(TOP)     (戻る)

六代目歌右衛門の「牧の方」

昭和60年10月国立劇場:「牧の方」

六代目中村歌右衛門(時政の室牧の方)、十三代目片岡仁左衛門(北条遠江守平時政)、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(稲毛息女照子の前)、初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(平賀右衛門佐源朝雅)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(畠山六郎重保)、五代目片岡我当(北条相模守平義時)、八代目嵐吉三郎(稲毛三郎重成入道)、六代目沢村田之助(稲毛次郎重政)、六代目中村東蔵(腰元折枝)他

*本稿では五代目と六代目の歌右衛門が交錯する場面がありますが、ただ歌右衛門とのみ記する時は・それは六代目歌右衛門のことを指すとお読みください。


1)逍遥劇の在るべき様式とは

本稿で紹介するのは、昭和60年(1985)10月国立劇場での、六代目歌右衛門主演による「牧の方」の舞台映像です。本作は昭和13年(1938)2月東京劇場(五代目歌右衛門の牧の方、六代目は照子の前で参加)以来上演が絶えていて、この時が実に47年振りの上演でした。したがって六代目歌右衛門は牧の方が初役と云うことですが、五代目が当たり役としたこの役(牧の方)を六代目が初役で演じ、なおかつこの機を逃せば「ひょっとしたら本作は半永久的に陽の目を見ない可能性がある」(郡司正勝談)ということで、当時としてはかなり気合いを入れた上演であったようです。しかし、それからまた現在に至るまで再演がないので、郡司先生の心配通りになりかけています。ツマラン新作をやるよりも、こうした埋もれた名作の掘り起こしを恒常的に心掛けてもらいたいなあと思います。

ところで吉之助はこの舞台を確かに生(なま)で見ているのですが、当時の舞台の記憶がほとんど飛んでいて、細部が思い出せません。と云うことはあまり面白くなかったと云うことだろうと思いますが、今回改めて映像を見直してみると、なるほどこれは忘れてしまうのも道理だなあと感じる点もあるにはありますが、37年ほど経過して吉之助も多少は目も肥えて来たので、当時は見えなかったところが冷静に見えて、なかなか興味深いものがありました。本稿ではそんなところを綴ってみたいと思います。

「牧の方」については坪内逍遥の脚本が2種類あって、第1作(7段18場)は明治30年(1897)4月に出来上がりました。当時は九代目団十郎・五代目菊五郎が存命でした。逍遥は、牧の方に菊五郎、北条義時に団十郎を想定して脚本を書いたと思われます。しかし、団菊存命中に本作が上演されることはなく、初演は明治38年(1905)5月東京座でのことで、牧の方を五代目歌右衛門・義時を七代目幸四郎(当時高麗蔵)が演じました。ちなみに新歌舞伎の最初の上演は、明治37年(1903)3月東京座での、逍遥の「桐一葉」とされていますから、同じ逍遥の「牧の方」も新歌舞伎黎明期の作品なのです。「牧の方」第2作(改訂版・5幕13場)は第1作を切り詰める形で大正6年(1917)6月に出来たもので、今回上演(昭和60年10月国立劇場)は改訂版を元にして上演台本がアレンジされています。

今回上演映像を見ながら吉之助は、37年前にこの舞台を生で見た時に感じたことをまざまざと思い出したのです。特に序幕・稲毛邸七夕祭の場に感じることですが、この方々(役者)は逍遥の「牧の方」を歌舞伎史のなかの・どの時代の様式にイメージを置いているのかなあ、それがサッパリ見えてこない舞台であるなあということですねえ。テンポの良い歴史劇を見に来たはずが、大時代のねっとりと重い様式的な演技に、女形の伸びた節回し、これに竹本のト書き浄瑠璃が加わって、一体これは何時(いつ)の芝居なんだという疑問が湧き上がって来ます。どう考えてもこれは幕末頃の歌舞伎の感触です。おまけに芝居の筋が古典を下手になぞった心持ちがします。照子の前(扇雀)に侍女の折枝(東蔵)が大事を知らせに来る。照子の前はこれを恋する畠山重保(福助)に知らせようとしますが、そこに父・稲毛入道(吉三郎)が登場して折枝を斬って、娘を縛り付けます。しかし、照子の前は何とかこれを重保に知らせようともがくうちに縄が切れて、照子の前は重保の元へ急ぐ。明らかに「十種香」をもじった印象で、それでだんだん真面目に芝居を見る気が失せて来ます。37年前にそんなことを感じたのを思い出しました。

