現代演劇において女形が象徴するもの
平成22年(2010)10月:彩の国 さいたま芸術劇場・「じゃじゃ馬馴らし」
二代目市川亀治郎(四代目市川猿之助)(キャタリーナ) 、筧利夫(ぺトルーチオ)他
蜷川幸雄演出
1)演劇におけるジェンダー
いつのことであったか、テレビを見ていたらたまたまチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」を放送していました。それは或る北欧のバレエ団の舞台でしたが、振り付け・装置はなかなか素敵なもので、今考えてもこの振り付けは吉之助のお気に入りのひとつなのですが、その第1幕フィナーレの「雪のワルツ」の場面は大勢の雪の精が登場して舞台に雪の粉を振り撒いて踊る美しい場面でありました。ところが、画面がアップになって吉之助は「アレッ・・・?」と思いました。美しい踊り手たちのなかに何やらゴツイ脚をした奴らが複数混じっている。すぐ真相が分かりましたが、あまりに大勢の雪の精なのでバレリーナが足りなくなって、男性ダンサーが駆り出されて女装していたというわけです。もちろん踊り自体は見事なものでした。客席から遠目に見るなら分からなかったでしょうが、吉之助は途端にテレビの映像がトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団の舞台に見えてしまって困りました。こういう場面ではカメラは巧くアングルを引いていただきたいものです。
ところでトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団(愛称:トロックス)ですが、ニューヨークに本拠がある人気コメディ・バレエ団です。チラシでは、「芸術か?冗談か?」というのがキャッチフレーズになったりしています。男性ダンサーがバレリーナになって、伝統的なバレエをパロディ化して、上質なエンタテイメントを提供しようというものです。したがって、男性がバレリーナに成り切るのではなく、バレリーナを模倣するわけですが、そこで披露されるテクニック事態はもちろん真面目なものです。要するに素材(男性の身体)自体がパロディなのです。
*下記はトロックスの十八番・「白鳥の湖」パロディです。
このように西洋芸術では男性が女装する場合は、大抵それは滑稽になります。映画「トッツィー」(1982年アメリカ、主演ダスティン・ホフマン)などもそうですが、観客には「彼女」が女装した男性であることを知っていますが、登場人物たちには全然分からないのです。だから観客は余裕を持って滑稽が楽しめるのですが、もし観客も一緒に騙されてしまうならば、決してそうはなりません。それはどちらかと言えば恐怖の対象になってしまうのです。
*映画「トッツィー」で「彼女」の正体がばれてしまうシーンをご覧下さい。彼女が男だと分かった瞬間、周囲は驚き、ある者は悲鳴をあげ、ある者は気絶したりします。そのことを最初から知っている観客だけが笑って見ていられます。
ここで分かることは演劇上のジェンダーはとても強固だということです。ジェンダーが何によって決まるのかは明らかです。それは衣装によって決まるのです。演劇においては男性の服を着ていればそれは男性、女性の服を着ていればそれは女性でなければならないのです。そうあることで、演劇は何かしら安定した世界観を観客に提示できるのです。ちょっと斜めに見ると、それはある意味で保守的な世界観だということも言えます。それは社会通念に深く根差した感覚であるからです。
歌舞伎の女形を論じる時にも、このことは意識しておかねばなりません。巷間歌舞伎の解説本に「出雲のお国は男装して舞台に立ったように歌舞伎には性の境界がもともとなかったのだから・男が女装して女を演じる女形も歌舞伎にとってまた自然なことであった」というようなことを書いているものが少なからずありますが、そうではありません。女形が本来性を奪われた負の存在であるということは、「歌舞伎素人講釈」では何度も述べて来たことです。(別稿「女形の哀しみ」、「演劇におけるジェンダー」などをご覧下さい。)またお嬢吉三という役は、男性が女性を騙る女形という存在が娘を演じ・それが実は男の盗賊だったということで、これは二重・三重の性の逆転の面白さであるということを言う劇評家がいますが、これはちょっと違うと思います。男の着物を着ていればそれは男、女の着物を着ていればそれは女なのが歌舞伎本来の約束です。お嬢吉三のようにその約束を破るということは、女形芸に発展性がなくなって・行き詰まった幕末の状況から出て来るのです。逆に言うならば、その演劇的サプライズは「女性の服を着ている役は女性だ」という前提が観客にあるからこそ成り立つということです。歌舞伎においても演劇上のジェンダーはとても強固なのです。そういうことが分からなければ、歌舞伎の女形は論じられません。(この稿つづく)
