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菊五郎・辰之助による24年振りの「忍ぶの惣太」〜「都鳥廓白浪」

昭和55年3月国立劇場:「都鳥廓白浪」

初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(忍ぶの惣太実は山田六郎、木の葉峰蔵)、七代目尾上菊五郎(傾城花子実は天狗小僧霧太郎実は吉田松若)、三代目河原崎権十郎(按摩宵寝丑市)、七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)(葛飾十右衛門)、二代目市村萬次郎(吉田梅若)、七代目市川門之助(惣太女房お梶)


1)時代物か・世話物か

本稿で紹介するのは、昭和55年(1980)3月国立劇場での、初代辰之助(惣太)と七代目菊五郎(花子)による、「都鳥廓白浪」(みやこどりながれのしらなみ・通称「忍ぶの惣太」または「桜餅」)の映像です。どういう理由だか分かりませんが、本作はそれまで大歌舞伎での上演が多くありませんでした。これ以前の上演と云うと、昭和期では、何と昭和31年(1956)4月歌舞伎座(二代目猿之助の惣太と三代目時蔵の花子による)でのたった1回だけで、この国立劇場での上演が24年振りであったようです。しかし、国立上演の好評を受けて、これ以後現在(令和3年)までの40年間では、菊五郎の花子で3回・菊之助の花子で1回、歌舞伎座などで上演されました。だから昭和より平成の方が本作の上演頻度が高かったことになります。(これは音羽屋の功績ですね。)本作は、国立劇場での復活から松竹歌舞伎のレパートリーに入った数少ない成功例と云うことになるかと思います。

この昭和55年国立劇場の上演は吉之助は生(なま)で見て、とても新鮮で面白かった記憶があります。それで久しぶりに映像を見るのを楽しみにしていましたが、いざ見てみると、40年経って吉之助も少しは目が肥えたのかもしれませんが、芝居のアラが意外と目立つように思いました。この時の上演自体が24年振りのことですから、経験者が誰もいなかったのだから仕方がないのかも知れませんが、役者の誰もが「こんな感じで良いかなあ」と手探りで芝居をやっている雰囲気が伝わって来ます。本作を時代物として演るか・世話物として演るか、そういうところがきっちり決まっていない感じがします。

「都鳥廓白浪」は安政元年(1854)3月江戸河原崎座初演で、黙阿弥(当時は河竹新七)と四代目小団次との、提携第1作ということになります。本作の執筆経緯については、別稿「四代目小団次の発想」で詳しく触れました。脚本を書き上げ・興行に先立つ「本読み」を済ませた後に小団次にゴネられて・何度も書き直しをさせられて、「イケねえ奴だ」と思って実に悔しかったと、後年黙阿弥は笑いながら語ったそうです。しかし、この一件で黙阿弥は小団次に気に入られて、その後、小団次が亡くなる慶応2年(1866)2月までの、12年間に渡る提携関係がここから始まることになるのです。

ところで吉之助はこのところ小団次・黙阿弥の他の提携作品、例えば「宇都谷峠」(安政三年・1856・9月市村座)や「縮屋新助」(万延元年・1860・7月市村座)などの舞台映像を見るにつけ、この時期の黙阿弥の心理主義的なリアル(写実)で細やかな作劇術に感嘆させられるところが、実に多くなりました。それゆえ、もし小団次が早世せず、明治の世に在って黙阿弥との提携が続いていたとするならば、現在の古典歌舞伎はまるで違った様相になっていただろうと云うことをつくづく思います。その発端が「都鳥廓白浪」であるのですから、写実の方向性(ベクトル)で本作を読んでいかねばならぬと思うわけです。

