村上春樹・または黙阿弥的世界
〜「ねじまき鳥クロニクル」
本年(平成21年)ベストセラー本ということになれば・それは村上春樹の小説「1Q84」かと思います。この小説は第1部と第2部の2巻本から成りますが、いずれ続編(第3部)が書かれるという予想が巷間かなり流布していました。先日(9月17日)毎日新聞でのインタビューで著者自身がそれを認めて、来年(平成21年)夏ごろ出版を目処に 第3部を執筆中であると語っています。実は吉之助はこれまで村上春樹の作品を読んでいませんでした。もちろん名前はよく知っていますし、どこかで何かの文章を目にしていることは間違いないですが、少なくとも小説を最後まで読み通したことはありませんでした。こういう批評サイトをやっているせいもありますが、吉之助はどうしても批評的 ・分析的に小説を読んでしまう習慣が付いているので、現代作家(まあ現時点で生きている同時代作家とお考えいただきたい)の純文学小説を読むのは吉之助にはあまり居心地が 良くないのです。古典の場合だとそういうことは全然感じないのですがね。同時代文学の場合は吉之助の方に同時代を把握することが十分できている自信がないのか、作品を介して作者の世界と対峙するのにどうも気が引けるところがあるようです。古典でも読み手と作者の対峙は当然ありますが、古典の場合は読み手の現代と作者の時代の乖離(差異)が手掛かりを与えてくれます。過去はある程度の形になっていますから、作者の過去を通して読み手も現代という自分が今にまさに生きている時代を逆照射することが可能になってきます。吉之助の場合には古典を読みながら現代のことを考えるという 思考回路になるようです。現在進行形の同時代作品であると、吉之助にはそのような読者としてのスタンスの取り方がちょっと難しい。同時代文学批評は先鋭的な感覚と美意識を以って突っ張っている必要がありそうで、これはなかなか疲れる仕事だと思いますねえ。まあ歌舞伎の批評でもやってるくらいが吉之助にはちょうど良いのでしょう。
ところで文学に限らず・音楽でも芝居でもそうですが、難解な作品を理解するためには信頼できる批評家がその作品について書いた文章(批評)をじっくり読んで・それを手掛かりにして理解していくというのも、有効かつ手早い手法であると言えます。言ってみれば「鑑賞には王道あり」ということです。こういう手法に反対の方がいるのは承知です。誰にでも・どんな場合にでもお奨めというわけではありませんが、「この作品はどうにもこうにも理解できない」という場合には・その作品を愚作だと決め付けることは決してせず、批評の助けを借りながらでも・理解の取っ掛かりを付けるように・少なくとも批評家ならば出来る限りの努力をするべきです。吉之助もこの手法で多くの作品を自分のものにしてきました。ただし何がその人の理解の取っ掛かりとなるのかは、本人にしか分からぬことです。
昨今は批評の世界に「駄作・愚作」という語句を実に安直に使う人が増えていて困ります。どんな作品でも作者は呻吟し・身を削りながら作品を書くのです。ならば批評する者もそれなりの覚悟と努力を以って作品に対さねばなりません。この世に自分の理解が及ばない作品はたくさんあると思いますが、駄作・愚作というのは決して存在しないと思います。どうしても分からぬものは最初から批評の対象にしない謙虚さが必要です。前述の通り「1Q84」を吉之助はまだ読んではいませんが、吉之助が 本編読むより前に「村上春樹・「1Q84」をどう読むか」という批評集(35人の批評家の文章を収録)を読んだのは、最近は村上春樹がノーベル賞授賞の呼び声高いということもあるし・エルサレムでの「壁と卵」演説という話題もありましたから、吉之助の同時代理解のための地慣らしということでありました。どの批評もなかなか個性的で ・立場は賛否それぞれであり、途中で討ち死にしてる方も敵陣にまで斬り込んでいる方もいるようではあるが、みんな同時代に果敢に斬り込む意欲があるなあと感心しきりでありました。
村上春樹『1Q84』をどう読むか(河出書房新社)
さて「1Q84をどう読むか」の批評のなかで特に吉之助の興味を引いたのは佐々木敦氏の文章でした。居心地の良い自我のなかで自足していた「僕」が思いがけない事件によって外界へ自己を展開することを強いられていく・そのようなパターンが村上文学だと世間では思われているが・実はそうではないと佐々木氏は言うのです。村上文学の「主人公=僕」はひとの気持ちが分からない人間である。自分が外界に対して不感症であることに本人は気が付いていて、これではいけないと思う。そこで主人公は色々するのだが、やっぱり彼は変ることはないと佐々木氏は言います。
『なぜ彼は変れないのか。それはつまり、実のところ、彼には何故「これではいけないか」のかさえ、本当はまったく分かっていないからだ。それが「人の気持ちが分からない」ということなのである。だから彼には、分かった振りをしてみる・分かったことにしてみる、ということしか出来ない。そうすると何だか自分でも、分かったような・分かっているような気がしてくるから不思議だ。そしてここがポイントなのだが、そこに誰か(他者)がやってきて、こう言ってくれるのである。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼は分かってなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれないのだ。』(佐々木敦:「リトル・ピープルよりレワニワを」 〜「村上春樹・「1Q84」をどう読むか」に所収)