(H25・2・1)
ところで彩の国さいたま芸術劇場が蜷川幸雄氏の演出で「オール・メール・シリーズ」というシェークスピアの連続上演を企画していて、これは今も続行中です。「オール・メール・シリーズ」とは何ぞやと云うと、さいたま芸術劇場サイトの角書に拠れば「シェークスピアが戯曲を書いた時代のスタイルそのままに、全キャストを男優が演じる」というものだそうです。しかし、正確に言うならばシェークスピア時代の英国演劇では女性の役を演じたのは声変わりする前の少年俳優であったので、成人男性が女装して女性の役を演じたわけではないのです。また少年俳優が成人して・そのまま俳優となって主役級に成長したという例も極めて少ないことが分かっています。(別稿「演劇におけるジェンダー」をご参照ください。)まあ蜷川氏は別に16世紀英国演劇の復古・考証上演を意図したわけではないでしょうが、蜷川氏はシェークスピア演劇における少年俳優をどういうものだとイメージしているのか?何を以って「全員男性で演じればシェークスピアが戯曲を書いた時代のスタイルそのまま」だと称するのか、吉之助にはいまひとつ分かりませんねえ。シェークスピア研究家であるスティーヴン・オーゲルは次のように言っています。
『問題はなぜ少年が女性を演じたかではなく、なぜ少年だけが女性の役を演じたのかということの方が重要なのである。少年は女らしく見えるからというのがいつも持ち出される理由であるが、それでは理由にならない。同じ程度に女に似た大人の男性だっているのだ。(中略)男性俳優のみの演劇伝統ー例えば歌舞伎や能ーでは、俳優の年齢もジェンダーと同じようにまったく問題にならない。女性らしさとはひとえに演技の問題なのである。』(スティーヴン・オーゲル:「性を装う〜シェークスピア・異性装・ジェンダー」)
スティーヴン・オーゲル:「性を装う―シェイクスピア・異性装・ジェンダー」
多少補整すると、歌舞伎においては「女性らしさはひとえに衣装・演技の問題であり、役者の実性別にはない」ということなのです。この点について日本の野郎歌舞伎も・シェークスピア時代の英国演劇もまったく同じなのです。しかし、シェークスピアにおいては、オーゲルが指摘する通り、「なぜ少年が女性を演じたかではなく、なぜ少年だけが女性の役を演じたのか」という問題が気になります。歌舞伎にもかつて若衆歌舞伎という時代があったわけで・似たところはありますが、ぴったり一致はしないようです。しかし、考える取っ掛かりにはなりそうです。
「歌舞伎素人講釈」では「NIAGAWA十二夜」が平成19年7月歌舞伎座で再演された時の観劇随想「暗喩としてのシザーリオ」のなかで「少年俳優の幻想を再現しようとするなら・菊之助は願ってもない素材なのだから、視点を変えて「若衆」ということをキーワードにすれば・別の方向もあり得たはずだ」ということを書きましたが、「オール・メール・シリーズ」を見ても同じ疑問を感じますねえ。「なぜ少年だけが女性の役を演じたのか」ということです。少年俳優のどういう要素が重要だったのでしょうか。蜷川氏はあまりそういうことをお考えではないようです。細身で女性的な印象の男性に化粧させて女装させればそれで良しとお考えなのではないですか。自然主義思想に染まった現代演劇では、男性の役は男優が・女性の役は女優が演るのが恐らく当たり前のはずです。またそれが男女同権の時代の芸術思潮にかなってもいます。そのルールをわざわざ全員男優で破るのには目論見が必要であるはずです。蜷川氏は「オール・メール・シリーズ」のどこら辺りに目論見を持っているのでしょうか。