そんなことを考えるのは、今回(昭和55年3月国立劇場)の「都鳥廓白浪」上演映像を見ると、前述した通り、演じる側(役者・制作サイド)が、本作を時代物として演るか・世話物として演るか、スタンスをはっきり決めぬまま手探りで演っているようで、結果的に、どちらかと云えば様式が時代の方へ寄った印象がするからです。ただし、これには理由がないわけでもないでしょう。本作は世界を「隅田川」に取っており、忍ぶの惣太の梅若殺しの場があります。忍ぶの惣太は、吉田家の元家来・山田の六郎ということになっています。「隅田川」ものは江戸民衆にとってはご当地物で親しいものでした。だから本作は吉田家の御家騒動を背景にした時代物だと見なすことも出来るわけで、どうもそこに本作に慣れていない役者たちの迷いがあったようです。

もうひとつは、昭和50年代と云う時期の(これは吉之助が歌舞伎を見始めた時期なのですが)、黙阿弥上演の保守化傾向が影響しているようです。吉之助の記憶では、この時期の黙阿弥上演はテンポが遅く、七五調の台詞をねっとり歌いあげる傾向が強くありました。このため全体の感触が、どこか様式的に時代っぽい印象が強かったものでした。だからこの時期の舞台を見て歌舞伎を学んだ吉之助は黙阿弥の世話物はこんなものと思っていましたが、後年、昭和30年代くらいの映像を見てみると、昔の芝居はもっとテンポが早くて・感触が乾いたものであったことに気が付いて、軽いショックを受けたものでした。ああ生世話の感覚はこういうものかと思いました。昭和30年代から50年代へと20年ほど時が経って、芝居の感触が大きく変わって来たわけです。この変化が黙阿弥の世話物に特に顕著に出ていると云うことなのです。但し書きを付けると、これは芝居の出来が悪くなったと云うことではありません。演技的には役の心理をじっくり入念に描き込む傾向になって来たということなので、良い面もあるのです。ただし・その代わり感触が若干重くなっちゃったと云うことなのだな。

そう云うわけで、今回の「都鳥廓白浪」上演映像を久しぶりに見直すと、吉之助にとって・これはかつて知ったるお風呂の湯加減です。だからその感触が懐かしいという個人的な感慨はあるけれども、まあそのことは置くとして、批評家の目でこの映像を見ると、全体的に様式が時代の方へ寄った印象がすることが、やはり気になりますねえ。ここは明確に世話の方へ・もっと生世話にスタンスを置くべきだろうと思います。「弁天小僧」が青砥左衛門の世界を背景に持っていても明確に世話物であると規定するのと同じことです。その辺は監修の河竹登志夫先生にしっかり指導をしてもらいたかったところです。(この稿つづく)

(R3・5・21)


2)写実(リアルさ)を際立たせるための技法

黙阿弥は江戸歌舞伎の生世話の伝統に、ト書き浄瑠璃・余所事浄瑠璃・人形振り・割り台詞の多用・七五調の台詞などの音楽的要素を持ち込んで、江戸歌舞伎を「写実」から遠いものにしてしまった、このため江戸歌舞伎はせりふ劇の性格を失った・・という認識が巷間あるように思います。黙阿弥をこの方向へ仕向けた張本人が、上方修業が長かった小団次であると云うのです。(別稿「小団次の西洋」をご参照ください。)

これは現行歌舞伎の黙阿弥物の舞台を見るならば、なるほどそんな感じかと納得してしまうところがあると思います。現行の黙阿弥物は、七五のゆったりしたテンポで感触が重ったるくて、様式的な印象が強いでしょう。しかし、歌舞伎の黙阿弥物が、小団次が活躍した幕末の昔からホントにあんな感じであったのかについては、疑問を持った方が良いと思うのです。昔の黙阿弥物は、もっとバラガキの・写実の味わいが強かったに違いないと想像します。なぜならば、黙阿弥物は世話物であるからです。世話物ならば表現は写実を基本に置くことは当然です。そうすると、幕末の昔の・まだ生まれ立ての黙阿弥の世話物は、テンポがもっと早くて、乾いた感触の、もっと写実の舞台ではなかったでしょうか。

