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五代目菊之助の「鼠小僧」半通し

令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形」〜鼠小僧次郎吉

五代目尾上菊之助(稲葉幸蔵・鼠小僧次郎吉)、五代目中村雀右衛門(大国屋抱え松山)、五代目中村歌六(辻番与惣兵衛)、七代目尾上丑之助(蜆売り三吉)、二代目坂東巳之助(刀屋新助)、初代坂東新悟(芸者お元)他


1)菊之助の「鼠小僧」

2月歌舞伎座の「鼠小紋春着雛形」(ねずみこぞうはるぎのひながた)・通称「鼠小僧次郎吉」(以下「鼠小僧」と略す)を見てきました。本作は黙阿弥が四代目小団次のために書き下ろしたもので、安政4年(1857)1月江戸市村座で初演されて大評判を取ったものです。(初演外題は「鼠小紋東君新形」・ねずみこもんはるのしんがた) この時、後の五代目菊五郎が14歳(当時は十三代目羽左衛門)で蜆売り三吉を勤めました。深川蛤川岸へ実地見学に行ったりして口の利き様など覚えて熱心に演じて大出来で、小団次もこの少年の技量に大いに感心したと云うことです。五代目菊五郎が「弁天小僧」を演じて大ブレークしたのは、この5年後のこと。そんなことも縁となって、本作は明治の世では五代目菊五郎が鼠小僧を演じて継承され、さらにこれを六代目菊五郎が受け継いだので、本作は「音羽屋の家の芸」的なイメージで見られています。しかし、「鼠小僧」は大正14年(1925)2月二長町市村座で六代目菊五郎が演じて以来しばらく上演が絶えていて、平成5年(1993)3月国立劇場で当代・七代目菊五郎が演じたのが、実に68年振りのことでした。つまり昭和期に本作は一度も上演されなかったわけです。吉之助も巡り合わせが悪くて、平成5年の上演は見ていません。今回の上演はそれ以来のことで、29年振りのことになります。

今回(令和4年2月歌舞伎座)の菊之助の鼠小僧による上演は、脚本もスッキリ筋が整理されて・この芝居のアウトラインが十分理解出来るものになっています。また主演の菊之助も一生懸命演じて、エンタテイメントとして楽しめる芝居に仕上がっています。このところの歌舞伎座は、コロナだから仕方がないと云いながら、いつもながらの演目を・役者を替えて繰り返して・演目建てに新味が感じられないことが多い。だからこのような埋もれた名作の掘り起こしは、有難いことです。そこから新たな古典の見直しの動きが始まるかも知れません。そこで今回上演の意義を認めつつも(菊之助の挑戦を讃えつつも)、ここをこうすれば芝居がもっと良くなるのじゃないのという視点で本稿を進めて行きたいと思います。

まず「鼠小僧」を考える時に念頭に置かねばならぬことは、この芝居が四代目小団次のために書き下ろされたものだと云うことです。黙阿弥(当時は二代目河竹新七)と小団次との提携により生まれた作品群を「小団次劇」と総称したいと思いますが、ちなみに黙阿弥と小団次との提携は嘉永7年(1853)「都鳥廓白浪」に始まり、「鼠小僧」の前後を見ると、安政3年「宇都谷峠」、安政4年「小猿七之助」、安政5年「黒手組助六」、安政6年「十六夜清心」、万延元年「三人吉三」・「縮屋新助」・・と続々と傑作を送り出しています。当時の江戸の芝居好きは「小団次と新七は次は何をやるか」という期待でワクワクして新作を待ったのではないでしょうか。「鼠小僧」はそのような空気のなかで生まれた作品です。このところの吉之助は、この時期の黙阿弥の小団次劇の心理主義的なリアル(写実)で細やかな作劇術に感嘆させられるところが、実に多くなりました。それゆえ、もし小団次が早世せず、明治の世に在って黙阿弥との提携が長く続いたとするならば、現在の古典歌舞伎はまるで違った様相になっていただろうとつくづく思うのです。

しかし、小団次が慶応2年(1866)2月に憤死したことによって、幕末歌舞伎の写実劇の流れは断ち切られました。小団次はいかつい風貌のアクが強い役者であったと思われます。明治以後、小団次のレパートリーは小団次と芸風が少々異なる役者たち(例えば明治期の五代目菊五郎、大正期の十五代目羽左衛門への流れ)によって継承されました。また明治維新によって社会構造が根本から変わることで、幕末江戸の風俗がもはや靄の向こうに見える錦絵みたいな感覚になってしまいました。このため小団次の芝居の風合いが微妙に変わってしまいました。このことが良いことだったか・悪いことだったかと云う議論はここではしていません。ここで持つべき大事な認識は、明治維新により幕末歌舞伎の写実劇(小団次劇)の流れは一旦断ち切られて、別の様相に変化したということです。したがって現在歌舞伎座で見る小団次劇は、良かれ悪しかれ、その後の明治・大正期の感性によって塗り替えられた様相になっているのです。