ちなみに「NIAGAWA十二夜」は2009年(平成21年)3月にロンドン公演をしましたが、恐らくシェークスピアを素材とした歌舞伎への焼き直しであるという受け取り 方(これはまったくその通りなのですが)をされた為、その舞台が「オール・メール」 であるということの問題はロンドンの観客にほとんど意識されなかったようです。それは歌舞伎という演劇は全員男優で演じるのが様式だと思っている観客が舞台を見る のだから当たり前です。一方、これをともかくも日本視点からのシェークスピア解釈であると正面から見ようとした数少ない劇評家たちからは、この作品のジェンダー問題、最終場面でシザーリオがヴァイオラに戻る箇所について厳しい批評が出ました。これは吉之助が観劇随想で指摘したのとほぼ同じ論旨であって、当然過ぎるほど当然のことなのです。要するに、歌舞伎であれ新劇であれ、シェークスピアを「オール・メール」で演じる場合にはジェンダー問題に対することは避けられないと吉之助は思うのです。(別稿「暗喩としてのシザーリオ」をご覧下さい。)
現代英国でもしシェークスピアを「オール・メール」で本気で演じようとするならば、それは滑稽を軸にしたものにならざるを得ないでしょう。あるいはキッチュな(奇矯でいかがわしい)感触になってしまうことでしょう。だから敢てこういう無謀なことを試みる演出家は現代英国には現れないと思います。ジェンダーが強固な西洋演劇では、これは当然そうならざるを得ないのです。女形をきっちりと様式のなかに組み入れている歌舞伎という演劇を持つ日本に於いてのみ、唯一これを滑稽にも・キッチュにもならないものにできる可能性がある。そういうことをちょっと考えてみたいわけです。
西洋演劇史家の多くは、シェークスピアの時代は確かに「オール・メール」であったけれども・歴史的事実としてそうだったというだけで・それ以上の特別な意味はなかったということで済ましている、正確に言うならば、避けているのです。だからそういう試みに意義を見出さないことになります。どちらかと云えばスティーヴン・オーゲルは数少ない例外の研究者なのです。現代英国ではこれは仕方ないことだと思いますが、歌舞伎の女形が今だに「伝統」として厳然と在る現代日本においてシェークスピアを「オール・メール」にしようとするならば、ロンドンの観客の度肝を抜くシェークスピア、ジェンダー問題に刺さりこむシェークスピアを作れる可能性があるし、それをしないでどうするんだということです。蜷川氏もそういうことをもう少し考えて欲しいと思うのですねえ。どうせ「オール・メール」をやるなら ば、ホンモノの女性に見間違える人造美人を起用してもツマラぬことだと吉之助は思いますがねえ。演劇的にはキレイな本物の女優さんを使えばそれで済むことなのです。 (この稿つづく)
(H25・2・10)
吉之助が本格的に歌舞伎を・と云うよりも歌舞伎の女形を意識して見るようになったきっかけは、昭和51年(1976)2月日生劇場で玉三郎が演じた「マクベス」(シェークスピア)でのマクベス夫人であったということは、別稿「人間国宝・坂東玉三郎」でも触れました。吉之助が見ても・この時のマクベス夫人は主役がかすむ気がしましたけれど、主役マクベスを演じた平幹二朗も相当に悔しかったようです。平幹がどのくらい悔しかったのかは、彼がそのすぐ後に女役に挑戦したことで 察しが付きます。平幹とすれば、世間・マスコミが「これが歌舞伎の伝統の力・様式の力だ(それに比べると新劇は・・・)」という論理に安直に仕立てそうなのが非常に悔しかったと思います。そこで「俺にだって女役くらい出来るぜ」という気概を示したのが、恐らく平幹最大の当たり役となった「王女メデイア」(1978年2月日生劇場)なのです。
ところで玉三郎のマクベス夫人のことですが、若き日の吉之助が玉三郎のマクベス夫人の何に衝撃を受けたのかということを改めて思い返してみると、実は当時の吉之助は「これが歌舞伎の伝統の力・様式の力なのか」と驚いたのです。平幹二朗が危惧した通りです。だからこれからは歌舞伎をもっと熱心に見なければならぬと思ったのです。吉之助はそれ以前から歌舞伎は見ていましたが、それはドラマとしてのみ関心があったことで、歌舞伎の女形への関心は意識的にこれを排除して見ていました。ところが改めて歌舞伎を真剣に見直してみると、女形というものは吉之助が思っていたのとはちょっと違う感触に思われました。そうやって歌舞伎を見ているうちに、その後の吉之助のなかで六代目歌右衛門がだんだん重要になっていきます。このことについては別稿「人間国宝・坂東玉三郎」でも 少し触れました。