このような想像の根拠は、直截的には吉之助が生(なま)では見ることが出来なかった昭和30年代〜40年代の舞台映像で、もう少しテンポが早めの印象を受けたことに端を発しますが、書物で読んだ五代目菊五郎・六代目菊五郎を始めとする歴代の名優たちの芸談の数々によっても、十二分に裏付けられるものだと思っています。彼らの芸談には、どれも「世話物ならば写実が基本にある」と云う認識が、言わずもがなの前提として在るからです。さらにその後、「宇都谷峠」や「縮屋新助」など小団次・黙阿弥コンビの、細やかな心理主義的な写実のタッチを知るに至って、吉之助の想像は、確固たるものになりました。

本来写実に根差したはずの黙阿弥物が、どうして現行歌舞伎のような、重ったるい様式的な感触に変化して行ったかについては、いろいろ考えて見なければならないことがありますが、その最も大きな要因が黙阿弥物に内在するところの音楽的技法に在ることは、これは確かなことだと思います。音楽的技法とは、それ自体が反写実であるからです。黙阿弥物は、音楽的技法と切り離せません。竹本や清元の積極的活用もそうですが、七五調の台詞もそれ自体が持つ音楽的要素によって、必然的に反写実の方向性を内包するものです。したがって、黙阿弥物がその音楽的技法を表向きの「売り」にするようになれば、言い換えれば、「黙阿弥の音楽美」と云うことで、芝居が音楽的技法に頼るようになってしまえば、黙阿弥物の感触は重ったるい様式的な方向へ自然と傾斜していくことになるわけです。現行の黙阿弥物は、概ねそう云う状況であると考えて良いと思います。しかし、幕末の昔の、まだ生まれたての黙阿弥物の音楽的技法は、エッジが立った・新鮮な感触を見せていたのではないでしょうか。これは十分想像して良いことだと思うのです。

例えば驚くとか・感動する場面で、ジャーンと音楽が鳴り響くことは現実では有り得ないことです。一方、映画や舞台では、感動的な場面で背景に音楽が鳴り響くと、これがピッタリ行った時の効果は言い表せないほどのものであることは、お分かりだと思います。しかし、これも当たり前のことになってしまうと、随分と押しつけがましい・「さあさ皆さん、感動してください」というベタな表現にもなりかねません。ビックリした時に「ダダダダーン」と独り呟いてみると、ビックリはどこか醒めたコケたものにもなります。ですから演劇での音楽は、使い方次第です。

例えば「都鳥廓白浪・長命寺堤の場」では、忍ぶの惣太は鳥目を患っており、目が見えません。隅田川堤で急病に苦しむ梅若を自分の主君と気付かないまま介抱しているうちに、懐中の金に手が触れてしまいます。惣太は主人のためにその金が欲しいと思い、貸してくれ・貸さぬと争ううち、梅若を誤って殺してしまいます。嘉永7年(1854)初演で小団次が演じた忍ぶの惣太の演技は、評判記「花くらべ」によれば、

「梅若殺しのあのよさ、終始そこいの思入にて梅若丸の懐から金取り出し、さぐって見てコレこの包みは、ナニ金だ、ハテある所にやァあるものだなァとぞっとする仕打(演技)。それより梅若を殺しびっくりしたる意味合愁嘆、たっぷりあって、骨を惜しまぬ風情・・・」

と絶賛されています。これは竹本が「〽胸くつろげて差し入るる、手先にさわる金包み・・」と語って説明を加えてくれるから、小団次は安心して無駄を削ぎ落した写実の演技に徹することが出来るわけです。何気ない・まったく悪意のないところから、思いもかけないことが起きたということです。それはまったく偶然のことであったのです。一方、これを三味線のリズムに当てるやり方で、「〽胸くつろげて」で梅若の胸元に手をソロソロと差し入れて、「〽手先にさわる金包み」で触れた物の感触を確かめてハッとする思い入れでやることになると、或る種の糸に導かれるが如くに・惣太は「運命の金包み」に触れて・そこから破滅への道を辿る・・ということになりましょうか。

