六代目歌右衛門のお三輪、二代目鴈治郎の鱶七
昭和44年6月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」〜「御殿」
六代目中村歌右衛門(お三輪)、二代目中村鴈治郎(鱶七実は金輪五郎)、三代目実川延若(蘇我入鹿、豆腐買い二役)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(求女)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(橘姫)
1)婦女庭訓の重さ
歌舞伎の娘役としてお三輪は代表的なものですが、「妹背山」上演史を見ると、お三輪の件を道行と御殿で半通し上演するのが常識というわけではなく、御殿の場だけの上演の方が多いようです。昭和以降だと半分以上が御殿だけの上演のようです。それでも六代目歌右衛門がお三輪を演じる時には、役が良く見えるのだから本人も道行と御殿で通すやり方を強く望んだだろうと思ったら、意外やこれも御殿だけの上演が多い。吉之助が見た晩年の歌右衛門のお三輪も、やはり御殿だけの上演でした。
これはもちろん座組みとか上演時間とかいろいろ事情があるのでしょう。しかし、お三輪の件については道行と御殿とのセットをしっかり定番にしていただきだいものです。筋が分かりやすくなって良いということだけでなく、道行が付かないと御殿の場のお三輪の悲劇が浮き彫りになって来ないと思います。お三輪の悲劇が完成しないと云っても良い。今回、昭和44年6月国立劇場の「妹背山御殿」の映像を見直して、改めてこのことを痛切に思いました。道行と御殿を通せば、二場が互いに連関性を主張して、こんなに良くなるんだということです。御殿での歌右衛門のお三輪はもちろん素晴らしいものですが、このお三輪が何故素晴らしいのかは、その前場の道行を見ていればこそ分かる。逆に云えば道行を見ないで御殿だけであると、歌右衛門のお三輪の悲劇の意味がよく見えて来ないかも知れないなあと思ったのです。
つまりそれだけ道行の出来が良かったということでもあるのですがね。「道行」の観劇随想で、「言葉なしでも、芝翫(橘姫)と歌右衛門(お三輪)の身体の遣い方、身体のどの部分も内輪に内輪にと、しっかりと制御された動きから、彼女たちを律する婦女庭訓の重さがひしひしと伝わって来る」と書きましたが、このことの意味が、次の御殿の場で明らかにされるということです。お三輪も橘姫も、求女と云ういい男に恋しています。恋心というのは、まあ普遍的な人間感情と云えるわけですが、「御殿」でのお三輪の疑着の相にまつわる筋は、好きな殿御を慕う気持ちが強いというだけでは、上手い説明が出来ないでしょう。これは、恋という感情と重なっているけれども、それとは次元がまったく異なる感情、つまりお三輪が奉じる婦女庭訓、「私は夫たるべき男(恋する相手は自分と結婚するものだと彼女たちは信じているのであるから)に妻たるべき私はどのように尽くすべきか、妻たるべき私はどうあるべきか」という問題に深く係わってきます。言い換えると、これは自己実現の欲求ということです。ですから確かにお三輪は求女に恋しているのだけれど、別の見方をすると、「私はこの人となら自己実現が出来そう・・」だと思うから、お三輪は求女に恋するのだとも云えます。求女は、自己実現のきっかけに過ぎないのかも知れません。婦女庭訓などと云われると、現代の女性観客はこれだけで拒否反応を起こしちゃうかも知れませんが、江戸時代の女性は当時のそれを律としただけのことです。現代の女性だってこの時代の律のなかで自己実現を目指しており、それが恋である場合だってあるでしょう。まあそう云う風に思えば良いのではないでしょうかね。
「私という人間はこうあるべき」という観念は、良くも悪くも自分を強く縛るものです。「あるべき私」が裏切られることは、私にとってこれは決して容認できないことです。だから私は必死になって自己実現を図ろうとします。つまり私は「私がこうあるべき」という観念にがんじがらめに縛られているのです。これは男でも同様なことですが、江戸時代における女性の立場は従属的でずっと弱い立場であり、制約が多くて窮屈なものでした。当時の女性は、「女はこうあるべき、妻はこうあるべき」という観念に 強く縛られていました。歌舞伎舞踊の女形の、身体の動きを窮屈に思えるほど内輪に内輪に取ろうとするその振りは、この時代の女性に課された制約の重さを感じさせます。女形の内輪の動きが表現するものは、当時の女性を観念的に強く縛る何物かです。「妹背山道行」では、これが婦女庭訓です。
