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五代目米吉初役の雪姫

令和5年9月歌舞伎座:「祇園祭礼信仰記」〜「金閣寺」

五代目中村米吉(雪姫)、五代目中村歌六(松永大膳)、六代目中村勘九郎(此下東吉後に真柴久吉)、五代目尾上菊之助(狩野之介直信)、六代目中村児太郎(慶寿院尼)、四代目中村歌昇(十河軍平実は佐藤正清)、初代中村種之助(松永鬼藤太)他


1)「金閣寺」のバランス感覚

令和元年12月京都南座の「金閣寺」の観劇随想で、歌舞伎の「金閣寺」は五つの団子が串に刺してあるような芝居だが、五つの団子がすべて同じ大きさになってしまうと、発端もないし・山場もないし・結末部もない、平坦な流れがダラダラと続く印象になってしまう、どうも歌舞伎の「金閣寺」はそんな感じになりやすいと書きました。しかし、この時の南座の「金閣寺」は皆それなりに自分の役割を果たして各局面が相応の大きさのお団子になっており、結果的に芝居のバランスが良い塩梅に収まっていました。こういうことは実際にやってみないと分からないものです。

そこで今回(令和5年9月歌舞伎座)の「金閣寺」を見ると、やっぱり収まりが良くありませんねえ。皆それぞれやることはそれなりに一生懸命やっています。一応の形は付いており、誰のせいで良くないと云うことでもないけれども、芝居の全体的なバランスが良くない印象です。こういう時にまず浮かぶのは義太夫狂言の修練不足と云うことですが、まあ一言で言えばそう云うことになるのでしょうが、芝居をひとつの額縁・役をピース(欠片)に見立て・役をそこに嵌め込んで行くとすると、それぞれの役が正しい大きさと重さを取っていないと、役が額縁に上手く嵌まらない、全体のバランスが良い塩梅に収まらないことになってしまいます。どうも今回の「金閣寺」の舞台もそんな感じがします。

まず勘九郎の東吉(二回目)ですが、爽やかな印象で通しています。これはまあ歌舞伎の東吉は捌き役ですから・爽やかなのはそれはそれで良いとしても、勘九郎の東吉は妙に明るいと云うか、薄っぺらい印象がしますね。こうなるのは勘九郎の台詞のトーンが高めで・竹本が指し示す領域に嵌まらないせいがありますが、そのくせ動きを三味線の糸に当てようとする感じが強くて、所作がカクカクに過ぎます。こう云う段階は勘九郎ならばもうそろそろ卒業してもらいたいと思います。そんなところに義太夫狂言の経験不足が露呈しますが、もうひとつの課題が東吉の性根の持ち方にあると思います。

歌舞伎の東吉は捌き役の恰好いい役とされていますが、「御覧の如く四尺に足らぬ此下東吉」と自身が言う通り、丸本本来の東吉像と・舞台上の東吉との間には大きな印象のギャップがあることを心得ておらねばなりません。四尺とは、約120pです。丸本本来の東吉は非常な小男で、この男が後半では金閣の高殿へ上がるのに傍の桜の木を登ります。つまり「金閣寺」の東吉は猿に見立てられているのです。(史実の秀吉(藤吉郎)が猿面冠者とあだ名されたことはご存じの通り。)猿に見立てられているとは何を意味するかと云うと、生まれが卑しいドン百姓の出身だから、忠義なんて倫理感覚も薄い奴と鼻から馬鹿にされていると云うことです。主君信長を裏切り大膳に仕えたいなどと普通ならコイツ信用ならぬと警戒されるところです。ところが大膳が平然としているのは、「ああ良い良い、アイツならそんな程度の男だ」と軽く見ているからです。そこに大膳の油断・と云うか落とし穴があったわけですが。だから「コイツ意外と面白い奴だ」となって東吉にコロリと騙されてしまうのです。

以上のことは歌舞伎の東吉は捌き役と位置付けられますから・表面上忘れてもらって結構ですが、ここで押さえておかねばならぬのは、「見掛けは卑しい男だけれど・中身は信用できる男です」、つまり東吉という男の実(じつ)と云うことです。このことは最終的に「東吉は主君信長を裏切っていませんでした」と云うサプライズで観客に明かされますが、そのためにまずは大膳に忠誠を誓い己を信用させねばなりません。それが囲碁の真剣勝負であり・井戸に碁笥(ごけ)を投げ込みこれを手を濡らさず取り上げよと云う難題の解決なのですから、ここで東吉という男の実が試されるのでしょう。だから歌舞伎の東吉は爽やか一辺倒ではならぬと思いますね。東吉の実の性根をグッと肚にもって演じるならば、声のトーンはもっと低く抑えた印象に落ち付くはずです。(この稿つづく)