これは、どちらの表現が正しいか・良いかと云うことが問題なのではなく(どちらのやり方もあり得ることです)、それぞれの表現が志向するものが、写実を向いているか・様式を向いているかと云うところが、大事なのです。小団次の、竹本のト書浄瑠璃は写実の方を向くもので、その音楽的技法は世話の演技の写実(リアルさ)を際立たせるために在ると、吉之助は考えています。(この稿つづく)

(R3・5・26)


3)小団次の忍ぶの惣太を想像する

小団次のト書き浄瑠璃は世話の演技の写実(リアルさ)を際立たせるために在る。この認識はとても大事なことだと思います。ところが、一般的な感覚で「義太夫狂言らしさ」と云うと、多分、三味線のトンをきっかけに役者が動きを決めるのをそれらしいと思う風が強いだろうと思います。しかし、それであると演技は時代の感覚へ引っ張られてしまいます。ですからト書き浄瑠璃を使って世話の演技を際立たせようとするならば、演技は三味線のリズムに当てに行くのではなく、外しに行かねばならぬはずです。やり方が逆になるのです。どうやらそこの理屈が正しく理解されていないようです。

江戸歌舞伎にト書き浄瑠璃を持ち込んだのは小団次なのですが、小団次の早すぎる死(慶応2年・1866)と、明治維新後に歌舞伎が大きく変化してしまったことで、小団次・黙阿弥コンビが挑戦した音楽的技法を生世話のなかに取り入れる試みの意味が百八十度変わってしまったということであろうと吉之助は考えています。このことは、明治の歌舞伎を牽引した九代目団十郎・五代目菊五郎が小団次の意図を捻じ曲げたと考えることも出来ないことはありませんが、そのように考えるのは早計で、多分、それは明治以降の社会から見た歌舞伎という演劇の立ち位置の変化(伝統芸能・国劇へと変化して行くこと)に大きく関連しているのです。本稿ではこのことは置くとしても、現代において、小団次・黙阿弥コンビの本来の意図を演劇史的に正しく理解する必要があると思います。

「都鳥廓白浪・長命寺堤の場」には、小団次が黙阿弥に書き直しを命じた箇所がもうひとつありました。それは、病気が治まって花道を行きかける梅若丸と・本舞台の惣太がやりとりする割り科白です。(別稿「四代目小団次の発想」をご参照ください。)

(梅若)「この身世にあるその時は」
(惣太)「雨の降る夜も雪の夜も」
(梅)   「乳母やめのとに侍(かし)ずかれ、襖の風さえ厭いしに」
(惣)   「忍んで通えば仇名さえ、忍ぶの惣太とうたわれて」
(梅)   「宿りに迷う身のはかなさ」
(惣)   「忍びがたきは金の切羽」
(梅)   「神や仏のお助けあらば」
(惣)   「なくて叶わなぬ大事の宝」
(梅)   「頼みに思う家来の在所」
(惣)   「どうぞこちらへ求めるよう」
(梅)   「今宵に迫る」
(惣)   「身の難儀、はてどうしたら」
(両人)「よかろうなあ」

恐らくこの箇所は、当初草稿では惣太の独白であったものを、小団次が命じて・惣太の台詞を分割し・そこに梅若の台詞を挿入したものです。その音楽的工夫によって、割り台詞は状況のなかに浮かんだ詩の如き感触を生み出します。この割台詞が写実(リアル)を志向するものであるならば、どのように発声せらるべきかと云うことは、よく考えて見なければならぬことです。ここで小団次が意図する割り台詞の調子は、現行歌舞伎の舞台で聞く・二人の役者が共に謡う感じの割り台詞とは、ちょっと違うということを想像したいのです。

吉之助が想像するには、梅若のパートは時代に謡うようであって良い(梅若は本作が隅田川の世界であることを示す重要な役であるから)ですが、惣太のパートは一本調子なものではなく、様式の振幅が大きいものだろうと思います。それは世話を基調にしながら、時に時代へ大きく振れるところがあります。「仇名さえ忍ぶの惣太とうたわれて」での、「忍ぶの惣太」の箇所は時代味を強くして良いでしょう。ここは彼に仮託された状況(時代)を示すものであるからです。そこから台詞はいったん世話に返りますが、「(はて)どうしたら」でまた時代に揺れて、最後の「よかろうなあ」で梅若に寄り添う。写実(リアル)に刺さり込んでいくためには、惣太のパートに、そのような世話と時代との間に揺れる工夫が必要であるのです。

