暗喩としてのシザーリオ
平成19年(2007)7月歌舞伎座:「NINAGAWA十二夜」
五代目尾上菊之助(斯波主膳之助/獅子丸実は琵琶姫の二役)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(織笛姫)、七代目尾上菊五郎(捨助・丸尾坊太夫)、五代目中村翫雀(四代目中村鴈治郎)(右大弁安藤英竹)、二代目市川亀治郎(四代目市川猿之助)(腰元麻阿)、四代目市川左団次(左大弁洞院鐘道)、二代目中村錦之助(大篠左大臣)他
(シェークスピア原作・今井豊茂脚本・蜷川幸雄演出)
1)暗喩としてのシザーリオ
シェークスピアの喜劇「十二夜」ではヴァイオラは理由あって男装して小姓シザーリオに成り済ましますが、主人オーシーノは小姓に夢中になり・オリヴィアも小姓に恋してしまいます。ヴァイオラ自身はオーシーノに恋しますが、自分が男装していることを言い出せず・事態はややこしい関係に陥ってしまいます。終幕でそのもつれた糸がヴァイオラと瓜ふたつの兄セバスチャンの登場で解けてオーシーノはヴァイオラと・オリヴィアはセバスチャンの方とめでたく結婚することになりますが、何の葛藤もなく・実にあっさりとそういう結末に落ち着いてしまうのです。オーシーノはお気に入りの小姓が女性ならこれ幸いと妻にしてしまうという感じであるし、オリヴィアの方もあれほどシザーリオに執心だったのに・「顔が同じならまあいいわ」という感じでセバスチャンと結婚してしまいます。この展開についてある本(あえて名前を伏す)に「ご都合主義の結末のように見えるかも知れないが・だいたい人生自体がそんなに理に落ちるものではないでしょ」みたいなことが書かれていて「そんなものかなあ?」と思いました。
吉之助は戯曲における展開はそれなりの「必然」が伴うものだと思っています。ご都合主義で書かれた戯曲に大した出来のものはないと思います。「夏の夜の夢」でティター二アはロバに恋しますが、それは「目覚めた時に最初に見たものに恋する」という媚薬を飲んだため・そして最初に見たのがたまたまロバだったということです。しかし、ティター二アが恋する相手は「とんでもないもの」でなければ戯曲の意味がないのは当然のことです。だからティター二アが最初に見るのはロバでなければならないのです。「十二夜」とても同じこと。オーシーノがヴァイオラと結婚し・オリヴィアがセバスチャンと結婚する結末はご都合主義でも何でもなく、「十二夜」を考える時にこの結末は必ず何かの暗喩があるのです。
別稿「似てはいても別々のふたり」において、ヴァイオラ(変装したシザーリオ)とセバスチャンの兄妹が再会する場面について考察しました。若い男女はその思いがけない運命に陶然として見つめ合い、やがて溶け合ってひとつになって・新たな理想のひとりの人間として生まれ変わるかのように思われます。もちろん実際はそうなるはずもありませんが、観客の深層心理的願望としては間違いなくそれがあるのです。それが再会シーンが観客にもたらす暗喩であるということを申し上げました。
まずヴァイオラの立場から考えてみます。兄妹の再会は・「ああ時よ・これをほぐすのはお前の役目・私じゃない・こんなに固くもつれていては・私の手ではほどけない」(第2幕第2場)とヴァイオラ自身が嘆いていた膠着状態から自らを解き放つきっかけになっています。つまり、自分で仕掛けたシザーリオ(少年性のなかに逃げ込んでいる)という呪縛から脱して・本来性である女性に返るということです。これでヴァイオラは自分が恋していたオーシーノに自分の気持ちを正直に告白できることになります。これは少年性を包含したところのある少女の状態から、少年性(=シザーリオ)を取り去り・一人前の女性として成長したということでもあります。だから「十二夜」はヴァイオラの成長の物語として読むことが出来るわけです。