これは監修の郡司正勝・あるいは座頭の歌右衛門にも責任があるのかも知れませんが、役者がそれぞれのイメージで・バラバラの様式で演じていて、作品の様式というものが浮かび上がってこないからです。一座のなかで新歌舞伎らしい・斬れのある二拍子で台詞をしゃべっているのは辰之助の平賀右衛門朝雅ですが、この口調も本人が考えてしゃべっているわけではなくて、辰之助はどんな芝居でもこんな感じの早いテンポのハキハキした口調でした。この「牧の方」ではまあ良い方ですが、いつもそれが似合う芝居ばかりでもありません。だから時折芝居のなかで独りだけ異質な演技に見えることがありました。他の役者は押しなべて出来の良くない幕末歌舞伎を演じているような感触です。結局、芝居らしい感触で落ち着いて見られるのは、歌右衛門の牧の方が登場する二幕目以降になります。歌右衛門の牧の方はさすが・・と言いたいところですが、確かに歌右衛門以外にありえない牧の方で・その説得力は大したものですが、これが逍遥の新歌舞伎様式なのかと云うとちょっと違うような気もしなくはない。五代目歌右衛門はもう少し写実な感じで牧の方を演じたのではないでしょうかね。

まあそう云うわけで、上演映像を見ながら疑問符が飛び交います。一般的に新歌舞伎と云うと二代目左団次が初演した作品群(例えば岡本綺堂とか真山青果など)・或いは六代目菊五郎が初演した作品群(長谷川伸など)を思い浮かべますが、同じ新歌舞伎であっても坪内逍遥と云うと、それらと比べて何だか「古めかしい」、と云うよりも「古臭い」イメージが強いと思います。台詞が擬古文調であるし、意図的に古典めかした芝居を擬している、だからツイツイ重ったるい様式的な感触に仕立ててしまうことになる、「これで歌舞伎らしくなるだろう」というわけですが、ホントにそれで宜しいのでしょうか。それならば新歌舞伎たる逍遥劇の「新しさ」をどこに見い出したら宜しいのでしょうか。そう云うことが、ほとんど顧みられていないように思うのですねえ。歌舞伎史のなかで新歌舞伎のパイオニアとしての逍遥劇の位置を正しく把握しないと、逍遥劇の在るべき様式を見出すことは出来ないと思うのです。(この稿つづく)

(R4・1・11)


2)逍遥劇の「新しさ」

逍遥が「牧の方」第1稿を発表したのは、「早稲田文学」誌の明治29年1月号から翌年3月号でのことでした。当時の歌舞伎では、活歴物が盛んに上演されていました。当時はそれが「新しい芝居」だとされていましたが、観客には支持されませんでした。逍遥は活歴物の内容の乏しさに大いに腹を立て、劇文学としての価値があり・また大衆にも喜ばれる新史劇を創造しようと思い立って、「桐一葉」・「牧の方」・「沓手鳥孤城落月」など、後に新歌舞伎と呼ばれることになる作品を次々と執筆して行ったのです。しかし、新歌舞伎というジャンルはまだ存在しておらず、新しい時代のための新しい歌舞伎のイメージを、逍遥が手探りで創り出す以外にありませんでした。いきなり現代語を使った新しい歌舞伎を登場させても良かったかも知れませんが、逍遥はそう云う無謀なことが出来なかったのです。それをするには逍遥自身があまりにも歌舞伎を知り過ぎていました。いきなりそれをやっても歌舞伎役者が作品を受け入れないだろうと思えたのです。逍遥は革命家ではなく、あくまで実践者でした。作品を書いても・それが上演されなければ意味がありません。そこで逍遥は、歌舞伎役者に受け入れ易いように・既存の歌舞伎のテクニックを活かし・古語を散りばめて、段階的に自らの理想を実現していく道を選んだのです。