嘉永7年(1854)河原崎座初演では、事前の本読みを聞いた人たち(つまり黙阿弥が書き直す前の脚本で本読みするのを聞いていた人たち)は、「如何に芝居が上手い高島屋でも、あのいかつい風貌で、相手の梅若は子役で・惣太は鳥目で目が見えないという難役、これは出来ぬと兜を脱ぐだろう」と噂していたところが、初日に長命寺堤の場駕籠の垂を上げて顔を見せた時には、実にいい男ぶりで見物は大喝采、芝居もじっくりした出来で、悪口を言っていた人たちが「ウム高島屋は名人だ」と逆に兜を脱いだと言います。黙阿弥が脚本を書き直したことが初日の成功にどれだけ貢献したかは・これは想像するしかありませんが、その後の小団次と黙阿弥の約12年の提携関係を考えれば、それは明らかなことであろうと思います。

そこで今回(昭和55年3月国立劇場)の「都鳥」で長命寺堤の場を見てみると、24年振りの上演で経験者が誰もいないから仕方がないが、「こんな感じでやってみましたが、これで良いのかなあ」とみたいに自信が無さそうな・手探りの雰囲気が感じられて、まあそこが正直でよろしいと云うか、新鮮な感じでもありますかね。本作を世話物として演るためのスタンスの取り方が中途半端なのです。だから芝居の居心地がどうも良くありません。しかし、当時の彼らの芸の引き出しからすると、成り行きに任せれば、芝居が時代物の感触になってしまうということは明らかなのです。そのことは吉之助も昭和50年代の歌舞伎の状況は身体のなかに入っていますから、まあそんなところだと思います。だからその辺は監修の河竹登志夫先生に、世話物としての「都鳥廓白浪」の可能性をしっかり指導して欲しかったと思います。

惣太役の辰之助(死後に三代目松緑追贈)は若くして亡くなりましたが、腕の立つ役者でした。江戸前で気風のいい役者で・この惣太もいい男ぶりです。しかし、いい男がいい男に見えるのは・これは当たり前のことですが、全体が時代物っぽい感触なので、芝居が世話物として生き生きして来ません。これでは小団次が黙阿弥に脚本を書き直しさせたことの意図が全然伝わって来ないことになります。特に長命寺堤の場では、この不満が強いものがあります。工夫次第でもっと面白いものにできただろうにと思いますがねえ。(この稿つづく)

(R3・6・7)


4)しうかの花子・菊五郎の花子

「都鳥」でもうひとつ重要なのは、傾城花子実は天狗小僧霧太郎実は吉田松若と云う役です。「実は・・・」が重なる設定を聞いただけでも、技巧的で・かなりの難物であることが伺われます。嘉永7年(1854)の本作初演時にこの役を演じたのは、初代坂東しうかでした。(「しうか」は秀佳・あるいは秀歌と記した時期もあり。)演劇史で初代しうかの名前をあまり聞かないような気がしますが、文化10年(1813)生まれでこの時42歳でした。しかし、本作初演の翌年(安政2年・1855)に悪化した口の腫れものが原因で死去したため、幕末期の混乱のなかで忘れ去られてしまったようです。三代目三津五郎の養子で、若い頃に初代玉三郎を名乗っていた時期もあり(これは興味深いことです)、死後に五代目三津五郎を追贈されたほどですから、腕利きの役者であったのです。風姿も良く口跡にもすぐれ、派手で伝法肌の女役を得意にしました。