残念ながら御殿だけでは、お三輪に課せられた婦女庭訓のことがよく分からないでしょう。お三輪は御殿に着いたらすぐに官女にいびられて、怒ったら金輪五郎に殺されてしまって、そういうことを描く場面が御殿の場にないからです。婦女庭訓の重さについては、道行のお三輪の踊りの振りのなかにすべてが描かれています。つまり御殿だけではお三輪の悲劇は中途半端であり、それは道行と御殿とのセットでなければ完全には描けないということなのです。(この稿つづく)
(H29・10・25)
入鹿が君臨する三笠山御殿は、お三輪にとって(庶民にとっても)まったく別次元の世界です。ここではお三輪の感覚からするとまったく理解できない奇妙なことが起きます。常識が通用しない世界です。お三輪が御殿に着いてウロウロしていると、向こうから豆腐買がやってきます。お三輪が道を聞こうとすると、豆腐買は「オヽお清所尋ぬるのなら、そこをこちらへかう廻って、そっちゃの方をあちらへ取り、あちらの方をそちらへ取り、右の方へ入って、左の方を真直ぐに脇目もふらずめったやたらにずっと行きや」とトンチンカンな答えを返します。この豆腐買と云う 役は、一体何でしょうか。初めてこの場を見た時、吉之助はこの役は歌舞伎の入れ事か?と思ったのですが、正しくは、もちろん近松半二が浄瑠璃丸本に書いた役です。
それにしても奇妙な役です。吉之助は豆腐買と云うと、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」冒頭に登場する三月ウサギを思い出すのですがね。 「大変だ、大変だ、パーティに遅刻する」と云いながらアリスの傍をバタバタ走るあのウサギです。三月ウサギはチョッキを着ていて、ポケットから時計を取り出し「遅刻だ」と云って騒ぎます。「あとから思い返せば、これで驚かない方がどうかしてると思ったけれど、その時はまったく当たり前のような気がしてね」、三月ウサギ の登場はアリスをいきなり不思議の世界へ連れて行きます。「御殿」も同じで豆腐買が出て来た時から、もうそこはお三輪にとってまともな世界ではありません。こういう役を創造した半二という作者は、ホントに面白いセンスをしています。キャロルに約百年先んじていますね。
「妹背山・御殿」の舞台はいろいろ見ました。恋しい求女に会いたい一心で官女の執拗な虐めをじっと耐えるという性根は、もちろんどのお三輪役者だってしっかり押さえています。殿御を思い詰める心(恋心)というのは大事なことです。これがなくては始まりませんが、実はお三輪が官女の虐めをじっと耐えるのは決して恋心からだけではないでしょう。恋心と重なっているけれども、まったく次元が異なる感情が、お三輪を縛っています。まずお三輪が怒って疑着の相を現す直前の台詞を見てみます。
「エヽ胴慾ぢゃ胴慾ぢゃわいのう。男は取られその上にまたこの様に恥かゝされ、何とこらへて居られうぞ。思へば思えばつれない男。憎いはこの家の女めに見かへられたが口惜しい」
これだけ読んでお三輪が怒るのは恥をかかされたからだと思うのは、早計です。恥の観念と云うのは、歌舞伎では幕末期に出て来るもので、半二の時代にはまだないものです。半二は儒学者穂積以貫の次男として生まれました。作劇者として半二がこだわるところは、「私」と云う人間の在るべき道ということです。例えば「誠の武士として自分はどう行動すべきか」(近江源氏先陣館・盛綱陣屋)、「あなたの息子として自分はどう行動すべきか」(伊賀越道中双六・沼津)です。お三輪を縛るのは、「あなたの妻として自分はどう行動すべきか」という観念です。官女の執拗な虐めを我慢したあげく「求女に会いたい」という願いも叶えられなくなって、ついにお三輪は怒り出しますが、お三輪の怒りは彼女の自己実現がならなかったことから来ています。ひるがえって「妹背山・道行」を見れば、求女を めぐってお三輪は橘姫と言い争って、次のように言っています。
「主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。女庭訓躾け方、よふ見やしやんせ、エヽ嗜みなされ女中様」
「イヤそもじとてたらちねの、許せし仲でもないからは、恋は仕勝よ我が殿御」
「イヽヤわたしが」
「イヤわしが」これを見れば、お三輪の道徳律の根底に婦女庭訓があり、「求女の妻たるべき私はどう行動すべきか」という観念が、お三輪を強く縛っていることが明らかです。前章で触れた通り、このことを描く場面が「御殿」にはなく、それは「道行」まで遡らないと出て来ないのです。御殿だけではお三輪の悲劇は中途半端だと吉之助が云うのは、そこのところです。お三輪の怒りは自己実現がならなかったことから発しています。だから疑着の相を現したお三輪の怒りを止めるには、生半可な慰めでは通用しません。お三輪を刺した金輪五郎の台詞を見れば、どのような論理がお三輪の怒りを止めるのか分かります。