(R2・9・9)


2)米吉初役の雪姫

今回(令和5年9月歌舞伎座)の雪姫は児太郎(二回目)と米吉(初役)のダブル・キャストが組まれました。吉之助が見たのは米吉の回でしたが、このところ勢いのある米吉らしい雪姫であったと思います。米吉人気は3月の新作歌舞伎「ファイナル・ファンタジー」のユウナ役(吉之助は見ていません)でブレークした感がありますね。7月大阪松竹座での「吉原狐」での泉屋おきち(これは舞台を見ました)では、天真爛漫イキイキしたところを見せて喝采を浴びていました。今回の雪姫でも勢いは続いており、若木がすくすく枝葉を伸ばす心地よいオーラを感じます。

雪姫の型は(玉三郎から教わった)菊之助から教わり、その後玉三郎に仕上げを見てもらったそうです。米吉の雪姫の良い点は、教えられたことをきっちりやっており、汚れのない・まっすぐな雪姫のイメージを保持していることです。この点はこれからも是非守って欲しいと思います。もちろん義太夫狂言の習得は若手に共通する課題です。またこの米吉の雪姫を、娘然としており・人妻のしっとりした色気が乏しいと評する方は当然いらっしゃると思います。しかし、これが米吉の個性・と云うか魅力なのですから、現在の米吉はこれをベースに役を構築していかねばなりません。現在の米吉ならば可愛い雪姫になることは当たり前のことで、可愛くなけりゃあ米吉じゃないとも云えます。当然ながら、年齢を重ね・役を重ねるなかで芸も変容して行くものです。若手を見る愉しみは、そう云うところにありますのでね。

ところで雪姫のことを考えますが、絶体絶命の危機に雪姫が爪先で鼠を描き・これが真の鼠に変わって・雪姫を縛った縄を鼠が喰いちぎる奇蹟が起こります。その奇蹟の光景は、歌舞伎ではひたすらにメルヘンチックで美しい。(今回の米吉の雪姫もよく頑張っています。)歌舞伎ではその奇蹟は「父を殺した犯人は大膳だ」と夫(直信)に知らせたいと云う思いから来ることになっています。まあ総体ではそんなものかもしれませんが、これだけだと奇蹟を引き起こす動機としてチト弱い気がしないでしょうか。

直信は先ほど軍平に縛られて刑場に連れて行かれたばかりです。(実は軍平は味方だったわけだが、雪姫はそのことを知りません。)そんな直信に「犯人は大膳だ」と知らせたとて・どうなるものでもありません。夫婦の行方には死しか見えないのです。とすればこの時雪姫が考えたことは、多分こう云うことだと吉之助は思います。つまり直信と雪姫夫婦ふたり共怨みを含んで死んで(つまり殺されて)怨霊となって大膳を誅せんと云うことです。根拠は雪姫の次の台詞にあります。

「ヘエあの大膳の鬼よ蛇よ、人に報ひがあるものか無いものか、喰ひ付いてもこの恨み晴らさいで置かうか」と悔やみの涙はらはら玉散る露の如くなり「オヽそれよ三井寺の頼豪法師一念の鼠となり、牙をもって経文を喰ひさき、恨みを晴らせし例もあり、わが身、このまゝ鼠とも、虎狼ともなして給べ、南無天道様仏様、申し申し、コレ拝みたうても手が叶はぬ、エヽ無念や口惜しや」(後半部は歌舞伎では省かれます。)

頼豪法師(らいごうほうし)は、三井寺(園城寺)の高僧でした。承保元年(1074)、子がなかった白河天皇は「恩賞は望みのままだ」と言って頼豪に皇子誕生の祈祷を命じました。そのかいあってか目出度く中宮は懐妊し、無事に男児(敦文親王)が生まれました。(ただし4歳で夭折。)頼豪は褒美として三井寺の戒壇院建立の願いを提出しましたが、当時抗争が激しかった延暦寺への遠慮もあって・白河天皇はこの願いを受けませんでした。約束を反故にされた頼豪は怒り狂い、寺にこもって断食して呪詛を行い、そのまま死んでしまいました。親王が夭折したのはそのせいだと誰もが思ったのです。