しかし、このことはヴァイオラが自分のなかのシザーリオを「否定する・消し去る」ということではありません。もちろんヴァイオラはシザーリオの衣装を脱ぐことでひとりの女性として成長するわけですが・その脱いだ衣装に十分な供養を施さなくてはなりません。この過程が大事なのです。思春期の少女の自殺で・周囲にその理由が全然思い当たらないようなことがあります。身体はどんどん女性として成長していくのに・自分のなかに残っている少年性の処置がうまくできないために・結局大人になるのを拒否するという形で自分のなかの少年性とともに死してしまうという場合があるのです。ですから「十二夜」の場合にもヴァイオラはシザーリオの衣装を脱ぐことになりますが、シェークスピアはこの点を十分に配慮しています。シザーリオは「殺される」のではなく、ヴァイオラのなかの少年性はセバスチャンに引き取られるのです。このこと はシェークスピアによってしっかり伏線がされています。シザーリオの衣装はヴァイオラが兄セバスチャンの衣装をそっくり真似したものだからです。「確かにお兄様は私という鏡のなかに生きている。目鼻立ちも私と瓜ふたつ、いつもこういう色や型の服、こういう飾りをつけていた。だって、これはお兄様を真似たんだもの。」(第3幕第4場)だから 消えたシザーリオはセバスチャンのなかに「生きている」ことになるわけです。これが「十二夜」を「ヴァイオラの成長物語」 として見た時の演劇的なシザーリオの供養の・ひとつの手法です。
オリヴィアがセバスチャンと結婚することが「十二夜」の結末に安心感を与えています。だから観客はこの芝居全体をハッピーエンドのお芝居だと感じることが出来るのです。脱ぎ捨てられたシザーリオの衣装の処理(供養)がぞんざいならば、オリヴィアは失われた恋人シザーリオのことをずっと嘆き続けなければなりませんし、ヴァイオラが幸せになれることは決してありません。
(H19・7・30)
2)分離と合体
「十二夜」における兄妹の再開をオリヴィアとオーシーノの立場から考えて見ます。オリヴィアが結婚する相手セバスチャンはシザーリオ(ヴァイオラの少年性)を引き受けています。このことをセバスチャンはオリヴィアにこう言っています。
『自然は回り道をしても正しい結果に導いてくれる。あなたはまだ男を知らない娘と結婚するところだったが、この命に賭けて、決して騙されたわけではない。まだ女を知らない男と婚約したのだから。』(第5幕第1場)
この台詞は 「自然は男性を分割し・半分は娘たちのため・半分は男たちのためのものとした」というスティーブン・ブースの少年俳優への賛辞を思い出させます。つまり、セバスチャンはここで「まだ男を知らない娘(少女)とまだ女を知らない男(少年)はほぼ等しい」と言っているのです。この論理を観客に納得させる根拠が女装した少年俳優です。だからセバスチャンの台詞はヴァイオラ(シザーリオ)が少年俳優によって演じられたということを念頭に入れなければ意味不明なのです。逆に言えば、このことが分かれば・オリヴィアがセバスチャンとすんなり結婚してしまうことが演劇的に自然な成り行きであることが理解できます。オリヴィアにとって・セバスチャンはシザーリオの代用品なのではなくて、シザーリオとまったく同等なのです。
一方、オーシーノは「魔法の鏡は真実を映していたらしい・となれば私もこの幸せな難破の仲間入りをさせてもらおう」と言ってヴァイオラに求婚します。大事なことはこの時点のヴァイオラはまだシザーリオの衣装のままであるということです。別の台詞ではオーシーノはこうも言っています。「シザーリオ、おいで。だってそうだろう、男でいるうちはお前はまだシザーリオ。」(第5幕第1場)つまり、オーシーノにとってもヴァイオラはシザーリオとまったく同等であるということが分かります。