ですから後世の人から見れば、逍遥劇はアナクロニズムかと思えるほど古臭く見えるでしょうが、これはパイオニアとしての逍遥の苦心惨憺の産物なのです。逍遥が苦労して道を付けた後に、岡本綺堂や真山青果が出て来るわけです。松居松葉は次のように書いています。

「牧の方」を論評しようと云う人は、この脚本の世に生まれた来歴(吉之助注:新歌舞伎のパイオニアとして逍遥がいかに苦心惨憺したか)を無視してはならない。左様でないと、写実風のテクニックを以て脚本を表現しているその間に、竹本と唄との掛け合いになる七夕祭の一場に出っくわして、大いにまごつかねばならないことになる或る新聞の劇評家は、この場でしんみりした味のある舞台を見せてくれると思いの外、純然たる歌舞伎芝居になって居たと云って、可惜(あたら)しいらしい口吻を漏らしている。』(松居松葉:「「牧の方」について」・「演芸画報」大正6年8月)

「可惜しい」とは、残念なことに正鵠を得ていないとの意味。逍遥の苦労が分からなければ、テンポの良い歴史劇を見に来たはずなのに、古語を散りばめた大時代な台詞と、竹本のト書き浄瑠璃に、一体これは何時(いつ)の芝居なんだ・全然新歌舞伎でないじゃないか・何と云うアナクロニズムだと云うことになってしまいます。これでは吉之助が37年前に感じたことと同じになってしまいます。もっとも吉之助も37年経って多少は目が肥えました。ですからパイオニアとしての逍遥の苦心をよく理解し、脚本のなかから新歌舞伎たる逍遥劇の「新しさ」(逍遥が意図する方向性)を見出さねばなりません。逍遥の脚本を読む時に大事なことは、逍遥が役者のために気を遣った「古めかしい」部分を役作りの取っ掛かりとするのではなく、脚本のなかに「新しさ」を見付けて・そこを取っ掛かりにすることです。例えば竹本入りになる序幕・稲毛邸七夕祭の場を見ると、

(照子)幸ひ今宵は七夕とて、身の願ひ一つは叶ふといふ。あの遣り水に祈願を籠め、この梶の葉を当座の歌占(うたうら)。
竹〽ひとりうなづき前栽に、おりたつ裾の秋の風
唄〽千草の虫も音(ね)をとめて、弓張月のかたぶくや、空黒々と雨催ひ。
(照子)わが祈る、事は一つぞ天の川、空に知りても違へざらなん。・・・表は吉兆、裏は悪兆。
竹〽祈願を籠めて投げ入るる、折柄さつと落す風、あなやと見る間(ま)梶の葉は、行くへ白萩夏萩の、下枝がくれに流れゆく
(照子)エエ、どんな・・・もしや是も願事の・・
竹〽もしや叶はぬ知らせかと、また女気の枝折戸口、いきせき帰る腰元折枝。
(折枝)オオ姫様、是にお出で成されましたか?一大事になりましたわいなア。
(照子)エエ!一大事とは心がかり。
(折枝)マアマアあれへ。ここは端近(はしぢか)。
唄〽誘(いざ)はるるも誘ふも、胸轟くや遠鳴りの、神来(きた)ぬらん大空は、黒み渡りて物凄し。
(照子)シテ、大事とは?その仔細は?

この場面では台詞に竹本のト書き浄瑠璃と唄の掛け合いが交錯しており、一見するとまったく古典の義太夫狂言の如き大仰な体裁です。こうなると古典の引き出しで処理したくなるのが、歌舞伎役者の習い性と云うものです。この場の扇雀(照子の前)も東蔵(腰元折枝)も、まるで「十種香」の八重垣姫と濡衣みたいな調子で芝居をしていますねえ。竹本と唄の流れに乗っかって・そこで思い入れを入れたりするものだから、台詞が間伸びした感じに聞こえて、演技の流れがブツ切れています。在来の歌舞伎らしい感覚に仕立てようとするから、流れがもたれてしまうのです。だから芝居が平坦になってツマラナイものになる。

