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十七代目勘三郎の丞相・二代目鴈治郎の覚寿国立劇場開場記念の「道明寺」

昭和41年11月国立劇場:「菅原伝授手習鑑」〜「道明寺」

十七代目中村勘三郎(菅丞相)、二代目中村鴈治郎(覚寿)、四代目中村雀右衛門(立田)、 二代目片岡秀太郎(苅屋姫)、三代目尾上鯉三郎(土師兵衛)、八代目坂東三津五郎(宿禰太郎)、十三代目片岡仁左衛門(判官代輝国) 、五代目沢村訥升(九代目沢村宗十郎)(水奴)他

国立劇場開場記念公演)


1)丞相御歌のこと

延喜元年(901)2月、失脚して筑紫大宰府に流されることになった菅原道真(菅丞相)が、伯母の覚寿尼のもとに別れを告げに立ち寄りました。当時、このお寺は土師寺と云い、道真の死後、寺名を道明寺と改めましたが、これは道真の号である「道明」に由来します。道真は「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠んで、別れを惜しんだと伝えられています。これは別れの刻を告げる鶏の声の無情さを嘆き 、自らの立ち去り難い想いを歌に詠んだもので、それで道明寺村の一帯では鶏を飼うことを忌むようになったそうです。この言い伝えは「名所図会」にも出て来るもので、浄瑠璃作者はこれを「道明寺」の段に取り入れたのです。

このように当時、「鳴けばこそ・・・」は丞相の御歌であると人々は信じていましたが、実は丞相の御歌ではなかったようです。ところで万葉の昔から鶏が出て来る歌や歌謡には恋が絡むものが多いようです。朝を告げる一番鶏・二番鳥の無情の声に恋人と別れねばならない辛さを重ねる、そこにドラマティックな構図を見ていると云うことでしょうかね。

もの思ふと 眠(い)ねず起きたる(あさけ)には わびて鳴くなり 庭つ鳥さへ (万葉集十二)
意味:恋心で物思いして寝られないまま起きた朝には、庭の鶏まで悲しそうに鳴くものだなあ

には鳥は かけろと鳴きぬなり。起きよ。おきよ。我がひと夜妻。人もこそ見れ(催馬楽)
意味:鶏はかけろと鳴いたぞ。起きろ。おきろ。我がひと夜妻よ、人が見るから。

その一方で、 鳴く時刻を間違えた鶏を責める伝承もあります。恋人との別れを急かされるだけでも内心鶏を恨めしく思うのに、時刻を間違えられたとなると鶏への恨みもひとし おとなるということかも知れません。出雲美保神社の言い伝えによれば、恵比寿さまとして知られる事代主命(ことしろぬしのかみ)が揖屋の郷の姫神のもとに毎晩通っていましたが、或る晩、鶏が時を間違えて早く鳴いてしまいました。夜が明けたと勘違いした事代主命は慌てて、舟に乗る時に櫂を忘れてしまい、仕方がないので足で舟を漕いでいたところ、フカに足を噛まれてしまいました。これは鶏の科(とが)であるとして、美保神社の氏子の人々は代々鶏も卵も食べないという風習があって、これはつい最近まで厳格に守られていたそうです。折口信夫は、この美保神社の伝承を引用し、多分、これに似たような古い伝承が土師の村にもあったのだろうと推察しています。それがいつ頃か、天神様の別れに置き換わったのです。

『天神様が、隠し妻の家の戻りに、鶏の音を怨まれたとあつては、あまりに示しのつかぬ話である。そこに家から来た娘と、別れを惜しむ事になつて来ねばならぬ訳がある。思ふに、土師の村の社には、いつの頃にか、美保式の神婚の民譚がついていたのを、たつた一点を改造した為に、辻褄の合うたような、合わぬような話が出来上がったのであらう。事実、天神・苅屋親子関係を信じ切っている今時の役者たちすら「手習鑑」の道明寺の段で、一番困るのは、右の子別れだそうである。女夫の別れに見えぬようとの、喧しい口伝もあると聞いている。妙なところに、尻尾の残っているものである。』(折口信夫:「鶏鳴と神楽と」・大正9年1月)