したがって先に「鼠小僧」には「音羽屋の家の芸」的なイメージが世間に在ると書きましたが、実はそこに音羽屋の芸の・江戸前のスッキリと粋なイメージを重ねてしまうと、それは多分小団次が演じた鼠小僧とはかなり違うものになると云うことなのです。しかし、現在音羽屋の芸を模索中の菊之助に、仁とはまったく異なる・陰を背負った渋い野太い鼠小僧を演じろと云うほど吉之助も野暮ではないですが、例え小団次と方向性は異なっても構わないから、本作「鼠小僧」に見られる心理主義的な要素、映画的とさえ云える写実(リアル)さへの傾斜の要素だけは、是非この機会に学んでもらいたいと思うのですねえ。このことは、菊之助がこれから幾多の役々(世話物だけのことを言っているわけではありません)に取り組む時に、必ず財産となるはずです。現在の菊之助は、何と云いますかねえ、どんな役を演じても必ず及第点を取って来る・それは凄いことなのだけれど、悪く云えば優等生的なところが抜けていない、まだ小奇麗にまとまってしまっている印象がします。そこを内面から突き破るものが欲しいのです。心理主義的な小団次劇の演技術を学ぶことは、菊之助が役者として新たな段階へ上がるためのきっかけになると思います。大事なことは、繰り返しますが、「明治維新により幕末歌舞伎の写実劇(小団次劇)の流れは一旦断ち切られた」と云う歴史認識です。(この稿つづく)

(R4・2・5)


2)歌舞伎史における小団次劇の位置付け

「明治維新により幕末歌舞伎の写実劇(小団次劇)の流れは一旦断ち切られた」と云う歴史認識について、こう云う質問が出るかも知れませんねえ。小団次劇を引き継いだ五代目菊五郎の芸もまた写実(リアル)を旨とするものではなかったかと云うことです。よいご質問です。

五代目菊五郎が写実を旨としたのは、その通りです。しかし、小団次が目指す写実とは若干異なるものでした。五代目菊五郎の写実が目指したところは、「・・らしさ」・本物らしさの追求でした。「・・らしさ」ということは、或る種のパターン(型)みたいなものです。この考え方では確かに髪結らしい・按摩らしい人物は造れるけれども、例えばその人物が何故悪の道に手をそめるようになったか・その人生の奥行までも表現することは出来なかったのです。折口信夫は六代目菊五郎の写実について、こんなことを書いています。

『舞台批評に繰り返される道玄・長庵を演じる基礎としての写真表現は、おそらく道玄・長庵以上に、そうした職業人の習性またそういう悪人らしき者に共通する生の様式を表現していることは事実である。識者(劇評家あるいは好事家)はそれに心づき、その準備行動の周到なのを喜ぶのである。だが、それは性格不明な座頭が蕎麦を喰い、老車夫が如何にも老車夫らしく車を引く様を演じている場合と、ちっとも違っていないのである。畢竟、(六代目)菊五郎ほどの人間が、こう云う段階の写形に止まった理由は、性根の意義の解釈が異なっていて、性格表現とは別なものに向いていたからである。』

誤解ないように付け加えますが、これを五代目・六代目菊五郎の表現意欲の減退であるなどと決して考えてはなりません。向いている方向が異なるだけのことです。このことは江戸と云う故郷から切り離された明治〜大正期の歌舞伎の、古典化・様式化の流れの上で理解すべき事象であろうと考えます。

話しを基に戻すと、小団次に於ける写実(リアル)とは、緻密な心理表現・性格表現に根差すものです。深い脚本理解に基づき、役の人物の人生の奥行までも表現しようとする態度、つまりこれは後の大正期の自然主義演劇の考え方を先取りしたのかと思うほどのものです。小団次劇の流れは明治維新で断ち切られたために実現は成りませんでしたが、小団次劇はそのなかに「未来性」を孕んでいました。もしこの小団次の思想をそのまま延長して行くならば、それはそのまま自然主義演劇の考え方へと行き着く可能性さえ孕んでいたと吉之助は考えています。

そう云われると、恐らく歌舞伎好きには「歌舞伎役者が自然主義演劇思想なんかに染まったら百害あって一利ない」と感じる方も少なくないと思います。それは役者が近代を云うものを表層的に受け取るからそうなってしまうのです。正しい方法論を以て歌舞伎の歴史認識を踏まえるならば、決してそんなことにならないのです。そこから小団次に於ける写実の「未来性」が見えて来るはずです。なぜならば芝居の原点が「物真似尽くし」・つまり写実にあるからです。したがって別稿「六代目歌右衛門の牧の方」のなかで坪内逍遥の新歌舞伎の「未来性」を考えましたが、小団次劇(幕末)-逍遥劇(明治)-自然主義演劇(大正)という幻の流れを思い浮かべながら、これ以降をお読みいただきたいと思います。

(R4・2・7)