しかし、竹本と唄はト書きの役割ですから、ここはむしろ演技の心理的情景を説明してくれるものと割り切って、役者は演技に余計な思い入れを籠めず・心理の仔細はト書きに任せて、自らの演技に徹した方が宜しいのです。音楽によって演技が分断されるように思うかも知れませんが・そのように考えるのはまったくの間違いで、演技はずっと繋がっている・と云うか「繋るようにする」のです。

ここは歌舞伎が本行(文楽)の義太夫が生み出すひとつの流れのなかから人間(役者)の台詞を抜き出して義太夫狂言に仕立てて行くのと真反対のプロセスをイメージせねばなりません。逍遥劇のこの場面においては、人間の肉声(台詞)は音楽によって分断されているのです。音楽のト書きは脇から刺さり込んで心理的情景を説明するという・まったく別個の役割を負っています。だから音楽もまた台詞によって分断されています。このバラバラ状態から演技にひとつの息の流れを構築していくことは、これは役者が担うべき仕事です。それは竹本の仕事ではありません。肝要なことは、ト書き(竹本と唄)の最中に息を詰めて、所作を簡潔にし、役者は台詞と次の台詞の息が繋がるように緊張を持続するよう努めることです。台詞は二拍子を基調にしてテンポ良く流す、これで演技の流れのうえに一貫したリズム感覚を保つことが出来ます。

逍遥劇におけるト書き浄瑠璃は、「人間の台詞が音楽によって分断されている」と云うイメージを持たせることによって、引き裂かれた(バロック的な)近代演劇の一形態として認知されるであろうと考えます。(端緒は幕末の小団次と黙阿弥のト書き浄瑠璃に既にあるものと考えますが、ここでは指摘するに留めます。)もうひとつ大事なことは、台詞を二拍子を基調にしてテンポ良く流すことで、逍遥劇が近未来の左団次劇の様式を予告していると感じられることです。別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。逍遥が、後年の左団次劇の、タタタタ・・という機関銃のような畳み掛ける二拍子のテンポを用意したことが分かると思います。以上二点に、新歌舞伎たる逍遥劇の「新しさ」(逍遥が意図する方向性)が見えます。(この稿つづく)

(R4・1・29)


3)新歌舞伎の二拍子のリズム

逍遥劇の台詞は古語交じりで、一見すると古典歌舞伎の様式で転がせて歌えばそれで済むように見えるかも知れませんけれど、逍遥はこの芝居を九代目団十郎や五代目菊五郎が演じることを想定して脚本を書いたのです。団十郎は、演技や台詞を簡潔にして・余韻を持たせるのが良いと考えていました。例えば「桃山譚(地震加藤)」(明治2年東京市村座初演)では、加藤清正が居眠りから覚める場面で、目を見開き暫しの間(思い入れ)があって「・・・夢か」と短く言う場面が評判となりました。これが明治初期の気分を取り入れたものでした。ここは古典歌舞伎ならば、「夢であったかあ〜」と詠嘆調に引き延ばして云うところです。言葉を簡潔にして万感を肚に押し込めて大仰な演技をしない、これが「団十郎の肚芸」と今日呼ばれるものです。これを踏まえて、例えば序幕・重保寝所幕切れでの、毒を呑んで自害した北条政範を見下ろす、畠山重保と平賀右衛門朝雅の割台詞を見てみます。

(重保)悪因の・・・
(朝雅)もつれつながる・・・
(重保/朝雅)因果どし!
(重保)オオすやすやと眠るが如く。・・・テモあやしき・・・
(重保/朝雅)毒のききめ!