「自然は回り道をしても正しい結果に導いてくれる」(セバスチャン)・「魔法の鏡は真実を映していたらしい」(オーシーノ)というふたつの言葉は・本来あるべき男性と女性の組み合わせの結婚を指していると考えるのがもちろん真っ当な解釈です。だから、オリヴィアとセバスチャン・オーシー ノとヴァイオラという組み合わせで芝居は表面上落ち着いた形になります。しかし、少年俳優を介在させれば・鏡は別の真実を映し出していると考えることも可能なのです。
再開した兄妹はやがて溶け合ってひとつになって・新たな理想のひとりの人間として生まれ変わるかのように思われる・それがこの場面が持つ暗喩です。とするならばオーシーノとオリヴィアの目には「ヴァイオラ=(シザーリオ)=セバスチャン」という風に見えているのかも知れません。だからオーシーノはヴァイオラと・オリヴィアはセバスチャンと別々に結婚しますが、実はふたりともシザーリオと結婚したような気分なのです。オーシーノとオリヴィアは実は真実のシザーリオをふたりで分け合っているような心持ちなのです。オリヴィアはオーシーノに「同じ日の・同じ場所で二組の結婚式を挙げる」ことを提案しますが、そう考えれば・当然結婚式は同時に挙げられねばならないことになります。
このように兄妹の不思議な再会は見方によって「分離」(シザーリオから少年性を分離してヴァイオラが出来上がる)という局面と・「合体」(セヴァスチャンとヴァイオラが ひとつに溶け合って真実のシザーリオが出来上がる)というもうひとつの局面を同時に併せ持つわけです。
(H19・8・3)
3)再会シーンについて
以上のことを踏まえて・平成19年7月歌舞伎座での「NINAGAWA十二夜」(再演)での主膳之助(セバスチャン)と琵琶姫(ヴァイオラ)の再会場面を考えます。この舞台では菊之助のひとり二役で演じられました。本当は衣装を同じにした二人の役者で演じられるべきだということは別稿「似てはいても別々のふたり」で書きましたから・ここでは繰り返しません。歌舞伎で「十二夜」を上演するという企画の前提として・菊之助のひとり二役が最初からあったようですから、まあそれはそれとして置くことにします。
「NINAGAWA十二夜」再演は無駄なところを整理して・2年前の初演より流れがスムーズになったのは確かです。しかし、琵琶姫と主膳之助の再会場面は・やっぱり演劇的暗喩が動き出さないという点では変わりありませんでした。そのために琵琶姫と大篠左大臣(オーシーノ)・主膳之助と織笛姫(オリヴィア)が結婚するのがまさに「歌舞伎の結末なんてどれもご都合主義で・こんなもんでしょ」みたいなところに落ちています。これは今井豊茂氏の脚本の問題と言うより も・前述の通り菊之助ひとり二役の前提が最初にあって脚本が書かれているので、実は「ひとり二役」の発想の方に問題があるのです。それにしても今井豊茂氏のこの場面の処理でのご苦労が察せられる気がしました。
新劇でもヴァイオラとセバスチャンをひとり二役で処理した例は過去にいくつかあります。これらはいずれも女優によって演じられています。例えば1986年の野田秀樹演出での大地真央です。ただし吉之助はこの舞台を見ておりませんが。ヴァイオラを男優が演じるなんてことは歌舞伎でなければ気持ち悪くて・想像したくないですね。(笑)しかし、このことは結構大事なことでして・「十二夜」を見れば主筋はヴァイオラが負うのですから、 新劇で二役兼ねる発想ならばこれを女優が演じるのはこれは当然のことだと思います。女優が二役兼ねるなら「十二夜」はヴァイオラの成長物語の様相を一層呈するでしょう。