3)小団次劇の未来性〜写実の手法

今回(令和4年2月歌舞伎座)の「鼠小僧」の舞台は、近年上演されない為・役者にほとんど先入観がありませんから、良い意味において・余計なものを何も足さない(つまりいわゆる「歌舞伎らしい」・ねっとり伸びた湿った感覚にしない)行き方であったことが功を奏して、テンポもまずまず良くて・素直な感じがして、まあ書き物(新作)に近い感触ではありますが、いつもの黙阿弥劇とは違う側面を見せたのではないでしょうか。そこのところは十分評価出来ると思います。ただし、前章で触れた小団次劇の「未来性」を垣間見せるところまでは行っていない。この小団次劇の演劇理念をこのまま延長して行ったらば、その後の歌舞伎はどんな様相になったかなと思わせる「危ないところ」が欲しいのです。その危ない要素こそ、後に(慶応2年・1866)小団次を死に追いやった原因です。(別稿「小団次の西洋」を参照ください。)そこのところをちょっと考えてみて欲しいのです。

まず今回の「鼠小僧」の4幕(原作脚本は5幕)を見ると、3幕目稲葉幸蔵内の場の感触が他幕とは少々異なることに気が付くと思います。良いの悪いの云うのではなく、他幕よりも稲葉幸蔵内がいつもの「歌舞伎らしい」感触の方へ少し寄っているように感じるのです。どうしてそのように感じるかと云うと、原因は二つあります。ひとつは、蜆売り三吉が登場して、いつもの子役芝居の感触の方へ傾くからです。周囲が(観客も含めてですが)息を詰めて子役を見守る雰囲気になるので、どうしても子役芝居になってしまう。もうひとつは、他幕が下座音楽を入れない形式で・ほぼ完全な地狂言(台詞劇)として推移するのに、稲葉幸蔵内のみに、遊女松山(実は幸蔵女房お松)が登場して幸蔵との思いがけない再会の愁嘆場でト書浄瑠璃が入るからです。このため感触がいつもの義太夫狂言っぽくなってしまいます。音楽が前面に出てくることで、芝居が様式の感触に傾くのです。つまりこの稲葉幸蔵内が「未来性」とは逆の方向(ベクトル)へ引っ張られていると見えるのです。そこのところが、吉之助には引っ掛かります。吉之助はそこを小団次劇の「未来性」だと受け取りたいからです。

まず丑之助の名誉のために付け加えますが、丑之助が悪いと言っているのではありません。丑之助の蜆売り三吉は8歳にしてよく頑張りました。三吉は歌舞伎の子役のなかで突出した難役です。これだけの長台詞をよくこなしたと褒めてやってください。それはそうだけれども、やはり子役芝居の感触になってしまうのは仕方がないことです。そこでもし丑之助が14歳でまた三吉を勤めたら・・ということを想像してもらいたいのですが、当然子役芝居の感触にならないはずです。この芝居「鼠小僧」ではそれ(子役芝居でないもの)が本来望まれていると云うことを想像して欲しいのです。安政4年(1857)江戸市村座での初演では、後に明治期を代表する名優となる・五代目菊五郎が14歳で三吉を演じ、好評を得ました。しかし、これは演らせてみたら意外と上出来だったと云うサプライズでも何でもなく、脚本を読めば歴然としていることですが、黙阿弥・小団次は少年菊五郎の天才を見抜いたうえで子役芝居以上のものを出すつもりで、計算してあの長台詞を与えているのです。

今回(令和4年2月歌舞伎座)の稲葉幸蔵内の場を見ると、三吉が「泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」と易者幸蔵に云う場面、あるいは幸蔵が銭を与えようとすると三吉が「銭に刻印があるといけない」(原作脚本では「また縛られるといけねえものを」)と云う場面で、菊之助の易者幸蔵はほとんど表情を変えず、はっきりした反応を見せませんねえ。ここは子役の見せ場だから・ここで丑之助の為所を奪っちゃいけねえと云うことでしょうかね。確かに普通こう云う場面では、歌舞伎ではあまり生(なま)な・リアルな反応は見せないものです。しかし、小団次劇では、そこの表現が真反対です。例えば原作脚本を見ると、

三吉:「あい、泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」
幸蔵・左内:「えっ」(ト顔見合わせ思い入れ)
幸蔵:「藪から棒に盗人を教えてくれとは、どういうわけだ」

易者幸蔵が実は泥棒・鼠小僧であることを、観客は前幕で見て承知しています。「泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」と三吉が言えば、当然幸蔵はギクッと驚くだろうが・観客だって驚きます。「何だって急に小僧は泥棒のことを云うのだ?もしかしたら小僧は幸蔵が泥棒だと知っているのか?」と思って、次の展開を期待して、観客は視線を幸蔵の方に向けるに違いない。だから、黙阿弥はちゃんと「えっ」と云う幸蔵の驚きの反応を書いています。そうすると「藪から棒に盗人を教えてくれとは、どういうわけだ」という幸蔵の台詞はどうなるでしょうか。動揺を気取られないようにしつつも・不安を抑えきれないという心持ちで、声の調子を低く取る、或いは声を小さくしても良いと思いますが、息を詰めて・三吉の返答をじっと待つ・・という感じになると思います。しかし、この場面での菊之助は「えっ」とも言わず、したがって顔色も変えず、正面を向いたままでしたねえ。これでは小団次劇では駄目なのです。小団次劇は心理芝居です。ここでは幸蔵の心理がクローズアップされているのです。

