君のなかの・君以上のもの
平成19年5月新橋演舞場:「妹背山婦女庭訓・御殿」
九代目中村福助(お三輪)、二代目中村吉右衛門(鱶七・実は金輪五郎)
「私は君を愛している。しかし、不可解なことに私が君のなかに愛しているのは君以上のものー対象「a」ーなので、私は君を切り裂く。」(ジャック・ラカン:「精神分析の四基本概念」)
1)お三輪が恋するものは
チャップリンの名作「街の灯(City Lights)」(1931)はご存知かと思います。浮浪者チャップリンは貧しい盲目の花売りの少女に恋をします。少女の方は浮浪者のことを金持ちだと思いこんでいます。 浮浪者は苦労して少女の視力回復のための手術の費用を手に入れますが、窃盗罪で逮捕され・刑務所に送られます。やがて刑期を終えて・街をうろつく浮浪者が、花屋の前を通りかかると・そこにあの少女がいます。手術は成功して今では店も繁盛してい るようですが、少女はあの「白馬の王子」をずっと待ち続けています。浮浪者を見て少女は同情して・バラの花を渡し・硬貨を手に握らせます。その瞬間、少女はその手の感触で相手が誰であったのかを悟ります。少女は真剣な顔になって訊ねます。「You?(あなただったんですか?)」 浮浪者は目を指差して、「You can see now? (見えるのかね?)」と聞きます。少女は「Yes, I can see now.(はい、今は見えます。)」と答えます。画面は期待と恐れに満ちたような・浮浪者の恥ずかしそうな笑顔で終わります。 (有名な場面ですが、ご存知でない方はここで・その映像を見られます。)
浮浪者チャップリンと少女はこの後どうなるのでしょうか。ふたりは幸せに暮らすのか・少女は浮浪者を受け入れることが出来るのか。映像は浮浪者の笑顔でふいに終わってしまって・そのヒントを 全然与えてくれません。しかし、映像の詩的なイメージは・場面がここでプツンと切れているから守られているのです。幕切れのふたりの会話は「You can see now? (私が誰であるか分かったかね?)」、「Yes, I can see now.(はい、あなたが何者か、たった今分かりました。)」という風にも解釈できます。少女の困惑した表情は彼女が思い描いていた「白馬の王子」のイメージが・目の前の浮浪者と全然重ならないことから来ています。 しかし、その手の感触と声は間違いなくあの「白馬の王子」のものです。このことが少女を困惑させています。少女の頭のなかで白馬の王子の像と浮浪者の像は重ねようとするとズレれてしまい、引き離そうとすれば 、逆にふたつの像は重なろうと します。ここでラカンのテーゼが役に立ちます。
「私は君を愛している。しかし、不可解なことに私が君のなかに愛しているのは君以上のものー対象「a」ーなので、私は君を切り裂く。」 (ジャック・ラカン:「精神分析の四基本概念」)
対象「a」などと言うと・取っ付きにくいと思う方もいると思いますが、要するに「その人が頭のなかで勝手に育てて・美化してしまった恋人のイメージ」ということです。だからそれは空虚で実体のないイメージです。それはその人が勝手に作ったイメージですから恋人に責任があるわけではないですが、ある意味でそれは恋人以上のもの・対象「a」である。その人は恋人のなかに対象「a」を見ていて、実は私はそれに恋をしているのです。
2)君のなかの・君以上のもの
「妹背山婦女庭訓・御殿」の最後の場面でお三輪は鱶七(実は金輪五郎)に刺されますが、その鱶七が意外なことを言い始めます。
「女悦べ。それでこそ天晴れ高家の北の方。命捨てたる故により、なんぢが思ふ御方の手柄となり入鹿を亡すてだての一つ。ホヽウ出かしたなァ」「なんと賤しいこの身を北の方とは」
ここで鱶七は疑着の相を持つ女性(お三輪)の生血の入手が政敵入鹿討伐のための絶対条件であったということを語ります。何んだか面妖なお話ですが、まあその辺は「そんなものか」と思って聞き流せばよろしい。実はそのようなプロットは劇の本質とあまり関係がないのです。それよりも「ムホホウそちが語らひ申せし方は忝くも中臣の長男淡海公」が大事です。ここでお三輪の慕う求女が実は藤原淡海という高貴な身分であったことが明らかになります。