「ひとり二役」となれば兄妹の再会場面では片方に吹き替えを使うか・いっそのこと片方を登場させないか・いずれにせよ脚本・演出に手を加える必要が出てきます。しかし、その場合は再会場面はヴァイオラを主にして場面を書き変えるのが当然だと思います。その逆・セバスチャンを取ることは芝居の暗喩が働かないから意味がないのです。しかし、この歌舞伎版「十二夜」では兄妹の再会場面で菊之助は主膳之助として舞台に立ち・琵琶姫はお面を着けた吹き替えが演じているわけです。 まさに発想が逆なわけで、この点が問題になります。
本稿はその是非を論じるのが目的ではありません。誰が考えたって・兄妹の再会場面では菊之助は琵琶姫(正確に言えば男装した獅子丸)として舞台にいる方が演劇的暗喩も立つし・効果的に思えます。演出の蜷川幸雄氏もそんなことは百も承知だと思います。ところが歌舞伎では実際演ってみるとそれだと少々具合が悪い感じなのです。それで芝居としては損なのを承知でこの場面を主膳之助に持たせるように脚本を書き変えたのではないかと・吉之助はそう推察しています。「脚本今井豊茂氏の苦労が察せられる」と書いたのはそこのところです。
(H19・8・6)
4)女形の虚構について
「十二夜」で最も素晴らしい場面がヴァイオラとセバスチャンの再会シーン(第5幕)であることは別稿「似てはいても別々のふたり」でも触れました。歌舞伎版においては・若手女形のホープ菊之助が男装のヴァィオラを演じるのが企画の目玉ですから、 菊之助がこの核心の再会場面の琵琶姫(ヴァイオラ)をどう処理するのかを・実は吉之助は一番期待していたわけです。しかし、残念ながら実際の舞台では菊之助は主膳之助(セバスチャン)を演じて・琵琶姫はお面を付けた吹き替えであったのでした。
これは多分こういうことだと思います。それは歌舞伎の女形の手法で琵琶姫が女性の正体を明かす場面を処理すると、女形の嘘が顕わに見えてしまうからです。ここで別稿「破滅のパラダイム」での女形の「実のなさ」についての考察が役に立ちます。女形が女に成り切ることを断念し・女を装うことを始めて・女形の演技術は飛躍的に発展しました。つまり、喉を絞って声色を作る・身体をグニャグニャさせてシナを作るというような女形独特の虚飾の技巧です。この女形の技巧が獅子丸が琵琶姫(つまり女性)の正体を現す肝心の場面で邪魔になってくるのです。しかも、この場面の琵琶姫はまだ小姓姿・つまり獅子丸(シザーリオ)の衣装のままです。正体を明かした琵琶姫を菊之助が演じたとして、獅子丸が突然高く作った女声を出して・シナを作り始めると・恐らく観客は笑い出すことでしょう。もちろん好意的な笑いではありましょうが。しかし、ここで男が女を作っていることの女形の「実のなさ」が顕わになって女形の技巧が浮いて見えてくる。獅子丸が女性であることを明かす・つまり真実が分かるという肝心の場面が、逆に「女形の虚構のなかへ戻る」というパロディ感覚になってしまいます。この感覚的齟齬がかなり大きいと思います。
菊之助に主膳之助を主体に演じさせれば・本来性である男が男を演じることで芝居は一応落ち着きます。そこで菊之助に主膳之助の方を演らせて・琵琶姫は吹き替えということに変更されたと 推測 します。芝居を収めるという点では多分その判断は正しかったと思います。しかし、いくらそっくりのお面をしたところで・吹き替えの琵琶姫(=獅子丸)ではやっぱり抜け殻になっちゃいましたねえ。結局、歌舞伎の早替わりのパターンのなかで「吹き替えが似てた」だけのご都合主義の場面になってしまいました。今井豊茂氏は最終場面の段取りの作り変えに苦労 されたこととお察しをします。幕切れを捨助(フェステ)が一同に別れを告げるという形に書き変えて・カーテンコールを兼用しつつ・観客の目を芝居の本筋から逸らしてしまった処理など巧いものです。