左内:「せつかく先生が(銭を)やろうとおっしゃるに、何故貰わぬのだ。」
三吉:「また縛られるといけねえものを。」
幸蔵:「え。」(トぎっくり思い入れ)

この場面も同様です。黙阿弥はここでも観客が幸蔵の方に目を転じるように脚本を書いています。幸蔵は親切心で(盗んだ)百両を新助に恵んだはずでした。しかし、これが飛んだことになってしまいました。「しまった・・しくじった」という気持ちで、幸蔵は一杯のはずです。だから幸蔵は占いの代金も取らず、そのうえ銭を三吉にやろうということまでしてしまう。済まなかった・・という気分があるからです。そんなところで「また縛られるといけねえものを」と三吉に言われてしまうと、図星を指されたようで、幸蔵はオドオドしてしまうのです。しかし、ここでも菊之助は「えっ」とは言わず、顔色を全然変えませんねえ。これでは小団次劇では駄目なのです。まあ傷と云うほどのものでないようだけれど、吉之助から見ると表現が後ろ向きに見えますね。「未来性」を感じさせてくれません。せっかく丑之助が頑張っているのだから、こう云う場面では、菊之助は息子の台詞を真正面で受けた方がずっと良いのです。

こう云う場面で役者が生(なま)な・リアルな反応を見せると「クサい」と云うのが、いわゆる「歌舞伎らしさ」の感覚でしょう。しかし、ここでの幸蔵の反応は心理の襞(ひだ)の襞まで分け入って・心理学的に裏付けされたもので、そこを意識してやってみせるのが小団次劇なのです。この表現手法をずっと延長していった先に、大正期の自然主義演劇が見えると考えて欲しいと思います。さらに後の映画の表現があると言っても良いかも知れません。それは小団次の憤死によって歌舞伎では結果として断ち切られたのですが、それが小団次劇の「未来性」であったのです。これを引き出すために、黙阿弥・小団次が14歳の少年菊五郎に役を与えて、この場に子役芝居以上のものを期待したことは、これで明らかなのです。以上本稿では典型的な2ヶ所を例に挙げて説明をしました。付け加えますが、この表現手法が適用できる場面は、他幕も含めて「鼠小僧」のなかの随所に見られるものです。(この稿つづく)

(R4・2・10)


4)小団次劇の未来性〜ト書浄瑠璃の手法

さらに「鼠小僧」・稲葉幸蔵内の場のト書浄瑠璃の「未来性」について考えます。通常の義太夫狂言では、本行(文楽)の義太夫の詞章・節附けがまず最初に在って、これを役者のパート(台詞)と・竹本のパート(情景描写)に振り分けするわけです。これは音曲を分解する作業ですが、義太夫節の縛りが厳然と根底に在りますから、これに沿って役者が動くことをする限り、場が崩壊することはありません。言い換えれば、様式を縛る力(ベクトル)と崩壊させる力(ベクトル)が拮抗するところで、義太夫狂言独特の緊張感が成立するのです。これがいわゆる「義太夫味」と云われるものです。

一方、ト書浄瑠璃では、通常、作者はまず一連の台詞を書き、次に台詞と台詞の間にト書を挿入するわけです。さらにト書き部分を義太夫に仕立てて・流れを繋げます。これはバラバラの材料を繋げていく作業になります。そうなると枠組みの縛りが元々存在しないわけだから、先ほど言った「様式を縛る力(ベクトル)と崩壊させる力(ベクトル)が拮抗する」状態があまり強くない。だからト書浄瑠璃の芝居は、下手をすると演技が伸びて締まりがなく・緊張感がないものになり易い。三流の義太夫狂言を見る気分に陥りやすいのです。役者が「義太夫味」を出そうとジタバタすると、ますますそうなります。

こう云う場合、歌舞伎が本行(文楽)の義太夫が生み出すひとつの流れのなかから人間(役者)の台詞を抜き出して義太夫狂言に仕立てて行くのとは真反対のプロセスをイメージせねばなりません。ト書浄瑠璃では「人間の肉声(台詞)は音楽(竹本)によって分断されている」という認識を大前提として持つべきなのです。つまり音楽もまた台詞によって分断されていることになります。一貫した流れなど最初から存在しないのです。このバラバラ状態をひとつの息の流れがあるように(繋がっているように)見せることは、これは役者が担うべき仕事です。その取っ掛かりは、一連の台詞にあります。ですからト書浄瑠璃は、むしろ演技の心理的情景を補足説明してくれるものと割り切り、役者は演技に余計な思い入れを籠めず、自らの写実的演技に徹した方が宜しいのです。演技が「繋っている」ように見せるために肝要なのは、(ト書きの間を)「息を詰める」ことに尽きます。テンポ早めにして粘らない方がよろしい。あくまで演技の写実(リアルさ)を際立たせるためのト書浄瑠璃なのです。

