男性的世界と女性的世界〜四代目猿之助初役の政岡
令和3年12月歌舞伎座:「新版 伊達の十役」
四代目市川猿之助(乳母政岡・松ヶ枝節之助・仁木弾正・絹川与右衛門・足利頼兼・三浦屋女房・土手の道哲・高尾太夫の霊・腰元累・細川勝元、以上十役)、二代目坂東巳之助(八汐)、九代目市川中車(栄御前)、八代目市川門之助(渡辺民部之助)他
*本稿では、三代目・四代目猿之助が交錯しますが、ただ猿之助とのみ記する時は・それは当代を指すとお読みください。
1)男性的世界と女性的世界
「慙紅葉汗顔見勢」(はじもみじあせのかおみせ・通称「伊達の十役」)は文化12年(1815)7月江戸・河原崎座で、七代目団十郎により初演。しかし、台本が散逸してしまっており、早替り芝居の決定版が欲しい三代目猿之助もさすがに困り果てるところでしたが、奈河彰輔がわずかな資料を元にまったく新しい台本を作り上げた(つまるところはでっち上げた)のが現在の「伊達の十役」で・・ということは、別稿の如く「素性のよく分からぬ脚本のいじくり廻しは嫌い」な原典主義者の吉之助は目をひそめるところなのですが、さすがにここまで来ると痛快と云うか、エンタテイメントとして本作はよく出来ていることを認めざるを得ませんね。南北に義太夫が入るのかね・・なんてことは云わぬことにします。
ところで「伊達の十役」は三代目猿之助の伝授を受けて当代海老蔵や幸四郎も演じていますが、調べてみると意外なことに、当代猿之助が十役を演じるのは、本興行では今回(令和3年12月歌舞伎座)が初めてであるようです。そうなったのはいろいろ背景があると思いますが、他の役では甲乙付けがたいとしても、猿之助が他の二人と比べて絶対的なアドバンテージがあるとすれば・それは政岡にあることは、これは疑いのないところです。猿之助も現在は立役に傾斜しているけれども、政岡を加役としてではなく、本役として演じる技量もキャリアも持っていると云うことです。(海老蔵や幸四郎を貶めるつもりは毛頭ないので、そこのところはお察しをいただきたい。)もしかしたら叔父である三代目よりも、この点では有利であるかも知れません。
それはもちろん「伊達の十役」のメイン・ディッシュが「先代萩・御殿」の政岡であるから、大事なことになるのです。三代目猿之助は、目まぐるしい早替り芝居のなかに・じっくり芝居を見せる場面を必ずひとつ設定したものでした。「伊達の十役」では、それが政岡なのです。吉之助の記憶では、三代目猿之助の政岡のじっくりした芝居のシーンで、「何この場面は、早替わりしないの?」と言いたそうな吃驚した顔で周囲をキョロキョロ見まわしてるオジさんを客席で見掛けたものでした。しかし、この点はとても大事なことで、しっかり質量がある核(中心)を持つことで、早替り芝居のケレンの軽みが一層生きて来るということなのです。したがって政岡を本格で演じられるであろう役者を配役することで「伊達の十役」の感触がどのように変化するかというところが、興味のひとつになるでしょう。
しかし、今回は残念ながらコロナ仕様の短縮脚本で、そこのところを十分確認出来る上演形態にはなってはいません。序幕に「先代萩・御殿」に当たる場面を割り当てて、後幕に「間書東路不器用」(ちょっとがきあずまのふつつか)と云う・「伊達の十役」の筋をダイジェストした早替りの幕を新たに書き加えた形になっています。これはまあコース料理を頼んだつもりが、メイン・ディッシュが先に出てきて、食べ終わった後、前菜・スープ・デザート・コーヒーその他が大皿に載せてドッと出てきた感じであって、これではメイン・ディッシュが活きて来ない、順番が違うでしょと云う感じがしますが、このコロナ状況では文句は言えませんがね。それならば10月歌舞伎座のように・いっそのこと「政岡外伝」に仕立ててしまう手もあったかと思いますが、それでは何のことはない「伽羅先代萩」じゃないかということになるので、猿之助としては十役を出すことにこだわったということでしょう。その気持ちは分かるけどね。
まっそういうことはあるけれども、猿之助初役の政岡を興味深く見せてもらいました。そこでまず「先代萩・御殿」という芝居の構造について考えて見たいと思います。三島由紀夫が、石原慎太郎との対談のなかで、こんなことを語っていますので、この発言を取っ掛かりといたしたい。
『あれ(先代萩)は実にグロテスクな、面白い芝居だよね。僕はいつもあの芝居で感動するのは、長い長いまま炊きから、御殿の愁嘆場が済むと、女性的世界、あのネトネトした悲しみがダーッと上に去っていくんだよ。そうすると、女たちの世界がダーッと消えて下から男性的な世界がダーッと上がって来るんだ。床下の男之助のせり上げで。そうすると、今度、男の悪の世界が始まる。その興奮というのはないよちょっと。それも、始め、ネチネチ見せられるから効果がある。そんなことは決して意図してやったこともないし、誰か頭のいい奴が考えたことでもないんだね。ほんとに感覚だけだね。不思議だよ、ほんとに。』(三島由紀夫:石原慎太郎との対談「新劇界を皮肉る」での発言・昭和39年3月)
「御殿〜床下」舞台転換の秘密をこれほど適格に語ってみせたものを、吉之助は知りません。ここで女性的世界から男性的世界への入れ替わりということを三島は語っています。二つの世界が床下の男之助のせり上げでダーッと一気に入れ替わって行く。そこに象徴される御家騒動の世界の、政治闘争の下に流れるドロドロと赤黒い(それはまさに血の色である)悪と正義が入り混じった様相、これがとても大事なのです。