吉之助は村上春樹について予備知識を全く持ち合わせていませんが、吉之助が感じたことは「これは黙阿弥とまったく同じだなあ・・」ということでした。黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の自分ではいけない」と感じており・変りたいと感じているのですが、何をしたらいいのかを彼は全然分かっていない。ところがそこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとってとても悪い方に巻き込まれていきます。「どうしてこうなっちゃうの」とボヤきながら、突然開き直るような形で彼は決断するのです。大抵の場合彼は泥棒になっちゃうわけです。結局彼は破滅する破目になるのですが、その時に他者が登場して「君もやっと真実が分かっただろ」と言うのです。でも彼には自分があのままでいて良かったとはとても思えない。ホントは自分が何をしたかったのか・何をするべきだったか も死ぬ間際までやっぱり分からない。疑問は最後まで重く残ったまま終わる。それが幕末期の黙阿弥のドラマなのです。時代背景もシチュエーションももちろん全然違いますが、この辺が吉之助が村上春樹を読む取っ掛かりになるかなあ・・・と佐々木氏の文章を読んでそう思ったわけです。おかげさまで吉之助も「それならば村上春樹を読んでみようか」という気にやっとなりました。
そこで最初の村上作品として吉之助が読み始めたのは「ねじまき鳥クロ二クル」(1992〜94年)です。この作品を選んだのは、ひとつには本作が当初は2部構成で書かれて出版され・その1年後に続編の第3部が追加されたという「1Q84」と同じ経過を辿っているからです。現時点ではまだ第2部を読んでいるところですが、ここで本稿を書いているのは・全編読み終わった後では書けないことがあるようだということで書いてるのです。 作者解題をまず読んでから作品を読み出した途中のご感想です(吉之助は同時代文学批評をする気はありません)が、この作品はとても面白いと思います。ノーベル賞に値するかは分かりませんが(ノーベル賞がどういう基準を持っているのか分からないから)、このような作品が世界中に読者を得ているのは素晴らしいことだと思います。
吉之助が思うには「ねじまき鳥ク ロ二クル」は(他の村上作品も恐らく同様でしょうが)文体は軽い感じに見えて・表面上テンポ良く筋が進むけれども、その描いているものはとても重たいものであると強く感じます。主人公が対峙しているものの正体は分からぬが、それは主人公の胸に詰まる感じで重く圧し掛かっており・ピリピリした感覚もあり、それは主人公に決定的な作用を及ぼしています。それは正体が分からぬからそう感じるわけで、正体が分かっちゃうと第三者から見ると案外つまらないものであったりするので・これはエンディングが結構難しそうです。そういうツマランものが個人を強く縛っているということもよくある話かと思います。しかし、それはそのツマランものと主人公が対峙しているということではなく、実はそのツマランものは背後にあるものが操るツール(道具)に過ぎないのであって、その背後にあるものはやっぱり分からないのです。吉之助が思うところではこの何かしら曖昧ではあるがグッと重く圧し掛かる感覚は現代作家には絶対的に必要なもので、これがあるから村上春樹は世界に通用していると確信的に納得させられるものです。
村上春樹全作品 1990~2000 第4巻 ねじまき鳥クロニクル(1)(作者解題付き)
これはまあ吉之助の村上春樹の黙阿弥的理解ということですが、「三人吉三廓初買」の三人の吉三郎の物語(侠客伝吉因果譚)などはまったく村上的世界にありそうに思えます。(「十六夜清心」なども同様です。)三人 の吉三郎の物語にもグッと胸のうちに重く圧し掛かる感覚があります。(本稿では話題として外れますが、歌舞伎はこの感覚の表出のために世話の技巧を研ぎ澄まさねばならないことを言っておきたいですね。別稿「様式的に写実する」をご参照ください。黙阿弥の世話の感覚は村上春樹の軽い文体に通じるものがあるのです。)ただし黙阿弥は「三人吉三」において並行する形になる文里女房・おしづの恩愛の物語(通客文里恩愛噺)で見事に感覚的なバランスを取っています。他者というものはどちらの表情も併せ持っているのです。どちらの表情を見せるかは全然分からないのですが、それを相手任せにして・ただなす術もなく右往左往するのではなくて、「もしこちら側がイ二シアティヴを取ることができるならば・・」と考えることはとても大事なことなのです。(別稿「因果の律を恩愛で断ち切る」をご参照ください。)後者の筋は歌舞伎ではもはや顧みることがありませんけれど、黙阿弥・あるいは幕末という時代を考える時に重要な意味を持つのです。吉之助は「三人吉三」での作劇術の巧みさとともに・黙阿弥の背後にあるものの重さを考えざるを得ませんでした。村上春樹は「ねじまき鳥ク ロ二クル」第3部でどういう展開を見せるのでしょうかねえ。そんなことをフッと考えるのも、実に吉之助的思考ということになりますけどねえ。
(H21・10・2)
*続編「村上春樹・または黙阿弥的世界・2」もご参照ください。