竹本(義太夫)が入ると芝居が様式の感触へ傾くとまあ普通はそんなものです。だから竹本に合わせて思い入れをしてみたりすると、すればするほど芝居は様式の方へ傾きます。しかし、細かいところは竹本が観客に説明してくれるのだから、竹本は映画の背景音楽みたいなものだと割り切ってしまえば、役者は思い切って写実の・アッサリした演技が出来るはずです。鳥目で夫の顔を判別できない遊女松山(お松)が泣いてみせても、これだけでは視覚的に観客に十分伝わらないものがあります。そこで〽見えぬ鳥目のいじらしさ・・と竹本が説明してくれれば、「あ〜ア私は目が見えてません」なんて余計な説明的演技をしなくても良くなるわけです。そうすると演技がスッキリ見えてきます。このことは映画から背景音楽を奪ってしまえば、俳優がどれほどショボく見えるか想像してみれば分かると思います。小団次劇のト書浄瑠璃に求められている役割は、それです。

そのように考えることで、ト書き浄瑠璃は引き裂かれた(バロック的な)近代演劇の一形態として認知されるはずです。そこにト書浄瑠璃の「未来性」があると考えます。別稿「牧の方」観劇随想に於いて、逍遥が試みた新歌舞伎でのト書浄瑠璃の挿入は時代遅れのアナクロニズムに感じるかも知れないが・実はそうではなく、幕末の小団次と黙阿弥のト書き浄瑠璃から発した未来志向の手法だと申し上げたのは、それ故です。

今回(令和4年2月歌舞伎座)稲葉幸蔵内の場のト書浄瑠璃での、菊之助(幸蔵)と雀右衛門(遊女松山)は、もともとあまり粘らない芸風のお二人ですから・さほど悪くはないですけれど、やはり「古典」の感触に安定的に収まってしまった印象です。しかし、明け方になって目が見えてきた松山が家に戻ってきて夫・幸蔵と対面を果たす場面は本来幕切れの熱くなるべきところで、これがオペラならば・ここでテンポが早くなって・音楽がクレッシェンドして・熱い夫婦の二重唱で幕を下ろすところです。そう云うフィナーレは、さりげなく短い方が印象的で良いのです。グッと高まって・さりげなく引く、ヴェリズモ・オペラ(世話物オペラ)では、そう云う終わり方をするものです。ところが菊之助と雀右衛門を見てると、そこはテンポをしっかり守ってお行儀は良いけれど、何だか醒めた感じにも見えるわけです。〽両人ひしと縋り付き・・と竹本が語るところなんて、切ない場面じゃないか。幸蔵は一刻も早く自首せねばなりません。夫婦に残された時間は少ないのです。ここを熱く盛り上げて印象的に締めるにはどうしたら良いか、そういうところをもう少し工夫して欲しいのです。それが演技の写実(リアルさ)を際立たせるコツだと思いますがねえ。(この稿つづく)

(R4・2・12)


5)「この世は苦しうござんすねえ」

四代目小団次が上方修業を終えて江戸に戻ったのは弘化4年(1847)のことですが、この時代の江戸歌舞伎は役者の面から見るといわゆる「端境期」で、文化文政期(つまり鶴屋南北の時代)に活躍した名優たちがこの頃次々亡くなっています。例えば天保2年(1832)三代目三津五郎、天保9年(1838)三代目歌右衛門・五代目幸四郎、弘化4年(1847)五代目半四郎、嘉永2年(1849)三代目菊五郎などです。「鼠小僧」が初演された安政4年(1857)だと七代目団十郎は存命ですが、団十郎は天保改革で天保13年(1842)に江戸追放になって嘉永2年(1849)に赦されて江戸に戻りますが、その後も旅芝居で江戸を空けることが多かったのです。(七代目団十郎は安政6年・1859に死去。八代目団十郎は嘉永7年・1854に自害。) 後に明治の歌舞伎をリードすることになる九代目団十郎・五代目菊五郎・四代目芝翫らはまだ海のものとも山のものとも知れません。そんな中で上方仕込みのケレンや舞踊で人気を集めたのが、小団次でした。言い換えればそんな「端境期・混乱期」であったからこそ、家柄のない小団次が実力でのし上がれたということでもあります。この時代は大名題がそんなお寒い状況でしたが、一方で名題下の役者連中には文化文政期の名優に仕込まれた腕利きがゴロゴロいました。ですから黙阿弥の芝居などでも、名題下の役者が勤める脇役の台詞の方が写実(リアル)で面白く書かれており、主役級の台詞の方は、七五で割ってしゃべりたくなりそうな・つまりリズムに乗りさえすれば何とかなりそうな様式っぽい感じで書かれています。