ここで質問が出るかも知れませんねえ。それは「伽羅先代萩」論の時に云えば良いことで、どうして選りによって「伊達の十役」論の時に吉之助はそれを云うのか?ということです。とても良いご質問です。もちろん「先代萩」論の時に言っても良いことです。しかし、「伊達の十役」では、このことをもっと強く言わねばならないのです。何故ならば「伊達の十役」では、政岡と男之助と仁木弾正を同じ役者が早替りで勤めるからです。女性的世界像と男性的世界像はその二つが真向対立するものではない、実はその二つは御家騒動の世界の表裏一体の、二つの様相に過ぎないことが、「御殿・床下」を早替りで勤めることで、より鮮烈に・より象徴的に描き出せるであろうと、吉之助は考えるからです。もちろんこれらの役を三人の役者が別々に演じても・それは表現が出来ます。事実、優れた「先代萩」の舞台であれば、それははっきり見えるものです。しかし、それは意図して出せるものではありません。同じ役者が三役早替りで勤めるならば、それをコンセプトとして筋が通ったものに出来る可能性がある。つまり三島が上記発言で「ほんとに感覚だけだね。不思議だよ」と言っていたものを明確なコンセプト(意図したもの)に出来るという目論見なのです。(この稿つづく)
(R3・12・8)
一口に「男性的世界と女性的世界」と言っても、それはいろいろな見方が出来ると思います。通常よくある見方としては、封建社会の忠義の論理にがんじがらめに縛られた男がおり、例えば「寺子屋」の松王のように、男が自分の子供を主人の身替りとする、女(例えば妻千代)はその理不尽さを嘆いて封建思想の非情を訴えるという構図だと思います。男は建前の論理・女は本音の論理という形で、男性的世界と女性的世界は対立構図を見せると、まあそう云うことです。確かに「寺子屋」だけでなく・この見方で多くの作品を読み解くことができますし、もちろん「先代萩」においても、この見方は適用できます。つまり忠義・滅私奉公とは、男が支配する封建社会の根本概念(男性的論理)であると云うことです。
例えば、千松が殺された後、ひとり残った大広間で政岡は我が子の死骸を抱きしめ、最初は「コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや。」と言います。しかし、「・・・・とは言ふものの可愛やなア」から次第に政岡から 別の言葉が漏れ始め、「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食べなと云ふて呵るのに、毒と見へたら試みて死んでくれいと云ふ様な胴欲非道な母親が又と一人あるものか・・」となります。これは前半の、「コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ」が建前の論理(忠義の観念の男性的論理)であって、後半の、「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」という嘆きが本音の論理(母親の愛情の女性的論理)として吐露されることで、前半の論理が否定されるという見方が当然できるところで、多分、これが民主主義の現代では主流の見方です。
しかし、上記の見方も尊重しつつも、前半の「よう死んでくれた、出かしたナ」と、後半の「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」の、そのどちらもが政岡の本音であると、なお吉之助は考えたいのです。男たちに建前の論理があるように、女の世界にも女なりの建前の論理のなかで生きているのです。忠義・滅私奉公は確かに封建社会の男性的論理かも知れませんが、女たちがそれと無関係に「殿方はツマラナイことにこだわって無用な諍いをするものですわね」と醒めていたとは思えません。また夫や子供・親兄弟を奪われてただ泣き叫ぶだけの被害者としてのみドラマに関与するということではないと思います。夫や子供・親兄弟を介してであるにしても、女たちも封建社会の論理である忠義・滅私奉公の真っ只中に生きており、そのなかで否応なく関与を求められています。政岡や栄御前も八汐だってそうです。栄御前や八汐は悪方ではないかと云うかも知れませんが、それは政岡から見れば政治的立場が反対側だから悪だということに芝居でなっているに過ぎません。栄御前も八汐だって、彼女らの政治的信条において必死に忠義・滅私奉公しているわけです。これは沖の井だって松島だって同じことです。
と云うことは、「男性的世界と女性的世界」と言うと・何やら二つの世界を対立構図に見てしまい勝ちですが、実は忠義・滅私奉公という封建社会の論理から、男性・女性どちらの世界も支配されており、そのなかでみんな必死に生きているのです。しかし、同じものを見たとしても、男性的感性から見た世界と・女性的感性から見た世界とは、その目に映っているもの(像)はまったく異なって来ます。或いは感情の出方が全く異なってくると云うことです。ですから「先代萩」御殿から床下への舞台転換とは、女性的感性で見た闘争世界(女たちの先代萩)から