この点は 別の機会にもう少し掘り起こして改めて書きますが、結果だけ書くと、吉之助が玉三郎のマクベス夫人に「これが歌舞伎の伝統の力・様式の力なのか」と衝撃を受けたのは当時の吉之助の早合点であったなあということを今にして見れば思います。これは役者玉三郎の特性(芸質)に係わる問題であると限定して考えるべきであったと思います。それにしても衝撃には違いありません。そこで、もう一度問い直すと、あの時の吉之助が玉三郎のマクベス夫人の何に衝撃を受けたのか。それは今思い返してみれば、玉三郎の「軽やかさ」だったと思います。
別稿「演劇におけるジェンダー」でシェークスピアの少年俳優の「軽やかさ」について触れました。少年俳優は衣装を着せ替えるだけで・男にも女にも容易に変化します。シザーリオはオリヴィアを魅了しますが、衣装を変えればヴァイオラになって今度は公爵を魅了します。オリヴィアにとっても・公爵にとっても・それはどちらでもいいことなのです。それは記号であり・余計な重さを背負っていないからです。スティーヴン・ブースはこう言いました。
「自然は男性を分割し、半分は娘たちのため、半分は男たちのためのものとした。」
少年というものは誰のためにも何かを持っているというわけです。例えばお姫様言葉と女郎言葉をカチャカチャとチャンネルを切り変えるが如きに鮮やかに使い分ける風鈴お姫(桜姫東文章)がまさに同じ感触ですが、玉三郎の魅力はその感触の軽やかさなのです。何の苦労もなく・サラリと様相を変化させて・後に変な残渣を残さない、そのような軽やかさです。本稿は玉三郎論ではないので・これ以上の深入りはしませんが、改めて思うに、玉三郎のマクベス夫人の「軽やかさ」は、そのままシェークスピアの少年俳優の「軽やかさ」に通じたと思います。昭和51年ということは当時玉三郎25歳(若いッ!)ということですから、まさにそのような感触を持っていたということです。これはいわゆる歌舞伎の女形のエグさとは対極にあるものです。
しかし、後に見た昭和52年4月新橋演舞場での玉三郎のデズデモーナ(「オセロウ」)は綺麗なだけで大した衝撃はありませんでした。デズデモーナというのは英国でも有望若手がデビューでよく起用される役で、つまりさほど演技力が要求されない役ですから、仕方がないところがあります。女優が演るのと同じ感触では演じる意味はありません。女形が演じてインパクトを与えられる役はシェークスピアの役でも実はさほど多くはないのです。「十二夜」のヴァイオラ(男装してシザーリオ)あるいは「お気に召すまま」のロザリンド(男装してギャミニード)は「お嬢吉三や弁天小僧があるから・こんなの歌舞伎なら簡単なことさ」と思うかも知れませんが、違います。これらの役は歌舞伎の技法ではかえってジェンダーに縛られて処理が難しいと感じます。(別稿 「暗喩としてのシザーリオ」をご覧下さい。)
一方、これはシェークスピアではありませんが、平幹二朗の王女メデイアについて触れておきます。平幹のメデイアは「歌舞伎の女形なんぞクソ食らえ!」という気概で掛かっており、男声で叫ぶのを厭わず、見掛けはまさにグロそのものです。その開き直ったところに平幹のメデイアの成功があるのです。
*平幹二朗の王女メデイアをご覧下さい。蜷川幸雄演出
平幹のメデイアには、男もたじろぐ女の強さ・ 厭らしいほどの生への執着が強烈に出ています。それはまさに「かぶき的心情」・自己のアイデンティに対する正当な保障を求める心情です。それは強烈なエグさであって、それが逆説的にどこか歌舞伎の女形のエグさに通じます。平幹のメデイアをどこか様式的な感触にさせるのは、確かに辻村ジュサブローのデザインによる衣装の助けもありますが、多分その強烈なエグさのせいなのです。現在の吉之助は、現代演劇において男性俳優がシェークスピアの女性役を演じるならば、玉三郎よりも・この平幹の行き方の方が可能性が高いと考えます。ただし、この場合でも男優がインパクトを与えられる役はさほど多くはなさそうです。例えばマクベス夫人とか、マーガレット(「リチャード三世」) のようなテンションの高いエグさのある役ということになると思います。(この稿つづく)
(H25・2・17)
翻訳家の松岡和子さんが「じゃじゃ馬馴らし」筑摩文庫の訳者あとがきで興味深いことを書いていらっしゃいました。「じゃじゃ馬馴らし」は、手の付けられないおてんば娘 キャタリーナを、ペトルーチオという男が妻にして見事に手なずけてしまうというお話です。その「じゃじゃ馬馴らし」を翻訳して最後の行に辿り着いたところで、最後の台詞が未来形になっていてビックリしたというのです。
Hortensio: Now go thy ways, thou hast tamed a curst shrew.