現代でこれを上演しようとすると、上演時間の制限もあるので・枝葉を刈り込んで筋を整理せねばなりません。だから主筋に直接関係ない脇役が活躍するコミカルな写実の芝居の場面をバサバサ切り落とさざるを得ない。そうすると筋の通りは良くなるようだけれど、却って細かいところで筋の矛盾が目立って来ることになる。芝居としてはスカみたいになって、あまり面白くなくなってしまう。そこが現代の黙阿弥物の通し狂言復活の難しいところです。(実はいつも見る「三人吉三」通しなどにもそんなところがあります。)

これは黙阿弥物の復活には必ずつきまとうジレンマです。ここで役者が心掛けねばならぬことは、兎も角も補綴・整理した脚本で、どこまで写実(リアル)でテンポの小気味良い芝居に仕立てられるかと云うことです。その昔には「空っ世話」ということをよく云ったものでした。現代ではほとんど死語ですが。「空っ世話」とは、要するに様式の要素が少ない・写実の芝居のことを云います。サラッとして粘らない・テンポが早めの芝居です。様式っぽい歌舞伎に慣れた現代の観客からすると、「これは新劇なのか・・?」と驚くくらいのものです。昔、六代目菊五郎の勘平を舞台脇で見ていた若き八代目三津五郎が「六代目の勘平って、まるで新劇ですね」と口走って、父親(七代目三津五郎)に「バカっ、あれが歌舞伎だよ」と怒られたと云う話しがありますが、「空っ世話」と云うのはそう云うものです。今回(令和4年2月歌舞伎座)上演の「鼠小僧」の芝居も、ホントはそのくらいの「空っ世話」でやって欲しいわけです。

但し書き付けますが、今回の「鼠小僧」上演は、29年振りと滅多にやらない芝居なので、どの役者も先入観がないところで頑張っています。まずは素直な出来で、いつもの黙阿弥劇とは違う側面を垣間見せたと思います。吉之助の耳に入るところでは「なかなか新鮮で面白かった」と好意的な声が多かったようです。

そのことを認めた上で申し上げますけど、臍曲がりの吉之助の目から見ると、小団次劇としてはまだまだ物足りませんねえ。因果応報と云うのは、「原因があるから・この結果がある」と云うようなものです。悪事が巡りめぐって自分のところに返って来る。その過程を明解に説明する。しかし、因果の筋が分かったからと云って・それだけで因果応報の闇の深さが実感出来るものでしょうか。吉之助は、芝居に写実(リアルさ)が足りない不満が残ります。一応の形は取れていますが、芝居に写実(リアルさ)への突っ込みが足りないと思うのです。それは、幸蔵が庚申の夜の生まれであったから泥棒になったとか、与惣兵衛が実は幸蔵の・生き別れた父親であったとか、説明が付けば・それでドラマが分かる(だろう)と云うような、何と云うかな、楽観的なところに留まっているせいだろうと思います。これが補綴脚本のせいか・役者のせいかと云うことは今は置きますが、ドラマの真実と云うところにいまいち肉薄出来ていない。だから、ドラマを嘘事にしないためにも「空っ世話」ということが必要になってくるのです。大事なことは、ドラマの真実を抉り出そうとする気迫と云うことですかねえ。

ところで話しが飛ぶようですが、真山青果に昭和4年(1929)に初演された「鼠小僧次郎吉」という新歌舞伎があります。この芝居では、その昔困窮していたところを和泉屋次郎吉に大金を恵まれて助けられ(実はそれが盗んだ金であった)、これを恩義に感じて次郎吉を慕っていた船頭菊松は、ひょんなことから次郎吉が泥棒・鼠小僧であったことを知ります。菊松は何とかして次郎吉に江戸の地を離れて堅気で暮らさせたいと奔走しますが、そうするうち菊松はもうひとりの偽鼠小僧に殺されます。今際の菊松が次郎吉に呟く台詞を挙げておきます。

菊松:「親分さん、あたしは・・あたしはね、お前さんの死ぬ日を、いつか一度見せられる日があるだろうと思って、今日まで苦労していたが、あたしが先に死ねば、その悲しい日を見ないで済みます。親方、お前さんもどうで・・長くはありませんぜ。」
次郎吉:「ううむ、そうだ。(涙を呑み)菊松、途中で待っていてくんなよ。(中略)大抵の覚悟はしているつもりだ。」
菊松:「親分、この世は苦しうござんすねえ。お前さんも、さぞ・・・苦しうござんしたろうねえ。」
次郎吉:「ううむ・・・」
(真山青果:「鼠小僧次郎吉」)

もちろん黙阿弥の「鼠小僧」は、青果版とは設定が全然違います。青果が黙阿弥版を参考にしたともまったく思いませんが、それにしても同じ鼠小僧次郎吉を主人公に、黙阿弥も青果も、何だか似たような芝居を創ったものだなあと不思議に思うのです。つまり二つの芝居に共通する主題は、「この世は苦しうござんすねえ。お前さんも、さぞ・・・苦しうござんしたろうねえ」と云うことなのです。因果応報の理自体はどうでもよろしいのです。吉之助は鼠小僧の哀しみをそこに見たいのです。(この稿つづく)