本作の主役小団次(この時43歳だからしうかと同年代)の忍ぶの惣太と拮抗するために、花子役のしうかには重要な役割が与えられていたことが察せられます。或いは、もし、その後しうかが長生きしていれば、当時の芝居は役者を活かすところから発想されたわけですから、小団次・黙阿弥の提携作にしうかが重用されて様相がかなり変わったのではないかとか、或いは、おとなしい芸風であった若き八代目半四郎に無理に悪婆の役をあてがう必要もなかったかも知れないとか、いろんな想像が出来ますが、まあいずれにせよ吉之助の想像に過ぎませんが。

嘉永7年(1854)の本作初演で、もうひとつ想像したいことは、この時、小団次・黙阿弥の提携は始まったばかりで、後年(安政6年頃)のハイヨ節の替え歌に、「にがほ豊国やくしゃは小団次ハイヨ、とうじさくしゃは、みなさん、川竹、ひいきはたいそたいそ」と唄われたほどの、小団次=黙阿弥のイメージをまだ確立していなかったわけですから、「都鳥」はこれ以前の歌舞伎の生世話物の感覚を濃厚に残していたに違いありません。しうかは、男役を女に書き換えた役を得意としました。しうかは、義父・三代目三津五郎が初演した「仕入曽我雁金染」(しいれそがかりがねぞめ)の五人男を女に改作した「初袷雁五紋」(はつゆかたかりがねごもん・天保8年・1837・江戸森田座)を出世作としており、その他・女暫や女鳴神・女清玄などの役も得意としました。文化文政期の名女形・五代目半四郎の悪婆の芸風を引き継ぎ、女清玄を演じた際には、当の五代目半四郎から絶賛されたされたほどでした。このことからも、「都鳥」の花子も本来の感触は、鶴屋南北のバラガキの生世話の風味を色濃く残したものであったと想像が出来ます。南北が亡くなったのは文政12年(1829)のことですから、嘉永7年と云うと、まだ25年しか経っていません。

「都鳥」・大詰・原庭按摩宿(はらにわあんまやど)の場では、盗賊天狗小僧霧太郎の正体(つまり男)を顕わした後の傾城花子がそのまま女の成りで按摩の丑市と酒を酌み交わし、丑市は花子の横顔を眺めながら満更でもない様子で、「こなたが女姿でいなさるところは、どうも男とは思われねえ」とニヤニヤしながら酒を呑むという場面の、その妖しさと倒錯具合はなかなかのものです。ちょっと見た感じでは、それは南北の「桜姫東文章・山の宿」で桜姫と権助が酒を呑む場面にも似ており、これをもう少し濃厚な生世話の感触に仕立てたイメージではなかったでしょうかね。黙阿弥の作劇の出発点が、ここにあったわけです。

そこで今回(昭和55年3月国立劇場)の「都鳥」の舞台で菊五郎が演じた花子を見ると、菊五郎の花子は健康的な感覚で、倒錯的な要素をあまり感じません。それに何となく様式っぽい印象がします。これが初演のしうかの花子と同じ感触かと云えば多分ちょっと異なるものだろうと思います。それにしても菊五郎の花子は、まったく別の角度から核心に斬り込んで見事に役にはまった感じがしますね。方法論としては、後年のお嬢吉三や弁天小僧の役のイメージの方から描いて見せた花子であると思うのです。

弁天小僧の場合でも、普通の役者が演ると、前半の娘がどこか男っぽい感触になってしまうとか、後半に見顕わした後もどこか娘っぽい男になってしまうとか、微妙な齟齬がどこかに出てしまうものです。ところが菊五郎の場合であると、変成男子的な印象に陥ることなく、娘から若衆へと、テレビのチャンネルを切り替えるように鮮やかに切り替わって、見事なバランスでどちらも上手く行くのです。菊五郎の弁天小僧の出現は、カラッと明るく健康的な「戦後日本」の感性に通じ、これは戦後歌舞伎のひとつの奇蹟であったと思います。「都鳥」の花子の出現(菊五郎は当時37歳)も、この延長線上に考えて良いものだと思います。他の役者だと、こうは行かないでしょう。菊五郎はまったく新しい花子の表現の可能性を引き出したのです。

(R3・6・8)



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