Lucentio: 'Tis a wonder, by your leave, she will be tamed so.松岡訳では
ホーテンショー:よくやった。とっとと行け、手の付けられないじゃじゃ馬を見事に調教しちゃったな。
ルーセンショー:奇跡だ、言っちゃなんだが、この先もあの人がこういうふうに飼い馴らされていくのか。となっている箇所です。なるほど原文を知ってると、いろんな読み方が出来て、奥が深いものだなあと思いますねえ。実際、訳者によっていろんな解釈があるそうです。ホーテンショーの方はここを完了形で言っています。この台詞では キャタリーナの調教は完成したように聞こえますが、次のルーセンショーの方は未来のことを言っています。おまけに「Tis a wonder」の部分は驚き・感嘆とも受け取れますが、疑問のようにも取れます。そうするとルーセンショーは、「この先もあの人が飼い馴らされていくとは疑わしい」、あるいは「ホントに飼い馴らされていくと思えない」と言ったとも読めます。芝居の締め台詞ですから、ルーセンショーの台詞の解釈をどう取るかで、「じゃじゃ馬馴らし」の印象が根本的に変わります。
じゃじゃ馬馴らし シェイクスピア全集20 (ちくま文庫) 松岡和子訳
「じゃじゃ馬馴らし」はフェミニストに評判がとても悪い作品だそうで、バーナード・ショーでさえ「じゃじゃ馬馴らし」は女性に対して侮辱的だということを言っているくらいです。確かに最終場面・第5幕第2場でぺトルーチオが「彼女( キャタリーナ)がどんなに従順かお見せしよう」と指示 してカタリーナがしゃべる長台詞(というより演説とでも言おうか)はシェークスピアの真意を計りかねるところがあります。これではフェミニストたちがシェークスピアは女権蔑視だと憤慨するのも分からないこともない。果たしてキャタリーナはホントに飼い馴らされたのか、それとも上辺だけ従順を装っているのか。しかし、ルーセンショーの締めの台詞が疑問と考えるならば、これはすんなり納得が行きます。(まあ吉之助のセンスとしては、ということですが。)
そういえば「じゃじゃ馬馴らし」を劇中劇に仕立てたミュージカル「キス・ミー・ケイト」では、離婚した元夫フレッドと元妻リリーが「じゃじゃ馬馴らし」で共演することになるドタバタ・コメディですが、 キャタリーナ役のリリーが例の長台詞をしゃべり終えると感激したフレッドが元妻に我を忘れて抱きついてしまいます。ここでリリーは後ろ向いてベーッと舌を出すのですなあ。「バッカじゃない、こんな台詞で感激しっちゃってさ、男ってチョロいもんよね」という感じでしょうかね。観客のご婦人方は手を叩いて大喜びというわけです。
*下記は本文に直接関係はないですが、ミュージカル「キス・ミー・ケイト」(コール・ポーター作曲)のなかの人気ナンバー「シェークスピアをパクれ(Brush up your Shakespear)」。こわもてのギャング二人組が「シェークスピアの文句を使えば、君は女性に大モテだぞ」と歌います。ちなみに題名の「キス・ミー・ケイト」はペトルーチオが キャタリーナを躾けようとまくしたてる時の決め台詞です。
シェークスピアの「じゃじゃ馬馴らし」でのシェークスピアの真意はこんなところじゃないかと吉之助は思っているのですがね。これから飼い馴らされていくのはキャタリーナじゃなくて、ペトルーチオの方かも知れません。ルーセンショーはそう言いたかったのかも知れませんね。(この稿つづく)
(H25・3・30)
「NIAGAWA十二夜」が2009年(平成21年)3月にロンドン公演をした時に、蜷川幸雄氏が現地の若手演出家連中に「自分の演出作品に起用してみたい歌舞伎役者がいるか?」と聞いた所、みなが一様に挙げた名前は亀治郎(=現・四代目猿之助、以下本文中では亀治郎とする)であったそうです。これは全然驚かない。マーガレット(麻阿)というのは儲け役ですし、亀治郎はバタバタ舞台を駆け回ったり匍匐前進してみたりして、そういうことは歌舞伎の女形とは全然関係ないことですが、なかなか才気煥発なようだし目立つから、彼らがそう感じるのは当然かと思います。もっともそれは素材としての役者亀治郎の資質に対する興味なのであって、歌舞伎の女形というものに興味を惹かれたということではないでしょう。