(R4・2・16)


6)因果応報が見せる「パラレル・ワールド」

黙阿弥という人は酒も煙草もやらず女遊びもせず、特に信心に凝ることもなかった真面目人間であったそうです。醒めた眼でさまざまな人生を観察し・芝居作りに励む職人気質、そんな人物が浮かんできます。しかし、そんな黙阿弥が因果応報の理(ことわり)だけは固くこれを信じ、これを終生、処世の方便・信条としていたそうです。

ところで吉之助は、黙阿弥の芝居は現代の村上春樹の小説によく似ている、そこに黙阿弥の「未来性」を理解する取っ掛かりがあると思っています。(ホントはどうして似るのか・時代がどこか似ているのかと云うことまで考えねばなりませんが、本稿ではそこまでは論じません。)佐々木敦氏は、居心地の良い自我のなかで自足していた「僕」が思いがけない事件によって外界へ自己を展開することを強いられていく・そのようなパターンが村上文学だと世間では思われているようだが、実はそうではないと思うと佐々木氏は云います。村上文学の「主人公=僕」はひとの気持ちが分からない人間である。自分が外界に対して不感症であることに本人は気が付いていて、これではいけないと思う。そこで主人公は色々するのだが、やっぱり彼は変ることはないと佐々木氏は言います。(詳しくは別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」をご参照ください。)

『なぜ彼は変れないのか。それはつまり、実のところ、彼には何故「これではいけないか」のかさえ、本当はまったく分かっていないからだ。それが「人の気持ちが分からない」ということなのである。だから彼には、分かった振りをしてみる・分かったことにしてみる、ということしか出来ない。そうすると何だか自分でも、分かったような・分かっているような気がしてくるから不思議だ。そしてここがポイントなのだが、そこに誰か(他者)がやってきて、こう言ってくれるのである。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼は分かってなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれないのだ。』(佐々木敦:「リトル・ピープルよりレワニワを」 〜「村上春樹・「1Q84」をどう読むか」に所収)

この文章を読んで吉之助が感じることは、「これは黙阿弥とまったく同じだ」と云うことです。黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の自分ではいけない」と感じて・何とか変りたいと感じているのですが、何をしたらいいのか彼は全然分からない。それで何とはなしに日々を過ごしているのですが、そこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとって非常にマズい方向に傾いていきます。「どうしてこうなっちゃうの」とボヤきながら、彼は否応なしに決断せざるを得ない状況に追い込まれます。大抵の場合彼は泥棒になっちゃうのです。結局は破滅する破目になるのですが、その時に他者が登場して「これで君にもやっと分かっただろ」と言うのです。でも彼は自分があのままでいて良かったとはとても思えない。ホントは自分が何をしたかったのか・何をするべきだったかも死ぬ間際までやっぱり分からない。疑問は最後まで重く残ったまま終わる。これが幕末期の黙阿弥のドラマなのです。例えば「十六夜清心」が、このパターンであることはお分りでしょう。

「鼠小僧」の場合は、これとは若干パターンが異なります。芝居の最初から幸蔵は怪盗鼠小僧です。しかし、後の経路は驚くほど似ています。幸蔵は何の罪の意識もなく(と云うか深いことは何も考えず)、自分は義賊だと信じていました。大名の財を盗んで・これを恵まれない人に分け与えているだけだ、自分は良いことをしているんだと信じていたのです。ところが、実はそれがそうではなかったのです。(史実の鼠小僧はどうやら義賊ではなかったようですが、これは芝居とは全然関係ないことです。民衆が鼠小僧を義賊だと信じたことこそ大事なのです。)

それが分り始めるきっかけは、幸蔵が稲毛家屋敷に忍び込み奪った百両を、金に困って身投げしようとしていた新助とお元に与えたことから始まります。ここまでは何も起きません。多分幸蔵は「ああ、良いことをした」と得意な気持ちだったでしょう。ところがそれを見ていた辻番(与惣兵衛)が「そなた(鼠小僧)を捕えるようにも老人の非力では無理だ・それならばいっそ俺を殺してくれ」と奇妙なことを云い始めます。ここから幸蔵(鼠小僧)の思いがけない「気付き」が始まります。これをきっかけに芝居は違う次元の「世界」へと入って行くのです。村上文学では、これを「パラレル・ワールド」と呼んでいます。これを村上文学に見出すならば、その予兆(サイン)は、例えば突然失踪した妻(ねじまき鳥クロニクル)、人間の言葉をしゃべる猫(海辺のカフカ)、夜空に浮かぶ二つの月(1Q84)などです。

