人形振りの「妹背山道行」
平成13年12月歌舞伎座:「妹背山婦女庭訓」〜道行恋苧環
五代目坂東玉三郎(杉酒屋娘お三輪)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(鳥帽子折求女)、九代目中村福助(橘姫)
1)人形振りの「妹背山道行」
本稿で紹介するのは、平成13年(2001)12月歌舞伎座での「妹背山道行」(道行恋苧環)の映像です。 玉三郎のお三輪、勘九郎(後の十八代目勘三郎)の求女、福助の橘姫という配役です。この「妹背山道行」上演がとてもユニークなのは、最初から最後まで人形振りで踊ったことです。ご存じの通り、いつもの「妹背山道行」上演は人形振りではなく、普通の振り付けで行われます。人形振りの「妹背山道行」は、この平成13年の一回だけのことでした。吉之助はこの時の舞台は生(なま)で見ましたが、いろんな示唆が得られた舞台でありました。
人形振りの舞踊としてよく上演される演目としては、例えば「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)とか「本朝廿四孝・狐火」などがそうです。別稿「人形振りを考える」でも触れた通り、歌舞伎舞踊での人形振りは最後まで続くものではなく、途中で「人形を返す」とか「人形を解く」とか云って、最後は通常の振りに必ず戻す約束があるそうです。舞踊と云うのは人間(役者)が自分の身体を駆使して踊るものであって、人形振りはケレン(邪道)だという考え方があるからです。だから人形振りはあくまで趣向に過ぎないとして、舞踊のすべてを人形身に委ねることは決して許さない。だから最後に踊り手は「人形を解いて」人間に戻るのです。そこに人形にやつすことの申し訳があります。伝統芸能というものは「何をやっても良い」というものではなく、意外と倫理的な縛りが強いと云うか、頑固に本分を守ろうとするところがあるものなのです。
人形振りが異形の感情を表現するものであることは、別稿「人形振りを考える」でも触れました。しかし、「櫓のお七」や「狐火」 で途中で人形を返して、後見(人形遣い)が立ち去ると、吉之助はいつも舞台が中途半端で物足りなく感じてしまうのです。その理由は、お七が髪を振り乱して梯子を上る場面、或いは八重垣姫に神狐が憑依し姿が変わる場面、つまり最後の場面こそ異形の感情表出の頂点(クライマックス)であるにも係わらず、その場面では踊り手は既に人形を解いてしまっていることにあります。だからドラマの最後が決まらない感じがします。
この吉之助の感じ方が、現代人の演劇感覚であることは、もちろん承知しています。恐らく歌舞伎においては、「申し訳」と云うこと以外にも、最後の場面ではお七も八重垣姫も性格的に別次元の存在に既に変わっていること(異形性)が明らかですから、ここまで人形振りでやれば十分だという理由もあろうかと思います。或いは、最後が動きが一番激しい場面になりますから、踊り手が後見を二人従えて踊るのは難しいという技術的理由もあるかも知れません。
しかし、尚もこだわりますが、それはそうでもあろうが、約束違反を承知の上で「櫓のお七」や「狐火」を最後まで人形振りで通してみたら一体どんなものだろうかなと云う考えが、いつもチラッと吉之助の脳裏をかすめるのです。実はその長年の疑問に応えてくれたのが、今回(平成13年12月歌舞伎座)の「妹背山道行」でした。登場する三人(お三輪・求女・橘姫)がすべて、最初から最後まで人形振りで通して踊ると云う、掟破りの、非常に例外的な舞台なのです。このアイデアが誰から出たのか、経緯は分かりません。玉三郎のアイデアかも知れませんが、玉三郎はその後の「妹背山道行」(平成21年1月ル・テアトル銀座)では通常の振りで踊りましたから、この時は試みとして一度やってみたに過ぎなかったのかも知れません。ただ吉之助にとってはこの時の舞台はとても鮮烈な印象で残っています。(この稿つづく)
(H31・3・3)
2)異形の感情
そう云うわけで平成13年(2001)12月歌舞伎座での「妹背山道行」は、最後まで「人形を解かない」と云う掟破りの舞台なのですが、そこから何が現れたのかが大事なのです。求女は苧環の赤い糸を橘姫の着物の裾に縫い付いて、糸を頼りに彼女の後を追って行きます。お三輪も逃さじと、自分が持っている苧環の白い糸を求女の着物の裾に縫い付けて、求女の後を追いますが、お三輪は花道途中で倒れてしまいます。お三輪が苧環の糸を手繰ってみると、求女の服の裾につけたはずの糸が切れている。これを知って玉三郎のお三輪は、肩を大きく震わせて憤りの気持ちを表現しました。