この事件は、さらに「平家物語」の「覚一本」では、頼豪の怨霊が大鼠となって、鼠の大群が延暦寺を襲い仏像や経文を食い荒らしたという話に転化しました。さすがの延暦寺もこれにはホトホトまいったらしく・とうとう坂本に「ねずみのほくら」(宝蔵)を建てて神として祀ったそうで、一説にはこれが日吉大社の境外末社の鼠社であると云われています。

このように丸本では頼豪法師の古話が、(雪姫の祖父だとされる)雪舟が自分の涙で爪先で描いた鼠の画が動き出す逸話に重ねられているのです。だからお祖父ちゃんのDNAが雪姫にも伝わっているから・雪姫が爪先で描いた鼠もまた動くと云うほど話は単純なことではないのです。引き合いに出すならば死の覚悟を決めた浮世又平の描いた画が手水鉢を抜けた「傾城反魂香」の奇蹟と比較されるべきものです。したがって爪先鼠の雪姫は死を覚悟しており、夫直信と共に死し・怨霊となって大膳を誅せん、そのためにまずはこの縛り縄を解いて夫の元へ向かおうと云うことです。その強い思いが奇蹟を引き起こします。もしかしたらこの時の雪姫の形相は妹背山のお三輪のように変わっていたと云うことさえ想像出来ます。

以上の吉之助の想像は歌舞伎では、とりあえず忘れてもらって結構です。実際、この芝居では雪姫の奇蹟はひとつの挿話に過ぎず・全体の主題にまで高まるものではありません。そこが「金閣寺」という作品の弱いところなのでしょうね。しかし、大事なことは、雪姫の思い(大膳への憤り)はそれほどまでに強い・もしかしたらそれ以上にドロドロしたものである。その思いが鼠に縄を切らせると云うことです。歌舞伎の雪姫にも、美しいなかにも・そんなグロな瞬間がフト見出せないかと思うことはありますね。(この稿つづく)

(R2・9・12)


3)歌六の大膳・菊之助の直信

歌六の大膳(初役)は手堅い出来であると思いますが、もう少しスケール感が欲しい気がしますね。国崩しが持つ大きさ(「新薄雪物語」の秋月大膳も同様ですが)とは悪の凄みだと云うことはもちろんあります。しかし、もっと大事なことは、「天下は俺の掌のうえにあるも同然、国も人心も女でさえも我が意に従わぬものはない、どのみち俺の威勢に畏れ入るしかないのだ」とどっしり構える余裕・と云うか色気であろうと思いますねえ。その自信過剰が仇となり東吉に油断してしまって、天下を手にする寸前でこれを逃してしまうわけですが。

縄に縛られた雪姫に降り注ぐ桜吹雪は、ロマンチックな美しい光景に見えますが、フトすれば大膳の前に膝を屈してしまいそうな危険な誘惑を秘めてもいるのです。だから爪先鼠に大膳は居合わせませんが、あたかもそこに大膳がいるかのように、大膳が雪姫の心を翻弄するかのように桜吹雪は降り注ぐのです。桜吹雪がそのような光景に見えないのならば、爪先鼠がドラマ的に浮いてしまうことになります。「金閣寺」前半のそこまでの芝居の流れと爪先鼠との連関が見えなくなってしまいます。そうならないようにするために、爪先鼠を「金閣寺」のクライマックスに位置付けるための十分な段取りを前半で取らねばなりません。そのように考えると、今回(令和5年9月歌舞伎座)の「金閣寺」は、誰がどうのと云うでもないが、前半のバランスがチト重ったるかったかも知れませんねえ。特に囲碁の場面での緊迫感の表出にいまひとつ工夫が必要だと思います。

浄瑠璃作者は雪姫の気持ちに揺さぶりを掛ける巧い工夫をしています。縛られた雪姫の目の前を、軍平に縛られて刑場に連行される夫直信が通り過ぎます。直信が舞台にいるのは、ホンの少しの時間です。ここでの直信はチョイ役に過ぎませんが、チラと見えた縛られた夫の姿が、雪姫の気持ちを絶体絶命の状況に追い込むのです。菊之助の直信は、この短い場面のなかで忘れがたい印象を残して去ります。「金閣寺」という芝居は芝居をひとつの額縁・役をピース(欠片)に見立て・役をそこに嵌め込んで行くようなものと申し上げましたが、まさに菊之助の直信は、額にぴったり嵌るピースでした。ここは菊之助のここ数年の義太夫狂言の経験がよく生きましたね。

(追記)慶寿院尼役の福助が体調不良のため3日〜5日まで休演。児太郎が代役を勤めました。6日に復帰。

児太郎の雪姫については別稿「六代目児太郎再演の雪姫」をご覧ください。

(R2・9・17)


 

 

 


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