西洋演劇史家の多くは、シェークスピアの時代は確かに「オール・メール」であったけれども・歴史的事実としてそうだったというだけで・それ以上の特別な意味はなかったということで済まして来た、正確に言うならば、論議することを避けて来たと、オーゲルは言っています。もしシェークスピアに歌舞伎の女形を起用するならば、シェークスピアの時代は確かに「オール・メール」であったという歴史的事実に真正面からぶつかってみても良いのではないか。自分の作品に亀治郎を起用してみたいと答えた、あちらの演出家さんたちは、そんなことをチラとでも考えたかどうか。しかし、もし英国の若手演出家がその演出の舞台(もちろん歌舞伎ではないもの)で女形亀治郎を期用したとしたら、やっぱりその使い方は滑稽を強調するものにならさるを得ないでしょう。歌舞伎の女形をシリアスな方向で起用する発想は多分出ないと思います。
そこで平成22年(2010)10月:彩の国 さいたま芸術劇場・「じゃじゃ馬馴らし」 での亀治郎のキャタリーナですが、基本的な色調はやはり滑稽を強調する方向に置かれています。それはひとつには作品の選び方の問題、作品が「じゃじゃ馬馴らし」だからそうなったということもありますが、伝統芸能として歌舞伎という・成人男性が女性を演じるという特異な形態が残っていて、観客がそれをシリアスなものと受け止める土壌がまだある日本においては、シェークスピアに歌舞伎の女形亀治郎を起用するならば、そういう問題提起をしないでどうするんだ、せっかくの機会なのにもったいないじゃないか、ということを思うわけです。蜷川氏もそういうことをちょっとは考えてもらいたいものです。そういう意味ではまず亀治郎を起用するにあたりもっと慎重に作品を選ぶべきでした。
今回の「じゃじゃ馬馴らし」を見ても、亀治郎のキャタリーナは言葉はしっかり明確に発声できているし、周囲の役者と鍛え方が違うことが歴然としています。だいたい蜷川幸雄氏の演出舞台は、これは四十年前の昔からその点は全然変わっていないと思いますが、台詞というのは早口言葉の如くに快速で台詞を読み飛ばすか・唾を飛ばして大声で叫ぶかみたいな感じで、数少ない主役級以外は台詞が聞き苦しいことが多いですが、この芝居でも亀治郎のキャタリーナ以外は全然駄目。筧利夫のぺトルーチオもよく舌は回ると感心はしますが、台詞はほとんど棒に近い。そういうなかにあって亀治郎のキャタリーナは抜きん出ています。
それにしても前半のキャタリーナの亀治郎のじゃじゃ馬ぶりは観客を沸かせます。しかし、吉之助は「歌舞伎の女形が何をやっとるんじゃ、それで受けを取ったつもりか」としか思わないので、そこには全然関心がない。吉之助の関心は、最後のキャタリーナの長台詞、例のフェミニストに評判の悪い「女の心得」を得々と演説する場面です。長台詞の途中でキャタリーナはぺトルーチオの腰の剣を抜き取り、それをひらひらと振り回しながら、長台詞を続けます。あっ、ここ「ヤマトタケル」の応用ね。なかなか巧いものですね。様式的?・・・ああ、そうね、そう感じる人がいるかも知れませんね。しかし、そういう表面的な仕草の型臭さのことではなくて、問題はキャタリーナがぺトルーチオの剣を弄ぶ時、それがキャタリーナのこの長台詞のなかでどのような意味をもたらすことが出来るかということが大事なのだと思います。長台詞をしゃべり切った瞬間、亀治郎は「やったぜエ」という感じで剣を床に突き刺しましたが、これはどういう意味でしょうか。「は 〜い、一丁上がり、型通りの台詞を型通りやってみせました、どんなもんだい」という感じでありましたね。この長台詞にそれ以上の意味は見出さないという演じ方に思えました。
ぺトルーチオの剣は、フロイト的に申せば剣は男らしさの象徴、象徴的ペニスと見ることが出来ると思います。この剣についてはもっと意味深な扱い方ができると思いますがねえ。滑稽を基調に構築されたキャタリーナであるので、この長台詞のなかに含まれる何がしかの真実までは、感知させてくれない気がしました。そういうことは大事ではないでしょうかね。できることならマクベス夫人あたりで亀治郎を見たいものです。
(H25・4・6)