、八島合戦は源氏方の陸からの奇襲で始まったのですから舟戦ではありません。 舟戦なのは、八島の次の、長門国壇ノ浦合戦の方です。そこで壇ノ浦合戦のことを見れば、合戦の勝負はもはや決し、平家の一門が次々と海に飛び込むなかで、教経は「ならば敵の大将と刺し違えん」と舟から舟へと飛び移り、敵を薙ぎ払いつつ、義経の姿を探し回ります。教経がようやく義経を探し出して、組み付こうとしたその瞬間、義経は飛び上がって舟から舟へ飛んで逃げ去ってしまいます。これが有名な義経の八艘飛びです。「今日の修羅の敵は誰そ、なに能登の守教経とや、あらものものしや手並は知りぬ」で義経の亡霊の脳裏にある光景は、教経が義経を目がけて向かってくるその場面に違いないと聞こえます。
つまり八島合戦から見れば未来になる長門国壇の浦合戦の光景が義経の亡霊の述懐のなかに入り混じっており、ここでは時系列が交錯しています。しかし、義経の亡霊にとってみれば、どちらも等しく過去の出来事ですから、記憶が入り混じることに不思議はないでしょう。義経の亡霊には未来がはっきり見えているのです。「また修羅道の鬨(とき)の声」、「今日の修羅の敵は誰そ」、「思いぞ出づる壇ノ浦の」と云う詞章の流れのなかで、聴き手が思い浮かべるイメージは、寄せては返す波の如く、終わったかと思えばまた繰り返される戦乱の日々、果てしのない修羅の苦しみと云うことです。このイメージのなかに義経の亡霊は佇(たたず)んでいます。現行の修羅物の多くは、シテが修羅道に落ちてからの苦しみをあまり強く描いておらず、そのなかでは謡曲「八島」は修羅道に落ちた義経の苦しみが描写されている方だとされています。それは終わり近くの「思いぞ出づる壇ノ浦の」と云う詞章が作り出す「未来永劫の修羅の道」のイメージから来るのです。 (観世信光作と伝わる謡曲「船弁慶」も同様の発想で書かれたことも明らかです。)ですから古くから伝わる八島語りのなかに「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章が出て来ることが普通に在った と思われます。 同様に義太夫の「道行初音旅」に「思いぞ出ずる壇ノ浦の」の詞章が挿入されたのも、恐らくそんなことが背景にあったのでしょう。(この稿つづく)
(H30・12・7)
5)「討つては討たれ討たれて討つ」
このように後年の「道行初音旅」補綴は、八島語りの形式を借りて謡曲「八島」の詞章「思いぞ出ずる壇ノ浦の」を取り入れているのです。しかし、謡曲が長門国壇ノ浦としているところを、浄瑠璃では讃岐国檀の浦に置き変えた為に、若干不具合が生じているように思われます。それもこれも「千本桜」大序冒頭で浄瑠璃(丸本)作者が「天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」と規定したからです。そこで改めてどうして作者はそのような大虚構を大前提に置いたのかを考えてみたいのです。
そこには恐らく中世から近世初頭にかけて民間に膾炙した、源氏と平家が交代して政権を担うと云う俗説、いわゆる「源平交代史観」が関係しています。源平交代史観とは、平安末期に政権を担ったのが平家、平家を討って鎌倉初期に最初の武家政権(鎌倉幕府)を確立したのが源氏、その源氏が三代で滅びて幕府の実権を担ったのが北条氏(平家)、さらに室町幕府を開いたのが足利氏(源氏)と、源氏と平家が交互に 交代して担うと云う歴史認識です。中世期の因習を破壊しようとした織田信長が桓武平氏を自称したのは不思議に思いますが、これも源氏の嫡流である足利氏に取って代わる自らの政権奪取の正当性を主張するためでした。徳川家康 が江戸幕府を開くに当たり清和源氏新田流を名乗ったのも、それゆえです。そして現代においては年末恒例の紅白歌合戦にまで尾を引いています。それでは源平交代史観は「千本桜」のどの辺に出て来るでしょうか。それは二段目「大物浦」で傷ついた平知盛が義経に対して言い放つ台詞を見れば分かります。
「ムヽさてはこの数珠をかけたのは、知盛に出家とな。エヽけがらはし/\。そも四姓(しせい)始まつて、討つては討たれ討たれて討つは源平の習ひ。生き代はり死に代はり、恨みをなさで置くべきか」
知盛は「討つては討たれ討たれて討つは源平の習ひ」と言っています。源平交代史観が確立するのは実はずっと後世のことですから、知盛は未来の歴史認識を語っているのです。しかし、江戸期の浄瑠璃作家にとってこれは常識の範疇です。そして、それは謡曲「八島」にも描かれた修羅道に落ちた義経の苦しみにも重なって来るでしょう。そこに見えるイメージは、寄せては返す波の如く、終わったかと思えばまた繰り返される源氏と平家の戦いの日々、果てしのない修羅の苦しみなのです。
ここまで考えればどうして浄瑠璃(丸本)作者が「千本桜」大序冒頭で「天子安徳帝。八島の波に沈み給へば」と規定したのか、その意図が見えて来ます。「千本桜」のなかで、作者は源氏と平家の争いが長門国壇ノ浦合戦で決着したと云う形を わざと取りませんでした。「平家物語」の通り壇ノ浦で平家が滅びましたとしてしまえば、浄瑠璃の世界観はそこで一旦閉じてしまいます。事実、「千本桜」丸本も、「平家の一類討ち滅ぼし、四海太平民安全。五穀豊穣の時を得て、穂に穂栄ゆる秋津国繁昌ならびなかりけり」と云う締めの詞章で目出度く締められています。時代物浄瑠璃の古典的な感覚からすれば、普通はこれで十分なのです。何もわざわざ平家が八島で滅んだなどと虚構する必要などまったくないはずです。
ですから「四海太平民安全。五穀豊穣」云々という結句は、実は形式的なことに過ぎないのです。作者が「千本桜」で敢えて平家は八島で滅んだと云う虚構を前提にしたと云うことは、作者が時代浄瑠璃の古典的に閉じた感覚をどこかで破綻させようと云う意図であったに違いありません。つまり作者は、世阿弥が謡曲「八島」終盤で「思いぞ出ずる壇ノ浦の」という詞章を使用することで意図的に時間軸を混乱させたのと同じ効果を狙ったのです。作者は源平合戦を讃岐国八島合戦で「寸止め」の形にすることで、「千本桜」全体を義経を主人公(シテ)とする勝ち修羅の形にして見せました。「千本桜」では壇ノ浦合戦は永遠に訪れません。だから「千本桜」は完全に閉じてはいないのです。これ以後も源氏と平家の争いは決着が付くことがなく、それは永久運動のイメージとなるのです。これからも戦いの日々は繰り返される。この世の修羅の苦しみは決して果てることがないのです。
この世の修羅の苦しみは、源氏と平家の間にだけ起こるものではありません。それは源義経と兄・頼朝との間にも起こります。源平合戦で華やかな活躍を見せた義経は兄に疎まれ、京都を追われ吉野も追われ、やがて奥州平泉で寂しく生涯を終えることになりますが、「千本桜」ではそこまでは描いていません。頼朝は征夷大将軍となって鎌倉幕府を開きますが、これも三代で途絶えてしまいます。「平家物語」の「奢れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し」という有名な詞章は、ただ平家にだけ向けられたものではありません。「平家物語」を語り継いだ琵琶法師たちは、源氏のその後の運命も承知したうえで、これを語っています。それはこの世の有り様を語っているのです。
(H30・12・12)