ところで、シェークスピアの時代に「十二夜」が上演された時・ヴァイオラは少年俳優が演じたわけです。少年俳優のヴァイオラでは、この再会の場面で性を装うことの嘘が顕(あら)わに見えてしまうことはなかったのでしょうか。それは「なかった」と断言できます。少年俳優は性の境界を自在に飛び越えて観客を楽しませたことでしょう。と言うより少年俳優は性の境界なんてものがあること自体を観客に意識させなかったと思います。「自然は男性を分割し・半分は娘たちのため・半分は男たちのためのものとした」、それが少年俳優であるからです。少年俳優はどちらでもあるのです。一方、歌舞伎の女形は自分の周囲に境界線を自ら引こうとします。男が女を演じることを嘘が顕わになることを虚飾の技巧によって無意識的に防御しようとするのです。境界線こそ女形を守るものだからです。そこにシェークスピア劇の少年俳優と・歌舞伎の女形との本質的・かつ決定的な違いがあります。
(H19・8・9)
5)少年俳優との違い
シェークスピアの時代の英国演劇では少年俳優が女性の役を勤めました。だからシェークスピアのヒロインを歌舞伎の女形に演らせればどうか・・というのはまあ簡単に思いつくアイデアではあります。しかし、実際にはそ うした試みが頻繁に行なわれたわけではありません。数少ない上演のなかで思い出すのは昭和51年に演じられた玉三郎のマクベス夫人です。この舞台は吉之助にとっては歌舞伎の女形の技芸の底力を再認識させる衝撃的なものでした。もちろんそれ 以前に歌舞伎は見知ってはいましたが、この舞台はこれ以後吉之助が歌舞伎にのめり込むきっかけになったものです。玉三郎のマクベス夫人を見なければ・吉之助の歌舞伎発見は数年遅れたかも知れません。一方、デズデモナの玉三郎はただ綺麗なだけで大した 発見はなかったですね。これは役が役だから仕方がありません。いずれにせよ女優を起用せず・歌舞伎の女形が演るだけの価値がある・効果が挙がる役はやはり限られるようです。ジュリエットやオフィーリアも女形が演る価値はあまりなさそうですなあ。先日の「国盗人」 (野村萬齋演出・「リチャード三世」の翻案)で白石加代子が演じたマーガレットは歌舞伎の女形が演っても面白いだろうと思います。役の情念の濃さがポイントですね。繰り返しますが、これらの役をシェークスピア時代には少年俳優が演じたことを想像してみてください。
そこでヴァイオラのことですが、歌舞伎の女形がヴァイオラを演ることはマクベス夫人を演るより・ある意味で難易度がかなり高いと思われます。それは男装したシザーリオがヴァイオラという女性の正体を現す場面があるせいです。マクベス夫人の場合は一貫して女性を装えるから・その点では楽なのです。ヴァイオラなんてお嬢吉三か弁天小僧の逆で簡単に出来るだろうと思うかも知れません。歌舞伎版「十二夜」の発想も案外そんなところが発端 だと思いますが、演ってみるとそんな生易しいものではないようです。
シザーリオ(=獅子丸)が本当は女性だという真実が明らかになる「十二夜」の一番肝心の場面を、歌舞伎の女形がその虚構を明らかにせずに乗り切る方法はあるでしょうか。考えられる唯一の方法は琵琶姫(ヴァイオラ)と獅子丸(シザーリオ)の演技の落差をなくしてしまう・中性か若干女性に近い少年の感じで同じ調子で押し通すことです。つまり、ある意味では歌舞伎の女形の女らしさの技巧の全否定です。琵琶姫(ヴァイオラ)と獅子丸(シザーリオ)の声色をほとんど変えずに同じトーンで通すこと、言葉遣いと口調だけで役の性の微妙な変化を見せることです。それならば兄妹の再会場面は無理ではなくなるのです。吉之助は少年俳優のヴァイオラ(シザーリオ)はそうした演じ方で処理されたと想像します。これは少年俳優が無技巧だと言っているのではありません。当時の文献でも当時の記録によれば少年俳優の女役は「イタリアで見られた女優の演技と変わりなく」・「女優の誰よりも素晴らしい」と記されているくらいです。これは若衆歌舞伎の感触に近いものなのです。