いったん運命の歯車が廻り始めたら、もうこれを止めることは出来ません。占い店(稲葉幸蔵内)に三吉がやってきて、新助にやった銭には刻印があって・それを証拠に新助が盗みの嫌疑で捕われの身となったことを語ります。さらに稲毛家若党曾平次から辻番・与惣兵衛が盗賊手引きの疑いで・これも捕縛されたことを聞きます。これで幸蔵は自首を決意しますが、さらに(追い打ちするかの如く)生き別れした女房お松(遊女松山)との思いがけない再会・育ての母である強欲なお熊を殺してしまう件と、「選りに選ってこんな時に、どうしてこうなっちゃうの」ということが次々と幸蔵に振り掛かります。しかも、それらすべてが幸蔵の過去と絡んでおり、それが廻り巡って幸蔵の元に一気に押し寄せて来るのです。否応なく幸蔵は自分のこれまでの人生と全面的に対さざるを得なくなります。この時、幸蔵の耳元で「これで君にもやっと分かっただろ」とささやく他者の声がするのです。これが因果応報の理の声です。多分その声は芝居を見ている観客の耳元でも聞こえます。(この稿つづく)

(R4・2・19)


7)「鼠小僧」半通しの意義

ですから「鼠小僧」のなかの「世界」は捻じれているのです。この芝居ではヘンな人間ばかり登場して・寄ってたかって幸蔵(鼠小僧)の過去を暴き立てるかのようなご都合主義のドラマに見えるかも知れませんが、それは「世界」が歪んでいるからそう見えるのです。幸蔵は「パラレル・ワールド」に迷い込んだのです。だから芝居が新しい次元に入ったことを明確に観客に示さねばなりません。稲毛家屋敷塀外辻番の場を見ます。

与惣:「呼び留めましたは盗人どの、こなたにちっと頼みがござる」
幸蔵:「なに、私に頼みとは。」
与惣:「外でもない、この親父の命を取って貰いたい。」
幸蔵:「何と言わっしゃる。」

上記の場面が幸蔵が「パラレル・ワールド」に迷い込むきっかけなのですから、「なに、私に頼みとは」・「何と言わっしゃる」と云う幸蔵の与惣兵衛に対する反応(リアクション)は、観客にそのことを暗示するように、幸蔵の心理を細密に描かれなくてはなりません。それは「クサい演技だ」と云われるくらいであっても良い、それが小団次の空っ世話の写実なのです。この場面の菊之助幸蔵(鼠小僧)は品行方正な泥棒と云う感じで、そこがまあ菊之助らしいとは云えますが、それが駄目だと云うことではなく、菊之助の持ち味のなかで・どこまで写実(リアル)に刺さり込んで行けるかと云うことが今後の課題になろうかと思います。小団次の写実を学ぶことは、菊之助には大いに役に立つと思いますよ。

それにしても今回の「鼠小僧」が他の小団次劇と違って新鮮な印象がするのは、例えば「宇都谷峠」であると、最後で破滅した主人公(十兵衛)の耳元で他者が「これで君にもやっと分かっただろ」と囁く結末ですが、「鼠小僧」ではその構図が稲葉幸蔵内で実質的に終わることです。したがって、大詰(奉行所白洲・裏手水門)では、芝居は元の「世界」に還っているわけです。だから鼠小僧が縄目を脱して、「今はひとまず立ち去るが、泡と消えゆく悪事の終わり、情け深い早瀬殿の縄に掛かって死ぬ覚悟である」と告げて、鼠小僧が暗闇へ消えていく、この幕切れに、鼠小僧の後の刑死が予告されているけれども・そこは観客に見せず、気持ち良く観客に劇場からお帰りいただけると云うことです。通し狂言での・この収め方は悪くありません。安政4年(1857)1月江戸市村座での「鼠小僧」初演が好評で、芝居が3月まで90日余りも打ち続けたというのは、そう云うところからも来るのでしょう。

実は明治・大正期の、五代目・六代目菊五郎らによる「鼠小僧」上演は通しで行なわれたことはなく、今回上演で云うと二幕目・三幕目のみの「見取り上演」でした。「鼠小僧」の場合には2幕の見取り上演であっても、パラレル・ワールド」に迷い込み・そこから元の「世界」へ還る(自首に走る)と云う基本構図が取れることになるので、まあそういう上演の仕方もあろうかと思います。これでも因果劇の最低限のところは見せることが出来ます。しかし、通し狂言に仕立てて大詰を付けると、いつもの因果劇の重苦しさから逃れられて、後味が良いですねえ。コロナ状況下での通し狂言であったため、上演時間の制約もあり(それでも九時半近くの終演は近頃珍しいことでした)・補綴脚本には多少無理な箇所もあったようでしたが、今回の「鼠小僧」半通しは歌舞伎座で久しぶりにコース料理に近いものを味わった気分がして、いつになく満足をいたしました。

(R4・2・20)

追記:舞台関係者にコロナ陽性者が出たため、歌舞伎座・二月大歌舞伎・第3部のみ、2月14日から19日までを休演とする措置が取られました。



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