これはチャップリンの「街の灯」とまさに逆の構図になります。お三輪は決して高望みをしているつもりはないのです。身分相応と思われる・しかし周囲にちょっと見当たらない素敵な男性である求女をお三輪は好いていたのです 。しかし、実はそれがとんでもない「白馬の王子」であったのです。しかも、この王子様はどうやら奇怪な衣装を身につけているようである。正体を現した、つまり実体であるところの淡海は舞台に姿を見せませんが、その姿はぶっかえった金輪五郎の姿を見れば十分想像が出来ます。それはお三輪の目から見ればとても親しみが持てない奇怪な姿です。
お三輪が切ないところは、死ぬ間際にそれでも自分のなかの求女の姿(つまり君のなかの君以上のもの・対象「a」)と、奇怪な衣装をまとった王子様の姿(実体)を必死に脳裏に重ね合わせようとしていることです。重ね合わせなければ・自分の生の意味が消え去ってしまうような・そんな切ない思いに急き立てられているということです。そして、ふたつのイメージをぴったりと重ね合わせた状態でお三輪は幸せに死んでいきます。
「のう冥加なや。勿体なや。いかなる縁で賤の女がさうしたお方と暫しでも、枕かはした身の果報、あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、忝い。とはいふものゝいま一度、どうぞお顔が拝みたい。たとへこの世は縁薄くと、未来は添ふて給はれと這ひ廻る手に苧環の 、この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求女様、もう目が見えぬ、なつかしい、恋しや恋しや」
つまり、本来は重ね合わせることの出来ない・ふたつのイメージ(実体と対象「a」)が重ね合った幸福な状態を作り出すためにお三輪は死なねばならなかったことになります。 このような幸福な状態は死ななければ作り出せないのです。ここでは入鹿がどうの中臣がどうのという政治的な問題は消し飛んでいます。「妹背山婦女庭訓・御殿」はとても複雑な作品ですが、ここでは時代物的なプロットを消して考えてみる必要があります。
「妹背山・御殿」において、お三輪は政治的に異常な状況を強制させられ、恋しい求女の幻を求めて死んでいくというという解釈があるかも知れません。つまり、お三輪は政治闘争の犠牲者であるという見方です。プロットを主題として見るなら 、もちろんそのような見方もできます。しかし、現代において封建観念の芝居を見る時にはそういう解釈はあまり意味がないと吉之助は思います。時代物を読む場合に主題とプロットは混同 してはならないということは、別稿「主題と変奏〜浄瑠璃・歌舞伎におけるプロットとは」でも触れました。そろそろ階級闘争的な視点から歌舞伎を開放せねばなりません。もっとシンプルに「妹背山・御殿」を見たいと思います。
「妹背山・御殿」 でお三輪の死が清らかに見えるのは、実体であるところの淡海が舞台面に登場しないからです。もし淡海が最後の場面に登場して、お三輪に向かって「それでこそ天晴れ高家の北の方」とか言ったならば、舞台の印象はガラリと変わってしまうでしょう。その役割はすべて鱶七(実は金輪五郎)に任せられて、淡海は姿を現しません。求女のイメージはお三輪に対しても・観客に対しても対象「a」のままに保留されています。実体であるところの淡海は 本当にお三輪の愛を受け取るに値する男であろうかということは大事な問いかも知れませんが、チャップリンが映画を浮浪者の笑顔で終わりにしてしまったのと同じく、近松半二はここでそれを問うてはおらぬのです。実体と対象「a」のイメージの裂け目の間から・生きることの・恋することの哀しみが見えてきます。 お三輪の悲劇が「婦女庭訓」であることの意味はそこにあると思います。
平成19年5月新橋演舞場での「妹背山婦女庭訓・御殿」での福助のお三輪は無理な感じがなくて、そこら辺にもいそうな恋する少女の感覚を素直に出していて好感が持てる演技でした。福助の現代的な感覚 がお三輪によく似合っているようです。落ち入りの時の表情は、恋しい求女の幻影を追い求める気持ちがよく出ていました。そしてお三輪は遂に君のなかの・君以上のもの(対象「a」)を掴んで・それに殉じるのです。
(H19・12・19)