ですからマクベス夫人ならば歌舞伎の女形の技巧で処理できますし・それで十分ですが、それではヴァイオラあるいは「お気に召すまま」のロザリンド (男装してギャミニード)の場合は処理できないのです。若衆歌舞伎の時代まで遡り・失われてしまった若衆の技巧を想像して・これを処理する必要があります。このことは「お気に召すまま」のロザリンドの納め口上を見れば想像できます。ロザリンドに扮した少年俳優が最後に舞台に登場して観客に向かってこう言うのです。
「もし私がまことの女でしたら、私の気に入りましたお髭をお持ちの方々に一人残らずキスして差し上げたいと思うところです。」
それは観客への愛嬌と媚(こび)を含んでいると同時に、観客もその「真実」(これは偽りではなく・真実なのです)を受け入れて・愛していることを示しています。この台詞を現代演劇の感覚で・少年俳優が男の声で言ったのか・女の声で言ったのかと想像することはまったく意味をなさないことです。この台詞は男でも女でも通用する同じトーン・つまり少年の声で発声されたことは疑いありません。
(H19・8・12)
6)若衆歌舞伎の幻影
菊之助の獅子丸(シザーリオ)は・初演よりさらに柔らか味が出て・そこに若衆の魅力の片鱗を見せてくれました。時々女声になって・ハッとして男声に戻す・あるいは酒を飲む時にシナを作って女性をほのめかすという技巧もあざとくなく自然に見せました。女形のシザーリオである以上そういう風になるのは当然なことですが、若衆歌舞伎の視点から見ると・歌舞伎の女形の性の境界線への自意識がそこに見えてきます。兄弟の再会場面を琵琶姫(ヴァイオラ)の方に取らせようと考えた場合・琵琶姫の歌舞伎のお姫さまの類型的技巧が障害になるということも舞台を見ればはっきり確認できます。
蜷川幸雄氏が新劇でシェークスピアの原作本でヴァイオラを男性俳優に演らせようとするなら例えば藤原竜也を起用すれば・ちょっと面白いものに仕上がる かも知れません。しかし、歌舞伎の菊之助をヴァイオラに起用するならば・新劇の男性俳優が演じるのとは違うものが見えてこなければなりません。ひとつには歌舞伎の女形の批判(女形の否定ということではなく・女形の在り方をクリティカルに浮き上がらせるもの)ということです。大それたことと思うかも知れませんが、世界のニナガワが歌舞伎に挑戦というなら・そのくらいの衝撃が欲しいところなのだな。菊之助は若衆の雰囲気を感じさせますし、シェークスピアの少年俳優の幻影を思い起こさせます。少年俳優の幻想を再現しようとするなら・菊之助は願ってもない素材です。シェークスピアを数多く演出している蜷川氏のことです。歌舞伎の菊之助をヴァイオラに起用できるなんて・演出家の血が騒ぐじゃないかね。「歌舞伎らしいシェークスピア」なんてどうでも良いからもっと仕掛けてくれよというのが吉之助の正直な気持ちではありました。別稿「伝統芸能現代化の試み」において「NINAGAWA十二夜」は歌舞伎にとっても・蜷川氏にとってもホントのガチンコ勝負にはなっていないと書いたのは・そこのところです。
もちろんさすがに蜷川氏の演出は手馴れたもので・歌舞伎版「十二夜」は上質のエンタテイメントとして十分楽しめるものに仕上がっています。その辺に如才はないのですが、しかし、ちょっと視点を変えて「若衆」ということをキーワードにして見れば・別の材料も提供してくれるということです。いずれにせよ歌舞伎版「十二夜」は「歌舞伎らしいシェークスピア」を意識し過ぎで表現の幅を狭めたところが若干あるように思われるというのが吉之助の所見であります。
(H19・8・13)
(参考文献)
スティーヴン・オーゲル:「性を装う―シェイクスピア・異性装・ジェンダー」・岩崎宗治/橋本恵訳・名古屋大学出版会
(後記)
平成17年(2005)7月歌舞伎座での「NINAGAWA十二夜」初演については別稿「似てはいても別々のふたり」をご覧下さい。