歌舞伎役者は、多分、古典歌舞伎の「らしさ」の感覚で、「テモあやしき●/毒のききめ」と七五で割りたくなると思います。さらに末尾をテンポをぐっと落して「ドォクゥノキーキーメェ〜ェ」とやりたくなるでしょうね。今回の福助(重保)と辰之助(朝雅)も、そんな感じでやっていますねえ。辰之助も(他のところではキビキビした台詞廻しで悪くはないのですが)このような肝心の箇所になると「歌舞伎らしさ」を意識し過ぎて台詞を引っ伸ばしてしまって、よろしくありません。の台詞廻しでは、「毒のききめじゃなあ〜ア」と言っているのと全然変わりません。これでは全然団十郎の息になりません。逍遥は「毒のききめ!」と、台詞に「!」マークさえ付しています。逍遥がこれらの台詞を団十郎の息で書いたと云うことを歌舞伎役者は理解しているのでしょうか。

ここは台詞を二拍子で割って「テモ/あや/しき/どくの/きき/め●」とせねばなりません。「きき/め●」で末尾を引き伸ばさず・「め」で息を簡潔に断ち切る、これで団十郎の息になるのです。付け加えますと、この団十郎の言い回しは明治10年代の活歴の様式であり・当時の観客を感嘆させたものですが、活歴が芝居として上質なものでなかったために、一時的な流行で終わってしまいました。しかし、団十郎の息は確かに「未来志向」を含んでいたのです。二十世紀初頭(ちなみに西暦1901年が明治34年になります)の空気を逍遥は次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物のを表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

逍遥は、団十郎の息から新歌舞伎の・畳み掛ける二拍子のテンポを生み出しました。それは人の背中を後ろから押し、余裕のない・切迫した感情を生み出すリズムです。無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代のリズムなのです。

ちなみに前章で引用した稲毛邸七夕祭の場での、照子の前と腰元折枝の台詞も、この場に圧し掛かる不穏なムード・迫りくる政治的陰謀を読み取るならば、のんびりしたテンポで台詞を伸ばしていて良いはずがないことくらい、すぐに分かるはずだと思いますがね。この場面は切迫した二拍子のテンポで処理されねばならぬことは、明らかなのです。二拍子の台詞のリズムによって、竹本と唄との掛け合い(間合いの押し引き)が対照的に生きて来るのです。逍遥劇におけるト書き浄瑠璃が「未来志向」を含んでいることが、ここでも分かると思います。(この稿つづく)

(R4・1・30)


4)歌右衛門の牧の方

「この芝居どうやったらいいのオ?こうやったらとりあえず歌舞伎らしく見えるかなア?」という手探り状態のまま芝居している役者ばかりのなかで、唯一人歌右衛門の牧の方だけが確信を以て自分の芝居をしています。第2幕北条家牧の方居間で、病死だとばかり思っていた我が子(政範)が政治的謀略によって殺されたと朝雅に吹き込まれた牧の方が逆上し、「子を殺される苦しみを、おのれ、今に!」と身を震わせて叫ぶ場面での、演技を最大限に引き伸ばす力の凄さがさすが歌右衛門と云うところです。

感情の震えの細部まで拡大し・ねちっこく引き伸ばすところが歌右衛門らしいところで、吉之助なんぞは映像を懐かしく見入ってしまいましたが、恐らく初演者である父・五代目歌右衛門の牧の方は、もう少し写実に・或る意味淡々とした感触でこの場面を勤めたのではないかと想像します。そのような先代の芸の片鱗は、一見すると、六代目の牧の方からは見えないようです。それは六代目が演技をねちっこく引っ張るのでリズムの刻みがはっきり感知され難いからだと思われます。しかし、注意深く観察すれば、六代目は確かに台詞を二拍子で刻んでいる・末尾は決して引き伸ばさないというところをちゃんと守っていることが見えて来ます。歌右衛門は47年前・昭和13年2月東京劇場での上演で照子の前を勤めて先代の牧の方を承知していますから、先代の牧の方の骨法をしっかり踏襲しようとしているのです。ただし、六代目は先代とは個性がまったく異なります。六代目の方が線が細く、嫋やかだと思います。だから六代目の色合いに役が染まるのは当然です。このため表面的には六代目からは演技の根底にある二拍子のリズムが感知され難いかも知れませんが、フィルターで六代目の色合いを取り去ってこれを見るならば、そこから先代の牧の方の芸の本質がはっきり見えて来ます。これが逍遥劇の「未来志向」の要素なのです。ここから後の二代目左団次の新歌舞伎様式への展望が拓けていくのです。