古代研究I 民俗学篇1 (角川ソフィア文庫)(「鶏鳴と神楽と」を収録)

なるほど丞相の行く手を遮って頻りに首を振ってイヤイヤしている苅屋姫を舞台で見ると、「丞相左遷の原因を作ったのは君じゃないのかね」ということをチラと思うことは確かにあります。その辺に辻褄の合うたような、合わぬような微妙な齟齬があるのでしょう。ともあれ丞相別れが女夫の別れに見えてはなりませんね。

『「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の、聞こえぬ里の暁もがな」と詠じ捨て。「名残りは尽きず御暇」と、立ち出で給ふ御詠歌より、今この里に鶏鳴く、羽叩きもせぬ世の中や。伏籠の内を洩れ出づる、姫の思ひは羽ぬけ鳥。前後左右を囲まれて、父はもとより籠(かご)の鳥、雲井の昔忍ばるゝ、左遷(さすらえ)の身の御嘆き。夜は明けぬれど心の闇路、照らすは法(のり)の御誓ひ、道明らけき寺の名も、道明寺とて今もなほ栄へまします御神の、生けるが如き御姿、こゝに残れる物語。尽きぬ思ひに堰き兼ぬる、涙の玉の木(もく)げん樹(じゅ)。数珠の数々繰り返し、嘆きの声に只一目、見返り給ふ御顔ばせ、これぞこの世の別れとは、知らで別るゝ別れなり』(「菅原伝授手習鑑」〜「道明寺」)


2)国立開場記念の「道明寺」

ところで今回取り上げるのは、昭和41年(1966)11月・国立劇場開場記念公演での「道明寺」の映像です。この時は二か月続きでの「菅原伝授手習鑑」通し上演でした。当時の筋書に「国立劇場における歌舞伎公演はどんな方針でおこなわれるか」という記事があって、そこに七つの方針が掲げられています。劇場創建に係った方々の理念・意気込みがよく分かって、とても興味深いものです。七つの方針のポイントだけを記しますが、1)原典を尊重した上演、2)通し狂言を心掛ける、3)意欲的な復活狂言を試みる、4)演出を努めて観客に分かりやすいものにする、5)配役は適材適所を旨とする、6)役者の仕勝手を排除し演出を統一化する、7)伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした新作上演にも努めるというようなものです。

ちょうど今年(平成29年・2017)が開場50年目のシーズンに当たるわけですが、この50年を通覧してみると、見取り狂言が多くなった時期もあったし、これを国立でやる意義があるのだろうか?と思うような上演もなくはなかったけれど、まあ紆余曲折もありながらも、大筋では七つの方針を守りながら運営がされてきたと思います。この50年、歌舞伎座での上演演目の足らないところを補完する形で、国立劇場はそれなりの仕事をよくやってくれました。

「道明寺」は長丁場なので、どうしてもダレる箇所が出かねない演し物ですが、この映像(昭和41年)の「道明寺」は役者も揃っており、芝居が引き締まってなかなか見応えがあります。開場記念公演ということで、役者の意気込みが伝わって来ます。上演時間は104分。これは直近上演の平成27年(2015)3月歌舞伎座での「道明寺」の110分と は、台詞の速度だけでなくいろんな要素が絡むので単純比較はもちろんできませんが、全体的に感じる違いは、昭和41年の方が役者 の台詞が若干早めで、トントンと芝居が小気味良く進むことです。比べてみると、現代の芝居の感覚が、昔より間延びしていくぶん様式の方に傾いているということに、改めて気付かされます。これは息の取り方も絡むので、ただ台詞のテンポを上げればそれで良いというものではないですが、平成の歌舞伎の大きな問題点です。