もちろん人形身ですから、表情は無表情です。人形のようなぎこちない動きからお三輪の気持ちが強烈に伝わってきました。お三輪の憤りは、恋する自分の気持ちが思い通りに行かない状況への憤り・じれったさ、これほど求女に恋しているのに頼みの糸が切れてしまった理不尽さへの怒りです。つまり自己実現に向けてひた走るお三輪の行く手を阻むものすべてに対する憤りです。通常の振りであると「エイ残念、糸が切れたか」という怒りは確かに見えるけれども、感情の揺れがちょっと淡いように感じられます。お三輪にとってアア切れちゃったで済む話ではありません。極端に云えば、私(お三輪)と彼氏(求女)との縁を天に全否定されたも同然なのです。
この場面に見えるお三輪の憤りは、尋常なものではありません。 これはお三輪の内面に沸々とたぎる魔性・疑着の相の片鱗です。そのために次場「金殿」でお三輪が殺されることになる異形の感情です。これこそ人形振りが指し示すものです。花道七三の玉三郎のお三輪の最後の場面では、そのような異形性が一瞬ぬっと無気味な顔を覗かせました。これによって「道行」と「金殿」が論理的に繋がって、全体がお三輪の悲劇となって浮かび上がったのです。「金殿」はお三輪の出が後半になってしまうので、前場の「道行」との関連が見えにくい構造上の弱点があるように思います。今回の「道行」では、この弱点が見事に補われたと思います。なるほどこの場面を見せるために最後まで敢えて人形を解かなかったのだと納得が出来ました。多分「妹背山道行」のこのような読み直しは、現代人の演劇感覚の所産であろうと思います。しかし、やってみる価値は十分にあったと思いますね。
もちろん「妹背山道行」の人形振りの効用は、最後の場面だけにあったのではありません。お三輪・求女・橘姫の三人の連れ舞でも、人形振りは絶妙な効果を挙げています。人形振りのなかに彼女たちを支配する道徳律(女庭訓)の重さが表現されています。それが彼女らの動きを不自然なものにさせるのです。お三輪も橘姫も「夫となる男に、妻たるべき私はどのように行動すべきか」という論理の下に行動し、その結果として求女を争い合います。しかし、近松半二は彼女たちはそのような道徳律に翻弄された犠牲者だと言いたいのではありません。半二は、そのような状況下においても彼女たちは自己実現を求めて必死に生きたのだと言いたいのです。(この稿つづく)
(H31・3・8)
3)義太夫狂言の誕生
人形振りの「妹背山道行」では、玉三郎(お三輪)・勘九郎(求女)・福助(橘姫)共になかなかの人形振りを見せてくれました。ここには文楽の景事を見るが如くの、何者かに役者が踊らされている感覚が確かにあります。彼らは或る観念のうえで踊らされているのです。それは、二人の女たちにとっては婦女庭訓の教えであったり、男にとっては政治的な使命であったりしますが、そのようなものに彼らは踊らされているのです。特に玉三郎は長身小顔なので、文楽人形さながらの感触がしました。普段の踊りであると玉三郎は腰高の印象がどうしても否めませんが、人形振りであるとその欠点が覆い隠されるのも興味深いところです。これは「櫓のお七」初演の四代目小団次が立役のいかつい印象を人形振りで覆い隠してしまったのと同じことなのです。これが人形振りの異形性の効果です。
以下は「妹背山道行」と直接的には関係ないことですが、今回の舞台を見て吉之助のなかにふと浮かんだことを記しておきます。今日歌舞伎座で見られるような義太夫狂言の形態がほぼ固まったのは、宝暦・明和年間(1750〜70年頃)辺りのことだと思われます。江戸での人形浄瑠璃の歌舞伎化の最も早い例としては、二代目団十郎が享保2年(1717)に「国姓爺合戦」の和藤内を演じた記録が残っています。本行(人形浄瑠璃)初演の2年後のことです。これは団十郎ならば顔に隈を取って荒事風味で演じたかなと想像が出来ないこともありませんが、団十郎は享保6年(1721)には何と和事の「心中天網島」の紙屋治兵衛まで演じています。これは本行初演の翌年になります。
実はこの時期の本行がどのように歌舞伎に移し替えられて、現行の義太夫狂言のような形態へ定着していくか、その過程は文献的にほとんど分かっていないのです。「筑後正本の通り」とか「越前少掾新浄瑠璃の通り」などと云う断り書きが付く場合があっても、それがどういうことを意味するのか詳細が分からない。本行そのままに人形を役者に入れ替えただけで行われたのかも知れないし、筋だけ取ってまったくの地芝居で演じられたのかも知れません。或いはその混合なのか。どこまでが本行通りなのか、いずれにせよ想像の域を出ないのです。逆に云えば、だからいろいろ勝手な想像が出来ます。
それにしても現行の文楽と歌舞伎の舞台を見比べて吉之助が痛感するのは、歌舞伎は入れ事をしたり、場面をカットしたり付け加えたり、デザインを変えたり、細部に多少の改変を施してはいますが、しかし、大筋においては、本行の骨格を驚くほど変えていないと云うことです。つまり歌舞伎は好い加減な態度で本行をパクらなかった、真摯に本行をなぞろうとしたと云うことなのです。だから「変えていない」という認識がとても重要になります。このことをしっかり認めた上で、歌舞伎の義太夫狂言の検討を進める必要があると思うわけです。