「女悦べ。それでこそ天晴れ高家の北の方。命捨てたる故により、なんぢが思ふ御方の手柄となり入鹿を亡すてだての一つ。ホヽウ出かしたなァ」「
求女に会わせないでいきなりブスッと刺しておいて「それでこそ天晴れ高家の北の方」はないだろと思うのは、御尤もです。確かにひどい話です。しかし、お三輪が求女(藤原淡海)の妻であることを公に認めることは、お三輪の自己実現が成ったということですから、これだけがお三輪を心情的に納得させることができる論理です。(別稿「君のなかの・君以上のもの」をご参照ください。)
ですから、殿御を思い詰めるお三輪の心(恋心)というのはもちろんとても大事な性根ですが、それだけではお三輪が怒って疑着の相を現すプロセスとして弱いのです。また「天晴れ高家の北の方」と云われてお三輪が怒りを納めるプロセスとしても弱いということになります。歌右衛門のお三輪を道行・御殿と通して見ると、このことを痛切に教えられますねえ。これは他のお三輪役者が駄目と云うことではないのですが、歌右衛門のお三輪を見ると何がお三輪を縛っているのかが、とても良く分かります。それは道行での歌右衛門のお三輪の、窮屈にさえ思えるほど身体の動きを内輪に内輪に取ろうとするその振りのなかから出るもので、道行を見ないで御殿だけであると、歌右衛門のお三輪の悲劇のホントの意味がよく見えて来ないかも知れません。
道行のイメージと相まって、歌右衛門のお三輪には、当時の女ががんじがらめに縛られていた「女はこうあるべし」、「妻たる者はこうあるべし」という概念の重さがヒシヒシ伝わってきます。もちろん男だって「男はこうあるべし」、「武士たる者はこうあるべし」と かいう概念に縛られていて苦しんでいるのだけれど、そこに当時の人々の生き辛さがあったということです。お三輪に奇妙な世界を見せるのは、当時の人々に課せられた律の重さなのです。(この稿つづく)
(H29・10・29)
当時国立劇場で鱶七ならば、八代目幸四郎(初代白鸚)か二代目松緑を起用するのがまず順当なところでしょう。二代目鴈治郎は身体が小柄でしたし、「河庄」の治兵衛や「沼津」の十兵衛など柔らかみのある和事系の役者の印象が強い人でしたから、鴈治郎の鱶七は意外な配役だと感じる方は少なくないと思います。しかし、二代目鴈治郎の鱶七は、歌右衛門のたっての願いで実現したものだそうです。
「妹背山・御殿」は時代物だということで、どの役者も鱶七の豪快で線の太いところはしっかり押さえています。しかし、鱶七というのは漁師で、こういう市井の人間は、この三笠山御殿の時代物の舞台にまったくふさわしくない人物です。何でこんな奴が御殿 に来たのか分からない、奇妙なと云うよりも、滑稽にさえ見える人物です。まったくこの御殿では、訳の分からないことばかり起きます。だから鱶七という役は豪快で線の太い性根はもちろんそれで良いのですが、それだけでは時代の役になってしまってミスマッチになりません。このミスマッチ つまり滑稽な要素が、御殿を不思議の世界の様相にするのです。ところが多くの鱶七役者も線の太い要素だけで良しとしているようです。鱶七を純然たる時代物の役だと思っているからでしょう。確かにそれでもそこそこの出来になりますが、吉之助が思うには、それだけならば配点7割というところです。そもそも前半の鱶七で世話の要素を濃くしないと、後で金輪五郎の本性を顕わした時との対照が付かないと思いますがねえ。鱶七は如何に世話の要素を強くするかが大事なのです。
この映像(昭和44年6月)を見ると、鴈治郎の鱶七(後に金輪五郎)は小柄な不利をものともせず、豪快でふてぶてしいところを披露しており、さすが 共演に鴈治郎を推挙した歌右衛門の目は確かなものだなあと思います。特に前半の鱶七の部分が抜群に良い。豪快で線の太い印象を維持しつつも、口調が明瞭にして歯切れよく、世話の要素が強い鱶七に出来ています。鱶七では台詞で世話を表出するわけです。見た目の印象においては鴈治郎はややハンデがあるかも知れませんが、或いはそれも世話の印象に役立っているかも知れません。これで鱶七の時代の舞台のなかでのミスマッチが生きて来ます。
しかし、鴈治郎は後半の金輪五郎の方もなかなかのものです。気合いが入っていると云うか、動作に隙がありません。それに何よりも、お三輪に対して「申し訳ない」という気持ちがよく出ています。この五郎ならば、死んでいくお三輪に対して方便で「それでこそ天晴れ高家の北の方」と言ったのではないということが納得できると思います。昭和41年11月国立劇場開場の「道明寺」映像の観劇随想で、昭和40年代に最も芸の充実を見せていたのは二代目鴈治郎ではなかったかと書きました。鴈治郎の鱶七はそれを確信にさせる見事な出来であるなあと思いました。
(H29・11・6)