もうひとつ興味深いのは、大詰・北条別邸奥庭の場で、牧の方が我が子の復讐のため年若き将軍源実朝を殺害せんと・懐剣片手に奥庭の木陰に身を潜め待ち構える場面です。この場面には台詞がなく、牧の方はじっと息を詰めて・将軍一行が船で到着するのを舞台の奥の方で待ち構えるだけです。この場面での、歌右衛門も鬼々迫る演技で素晴らしい。舞台に平家琵琶の音色が響き渡り、滅びへの予感を奏でます。結局、牧の方は少年実朝の横顔が我が子と生き写しに見えてしまうために迷って・殺害することが出来ないのですが、この場面は歴史の一場面に立ち会うような、或る意味・映画的な、リアルな感覚に満ち溢れています。本作が書かれた明治30年時点では、まだ映画はこれだけのリアルな感覚を表出することなど想像さえ出来ませんでした。ですからこれも逍遥劇の「未来志向」であると申し上げたいですねえ。

逍遥の言によれば、明治14・5年頃シェークスピアの「マクベス」を読んだ時にマクベス夫人と牧の方が似ていると感じたことがあったが、よくよく考えてみれば罪悪の動機も経過もまったく異なるため・そのまま忘れていたところ、明治28年「桐一葉」を完成した頃から鎌倉三代に渡る興亡史に興味を抱き、これを芝居にしようと思い立つたとのことです。したがって芝居執筆当時には敢えて牧の方をマクベス夫人に重ねようと云う意図は逍遥にはなかったようです。「牧の方」初演の時(明治38年)、逍遥は五代目歌右衛門に、

『牧の方といふ女は淀君とは違って、意志の深い女ではなく感情の女であるから、第一にそれをよく呑み込んで掛かってもらいたい。いわば一幕のなかでも性格に変化があるので、おだてられれば直ぐとその気になると云ったような移り気な質の女だ。』五代目歌右衛門談話:「歌舞伎」・明治38年6月)

と語ったそうです。牧の方は自分というものをしっかり持った女ではない。周囲の人間に翻弄されるまま喜怒哀楽の表情の変化が激しい女であるので、行動・言動に一貫性が見られず、刹那的でバラバラに見えます。しかし、それらはすべて牧の方という一顧の人物から生じた反応なのですから、バラバラのように見えるけれども、繋がってもいるのです。牧の方は、我が子の復讐のため年若き将軍源実朝を憎み・これを殺害せんとする意志は強いものがあるはずですが、短刀を構えたながら「(実盛を)見れば見るほど、我が子そのまま・・あの狩衣も立烏帽子も・・「祖母前というて見たかつたなあ」というた声音までも!」と嘆く感情も、また真実なのです。結局、牧の方は実朝を殺害するチャンスを逃し、破滅することになります。この矛盾した感情の交錯から牧の方の一貫した性根を引き出そうとするのが、五代目・六代目歌右衛門に共通した作品解釈プロセスだと云えるでしょう。これこそ近代演劇の発想に違いありません。

或るシンポジウムで、「余韻を重んじて言葉少ないのがいいとして逍遥が力を入れて書いた淀君のツマラナイ台詞なんかよりも、「そのお嘆きもお怒りもお通理とも理(ことわり)ともご尤(もっと)もとも当然とも申し上ぐる言葉とてもござりませぬ」(「沓手鳥孤城落月・糒庫」での饗庭局の台詞)なんて台詞の方が芝居らしくてずっと面白い」とお笑いになった劇評家先生がいらっしゃいました。そんなところに逍遥の根っからの芝居好きの地が出ていることは確かでしょう。しかし、そんなところばかりを見ていたら、結局、逍遥は古臭くって・アナクロニズムの作家だと云う評価にしかなりませんね。新歌舞伎のジャンルを切り拓いたのは、逍遥なのです。逍遥が出なければ、その後の岡本綺堂も真山青果もなかったのです。新歌舞伎のパイオニアとしての逍遥劇の「未来志向」を見詰めなければ、逍遥劇の在るべき様式を見出すことは決して出来ないと申し上げたいですねえ。

(R4・1・31)



  (TOP)     (戻る)