何故そのことを問題にするのかと云うと、本行・先行芸能としての文楽と、これを取り入れた歌舞伎との関係が、現状とても緩く捉えられていると感じるからです。つまり文楽と歌舞伎は同じドラマを表現しているのだから似たような芸能であると、だから文楽の人形を役者に置き変えればそれで歌舞伎の義太夫狂言が簡単に出来上がるんだと云う程度に、とても安直に考えられています。つまり歌舞伎の「変える」ことの軽さに比重が掛かっているわけです。
しかし、実はそうではなくて、文楽と歌舞伎は異なる表現手法を持つまったく別種の芸能だという認識から出発しないと、義太夫狂言の本質は決して分からないのです。本質が「変えない」というところにあるならば、歌舞伎が本行を取り入れることがとても重く感じられるはずです。その理解のひとつの手掛かりが、人形振りにあります。つまり役者が人形を擬することの異化ということです。通常見る「櫓のお七」や「狐火」の人形振りということならば、異化はその役者だけの現象に過ぎないように思えるでしょう。しかし、実は義太夫狂言は、本行を擬することに於いて舞台全体が異化しているのです。今回(平成13年12月歌舞伎座)の、お三輪・求女・橘姫の人形振りの「妹背山道行」を見て、このことをつくづく実感しました。(この稿つづく)
(H31・3・15)
4)義太夫狂言の誕生・その2
義太夫狂言の成立についてはいずれ稿を改めて論じたいと思いますが、今回の舞台を見てつくづく思うことは、本行(人形浄瑠璃)から粗筋だけ拝借して歌舞伎なりの芝居(地芝居)を作ればそれで済みそうなものなのに(その方がずっと簡単なはずなのです)、わざわざ歌舞伎が真摯に本行を真似たことの不自然さです。これは結局、歌舞伎は本行を擬することによって自らを異化させたということなのです。もうひとつ、本行を擬するに当たり、歌舞伎は本行の骨格を驚くほど変えなかったということです。このこともとても大事なことです。
これについては、本行が語り物の音曲(義太夫節)であることが関係しているでしょう。台詞部分(地)があるとしても、本行は確かに音曲です。音曲には尺という概念があります。つまり音楽が始まって・展開して・終わる、そのような形式感覚のことです。音曲全体はひとつの大きな尺ですが、それは序破急の三つの尺に分けられます。或いは起承転結の四つの尺に分けられます。さらにこれらはもっと細分化して考えることが出来ます。それぞれの尺は全体のなかでそれに応じた役割と重さを持っています。そのような本行の厳格な形式感覚は、義太夫節が持つ論理性から出て来るものです。もちろん初期の歌舞伎も尺の感覚を持っていないことはないのですが、本行と比べればずいぶん柔くて好い加減な感じです。そのことは例えば「対面」・「暫」や「助六」の、タラーッとしたテンポの芝居を見れば分かると思います。本行 のような厳格な形式感覚・論理構造を、初期の歌舞伎は持ち合わせていませんでした。
本行が音曲であるから、このがっちりした形式感覚・論理構造を壊してしまうと、歌舞伎が真似したはずのものが真似たことにならないのです。だから「歌舞伎は本行の骨格を変えなかった」と書きましたが、歌舞伎は本行の骨格を壊せなかったと云う方が実は正しいのです。それほどまでに音曲の「縛り」はきついのです。本行の骨格を守らなければ、本行と肩を並べられる完成度の高いものは作り出せない、このことを歌舞伎の先達はちゃんと分かっていたということです。つまり義太夫狂言の本質は音曲であると云うことになるのです。この当たり前のことが、巷間どれだけ認識されているでしょうか。
義太夫の地の部分は役者の台詞として取ることは当然としても、地色は役者が取るか・床(竹本)が取るか、色をどのような形で舞台に反映させるか、そこにいろんな議論が出来るでしょう。歌舞伎でも一度は本行のやり方でそっくりそのまま芝居をさらってみると云うことが、必ずあったに違いありません。そのなかで「この詞章は役者が取ってやってみよう、この詞章は床(竹本)が取って役者がそれに合わせて動くことにしよう」と云うようなことが決まって来る。議論と試行錯誤を重ねながら義太夫狂言の形が次第に出来上がって行く、そのような過程を想像するわけです。これはとても不思議なこと ですが、行きあたりばったりにしているようだけれども、そうやって形式が次第に定まって行くのです。試行錯誤が、本行の縛りを強く意識しつつ、誠実に真剣に行われているから、そうなるわけです。
今回の人形振りの「妹背山道行」を見ながら、そのような原初の義太夫狂言の幻想が吉之助のなかに浮かんで来たのですがね。恐らくそれは玉三郎のお三輪が、最後まで人形を解くことをしなかったことから来る、思いがけない効果だったと思います。(H30・3・18)