この映像(昭和41年)で吉之助が期待したのは、二代目鴈治郎の覚寿でした。吉之助は昭和40年代に歌舞伎役者で充実していたのは、もちろん六代目歌右衛門や八代目幸四郎などあまた名優はいましたけれど、筆頭は鴈治郎だったのじゃないかと密かに思っているのです。残念ながら吉之助はこの時期の歌舞伎を生で見ていないし、限られた映像でしか確認してませんが、今回の覚寿を見ても確信は揺るぎませんねえ。覚寿という役は情と品格が大事なのはもちろんのことですが、同時に土師兵衛・宿禰太郎親子の不正を鋭く追及し太郎を刺し殺す強さも持っています。真女形であると、そこのところが難しい。芯の強さというだけでは、どうにもならぬ面があるようです。立役が覚寿を演ると、そこの難をクリアできるということでしょう。鴈治郎の覚寿は小柄であるし 視覚的にそう強いものはないのだけれど、杖折檻や太郎を刺す場面の間合いに立役ならではの息の強さを見せて くれました。

「道明寺」は菅丞相と苅屋姫親子の別れを描くものですが、思えば覚寿と立田の親子の別れを描くものでもあるのです。「初孫を見る迄と、たばひ過した恥白髪。孫は得見いで憂き目を見る。娘が菩提。逆縁ながら弔ふこの尼、種々因縁而求(にぎゅう)仏道、南無阿弥陀仏」、この台詞に覚寿親子の悲劇を見ることができます。時を作る鶏に絡めて云えば、立田は殺されて池に沈められたその血潮を感知した鶏が驚いて偽の時を作ります。立田は心ならずも偽使者の陰謀に加担させられたわけで、その哀しみは計り知れません。木像の奇蹟に上塗りされてサラリと通り過ぎてしまうけれども、「道明寺」のなかで覚寿親子の悲劇はしっかり押さえておきたいと思います。

丞相は、吉之助にとっては十三代目仁左衛門の丞相(昭和56年11月国立劇場・開場15周年記念公演)の演技が心に入ったものとして忘れ難いものです。以来現在まで丞相の役は十三代目と当代(十五代目)仁左衛門と松島屋だけが演じているので、吉之助も違う型での丞相を生では見てませんが、十三代目仁左衛門が現人神としての丞相を描いたとすれば、十七代目勘三郎はもう少し人間味の方へ寄った丞相であると云えましょうか。

覚寿が輿から丞相の木像を抱きかかえて御座所の元の場所に安置します。十三代目仁左衛門丞相はこの時姿勢を変えず、木像の方を一切見なかったと記憶します。これは当代仁左衛門もそうしています。一方、十七代目勘三郎は覚寿から木像を受け取って、しばし奇蹟に感じ入ったように木像を眺めます。丞相が木像に感謝する心を見せるのは悪くない型だと思いますが、自分自身に感謝してるようでマズいでしょうかね。ちなみに九代目団十郎が覚寿を演じた時には、覚寿は太郎を殺した後で血で汚れているというので丞相の木像に自分で触れることをせず、腰元を呼んで木像を運ばせたそうです。まあこれも理屈ではあります。あの木像は結構大きくて重そうに見えるので、お婆さんがひとりで持つと腰を傷めないかと気になることがありますね 。

幕切れの丞相別れの足取りは、当時の十三代目仁左衛門は目が悪く動きが不自由だったことがあり、その不自由さを逆手に取って、苅屋姫への思いを込めてゆっくり歩み、花道七三で立ち止まって振り返った姿が、とても印象的でした。この歩みは当代(十五代目)仁左衛門においても、型としてしっかり守られています。対するに十七代目勘三郎の丞相は、苅屋姫を振り切ると、思いを断ち切るが如く早足で駆けて七三で立ち止まらず、さらに花道を揚幕近くまで駆けてそこで振り返ります。これにはハッとさせられました。こういう人間味溢れる丞相も、なかなか悪くありません

(H29・9・17)




  
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